お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

和田城(遠山郷)

陸の孤島遠山郷」に来た。遠山郷といえば、コレ↓

 

下栗の里である。遠山郷の中でも秘境中の秘境みたいなイメージ。ただでさえ遠山郷まで行くの、非常にしんどかったのに。下栗の里までは時間なくて行けなかった(どうしても行ってみたい、という訳でもなかった)。

 

こんな秘境でも領主という立場の人が存在していた。

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和田城の主・遠山氏。

元は源頼朝重臣だった加藤景廉という人が褒美に岐阜県の遠山荘という荘園をもらい、その息子が初代地頭職に就いた際「遠山」と姓を改めて繁栄した。分家が数多く存在し、遠山一族の所領は物凄く広いらしい。ここの遠山氏は有力分家の明知遠山氏の分家だとか言われているらしい。ちなみに、明知遠山氏の子孫が遠山の金さんだそうだ。

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遠山城は静岡との境にある。ヒョー越峠とかいうふざけた名前(正式には兵越峠というようだ)の峠と青崩峠という不気味な名前の峠を行くとすぐ静岡市浜松市に至る。国道125号線(秋葉街道)は大昔からある道で、浜松市秋葉神社(全国の秋葉神社の総本社で火の神・軻遇突智神を祀る)に向かう。塩の道とも呼んだらしい。

ヒョー越峠は武田信玄が行軍したのでその名前がついたようだ。青崩峠(こちらも武田信玄が行軍した)は中央構造線の破砕帯でしょっちゅう崩れており、青い地盤を見せつけ続けているのでそんな名前になったそうだ。

 

酷道としても名高い。地図上の青崩峠を通過する遊歩道が所謂「点線国道」。

 

↑この場所も国道の一部で、酷道趣味の人達には大変有名。

 

ヒョー越峠は実は青崩峠越え迂回路の林道だ(いつの間にか長野県道369号・静岡県道412号に昇格した)。毎年ローカルニュースで放送されている峠の国盗り綱引き合戦がヒョー越峠で行われている。ここも残念な場所として有名で、三遠南信自動車道の一部として建設された草木トンネル(着工1986年・完成1992年)が開通後に地盤脆いと分かり、一般道として使うべく工事し直した経緯があるらしい。

↑北水窪IC。先に見える橋桁も将来に渡って使われることがない。どうするのかねー?

 

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遠山城は郷土資料館になっている。覗いてみたが、誰もいなかったのでそのまま戻った。

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お城は小高い場所にあり、城下町が一望出来る。

このお城の初代は遠山景広という人物で、16世紀半ば築城したと言われている。周りには程野城・中根城(天神ヶ森城)・木沢城・熊野城・高平館・尾の島館(一本松のお城)・八重河内城・長山城(名古山城)・十原城・大町城・満島城と県境に相応しくたくさんのお城があるそうだ。全部遠山一族のものらしい。山間とはいえ、交通の要所だからかなー?

景広は天文22(1553)年には武田信玄の家来になり、天正3(1575)年の長篠の戦いにも参戦、天正10(1582)年の甲州征伐で討ち死にした。

 

二代の景直は徳川家康の家来となり、天正13(1585)年の第1次上田合戦に従軍し3000石を賜った。景直は徳川家康に会ったことがあるそうだ。

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慶長元(1596)年岡崎城で謁見し、酒宴が開かれたそうだ。景直は御飯のお椀を手で覆い隠して食べていたので、家康が後日それを問いただしたところ。「領地は貧しいので、貴人と御飯する時は恥ずかしくなり手で隠して食べる習慣になってます」と答えた。家康が可哀想に思い、その場で+1000石。その上で、遠山氏の家紋を変えるように命じた。

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その家紋が↑提灯に描かれているもの。

景直が食べ終わった椀の上に箸を置いたことから、らしい。「行儀悪い奴だな」と家康に思われてしまったが咄嗟に同情を引くような話をしたので結果得をした、というラッキーなエピソードなのかも? 2代目の時代に遠山氏は全盛期を迎えた。

 

三代の景重は元和元(1615)年家督を継いだが、病弱だったのでその2年後没した。この人は子供が無く、養子を取っていた。養子の小平次と景重弟の景盛で家督争いとなった。江戸幕府が介入して収めようとしたが上手くいかず、結局はお取り潰しとなり滅んだ。遠山氏は一族離散となり悲惨な末路を辿る、と案内板にあった。具体的な話が分からなかったので、ちょっと探してみたところ。

  • 遠山景道(遠山景直の弟)、大河原で石子詰め
  • 遠山景盛、静岡県佐久間町で病死
  • 遠山氏の重臣達(四天王と呼ばれていたようだ)、和田城で虐殺
  • 遠山氏の家族もついでに虐殺(城から落ち延びた先で生き倒れたとかも)
  • 遠山氏の奥方はヒョー越峠を越えたものの、辿り着いた守谷さんちでこの世を去った(らしい)

 

遠山氏が滅んだ経緯は、実は領民に殺された伝説もある。下栗の里では「重税過ぎて領民が大河原峠で領主を殺した」とか「税の重さに耐えかねた領民が幕府に直訴し、それが成功、そして遠山氏の恨みを買い首謀者を殺した、その報復で領民が和田城を攻め滅ぼす」とかの話が伝わり。その話を踏まえて上記の末路があるらしい。

ちなみに、石子詰とは首より下を地面に埋めちゃってその周りに石を置いていき圧殺するという処刑方法だそうだ。戦場のメリークリスマスデヴィッド・ボウイが埋められていたのを思い出したが、ああいう感じかしら?

 

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遠山郷では「霜月祭」という鎌倉時代から続いているお祭りがある。これは国の重要無形文化財として保護されている古いお祭り。湯立神楽というのがメインだそうで、鎌倉時代鶴岡八幡宮の荘園儀礼だったものだそう。中世、遠山郷鶴岡八幡宮の神料地だったそうだ。祭りの名前の通り、デカい釜に湯を沸かすお祭り。

旧暦霜月(冬至がある月)に、太陽の復活と再生をお祈りするお祭りで、釜のお湯を神に捧げ、また天狗みたいなお面を付けた人(神の化身かな?)が釜のお湯バシャバシャ飛ばし、湯を浴びさせられることで万物の命の再生を図る。昔だと神仏のお社へお詣りする前に身を清める=お湯で流す、みたいなことがあったと思うんだけど。多分、そういう奴の発展系かも。遠山郷八幡宮がいっぱいあった。が、今は御祭神も関係ない神社(熊野神社とか稲荷神社とか)もこのお祭りを行っているらしい。

遠山氏が滅んだ直後に、郷で疫病が流行ったそうで。これ遠山一族の祟りだ! と霜月祭に遠山氏の慰霊行事も追加した。とあった。ひょっとしたら八幡神が関わらない神社もこの時湯立神楽の奉納をし始めたのかもなぁ(遠山一族滅んだ部分では関係ない訳じゃなさそうだし)、とちょっと思った。

 

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和田城内には「観音霊水」という湧き水もあり、龍淵寺というお寺さんが管理しているようだ。

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龍淵寺は遠山氏の菩提寺で、遠山一族が滅んだ後この場所に移転してきたようだ。創建から500年経つという古刹らしい。

  • 創建 大永元(1521)年
  • 本尊 聖観音
  • 開基 遠山景広

初代が、尾ノ島という場所に龍淵寺を建てたみたい。

 

尾ノ島館跡というものが遠山郷の外れに残っているが、この近くに龍淵寺の旧地があったのかも。

近くの神社も、

  • 諏訪神社  承久元(1219)年
  • 尾野島正八幡社 弘治元(1555)年、遠山景広が鶴岡八幡宮より勧請

ということで、初代が拠点としたところのようだ。

遠山氏が滅んだ後、慶安4(1651)年に龍淵寺が現在地へ移転。本堂がある場所が本郭らしい。

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本堂の奥には、歴代の遠山氏のお墓がある。

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真ん中の大きいお墓が景直と景重のお墓らしい。

その回りには、景忠(景直弟)・景盛(景重弟)・景則(景重弟)・宮崎半兵衛(代官)の4名のお墓がある。

宮崎半兵衛は元和9(1623)年、幕府がこちらに派遣した代官らしい。それ以前にも代官が派遣されているみたいだけど、収拾つかなかったらしい。この宮崎半兵衛とは、下伊那郡阿智村出身の宮崎氏のことらしい。元は武田家家臣だった家柄で、滅亡後は徳川家の旗本となり最終的には伊那の代官となったおうち。年代的には宮崎重次という人物が当たりそう。この一族出身で徳川家康の側室になった泰栄院という女性がいたり、「重次、慶長4年11月、大権現に拝謁して父の跡を継ぐ」という感じの文言を見つけたり。徳川家康に会える、高い家格みたい。

お墓の後ろの大杉4本は樹齢500年余りだそうだ。

 

この日、ご住職がお掃除していた。とても気さくな方で色々話したい雰囲気だったが、檀家の方もお掃除にみえており、忙しそうであった。

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本来、和田城跡はこっちであるようだ。先ほどのお城を模した郷土歴史館は違う(外観に騙されましたわ)。

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お城の脇から道を見つけた。

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鉄塔管理用道かー。

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ちょっと先に進んでみたかったけど、家族の目が…。

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城下町は遠山氏滅亡後、和田宿という宿場町になったようだ。

 

戦争や都市開発に無縁な山間の町だったせいか、宿場町の雰囲気残ってた。

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和田城の支城たちも残っているらしく、今度は時間あるときに来てみたいなぁと思ったものの、自宅から物凄く遠いのがネック。

 

★★★★★

偽お城に騙されたが、お寺さんは雰囲気良かった

 

<和田城>

築城年 16世紀半ば
築城主 遠山景広
 

 

 

 

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遠山郷の道の駅には川津桜という早咲きの桜が植えられていた。旧南信濃村出身で浜松市在住の人が寄付したという。

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本家の河津桜は2月半ばくらいに咲き始めるらしい。

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信濃とはいえ、山間部だからか3月半ばで7、8分咲きくらい?

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昭和30(1955)年に河津町で偶然発見された早咲きの品種で、花持ちが非常に良く1ヶ月ぐらい咲き続けるらしい。生態はまだよく分からない部分も多いらしい。桜は突然変異の多い植物だとか。1968年頃からあちこちで植えられるようになったようだ。こちらの桜は南信濃村出身の浜松市在住者が平成13(2001)年200本贈ったものだそうだ。

あと、山間部なのでジビエ料理も食べられた!

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鹿カツ。初めて食べたー。