名前かっこいい。「竜王城」でググるとドラクエの攻略情報ばかりヒットする。このお城がなんで竜王城なのか、由来は謎です(地名とは全く関係ないし、現地の説明板にあった水神と雨乞いが関係あるかも?)。
竜王城に行く途中の看板↓
どこにも城名がない。名前が派手めだけど、実際は山の中にひっそりあるみたいだし…観光客がイメージ先行で訪れるとガッカリさせてしまうと考えて、案内・宣伝を自粛しているとかなのかー?
ここから行きまーす。
「林道」なので山の中を走る1車線幅の道。景色も山しか見えない。
林道とはいえ舗装路、路面状態は大変よくひび割れもほとんどない。頻繁に整備されている様子だが、すれ違う車はなし…。この先に大きなマレットゴルフ場や集落があるようで、そこまでコミュニティバスが通っているという。それでこんなに綺麗なのかー。
道筋でお城は見つかるようだが、よく見ないと分からないとか。だが、うちの車のナビにはばっちりと「竜王城址」の表示が。迷わずに済んだ。
目印はこの看板のみ↓
この説明板にはお城の来歴が書かれている。
天正11(1583)年、この地を含め北信濃は上杉景勝の支配下であった。深志城主の小笠原貞慶は猿ケ馬場峠(聖高原)より攻め込んできた。竜王城の城将清野清寿軒は景勝と自分の息子に急報を送り、小笠原軍相手に奇策を用いわずかな手勢(40人)で迎え撃ち、先鋒を撃破。山頂に多数の旗を立て、兵士もいるように見せかけ「景勝様からの援軍いーっぱい」と偽装し貞慶との戦を回避することに成功。
合戦の歴史はこの戦いのみで、この辺りは古い街道もあり川中島の合戦、天正壬午の乱で度々合戦が起こっている。天正11年時点では上杉領と徳川領(小笠原領)の境目ぐらいになっているのかなー?
他には書かれていることは。文禄3(1595)年に清野氏が猿ケ馬場峠の留守役(見張り番)を命じられた記録があり、士卒250人を常駐させたと。そして、お城の遺構はなしと。
250人が寝起きした砦があったわりには遺構がない…? ということで、「竜王城そんなものはなかった」と考える人も出てきているようだ。近くにも佐野山城、小坂城というお城があるから、そっちじゃないかという主張。しかし説明板には「2つのお城で250人じゃ狭くて収容できないの、ここじゃなきゃ無理だと思うの」と書いてあった。
では間を取って、佐野山城・小坂城に80人ずつ、90人を竜王城でどうだろうか。見張り番を3交代制とすれば、大きな施設もいらないかもしれない。まぁひょっとしたら清野さんが「竜王城というお城があり250人で守ってる」と盛った報告をしただけかもしれない。
清野さん率いる250人の猿ケ馬場峠守備隊の本拠地は未だに確定されていない。
なんか雰囲気としてはコレ↓っぽいかなと思った。
養和元(1181)年、横田河原の戦いで木曽義仲の家来の楯さんが兵士を隠した場所。こちらは進軍中キャンプした場所ってだけのお話だけど、雰囲気はね…。竜王城も隠すだけなら250人いけそうよ。
お城周辺↓
山の中で、ここだけ広く平らになっている。兵を隠すには最高の場所。説明板のある側は平らだが。
説明板の反対側は郭?みたいなのがあり、よく見ると切岸らしきものも。
この上にあるという大田原集落へ向かう。
こんな道。説明板では搦め手(裏門)側だそうで左は山の急斜面、右は急な崖、道はくねってるみたい。
ちなみに大手側はこちら↓
説明板のある場所より大手方向。おそらく城の中心あたりで撮った写真となる。お城は扇形のようだ。
★☆☆☆☆
なんだかよく分からず…。
<竜王城>
築城年 天正11(1583)年以前?
築城主 清野氏?
構造 山城
下の佐野集落には佐野薬師という古いお寺さんがあった。ちょっと見た目が神社のようだ。
元は佐野山医王院という寺号で、御本尊は薬師如来。この薬師如来は行基上人(668~749)の作と伝えられている。とすると、このお寺さんは奈良時代から存在しているのかと思ったが。この地にある説明板には一言も触れられていなかった。ただ、「西行法師が訪れている」「横田河原の合戦で兵火に巻き込まれ焼失」という記述があるので、平安時代末期にはあったのだろう。
劣化で文字読めないけど、西行法師来遊の碑↑
そして、ここから佐野山城に行ける。