お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

坂木陣屋

お盆期間に入った途端、くしゃみと鼻水が止まらなくなり。なんのアレルギーだよ、最近新しくなったエアコンのせいじゃないか? などとイライラしていたが、同じ時期から同じ症状が出た人もいて…何のことはない、秋の花粉シーズンが始まったのだ。梅雨明けてから半月くらいじゃないの、油断した。1週間粘ったがどうしようもないので薬飲んだよ。症状も収まった。鼻水詰まる・口呼吸・鼻水をすする→喉が荒れる→喉痛い・咳をする→「コロナ!?」と言われて苛つくといった嫌な思いすることがなくなりそうよ。

 

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現在の坂城駅前に「坂木陣屋」というささやかなお城があったそうだ。

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駅前の説明板には、

  • 元和4(1618)年、金井村(坂城町金井)から杭瀬下村(千曲市杭瀬下)まで(上徳間村、千本柳村、内川村を除く=この3ヶ村は松代藩領)の14ヶ村が幕府直轄領となり、坂木5000石と称される。坂木村に陣屋が置かれ、代官による政治が当地で行われた
  • 寛永元(1624)年から越後松平領
  • 天和元(1681)年、坂木陣屋が建てられる(これ以前は民家を借用)
  • 天和2(1682)年から坂木藩(板倉家)5万石、坂木陣屋が藩庁となる
  • 元禄16(1703)年、板倉家移封、坂木藩領は幕府領となる
  • 宝暦4(1754)年、陣屋機能が中野陣屋(中野市中央)へ移される(坂木陣屋は出張陣屋として存続)
  • 宝暦9(1759)年、陣屋機能廃止
  • 明和4(1767)年、旧坂木陣屋火災で焼失

とあった。

 

坂木陣屋が置かれる以前は広大な川中島四郡(高井郡・水内郡・埴科郡・更級郡=現在の北信地方全域)を支配した川中島藩の一部であったらしい。川中島藩主だった松平忠輝という人がやらかし続けて、元和4(1618)年3月に正式に蟄居を命じられた翌月に天領となったようだ。松平忠輝さんは没後300年の昭和59(1984)年、徳川宗家から赦免されたってさ。何をやらかしたらそんなに怒られるのだろうか。

 

寛永元(1624)年、越後高田藩の藩主に松平光長という人が就任すると、高田藩の飛び地となる。越後松平家は家格が高く、御三家に次ぐ家柄だったようだ。延宝2(1674)年、松平光長の唯一の男子後継者が急死し孫もいなかったのでお家騒動となる。幕府が再審したりで裁判が長期化してしまい、飛び地の坂木は松代藩が管理していた。延宝9(1681)年ようやく越後松平家の処罰が決定する。高田藩領はすべて天領になり、これ以後は旧高田藩領=懲罰人事・左遷先となる。天和元(1681)年には当時旧高田藩領を管理していた松代藩が新築で陣屋を建てている。

 

翌年の天和2(1682)年、元老中の板倉重種の左遷先を作るために、坂木藩(5万石)が成立した。元和4年の天領時代は坂木5000石だったのに…急に10倍になった理由が謎で4.5万石分の領地は? と思って探してみた。坂木藩領の飛び地がいくらかあったらしい(軽井沢とか中野とか)。元は幕府領だったものばかりで、とにかく5万石になるようあちこちからかき集めてきたようだ。元禄16(1703)年に坂木藩消滅。再び天領となる。

 

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道路から少し高くなっている部分が坂木陣屋跡?と思われる。

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石垣が名残だというが…コレ↑のことかね? そんなに古そうには見えないんだけど?

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何か水路もあるらしいが、これは堀跡かねー? 用水路はちょうど石垣の前を通っているし。

というか、坂城駅前の道路が堀跡なのかな?

 

石垣もごく僅かしか残っていないようで。

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その石垣も地面に吸い込まれていくように、どんどん消えていった。

 

陣屋跡に建つ住宅地と堀跡?のような低地の境に、古そうな石垣が僅かに残っていた。

 

ストビューで周りを見れば、なんかそれっぽい石垣はいくつかあるねー?

 

享保9(1724)年、北信濃天領を統括する代官所の一元化が始まる。以前から天領を管理する代官の不正などが問題化し(水戸黄門に出てくる「御代官様」みたいな奴が現れるようになる)、少しでも評判の悪い代官はすぐクビになったそうだ。貞享4(1687)年には大規模な人事異動があり、悪代官の多くが粛清された。以後代官は治めている領地民の評判を気にして、無茶なことする人がほぼいなかったらしい(享保の改革で農民の税が増えたが、将軍が暴れん坊の次の人に代わった頃には現場の判断で代官が勝手に減税したりして領民を助けていたらしい)。

宝暦9(1759)年、北信濃天領は中野陣屋に一元管理されることとなる。幕府は統廃合で人件費削減しようとしたらしい。

明和4(1767)年旧坂木陣屋が焼失。「横町の大火」という名前の火災で、陣屋の南西側の横町という横に広がる地区が燃えちゃったらしい。ちなみに陣屋の北東側は立町(たてまち)で、こちらは縦に延びた地区だった。

焼失を免れたらしき坂木陣屋の門がこれ↑らしい。移築されたとか。見た感じからも難燃性っぽいね。

 

 

安永7(1778)年、中之条(坂城町中之条)に陣屋が置かれる。場所はこの道の先で、現在は住宅地となっており面影はないそうだ。

坂城町に陣屋が再設置された経緯は詳しく分からないが、坂城町内の「坂木」と「中之条」で陣屋誘致合戦が行われたらしい。代官は領民からの評判が悪くなると罷免になるシステムだそうで、逆に言うと領民に優しくして支持を得れば偉い人からの評価も高くなる。領民的には代官が近くにいた方が暮らし向きが良くなるという、水戸黄門に慣れ親しんだ我々には不可思議な理由で、「陣屋を建てて欲しい・再建してほしい」という要望が後を絶たなかったようなのだ。

誘致や再建の嘆願は幕府がやりたい代官所や役人数の削減とは真逆なので、佐久の御影陣屋が出張陣屋として中之条陣屋の管理下に置かれたり、人員を極端に減らしたりしてやりくりしていたようだ。そのため代官は激務だったらしい。旗本としては最下級の人が就く仕事だったので、給与も仕事量に見合わない様子。

中之条陣屋の管轄は坂木5千石に加えて佐久・小県辺りに点在する幕府領まで含まれるようだ。広い。

 

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坂城駅は貨物列車の基地にもなっており、運ばれた石油をタンクに移す作業?(タンク車の下腹に管だかを接続させて移していたような気がする)とかやってた。 

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あの奥のオレンジ・緑の電車も有名な奴。現役の時に乗ったことがあるけど床がベコベコしていて抜けそうだった怖い電車。あいつは私より一回りも年上だったようだ。もう動かない。だいたい今この路線走っている主力の電車達も年増の私より年上だそうだ。そりゃ新車万歳って感じになるわ。

 

★★☆☆☆

説明板付近より少し離れた住宅地を見て回った方が分かりやすい?

 

 

<坂木陣屋>

築城年 天和元(1681)年*1

築城主 真田幸道*2

*1:元和4(1618)年~天和元(1681)年までは民家を借用

*2:陣屋を新築した時の松代藩