子供を連れて製作体験しに行き、公園の無料駐車場に車を止めておいた。体験終了後は公園で遊んでいて。満足したので車まで戻ろうとしたら、近くで路駐している車とその周りを忙しくウロウロしているおじさんがいた。おじさんは私の車を妙に気にしていることに気付いた。よく見れば公園の無料駐車場の位置が以前と少し変わっており、止めた位置が月極駐車場?になっているような?
まずい、もしかして借り主がいる駐車区画に止めてる!? 怒られちゃう!! と内心慌てていた。子供を急き立て乗せていたが間に合わず、おじさんはこちらに来てしまった。
「ねーこの車、オタクの?」
「ハイすみません」
緊張が極限に達した。が、おじさんは怒らなかった。
「ちょっとクラッチ踏ませてもらえない?」
よーく話を聞くと、お子さんが私と同車種同グレードの車に乗っているが最近調子が悪く(クラッチがどうとか)おじさんもお子さんの車をいじったりしたが原因がよく分からないので、他の車の踏み具合がどんな感じなのか知りたかったそうだ。
おじさんはこの時、会社名の入った車&会社制服で来ていたので、少し安心して話をした。私のものとは製造年や細かい部分が違うので、参考になったか分からないが何か満足していった様子で良かった…というか、私の車なんかよく見かける車種でスポーツカーの類いじゃないのに、よくもMT車だと見破ったな。同グレードのを見かけるたび中を覗き込んでいたのかな? お子さんもわざわざMT探して買ったらしい。とにかくトラブルにならず良かったよ。
東福寺村で唯一合祀されなかった伊勢社。 葡萄畑が広がる場所にあった。
美味そう。
何かの記念碑があったが、何の記念碑か分からず。句碑かなー?
境内には摂社がズラリ。祠や石仏自体は古そうなのに土台は新しめ。
こちらの養蚕社・天神社も覆い屋とか新しめ。
金毘羅さんとか。
本殿はこちら。
やっぱり新しめ。
説明板には、
- 中澤村の村社で大日霊尊(天照大御神)が御祭神
- 第二十二代清寧天皇(雄略天皇の皇子)が草創
- 大同3(808)年、坂上田村麻呂により造営
- 安元2(1176)年、布施八郎が一部造営
- 永禄4(1561)年9月10日、兵火により社殿焼失
- 永禄6(1563)年10月8日、武田晴信(信玄)が自軍の基地として再建、勝利を伏して祈願し「八幡原」に出征したと伝わる
- 中世末期には庶民の間で「一度は伊勢に参拝すべき」という概念が生まれ、村人達がお金を集め代表者が参拝するなどした(らしい。この辺りは字が読めなくなっていた。お蔭参りの説明だと思われる)
- 当神社も地域の人々からの信仰を集めた
- 寛保2(1742)年、洪水で社殿・宝物が流出
- 延享3(1746)年、氏子により再建
- 平成12(2000)年、千曲川堤防工事のため現在地に移転
説明板、水跡でボロボロになっており(去年の台風のせいかもしれない)、下半分がほぼ読めない。多分上記のような内容だと思う。
創建は雄略天皇の次代、清寧天皇らしい。雄略天皇は中国の「宋書」にも出てくる倭王・武だとされ、出土品からもその他資料からも武=雄略天皇がほぼ確実である、とされる。471年には天皇位にいたらしい。雄略天皇は日本国内の有力豪族を駆逐しヤマト政権を成立させ、朝鮮半島まで出兵し高句麗や新羅と戦った(広開土王碑)り、百済国と関係を結んで色々やっていたらしい。どうやらこの時期の日本はイケイケドンドンで、元々朝鮮半島の南にあった任那を足がかりに滅亡しそうな百済とかを併合しようとしたようだ。また雄略天皇は伊勢神宮外宮を創建した。
その次代の清寧天皇は若くして髪の毛が真っ白だったようで、白髪皇子と呼ばれていたらしい。普通と違うから「凄い力があるんじゃないか」という理由で皇太子になった。清寧天皇はアルビノだったんじゃないかと思った。アルビノは人間・動物に限らず、吉兆の印とかで信仰の対象だったらしい。白蛇信仰みたいな。在位5年間子はなく、(雄略天皇を恨んでいると思われる)ハトコ2人を養子にしていた。二十歳ぐらいで崩御。すべて5世紀末の出来事らしい。
大同3(808)年の坂上田村麻呂はもう東北平定を終えていた。都にいたらしい。
東北へ進軍する途中で神社建ててみたよ、ということではないらしい。
安元2(1176)年に増築したらしい布施八郎というのは、布施御厨の主かなー? 鎌倉時代に編纂された歴史書の吾妻鏡の中の、文治2(1186)年3月の記事に「布施御厨」が出てくる。コレが初出らしい。当該記事の内容は<朝廷より、源頼朝の知行国のうち「朝廷への年貢が未納」という荘園等の名簿が到着した。そこで官吏らに催促させた><添付の名簿(荘園名が羅列)>だった。
保元の乱(1156)で崇徳上皇方に付き、破れた平正弘の息子・布施惟俊が父の旧領のひとつ布施御厨に土着したそうなので、年代的に布施惟俊本人かその息子が「布施八郎」だと思われる。
「永禄4年9月10日」は第4次川中島合戦当日で、ここには上杉軍の部隊が展開されており。武田軍本隊から分かれて、上杉軍を挟み撃ちする予定の部隊が八幡原へ向かう途中の東福寺地区で上杉軍とぶつかったそうだ。で、社殿が焼失したのかな。
永禄6(1563)年は第4次川中島合戦と第5次川中島合戦の間の年。「八幡原」は第4次における主戦場だった。第4次以降「八幡原」で戦うことはない。また、この年は群馬県で両者は戦っていた。誤記かね? と思ったけど説明板には「永禄6年10月8日」と具体的な日付まで書かれている…多分戦勝祈願かなんかやった日かなー? だけど激しい戦闘が起こった場所なら拠点化して備えるのは当たり前の事なのかも。
お蔭参り(伊勢神宮参拝の旅)は、
- 戦国時代が終わりに近づき、荒廃した伊勢大社を立て直すために各地で布教活動する
- 庶民の移動制限はキツかったが、伊勢神宮参拝などの寺社参拝目的なら簡単に通行手形がもらえる
- 皆で少しづつお金を積み立てて代表者を決めて旅行させる(積み立てている参加者が必ず旅行できるような仕組み)
- 日本各地から参詣者が集まる伊勢大社のお土産は、農産物の種とか最新の農機具などの品物だけでなく、有益な知識技術、流行、音楽芸能、工芸品、いろいろな話題。農村発展に寄与していた
- もし途中でお金が尽きたり或いはお金ないのに旅行しても、道中至る所で施しが受けられ、そんなに困らなかったらしい
- 信心からの旅行なので誰も止めてはならない、ある日突然お蔭参りしに出かけてもOK
庶民にも神社側にも利益があったため、盛んに行われたらしい。失踪しても伊勢神宮の御札持ち帰れば誰も咎めないし、(道すがらクレクレすれば多分)タダで旅行出来るなんて最高だよ。
寛保2(1742)年8月2日、所謂「戌の満水」で社殿宝物が流出したようだ。去年の台風19号と同じような経過で、江戸(東京)も台風直撃し、利根川荒川多摩川が氾濫→長野県内も大雨であちこちの川が氾濫する、長野県の東北信や中信の一部河川は最終的に千曲川に集約される、主な河川と合流後の千曲川が無敵状態→皆流される、な感じ。
多分、現代より治水技術が劣っているだろうから去年の台風なんかより被害はずっと大きかっただろうし。
この近くでは「洪水怖い」という感じの祠があったよ。
2年後に社殿再建。
武田信玄が拠点化したという話は有り得る気がするけど、神社の元の場所は現在堤防の下らしい。
こんな御神木みたいな巨木も残っているので、ひょっとしたら一部昔の伊勢社跡も残っているかもしれないが。土塁・堀みたいなのは分からなかった。
★☆☆☆☆
もし土塁とか残ってたら良かったなー。
<伊勢社>
創建年 5世紀?
商工会が主体になって運営している(多分)カフェの企画レストラン。
「秋刀魚のグラタン」というメニューがあり、食べる前から恐れおののいていたが…この中で一番美味しかった。あまりにも美味しすぎて、そのお店で売っていた中東の民族衣装を買い、LINEで家族に報告するも「イスラム…?」と引かれた。