上田城に行ってみた。通るたびにいつも混雑しているようで、どうしようかなと思っていたが。今日は平日だし、と出かけてみる。
まずは、上田藩主居館跡。現在は上田高校になっている。場所は上田城三の丸にあたる。この門は寛政2(1790)年に作られた。居館自体はもちろんなく、表門とその周辺の土塀・濠のみ遺されている。
こういう高校、かっこいいな。
ここに来た時点で、観光客は一人、二人。ひょっとしてあんまり居ない? と思ってしまった。じゃあ上田城にも。と向かってみたところ。
まあまあいた。ここには何度か来たことがあるが、今は平日でも、1年で一番混雑する桜の季節なみの人出があるようだ。ここは二の丸のお堀にかかる橋。築城当時からこの場所にある。お城本丸への入り口は3か所。ここは東側の入り口。三の丸と二の丸を結んでいる。
実戦でも落ちたことがないお城。堀が深い。今は遊歩道になっている。
それにしても、この道、やけにまっすぐで綺麗、なにか不自然だなと思っていた。実は上田温泉電軌(上田電鉄の前身会社)北東線(のちの上田交通真田傍陽線)の廃線跡を利用しているんだそうな。上田駅から地蔵峠経由で、こちらもすでに廃線になってしまった長野電鉄屋代線の松代駅を結ぶ壮大な事業計画を立てた。壮大すぎて計画倒れになったようだが、上田温泉電軌北東線として旧真田町まで線路を敷いた。遊歩道が線路跡なので幅も変わらず、まっすぐ延びているのだ。
開業は昭和2(1927)年、全通は翌年。この路線により菅平高原が開発されそこへ向かう観光客や沿線で収穫された農作物の輸送などで栄えた。しかし1960年代後半から赤字になってしまい、昭和47(1972)年に廃止。探せば、電車が走っていた当時のトンネル、ホーム跡、架線柱跡があるらしい。
本丸へ入口。上田城で最も有名な門である。正式には東虎口櫓門という。ここに有名な真田石がある。このお城を作るときに近くの山(太郎山)から掘り出した大きな石のことで、見えている部分は2.5m×3m。上田から松代藩に移ることになった真田信之が「父上の形見」として運ぼうとしたけど、どうにも無理だった。という逸話が残る。この当時、お城は再建されていなかっただろうと思うが、石垣は壊されてなかったのかな。真田石の上にも石がけっこう高く積まれてるんだが、全部壊してでも松代へ持っていこうと思ったのだろうか…石垣って簡単に組めたり壊したりできるのかな、実際やったら相当めんどくさいし、お金もかかる工事になりそう。
上田城は、天正11(1583)年徳川家康の命令で、真田昌幸が築城した。目的は領地を接する上杉氏への備え。天正13(1585)年、上杉氏が徳川氏に対する備えとして増築。第1次上田合戦が起こり、真田氏が徳川軍に勝利。
(↑なんか酷い話だと思ってしまったのですが)
その後、大規模改修され、戦に備える。慶長5(1600)年関ヶ原の戦いが起こる。同時に起こった第2次上田合戦にて徳川秀忠軍に勝利する。しかし、関ヶ原の戦いでは徳川氏が勝利したために真田氏(真田昌幸・信繁父子)は罪に問われ、配流幽閉となった。上田城は徳川氏により破却。
寛永3(1626)年、当時の上田城主・仙石忠政によりお城の再建が始まったが2年後に忠政が亡くなったため頓挫。本格的な再建はされず、現在に至る。
今残っている櫓や門などは、仙石忠政の時代に作られたものである。
大河ドラマの特設館は二の丸にある。東虎口櫓門のすぐそば。屋台が多く出ていて、食欲をそそるいい匂いが。メインの場所であるため、さらに観光客が増えた。真田石には記念撮影したい人が順番を待っている。待てない人は門の近くの石垣で撮影。
櫓門付近は空堀になっている。
しかし、水抜き用の穴が見えるので、本来は堀だったのではないかと言われている。
櫓門の本丸側から。
このお城は二度実戦を経験しており、その二度とも対徳川。しかも負けたことがない。特に有名なのは、徳川秀忠軍を足止めさせ秀忠が関ヶ原の戦いに遅刻して家康に怒られてしまう、第2次上田合戦。この戦い、真田方に真田昌幸・信繁父子、徳川方に真田信之がそれぞれ参加していたそうだ。以後、信之さんは「真田家に恥をかかされた」と秀忠さんの恨みを買い、パワハラを受け続けることになったっぽい。
お父様の昌幸さんと弟の信繁さんは大人の事情で死罪を免れ、九度山に配流された。昌幸さんは失意のうちに亡くなり、信繁さんは見た目が激変するレベルの極貧生活を送る(禿げて歯もなくなったとか…)。伝説では信繁さんの奥さまが開発した真田紐という組紐を皆で作り、行商して生計を立てていたという。しかし徳川さんにキツい監視を受けていたので貧乏から抜け出せなかった。
関ヶ原の終戦後も最初は昌幸さんも「ちょっと秀忠君と遊んだだけ―」ぐらいの感覚でそのうち家に帰られると考えていたようだが、当の家康は心の底から大嫌いな爺と憎み切っていたために許すとか有り得なかったと。家康さんの昌幸嫌いは皆よく知っているのでそれを逆手に取り、「あいつを減刑して、ワシの度量の大きさを見せつけるんじゃー」と流刑にしただけだった、という。
上田城は徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利した翌年に壊された。関ヶ原の戦いののちに上田領は信之さんが受け継ぎ、元和7(1621)年にお城や城下町の整備を徳川さんに申請したが却下され、翌元和8(1622)年に松代へ移動させられた。一応栄転にあたるものの、信之さんはぶつくさ文句を言い、上田城や領内関係の資料を焼き捨て、城の庭木をむしり取って引っ越したそうな。これも嫌がらせの一つと感じていたらしい。
上司からのパワハラ、よほど頭に来たらしい。真田家では家康公より拝領した品が納められているという長持を「家宝」として24時間見張らせていたが、明治に入り中を開けて確認したら石田三成からの書状など反徳川とみなされても仕方ないような文書が入ってたという。
真田神社。人が並んでいるとこを初めて見た。大河ドラマの聖地巡礼に来る人ってこんなに多いんだ…そりゃ誘致運動もするよね。
城外脱出用の抜け穴(井戸)。
本丸のあたり。家康さんにより破壊されてから数百年ずっとこのままなのかな? 今はいろいろな碑が建てられている。
内堀。
西櫓。
ハシゴをかける場所?
西櫓から、尼ヶ淵に降りる。
下りるの、けっこう急。
尼ヶ淵という名前の通り、ここは築城当時川が流れていた。今は駐車場と公園になっている。「淵」は、河川の流水が緩やかで深みのある場所という意味で、南側の堀と兼ねて水運も行われていたのでは? という説もある。
築城当時は、石垣もなく↑こんな感じの崖だった。
江戸期に護岸工事が行われ石垣が作られた。なんでも、この崖は非常にもろく、洪水があるたびに削れてしまうと説明文が。
ここは3つの地層から成る崖で、上から①上田泥流層(火山が崩壊して土砂が堆積したもの)②火砕流に由来する粉じん③染屋層(川の作用で砂礫が堆積したもの)、②が最も脆く(なんか全体的に水に弱そう)、これを中心に崖が削られるんだそうな。本丸の櫓のごく近くに崖が迫るということは…ひょっとしたら洪水でぶっ壊れたかもしれない脆い城だったのか。タモリの街歩き番組でこのお城に来たときは「崖削りやすいから、お城のお堀工事も簡単」と紹介されていたけど、維持が大変そうだな。
享保17(1732)年に大洪水に見舞われ、ここの崖が大きくえぐられた。翌年の享保18(1733)年から石垣を築き、崖の浸食からお城を守る工事を命ずる。大規模な護岸工事はこの時ぐらいだが、築城当時からちょこちょこと直してはいたようだ。
↑こんな感じで。あとから付け足した部分が目立つ。
そこまで悲壮感がなく、大掛かりな工事をほとんどしなかったのは、ここには政庁がなく(三の丸の藩主屋敷で執っていた)ほぼ廃墟だったからじゃないかと思う。
諦めてやってない部分もあるし。
南櫓遠景。この櫓下の整った感じの石垣は平成に入ってから修復された、一番新しい石垣。
★★★★☆
2度の実戦を経験し、輝かしい戦歴を残しているお城。城内の施設は徳川家により、全部壊されてしまっていると思われる。実際どういう防御施設があったのか、建物の配置だとか、このお城の築城当時の構造は謎だそうだ。天守あったかも? というお話。
<上田城>
築城年 天正11(1583)年
築城主 真田昌幸
構造 平城