お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

高島城

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諏訪に出かけました。高島城です。こちらは天守・櫓・門とありますが太平洋戦争後に再建されたもの。石垣は築城時のもの、だそうです。

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では、まず天守へー。

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資料館も兼ねてます。建物が再建されたのは昭和45(1970)年。お城のこと、諏訪藩のこと、藩主の生活ぶりや調度品の展示など。小ぶりな天守で、中もさほど広くなかった。

高島城は日根野高吉という人が築城した。この辺りは諏訪大社神職から戦国武将になった諏訪氏の勢力下だし、諏訪藩の藩主も諏訪氏だと思っていたので少し意外だった。日根野という苗字、自作の兜の人と同じじゃん。と思ったら、その日根野頭形兜で名高い日根野弘就の息子さんだという。

和泉国出身の日根野備中守弘就が小田原の北条家に転職した、その子・織部は美童だった。という話(武功雑記 巻十)を見つけてしまったのだが、そのイケメン織部が高島城を築城した日根野高吉だそう。

日根野高吉さんは、天正18(1590)年の小田原征伐での武功により、諏訪(高島)を与えられ、諏訪藩主となった。高島城は文禄元(1592)年より築城。当時この場所は諏訪湖のほとりだったため、難工事となった。地盤がね…だけど流行りのカッコイイ城を作りたかったため、石を頑張って積んだ。しかしいくら積んでも石は足りず、近くの城(金子城)で使われていた石、墓石、石仏を総動員したという。短期間の工期でお城作るときによくあることらしい。が、今回の場合は石を積んでも積んでも沈む、壊れるの悪循環で、近場の石を根こそぎ奪ってでも絶対石垣完成させてやると暴挙に出たようだ。そのためイケメン織部の評判は悪かったという。

7年かけて、ようやくお城は完成。天守のある側が諏訪湖だったので、見た目は非常に美しかったそう。頑張って石垣作った甲斐があった。しかし、日根野家は2代で国替えとなり、代わりに旧領復帰した諏訪氏諏訪湖干拓事業でお城の近くに田んぼを作った。諏訪湖の位置が変わり、高島城は普通のお城になった。日根野さん、あんなに頑張って石垣作ったのにね、もったいない。

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天守から見た諏訪湖。本当はこの真下まで湖面が広がっていた。

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諏訪湖の反対側は本丸跡。今は庭園。近所の小学生が写生に来ていた。

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お堀もこの部分のみ。

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次は冠御門へ。こちらも再建されたもの。手前の橋の名前は冠木橋というお名前。

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お堀の様子。

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多分、この冠御門が表門だと思う。本来の名は「冠木門」といい、その意味は「左右の柱の上部に一本の貫を通しただけの簡単な門」だそうな。

こんな感じの門か↓ (参考荒砥城

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これは簡素な門ではなさそう。2階部分もあるし。説明板によると、ここは当初、冠木門だったが、後で屋根つきの門に建て替えられたのではないか。とあった。

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実際は楼門あるいは高麗門と呼ばれる、かなり立派な門だったとのこと。高島城の古い本丸の絵図によると、冠木門の両脇に「御多門」という名称が残っていた。これは石垣の上に建てた長屋で、防御壁と武器庫を兼ねている建物らしい。現在その長屋は復元されていない。ちなみに御多門は城をぐるりと取り囲んだ石垣の上にほぼ配置されていた。敵が攻めてこられない諏訪湖側にないだけ。これはどちらかというと櫓の役割をしているような気がする。

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この冠木門が正門で、番所を通り本丸の玄関に到達する。

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冠木門両側の石垣。立派に積まれている。この場所の石垣は高島城の中でも規模が大きいものだそうな。正門だもんな。石垣は沈まないよう、大木を筏で組みその上に積んでいる(これは築城当時の最先端技術だった)。

近くの説明板には、高島城は衣之渡川・中門川などの川を堀とし、諏訪湖に囲まれており、城下町に通じる道(門)は一か所しかなかった、という。つまり、三の丸の大手門しか陸地へ通じてないということ。その道を封鎖したら、あとはお城に行くには船で渡るしかないのだ。それに今気づいた。

「高島」というのは諏訪湖にあった島のことで、築城前は漁村だか集落があった。日根野さんは住民を追い出してその島全体を使ってお城を築いた。陸地への唯一の道はたぶん桟橋みたいなやつだったんじゃないかなー?

「諏訪の浮城」とかいって、天守がある側に湖があっただけでちょっと大げさじゃないの? と実は思っていた。本当に諏訪湖の中にあったのね。お城に謝りたい。

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内部は庭園。本丸御殿跡はそれらしきものが一切ないものの、隅のほうには櫓跡、多門跡という表示があった。

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東角櫓。内部はお座敷があった。どうもお茶室らしい。炉を設置できるようになっていた。この角櫓の近くには野点用の真っ赤な傘が常設されていた。

 

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諏訪護国神社

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ここは元「御川渡御門」という門があり、諏訪湖に面していた時代には船着き場として使われていたようだ。有事の際はここから諏訪湖へ逃げられるようになっていたのかもしれない。門は移築されたもので、「三の丸御殿裏門」という名前。ちょっとややこしい。

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本丸西側石垣。本丸正面の石垣とは段違いの貧弱さ。ばらばら、適当に置いているけど大変だったはずだ。

 

せっかくだから諏訪湖にも行ってみた。

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間欠泉センターの近くの足湯でまったり。

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本当は水上バスに乗りたかったが、今は土日しか運航していないようだ。遊覧船は動いていた。

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諏訪湖には神社らしきものが。

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初島という人工島だそうだ。諏訪湖の花火大会の打ち上げ台として作られた。が、鳥居も見える…。新しい神社で、名前は初島神社。昭和29(1954)年に建立、御祭神はもちろん建御名方神。この神社も御柱をやっているそうな。

 

 

★★★☆☆

浮城だとか大げさなんだよー ってホントにずっと思ってた。長崎の出島もそうだが、絵やイメージと現在の様子が全く違うから、現物見ても凄さがあんまり伝わってこない…。

 

 

<高島城>

築城年 文禄元(1592)年

築城主 日根野高吉

構造 平城