本間城の麓に降りてきた時点で午前11時半。ローカル線は正午ほぼ列車が走らない。11時台の列車はちょうど発車したぐらいで、次は13時台の列車。1時間半くらい時間が出来てしまった。
することもなく本間城の麓の神社に寄ってみた。本間十二社という名前らしい。神社は修復中。
崖のすぐ手前にある。ここは日当たりが悪いらしく、昼だというのに氷柱が見える。解けないのかー。
名前が付いた柱と案内板は先行して造ったらしく、ぴかぴかだよー。
- 創建は寛永4(1627)年、木曽奈良井宿の鎮神社を勧請した
- 当初の御祭神は鎮神社と同じ、経津主命
- 宝永6(1706)年再建、御祭神を改め天之御中主神以下、天神7代・地神5代を祀り、十二神社となったらしい
- 再建時の棟札が遺されている
- 現在の社殿は享和元(1801)年に完成
元和4(1618)年奈良井宿に「すくみ」という疫病が流行り多くの人が亡くなった。村人達が相談し、京都の神祇官の卜部兼英にお願いした。卜部氏は千葉の香取神宮から御祭神の経津主神を勧請させた。経津主命は出雲の国譲りの神話に出てくる神様で、建御雷神と一緒に大国主神に国を譲るよう迫る神様だそう。建御雷神は鹿島神宮の御祭神。
また、鎮神社の創建は元和4年ではなく。近衛天皇の時代(平安時代末期)に奈良井に住んでいた中原兼氏という有徳の人を偲んで建てられた神社だそうだ。平安時代末期の中原といえば、木曽義仲を庇護した中原兼遠が思い浮かぶけど。その人の兄という木曽(中原)兼氏という人物が居り、この方が鎮神社の最初の御祭神らしい。奈良井宿と薮原宿の間にある鳥居峠に最初あり、奈良井村の鎮守神社だったようだ。しかし天正年間、木曽氏と武田氏の戦乱で燃えてしまった。奈良井城主の奈良井義高(木曽義在の子?)が鳥居峠の麓に移し、再建した。奈良井義高は木曽一族だけど、早くから武田信玄に出仕していたので神社の事とか割と簡単に許可されたのかも? で、元和4年に御祭神が変更しちゃったそうだ。
最初の勧請元の鎮神社がそんな変遷なので、本間十二社も何かの理由で御祭神を変更ちゃったらしい。12柱の神様を祀っているから十二社という名前に変わったんだと思うけど、それ以前の名前は案内板に書かれていなかった。
祀られている神様は
らしい。何か、180度方向転換した感じだな。
ちょうど今社殿を修復中らしく、誰もいなかったので白いシートをこっそり捲って中を覗いてみた。上屋の中は解体されていた。壊されたに近い。
とりあえず駅の方角へ歩きながら、途中のコンビニで昼飯を買う。
馬頭観音辺りの石仏だろうか? 幹線道路沿いになんとなく集まっていた。石仏は道の方に向かっておらず、しかし石仏正面は道じゃなくて民家なので、ものすごく不思議な石仏群だった。一応全部すっくと立っているので、打ち棄てられた訳ではない様子。民家側に旧来の街道でもあったのかな? 民家の奥も民家だし、その向こうもコレといって何かあるわけでもなかった。
とりあえずコンビニで弁当を買ったので、それを食べても目立たない場所を探すことにした。お昼時なので、住宅地には人っ子ひとり居ない。静か。
こんな場所を見つけた。ちょうど良さそう。
それにしても「渡るなよ渡るなよ絶対に渡るなよ」と迫ってくるJR長野支社の警告よ。この立地で渡らないなんて有り得るのかね…。この辺りは日当たりの良い斜面にお墓が点在しており、お墓の入り口には必ずJR小海線の警告が立てられていた。建てられたばかりの綺麗なお墓もある。
列車が来ないのは確認済みなので、神社にお参りすることにした。
こちらの神社も丁寧に整備されている。地元の産土神なんだろうけど、こちらは地図にも載っていないし名前が分かるようなものもない。地元の老人クラブが桜を植えたりして大切にしているらしい、ということは分かった。
明治初めのこの辺り(穂積村)の地図を見たら、社と寺があったようだがお寺さんはすでにないようだ。山肌にお墓がたくさんあるのは、お寺さんの名残かもしれない。
ちなみに、この墓地の線路道路を挟んだ向かいにはこんな場所があった。
啓育学校支校、整理学校の跡地らしい。昔の学校ってお寺さんに併設されることが多いような印象があるので、ひょっとしたら古地図にあったお寺さんというのは学校が出来る前、この地にあったのかもしれない。
後で色々調べて見たら「高岩寺」というお寺が現地にあるというのだが、寺らしき建物をここで見た記憶が無い。石柱は昭和55年建立だった。
この石柱には
- 啓育学校支校 明治6年開校
- 明治16年 整理学校と改名す
という情報しかなく、啓育学校や整理学校に関しては良く分からないまま。この地区も穂積村→八千穂村→佐久穂町と合併している(しかも途中で併合したり分割している忙しなさ)ので、明治初期の穂積村の歴史について探してもパッと見つからなかった。啓育学校の本校は今の八千穂駅の北側辺りなのかな? と勝手に思った(穂積村の中心部のような感じ)。
さて、神社は急斜面にあった。
古地図だと、寺(高岩寺?)とこの神社の間には道があり、山の上の集落(荢冷田?)まで続いていたようだが。今は耕作地らしきものが僅かに見える程度で集落は消滅しているようだし、あったはずの道自体もないようだ(耕作地へは別の集落から出入り出来そう)。
急斜面過ぎて腰を下ろすのもちょっと苦労だったけど、見晴らしが良くて気持ちよかった。弁当も美味い! 結局、この神社がどういう来歴なのか分からなかったけど、とても古くからありそうな気がする。
まだまだ時間があるよ…。
集落の真ん中を走る県道2号川上佐久線は、古地図にも太字で描かれているぐらい行き交う人が多い道だったようだ。最初、佐久甲州街道の旧道かなと思ったけど、違うみたい。佐久甲州街道が経由する宿場町の位置を考えると、やはり対岸の国道がほぼ踏襲している感じ。
大正時代建立の道祖神↑
県道2号線もまた、色々な道を合併して出来た路線。県道2号線は所謂「険道」で、途中の旧立原線(馬越峠、元は林道だったらしく狭い)は特に有名。
ネットで立原線開通記念碑を見つけてしまった。その石碑には旧日本軍の陸軍中佐→自衛隊の陸将というエリート軍人の名前と所属・階級が彫られている。彼が立原線とどういう関係があるのか謎。彫られた階級から年代を探ると、昭和39(1964)年~41(1966)年の間に建てられたもののようだ。戦後完成させたものらしい。
天狗岩の前を通るこの道も元はこの地区と南相木村を結ぶものだったようだ。
県道2号沿いに天狗岩という断崖絶壁があるはずなので、時間が許す限りそれをガッツリ観光することにした。
この辺りは千曲川が迫る。しかも川幅が狭い。去年の台風でも崩れたみたいだ。
ここから先が天狗岩らしく、古そうな石仏が安置されていた。古地図には社があったと記されている。
説明板も設置されていた。
- 掛樋と棚橋と秩父事件戦跡
- 天狗岩の岩裾は高岩、穴原、樋口、崎田の4地区用の飲水や田用水の取り入れ口だった
- 毎年のように増水し、川底が削られた為に施設は流失してしまった
- そのたびに水揚口を繰り上げて水を取り入れていた
- しかし、このままではどうしようもないと思い「岩堀」普請を計画して宝永3(1706)年江戸幕府に願い出たが許可されなかった
- 文化4(1807)年、幕府へ直訴を敢行(違法)した
- しかし経費多額を理由に「掛樋」普請に変更させられた
- 掛樋は長さ200間で、その後大正時代までの100年以上掛樋が使われた
- また、ここには道路を造る余地がなかったので岩の割れ目に杭を打ち込み、棚橋をかけて通行した
- 秩父困民党も通り、官軍と戦った
線路に落石がないよう、ガードが堅い。掛樋や棚橋の跡を見たいと思ったけどこれじゃ近づけないね。小海線の前身の佐久鉄道がここに鉄道を開業させたのが大正8(1919)年なのでその年に掛樋と棚橋を廃止したのだろうか。
例の「線路を渡るな」警告があるので、恐らく線路の向こう側に跡があるんだろう。
秩父事件の碑もあった。
棚橋でしか通行できないような場所だし、敵をここにおびき寄せるって大正解なんだろうな。
正直、掛樋と棚橋の方が価値を感じます…。
時間をやっと消費した、列車に乗れる。良かった。
★★★☆☆
本間十二社は修復中だったので、残念だった
<本間十二社>
創建 寛永4(1627)年
御祭神 経津主命→天神7代・地神5代