構えの墓屋敷の本体にあたるお城にきた。現在は「法蔵寺」という立派なお寺さんになっている。
↑この山門は長野県宝に指定されているとかで、重厚な造りだったよ。構えの墓屋敷の説明書きにもあったけど、このお寺は江戸時代に入って館跡に移転してきたもの。
お寺さんの案内板もあり、それによると
- 浄土宗知恩院の末寺、永正3(1506)年に吉野梶海渡に創建
- 成相新田宿の建設に伴い、慶長16(1611)年に現在地に移転
- 山門は寛政元(1789)年に伊藤(柴宮)長左エ門らにより建築
- 伊藤長左エ門はこの時代の傑出した工匠で、他に諏訪大社下社春宮弊拝殿や水上布奈山神社本殿(いずれも重文)などがある
諏訪大社で思い出したけど。諏訪大社の春宮と秋宮を同工期・同規模で作らせ、どちらが素晴らしいかと大隅流と立川流で競わせたヤツ、その時の勝負で負けた大隅流の棟梁の人っぽいわ。個人的には負けた方、この山門を手がけた大隅流の派手な感じが好きなんだけどなー。
宝蔵寺は成相新田宿の檀那寺(お布施で成り立っているお寺のことらしい)になった。江戸時代に寮舎が6坊、周辺の村に管理している庵が10棟あったらしい。お寺の規模としては大きい感じなのかな? と思った。
創建時の所在地「吉野梶海渡」という場所は、吉野堀屋敷の近くのようだ。
お寺もちょっと見学したかったのに、子供はお隣の公園がいいとさっさと行ってしまった。
訳の分からんタコの遊具とかあった。この公園も宝蔵寺館の一部なんだろうか。
走って行くあとを追いつつ、頑張って案内柱の内容を写真に収めたよ。
- 戦国時代に武田氏が作った棒道沿いにあり、軍略上・交通上の要所
- 真々部に続いて建設された館
- 武田氏は「もやい堰」という水道を棒道沿いに最短距離で開削し、法蔵寺館と構えの墓屋敷へ導水した
- 館の規模は109m四方で堀が巡らされていたと考えられる
- 寺の記録によれば、東西3町(約327m)・南北1町半(約164m)が城郭であったとされる
- 城主は成相氏と考えられる
公園内でも何か残っていないかなー? と思って探した。
お寺と公園の境に盛り上がりがある。まさか土塁跡なの?
よく分からないやー。
家帰ってぐぐってみたけど、コレは土塁跡ではなさそう。お城の遺構はお寺の本堂裏に残っていたもののみらしい。
この公園、「皇太子殿下御降誕奉祝記念公園」というものらしい。金属の記念柱があった。その柱には豊科町と書かれていた。旧豊科町が公園整備の計画を始めたのが昭和9(1934)年、土地を法蔵寺から購入したのが昭和10(1935)年のようだ。とすると、ここも館跡だったっぽいなー。
記念柱に色んな人の名前が彫られていたから、きっと寄付募ったのかねー? 戦前からある公園のようだけど、遊具は最近設置されたような非常にポップなものだった。
★★★☆☆
お寺さんにきちんとお参りできなかったことが悔しい、遊具が目立つせいだ
<宝蔵寺館>
築城年 不明
築城主 武田氏? 成相氏?
構造 平城