お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

古峠+東山道支道

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前回、ここに向かおうとしたら通行止めで断念した。冬季通行止め解除後のGW中、天気が良かったので行ってみる事にした。

ここの峠を調べていて、ものすごーく景色がいい場所だと知った。

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長野方面、こんな感じ。写真の腕が悪いので写りがイマイチだけど、実際は「おおっ」と言いたくなったぐらい感激した。知る人ぞ知る…と言う感じだと思っていたが、わりと有名な場所だったようだ。先客いたし、ガードレールに落書きが酷い。

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反対側の麻績方面は。

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分け入っても分け入っても青い山、という句を思い出したぐらい、ただただ眩しげな緑一色。麻績から善光寺平へ向かう人は長野方面の絶景に心打たれたかもしれないが、逆の人は「まだ山が…」とため息をついたかもしれない。集落が全く見えない。

古峠は、東山道北陸道を結ぶ連絡路であった。当時の国府は信濃国は現在の松本市越後国上越市に置かれていた。この二つの国府を結ぶ道でもある。現在の新潟県は対蝦夷の城柵(渟足柵、磐舟柵)があり、抗争の最前線の場所であったようだ。渟足柵は大化3(647)年、磐舟柵は大化4(648)年に置かれた。渟足柵は記録上、日本初の城柵である。城柵とは軍事防衛拠点だが、その周辺に人(柵戸)を移住させて開拓と警備をさせている。柵戸は、イメージとしては北海道の屯田兵みたいなものだろうか?

磐舟柵には「越(越前)、信濃から民を選んで(移住させ)初めて城柵を置く」という記録があるようで、北方の敵の備え用に人材物資は信濃からも供給されていた。入植と蝦夷征服が成功したあと、和銅2(709)年ごろ出羽柵を作る。和銅5(712)年に出羽国が置かれ、和銅7(714)年信濃・上野・尾張・越後などから柵戸を移住させている。

城柵の城と柵の使い分けが知りたかったが、どうやら使い分けてないらしい。多賀城とも多賀柵とも書かれる(どちらもキと読む)ので、書いた人のその時の気分で書きわけてるのか…?

そういえば万葉集にも信濃出身の防人の歌あったな、と思いだし、ちょっと調べてみると3首ヒットした。うち2首がこの近くに関係する単語が含まれていた(埴科郡出身者と小長谷部さんの名前=小長谷部はオバステの語源とも言われている)。信濃から九州に向かう人々もいたのか(歩けば1か月以上かかるのかね…)。この近辺は兵役に就く人を出せるぐらい大きな集落があったにだろう。多分こことかかな?

古峠周辺の様子。

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冠着山(姨捨山)

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↑羽尾方面(崩落のため通行止め)

この峠は聖瑚・羽尾・麻績・上山田(冠着山)の四方向からの道が交差している。古い時代の交通の要衝だったせいか、あちこちから集まってる。5月22日にヒストリカGPというのをやるので上山田方面は通行止めだそう。年代物の自動車がこんな山道を走るとか…上れるのかちょっと心配。他にクラシックカーの展示もやるとのこと、私の好きそうな内容だった。またお出かけ先が増えましたよ。

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古峠越えルートも復元されているとのこと。おお、それは是非とも通りたい。

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見た感じ、無理。

こんな感じだった。この先、崖をへつるような感じの危ない道な気がする…なんとかなるかもしれないが、なんともならないかもしれない。先が見えないや。案内板にも「古峠直下は、急峻であり、崩落の痕跡もあったため」という文章が。他の2つの峠越えの道は造られてからずっと使われて続けているのに、ここは険しすぎて捨てられたのか。

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ちょっと行く気がしないので、止めた。

 

代わりに、一本松峠の支道を歩いてみることにした。

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この建物周辺の道を。

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まずは一本松峠にもう一度行ってみる。

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250mの区間なのであっという間に一本松峠に到着。道幅は思ったより狭かった。

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f:id:henrilesidaner:20160511125457j:plain 祠は今日確認してみたが、やはり見つからなかった。林道沿いにはないのか、すでに撤去済なのか。

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なんもない場所なので、また戻る。

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公園内に入ると、支道はマレットゴルフのコースと兼用されるようだ。特に目印もないので迷いそう。

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しかも唐突に分かれる。

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左側にちょっと見えてる平地はマレットのコース。

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公園内では道幅が急に広くなった。たぶんこれが本来の道幅だったんじゃないのかな。まっすぐでいい道。さっきの峠付近も本当はこのぐらいの道幅で、もうちょいまっすぐだったのかも? と妄想してしまう…。

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ともあれ、マレットのコースにはちょうどいい幅だよねえ。

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そしてまた分岐。今度はマレットのコースと被ることはなかった。

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道路が見えてきた。公園内の部分は終了のようだ。

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公園内は550m。こちらもまっすぐで歩きやすかったためか、あっさり終わる。駐車場からどんどん離れてしまうので、今回はここまで。

東山道支道は(姨捨SA)→亘理(わたり、犀川渡し場)→多古(三才~田子)→沼辺(古間or野尻)→水門(直江津)・越後国府と駅を結び、水門駅で北陸道に接続する。この部分は、鉄道の昔でいう信越本線と同じルートらしい。

当時の有力豪族や集落がある場所に駅を置きたいために、こういう道筋にしたと言われる。亘理の場所は特定されていないものの、他はナウマンゾウの解体場所だったり、古くからの港町だったり、道が敷かれる前から栄えていた集落を結んでいるようだ。古峠・一本松峠付近も同じく「姨捨」には有力豪族・小長谷部氏がいたり、山間部ながら古屋敷という地籍には縄文式・弥生式のムラの遺跡が残されている。

こんな山の中…と思ってしまうが、当時の生活には非常に都合のいい立地条件だったようだ。山で猟ができる・木の実や薪が収集できる・川があるのに水害が少ない・川からも魚獲れる、そういう場所が好まれた時代だったようだ。しかも都と直結している街道筋なので、最新の農業技術もバンバン伝わる。水源も確保できるので農業も発展していったらしい。

 

古屋敷地籍の近くには、こんな大きな池があった。

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この近くに「大池八幡宮」という神社があったので、大池という池なのだろうか。神社はすぐ近くらしい。なにかとても古い神社のようで、案内板もあった。行ってみよう。

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中央奥が社殿。創建年は分からないが、とにかく古い、とだけあった。御祭神応神天皇、明治になってから保食神が合祀された。この神社もともとは2500㎡の敷地を持っていた。明治期に社地が縮小され、社殿も火災に遭い現在のこじんまりしたものになってしまった。

養和元(1181)年、横田河原の戦いの時に木曽義仲の先遣隊の将・楯六郎親忠がこの神社で戦勝を祈願し、兵馬を隠したという古伝があるそうだ。

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今でも隠れるのには良さそうな。

 

 

★★★★★

かねてから気になっていた古峠。景色が素晴らしい。晴れた日を選んで、また何度か見に行きたい。

 

 

<古峠>

開通年 大宝2(702)年以降

施工主 国