お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

坂木陣屋

お盆期間に入った途端、くしゃみと鼻水が止まらなくなり。なんのアレルギーだよ、最近新しくなったエアコンのせいじゃないか? などとイライラしていたが、同じ時期から同じ症状が出た人もいて…何のことはない、秋の花粉シーズンが始まったのだ。梅雨明けてから半月くらいじゃないの、油断した。1週間粘ったがどうしようもないので薬飲んだよ。症状も収まった。鼻水詰まる・口呼吸・鼻水をすする→喉が荒れる→喉痛い・咳をする→「コロナ!?」と言われて苛つくといった嫌な思いすることがなくなりそうよ。

 

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現在の坂城駅前に「坂木陣屋」というささやかなお城があったそうだ。

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駅前の説明板には、

  • 元和4(1618)年、金井村(坂城町金井)から杭瀬下村(千曲市杭瀬下)まで(上徳間村、千本柳村、内川村を除く=この3ヶ村は松代藩領)の14ヶ村が幕府直轄領となり、坂木5000石と称される。坂木村に陣屋が置かれ、代官による政治が当地で行われた
  • 寛永元(1624)年から越後松平領
  • 天和元(1681)年、坂木陣屋が建てられる(これ以前は民家を借用)
  • 天和2(1682)年から坂木藩(板倉家)5万石、坂木陣屋が藩庁となる
  • 元禄16(1703)年、板倉家移封、坂木藩領は幕府領となる
  • 宝暦4(1754)年、陣屋機能が中野陣屋(中野市中央)へ移される(坂木陣屋は出張陣屋として存続)
  • 宝暦9(1759)年、陣屋機能廃止
  • 明和4(1767)年、旧坂木陣屋火災で焼失

とあった。

 

坂木陣屋が置かれる以前は広大な川中島四郡(高井郡・水内郡・埴科郡・更級郡=現在の北信地方全域)を支配した川中島藩の一部であったらしい。川中島藩主だった松平忠輝という人がやらかし続けて、元和4(1618)年3月に正式に蟄居を命じられた翌月に天領となったようだ。松平忠輝さんは没後300年の昭和59(1984)年、徳川宗家から赦免されたってさ。何をやらかしたらそんなに怒られるのだろうか。

 

寛永元(1624)年、越後高田藩の藩主に松平光長という人が就任すると、高田藩の飛び地となる。越後松平家は家格が高く、御三家に次ぐ家柄だったようだ。延宝2(1674)年、松平光長の唯一の男子後継者が急死し孫もいなかったのでお家騒動となる。幕府が再審したりで裁判が長期化してしまい、飛び地の坂木は松代藩が管理していた。延宝9(1681)年ようやく越後松平家の処罰が決定する。高田藩領はすべて天領になり、これ以後は旧高田藩領=懲罰人事・左遷先となる。天和元(1681)年には当時旧高田藩領を管理していた松代藩が新築で陣屋を建てている。

 

翌年の天和2(1682)年、元老中の板倉重種の左遷先を作るために、坂木藩(5万石)が成立した。元和4年の天領時代は坂木5000石だったのに…急に10倍になった理由が謎で4.5万石分の領地は? と思って探してみた。坂木藩領の飛び地がいくらかあったらしい(軽井沢とか中野とか)。元は幕府領だったものばかりで、とにかく5万石になるようあちこちからかき集めてきたようだ。元禄16(1703)年に坂木藩消滅。再び天領となる。

 

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道路から少し高くなっている部分が坂木陣屋跡?と思われる。

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石垣が名残だというが…コレ↑のことかね? そんなに古そうには見えないんだけど?

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何か水路もあるらしいが、これは堀跡かねー? 用水路はちょうど石垣の前を通っているし。

というか、坂城駅前の道路が堀跡なのかな?

 

石垣もごく僅かしか残っていないようで。

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その石垣も地面に吸い込まれていくように、どんどん消えていった。

 

陣屋跡に建つ住宅地と堀跡?のような低地の境に、古そうな石垣が僅かに残っていた。

 

ストビューで周りを見れば、なんかそれっぽい石垣はいくつかあるねー?

 

享保9(1724)年、北信濃天領を統括する代官所の一元化が始まる。以前から天領を管理する代官の不正などが問題化し(水戸黄門に出てくる「御代官様」みたいな奴が現れるようになる)、少しでも評判の悪い代官はすぐクビになったそうだ。貞享4(1687)年には大規模な人事異動があり、悪代官の多くが粛清された。以後代官は治めている領地民の評判を気にして、無茶なことする人がほぼいなかったらしい(享保の改革で農民の税が増えたが、将軍が暴れん坊の次の人に代わった頃には現場の判断で代官が勝手に減税したりして領民を助けていたらしい)。

宝暦9(1759)年、北信濃天領は中野陣屋に一元管理されることとなる。幕府は統廃合で人件費削減しようとしたらしい。

明和4(1767)年旧坂木陣屋が焼失。「横町の大火」という名前の火災で、陣屋の南西側の横町という横に広がる地区が燃えちゃったらしい。ちなみに陣屋の北東側は立町(たてまち)で、こちらは縦に延びた地区だった。

焼失を免れたらしき坂木陣屋の門がこれ↑らしい。移築されたとか。見た感じからも難燃性っぽいね。

 

 

安永7(1778)年、中之条(坂城町中之条)に陣屋が置かれる。場所はこの道の先で、現在は住宅地となっており面影はないそうだ。

坂城町に陣屋が再設置された経緯は詳しく分からないが、坂城町内の「坂木」と「中之条」で陣屋誘致合戦が行われたらしい。代官は領民からの評判が悪くなると罷免になるシステムだそうで、逆に言うと領民に優しくして支持を得れば偉い人からの評価も高くなる。領民的には代官が近くにいた方が暮らし向きが良くなるという、水戸黄門に慣れ親しんだ我々には不可思議な理由で、「陣屋を建てて欲しい・再建してほしい」という要望が後を絶たなかったようなのだ。

誘致や再建の嘆願は幕府がやりたい代官所や役人数の削減とは真逆なので、佐久の御影陣屋が出張陣屋として中之条陣屋の管理下に置かれたり、人員を極端に減らしたりしてやりくりしていたようだ。そのため代官は激務だったらしい。旗本としては最下級の人が就く仕事だったので、給与も仕事量に見合わない様子。

中之条陣屋の管轄は坂木5千石に加えて佐久・小県辺りに点在する幕府領まで含まれるようだ。広い。

 

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坂城駅は貨物列車の基地にもなっており、運ばれた石油をタンクに移す作業?(タンク車の下腹に管だかを接続させて移していたような気がする)とかやってた。 

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あの奥のオレンジ・緑の電車も有名な奴。現役の時に乗ったことがあるけど床がベコベコしていて抜けそうだった怖い電車。あいつは私より一回りも年上だったようだ。もう動かない。だいたい今この路線走っている主力の電車達も年増の私より年上だそうだ。そりゃ新車万歳って感じになるわ。

 

★★☆☆☆

説明板付近より少し離れた住宅地を見て回った方が分かりやすい?

 

 

<坂木陣屋>

築城年 天和元(1681)年*1

築城主 真田幸道*2

*1:元和4(1618)年~天和元(1681)年までは民家を借用

*2:陣屋を新築した時の松代藩

染屋城

染屋城は初代信濃国府(推定地)のすぐ近く、染屋台地の端っこにあった。

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何気に立派な看板があった。観光客がふらっと来て見つかるような場所じゃない。マニアが地図を確認してやってくるような、住宅地の奥の奥にあったよ。

 

  • 染屋城は「大熊屋敷」とも呼ばれ、真田昌幸重臣「大熊氏」が上田城の東の守りを固めるために配置した城館、と考えられる
  • 豊染英神社が祀られる主郭には土塁が残る
  • 東側は空堀がある
  • 2の郭には帯郭を設けている
  • 帯郭の先には急な崖があり、要害となっている
  • 第2次上田合戦(関ヶ原の戦い)の際には、徳川秀忠が染屋台に陣を置いた
  • 眼下に上田城が見える、この染屋城が着陣の地と推定される

 

真田昌幸重臣の大熊氏というのは、大熊常光という人物のことらしい。大熊氏は元々信濃国高井郡大熊郷の領主だったが、戦争で国を追われた一族だった。常光の祖父に当たる人物が越後守護の上杉家に仕え、父の代には越後上杉氏→守護代長尾氏(→上杉謙信)→甲斐武田氏という感じで仕官先を替えていった。子の常光は同じ武田氏の家来だった真田氏の家臣となっており、武田滅亡後も真田氏に従ったようだ。常光は真田信之の家老だったみたいで、第二次上田合戦には真田信之配下(東軍)となっている。なので、染屋城には東軍の陣が置かれたということらしい。

「大熊屋敷」と呼ばれているそうだが、こんな立地条件(初代信濃国府があったような大きな街の近く・高台にあり眼下の街道や敵の動向など見渡せる・広い平場が確保できる)なので、大熊さんの屋敷以前から何かあったんじゃないの? と思っちゃう。 

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本郭にあるという神社は「豊染英神社」といい、染屋台の「染」と住所の小字の「英」、おめでたい漢字の「豊」を組み合わせた社号なのかな? 明治2年に改称しているらしい。その前は諏訪社と呼ばれていたようで、御祭神は建御名方命。明治6年村社に昇格。

創建年は不明だけど1600年には神社がなかった(はず)であること、1795年に再建された記録があることから、江戸時代初め~中頃には存在していたらしい。また、寛文5(1655)年に江戸幕府が全国の神社に出した通達の写しが神社に残っているそう。

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本郭↑ 周りより高い。

 

周囲の様子↓

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3の郭方面。中央辺り、カーポート(左側)と家(右側)辺りから3の郭になり、その手前には空堀があったみたいだ(現在は埋められているみたい)。

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2の郭。

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左・本郭、右・2の郭。

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航空写真↓と比較すると

木が多い茂っている部分は崖になっているらしい。見た目なんかかっこいい。

 

上田城を見下ろす2の郭の下は、↑こんな状態。細い道が通っている。強引に車道にしました的な。染屋台地から崖下の平地へ降りるための、古い時代から存在していた道のような雰囲気よ。

 

 

細い道から2の郭を見上げると、段みたいなのあった。説明板にあった「2の郭に設けた帯郭」というのはこれかな? 崖下へ続く細い道も段郭を改造したものなのだろうか。

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本郭を取り囲む空堀跡と言われている遊歩道↑

 

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豊染英神社の社殿。

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本郭内、社殿の左側は盛り土だった。ここは櫓台跡らしい。今は祠がある。

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境内社は、阿夫利社・金比羅社・皇大神社・天満社・豊岩窓神社(別の場所から移転)がある。どれがどれかは分からない。

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櫓台の向こうは森のような場所で、樹齢300年余りの欅があるとか…。江戸時代半ばの1700年頃に生まれた欅だ。

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↑本郭より上田城方面。木が邪魔で何も見えない。

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境内は緑が多く、蚊も多かった…。暑い。
 

 

★★★☆☆

銀杏の種の部分が大量に落ちていた。夏は薮蚊で大変だが、秋も秋で臭そう。

 

 

<染屋城>

築城年 不明

築城主 不明

信濃国分寺

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聖武天皇天平13(741)年、日本の各国に建てさせたお寺。僧寺と尼寺はセットで、それぞれ正式名称は「金光明四天王護国之寺」(僧寺)と「法華滅罪之寺」(尼寺)というそうな。当然、信濃国にも建てられていた。各国の国分僧寺のトップが奈良の大仏がある東大寺だって。尼寺は西大寺かと思ったら、法華寺というお寺さんだそうだ。

ちなみに、

という関係みたい。この3つのお寺さんはとても関係が深いみたい。

 

天平6(734)年、畿内七道地震という大きな地震があった。マグニチュード7程度らしい。天平7(735)年~天平9(737)年の2年間にかけては、日本は天然痘の大流行により、総人口の25~35%の死者(100万人~150万人と言われている)を出したそう。天然痘で当時国のトップだった藤原4兄弟は全員死ぬ(神亀6(729)年に4兄弟に殺された長屋王の呪いでもあるらしい)。反乱もあったりした。

そんな感じで平和じゃなかったから、国分寺国分尼寺を建て大仏を建立することに決めたらしい。御仏の功徳だろうか、その後天然痘は撲滅されている(今ソレまいたらどうなるんだろうとか私性格悪いからソワソワしちゃう)。

 

国分寺国分尼寺の立地も条件があり、

  • 南西向き、水害等が自然災害が少ない、寺の伽藍等建物が映える場所
  • 街からは少し離れているが交通の便が良い場所で、条里制区画(1辺が1町(約109m)の正方形からなる、碁盤の目のような区画)の制約を受けられる場所
  • 国府が近い(国府国分寺国分尼寺を管理する)

これを満たせる場所じゃないとダメみたい。奈良時代の日本の人口は推計500万人、現在の人口は約1億2600万人で人口密度が全然違う。土地探しは意外とすんなり進んだのかも?

 

 

昭和54(1979)年の航空写真もほぼ同じような姿で映っていた。「信濃国分寺」というお寺さんは現在も存在しており、長年「奈良時代に建てられた信濃国分寺も同位置」とされていた。

大正11(1992)年「仁王堂跡と呼ばれる場所が古代の信濃国分寺ではないか」という説が発表され、調査した後に信濃国分寺金堂跡として国史跡の指定を昭和5(1930)年に受けた。翌年の昭和6(1931)年には詳細な調査結果(金堂跡を確定、講堂跡・中門跡・塔跡×2の存在を示唆)をまとめた書物が刊行された。

信濃国分尼寺については当初、旧丸子町にあったとされていたが、昭和19(1944)年地元に残された古文書の調査により「国分寺の隣にあった」ということが分かったという。どちらかというと、戦時中に学術調査やっていたことに驚いたわ。

 

とにかく線路邪魔。せんとくんが物議を醸していた頃、平城京跡見に行ったことがあるが、宮城跡内部に線路が敷かれ電車走っていたよ。上記の「国分寺国分尼寺の立地条件」に合うような災害リスクが少ない土地だから、電車走らせちゃうのかね。

信濃国分寺跡を横切る鉄道は明治21(1888)年に開業している。線路の下には国分寺の中門跡がある、と推定されている。

現行法の文化財保護法の前身にあたるものの一つに「史蹟名勝天然紀念物保存法」という、大正8(1919)年施行の法律があり。その法律の目的が「鉄道などの建設で土地開発が盛んになる→そのせいで史跡や名勝など主に土地に結びついた文化財の多くが破壊される→それら記念物の保存活動が起こったため」だった。この目的にガッツリ当てはまっている。昭和5(1930)年に大規模調査せずに指定したのはこれが理由じゃないだろうか。

昭和30年代半ばになると、この一帯に開発の波が来る。地元地権者が反対集会を開く中、国が絡んだ大規模な緊急発掘調査が戦後の昭和38(1963)年から昭和46(1971)年に行われた。この調査では大きな成果を得ることが出来、「とんでもないものが現れた」としてむしろ整備して保存しようと地元民の気分が変わっていったそうだ。国分寺跡の歴史公園としては全国初ということで前例がなく、文化庁の補助事業では範囲が広すぎてお金がかかりすぎ、建設省(当時)の都市公園事業として補助金貰って整備することになったようだが、目的は「史跡保存」。文化庁からも補助金をいただきましたよ。二つの省庁間の調整とか都市公園に必要な施設と文化庁の認定する史跡保存の基本設計との兼ね合いだとか、色々と決めていきましたよ。と上田市の報告書に書いてあった。

 

この大規模発掘調査では、国分寺国分尼寺について少なくとも平安時代初期(9世紀)までの存続が確認されたらしい。

伝承では平将門の乱(935~940)のうち承平8(938)年に起こった平将門平貞盛の合戦で燃えたというが、発掘調査結果とちょっと時期が合わないようだ。ちなみに、平将門平貞盛は父方のいとこ同士。平貞盛の母方の叔父・源護と平将門(この二人は「娘さんを下さい」「嫌だ」で揉めたとか?)が抗争状態となり、双方の縁者の平国香平貞盛の父)が巻き込まれて亡くなったという物凄く狭い世界の争いが千葉で起こり、それが大事になり国家に対する反乱になったみたい。途中から何故争っているのか本人達も分からなくなってそう。生きるって大変だと思った。

和平路線の平貞盛は国に調停をお願いしようと千葉から京に向かう途中、追ってきた将門と信濃国分寺付近で戦闘になったそうだ。で、信濃国分寺が燃えたという。

発掘調査では、国分寺が兵火で焼失した痕跡が見つからず、単に国の荒廃→寺の資金不足で衰退したのではないか、と推測されている。

 

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国分寺のみ移転(再建?)されて、数百メートル別の場所に存在している。移転時期は分からないが、現国分寺にある一番古いモノが鎌倉時代末期の作と推測されるようで、鎌倉時代の半ばくらいには移転していたのだろうか。

 

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場所は、僧寺と尼寺の間にある通り~尼寺の敷地内の庭辺りと思われる。あんまり良く分かっていないんだわ。

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尼寺には敷地を区切る塀があり、その塀跡にはドウダンツツジを植えた。と説明板にはあった。上の写真でいうと左手にちょっと見えている低木である。スズランに似た感じの白い花をつけるみたい。よくある庭木だよ。

尼寺の塀が築地塀(土塀)だったのか板塀だったのか平成26年現在確認中です、とあった。また、僧寺は100間(約178m)四方・尼寺は80間(約150m)四方と推定されるが確認中です、だって。線路も国道も敷地内を横切っているからこれ以上調査しようがないのかも?

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国分尼寺の庭跡。

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↑ほとんどの建物跡が線路の向こう側。

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↑区画されている尼房跡の一部。

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尼寺へは地下通路が有る。建物配置見る限り、僧寺と変わらなさそう。

 

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ここもドウダンツツジが植えられており、塀跡のようだ。この先は国分寺跡地みたいf:id:henrilesidaner:20210315110153j:plain

敷地跡内部の様子↑

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国分寺跡と国道18号の間には太めの欅など、それなりの樹齢の木があるんだけど。ここ史跡公園として整備される以前はなんだったんだろう。調べると、鉄道路線より南は桑園と畑、鉄道と国道の間は水田だったようだ。国道18号線、明治18(1885)年に国道5号線「東京より新潟港に達する路線」として存在しており、ひょっとしたら明治時代に植えられた欅かもね。北国街道はここよりもう少し川に近づいた場所(一部新幹線に潰されていたよ)にあった。

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国分寺跡は復元された建物など一つもなく、広場だった。

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石の列があったりして、礎石を示しているのかな? と思ったり。

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あんまり関係ない?

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講堂跡だって。お坊さん達が講義を受けたり集まる建物だそうだ。

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こういうのは礎石っぽいなー。

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塀すらどんなものだったのかハッキリしないようなので、建物の様式も分からないんだろうか。

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どこの説明板にも↑こんな感じの図しかないんだけどー。

 

一番古い説明板と思われるものには、

  • 昭和38(1963)年から46年にかけて8回発掘調査を行った
  • 僧寺(金光明四天王護国之寺:こんこうみょうしてんのうごこくのてら)と尼寺(法華滅罪之寺:ほっけめつざいのてら)の全容が分かった
  • 僧寺跡では、中門・金堂・講堂・回廊・塔・僧坊の遺構が明らかになった
  • 南大門の位置が推定された
  • 100間(約177m)四方の敷地に南大門・中門・金堂・講堂が南北一直線に並ぶ
  • 中門と講堂は回廊(複廊)で繋がる
  • 金堂の東南に塔、東に僧坊
  • このような伽藍配置を東大寺国分寺)式と呼ぶ
  • 金堂(現在でいう本堂)には釈迦牟尼仏が安置
  • 塔には金光明最勝王経(法舎利)が祀られた
  • 講堂は法を説き、経を講ずる場所
  • 僧坊は宿舎(寮)
  • 発掘で、古瓦・須恵器・土師器・硯・鉄釘が出土
  • 八葉複弁蓮花文鐙瓦と均正唐草文宇瓦は東大寺平城京跡で出土したものと同じ
  • 「伊(=伊那?)」「更(=更科?)」など郡名を表したような文字瓦もあった
  • 出土したものは「信濃国分寺資料館」に展示
  • 遺構は埋め戻しによる基壇復元方式がとられている
  • 建物跡の表面をソイルセメントで覆い、玉砂利などで区画した
  • 塀跡はドウダンツツジを植え、視覚的に分かるようにしてある

とあった。

 

ここで出土したという「八葉複弁蓮花文鐙瓦」みたいなの、状態の良いもの(東大寺から出土と伝わる)が奈良国立博物館にあるようだ。こちらは「複弁八葉蓮華文軒丸瓦」という名前で、名の通りの柄だった。鐙は馬に騎乗する際、脚をかけるアレ。

八葉の複弁の蓮花の文様が書かれた鐙(みたいな丸い)瓦、ということかなー?

「均正唐草文宇瓦」は扁平なUみたいな形で、均整の取れた唐草文(どろぼう柄と我が家では呼んでいるが、本来は子孫繁栄を願う縁起の良い柄)の軒(宇)瓦。軒瓦は唐草模様が多いらしい。

平城京式というと、上記二つの瓦のことをいうらしい。軒丸瓦と軒瓦(軒平瓦)はセット。京にある東大寺と同じようなお寺を各国に作ったということらしい。

 

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ついにお寺の中心部まで来た。あれが金堂跡のようだ。

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僧寺の本堂で、ここに仏を安置していたと思われる。今の信濃国分寺の御本尊は薬師如来という病気平癒に御利益がある仏だった。じゃあ、全国の国分寺薬師如来なのかしらー? ざっくり探したところ、薬師如来が最多で、他に釈迦如来聖観音虚空蔵菩薩などだった。ものすごく死んでる天然痘対策として、御本尊は薬師如来になったのだろうか。ちなみに、東大寺の大仏は毘盧遮那仏という宇宙仏(仏の中の仏、ということらしい)だった。とにかく薬師如来さん、お釈迦様より偉い仏だって。

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金堂は線路にぶった切られていた。悲しい。

史跡公園としては初期に整備された場所と思われるが、いま主流の方法(とにかく元の形に戻す、創建当時と全く同じ見た目・工法で建て直す)とはちょっと違うので(それでも当時は本気出したはず)やっぱり物足りない。復元建物なし、基壇がセメントで固められているし。
 

★★★★★

子供は非常に気に入ったようで、なんでだかずーっと走っていた。

 

 

信濃国分寺跡>

創建年 天平13(741)年以降

 

 

 

信濃国の一番最初に置かれた国府上田市内にあった、というのが定説で、その根拠はいくつかある。ひとつに「国分寺国府の近くに置くこと」という決まりがあり、信濃国分寺上田市内にあったこと。他には「信濃国総社(推定)がある」というのもあるが、具体的に国府が何処にあったのかは分かっていない。

1984年刊行の「創置の信濃国府跡 推定地確認調査概報 Ⅱ」という報告書を読んでみたが、調査結果は芳しくなかったようだ。

ちなみに、(上田の次に?)国府が置かれたと言われる松本市内でも発掘調査の第1次報告書が1983年に刊行されていた。松本の国府跡は発見されていないらしい。

上田も松本も、この後発掘した様子がなかった。

 

松本の国府発掘調査報告書では「(上田の)前期国府は約83年間、(松本の)後期国府は約546年」とあった。結構長い期間松本には国府があったのに。信濃国から一瞬(約10年)だけ独立した諏方国の国府も含めて、国府は発掘されていない。鎌倉初期から国衙国府)は長野市の後町(善光寺の近く)に移ったが、それも発掘されていないようだわ(後町小学校跡地を掘っていたけど、国衙跡ではなかったようだ)。

建武2(1335)年、国衙は兵火で失われる。再建されず。

諏訪大社(上社)

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久しぶりに観光地へ行った。

今回ついに!

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↑これがやっと全部集まったんだよー!

プレミアムカードも毛無峠(グンマーを代表する秘境として有名)・釜トンネル(急勾配のトンネル)・碓氷峠トンネル(明治生まれの鉄道用トンネル)・大平トンネル(トンネル…?)もすべて貰った。

 

下諏訪駅に併設している観光案内所に鉄道グッズがいっぱいあった。ここもカードの配布場所だった。

 

案内所のお爺さんは人好きな様子で、色々話した。やはりコロナのせいで「やっとカードを集められるようになったんですよ!!」とカードもらいに来た人が、私の他にもたくさんいるようだ。下諏訪町の観光地について聞いていたが、私、諏訪湖周辺に来たらほぼ下諏訪をウロウロする。岡谷とか諏訪市内には行かない。しかし今回初めて来たように装った。

 

観光案内所の隣はこんなだった。

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マニアには喜ばれそう。

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↑これが分からなかったんだけど、国鉄の切符発券システムをマルスというらしく。この本?は1985年から稼働開始のマルス301のM型端末というものに付属している、到着駅を選ぶ機器のようだ。電話交換機みたいに到着駅の穴にピンを差し込んで発券させるらしい。原始的なモノだけど、初めてオンラインシステムで全国津々浦々の国鉄駅までの切符を販売出来るようになった記念すべき機器だそうだ。このシステム登場する以前はどんな感じで切符売ってたのか想像もつかない。全部手書きだったのかな、大変だね…。

 

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ようやく運行再開した新造船も乗ってきた。3月運行開始で4月の終わりから5月いっぱいまで運休だった。水陸両用バスに至っては6月末までやっていなかった。

 

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ちょっと波があるような気がするけど、観光船は当たり前のように動いていた。

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↑操舵室。先客がいて近づけず。

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ほぼ全員マスク。日本人は対人恐怖症の人が多い(文化依存症候群ということらしい)ので、周りがマスクしていると自分もやらないと気が済まなくなっているのかな。そんな私も落ち着かないから派手な布マスクで威嚇している。

 

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その後、諏訪大社上社の前宮に行った。諏訪大社に参拝と言っても秋宮と春宮ばかりなので、こっちは初めて来たよ。

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↑溝上社

高志奴奈河比売命を祀る祠のようだ。建御名方神の母親にあたる。

 

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こんな感じの場所。

神殿跡は現在何もない。元は諏訪大社大祝の始祖と伝わる有員が初めて職に就いて以来の、大祝代々の居館跡らしい。建御名方神が8歳の童男に自分の衣を着せて「この子供が私の依り代」と宣言し、子供自身を信仰の対象とした。この子供が初代大祝の有員とされる。代々の大祝職は建御名方神の化身(現人神)として崇敬されていたが、明治になってからは「御神体は守屋山」にされてしまった。「理由は察せ」という感じの、大人の事情なんだろうかねー。

守屋山は物部守屋ゆかりの地だそうだ。古代の有力氏族で蘇我氏に滅ぼされている。物部氏の本拠地は大阪だけど、何故長野に…?

蘇我氏物部氏の戦いは丁未の乱と名付けられているが、負けた物部守屋の次男の武麿という人が諏訪大社付近に落ち延びてきて、神長官家(守矢氏)に婿入りしたとされている。この辺りには物部守屋の後裔を名乗る家がいくつも存在しているらしい。

一方で、諏訪大社の元の祭神は洩矢神(もれやのかみ)とされ、これが守矢氏の先祖ともされる。名前似ているしね。洩矢神は出雲からきた建御名方神に敗れ、諏訪大社の祭神の座を譲ったと言われているようで。守矢氏も祭祀職を大祝家に譲って諏訪大社の事務を司る神長官となったと言われている。こんなところでもひっそり国譲りしていたようだ。

諏訪大社の4つの社のうち、最も古いものが前宮であることは、上記の内容でなんとなく気付いた。前宮→本宮→春宮・秋宮(2社は同格)の順で増えていって、4社の総称が「諏訪大社」だと言うことまでは分かるんだけど、なんのために4つになったのかまでは分からず。調べてみたら、誰も分からないらしい。仮説が20個以上あるという。

 

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日本国内で最古参とも言われるような神社だけあって、大木が多い。原始的な雰囲気で、何故か親しみやすさも感じる。明るいから?

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↑この建物は「十間廊」といい、中世まで諏訪祭祀の政庁の場だったそうだ。ここで貢ぎ物を受けたという。 

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前宮の本殿。前宮の位置づけは、本宮の摂社(諏訪信仰発祥の地とはいえ、社殿は本宮に移転したので旧地となる)だったらしい。仮屋という、大祝就任の前に精進潔斎する建物があったが昭和7(1932)年に取り壊し、代わりに伊勢神宮からの古材で作った本殿を建てたそうだ。式年遷宮があったのかな? と思ったら昭和4(1929)年に終わっていたらしく、伊勢神宮の内宮とかのお古ではなさそう。でも、伊勢神宮の神様達が勝者でお諏訪さんは敗者なのに伊勢神宮の部材は屈辱じゃないの?? と思っちゃう。

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ここにも立派な御柱が並ぶ。そういえば、前回諏訪にきたときは御柱の年だった。

古い神社らしく、お清めの川も流れている。「水眼(すいが)」という名前がついているそうだ。「山中より湧出する清流は云々」と説明板にあった。山中というのは守屋山のことみたい。さっきの看板にも↓

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守屋山の中腹に「水眼」って書いてあったわ。

守屋山を越えて行く峠は「杖突峠」という名前で、この峠道は古東山道の一部だったようだ。名前の通り、杖を突かないと登れない急坂だったみたい。最初の古東山道は神坂から信濃入りして伊那→諏訪→佐久→碓氷峠で上野へ。というルートだったようだが、大宝2(702)年には善知鳥峠(筑摩)経由となり、神坂→伊那→松本→上田→小諸→軽井沢→碓氷峠という今日よく知られたルートになってしまった。

ただ、杖突峠は日本百名峠にも選ばれるほど景色の良い峠として有名らしい。

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展望台は封鎖されていたが、峠の頂上は県外ナンバーの車・バイクが多く賑やかだった。

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上手くすれば諏訪湖も眺められたらしい。コロナのせいだ。

峠道は車の通りも多かったのに、タイヤ滑らせながら降りていくスポーツカーもいた。

 

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鎌倉時代の道も遊歩道として整備されているみたい。興味あったけど、「えっやだよ」の一言で行かれなくなった。

 

前宮は明るい素朴さが売りな神社だったけど。

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本宮はいかにも歴史ある神社という荘厳な雰囲気を漂わせていた。

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明治時代まではここの場所が表参道だったんじゃないかなー? 今は別ルートが表参道っぽくなっている。

神宮寺やお堂など多くは現在存在していない(神宮寺は地名で残っているだけ)。法華寺は数十年前に再興されたようだ。

 

法華寺は歴史あるお寺さん。

  • 弘仁6(815)年、最澄により開山と伝わる
  • 天正10(1582)年、織田信長が武田討伐戦の論功行賞を行った場所。ここで、織田信長徳川家康とか家臣が大勢見ているのにドン引きするレベルで明智光秀を殴る蹴るした。その恨みで本能寺の変が…? という曰く付き。なんだ大河の聖地だったのか。
  • 元禄14(1701)年、赤穂藩主・浅野長矩江戸城内で吉良義央に斬りかかった。有名な忠臣蔵のアレ。吉良義央の孫で養嗣子だった吉良義周という人物が眠る。吉良義央の奥様が上杉富子といい、上杉家の出身。上杉家では上杉富子の兄である綱勝(享年26)が胃潰瘍?で急死し、後継者がいなかったが慌てて甥にあたる吉良家の長男(当時2才)を養子に仕立てることにした。末期養子を禁止していた幕府も折れて上杉家の存続は許したが、反則の罰として上杉家所領を半分にした。ちなみに吉良家は足利氏の庶流だけど足利宗家の当主にもなれるという家格の家(権利を持っている名門ではあるが没落した)で、先祖を辿ると関東管領の上杉家・今川家・武田家・北条家という有名戦国武将のおうちとも繋がっている。上杉家に養子に出された長男・上杉綱憲の子は男子のいなくなった吉良家に養嗣子として戻され、吉良義周に。赤穂事件で吉良義周も罪を問われ、吉良家はこの人で断絶。諏訪に流罪となり諏訪藩に幽閉。自殺の恐れありとして厳重に管理されたが、21歳で亡くなる。法華寺に葬られた。
  • 平成11年放火された。

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明治時代にガッツリ神宮寺たちが壊されて、諏訪大社上社本宮の規模が半減してしまった感じ。ちなみに神宮寺の方は空海の開山と伝わるようだ。

 

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本宮も織田信長に焼かれてしまったので、現存する建物群は江戸時代以降に建てられたものが多そう。

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木は焼けずに残っていたようだ。

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建物修復中だった。

修復されているのは長い渡り廊下だった。布橋というそうだ。ストリートビューで見ると、布橋沿いにたくさんの祠が有り色々な神様が祀られているようだ。

 

↓この建物は「勅使殿」とあった。

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勅使をお迎えした建物らしい。元禄3(1690)年創建。

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ゴザが立てかけてある建物も安永2(1773)年建立の国重文だと。

その他、境内の中の建物がおそらくすべて国重文じゃないかという勢い。

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御柱がある。

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穢れを清める小川かな。

 

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↑工事中の布橋はここに繋がっているみたい

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↑拝殿

拝殿の奥に弊殿、左に片拝殿・右に片拝殿という独特な形式。

ここが一番大事な建物(諏訪大社は古い神社なので本殿を持たない)かと思いきや、どうやら別の建物の方が重要だったらしい。

 

東宝殿

 

 

↑西宝殿

 

この二つの建物は寅年・申年で交互に立て替えがなされるそうで。御神輿などを納めておく建物で、入れ替えで遷座祭も行われるみたい。現在、御神輿は東宝殿にいらっしゃるようだ。御神輿(神様)がいらっしゃるほうが所謂本殿になるみたい。伊勢神宮みたいなシステム?

御神体のような御神輿は織田信長の兵火から守屋山へ逃げ、無事だったそうだ。

 

東宝殿・西宝殿の中間には門がある。

 

四脚門といい、本宮では一番古く、慶長13(1608)年徳川家康が寄進したものだそうだ。

もちろん磐座もあり、布橋からは見えたらしい。

そう、布橋が通れないと大事なものが何一つ見れない。

 

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↑ここは勅願殿というみたい。

国の重要文化財で、元禄3(1690)に建てられた。名前とは裏腹に天皇関係ないようだ。古い図には「祈祷所」とあるそうで、守屋山に向かって祈りを捧げる場所だったそう。こんな場所にあるのは、個人的な祈りを捧げるために作られたからみたい。

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拝殿は秋宮と同じく、立川流の建物だったみたいだー。

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★★★★★

子供は本宮おみくじを引いてご満悦だった、小吉だったよ

 

 

諏訪大社上社

創建年 不明

三水城

狐落城から更に登る。どちらかというと、三水城の方が本体であるらしい。

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↑この堀を最後に、よくある山道に戻った。

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こんな感じの。

 

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躑躅が咲いていた。

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麓から狐落城までの登山道よりはずっと楽な感じだった。

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また何かある。

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今回の倒木は完全に登山道を塞いでしまっている。大きすぎて乗り越えられないし、どうしたものかと悩んだが。

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踏み跡あったよ。しっかりしているやつ。

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ここまで一切人間に出くわしていないが、この登山道は人気あるらしい雰囲気あるぞ。もしかしたら今この瞬間にも人間出てくるかもなードキドキ。

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おお。登山者多そうなわりにはこんなのばっかりじゃないか。

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こんな普通の山の風景から急に出てきた↓

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気持ち悪い。

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よく見るとちょっと堀っぽいものがあるような。着いたのか。ここに来て急に空気まで変だわ。

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トトロにこんな感じの道出てきたような。こんな茂み入るの嫌だけど仕方ない。

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何か見えてきた。あの茂みからここまで気分悪かったけど、ほっとした。

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三水城の本郭到着。狐落城より広く、日当たりも良いし見通しも良い。

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善光寺方向。紫矢印は出浦城。赤矢印には屋代城。 水色矢印あたりに證城かなー? オレンジ矢印は八王子山砦。水色と紫は狼煙台に使っていたらしい。

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本郭の周りもよく見れば何か人工的な感じがする。しかし、ほぼ薮が酷くて行けない。

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唯一、登山道に整備されている摺鉢山(竹把城)方面には行けた。

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これはこれは…ですよ。

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物凄く盛り上がっている。ビッグウェーブたくさん来てるよ。全部で6。

\/\/\/\/\/\/\/ ←こんな感じでザクザクと掘ってあった。

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本郭の、現在は薮に覆われちゃっている周りもこんな勢いで溝掘りまくってるのかも。下手に踏み入れちゃうと命がないね!

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足下にはこんな奴↑生えてたわ。コレ棘あるし臭いし(どういう訳か実家の庭に生えてた)。

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この先にはもう、何もなさそうな雰囲気? 引き返す。

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柏かなー?

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またノリノリの堀切を渡っていく。

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本郭に戻ってきた。

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この正面には坂城があると思われる(が、見えない)。

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上田の方。何が何だか。

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この向こう側には和合城・虚空蔵山城といったお城がある見えるらしい。

 

三水城も狐落城と同時に落とされているらしい。村上家の家臣の大須久兵衛尉という人物が武田方に内通して、狐落城以下が落とされた。という内容ばかりで、三水城についてはあまりない。麓に住んでいた福沢氏のお城だとも言われているし、こちらの城将も小島兄弟だから城主が小島兵庫介になっていたりする。

大須久兵衛尉はこの辺りの土豪だと伝わるが、具体的にどこの土豪かも分からず(武田さんから坂城中之条に土地を貰っている?みたい)。

狐落城とは違い、お城の説明板はない。

 

お帰りはこちらです↓

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またあの気持ち悪い薮トンネルくぐるのかー。

 

 

★★★☆☆

堀切凄かったー!

 

 

<三水城>

築城主 不明

築城年 不明

狐落城②

ステイホーム期間中は、ちゃんと大人しくしていたわ。外出先で見ず知らずの人に石投げられるのも不愉快だよ。

ようやく出かけられるようになった。随分前、夕方に狐落城に登ろうとして断念したことがあり。ちょうどいいからあの山1人で登ろうと決める。折角だから真面目に登山しようと、それなりの装備で登ってみたよ。熊除けの鈴まで持っていったわ。そして非常に身体が重く…これはステイホームの結果の体重増加・運動不足ではなく、単に普段より荷物が重たいだけと信じたい。

 

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↑奥の山が狐落城・三水城、手前の一部見えている山が自在山(出浦城)

 

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登山口はここから。狐落城まで登り、更に尾根伝いに行けば三水城に辿り着ける。

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事前に調べたところ、ここから狐落城は行き50分、狐落城から三水城まで行き40分。お帰りはそれぞれ30分と20分。摺鉢山(=竹把城)にも行けるよ。室賀峠まで行って戻ってくる人いるのかな。往復9時間よ?

 

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まずは村上大國魂社に。

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健御名方神、八坂斗売神のご夫妻と大國魂命(多分、大国主神のことだと思います)の3柱を祀っている。他に、天満宮と。

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小さな社に村上氏の祖先が祀られていた。

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顕清社(祭神:村上顕清)と義光社(祭神:村上義光)だ。

 

源(村上)顕清は白河院の院司を務めていたが、嘉保元(1094)年流刑に処され越前国に流された人。一説には信濃国村上郷に来て信濃村上氏の祖となったともされるので、ここに祠があるのかもしれない。この一族は元々信濃国に所領があったらしい(顕清の父・中宗の代から持っていた)。源顕清と父の中宗や長兄の惟清や兄弟達も全員流刑となっているが原因は白河院源惟清が呪ったからとされている。白河院の晩年の寵妃となった祇園女御という人物が源惟清(または父の中宗)の妻で白河院が略奪してから元夫とその父や兄弟を全員配流したという古い記事なんかもあるそうで。本当だったら酷い話よねー。

村上義光は太平記に出てくる武将で、本来の表記は村上義日みたい。この人は後醍醐天皇の皇子、護良親王の家臣。元弘3/正慶2(1333)年、護良親王を守り吉野城(金峯山城)に籠城して戦死したという。

祠は古そうだったが、その説明をしている石碑はやけに新しい。

 

この村上大國魂社は古くは泉口明神という社号だったみたい。諏訪社なので上下社と2社あるそうで、泉口明神が上社、下社は村上神社(元は宮沖にあり今は上五明に遷座)だそうだ。社伝によると天徳2(958)年村上天皇第4皇子の為平親王が村上郷に御所を造営し、泉口御所と称したそうだ。この為平親王は父親の村上天皇に可愛がられ、母方祖父(藤原師輔)も権力者だし、賜姓皇族でかなり出世していた源高明の娘と結婚して後ろ盾を得て、という皇位に一番近い立場にいたらしい。が、祖父や実父・義父の次の世代の権力者達の事情で皇位を継承できず政治的な配慮として筆頭皇族の地位に留まり続けた人。村上源氏為平親王流)の祖でもある。為平親王は天暦6(952)年生まれ。一説には為平親王村上天皇より村上姓を賜る→為平親王の子・源(村上)顕定の娘婿に源頼清源頼清の孫が村上(源)顕清、というのもあるらしい。

 

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この建物は「十六夜観月殿」という建物で、寛治8(1094)年に流刑となり村上郷にきた源盛清祇園女御の元夫?の源惟清の弟で惟清の養子とされる)がここで月を眺めて心を慰めた、と案内板に書かれていた。源盛清の子・為国が源顕清の養子となったそう。

元中年間(1324~1392)に村上満清が観月殿を建てる。観月殿に掲げられていた由緒書には元治年間とあったが、元治年間=1864~1865なので由緒書が間違っていそう。由緒書には「千曲川が氾濫して宮沖大御門堀上の地にあった城郭が流されてしまい、居を(対岸の)坂城に移したが堂宇を此処に建て代々仲秋の月を観賞した」とあり、コレは案内板には載ってなかった。宮沖、大御門、堀上は網掛地区の小字で、その辺りに最初の村上氏のお城があったようだ。宮沖には上社(村上大國魂社)と対になる下社(村上神社)があった。

泉口明神下社が元あった宮沖、堀上、大御門は、現在のびんぐし山の西側に広がる田んぼの辺りらしい。古い地図と比べても川筋が変わっていたりで、旧泉口明神下社の位置も分からんかった。ひょっとしたら、泉口明神下社が一番最初の村上氏の城郭跡かな? と思ったんだけどさー残念。

天文22(1553)年、武田軍が攻めてきたときに狐落城と社殿も観月殿も焼失した。社殿は天正11(1583)年村上景国により再建される。観月殿は寛永年間(1624~1645)に地元民により再建。現在の建物は安政3(

1856)年に再々建されたもの。

松尾芭蕉も来たそうで、その辺に句碑があるとか。

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ここにも祠があった。松尾芭蕉の句碑は祠の近くらしい。

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ここからすでに急坂だよ。

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両脇が崖。

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一気に登っていく。

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木が倒れている。

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なだらかになったと思いきや。

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やっぱり急斜面を登る。

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去年の台風のせいなのか、そこら中で木が倒れている。狐も落ちる! という評判通りの狭くて急な尾根道が続くため、倒木を処理できないのかもしれない。ただ、登山道はしっかりしているので人は通っているみたい。

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そんな中、気になる巨石を見つけた。目印になりそうな巨石ではあるけど、ほぼ迷いそうにないレベルの尾根道だよ。よく見たら「山之神」と彫ってあった。よくお祈りした。

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この木だけちょっと切られていた。

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ここまでは急だけど問題なく歩ける道。

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ついに現れたトラロープ。

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登るときは階段もあるしまだ使わなくても良さそうだが。下りは必要だろうなー。

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ロープがめっちゃ張られている。

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この茂み、何か臭かった。ちょっとやばいんじゃねという臭さ。熊除けの鈴をリンリン鳴らして通ったわ。獣が死んでたのか手負いだったのかは分からないが、無事過ぎた。

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ちょっとした平場が現れたので、ここで休憩。物見用でもあったのかな、上田方面への見通しが非常に良かった。ここまでの道のりキツかった。

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さて動くかー。

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少し歩いていたら、何か変な風景が。

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着いたかなー?

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石積みもある!

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思ったより狭い。とにかく2周ぐるぐる。せっかく来たんだし。

 

古い案内板があった。昭和47年11月に立てられたものみたい。字も消えかかっている。

  • 狐落城は戦国時代の山城で、葛尾城を本拠とする村上氏の支城
  • 武田信玄の信州攻略を南から受けた村上義清は天文17(1548)年上田原にてこれを迎え撃ち、退けた
  • 天文22(1553)年には武田信玄に筑摩方面から攻撃を受けた
  • 武田方の調略により、狐落城の守将小島兵庫介兄弟がここで討ち死にし落城
  • 狐落城の落城を見た村上義清は、本拠地内での落城にショックを受ける
  • そのまま葛尾城を捨て、越後の上杉謙信を頼り落ち延びていった
  • これがキッカケで川中島合戦に発展した

 

狐落城は別名「あみかけ小屋」ともいうそうだ。城っていうより、小屋の方がしっくりくる。

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そんなに兵士詰められないだろうなー。 

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上にもまだ何かあるようだ。

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ここにも石積みが。

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上にも平場があった。

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どうやら、ここが本郭のようだ。先ほどの説明板があった場所は2の郭だったみたい。

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本郭も広くない。

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2周まわった。

 

古い石仏がいらっしゃって、お詣りした。

本郭も「あみかけ小屋」という名前がしっくりくる程度の場所だった。重要拠点なのに思ったより狭い。更に登れば三水城がある。敵は筑摩方面から侵入、と説明板には書いてあった。三水城落としてから来ちゃったんだね。ここ貧弱過ぎて持たないと、素人目でも思うよ。

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↑この先に三水城がある。

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狐落城の三水城側にはたくさんの堀切が!

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今まで堀切なんてなかったのに、大量に現れやがった。

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いきなりやる気を見せた狐落城の堀切はロープなしじゃ踏破難しかった。

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巨木が根こそぎやられて、転がっていた。

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えぐられて、少し登りやすくなっている。

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堀切いっぱい作っても詰められる兵士が少なければ何の意味もなかったかもね。

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ようやく落ち着いた山道になってきた。三水城はまだ先。

 

 

★★★☆☆

その辺の丘を登るのとはレベルが違った。真面目な登山。

 

 

 

<狐落城>

築城年 不明

築城主 村上氏

 

 

2020年5月現在流行りのテイクアウトを頼んでみたよ!

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↑インスタで見かけたイタリアンレストランの特製オードブル

料理のリクエスト、構成(大人何名・何歳の子供が何名か)、食べられないもの(アレルギー対応)など細かく聞かれた。ちゃんとしてそう…子連れで行けないなと思った。

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↑同級生のお店の弁当

この銀ダラ粕漬けがローカルニュースで特集されていた、本気で美味いやつ。自分史上唯一皮まで食べられる。

唐崎城

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生仁館から5分ほどの場所にある唐崎社まで来た。ここから天城山(天城城)まで行けるらしい。天城城はずっと「あまぎじょう」だと思い込んでいたんだけど、実は「てしろじょう」という読み方だそう。山の方は「てんしろやま」と読むらしい。石川さゆりのせい。また、天城城まで行かない(松代側から登った方が近いだろうなーと思ったよ)。

聖霊神がよく分からなくてスルーしちゃったんだけど、なんか明聖砦とかいう小さい砦だったみたいー。明聖霊神って地域の神様なのかしら? 千曲市文化財一覧にも名前がなく。御嶽山と彫られた石碑がいくつかあるようなので、山岳信仰とか修験道に関係しているのかしらね? 唐崎城から20分くらいだし、知ってたら行ったのになー残念。

現在地から70分の「分岐点」は鷲尾城方面に向かうハイキングコースとの分岐点らしい。天城山の先は多分、松代(妻女山)に向かうと思われる。

山の最奥には鞍骨城というお城があり、唐崎城(+明聖砦)・天城城・鷲尾城・竹山城は鞍骨城の支城とされている。鞍骨城の主が清野氏という一族らしい。この辺りの有力豪族で、川を挟んだ向こうの領主・寺尾氏と戦った一族。清野氏は、鞍骨城とその支城群を見る限り「寺尾w」って言えちゃうような規模の豪族と思える。弱小豪族(寺尾)が神の加護を得て清野に勝利したことが物凄く嬉しかったんだろう、と思った。本当にあの話は躍動感あって面白く印象に残っているわ。

 

登山口に唐崎城の由来という説明板があった。

  • 唐崎城、または朝日城、藤崎城とも呼ばれる
  • 生仁館の本城
  • 雨宮摂津守または生身大和守の居城といわれる
  • 一説には宇藤摂津守安時がここにいたとのことで、麓を宇藤坂ともいう
  • 城の本郭は東西24間(約44m)・南北14間(約25m)
  • 二の郭は東西37間(約67m)・南北19間(約35m)
  • 六の郭まである
  • 腰郭など、東西三方に段郭を三重に設けている
  • 自然の地形を利用して堀・枡形・馬出も作っている(一部崩壊?で見られない)
  • 城内には井泉跡も2カ所ある(雨宮氏が作ったと伝わる)
  • 築城年代は南北朝の末から応永時代、約600年前と推定される

ちなみに、wikiには「生仁城」という名前でページがあった。

 

ところで、宇藤摂津守安時って誰? この人のことは結局分からなかった。宇藤という苗字の発祥は熊本県宇土氏後裔)・静岡県藤原氏後裔)で、どちらもココとの関連性をあまり感じないような? 善知鳥峠っていうのが長野県内にあるが、そっち関係かなー? と思ったが善知鳥峠はココからだいぶ距離があるしなー? 善知鳥峠名の由来見たら、猟師に雛を奪われた善知鳥の呪い的な話だった。捕まえた珍しい鳥(善知鳥)の雛を売るために京へ向かう猟師とその息子を善知鳥の親鳥は追う。彼らが峠を越えていたところ、峠で酷い吹雪に遭い、猟師と親鳥はそれぞれの子を庇って凍死するという内容(この話の続きが能の演目になっているようで、猟師は地獄落ち後も善知鳥に責め苦を受け続ける内容だった。善知鳥は執念深い鳥らしい。どういう鳥か知らないが、むやみに捕まえない方が良いな)。

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登山口近くには鳥の巣が密集していた。善知鳥は海鳥なので山に巣は作らないよ。

宇藤さんは善知鳥峠とも関係ないような気がする。何者なんだよ?

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整備された道だった。なんか、猫車を押していったような轍が残っている。工事でもやってるんだろうか。

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周辺は崩れている?ようなんだけども、今日昨日崩れたような雰囲気ではない。登山道はしっかりしているし。急坂であっという間に登り口が下になってしまった。

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更に上がると。

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怪しげな何かを見つけた。奥の方の小山っぽいやつ。頂上で木が伐採されている。コレに関しては↓

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何かで完全に崩れて数年たっているっぽい。

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古い石碑が埋まっちゃっている。埋まっている石碑の文字を想像すると。庚申塔・御嶽参徳心○・奉納百番観世音かな? すぐ近くに唐崎社という神社があり、雨宮の神事では山踊りという行事が行われる場所らしい。

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 ↑この通り、管理をしているのが雨宮坐日吉神社のようだ。御嶽参(御嶽山?)の文字があるし、「山踊り」という行事が行われるし、山岳信仰の何かがあったのかなー? と思った。じゃあ明聖霊神の関係かな。里宮だったとか?

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↑唐崎社

 

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春ですよ。

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猫車の轍が微妙にある。この道は結構な急なんだけど、奥でどんな作業をしているんだろうな。伐採した木を運ぶとかかな、大変そう。

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この辺りから城域かもしれない。道は左に大きく曲がっているけど、真っ直ぐいっても何かある雰囲気(ただし、倒木が折り重なっていて進入出来ない)。多分、今日初めて見つけたちゃんとした郭かなー? 郭らしき平場は荒れていて足の踏み場がなさそうな様子だよ。
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竪堀に見えなくもないような…と思ったので、ちょっと見やすい位置まで移動したけどよく分からなかった。

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↑郭っぽい? 郭だろうけど、何が何やら…? 唐崎城の内部に入り込んでいると思うんだよ。

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ふと見ると、明らかに人の手が入ったと言えるような平場があったよ。

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先は怪しい。倒木で行けなさそう。

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ちなみに、まだ猫車の轍がある。ここから木か何かを猫車で下ろしていくの大変そう。

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鉄塔管理用道も兼ねているようだ。

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伐採した木が置いてある場所、郭跡の利用だろうか。最初に見た荒れた郭っぽいもの、段郭に見えなくもないが微妙なもの、そういうのがたくさんある。お城の規模としては大きいような感じよ。

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坂を登り切ると、土塁があった。

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先ほど横目で「伐採した材木が置かれている、郭っぽいな」と思いながら通り過ぎた平場を見下ろすような格好になった。上から見ると明らかね。

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土塁も。

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中央の盛り土とそれを回り込むように続く道は二股に分かれている(ように思う)。そろそろ本郭が現れるかもしれない。

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尾根伝いに続く道。土塁もずっと続いている。

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大きめの郭も倒木で遮られている。

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野生の水仙の脇を通っていくと、小高い丘のようなものが見えてきた。

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登山道はこの小山を避けるように続いているようだが。

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当然、この小山に登るよね!

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登った先は平場だった。

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端っこには土塁盛っている。

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見下ろせば、郭がいくつか見えた。

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本郭には水場があるという。

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あったー水場だよ!

どういう仕組みなのか分からないんだけど、ここには常に水があるらしい。最初の説明板にあった「井戸」というのはコレのことだと思う。井戸っていうから色々想像しちゃったのに、ただの溜め池じゃないか。

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本郭から先にも郭がいくつも見える。先へ行ってみる。道は急な下り坂となっていた。

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本郭をスルーして進んでいた道は、ここだったらしい。郭を利用した登山道。

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本郭を見上げる。

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堀っぽい?

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ここから先、道は急激に下っていた。さっきの本郭との出入りの坂道より長く、下って行っている。

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ところどころで荷物置き場みたいな、ちょっとした郭っぽいものがあった。

最後まで下っていって、本郭方向を見上げると、こんな感じに↓

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本日最大の見所である。

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えーと土橋なのかなー?

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深めの堀。

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そういえば、最初の説明板に一部崩壊?みたいなこと書いてあったなー。

<原文:東西三方に広狭不同の三重の段郭を廻している。地勢に依って堀・枡形・馬出と自然の要害をなしている。(一部は見られない。)又城内に井泉の跡も二ヶ所あり。>
一部っていうか、年月が過ぎていって山の手入れも微妙で伐採と放棄のせいにより、かなり崩れているのかもしれない。この場所だって、本郭から急激に下っている割には堀がイマイチ、浅い。もっとダイナミックでもいいんじゃないー?

この先の明聖霊神の件は知らなかったので、普通に引き返した(絶対そのうち行こう)。

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唐崎城は戦乱の舞台になっている。元中4/嘉慶元(1387)年に信濃の国人衆が平柴の守護所横山城を襲い、守護の軍勢を敗走させた。守護方はこの唐崎城に逃げ込み戦いに。室町時代の応永10(1402)年にも横山城に入城した室町幕府軍に対して信濃国人衆が反旗を翻して、幕府軍がやっぱり負けて、同じように唐崎城に逃げ込んで戦いになった。記録が付けられていないような小競り合いもいくつかあったかもしれない。

このお城が古くからあるのは、すぐ近くに雨宮の渡しという交通の要衝があるせいだとか。昔からある上に戦乱の舞台になりやすい、という特徴があるので拠点として整備しようにもボロボロになってたんじゃないかな、とちょっと思った。400年前の放棄された山のお城でもある程度の防御力を保っているのだってあるしさ。武田信玄さんとかが生きている時代基準でも築城から200年ほど経っている古城扱いだったのかも?

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また、天城城と鞍骨城の間に二本松峠という峠道があるらしい。いつ出来たか分からないが、倉科(鷲尾城のある集落、峠へは鷲尾城背後から登るようだ)から松代・清野(清野氏の本拠)へ抜ける道。メインのお城である鞍骨城に向かう場合も二本松峠経由が一番近いようだ。戦略上こちらの峠道の方が重要になったので、そのルートにない唐崎城の価値が落ちてしまい、そんなに手入れしなかったのかもしれない。

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本郭の下まで戻ってきた。本来の登山道を歩いてみようと思う。

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ここから先、郭が続いているようだ。

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大袈裟にいうとL字というのか、本郭が角で2方向に郭群が伸びている感じ(先ほどの明聖砦方向は高低差が激しいだけで距離はごく僅かな長さ)。L字の長い方は雨宮の渡し方向、短い方は鷲尾城方向へ伸びている。

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すぐ正面に見える山に鷲尾城がある。

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気のせいなのか、鷲尾城方向に伸びる郭達はしっかりしているような? 雨宮の渡し方向の郭達よりキチッとしている風。こちら側には伐採した材木が転がっていないので、雑然・荒廃した雰囲気がないからかもしれない。

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右手は本郭がある。

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だいぶ高い。

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この辺りの雰囲気は悪くなかった(というか、雨宮の渡し方向の郭達がしょぼすぎただけかもしれない)。

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また何かの花が咲いてる。

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そんな訳で帰りますーバイバイ本郭。

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だいぶ下界に近づいてきた。

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到着!



★★☆☆☆
本郭の井戸の仕組みが知りたい、湧いている様子はなかったが溜め池のように水が涸れない風だった



<唐崎城>

築城主 生仁氏・雨宮氏

築城年 不明


そのうち明聖砦に行こうと思う…。