晴れた日に、室賀峠→原畑城→室賀氷上神社と回ってきました。
室賀峠というのは、どうも古くから存在する道のよう。その記念として、ちょっとした広場があった。
見晴らしは…。素朴な峠、といったところか。
とりあえずコイツ↑が邪魔をしている気がする。
石碑いろいろ。
秋の七草の歌。山上憶良(斉明天皇6(660)年~天平5(733)年)が詠んだために、秋の七草というものができたらしい。春と違って、食べる草ではない。観賞用であるが、これを愛でるなどの行事的なものはない。これが代表作じゃないが、花の名前を羅列するだけなのに長らく残る作品になってるなんて…私にもできそうと傲慢にも思ってしまった。
この歌のような、万葉集などに載っている和歌の碑を昭和61(1986)年に建立、とあった。内訳は万葉集から4首、勅撰和歌集(詞花和歌集)から1首。詞花和歌集のものは、長元5(1032)年に信濃守として下向してきた藤原家経が詠んだもの(ただし、この場所ではなく伊那で詠んだもののようだ)。その他にも謎の石碑群があった。
たぶんタイムカプセルだなー2036年に掘り出すのを忘れられたりして。
戦国時代の史跡としても、こんな話が。上田原の戦いで武田に大勝し、意気揚々と本拠に戻る村上義清軍がこの場所で休憩。ニヤニヤしながら合戦を振り返ったそうだ。このとき、着ていた鎧を松にかけたらしい。「鎧かけの松」と呼ばれ、現在2代目の松がスクスク育っているとのこと。
↑これが2代目かしら?
原畑城。
現在は「原組公民館」があるあたりが主郭部分らしい。ここは居住用の館で、詰めの城(笹洞城)は別の場所にある。
周囲の様子。
この道の先に、ものすごくちょっとした立体交差があった。それは原畑城の堀切を利用したものらしい。ちょっとしすぎてて、あとで調べて驚きました…ので写真なし。公民館の他は宅地・畑になっており、見る影もなし。昔は「原畑城」を示す碑があったようだけど、今はなくなっている。
城の規模は大きく、公民館の前の道のだいたい端から端までが城域だったみたい。
八幡社。
この城の主は、この辺りを治めた豪族の室賀氏。村上氏支流の屋代氏支流という村上家の遠い親戚にあたる。とすると氏神も多分八幡神なんだろうし、それでひっそりと八幡社が残されているんだろうか。
未だに「真田丸」の旗が。ここが室賀氏の居館だと具体的に示すものは一切ないが、唯一この旗が匂わせている。大河ドラマはつまみ食い程度にしか観ていなかったけど、前半の主要キャラだった室賀正武は知ってる。その人の御屋敷だ。さすがに旬は過ぎたので我々の他に見物客はいなかった。
ドラマでは小物臭が酷かったものの、実際の室賀氏は力のある豪族だったようで。当時は真田氏と小県地域を二分する勢力だった(北が真田領、南が室賀領だったようだ)。真田氏は滋野氏末裔の海野氏庶流ということになっていて、元々の領地から村上一族により信濃国外へ追い出された過去を持つ滋野氏末裔の真田氏と村上氏傍系の室賀氏は親しくなかったのかもしれない。
真田氏にとって一番近所かつ親近感もなく邪魔くさかったのと、わりと簡単に滅ぼせそうだったと思われたのだろうということで、当主の室賀正武を上田城で誅殺。というのはドラマ通り。そんな程度の存在なら、殺したところで罪悪感持つこともなさそうだねえ。この件で室賀氏は一家離散の憂き目に遭う。真田氏に信濃を追われて、最終的には徳川家臣(旗本)になったようだ。
この場所は、室賀峠への往来を監視するような位置にある。今は室賀峠へ続く道が県道として2車線道路になっているが、古い時代の道も遊歩道として一部残っていた。その道は恐らく原畑城のごく近くを通る。詰めの城である笹洞城も、この道を高いところから監視できる。
ここから室賀峠を越えると村上氏の本領になる。前述したが、上田原の戦いに勝利した村上義清さんが室賀領を通り本拠に戻っていて、村上さんと室賀さんは山ひとつ隔ててお隣同士のようだ。
本家の屋代さんは村上一族の中でも地位が高い。室賀家は屋代氏庶流ということになっているものの屋代さんとは同格というか家族に近いようで、頻繁に子供をやりとりしている。室賀家から屋代さんの養子に入ったりその逆もあるようだ。室賀家も村上一族の中で有力な家なんじゃないかと勝手に思った。
村上氏が越後へ亡命することになった大きな理由の一つで真田さんによる屋代さん調略事件があったが、このときに室賀さんも屋代さんに同調したように思われる。室賀氏は分裂せずに信濃に居残ったらしい。村上さんも領地を接している豪族たちが軒並み離反されちゃ、そりゃ居づらくなるわね…。屋代さんは真田さんに誘われて離反したとはいえ、真田さんと距離を取って生活していたようで室賀さんみたいに狙われることなく、こちらも徳川家臣として落ち着いた。
居館の原畑城・居城の笹洞城を合わせて「室賀城」と呼ぶそうだ。昔は原畑城から笹洞城へ向かう道があっただろうけど、現在はなし。別の場所から登山道が伸びている。
室賀氷上神社。
この神社の近くにある前松寺は室賀信俊さん(正武さんの祖父らしい)が建てたお寺さんで、室賀氏代々のお墓があるそうだ。しかし殺された室賀正武の御骨は納められてないとか(ご遺体を遺族に引き渡さなかったんじゃないのかねー?)。
室賀氷上神社の御祭神だとか由来とか、よく分からない。神社にはそれが書いてある案内板もないし、調べても出てこなかった。まぁまぁ古そうな神社ではある。
貞亨4(1687)年に寄贈されたという、境内で最も古い灯篭がコレ↑
江戸時代初期にはこの神社が存在していたようだ。
室賀氏のお城「笹洞城」へはこの神社から登る。
90分くらいで着ける、と小さく書いてあった。今回は上るつもりが全くなかったので行かない、が。
神社本殿への石段どーん。何か上る気が失せた。ので、笹洞城登山道をちょっとだけ体験してみることにした(本殿への道がこの石段だけじゃなく、どうせ登山道の途中で分岐するだろうと思った)。
こんなところにも旗が。どうせこの旗を目印に笹洞城へ行けるんだろう、絶対に登らないからねっと思ってしまう。
やはり分岐があったので、右へ。左は旗が続いている、笹洞城へ連れてかれると思われる。
小春日和の急な山道。地面がぬるぬるしている。霜柱ができる→日差しで溶ける→地面ぬるぬる、だと思う。上のお宮に着くまでに泥だらけになった。
やっと見えてきた。ぬるぬるしてなきゃすぐ着いただろうに…。
本殿はまた少し上がった場所にあるようだ。もう少しぬるぬるの坂を上ればよかったのかもしれないが、今日のような日は石段をゆっくり上がった方がマシだったかもしれない。
ごく普通の、古びた神社に見える。しかしここにも御祭神についてや由緒を書いた看板は見当たらないので、地元民の産土神が祀られててお参りも地元民しか来ないということなのだろうか。
日陰な分、まぁまぁ歩きやすい…のかも?
額に何か書いてあったが、読めず。
覗く勇気も出ず。
お参りしたので、帰ります。
下りはやはり子供に厳しかったのか、滑って一回転して。しかし微妙に喜んでいた。服と地面との摩擦係数が大きかったようで、ただくるっと回っただけで止まった。本人は喜び、私も安心。下まで転がらなくて良かったわ。
ゆっくり下りたものの、泥が増し増しになってしまった。
下の境内は広場になっていた。ここはそんなに地面がぬかるんでいなかったが、子供は座り込んで遊び始めやがった。よほど泥遊びがお気に召したらしい。
喜んでくれたようなので、良しとしよう…。
笹洞城↓
中央の山の頂上らしい。遠目からだが、赤い旗がヒラヒラしているのが見えた。あの旗は頂上まで続いているのかもしれない。親切だな。
★★☆☆☆
堀切にしろ、他の遺構にしろ、けっこう目立たなくなっていると思う
<原畑城>
築城年 不明
築城主 室賀氏
構造 平城