別名:三本杉の城、家山の城
この城は信州南陽の地にある。平山城で南は切岸で眼下に松川が流れ。北は谷川を隔て、その先にも野低川があり。城東で松川と(野低川が)落ち合い、その30町東で天流川(天竜川)と合流。
昔は南追手口といい、今は西向きの大手の外郭にも家屋敷が縦横に立ち並び小路が延びる。1里(約4km)西へ行けば山々が連なり、さらに西へ6,7里(約24~27.5m)行けば木曽の深い山中に至る。城は左虎口、右虎口、水の手口、七曲がり口、更に本丸にも忍虎口がある。町の大きさは19丁(約9917平方メートル、東京ドーム4個分)。屋敷の数は1000軒、城下町は三方に広く広がっている(東側には松川・野底川・天竜川があるので、北南西に城下町が広がっている?)。
地元の伝承では、元暦年間(1184~1185)に四国阿波国の豪族・近藤(藤原)周家という人が源義経の家来となり、その後に鎌倉で源頼朝に仕え信州飯田郷の地頭になり、これが初代城主と言われている。家臣の竹村、久保田、吉川の3名を伴い、文治3(1187)年に移住。周家は義経に付き添い北陸まできたが、そこで解雇されてしまい信州にきて家を興したとも言われる(これは坂西家の創始でもあるという)。また飯田郷から農夫の源蔵、与作、藤助の三人が鎌倉へ行き、地頭をお願いしたとも言われている。
まず松原宿に落ち着いて、郷民の支持を集めてから屋敷を構えた。のちに源蔵→木下源蔵、与作→近藤与作と改名して飯田郷に住んだ。藤助→原助左衛門と改めて別府村に住む。その頃までには別府村は飯田郷の所属になっていた。
9年後(建久6(1195))年、飯坂に城を築いて引っ越す。
飯坂城↓
それまで住んでいた松原宿の館は近藤林と呼ばれるようになった。
周家の子は家名を「坂西」と改め、坂西淡路守と名乗るようになる。その子供は坂西長門守と名乗る。
飯坂城に3代住んだ。現在の飯田城には修験者の修行所があり、こちらに城を作ろうと山伏と飯坂城を交換して貰った。飯坂城は今で言うところの愛宕山で、飯坂城跡は飯田城から南西に15丁(約1.6km)離れた場所。現在の城の本丸奥にある郭が山伏丸と呼ばれる理由はこれ。山伏丸の奥に小谷→小山があるが、ここに熊野権現が祀られて当城の守り神としている。
坂西家
近藤林在住9年、建久6(1195)年に飯坂城移住
家名を一色に改める、理由は分からない、一色家は源氏だが坂西家は藤原氏
- 一色弾正周信(因幡守の弟)
- 一色内蔵助(周信の弟)
これまでの知行高(軍役の賦課基準)は丁(所有面積)で表されていたが、応永頃までに永銭(永楽通宝)で表されるようになる(所有する土地の収穫高を通貨換算した量で表した貫高制へ移行)。一色弾正の本領は後に千貫になった。文永年間(1264~1275)、坂西氏に戻す。
- 坂西淡路守周照(内蔵助の子)
- 坂西式部周利(周照の甥)
- 坂西八郎九郎周常
- 坂西左衛門佐周次(弘治年中より)
弘治2(1556)年から武田晴信の家来になる。軍役は60騎だったが、実戦になれば100騎で出陣した。周次は永禄5(1562)年戦死。子がいなかったので弟の坂西織部亮に継がせた。
- 坂西織部亮(永禄5(1562)年)
この弟が家名を継ぐにあたり晴信から疑いを持たれて、小田原の北条氏政を頼り領地を離れていった。
永禄5(1562)年、隣の領主松尾小笠原氏の領地を奪おうとし、当主の小笠原信貴が晴信にそれを訴えた。6月はじめ、信貴が大軍で攻めてきて防戦したがかなわず。坂西氏は近藤茂介に書状を持たせ木曽へ送ったものの茂介は信貴の家臣に生け捕られてしまった。これにより百人余りを市瀬に送った。織部亮は風雨の激しい夜にこっそり逃げようとしたが伏兵に囲まれ、大将の長忠はじめ家臣は残らず討ち死にした(今の勝負平という所で)。
ある人いわく、飯田城は小笠原宗満が築いたという。しかし近藤周家は確かに松原宿(今でいう近藤)に館を構えたが、この家は断絶している。系図もない。一色弾正が川南(松川の南側)まで領地を広げたとあるが、この時代は松尾小笠原氏が隆盛だったので嘘くさい、古老の妄想だろう。この話は信用に足らず。
第96代天皇光厳院の時代(1331~1346)、当国守護の小笠原貞宗の3男・小笠原宗満が建武2(1335)年、愛宕の西に城(飯坂城)を造り居住、名前も坂西刑部少輔と改める。宗満の子は坂西由政。応永年間(1394~1428)開善寺の大鑑禅師の元で修行を積み、入道し正永と号して風越山の麓で静かに暮らした。
由政の子・長由は26歳の若さで亡くなり長由の遺児・小太郎は幼少だったので長由の弟・長国が家督を後見していた。長国は応永7(1400)年の大塔合戦(長野市)にて戦死。
小太郎は9歳で当主となり伊予守政忠と名乗った。永享元(1429)年、飯坂城と愛宕を交換して飯田城を造る。
政忠の子・隼人正政重(孫六郎)は小笠原政康の家臣として永享年間(1429~1441)に関東結城へ出兵する。家伝にある小笠原孫六郎とはこの人のことである。
政重の子・伊予守政之は知久頼元(?~1555、武田信玄により処刑)と数度合戦しているが、小笠原貞忠の家臣下条伊豆守の仲介により和睦し、政之の知行地四カ所を知久に譲り、政之は知久の娘を娶っている。不幸にも知久の娘は早世し、後妻は小笠原左馬介の娘。
政之の子・若狭守長重(小太郎)と伊予守長忠(中比刑部)は享禄元(1528)年5月28日の同日生まれ。永禄5(1562)年、隣の松尾小笠原氏領内を奪おうとし、領主の小笠原信貴は武田信玄にこの件を訴えた。同年8月に武田と小笠原の大軍が飯田城を攻めてきた。坂西は多勢で防戦したが、8日長忠は手傷を負い無勢となってしまった。11日夜「織田信長の軍門に降ります」という内容の書状を近藤茂介に持たせ木曽へ向かわせたが、近藤は小笠原氏の家臣・清水に捕まる。清水は翌日小笠原信貴にこれを訴え、追手を遣わした。清水・増田・上野らをはじめ数十人を伏兵として一瀬に置いた。坂西永忠は家臣の湯渡・代田・竹村・久保田らを引き連れ木曽へと落ち延びようとしたが、伏兵に長忠(永忠と改めている)は前後取り囲まれ、長忠以下残らず討ち取られてしまった。このとき松尾家から五郎八清但馬入道へ感状を賜った。
- 武田晴信城代として永禄(1562)5年高遠より移る 秋山伯耆守源直義*1
2000石、入道しており晩霞齋という
50騎を持ち、他に信州伊那衆200騎の与力を持つ。伊那出身の忍者の松沢源五郎・小田切与作・林甚助の三人を諏訪へ送り込み様々な情報を入手していた。配下の軍勢は2000人という。
天正元(1573)年信玄が死ぬ。
勝頼は東濃へ発ち織田信長の小城18カ所を落とす。春、勝頼は秋山に岩村城代を命じ、秋山は岩村城へ移った。飯田城代は伊那の豪族が100日程度づつの当番制とした。天正3(1575)年に織田信長は(岩村城に)攻め込み秋山氏とその家来もすべて討たれた。
この人は信玄が亡くなったあと北条氏政に取り持ってもらい、勝頼に許された。氏政が詫びを入れ、勝頼はそれを許容し、元の領地をそのまま返還してもらった。天正10(1582)年信長が勝頼退治ということで木曽義昌を配下に引き入れた。
信長は木曽から攻めてきたが、信長の嫡子である信忠が伊那下条から攻めてきた。勝頼はこれを聞くと保科正直、小幡因幡守、小幡の弟の五郎兵衛、波多野源左衛門を差し向けて飯田城に籠城した。が、下条信氏(武田氏家来で信玄の義兄弟)の一族の下条氏長が織田に寝返り、(2月6日)その手引きにより織田軍の川尻与四郎(秀隆)・森勝蔵(長可)・団平八(忠正)が攻め込んできた。
(下条信氏はココ↓に詰めていたようだ)
浪合(阿智村浪合、美濃国と接している交通の要衝)の領主・原万四郎が幼少なので心配になり保科正直は浪合に陣取ろうかとしたが。
(↑滝之沢城がある平谷と原氏の領地の浪合はお隣のようだ)
織田軍がすでに平谷から入ってきていると聞いて保科正直は浪合にいくのを取りやめた。
松尾城主小笠原信嶺も降伏し人質を織田に出した。松尾城と飯田城は1里も離れていないので、坂西氏は城下町を焼いて、敵の侵入を防ごうとしたが。2月14日には大軍がきた。そのため、城兵は飯田城を捨て高遠城に退却。坂西は西の山の荒れたような道(現在の大平街道?)を使おうとしたが、小笠原信嶺の案内で清内路(木曽谷)側にも織田が軍勢を遣わして前後挟まれてしまったため2月15日市瀬の山中で自殺。坂西家17代・367年の歴史がこの日終わった。自殺した場所を勝負平と呼ぶ(大平街道に市ノ瀬橋があるがその辺りだろうか?)。
信忠は飯田に2,3日いた。人馬を休めたり近隣の領主が降伏を願い出たら本領安堵したりした。その後は大島城を攻めた。大島城は大島氏と日向氏が守っていたが、加勢にきた人々に飯田城が落ちたと聞き、大島城も捨て逃亡。飯田城からは3里しか離れておらず、すぐに落城した。そのあと飯島城も落とされた。17日に飯島1泊。飯田城代として毛利秀頼を置いて、信忠は高遠へ逃げた武田軍を追撃した。織田親子は合流し、甲府へ攻め込み勝頼は滅亡した。信長は甲府に戦後処理担当者を置き、駿府から東海道経由で帰宅。信忠は伊那街道を使い飯田城に戻る。城下で勝頼親子と武田信廉(信玄の弟)をさらし首にした。
- 天正10(1582)年から毛利秀頼(新介、5万石)が城主。
毛利秀頼は武勇に優れ、今川義元の首を取ったこと出世した*2。織田親子が京都で明智光秀に討たれた報に驚いて、飯田城を明けて上洛した。徳川家康はこのとき上方におり、大阪の堺で情報を聞くとすぐに少人数で伊賀国の山道を抜け、伊勢の白子から海路で浜松城に帰宅。甲斐信濃両国で降伏した武田家遺臣を集めて、その中で武勇に優れた者達を即採用した。7月信濃へ攻め入り降伏してきた土豪の本領を安堵した。この時、家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5カ国の主になった。
北は宮田から南は三河・美濃・遠江の各国境まで預かる。郡内の豪族は皆菅沼の配下となった。天正16(1588)年、太閤秀吉へ家康は定利を従五位下・諸太夫に叙して欲しいと働きかけた。天正17(1589)年定利は飯田城で病死*3した。子の小大膳定次12歳は浜松におり、父の定利病死の報を受け駆けつけたが間に合わなかった。菅沼家の執権職は石野新蔵と朝日千助。
天正18(1590)年8月1日、家康は関八州の太守となり、小田原北条氏の旧領国を引き継ぎ江戸城に入った。信濃国は太閤秀吉の直轄領になり、菅沼定次は上州吉井に領地替えした。
- 天正18(1590)年より8月より再城主、羽柴河内守従四品侍従藤原秀頼
豊臣の姓を賜る、初名は毛利新介、中比河内守
この年小田原北条氏が滅亡、秀頼も戦功があった。太閤秀吉の命で移る。本領は5万石で今回3万石が加増された。計8万石の伊那郡を治める。文禄元(1593)年朝鮮へ出陣するため海を渡ろうとしたが出来ず、戦功もあったのだが帰陣の途中で急死した。ただし、天正20(1592)年12月8日に文禄と改元したので、 3年在城した。
伊那郡のうち240の村10万石と筑摩郡のうち木曽の妻籠、馬込、美濃の落合、中津川まで2万石、合わせて12万石を治めた。のち丹後の宮津に所領替え。この高知の代に城下町を建設したという。文禄5(1596)年12月27日慶長と改元した。
ある書物には、慶長5(1600)年高知は美濃関ヶ原に出陣し武功があって、慶長6(1601)年丹後宮津に所領を替えたとある。
この時代、大阪が大変賑わっており、伊那街道を西側の山の手に移動させた。修理太夫へ申しつけ、飯田・市田・原町・大嶋原町・片桐町・飯島町を現在の場所に建設させた。
- 慶長6(1601)年より、下総古河より所領替え 小笠原兵部大輔源秀政
初名は上総介、5万石。前年、関ヶ原にて秀政武功有り。本領3万石とこの度2万石を加増された。慶長18(1613)年、秀政は松本18万石に所領替え。当城はそのまま当分お預けとなる。老臣の光三郎左衛門に組を付けて一緒に生活させた。地方は美濃八十一鱗*6の領主・千村平右衛門重長へ預け、町より8、9里西の箕瀬羽場に陣屋を建て、これを役所とした。これまでの城は南に追手があったが、秀政の代に作り替えられたという。しかしながら、町家は京極高知の時代に広げられたという。今の三の丸にはその頃家臣の屋敷が建ち並んでいた。慶長19(1614)年大坂冬の陣があり慶長20(1615)年大坂夏の陣で大阪城が落城(5月7日)した。その年の7月改元があり元和となった。13年在城。
慶長6(1601)年から小笠原兵部大輔源秀政5万石領。秀政は小笠原信濃守長清から8代目の子孫で兵庫頭政長11代の嫡流。武蔵古河から所領替え。慶長6(1601)年から18(1613)年まで当城に居住。同年筑摩郡松本城へ所領替え。この時、飯田城の天守を松本城へ移築させたという。この後はお預かり(天領)となる。慶長18(1613)年から元和2(1616)年までの4年間。
- 代官 石田太郎左衛門お預かり
ある書には小笠原兵部太夫秀政松本へ所領替えの後、飯田城は秀政の老臣光三郎とその組付従に、地方は美濃八十一鱗の領主・千村平右衛門に預けられた。この城から7,8丁西に行った箕瀬羽場に陣屋を建て役所とした。その後、今の荒町へ移り、これは明暦年間に脇坂淡路守と千村平右衛門が相談した結果の移転である。阿良町へ引っ越し。敷地は1900坪。伝馬町の西裏に茶畑8枚あり。千村が管理している部分は6000石余りだった。
元和元年より高遠城主保科弾正忠源正直が飯田城お預かりとなり、その家臣が守った。
脇坂氏は藤原氏の庶流で、野に下ってから長い年月が経っている。近江脇坂村の藤助という人が新村太郎右衛門の下人になったが、後に武力を生業として渡世を送り地方で3石を得た。また太閤秀吉も凡俗の子供だった頃に藤助の家で働き、この家を逃げ出してからは方々へ行き美濃で松下嘉平治に仕えて侍となったが、その家からも逃亡し信長に直訴し仕えるようになってからはどんどん出世していった。彼は藤助の子である甚内を探し出し、300石で召し抱えた。脇坂家の家紋はナデシコだったが、ある時秀吉が敵の城を攻略中に輪違(紋)を金糸で付けた旗を出して諸軍に命令する中で、明日の合戦で一番乗りする者に旗をやると言った。兵士達は無言で顔を見合わせたがその時脇坂甚内は末席から進み出て、ソレください明日一番乗りになるからと広言して旗をもらった。宣言通り翌日の合戦で一番乗りとなり名をあげ、秀吉に誉められた。近江賤ヶ岳の戦いにおいては(特に功績を挙げた)七本槍の一人となる。このとき加増された5000石を合わせて5300貫、大和鷹取城主になった。また淡路洲本城主にもなる。この時には2万石になっており従五位下に叙され中務少輔に。慶長15年伊予に引っ越しを命じられ、大洲5万石を家康より給わる。今5千石を加増され当城にやってきた。領地は城より、北へ7里(約30km)離れた(駒ヶ根市)赤須、南は3里(約12km)離れた瀬川、東は供野から伊久間知久平までの46村、下条領のうち阿智原から三河国境の新野まで28村、上伊那の箕輪領のうち御子柴から羽広まで23村で計5万石。この他の5千石は上総国一ノ宮に加増分の領地があった。寛永3(1626)年8月6日安治亡くなり戒名は隣勝院*9。
本領より上総国長柄郡一ノ宮の2千石を弟の六右衛門安全*10へ2千石を分知、承応2(1653)年死去。戒名は八雲院。父は安治・法名隣政院、祖父は藤介安時・法名林華院。
- 承応2(1653)年より 脇坂中務少輔従五位下藤原安吉
老中堀田加賀守紀正盛の次男。安元は嗣子がおらず、養子を取り安元の後の家督を継いだ。綱吉の代に安政と改名。万治3(1660)年安吉の実の兄である堀田上野介正信が上命に背き、領地没収の上安吉のいる飯田に引き取るよう幕命が下り蟄居した。我儘放埒がこの頃に露見して江戸まで噂が広がり、寛文12(1672)年5月将軍の命令を記した正式文書で安吉を江戸に呼び、6月安吉は江戸城に登城した。播磨龍野*11へ所領替えを命じられた。
承応2(1653)年から脇坂中務少輔藤原安吉5万3千石領す。後に安政と改名。寛文12年まで20年間居住。将軍の命令で江戸へ召し出され、早速向かい、6月には江戸城へ登城した。播磨龍野へ所領替えを命じられる。これは前年、実の兄である堀田上野介が将軍の怒りにふれ居城の佐倉を取り上げられた上、飯田にお預けとなる。実兄の素行の悪さが幕閣にも知られるようになってしまったためという。
当城は下野烏山城主の堀美濃守にかわり、引っ越し料白銀二千貫目で下野から越してきた。7月23日親昌の家来が先達としてやってきて、上使の下知を請い、飯田領を引き渡された。8月14日親昌入部。この時の引き渡しの上使は神尾若狭守と大久保次郎兵衛という二人の代官だった。
7月5日引き渡し、この時の上使は神尾若狭守、大久保次郎兵衛。
堀田上野介は蜂須賀家にお預けとなり、阿波国へ配流された。脇坂家、安元の代の執権は脇坂内匠、脇坂内膳、本城源太夫。安吉の代の執権は脇坂玄蕃、脇坂仁右衛門、脇坂新左衛門。飯田領は寛永10年の検地以降石高5万石にて、米俵8万俵納める。脇坂家父子孫3代56年在城した。
- 寛文12(1672)年より下野烏山より 堀美作守従五位下菅原親昌 2万石
この堀氏は先年越後上杉景勝の旧領を統治していた羽柴左衛門督四位侍従秀治の弟・羽柴美濃守親良の嫡子で、祖父は堀久太郎秀政という。(祖父の秀政は)越前の国主となり、羽柴北ノ庄の侍従、左衛門督と号した武略の達人である。慶長15(1610)年、堀忠信の代で家中に騒動があり家が滅亡した。秀政の嫡子・秀治の次男が親良で、秀治の嫡子が忠信である。
親良はその当時大名ではなかったが*12、後に加増され烏山に移る。城付きで2万5千石。このうち3千石を親昌の次弟・孫太郎に、2千石を三弟・三太郎に分知した。家督の3万石の飯田領は下郷14村、上郷13村に渡り、この他城外御用現米*13千石もあった。寛文13(1673)年7月16日江戸にて逝去。大玄院と号した。親良は東江寺宗月大居士。
貞享元(1684)年、将軍綱吉の代に2万石などの目録を頂戴する。貞享2(1685)年松平越後守三位中将光長が没収された越後高田領の在番を親貞が仰せつかるが、高田在番中に実子二人が父より先に亡くなった。親貞も大病を患い11月8日高田で死去。嫡子が無かったので立石領主近藤織部の子・千之助を養子とし家督を継がせた。越後国高田の領主はこのような災難続きで、上杉氏が数百年領地としてきたが慶長元(1596)年召し上げられ堀久太郎秀政に与えられたが、
越前太守羽柴左衛門督秀政の嫡子・左衛門秀治賜り、国主となる
嫡子の忠俊の代でお家騒動があり没収、配流となった。
その後、家康の第九子・松平上総介忠輝の領国となったが、悪逆無道な振る舞いにより家を取り潰され飛騨高山へ配流、後に伊勢朝熊に移る。それから当国の諏訪へお預けとなる。越後国は越前の一伯*14が治め、一伯の子・光長の領地となるが、これまた逆臣の小栗美作の悪逆な振る舞いにより家が滅亡した。今回も堀親貞が在番中の急病で死去した。前の越後守秀治より4代目則ち親貞である、紹隆院と号した。飯田城の御用米は親貞の代、延宝9(1681)年幕府が200石必要として5月10日浅草御蔵に上納。残りの500石は飯田城の御囲米となった。
- 貞享2(1685)年より 堀美作守従五位下菅原親常 幼名千之助、後に又七郎、2万石
堀家の執権職の堀宇右衛門、石田平右衛門、安富勘右衛門、野村善左衛門。元禄10(1697)年3月7日江戸で病死、享年25歳。芳林院と号した。これもまた1子なく祖父親昌の弟・外記(孫太郎)親泰の長子・長吉が養子となり跡を継いだ。親常の時代の執権職は安富勘右衛門、堀新五左衛門、石田嘉平治、岩上治太夫。
- 元禄17 (1704)年から 堀大和守菅原親賢 幼名長吉、のち石見守
正徳5(1715)年11月28日、大阪在番所*15青屋口において急死。32歳。東明院と号す。執権職は堀新五左衛門、安富勘右衛門、嶋地十右衛門、三浦唯右衛門、中山甚太夫。
- 正徳6年正月家督 堀若狭守菅原親庸 幼名一学、9歳にて家を継ぐ
享保4(1719)年13歳で従五位下諸太夫に叙される。表向きは15歳。享保9(1724)年10月4日19歳で飯田にやってくる。享保13(1728)年4月江戸参勤、同年7月江戸にて病死。22歳。子はなし。弟の奥之丞が家督相続した。
- 享保13(1728)年より 堀美濃守菅原親蔵 幼名奥之丞、のち右衛門佐
親庸の代の執権職は堀新五右衛門、安富勘右衛門、野村善左衛門、中山弥五右衛門。享保15(1730)年9月右衛門佐に叙される。元文5(1740)年美濃守と改める。また大和守と改める。
延享2(1745)年2月18日疱瘡にて死去。禅林院と号す。
宝暦年中(1751~1764) 堀大和守菅原親長
安永年中(1772~1781) 堀河内守菅原親忠
(親忠の)幼名忠蔵、山城守、のちに大和守、河内守と号した。
*1:秋山伯耆守直義とは、秋山虎繁(信友)という人物のことらしい。この人は、
- 天文22(1553)年葛尾城城代
- 大島城の城代と伊那郡の守備を任される(上伊那郡代)
- 永禄5(1562)年飯田城代を兼任
- 天正元(1573)年岩村城代を兼任
- 天正3(1575)年長篠合戦、織田信長により処刑
という経歴で、高遠云々は、弘治2(1556)年~永禄5(1562)年まで高遠城主だったという記録もあるかららしい。
*2:首級を挙げたのは毛利新介という人物。毛利秀頼は尾張守護の斯波義統の子らしいとされ、父の暗殺時に毛利十郎という人物に助けられ養子になっている人で毛利新介とは別人
*3:wikiでは慶長7(1602)年死去。そのため、定利が上州吉井に転封→関ヶ原の戦いに参戦→実子がおらず養嗣子を取った、とあった
*4:菅沼定次という人物は見つからず
*5:毛利秀頼の娘婿で、秀頼の遺領のほとんどを受け継いだ
*6:くくり
*7:伊予の誤記?
*8:子の安元は城主になっている
*9:臨松院
*10:末弟・安総
*11:当時物凄く荒れ果てていた
*12:一族の人間と対立し出奔中に宗家が滅亡→滅亡後に領地を与えられた
*13:城米=備蓄米