朝晩と肌寒くなり、また花粉の季節がやってきた。あーうざい。
もう草枯れてくる頃だろうと山の様子を見に行ってみた。今回は寺尾城。
本郭には「寺尾殿の墓」と刻んだ墓があるそうな。何故墓なのか。そんな場所に寺尾家の御先祖が祀られているのか、墓参も一苦労だな。だいたい普通は「寺尾城祉」って彫るんじゃないかと思うわ。
寺尾城登山口。この階段を上っていくと「愛宕社」という神社があるらしい。入口に愛宕社の由緒が掲げられていた。
・御祭神 火之訶具津知神
・永禄3(1560)年社殿創建 これ以前より「愛宕大権現」として鎮座していたらしい
・宝永5(1708)年焼失した社殿を再建 愛宕山長福寺が再建(とあったが愛宕山長福寺というお寺さんが近隣に見つからなかった。廃されたのかも?)
・松代城の鬼門除け 寺尾って地名の由来なのか関係ないのか分からないが、このあたり寺が多い
・昭和62(1987)年、周辺河川と道路を改良したついでに石段を移したり、社殿を改修した
後で聞いたが、この近くの神社と何か関係あるとか…グーグル先生におたずねしたところ、中條埴志那神社のことらしい。そこの字が「屋敷」だった。あら寺尾さんの館跡なんですかねえ。
昭和っぽい感じのやつ。階段はけっこう急。
登りきったらお墓が。古いお墓のようで、妙に立派だが文字がきちんと判読できない。多分、身分の高い人のお墓なんじゃないかなー? 見た目がそんな感じ。
奥の竹藪の隙間へ道が続いていたので進んだら、またお墓。こちらも古い。ただ、お参りする人も絶えてしまったか、うらぶれた様子になってしまっている。途中の道も崩れかけていた。この近くに謎の供養塔があるらしく(供養塔自体は見に行ってないので、正体は知らない)、その供養塔に関係あるのかなと妄想した。
東寺尾少年団の何かの記念碑。お墓の近くにあったよ。
ここからが昭和62年の改修以前からある参道のようだ。見るからに古めかしい。
登りきると、また昭和の改修跡。
道に沿って進む。
出た、愛宕社。天狗のお面がちょっと怖い。なんか目がギラギラしてるのよー。天狗関係だから、修験道に関係してるのかな? 私は下品・修羅場なお話が好きなので、御祭神の火之訶具津知神という神様は知ってる。伊邪那美はこの神様を産んだせいで、おまんまんが焼けて死んだ。えっ、と思ったこの死因のせいで印象に残ってる。その後この神様は怒った伊邪那岐に殺されたらしい。なんて不遇な。そんな神様のこと忘れられない。
愛宕神社の歴史は修験道の僧によって大宝年間(701~704)に創建された廟から始まっている。火伏せに霊験あらたかな神社として有名らしい。主祭神は伊邪那美と、伊邪那美が亡くなった時に産まれた神々のようだ。火傷関係の神様を祀る神社だから防火に功能があるのかしらね。
この愛宕社から登山道があるそうだが。ちなみに、こっち側が大手だとか。
周りがこんな感じなのですがね。登れますかこれー?
この時点で、私以外の家族は断念。私一人でちょっと上まで行ってみることにした。
石垣はあるが、これは新しい時代のものに見える。もちろん明確な道はなく、辛うじて獣道らしきものがあるのでそれを頼りに登った。無茶苦茶急。
何かの石灯籠に辿り着いた。この石灯籠は愛宕社からも見えていたもの。更に進む。
段々と石垣は見えなくなり、ごく普通の山の中。急ではない。しかし道はなく、なんとなく歩いている状態。しかし人の手が入っているようで、ところどころ伐採した松の枝を積み重ねてビニールで覆うアレがある。
方向は合ってるんだか分からない状態だけど、とりあえず頂上を目指せばいいんだろ。という感じで高い方へ進む。
なんか…ゴミが落ちていたりして、人が出入りしている様子が残っている。今回ちゃんとした山に登る気がなく、登山道があるみたいだ→整備されてるだろう→距離も短いかも。と思い込み、愛宕社までやってきた。そのため、シャツ・ジーンズ・スニーカーという本格的な山歩きには適さない格好の上、熊除けの鈴なんかもない。やだなー動物いたらやだなーと思いながら歩いていた。人の手が入っているなら、熊以下動物があまり出てこないかもしれないが。その代わり、爺さんがぬーっと現れてもやっぱり怖い。幸いにして、生き物の気配は感じなかった。
なんか気付いちゃったんですけど。ポリタンクみたいなのが木に刺さっている。それがいくつかあって…これは目印なの? 親切な人が置いてったポリタンク、日に曝されて割れてしまって、地面に落ちてたり。でも道順が分かるような程度には配置されているっぽい。
しかしポリタンクはまだ私を手招きし続ける。
なんか急にお城っぽくなってきた? 先に急斜面見えてきた。
先の方に巨大な何かが見えた。
堀切だった。
これを登ろう。
ものすごく急。そして高い。後で調べたら、スロープ状の土橋があったらしい。まともに斜面登っていくのは厳しいわね。
登りきったらお墓が見えたよー。ついに本郭に到達、長かったように感じたが15分くらいで来られるみたいだ。なかなか骨の折れるお城。子供連れて来なくて良かった。
本郭の様子↓
↑例の墓
私が登って道とは反対方向にも上り口があった(こちらは整備されているように見えた、搦め手だと思うけど正規の登山ルートはこっちなのか?)。搦め手側も相当急で降りる気がしませんでした。堀をまっすぐ進んでくる道らしきものは土橋だったかもしれない。
さて、待たせているのでもう下りよう。
↑本郭から見た堀切と2の郭
帰り怖いんですけど。土橋の存在など考えることなく、斜面をなんとか下りた。土橋を下って行った方が楽に下りられたのだろうか?
↑2の郭から3の郭。上から見ると本当によくこんなところ登ってきたな…と感慨深くなる程度の落差。
また現れだしポリタンク。そういえば城域入ったぐらいからコイツを見かけなくなった気がする。
石垣が出てきた。この辺りも急だが、愛宕社が近いので頑張る。ただのスニーカーじゃ、足首痛くて困る。
愛宕社見えた。
無事に下り、愛宕社の参道の石段を降りる。
遠足終了。待っていた家族には「ちょっと見てくると言った割には戻ってこないので、崖下にでも落ちたかと思ってた」などと怒られた。
寺尾城は寺尾氏築城とされる。寺尾さんは諏訪さんの氏族といわれており、それ以上のことはどうやら分からないようだ。
戦国時代には清野氏に従って村上さん側についていたが、天文19(1550)年信濃侵攻中の武田に内通したことがバレ、村上軍に寺尾城を攻められ、陥落。その3年後の天文22(1553)年に武田に敗れた村上と共に越後へ逃れる…というが、3年で随分立場が変わってるねー。私なら一度スパイした奴をすぐには信用しないが。これは武田のスパイという身分のまま越後に送り込まれたということかしら? のちに越後から戻り武田に出仕し、旧領安堵されている(何かしらの働きがあり、その褒美だったのかねー)。武田が滅ぶと上杉に出仕、会津にもついていったらしい。
本郭のお墓、一応戦闘があったので寺尾殿のお墓を建てたのだろうか。当時の城主・寺尾某さんが戦死してるのかな。
★★☆☆☆
こういう素朴なお城好きなんだけど、愛宕社からのとっかかりは子供じゃ無理そう。
<寺尾城>
築城主 寺尾氏
築城年 不明
構造 山城