この鳥居をしょっちゅう車で通っている。そのせいなのか、この武水別神社は「交通安全の神様」として地元では有名で、うちの車にもこの神社のお守りを載せてます。通称は「八幡神社」と言うらしい。八幡神を祀る神社と思っていたが、主祭神は武水別大神だそうだ。
説明板、一昨年の冬と変わってる! この神社、全体的にリニューアルしている。いつの間に。駐車場もあんなに広くなかった。
案内板によると、武水別大神は農業と水を司る神様という。善光寺平の五穀豊穣とこの近くを流れる千曲川の氾濫防止を祈念して、祀られているそうだ。他の御祭神は誉田別命(応神天皇)・息長足比売命(神功皇后)・比咩大神(宗像神)。第8代孝元天皇の御代に創建ということ(創建年は不明、孝元天皇の在位期間も不明、そもそも孝元天皇は実在しないという説が有力…)で、とにかく相当古くからある神社。
誉田別命(応神天皇)を八幡神という。皇祖神のひとつだ。他の息長足比売命(神功皇后)・比咩大神(宗像神)を含めた3柱を八幡三神という。三柱はあとから勧請してきたものという。以後、この神社は八幡神社と呼ばれるようになったものと思う。
古い神社と言うことで、何かの土木工事跡や史跡も残っている。
新しくなった駐車場より。盛り土がよく見えますー。手前は川というか堀跡だったのか。
土塁の状態がよく分かるのは、ほぼ駐車場側のみ。
駐車場とは反対側の端は、こんな感じ↓
土塁的なものはあるけれども、駐車場側に比べるとちょっと物足りない気分…。
近隣の源氏さんたちが結構来てる。信濃源氏の木曽義仲さんも戦争勝利の祈願をしに、ここへ。時代は下って、甲斐源氏の武田信玄さんも来ている(第一回川中島合戦の武田方本陣がココらしい)。ちなみに、ライバルの上杉謙信さんも「武田家滅亡」の願掛けにここを訪れている。
本殿。火事により一度失われてしまうが、嘉永3(1850)年に再建した。
長々と神社の話になってしまったが、肝心の松田館は道を挟んだ隣にある。
松田館は正面奥。持ち主が千曲市に寄贈して、現在整備中だそうだ(平成29年度公開予定らしい)。
そして、人が住んでいるような気配がある。表札もかかっている。
松田家は武水別神社の神主を務めている家である。この建物も古く、寛永3(1791)年以前のものも現存しているそうで。公開されたらぜったい見たい。
近代まで周囲に堀がめぐらされていたそうだが、区画整理やらでほとんどが埋められてしまっているそうだ。
神官松田家の当主・松田盛直は、稲荷山城の守備を上杉家から任されていた。ここから稲荷山城は目と鼻の先。この方、仁科一族の日岐氏(丸山氏)の出身である。日岐氏は生坂村あたりを支配していた豪族だった。上杉家に仕えていた日岐氏は天正10(1582)年に居城を小笠原氏に攻められる。この時、盛直・盛武兄弟で日岐城を守っていたが、ついに落城してしまう。兄の盛直は上杉さんを頼り、弟の盛武は小笠原さんに帰参する。天正12(1584)年、盛直は上杉さんから神官松田家の名跡・八幡神社の神領を与えられ、稲荷山在城を命じられる。
千曲市の発掘調査報告書には、松田館は「16世紀前半を前後する時期の築造と考えられる」とあった。15世紀から16世紀半ばまでの資料はほとんど残されていないようだ。しかし、15世紀~16世紀中ごろまでは桑原氏の支配下?→元亀元(1570)年武田信玄より松田氏が「更級郡八幡、東徳寺」支配の朱印状を受ける→天正10(1582)年の武田氏滅亡から天正12(1584)年は屋代氏→天正12年に屋代氏が上杉家から徳川家に寝返った以降は松田氏に再び戻された。という推測が書かれていた。
16世紀前半の支配者が推測の通りとすると、ひょっとしたら松田氏が築城したのではない? とちょっと思ってしまった。実際どうなんだろうか?
ちなみに、松田氏とは。調査報告書の記載によると相模国出身の家で武田氏に仕え、この地を領有したとされている。地元民じゃなかったのね。
桑原氏は千曲市西部を支配していた有力豪族であったが、侵攻してきた武田氏に敗れ村上氏とともに越後に逃れ、その後は消息不明となってしまったようだ。
そもそも、武水別神社(八幡)は平安末期から石清水八幡宮の荘園となっていた。これは石清水八幡宮から八幡三神を勧請した縁からだと思う。この荘園支配がいつまでであったのか等謎がたくさん残っているようだ。松田館も具体的にいつ、どうして造られたのか、結論が出なかったようだ。
★★☆☆☆
現段階では、見られるものが少なく…。早く公開してほしいです。塀ごしに見た建物は古く立派でした♪
武水別神社は急に思い立ってお参りに行くことが多く、馴染みがある。
<松田館>
築城年 16世紀前半?
築城主 松田氏?
構造 平城