ここのところ、暑いとか虫刺されが怖いとか獣が出るなどの事情で山に入れず、お城の片鱗も見当たらないような住宅地ばかりでつまらなかった。ここも住宅地の中に残る昔のお城跡の一つ。
他のと違って、なんかここは保存運動が盛り上がっているらしく。でかでかと「栗田城址」と彫られた石碑がー! しかも新しいぞ。栗田城址を整備する会という組織が編集したパンフレットも配っていた。パンフレットは平成27年1月の日付が入っており、たぶん石碑も去年あたりに建立されたのではないかと思った。
パンフレットによると、現在の場所は栗田城の内郭を取り囲む土塁の北西付近だそうだ。この場所は今、水内惣社日吉大神社(通称:栗田神社)の社殿がある。
緩やかに上っていっているが、横から見るとこんな感じ↓
土塁は幅11m・高さ9m・長さ40mの部分のみが残されており、残りは壊したらしい。
栗田神社の社殿付近からから内郭跡を見た様子↓
意外と高い。下のゲートボール場みたいな敷地は内郭跡地(一部)。この高さの土塁が回の字形で作られ、大きさは東西709m、南北1090mと。でっかいなー。
パンフによれば栗田場周辺の発掘調査を昭和62年~平成25年の間に5回行われている。茶道やお香に関する出土品が多く、ここの主が地方の領主にしてはお金持ちだったことが分かってきている。こんな広い敷地に大きな土塁を造成することができる権力者だしなー金持ってるよね。長野市内最大規模の居館跡だそう。また、この近辺で中世(1192年~1573年)の建物跡も多数見つかっている。栗田城は栗田仲国さんにより平安時代末期(1190年ごろ)築城されたという伝承とだいたい一致するようだ。
このお城を作った栗田仲国さんのお父様、寛覚さんが栗田氏初代になる。何者かというと、信濃村上氏初代の村上為国さんの息子さんだそうだ。栗田村に住んだので、氏を「栗田」に変えました、という。
村上一族の中でも栗田さんは独自路線を行くことになるらしい。栗田氏初代の寛覚さんの名前はなんか戒名っぽい感じがした。栗田禅師と呼ばれていたというので、やっぱりお坊さんなんだろう。栗田村は園城寺(三井寺)や聖護院の荘園であったというので、ここの管理を任された関係でお坊さんになったのかも? 逆で、三井寺のお坊さんになったから管理人になれたのかもしれないけど。まぁどちらでもいいのか…。
三井寺は天台寺門宗の総本山。開基は大友皇子(天智天皇の皇子)の皇子・与多王。大友皇子は壬申の乱で大海人皇子に負けた人。首を吊って自殺した父の菩提を弔いたいということで、天武天皇(大海人皇子)に許可を得て、お寺を作ったとされている。そして、大友氏の氏寺となった。大友氏の本拠地の近江国大友郷だった地(滋賀県大津市)にある。ちなみに、大友皇子の御陵もそこ。大友一族は大友皇子の有力な支持者だったそうな。
支持者だった大友一族は渡来人で、後漢の最後の皇帝・献帝の子孫を自称していた。後漢の皇帝の後裔を称する渡来人集団は4世紀から6世紀にかけて日本に多数入国しており、大友氏以外にも色々いるらしい。みんな後漢の皇帝の子孫だとか。後漢が滅んで、中国は魏蜀呉の三国志の時代に入ったみたい。後漢の皇族は日本にも亡命してきたのかもねー。園城寺は天武天皇が名前を与えた。三井寺というのは、天智・天武・持統(天智の皇女、天武の皇后、天皇)の3代がつかった産湯がここのお寺さんにある霊泉であり、「御井(みい)の寺」と呼んでたことから。御井の寺→三井寺。
平安時代になって、円珍という偉いお坊さんが現れる。入唐八家(最澄、空海以下唐に渡って勉強して法具や経典を持ち帰ってきた僧8人)の一人で、讃岐国出身だとあった。四国といえば空海と思ったら、案の定空海の親戚だった。比叡山に入り修行してたのに、役小角に傾倒したために熊野三山などで修験道の修行もし始めた人。空海もなんか洞窟に籠って修行してなかったっけ? 親戚だけあって似てるな。
とにかく円珍さんが日本に帰国し、三井寺を修行の場にする。その後、延暦寺のトップに。円珍は生き方も個性的な感じで、仏教・密教(←これは当時最先端の学問、秘密仏教の略らしい)・修験道(日本で発生した山岳信仰と仏教をミックスさせた宗教)の3つの柱を修めたので、「新しい」とファンが多かったみたい。この人が亡くなったあと延暦寺では第3代座主・円仁(最澄の愛弟子、円珍に比べて正統っぽい)派と第5代座主・円珍派に分裂して、円珍派(寺門派)は追い出される。三井寺を拠点にして、比叡山延暦寺(山門派)と対立。延暦寺は屈強な男を多数雇い、兵団を組織して三井寺との抗争に備える。三井寺は武装化せずに政府との関係を深めた。特に藤原道長、白河上皇などの著名な権力者が帰依し支援したようで、荘園の寄進を受けてどんどん成長していった。なんと善光寺さんも三井寺の支配下にあった。政府は大兵団を持つ延暦寺の力をそぐため、三井寺を庇護する。以後、三井寺は鎌倉幕府、室町幕府と支配体制が変わってもずっと支配者側の寺だった。
八ッ橋で有名な聖護院のほうは、門跡寺院で修験道本山派の中心寺院でもある。円珍は修験道にもハマり、修行をしていた。三井寺のお坊さんたちも倣い、熊野三山で修行をしていく。本山派は天台宗系の修験道を指している(対になっている当山派は真言宗の僧侶・聖宝が創始した真言宗系の修験道)。鎌倉時代に三井寺にも縁がある聖護院門跡の覚助法親王(後嵯峨天皇皇子)が三井寺と聖護院のお坊さんたちを統制するに結びつけたようだ。その後、さらに組織化されて勢力が拡がっていった。
転機が訪れたのは豊臣秀吉の時代。文禄4(1595)年になんだか分からないけど秀吉を怒らせちゃって、三井寺はあっけなく廃寺に。兵力(たぶん)ゼロだし、天下人相手にどうにもならなかったのね。御本尊などの寺宝はよそへ移された。金堂は延暦寺に移されたそうなので、長年の抗争に決着がついた、勝った、と比叡山の方々は喜んだに違いない。廃寺にされて3年後の慶長3(1598)年に再興許可が出て、今に至る。
聖護院のほうは門跡寺院だったせいか、特にお咎めなし。しかし京都にあるお寺さんなので応仁の乱などの兵火、普通の火事でもたびたび燃えた。現在の建物は延宝(1676)年に再興されたもの。慶長年間(三井寺再興~江戸幕府初期:1596年~1615年)に本山派と当山派が揉めて、江戸幕府の裁定で修験道ルールが設けられた。これは本山派のほうが不利なルールであり、聖護院は弱体化した。
ところで、栗田さんは三井寺・聖護院の荘園管理人やっていたのに、三井寺と敵対している延暦寺の末寺・顕光寺(戸隠神社)の別当職(お寺の一番偉い人)もやり始めた。当時の戸隠神社は神道・真言密教・天台密教が神仏習合した修験道のお寺(むしろ道場だったみたい)で有名だった。流行っていたらしい。栗田さん寺門派じゃなかったのか…。蝙蝠みたいなやつだ。その後は三井寺の末寺だった善光寺の別当もつとめはじめ、二つのお寺さんからの収入でお金持ちになる。
栗田さんは本家筋の村上氏に従っていた。出土品見ても、寺からの収入が良かったようだし独立できそうじゃない? と思ったものの、栗田氏年表を見る限り、代々の当主は戦下手なのかもしれない、と感じた。近隣の領主と一緒によその領土で暴れようとしたが、決着がつかなかったり失敗したり。よそから攻撃受けて陥落したり。栗田家が勝った、というのがあまりない(近隣の館を襲って成功したぐらい)。それで村上家所属のままにしておいたのかも。
戦国時代に武田の信濃侵攻が始まると、栗田氏は分裂した。戸隠神社の栗田さん(山栗田)と善光寺の栗田さん(里栗田)。山栗田は上杉に、里栗田は武田さんに、それぞれ従うことになった。
里栗田は、例の誰も見たことがないという善光寺御本尊で秘仏の阿弥陀如来と甲斐に行き甲斐善光寺の住職になったり、長野市内の武田領の長沼城の番衆として留まったりと、ちょっと分散。天正10(1582)年の武田家滅亡まで里栗田の兵団は存在していたようだ。武田の滅亡後は主君を変えたりし生き延びた。里栗田さんは信濃に戻ってきたが、善光寺の別当職に返り咲くことができず、元の領地にもいられず一家離散状態に。
山栗田さんは上杉に従ったものの、慶長3(1598)年の上杉家会津転封がきっかけで会津組と戸隠神社組、帰農組に分かれた。同年に秀吉から戸隠神社の神職として取り立てられ、明治まで戸隠神社の神官家として続いた。帰農組は苗字を変え、信濃に戻る。会津組は、8500石の城主になったものの。慶長5(1600)年の上杉討伐で直江兼続の「石田三成さんと呼応して徳川挟み撃ち」案に反対。400人くらい人を集めて会津から脱出しようとして、追っ手の直江さんに捕まり150人ほどが成敗される。残りの250人が無事に徳川家に身を寄せた。その中に山栗田の会津組の生き残りがいて、のちに水戸藩の藩士となった人がいた。この人の子孫は幕末まで続き水戸黄門でおなじみ大日本史の編纂に携わった人、天狗党に参加した人などいたそうな。
どちらの家系もばらばらになってしまった。
内郭端っこに当たる場所にででーんと立派な木。栗田城が築城されたころからあるのかも!
地図に照らし合わせてみると、内郭は建物だらけで見る影もなし。現在地の栗田神社は西側の土塁のうち、北側半分くらいか? 神社自体もさほど小さくはなかったので…。
想定図を見ると、土塁と堀を完全に平地にしてから、建物や道を作ったようで。現在の町並みから城の跡を探すの、難しそうだぞー。
↓たぶん内郭の中心方面。
↑こういう感じで住居が建ち並んでいる。
堀跡はこの辺かなー?
想定図ではこの道路幅が堀すべてではなく、もっと広いようで。周囲の建物も堀の上に建っているっぽい。
神社に残る土塁跡をぐるっとめぐる。
ちょうどこの公園の幅=堀の幅だそうだ。これは広いぞ! 埋められちゃってるから謎だけど、深さはどのくらいだったか気になりますなー。
栗田氏はこの栗田村の他に、飛び地を持っていた。栗田氏の氏神として日吉大社の御分霊を長野市内に勧請し、「日吉山王」として祀っていた場所。また、その地は出城として使っていたと言われている。この日吉山王は明治41(1908)年に現在地へお移りになっている。
元和元(1615)年に主を失った栗田城が壊されたのちは、地元民の産土神として戸隠から神々を勧請し、栗田権現(栗田大元神社)として祀っていたようだ。日吉山王がこちらにお移りになったときに合祀され、現在に至る。
御祭神は大山咋命と罔象女命。大山咋命が栗田さんが日吉大社より勧請した神様。別名を山王権現という。罔象女命は水の神様。他に戸隠から勧請したと思われる手力雄命(岩戸隠れのとき天照大神が隠れてた岩戸を戸隠まで放り投げた神様)、天思兼命(知恵の神様で、天照大神をどうやって連れ出すか提案した)、天表春命(天思兼命の子供)、天鈿女命(岩戸の前でストリップした神様)。
日吉山王社が元あった場所はここ。
駐車場になってた。名前だけ残っている。
駐車場にされてから数年? 私が知らん間にこんなことに…。知っている限り、ここだけ鬱蒼とした木が茂る真っ暗な場所だった。昔、この近くの学習塾に通ってたので、夜なんとなくここを見に行ったりしていた。なんかここだけ浮いてて気になってた。塀も高かったし。建物はあったけど、当時から使われていなさそうで人気なし。聞くと国鉄(JR)の紫雲寮という施設とのこと。寮というから社宅の類かと思ったけど、集会所という(でも人が出入りした様子もなく、打ち捨てられた感ありありな建物だった)。もっと遡ると、その集会所の前身は病院だと分かった。ぐぐると写真が出てきた。その写真で見る限り、瀟洒な洋館だった。こんな建物だったら壊しちゃってもったいないんじゃないのー? と感じたものの、私の記憶の中の「紫雲寮」はこんなんじゃなく無機質で面白味のない建物だった。あーやっぱり壊されてもいいや、と思い直した。
この「出城跡」と言われる場所の近くには裾花川という川が流れている。その対岸には朝日山城や小柴見城がある。
↓正面の山の頂きにあったのが朝日山城。武田さんと上杉さんで取り合った。
天文24(1555)年の第2次川中島合戦では里栗田さんが武田方の武将として朝日山城を守備したそうだが、栗田氏の出城跡の場所から朝日山城がよく見える。また、この場所は善光寺にも近い。この辺りは武田さんちと上杉さんちの境界線なのか、お城が多い。善光寺(横山城)を取り囲むように小柴見城・朝日山城・葛山城・大峰城・桝形城・押鐘城とあり、他に盛伝寺館・桐原要害・中越館と拠点にできそうな施設もあるようだ。
★★★★☆
住宅地・街中にあるお城跡にはガッカリすることが多かったものの、ここは土塁の規模が大きく期待したよりも良かった。出城跡は何もなかった、寂しくなった。
<栗田城>
築城年 平安時代末期
築城主 栗田仲国
構造 平城