中村神社。ここは古く、延喜式内社とされている。
ちなみに信濃国埴科郡にあった延喜式内社の「中村神社」とされる神社は二つある。論社はここと現在の松代町にある神社。どちらがどうなのかよく分からない(多分、地元民以外は関心低いんだろうし)。
明治時代の長野縣町村誌にも、どちらの神社とも「延喜式内社と伝わります!」と高らかに書かれている。が、それ以外の部分、御祭神などは全く違う。以下は長野縣町村誌の記述から。
元は旧西条村南側にある高遠山(現在の上田市真田町傍陽)の中腹、宮ノ平にあった。当時の平地は沼地で住めるような環境ではなかったらしいが、やがて水が引いたために現在地へ移転したらしい。
永禄年間(1558~1570)に兵火のため建物から古記録や宝物などすべて灰になった。現在の社殿は永禄11(1568)年再建(棟札が残っており、そこには領主の西条氏と思われる名前なども書かれていたという)。棟札には「西条大国大明神社」とあり、以前はこの名前で呼ばれていたようだ。
旧社地は寛保2(1742)年(戌の満水が起こったため)崩壊し、現在は跡形もないと伝わる。
「中村神社(千曲市中)」
御祭神 健御名方命
太古の千曲川氾濫により村が流されたために、川の被害が少ない陸地で更級郡内の現在地に移転した。この地は「埴科郡」→「更級郡」→「埴科郡」と属する郡が変わっていった地区だった。後に諏訪大明神社と名称を変え、明治11(1878)年に中村諏訪神社という名前となることが許された。
個人的な印象だと、長野市の中村神社の方が古くからありそうな気がする。
旧西条村は松代町と旧真田町・上田市を結ぶ街道上にあり、寺社仏閣を多く抱えている村。領主の清野氏は鎌倉幕府末期の元弘年間(1331~1334)あたりには旧清野村を治めたと言われているので、それ以前から人が住んでいるはずだろうし…。古代には英多郡に属しており、村落名はずっと変えてませんとのこと。
対する千曲市中は、そもそも村落名が「中村」だしなあ…。「時期は不明だが大昔に千曲川が氾濫し、村が流された。その後、千曲川の流路跡を徐々に開墾していき中村と称する村落を形成していったが、後に中村・向八幡村・小船山村に分裂。明治4(1872)年に再びひとつの村として合併し向八幡村となった」とあったので、交通の要衝だったわけでもなく大きな事件もなく静かに開発された村だったらしい。「古代は埴科郡小谷郷(大穴郷?)に属していたんじゃないかなあ?」という暢気なことも書かれていたよ。村が流されちゃってるから仕方ないよね。
長野市の方が古くからあるぽいし、千曲市の方はなんか来歴が怪しい。そう思う人が多かったのか、式内社一覧などでも長野市の方だけ載せていることがほとんど。
鳥居は以前、この位置にあったらしい。
今ある鳥居もさほど新しいものでもないような感じ。
延喜式内社を名乗るぐらい、幹の太い木が何本も境内にある。欅かな? 分からん。
こちらは銀杏のようだ。
書いてあったからね。
お参りをした。
社殿に装飾はない。なんだかとても近代的な雰囲気よ…。
式内社でないにしろ、境内の様子からそれなりに古い神社であることが確実なのでお賽銭はずんだよ。会社の状況は相変わらず良くないのでねー(にも関わらず東信にある事業所の社員募集していたわ)。
摂社の祠はたくさんあったが、神社の由緒書などは一切ない。
こういうのがあった。
この方は、中村神社の神主家に嫡男として生まれた人。幼い頃から画才に恵まれて地元の絵師に師事し、その後群馬の高名な画家に教えを乞い、上京し絵の修行をしたそうで。地元に戻って画塾を開いて住民に絵を教えて慕われた先生の記念碑だった。なので神社の話とはちょっと関わりないもの。
少し前に近所の保育園の園児が遊びに来ていたらしい。手入れは隅々までされており、地元で大切にされている神社のようだ。ご利益あるかな!!
神社の隣に蔵がある古い屋敷もあったが、神主家ではない様子。代々続く開業医かなあ…? 屋敷の中に何かの顕彰碑があって気になったが、さすがに敷地内に侵入出来なかったわ。
★★☆☆☆
私と入れ替わるように、赤ちゃん連れの親子が遊びに来ていた。居心地がいい。
<中村神社>
創建年 不明