松山市に行った。ここは電車と路面電車が交差する場所らしいが、まだ路面電車は動いていなかったよ。すでに電車が動いているので人影は多く、高速バス乗り場なんかは30人くらい並んでいた。
以前から「路面電車がある地区は都会」説を提唱しているが、ここ松山も大都会なんだなって思った。
松山駅から東へ20分ほど歩くと、松山城の西側に辿り着く。でかい外堀がある。外堀の内側を走っている人の姿が見え、堀と土塁の間には道があるらしい。現在の三の丸はだだっ広い公園になっている。
三の丸は藩士屋敷や藩の施設があった場所で、二の丸は藩邸があった。松山城の本丸だけ高い山の上にある。
お堀に沿って歩く。
白鳥が住んでいるそうだが、羽を切られてしまって飛べないそうで。野生の白鳥ではなく、飼育用で購入されたコブハクチョウ。寿命は15年程度。
そうこうしているうちに路面電車も動き始めた。
橋があった。
元あった橋ではなく、後世になりかけられたようだ。松山城の三の丸は明治17(1884)年に歩兵第22連隊が置かれ、その頃にかけられた感じの橋。元の松山城の橋は北側(大手)と東側(搦手)にあったようだ。
歩兵第22連隊は別名「伊予の肉弾連隊」と呼ばれた精鋭部隊らしい。日清戦争から始まり、日露戦争から太平洋戦争まで色んな戦争に参加しており、最後は沖縄戦で壊滅したという。
外堀から遠く松山城の本丸が見える。
外堀の終わりが見えてきた。「八股榎お袖大明神」という賑やかな神社が見えてきた。場所柄、お城の鎮守とか何か関係しているのかと思ったが、そうではないようだ。
案内看板には「霊験あらたか 松山一の美女たぬき」とあった。弘化年間(1844~184)に松山城の杜に住んでいたお袖さんというタヌキが堀の近くにあった八股榎に移り住んできて、人々の願いを聞き届けた。とあった。
ちょっと意味分からなかったが。wikiによると、
- 八股榎お袖大明神の起源は、かつて松山城に住んでいた神通力を持つタヌキの「お袖」が文政13(1830)年、かつてこの地に生えていた大きな榎に住み着いたことが始まり。
- 榎の大木は明治44(1911)年に松山電気軌道開通の際に切られて、お堂は松山市内の常楽寺境内に移された。今も祀られている。
- その後、別の榎の下に祠が建てられたが、伊予鉄道が路面電車を複線化した際に切られることとなったが、難航して(祟りがあったようだ)喜福寺に移植されたがすぐに枯れた。同時に「大西駅で降りた女学生がタヌキのお袖ではないか」という噂が流れ、お袖は近隣の旧小西村山奥にある明堂というお堂に引っ越したとされて、参詣者が増えた。
- その後、昭和27年頃にお袖が松山城の堀近くに戻ってきたらしいとされて、昭和31(1956)年についに本殿が造営された。
タヌキのお袖さんは地元で有名な方らしく大変な人気があるようだ。wikiの記述だと明治から昭和にかけて消されようとされたが、危機を乗り越えて復活している。お社が相当賑やかで管理者も常駐している様子。最初、お稲荷さんかと思ったよ。タヌキを祀る神社って珍しいわ。
信仰が盛り上がっているんだし、相当なご利益ありそうだわ。と願掛けしておいた。
松山城はタヌキに関わる伝承が多いようで。日本三大タヌキ話のひとつ「松山騒動808タヌキ物語」が伝わっているという。101匹わんちゃんみたいなタイトルだなと思ったが、内容は松山城の守護タヌキの隠神刑部とその眷属タヌキ808匹が松山城のために戦う話?らしい。ちなみに、日本三大タヌキ話の残り二つが「分福茶釜」「証誠寺の狸囃子」である。
愛媛の狸は好戦的で、他には日露戦争に出兵して戦功を挙げたとかがある。日露戦争では赤い服を着て戦い、ロシア兵を怯えさせたり、愛媛出身者を庇ったりの大活躍。四国全体で狸関係の伝承が多いそうだが、逆に狐の話が少ないそうだ。
お堀周辺は自然も多いが、路面電車も走っていたりと近代化もしている。住むには面白そうな場所よね。狸じゃなくてもまた住みたいって思う者はいると思う。
お堀の白鳥のおうちらしい建物もあったよ。お堀には句碑もあった。
河東碧梧桐という人の句碑。松山出身の俳人・正岡子規の弟子だそうだ。正直、俳句に興味がわかないので「あっ文字書いてある!!」と思ったが。「さくら活けた 花屑の中から一枝拾ふ」という内容で、最初に建てられた句碑だそうだ。昭和6(1931)年、同じく正岡子規の弟子だった高浜虚子の句碑と共に松山刑務所に建てられていたという。なんで刑務所かというと、情操教育のためらしい。
昭和28(1953)年には現在地に移転。高浜さんの句碑は今も松山刑務所に残されたまま。なんで河東さんだけ出所出来たんだろう…? 高浜さんと河東さんは正岡子規のお弟子さんになる前から元々友人関係であった(野球マニアの正岡さんのところへ二人誘いあって野球教わりにいったことがキッカケで、俳句を学んだという)が、俳句の方向性が真逆で喧嘩したらしいです。誰か忖度して松山刑務所から移転させたのかな? 松山刑務所もなんか色々とあり凄かったようだ。
橋の向こうは三の丸エリアである。現在の三の丸は広い公園と美術館などの施設があり、以前は藩士屋敷や役場があったエリア。明治6(1873)年の廃城令により松山城すべてが国に帰属したが、どうも国から買う人がいなかったようで、翌明治7(1874)年には公園に、明治19(1886)年頃から松山歩兵第22連隊の駐屯地になった。兵が置かれたことで三の丸の建物がなくなってしまった感じなのかな? と思ったら、明治3(1870)年に火事で燃えてしまったらしい。ちなみに二の丸は明治5(1872)年に燃えてしまったそうだ。
松山の人達は松山城に対して畏敬の念というか、何か特別な思いを抱いていたようだ。軍の氏配下にあった本丸を明治43(1910)年から3年間無料で松山市に貸し出させることに成功としたという。そして、皆で本丸登山をしたそうだ。
大正11(1923)年には国から松山城払い下げを受けた旧松山藩主家の久松氏が松山市にそのままお城を寄贈した。しかも維持費4万円(現在の価値でおよそ4億円)付きで。破格ですわ!
二の丸は三の丸より少し高台にある。
松山城の本丸、二の丸、三の丸は同時期に整備され、慶長10(1605)年完成とされる。元々は藩主屋敷(藩庁)=二の丸、藩の施設と上級藩士の屋敷=三の丸という区分けかなと思っていたが。藩主屋敷も三の丸にあったが明治3(1870)年の火事で二の丸に移転したとあった。
じゃあ、二の丸は元々何があったんだ? と思ったら、貞享4(1867)年に三の丸に藩主屋敷が出来る前は藩庁だったようだ。藩主屋敷→藩主別邸→藩主屋敷という変遷。江戸時代は江戸の藩邸に正室&跡継ぎが住むことになっていたが、それ以外は国許に住んでいたらしい。つまり別邸に側室と跡継ぎ以外の子が住んでいたといことらしい。なので二の丸は別邸とはいえ凄くちゃんとしている御屋敷だったのだ。
基本、本丸は普段の生活には使えない場所なので別。
実は最初、元あった山城を松山城本丸とし、麓に城下町(館が二の丸、家臣の屋敷が三の丸)を整備したのかと思ったよ。全部新造だった。慶長10(1605)年完成という微妙な時期のお城らしく、荒れた戦国時代の気分を引きずっている印象を受けた。
二の丸登城口。非常に立派である。としか言い様がない。
二の丸御殿の門はこちら。
途中に石碑があった。
二の丸は城東中学校という学校が以前あったそうだ。その記念碑である。
二の丸も明治維新を迎え、用途が様々に変わっている。
- 明治5(1872)年 松山城二の丸(旧藩主屋敷)
- 明治17(1884)年 陸軍病院
- 昭和20(1945)年 国立病院松山病院(終戦で移管)
- 昭和22(1947)年 城東中学校(~昭和58(1983)年)
- 昭和59(1984)年 学術調査開始
- 平成4(1992)年 史跡庭園として開園
陸軍の管理下にあった頃は病院だったので、学術調査の際に人骨だの発掘されたそうだ。しかも、ロシア兵捕虜と病院勤務の日本人の女性看護師の名前が彫られた硬貨も発掘されたとかで、恋人の聖地として売り出しているらしい(フォトウェディングなんかもやっている)。ロシア人捕虜と女性看護師の本名は明治37(1907)年の地方新聞も載ったようで実際カップルだったようだ。新聞の逸話の裏付けが取れた感じよ。
江戸時代には跡継ぎの男児に恵まれないと悩んだ藩主・蒲生忠知が妊婦を憎み始め、領内から妊婦を攫っては二の丸御殿で腹を引き裂いて殺していたという逸話も伝わる。今でも死んだ妊婦のすすり泣きが聞こえるそうだ。
平成4(1992)年に出来た史跡公園は屋敷を復元していた。
高台なので三の丸が丸見えですよ。
以前あった城東中学校の石碑がまたあった。
復元された石垣。平成初期に整備されたとあるが、壊されずに残された石垣を綺麗にしただけなのかな? それにしては妙に綺麗だと思った。平成初期っていっても、もう30年以上も昔だしな。元通りに復元出来たと言えるのは、写真が残っていたからだそうだ。
山の上にある本丸も素晴らしいが、この二の丸も素晴らしいわ。櫓がずっと続いている。
早朝なので門は開いていなかった。内部は庭園となっている。
3年かけて江戸時代の遺構を確認したが、記録の上埋め戻しているという。二の丸の屋敷を含め松山城を作り始めた人は加藤嘉明だが、完成を見ずに会津へ引っ越し命令が出されてしまい、蒲生忠知が代わりにきて完成させている。妊婦の腹を切り裂いていた人だね!
二の丸御殿は表御殿と奥御殿と分かれていたそうだ。御殿は復元されていないみたい。
二の丸の御屋敷を素通り、奥にも石垣がある。
こっちの石垣は往時のまま残されていそう。
もう石垣が古そうだもん。
この石垣のバリケードの先が本丸である。天守閣まで900m。多分大手門と思われる。二の丸も急坂だったが、ここから本丸までは山道である。市民ランナーが坂を行き来していた。トレーニングには良い感じの坂だわ。
どう考えてもここが大手道だけど、今は
①ロープウェー・リフトに頼る(東雲口)
が一般的。ここは幕末頃できたルートらしい。ロープウェーの下には徒歩道がある。ロープウェーは昭和30(1955)年、リフトは昭和41(1966)年に出来た。
②県庁の裏を進む道(県庁裏登山口)
大正時代初め頃から使われているそうだ。どちらかがメインルートだそうだ。県庁裏登山口も見所(石垣↓)があるそうで、いいらしい。
慶長からある大手道だった黒門口は、明治17(1884)年三の丸に兵営が置かれたときに封鎖された。昭和44(1969)年に再び使われるようになったそうだ。ロープウェーやリフトが設置された後に開かれた。なので正式な道だけど、ちょっと印象が薄くなってしまったようだ。
息苦しい圧迫感よ。しかも道は上り坂。
ここにも二の丸御殿の門があった。もちろん閉じられている。
高い石垣はまだ続いている。
一体どこまで続けるつもりなんだ。
この時点でまだ本丸までは辿り着けていない。
あっという間に二の丸御殿も丸見えな高さになってしまう。
石垣の上は施設後もなさそう。門跡には階段が残されていて、多分櫓があったんじゃないかという雰囲気だったが、この辺りの石垣は上に何かあったような雰囲気がない。まあ、とにかく高すぎて上が見えないので…実際どうなっているか窺いしれない。
石垣は続いているが、道は完全に山道に。
案内板には「松山城山樹叢」とあり、松山城が築城された頃はハゲ山だったが、赤松の植樹を始めて今では一面緑に覆われたという感じのことが書かれていた。城の構造を隠すために松を植え始めたのだろうか。
本丸まで辿り着ける時間はないものの、少しだけ進んでみた。
こちら側は背の低い石垣が続いている。
登山口は鬱蒼としている。熊は出ないだろうか?
このまま進んで行くとこういう山道みたいだ↑ 中々の道、時間があれば行きたかった…。
戻る。
今度は本丸行きじゃない方へ進んでみた。
多分、ここは高い石垣の上あたりかと思う。本丸行きとは違い、ただの山道である。
井戸跡だろうか? 木枠があった。道はまだ続いている。
行き止まり。平場と井戸跡らしき木枠。しかし、案内板などはなかった。誰も見に来ないのかな。
古地図ではここの崖下にも石垣(登り石垣)があったようだが、現在は取り壊されている。幕末か明治辺りに壊されたとされるが、理由は不明。
そして、ここら辺にも施設があったような感じだった。
二の丸まで戻る。
二の丸御殿の紅葉が見事だった。
でも石垣が巨大すぎてちゃんと紅葉写せないの。
二の丸御殿正門に向かう道まで戻った。この区間の見通しは上り下りとも悪かった。出入口だから厳重なの当たり前だけど、山頂の本丸に普段行き来するとなると嫌だなー。二の丸の御屋敷もわりとすぐに藩主屋敷やめちゃった(高台登るの面倒臭くなったんじゃないかな?)ぐらいだしな。江戸時代の藩主居城でここまで本丸に行きにくいお城ってあるのかな、と思った。
色々見たけど、黒門口から本丸への道のりは険しいが石畳などもあって、江戸時代の雰囲気を残しているらしい。20分程で本丸に到着する。階段状になっているようだ。
県庁裏登城道は舗装路だが、登り石垣というものが見える。二の丸から本丸にかけて山登りをするように石垣を築いたものだそうだ。麓から山を登ってくる敵を防ぐもの。竪石垣ともいうそうで、竪堀の石垣バージョンみたいな? これが日本でもあまりないものだそうだ。
二の丸から三の丸に向かいます。デカすぎる石垣がまだ続いている。
巨大石垣のない斜面に、申し訳なさそうに「重要文化財」の看板。よく見る看板だけど日立製作所が社会貢献の一環で設置しているもの。昭和41(1966)年の大徳寺方丈(国宝)が放火されたことがキッカケで、旧文部省の要請で日立が設置している。松山城内の建物は明治以降、放火や失火で何度か燃やされている。
二の丸と三の丸を分けている箇所まで来た。
三の丸との境は意外にも土塁だった?
見た目からして堀跡だったんだろうなって思っちゃう駐車場。三の丸との境が分かりやすく盛り土してある。改変は最小限に留めて保存し公園にしてますという印象。
三の丸に到着。ここは黒門という門があったそうだ。
三の丸は広大すぎて何もない。最初は開発途中なのかと思ったが違うようだ。松山城を引き立たせるために、敢えてこうした建物を作らない公園にしているらしい。あとは古い絵図を参考に生えていた木を植え直すとか、そういうことをしているみたいだ。確かに堀の外から見た三の丸(堀之内公園)は格好良かったからな。
三の丸から見た二の丸御殿。
柵で囲ってある場所は藩主の屋敷だった三の丸御殿跡。これから発掘する様子。山の上の本丸も見える。
敷地内は美術館・図書館・市民会館・NHK放送局がある。しかし、どういうわけかあんまり存在感がないような?
上手く木で隠してあるみたい。
建物があるエリアまで来た。ここは三の丸でも堀に近い外れの方。
ここは土塁だった。
古地図も石垣ではなく土塁が描かれていた。二の丸から本丸にかけた巨大な石垣普請でこっちまでは手が付けられなかったのかな? 必要性を感じなかっただけかもだけど。
堀も馬鹿でかいからな、土塁のほうが良かったのかもしれない。二の丸~本丸の本気な石垣あれば十分だと思う。そもそも近世城郭のくせしてあんな高台に本丸築くのはなんかなあ。このお城、築城から明治まで一度も攻められていないそうだ。
★★★★★
本丸行かなかったのに、満足しちゃった(後で行きますわ)
<松山城 二の丸・三の丸>
築城年 慶長7(1602)年
築城主 加藤嘉明