お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

更科御所?

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佐良志奈神社は、このあたりの地名「更科」と同じく「さらしな」と読む。万葉仮名を使っているかのような名前。創建も古く、神社に伝わる話では允恭天皇の皇子・黒彦王の勧請という。允恭天皇は中国の歴史書「宋書」「梁書」に出てくる倭の五王の済にあたる、と言われている。2つの歴史書に出てくる済は443年~451年(または460年?)に登場している。済の息子さんとされる興(安康天皇)・武(雄略天皇)は462年~502年。黒彦王はこのあたりの時代を生きていた人とすれば、神社の創建もこのぐらいかな?

調べたら、允恭天皇の第二皇子に境黒彦皇子という人がいた。安康天皇の次の皇位継承のゴタゴタで殺されたようだ。この方かしら?

安康天皇は殺されてしまったらしい。そもそものキッカケは、天皇の位にあった安康天皇が自分の叔父さんを誅殺し、叔父の妃を皇后に立てた事。叔父夫妻の子・眉輪王は皇后の連れ子として育てられた。彼はあるとき養父の安康天皇が実父殺しの真犯人だった、と気づいて安康天皇を殺害するという事件が起こった。なんかコレ、似たような話なかったっけ? と色々調べたがよく分からず。シェイクスピアハムレットがちょっとだけ似てた。

眉輪王は境黒彦皇子と一緒に逃げた。雄略天皇が軍を差し向け二人を殺している。安康天皇は後継者を指名せずに崩御したので、境黒彦皇子や他の有力皇子を雄略が一掃してしまったようだ。有名なワカタケル大王というのが雄略天皇とされる。境黒彦皇子は信濃と関係しているという記述は見つからなかったが、この神社の近くに「黒彦」という地名が残っている。

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↓今年は御柱の年(摂社があるらしい)。この神社の神職諏訪大社に奉公していた御縁で、御柱が行われているらしい。

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佐良志奈神社の御祭神は、応神天皇神功皇后仁徳天皇の三柱(それと正体不明の神様が1柱)。武水別神社と同じ八幡神を祀る神社? でも御祭神がちょっと違う。元々は八王子山にあった大鷦鷯命(仁徳天皇)を祀る神社?が仁和3(887)年に地震で倒壊し、麓の若宮八幡宮(佐良志奈神社の前身と思われる)に合祀されたという。この地震は仁和地震というM8~8.5クラスの巨大地震南海トラフが絡んでいるのに信濃もそうとう揺れたとか。東南海地震やばい。合祀された結果、御祭神がちょっと八幡神っぽいのに、仁徳天皇も含まれているちょっと不思議な感じになったのか。もしかしたら、不明の神様が八幡神比売神かもしれないねえ。

八幡神は皇祖神、古墳でおなじみ仁徳天皇は境黒彦皇子や眉輪王の祖父に当たる。創建年は不明だが、延喜式内神社ということで、少なくとも延喜5(927)年までにはあったはず。

仁徳天皇が祀られていた八王子社はこんな場所↓

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5月に景色を見ようとここまで上がった時に獣に出くわしたので、以来行くのは止めた。

 

ここの神社には、もう一つ気になる説明文があった。

正平年間(1346年~1370年)後醍醐天皇の皇子・宗良親王御潜居の折、暫定御所とした。とあった。その遺構が今でも微妙に残っているという。柏王こと信濃宮こと宗良親王だ。柏王神社で寝込んでたあの方。信濃における親王の本拠地は長野県大鹿村で、在住期間は興国5/康永3(1344)年~文中2(1377)年の約30年。正平年間というのを調べたら、は、そのほとんどを指している…。まあ、御所といってもメインで住んでなかったようで、支城みたいなもん?

いろいろ調べていくうちに、正平2(1347)年から数年だけ住んでたという伝承を見つけた。清涼殿にも「更科の里」というタイトルの襖絵があったとかで、姨捨と更科は都にも聞こえた名勝地だったみたい。ちょっと別荘建ててみたかったとか? 宗良親王は和歌がお上手で、更科の里に住んだときに詠んだ御歌もいくつかあるみたいだー。

 

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ここが御所だった、という証拠の一つという。逆修塚。宗良親王に従い、出陣する人々が自らの墓として建てた「逆修塚」と言い伝えられている。

正式名称は宝篋印塔。本来は宝篋印陀羅尼経というお経を納めるために作られた塔であったが、のちに供養塔や墓として建てられるようになった、とあった。宝篋印陀羅尼経というのは、一切の如来の奥深い悟りの神髄と全身舎利の功徳を集積した箱という陀羅尼(一番すぐれている教えを記憶保持する力)、という何かよく分からんが凄いものだったらしいが、私のような凡人には到底理解できそうにない。悟りの奥義をSDカードに保存しときましたよ的なもの?

オリジナルは中国だそうだが、日本にも伝播し鎌倉時代初期から作られるようになった。ちなみに、日本でこの宝篋印塔から宝篋印陀羅尼経が出てきた例はないそうです。日本では最初から墓という位置づけだったのか。

 

この塔の下には「信州若宮 永和二年 六月□□ 契約□□ 四拾五人」と刻まれている。45人分の墓だったのね。永和二年は北朝の年号で1376年を指す。宗良親王南朝の幹部。そんな方が北朝年号使うんかね、というツッコミがあって、南朝方のものかどうかは微妙じゃね? ということになってるとか。

 

メインの更級御所?の土塁跡はこの辺らしい↓

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境内から本来の鳥居までの間は↑こんな感じ。雰囲気あるー。

幹の太い木と不自然な盛り土。このあたりが御所の土塁じゃないかなと思われる。土塁らしきものはずいぶん低くなってしまい、木の根が露わに。

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公園もあったが、家が2軒も建てられそうな平地もあり使われていなかった。どうやら駐車場ということになっているらしいが。車は一台もなし。

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駐車場使用時。

 

本来の鳥居はこちら↓

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文久元(1861)年に建てられた神社の社標↓

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幕末に佐良志奈神社神主の松田(豊城)直友さんが正親町三条実愛さんというお公家さんの知遇を得て、社標の文字を書いてもらったものという。正親町三条家は大臣家(朝廷で兼務なしの内大臣までは出世できる、摂家清華家につぐ家格)で、一般人が簡単に会える身分の方ではない。この方は幕末に討幕派公卿の一人として活躍、討幕の密勅を薩摩藩に渡した人だってさー。

社標の側面は佐久間象山が書いたもの。男らしい堂々とした字で、正親町三条さんの教科書的な字より好きかも。

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松城 佐久間啓 書→佐久間象山。神主の松田さんと佐久間さんはお友達で、この地に佐久間さんが何度か訪れているそうです。ということは、佐久間さんの仲介で正親町三条さんに面会できたのかしら?

神主の松田氏も武水別神社の宮司のおうちと同じ名前。親戚だろうか。ちなみに、直友さんは武水別神社にライバル心を持ち、うちの神社も古い、延喜式に載ってると知名度アップに奔走したとか。それから、近隣から子供たちを集めて勉強を教えていたそう。こういう昔の篤志家って凄いな、と思う。私財や時間を費やして他人に尽くすなんて自分には無理。私のような心の狭い者は、近所のクソな御子様につまらんこと言われたら(このガキの脳みそ飛び出るぐらい石で殴り続けたい)と思い詰められてしまうだろう。まぁ、勉強教えてーってあちこちから集まってくるような子供達だし、みんなきっと志高く品行方正よね、暴言吐かないよね。直友さんの息子さんも国学者・教育者として地域に貢献したようだ。豊城氏顕彰碑もあった。

 

県道77号線側に白い石でできた綺麗な鳥居がある。この辺はたびたび千曲川の氾濫で水害に遭うことが多いようだが(説明板にも黒彦村の住人の移住分村が何度も行われたとあった)、南北朝時代の遺構があるぐらいだし神社の境内は古よりずっと無事なのか。ここの土地を選んだ人凄いな。

 

神社境内から離れると、やっぱり水害多い。20年位前にも一度、県道77号線の道路流されたんじゃないかな?

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水位を監視する施設? 古い建物だけど、今の路面と高さが違う。覗くと見える古い路面と同じ高さ。

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昔、ここに洞窟があって酔っ払いがションベンしに来てしまうのか、洞窟の入り口辺りに鳥居のマークが描かれていたんだけど、今はどこにあるのやら? そして洞窟内部で事故?事件?があったと聞いており、金網で封鎖されてたような記憶が…埋められたか。

 

 

★★☆☆☆

何度か来てる(通っている)が、県道77号線側が神社のメインの入り口だと思っていた。本来の鳥居の方が立派で趣あったのに、今まで気づかず神社にごめんなさいした。

 

 

<更科御所?>

築城年 正中年間(1346年~1370年)

築城主 宗良親王

構造 平城