このお城には、少々思い入れがある。お城探索を始めたキッカケが二ツ柳城にあったから。
今回で二回目。前回来たとき二ツ柳城までの細い道から車ごと下に落ちそうになったんだよねぇ…今回は神社まで車で乗り付けず、麓から徒歩。
二ツ柳城は正面の木が多い茂っている場所。現在は神社(名前は二ツ柳神社)となっている。
入口。入ってみよう。
鳥居をくぐってすぐ、沢がある。
この沢、堀の役割をしている。ここから神社までは相当急。
ででーん。
階段を登らずに、神社まで行く道をたどってみる。
←横から見ると、こんな感じ。
急に高くなっていく様子が分かる。
神社本殿。ここが本郭跡とされている。
神社の後ろにも何やら怪しい平地が。
神社の周りは果樹園ばかり。あんまり立ち入れない。
古そうな石垣だが、お城のために作られたのか、神社として生まれ変わった時に組まれたのか…たぶん、後者だろうな。石垣の積み方はちょっとお城っぽいと思う。
神社周りは天然の土塁と天然の堀(沢)でぐるっと囲まれているようだ。
このお城がいつ築城されたかは不明だが、応永7(1400)年には廃城となっていたようだ。というのも、その年に起きた大塔合戦の舞台の一つ「大塔の古要害」であるとされているからだ。
大塔合戦とは、室町幕府から派遣された信濃守護軍と信濃国の国衆連合軍が戦い、国衆連合が大勝するという(しかし、後に国衆軍は幕府軍に鎮圧されてしまう)もの。信濃守護に任命されやってきた小笠原氏が非常に高圧的な態度で国衆と接したので、国衆たちがブチ切れて戦争になったようだ。
もともと信濃ははじめ源頼朝の、のちに北条氏の知行地であった。そのため、鎌倉幕府との結びつきが強かったようだ。鎌倉幕府再興を目指して起こった中先代の乱の舞台も信濃である。最初から国衆は室町幕府もそこから派遣されてきた役人も気に入らんと思っていたのかもしれない。信濃守護の小笠原氏が善光寺にやってきた直後から小競り合いが起きている。
「大塔の古要害」で守護方は約1か月籠城したという。二ツ柳城は丘の中腹にあり、土塁や堀といっても、神社の周りにしかなく…その程度の防御なのでお城に立てこもった守護方は負けた。籠城した300騎と言われる兵士は全員死んだそうだ。それでも狭く微妙な高さのお城で、よく1か月も持ちこたえたな、と思ってしまう(いくらなんでもこんなしょぼい城に籠城しないだろう、「大塔の古要害」って別の城を指してるんじゃないの? とも言われている)。
←見晴らしはこんな感じ。お城の周りは果樹園が広がっている。
近くに石塔があった。お城とは関係なく、もっとずっと古い時代のものっぽい。近くの案内板の説明によると、高麗(918~1392)の王族がこの地方で帰化し、篠井(二ツ柳城がある場所の地名:篠ノ井)という姓を朝廷から賜った記念に建てた、と言い伝えられているという。高麗の様式・手法で造られたそうで、日本最古の石塔で百済(346?~660)からの帰化人が建てたとされる石塔によく似ている、と書かれていた。日本の石塔とはちょっと感じが違うかなー? ぐらいしか分からなかったです…。
★★★☆☆
このお城への思い入れ補正も含まれています…。
築城主の二ツ柳氏はこのお城からどこかに移動したのですが、どこに新しい城を作ったのか(あるいは別の城をもらったのか)は記録に残っていません。ただし、存続はしていたようで。戦国期には村上氏に従っており、武田氏の信濃侵攻で村上氏が越後に落ち延びたときに半分に分かれてついていったそうです(誰に聞いたのか分からず。なので根拠はないです。風の噂程度です)。越後で新しく土地をもらい、その地を「二ツ柳」と名付けたと聞きました(調べたら、本当に新潟県内に「二ツ柳」という地名がありましたけどねえ…)。
信濃に残った二ツ柳さんはどうなったのか。明和9(1772)年に二ツ柳甚左ェ門さんが供養塔を長野市内に建立している(昭和59年までの存在は確認)ので江戸中期までは存続していたと思われる。
<二ツ柳城>
築城年 不明
築城主 二ツ柳氏
構造 平山城