子供の頃に「古戦場(合戦場のほうだったような気もする)付近は掘れば人骨ザックザク」という話を聞いた記憶がある。川中島の戦いで戦死した人々の骨が本当に出てくるのか、一度掘ってみたいもんですなー。
八幡原史跡公園というのは、第4次川中島合戦で武田信玄の本陣があったとされる場所にある。上の陣図だとなんか違うじゃーんと思ってしまったが、そういうことになっている。どうやら第4次川中島合戦は、山本勘助さんという人が武田さんに「キツツキ戦法」というのを提案した時の戦みたい。「鞭声粛々とー」で夜中に川を渡る話も知ってる! 作戦漏れたのって、あれ絶対武田方に上杉のスパイいたんだと思うわ。それから有名な↓もあったらしい。
ここで一騎打ち。大概の人が知っている「川中島合戦」ってほとんど第4次での内容だったらしい。第1次とか他のは相当地味だったのかね。
武田さんが信仰していた八幡神社が建っている。嘉保元(1094)年に流刑で信濃国にやって来た源顕清という人が創建した神社。川中島の戦いでこの神社は破壊されてしまった。武田さんが再建し、その後江戸時代を通じて松代藩真田家が代々保護してきたとあった。今は地元の氏子さんたちにより管理されているそうで、とにかく綺麗に整備されていた。
神域には川中島の戦い関係の石碑がいっぱい。
永禄4(1561)年9月10日、馬に乗った謙信さんが武田本陣に乱入し軍配持ってる信玄さんに切りかかったが、信玄さんは軍配で防御した。身体に3か所も刀傷を負ったものの九死に一生を得た信玄さんが後で軍配見たら、軍配には7か所も傷がついてた。こわーい。という事件があった場所を示している碑だと。上杉さんあとちょっとだったのにね、残念。ちなみにこの石碑の説明板には当日の二人の服装が細かく書いてあった。見てきたかのような詳しさ、本当にそんな格好だったのかよと毒づいた。
本殿の近くにある「逆さ槐」。ここに本陣をかまえた武田さんは、土塁を築き土止めにその辺に生えていた槐を加工し、杭として打ち込んでいた。その槐が根を張って成長したんだそうで(後世の人間が本当に根を張るのか実験したものが近くに残っているとのこと、ちなみに実験結果は「生える」だった)。
この周りには土塁跡が見られる。
土塁は元々低いものらしい。土止めに生の木打っちゃうぐらいの急ごしらえだし、本陣周りに家臣たちの陣もあったからそこまで防御力高くなくてもいいのかな。
執念の石。武田本陣に乗り込んできた謙信さんにより、あわや信玄さんが死にかけたそのとき。原虎吉さんが信玄さんの長槍をつかんで咄嗟に応戦した。大将の首取られたらおしまいなので、原さんちょっと慌ててる。長槍を謙信さんに繰り出したが当たらず。2度目も謙信さんに躱されたが、たまたま振り下ろしたのが馬に当たった。馬がびっくりして暴れて逃げ出したので、信玄さんは助かった。が、原さんは「あいつを取り逃がした」と悔しがり、槍で傍らの石を刺しちゃった、というお話。石のお腹に穴が開いている。突き通したそうだ…人様の、それも上司の槍で。槍は使い物にならなくなっただろうが凄い馬鹿力だわ。槍の持ち主も震え上がっただろうな。
多分一騎打ちの事が書いてあるのかなと思った石碑。
首塚(屍塚)。海津城主だった高坂昌信さんが6000人余りと言われる一帯の戦死者を集めて葬った塚の一つという。この手の塚は他にもいっぱいあるんですねー。今は大きなものはココと他に1つしか残ってないらしい。小さい塚ならあちこちに残ってるそうだ。敵味方関係なく供養したので、この話を知った上杉謙信さんが感激して塩無くて困ってる武田さんに恩返しで塩を送った(「敵に塩を送る」の元ネタ)。この美談聞いていつも思うんだけど、武田さん塩送られてきて素直に喜んだだろうか…ちょっとこれ毒仕込んであるんじゃないの位は私ですら怪しむよ。
↑この辺りまではきっと当時のものかも、と思ったが。
↓八幡社から離れてくると違うような。だけど、他の場所に比べて本陣跡と言われる場所は少しだけ高いようだ。
★★★☆☆
思ったより遺構があった。
<八幡原史跡公園>
戦場跡 永禄4(1561)年 第4次川中島合戦
他の公園内の様子。
博物館があり、その裏に怪しいものがたくさんあった。
棄てられた五輪塔?らしき石塔たち。
善光寺建て替え前に使われていた、昔の鬼瓦。
一般のおうちから寄贈された古い祠(屋敷の隅にあったもの、市に寄贈されたものらしい)。
博物館の常設展示のものは少なくとも20年以上全く変わっていなかったと思った。こっちは見たことが妙に興奮した。