松本の市街地にやってきた。
とりあえず松本城へ。お盆休み期間中ということで人だらけ。混雑している。
松本城は天守閣が国宝、お城跡は国の史跡に指定されているそうな。
- 天文年間(1504~1520)、小笠原氏が林城の支城として深志城を築城
- 天文19(1550)年、林城や深志城などが武田氏によって落城
- 武田氏は林城を破却、深志城には城代を置く
- 天正10(1582)年の武田氏滅亡→本能寺の変→天正壬午の乱で、お城の主は武田氏(馬場信春)→織田氏(織田長益→木曾義昌)→小笠原洞雪斎(上杉方)→小笠原貞慶(徳川方)と代わる
- 小笠原貞慶が松本城と改名
- 天正18(1590)年の北条氏滅亡。支配者がいなくなった関東に徳川氏が移り、松本城主だった小笠原氏も一緒に引っ越し
- 石川数正が初代松本藩主となり、城郭の整備や城下町を造る
- 石川氏が失脚、小笠原氏が戻ってくる
- 石川氏→小笠原氏→戸田氏→松平氏→掘田氏→水野氏→戸田氏 の順で藩主が代わる
- 天守閣を改造したのは松平氏(原型をあまりとどめていない程度に改造したらしい)
- 天守閣はいつ造られたのか正確には分からない
初代松本藩主の石川数正は徳川家康の今川家人質時代からの家来で、家康の右腕だったらしい。しかし天正13(1585)年急に豊臣家の家来になってしまった、しかもその理由はよく分からないらしい。軍事機密を熟知していたそうで、仕方なく石川数正という人が逃げた後は滅んだ武田氏の遺臣を多数抱えて、武田の軍制を取り入れることになったとかいう、徳川氏にとっては大事件だったらしい。豊臣家が滅んだら、真っ先に粛正されそうな一族だなーと思う。しかし、石川数正の子の石川康長という人(第2代松本藩主)が関ヶ原の戦いで東軍だったために本領安堵。慶弔18(1613)年に失脚したのも「大久保長安事件」とかいう謎の事件に巻き込まれたかららしい。その事件なかったら、大名として存続してただろうか? 裏切ったのにずるいなぁ、でも幕府の中で肩身が狭くなかったのかな?
大久保長安という人も切れ者でロマンあふれる大出世を遂げた人らしい。
- 猿楽師の家に生まれる
- 武田信玄に才能を見いだされて、鉱山開発など土地開発の仕事をする
- 武田氏滅亡→すぐに徳川氏に雇われる
- 甲斐の内政立て直し事業を手がける→成功
- 八王子同心の創設者・統括者になる
- 全国の鉱山開発、道路網整備の責任者になる
- 徳川領150万石の代官になる
- その収入で大金持ちになる
- 晩年は鉱山の収入が低下したことで家康から嫌われたのか役職を次々罷免され、豪遊し過ぎたのか中風(脳血管障害)になり死ぬ
という人。お金持ちになりすぎて他人から疎まれてしまったようだ。大久保長安事件というのwikiで読んでもイマイチ分からなかった。政争じゃないかと言われているらしい。内情が分からないので、巨万の富を元手に国家転覆を企てようとしてた、という説もあるようだ。普段から豪勢な生活をしていたそうで、側室が70~80人いたという話も。私は死んだら大久保長安に生まれ変わりたいと思った。
じゃあ天守閣に登ってみようか、と行ってみたところ。
そんなに待ってられないわ、と早々断念。
お堀沿いを歩き、外側からお城を見るだけということに。
前回来たときは、地震があったそうで石垣が崩れて修復作業中のシートがかかっていたものの。さすがに今はないようだ。
ぐるっと天守閣を見回る形で人の流れが出来ていた。
ココが一番有名な撮影スポットだった気がする↑
赤い橋も見えるしねー。
↓赤い橋。埋橋というらしい。
前回の地震は平成23(2011)年6月で、やっぱり牛伏寺断層の仕業ということになっていた。石垣25カ所と埋橋が被害に遭い、現在も埋橋は立ち入り禁止。
↓なんか蓮咲いてたわ。
★★★★★
天守閣かっこいいよね
<松本城>
築城年 永正年間(1504~1520)
築城主 小笠原氏
構造 平城