お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

松代城(真田十万石まつり)

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ちょっと誘われたので真田まつりに行ってみた。今回で61回目ということで、昔からやってるらしい。この手のお祭りはあまり好きではない(とはいえお誘いを断れるような相手でもない)。

まずは鉄砲隊を見に行くことに。

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太鼓門の前では何かやってた。13時からの武者行列の出発地点はココだというので、きっとリハーサルか何かだねーとスルーし、多分鉄砲隊は二の丸のとこでやるんじゃないかと向かう。広いし。

 

二の丸では演武っぽい殺陣のショーが始まっていた。

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隣り合う武田軍と上杉軍。

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武田信玄さんと上杉謙信さんが談笑していた。

一緒に行った人(迷子になった)がウロウロしていたところ、観光客のオバサマが「あのう徳川家康さんですよね? 写真一緒に撮ってもらえませんか!?」とコスプレしてるオジサンに声をかけていた、と報告してきた。そういう感じのお祭りらしかった。

先ほど信玄さんとおしゃべりしていた謙信さんのショーが始まったので見た。上杉おもてなし武将隊というチームだそうで、上越から遠征しているようだった。謙信公がイメージとは違い饒舌でおもしろかった。ショーが終わるとアナウンスが。

「真田鉄砲隊演武はこの後、太鼓門前で開催されます」

まじか、さっきの赤い人たちは鉄砲隊だったのか…と自分の迂闊さにクソッタレと歯噛みした。太鼓門前は行列見たさで陣取っている人が多くいたと思い込んでしまったのが敗因か。だが「ここじゃないんかい」と思った人は私だけではないようで、「ええー向こうか」という声が周りから上がった。そして、ざわざわしながら人間が塊になって移動し始めた。その流れに乗って太鼓門に向かうと、もう人が人が…でいい場所やっぱり取れなかった。

そのどさくさで松代城本丸も閉鎖に。

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真後ろ。しばらく見ていたが、やはり物足りなくなり強引に人をかき分けて歩き、いい場所ぶんどってやった。

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正面だー。

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ばきゅーん。大筒も撃ってた。

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装填中。毎回弾込めるの面倒くさいねえ。

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火蓋切れ―。

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 構えー。

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どーん。

というのを何度もやってくれた。銃火器はいいね、心が躍る。

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ありがとうございました。

 

13時からの武者行列がおすすめらしく(私個人としては、鉄砲隊でもう満足しちゃったのですが)、せっかくならと良いポイントを探して歩く。

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樋口さんちの前あたりがまだ人も少なめだったので、ここらで行列を待つことにした。

 

13時、お城の方から行列が出てきたようなアナウンスが聞こえてきた。それぞれの武将・姫に扮している人を紹介しているっぽい。この通りにはまだ行列がやってこないので、人も集まっていない。時間が経つ、ばらばらと人が現れ始める。

そうこうしているうちに、やってきた気配が。

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昔、戦国モノのゲームやっていたので武将の名前はわりと知ってる方だとちょっと自信ある(しかし何をしたか、どういう人物かなどは分からず。イラストや能力ぐらいしか思い出せない状態)。

先頭は武田兄弟。信玄さんと信繁さんだった。てっきり勝頼さん来ると思ってたけど意外にも。そういえば松代には信繁さんの菩提寺の典厩寺がある。

 

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次は織田さん。

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武将に仮装の人は市長だったり商工会関係の役員か会社社長ばかりのようだ。武将名の書かれた幟に名前と肩書きが書き添えられていた。織田信長役の人は長野市長だった。

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織田さんのあとは、ちょっと間があいた。

 

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徳川さん来た。家康・秀忠親子。

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観光客のオバサマ、よくこれで「家康さんですね」って分かったな。私たぶん「秀吉さんですか?」って声かけちゃいそう。そのオバサマはゴリゴリの歴史マニアに違いない。

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上杉さん。

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景勝さんと直江さん。この2人は常に一緒にいるイメージがある、何故なんだろう。

 

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豊臣家御一行。秀吉さん、秀頼さん、ねねさん、茶々さん。有名な人は来ない、と聞いていたが、茶々さんはリオ五輪銅メダルを掲げていた。有名人が来てるじゃないか。

 

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真田さん。真田家は二手に分かれており、こちらは昌幸さんと信繁さん。ちょっとテレビ見すぎの同行者は「昌幸、毛皮着てない」とブー垂れていた。恥ずかしい。

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誰? 有名な女人なの?

同行者によれば、長澤まさみが演じてる役だとか。みんなテレビ見すぎよ…。

 

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松代藩次席家老だという小山田さんと、その妻・小松殿(昌幸さんの娘)。

 

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こちらは「戦国武将あこがれ隊」という、趣味でコスプレしている参加者たち。甲冑コスプレも奥が深く、時々特集組まれたりして見聞きする。お手軽に段ボールなどの紙から自作する人もいるし、こだわってプラスチック板(段ボールじゃ歩くときガシャガシャ音ならないし、鉄っぽく見えるように熱で曲げたりできるから)を加工して作ったり陣羽織の素材を革や織物などこだわったり。兜だけでもウサ耳だとかビヨーンと馬鹿みたいに細長い奴とか、いろんな種類があるらしいし。はまり込むと大鎧を自作することもあるらしい…恐ろしい世界だー。

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先ほどの謙信公。

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上越は良いところじゃ、そちたちも参れ。待っておるぞ」とおっしゃっていました。

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上越から遠征の謙信公に限らず、あちこちから遠征軍が来ているようだった。上田とか小諸とか。

 

時代は少し下って、大名行列になった。

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「したにーしたにー」の御侍様。

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奴さんのパフォーマンス。

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そして本物のお殿様登場。現在は誰でも知ってる有名大学の教授だそうな。本当に住む世界が違うんだ、と思ってしまう。

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お殿様騎乗の馬が一番きれいな馬だった。

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徳川さんの家来の本多さん。娘の小松殿、小松姫の娘まん。

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 行列自体は松代町内をぐるーっと回ってお城へ戻ってくるけど…私はこれで撤収です。

 

 

★★★★☆

お城には入れなかったものの、思ったより武者行列が長く続いて驚いた。

 

 

第61回松代藩真田十万石まつり 2016年10月8日

屋代城+屋代氏館

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この半ば隠れているような、ひっそりしているお地蔵さまが長い間気になっていました。

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これのせいかね? この記念道路を見守るお地蔵さんなのかね?

裏に大正4年11月と刻まれており、どうやら大正天皇の即位を記念した道路みたいだが…杏で町おこししてる森に続く、こんな道↓

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この付近には、屋代城への上り口が。前回は別ルートで本丸のみ見に行ったが、今回は正式な入口から行けるところまで行ってみよう、と。

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上る前に周りを観察したよー。入口左横奥は平場が。

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こちらにも謎の石碑があった。顕彰碑らしい。市川なんとか山先生とか本村佐五郎さんとか…もちろん誰だか分からない。本村さんのほうはともかく、市川先生は樹木に覆われてしまっており目立たない状況。

この平場は兵士さんの詰所みたいになってたのかなー? と思った。

上にあがってみる。

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石段を上った先にはお堂があった。

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一重山不動尊という。明治18(1885)年に千葉から成田不動尊を勧請し、そういう名前になったようだ。成田不動尊は歌舞伎の世界で成田屋の屋号を持ってるあの一家が信奉している成田山新勝寺のことらしい。明治18年以前は「山ん堂」と呼ばれていたようで、鼻取り地蔵なるお地蔵様を祀るお堂だったようだ。

説明板に書かれている話によれば、雨乞いの地蔵である。日照りになると鼻取り地蔵をお堂から引きずり出して五十里川の念仏土井というものに投げ込んでは「雨降れ」と祈願したという。石仏だそうだが度々放り込まれるので、鼻がそげ両手はなく体もボロボロになってしまったという。鼻がないから「鼻取り地蔵」という名前になったようだ。高さ60cm・幅40cmというからそれなりに重そう。神事とはいえ、毎回石仏落とす→拾ってお堂に戻す、っていうの大変だねー。まぁ、人間を落とすよりは良心的か。お地蔵様は天正3(1575)年にこちらに安置されたと言われている。

↓一重山不動尊からの景色。

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一重山不動尊の横から更に続いていく道。

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遊歩道はコンクリ敷き。整備されており、非常に歩きやすい。

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宝暦7(1757)年の石碑。奉納大乗なんとか…。

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御嶽神社。数年前噴火した御嶽山への山岳信仰に基づく。天地開闢のときに現れた日本初の神・国常立尊、国譲りの神様・大国主大己貴命)、大国主の国づくりを手伝った小さい神様・ 少彦名命の3柱を主祭神としているようだ。

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これなんだろね? 頭ないし。

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ときどき郭跡のようなものが現れ、そこはすべて墓場になっている。ちょうどお彼岸だったので墓地周辺は綺麗に草が刈られていて歩きやすかった。

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途中で郭が3段になっている場所もあった。もちろんお墓がいっぱい。

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細長いお城なので…尾根上を進む道と郭跡を利用している墓地や神社以外は斜面となっている。それも、わりと急な。

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まだまだ道は続いているよー。

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右・休憩所?

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何か見えてきたぞー。

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矢代神社。屋代城で一番大きな郭である。北側の防御の中心となっている郭らしい。見晴しもいい。

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ここも草を刈ったばかりらしい。

この先の道は左かなー? 右かなー?

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右側↑

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左側↑

左が正解のようだ。が、綺麗に草を刈ったのは矢代神社まで。コンクリ敷きも矢代神社の鳥居まで。この先の道はあるものの草が伸びている。一人なら問題なく歩けそう…しかし子供は無理だなぁ。この先採石場もあるしな、ということで引き返した。

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すぐ先に慰霊碑→堀切→郭→堀切→郭(馬の背と呼ばれ、急に下り斜面になる)→採石場(虎口があったらしい、今は遺構なし)→上り急斜面→郭→堀切→郭→堀切→郭→堀切→郭→堀切→郭→本郭という長い道のりが待っている。前回のように初冬か春先に本郭へスルッと上って4つ目の郭辺りまで下りたほうが満足しそうだし、絶対楽だわ、と思った。

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一重山不動尊まで下りてきた。

せっかくなので、屋代城の真横を歩いてみることにした。

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ちょうど一重山に沿って細い道があったので。

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横っちょは崖。攻められませんねー。

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何かの遺構? と思ったら墓地予定地。

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何かあるぞ! と上ったら。

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墓地でした。この山、墓だらけじゃーん。

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もういいか、と引き返す。

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↑一重山。今回は右端の部分まで行けたか行けないか(たぶんそこまで行けなかったかなー?)。一番高いとこが本郭跡になると思う。

 

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反対側に回る。

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満照寺というお寺さんがある。このお寺の開基は屋代政国で、お寺の名前は政国さんの爺さんの名前・満照から取ったそうだ。屋代氏は村上一族であるので、お寺さんの屋根には「〇に上」の家紋がばっちりついていた。

ここが屋代氏の居館跡と言われている。

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このすぐ後ろに屋代城本郭がある。昔はこのお寺から本郭へ行ける小道があったとか。

 

 

★★☆☆☆

邪道かもしれんがやっぱり本郭からいったほうがよい、というのが分かった。

道のり長いよぅ。

 

 

<屋代城>

築城年 永正~天文年間(1504~1555)

築城主 屋代氏

構造 山城

麻績神明宮

麻績神明宮という神社、去年も来たけど改修工事中だった。1年たてば終わっているだろうと思い、お参りに行ってみた。

結論からいうと、まだ改修工事終わってなかった。いつ終わるのか…調べては見たけどちょっとよく分からず。2011年に文化庁の視察があったこと、その後に改修工事の予算がつきそう、という記事を見つけたが、それから5年。改修はまだ1年くらいかかるのかねぇ。

この神社の5棟の建物が国の重要文化財に指定されており、改修しているのはそれら建物らしい。

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拝殿や本殿は修復済みのようだ。

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「改修に差し障りがある」という理由で大杉を一本伐採したとのこと。拝殿と本殿の間に生えていたようだ。切り株のみがドーンとあるので、ちょっとびっくりした。さすがに取り除くことはしないのね。切り株の奥が本殿です。

 

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仮殿。こちらも改修済み。今回のように本殿を改修したり、あるいは新しく建て直す場合、神様にお移りしていただく場所。長野県内では仮殿が独立している神社はココだけ、という感じで珍しいものだそう。本殿と同じ形式のもので(本殿と違い、拝殿がない)素朴な印象。

ここはとても古い神社。神明宮は天照大神を祭神とする。数年前、伊勢神宮式年遷宮があった。ここと同じく(あたりまえだけど)本殿の建築様式は同じく神明造り。伊勢神宮は行く機会があったものの、その時の同行者に一人ひどすぎるのがいたため断ってしまい、まだお参りに行ってない。けど、麻績神明宮は伊勢神宮と同じ種類の建物ならお伊勢参り気分に浸れるね。

本殿の裏は森だった。

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昔からこんな感じの雑木林なんだろうな、と思わせるなんとなく人の手が入ってる風の森。遊歩道があったがどこへ連れていかれるのやら?

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途中で行き止まりじゃないの? と思って止めた。スタート地点こんなん↑だし。

 

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摂社たくさん。さすがは古い神社。

 

麻績神明宮は、長暦2(1038)年に麻績御厨が成立したことで創建された。御厨は神様の台所→神様へのお供え物を供給するための土地を意味し、このあたり一帯が伊勢神宮の荘園となった。伊勢神宮の土地なので、当然のように伊勢神宮から天照大御神を勧請し、この地に祀って麻績神明宮ができた。

地元の川中島の御厨も大きそうだったけど、麻績御厨が信濃国の中で一番規模が大きかったようだ。そもそも「麻績」って初見で読めないくらいだし、麻績御厨が成立する以前から結構古くから人が住んでる豊かな土地だったんじゃないのー? と思うけどどうなんだろ?

麻績の意味は「青麻(あおそ)を績むこと/績む人」らしい。「青麻を湿らしながら指先で細かく裂いて、よってつなぐ」=績む、となり、どうやら麻から糸を紡ぐことを指しているようだ。言葉自体は万葉集にも出てくるので、古代では重要な産業だったのかもしれない。

ここは麻の産地だったんだな、と分かった。麻で作った布は平安時代頃には信濃布と呼ばれていた程で、一大産地だったようだ。「信濃布」とは元は国名の由来でもある科の木の繊維で織られた布を指していたようだ。麻もよく育つためか、麻布(当時は高級品)も生産されるようになり、信濃の年貢はほぼ布で納められたとか。信濃国東山道が走っているし、麻績も東山道支道が通っているので国に納税するにも便利な場所。調布(租庸調という税のカテゴリのうち調は繊維製品を指す)2万反、庸布(成人男性に課せられた労役の代わりとして布を納めた)4万反、商布(交易用の布)7500反を国に納めていたそうな。古代では1反を幅9寸5分(約29cm)~1尺(約30cm)、長さ2丈8尺(約8.5m)~3丈(約9.1m)としていたようだ。

 

神社の歴史は古いが、建物は江戸期のもの。

本殿:貞享元(1684)年

仮殿:宝暦10(1760)年

拝殿:天保11(1840)年

神楽殿:元禄11(1698)年

舞台:天明3(1783)年

この5つが重文で、改修が終わっていないのが神楽殿と舞台。ブルーシートで覆われていたので中身はあんまり見えなかったけど、一旦バラして組み直すっぽい。なんか意外なものでも発見されたら面白いのにな…沖縄のお城跡みたいに3~4世紀の古代ローマのコインが出てくるとかさ、うわーってなるよ?

 

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二ノ鳥居付近。たまにこの手の橋を神社で見るけど、けっこう渡りづらそうよね。無理して作らなくても、とつい思ってしまう。神事に関係あるとかなら仕方ないのかー。

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修復中の舞台(ブルーシートの向こう)と境内を示すお堀。お堀にはでかいカエルがうろうろしてた。

 

 

 ★★★☆☆

改修工事さ、いつ終わるのよ…?

 

<麻績神明宮>

創建年 長暦2(1038)年以降

御祭神 天照大御神

 

 

 

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一ノ鳥居と二ノ鳥居の間にある祠群。何を祀っているのだろうと気になり、この祠を見て回る。江戸時代の元号天明や文化など)の日付、名前+官職名、年齢が彫ってあるものもあった。なんなのこれは? と考えたが。名前、すべて同じ名字だった。

つまりはここの神主のお墓? 神道式のお墓というのは見たことがないし(ぐぐってみたけどこんな形じゃなかったぞ)、神社の境内ではない(境内に祀ると神様になってしまうんだろうか)けど隣接した部分に葬るのだろうか。神主さんたちが奉納した祠とも考えたけど、じゃあそれが境内に入ってない理由がよく分からない。…えええーやっぱりお墓?

青柳氏館+青柳宿

本来の目的地→青柳城

リベンジをしようと思ったが、諸事情(主に怖がられた為)で奥への探索を諦める。

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クマよけなのか、イノシシよけなのか分からないが、ゲートができてた。「開けたら閉める!!!」的なことが書いてあったので。私もコレにビビった。なんだか怖いよねえ(しかも天気があまり良くなく、ちょっと降りそうだし)。

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写真を振り返って見ても、特に怖さはなさそうだが…仰々しいゲートのせいか?

 

せっかくここまで来たので、何も見ずに帰るのもなんかなー? と思ったので。館跡のほうを見に行くことにした。館跡は集落に残っているらしい。

ここの集落は「青柳宿」として多くの旅人が行き交う宿場町だった。地元のボランティアさん作成なのか、↓の地図を配布していた。

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青柳宿に犬がいない理由が気になるー! 地図の内容から察するに、お狐様のたたりを恐れてかしら?

調べてみると、お稲荷さんの狐が昼夜3回見回りしてくれているので、この地区には災難がない。と言い伝えが残っているのだそう。なので、お狐さまに害を与えぬよう犬は絶対飼わないというお話。3匹の狐がそれぞれ1日1回づつ見回りしてるのかねー。

お稲荷さんの狐というので、3匹の狐のボスは里坊稲荷神社のおじょろさま狐になるのかも? おじょろさま狐って名前的に女の子っぽい。小女郎様→おじょろさま? この里坊稲荷神社では7年に1度、「狐の嫁入り」という、文字通り狐の嫁入り行列を再現する伝統のお祭りがある。花嫁の狐がでかい油揚げを咥えて嫁入りする、このあたりでは奇祭として有名らしい。御柱の翌年開催ということで、じゃ来年やるのかな?

 

地図を手に、駐車場を探しつつ細い道を走る。

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目的地は畑と畑の間の細い道の上にあった。「寺小路」という名前の道は細いが、駐車場はばっちり準備されていて、車を停めるのも楽々。駐車場が侍屋敷跡らしい。その他の区画も田畑や空き地ばかりなものの、綺麗に分けられているので元は何かの建物とかあったのかな?

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一本道をずーっと上がった、突き当りにこんな石碑が。地図によると現在は「清長寺」というお寺さんになっているようだが? 周りに民家が全くないので、とてもさみしい場所に思える。

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この清長寺さんは青柳学校という学校も併設されていたらしい。明治7(1874)年に清長寺を借りて学校としたものの、当初から手狭だったようで翌年には校舎を新築して改めて開校したという。後ろの白壁の建物がそのとき新築したものっぽい。明治19(1886)年には廃校となった。せっかく新築したのに、短い命だったな。

 

清長寺は、天正元(1673)年に青柳頼長の創建。元は少し離れた場所(前述の里坊稲荷神社)にあったが、青柳氏を滅ぼした小笠原氏が青柳氏の館跡に移したものという。頼長さんの父・清長さんの菩提寺ということで、その名をとって「清長寺」という。

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お寺は石垣の上に建っている。

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まったく読めず。

 

さてお寺さんは↓

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おしゃれな鐘楼。ただし戦時中、鐘を供出してしまいその後は鐘なし。

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廃寺じゃないですか…。しかし名前も地図に残されているし、裏手に墓地も残っていたので、単に住職がいないだけなのか? 大昔流行った「杉沢村」思い出しちゃった。中を覗く勇気はないものの、廃屋自体は好きよー。

奥の墓地には清長さん・頼長さんの奥さまのお墓があるそうです。清長さんと頼長さんのお墓は碩水寺にある。清長寺は碩水寺の末寺にあたる。

↓前回見に行った碩水寺

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ここからも青柳城への登山道があるが、少し荒れてる? 上にも駐車場もあるし、わざわざ登っていく物好きな人もいないよね。

 

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侍屋敷跡(駐車場)より見た青柳氏館跡。木がボーボーだー。

 

さて、青柳宿。

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栄えた雰囲気のある宿場町。↑は本陣・問屋跡の青柳家。元領主の青柳家は江戸時代にはここに住んでいたようだ。元は青柳氏の城下町として発展したらしく、慶長年間(1598~1615)に松本城主だった小笠原秀政善光寺街道を整備したときに、ここを宿場と定めたみたい。青柳宿の長さは東西約600m。善光寺長野市)側で左に曲がるが、その折れた辺りの「横町」という地区を含める。家数は89軒という。

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真ん中が善光寺街道。両側の家々は新しいものもあれば往時を偲ばせる古民家もある。公民館らしき建物もあった。ほぼすべての建物の玄関に屋号の札がかかっていた。

この宿場町の特徴として、こんなものが。

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石組用水路と呼ばれるもので、坂道に並ぶ家の生活用水路らしい。地図を見ると、ちょうど坂の上に川が流れていて、そこから取水しているようだ。下にも川があり、石組用水路と接続しているように見える。町内にはこの他に井戸4、湧水1、鉱泉2と山の中とは思えない水資源の充実ぶり。このあたりは山の中で平らな土地を確保することが難しかったらしく、このような石垣を作ってその上に屋敷を建てたらしい。なんか…相当お金持ってた匂いのする村だねえ。うらやましい。

横町を更に進むと、もう一つ名所がある。

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切通し。削り跡も生々しい。路面に近い下の部分は昭和30(1955)年に適当な感じで削ったもので、他はノミを使い人力で削っている。切り開かれた年は天正8(1580)年、領主の青柳頼長さんによる。元禄11(1698)年の記録では「長さ約25.15m、横2.58、高さ3m」という規模。これが享保元(1716)年、明和6(1769)年、文化6(1809)年、昭和30(1955)年と拡張されてきた。現在は「長さ27m、幅3.3m、高さ6m」。

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軽トラでちょうどいいサイズかなぁ?

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この切通の両側あちこちに「磨崖仏」が。ここの崖を削ったり、露出している岩を彫刻して仏の姿を造る。石仏とは違う、磨崖仏は移動ができない。十数年前にタリバンバーミヤンの大仏を爆破したが、あれの小さい奴がここにはいっぱいある、ということです。

右側上部には普請記録と馬頭観音、周辺には百体観音が安置されていた。とあった。

この切通しは「大切通し」といい、道の先の麻績村側に「小切通し」があるとのこと。

宿場町は見どころが多く、全部回りきれなかったわ残念。

 

 

★★★★☆

青柳氏館よりも切通しのほうが見ごたえあった。

 

 

<青柳氏館>

築城年 不明

築城主 青柳氏

構造 平城

福島城

須田城から近いので、福島城にもちょっと寄ってみた。

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ここは昔の宿場町「福島宿」である。この場所は千曲川の渡船場と北国街道の脇道(松代道)・大笹街道という2つの街道が交わる交通の要衝であった。松代道はその名の通り松代を経由する道、大笹街道は長野県須坂市福島から菅平高原を通り群馬県嬬恋村大笹を結ぶ道(冬季閉鎖するらしい)。ここから大笹という場所に向かうので、大笹街道と言われている。逆に群馬側からは信州街道・仁礼街道(福島宿の隣の仁礼宿から)と呼ばれる。

昔の物流は宿場町から宿場町へ渡す、という仕組みだったらしく。宿場町についたら荷を渡し載せ替えて、次の宿場町へ向かわせるというリレー方式。料金は宿場町間毎にかかり、同じ行先でも宿場町の数が少ない街道を通ったほうが配送料が安く上がる。北国街道の沓掛宿から沓掛道(沓掛宿と大笹宿を結ぶ)・大笹街道経由なら3つの宿場町を通過するだけで着く。沓掛宿よりさらに北国街道を進むと12つも宿場町があるようだ。善光寺や松代に物資送るにしても大笹街道使った方が断然安い。そのため荷物が大笹街道経由でガンガン送られるようになり、北国街道筋の宿場町の関係者に「大笹街道廃止しろ」と裁判起こされたりもした。揉めに揉め裁判合戦にまで発展したり。

しかしながら幕府が整備する高規格道路・北国街道より格が落ちるため宿場町としては少し地味な様子。現在重伝建地区に指定され昔の面影がそのまま残っている旧宿場町、海野宿や奈良井宿に比べれば、賑々しさは感じられない。

 

松代道は慶長16(1611)年に松代藩主だった松平忠輝より整備されたという。幕府が同じ時期に整備した北国街道の丹波島の渡しが増水で船を出せなくなること(川留め)が度々ある難所で、松代道はその迂回路として成立した。福島宿の渡し場(布野の渡し)は滅多に川留めにならず、便利だったらしい。江戸時代以前では布野の渡しルートが正式だった時期もあるそうで、そのくらい信頼感ある渡し場だったようだ。だったら松代経由を正式ルートで採用しとけ。と思うけども。それが出来なかったのは大人の事情があったのかしらね…。

大笹街道の方も、戦国時代に一部が真田氏の軍用道路として使われていたこともあり古そう。長野・群馬の県境にあたる鳥居峠嬬恋村にはヤマトタケルの伝説が残ってるとか…古代から続く由緒ある道なのかも。

 

福島城は、須田城から須田氏が移ってきたときに作られたとされる。立地はともかく、お城としての機能など須田城のほうが良かったかもしれない。引っ越しは臣従した武田さんの指示だったのかも。

現在はこんな場所↓

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左側のコンクリ柱には「福島居館跡」とうっすら書いてある、もうボロボロな木の杭があった。背の低い記念碑のほうが新しく立派で、説明文も添えられていたた。

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これによると、弘治年間(1555~1558)から天正13(1585)年までの約30年間、この場所には福島城が存在していた。

こういう場所なので↓

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お城っぽいものはなにもない。ちなみに、中央奥へ伸びていく道が「大笹街道」である。果樹園・田んぼばかりの普通の田園風景。

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なんと長閑な。須田城より移ってきたときもこんな感じの風景だったのかねえ。

福島城はお城っていうより街道の見張り小屋みたいなもんだったのかな。須田城よりもずっと規模が小さいと思う。記念碑のある果樹園と、道路を挟んだ向かいの田んぼが福島城のすべてらしい。

 

戦国時代に信濃侵攻してきた武田方の配下になった須田城の須田さん、武田滅亡後は上杉さんに従うが、天正13(1585)年に真田昌幸さんのお誘いを受け徳川さんの家来になろうとする。これに気づいた上杉景勝さんが福島城を攻め、この系統の須田さんが滅亡。福島城もそのまま廃城になった。

というか、こんな場所の城など攻められたらひとたまりもないな、と素人でも思う。攻め込める場所多過ぎよー。須田城だったらまだ少し戦えたかもしれない。

 

福島城だったはずの場所の真ん中には、大笹街道が走っている。廃城後に道を通したのか、はたまた凹を逆さにした(奥行きのある櫓門+左右に多門櫓の)ような建物だったのか。

城跡付近は微妙な高地になっている、というけど。考えてみれば堀も土塁も残ってない。何度か区画整理が行われているそうだが、記念碑を建ててるのに遺構が全くない状況も何か…あっ元々なかったのか? と疑ってしまいそうな。

福島城は須田信頼さんという方が築城したと言われている。実際このお城に入城していたのは信頼さんの息子・信正さんだという(信頼さんの動向は謎)。ここで景勝さんに滅ぼされたのも信正さん。須田城が廃された年は天正13年ではなくもう少し後なので誰か入城していたはず。大岩城の須田さん(上杉家NO.3の須田さん)は当時真田昌幸さんが徳川氏から離反してきたときの交渉役を務めており、海津城将であったという記録がある。なので須田城にはいなかった。

ホントの本拠は須田城と麓の須田館だったのかもー、当主は信正さんじゃなくて信頼さんだったのかもねーと妄想しました。真田昌幸から徳川に寝返るよう誘われた時に応じたのが信正さんだけで、信頼さんが乗らなかったから須田城は助かったのかもしれない。などと色々考えると楽しい。

 

 

★☆☆☆☆

住宅地の中にあるお城跡たちよりも、ずっと遺構が少ない。やっぱり見張り小屋の類だったのかも…。

 

 

<福島城>

築城年 弘治年間(1555~1558)

築城主 須田信頼?

構造 平城

 

須田城

ちょっと山に登ってみたくなった。今回のぼるのは須田城。 

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この山の頂上にある。山っていってもかなり標高は低く、お城まで行くのにあんまり時間はかからないらしい。

今回の入口↓

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右手のお寺さんは興国寺。しばらく興国寺さんが管理する墓地を通る(でも遊歩道になってるはずなの)。左はテニスコート

先客がいらっしゃった。先客のおじいさんは足が速く、だいたい同じくらいに遊歩道を歩き始めたにもかかわらず、あっという間に見えなくなる。

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出た、分かれ道。須田城はまっすぐ、臥竜山方面の右に曲がると、堀切跡を利用した橋があるようだ。おじいさんは遠目で右の臥竜山方面に曲がったが、私はそのまままっすぐ。

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石段が現れたー。

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石段をのぼると、途中で右曲り。しかし、まっすぐの道もあった。なんだ、この道は? 石段できる前の古い道か? と歩を進めたが。

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石仏が2体あった。で、道は分からなくなった。

元に戻る。

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石段の先には先ほどの看板にあった阿弥陀堂と思われる建物が。

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そして、さっきのおじいさんにまた会う。きっと石段を歩きたくなかったから、大回りしてきたのかな? ここまでの別ルートがあったのか。おじいさんは引き返し、おそらく臥竜山のほうへ消えていった。こちらは更に奥へ進む。

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また石段、その先に何かある。

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須坂藩第13代藩主・堀直虎(1836-1868)公霊廟、だそう。堀氏というと、信長さんに仕えて有名になった、なんでもこなせる名人の堀さんと同じ苗字だし、子孫かねえ? 調べたら、その名人さんのいとこの奥田(のちに堀姓)さんの子孫にあたるようだ。

堀直虎さんは幕末の大名で、大リストラやって須坂藩の財政再建に成功したり、早い段階で須坂藩に洋式軍制を取り入れたり、と革新的なお殿様だったらしい。その功績で外様の小藩主にも関わらず、外国総奉行という幕府の要職に就任。慶応4(1868)年に江戸城で自殺したそうな。時の将軍・徳川慶喜様に諫言した直後に、自害とかなんとか…。時系列としては、

慶応3(1867)年10月14日 大政奉還

          12月 5日 堀直虎若年寄兼外国総奉行に就任

              9日 王政復古の大号令徳川慶喜、政界を追われる)

慶応4(1868)年 1月 3日 鳥羽伏見の戦い始まる

              6日 徳川慶喜、逃亡(江戸到着11日)

             17日 堀直虎江戸城内で自殺

で、かなり展開が早くてクラクラしそう。

慶応4年1月に堀さんは江戸にもどった将軍に謁見し「敵前逃亡よくないし、しかも家来を見捨てて帰ってくるとかさ」と怒ったと言われている。その説教に耳が痛くなった慶喜様は席をぷいっと立って出ていってしまった、そして堀さん切腹。という経緯らしい。田舎から立身出世した30代前半の男が幕府高官になって1か月半、上司の将軍(将軍様も30代前半)と喧嘩して自殺か…凄い時代だ。なんか私、大政奉還したときの徳川慶喜って50歳前後のオッサンだと思い込んでた、意外と若かったのね。

この霊廟も、須田城の郭跡地に建てられているようだ。

 

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この看板では、この先一本道で須田城にたどり着きそう。

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道が…そこらじゅうで枝分かれしているのですが…。とりあえず景色の良さそうな方向へ向かおう…こんなしょぼい山で迷子になんかならないさー。

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眺めが良い感じになったところで、また高台へ上る段が現れる。

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予想では、この上が須田城主郭かな。のぼってみる。

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当たりだーやったー。「ぐるっと1周コース」と「のんびりロマンチックコース」があったらしい。自分はどっちのコースで来たのやら? あちこちで道が分かれていたのはそのせいなのか。

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何かの建物跡。

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↓主郭のすぐ下に桝形の跡があるらしい。

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桝形は主郭と二の郭の間に作られていた。二つの高台から一斉射撃し、下まできてる敵兵を桝形で一網打尽にする、という戦略らしく。確かにここから下の方は見やすかった。このお城の見どころは桝形らしいが…行くのはちょっと嫌な感じがしたのでやめました(主郭直前でヘビに出くわしたのよね)。

 

設置されている説明板によると。ここは須田さんのお城で、大岩城の出城ではなかったか、と推定されているそうな。言われてみれば、狭いし本拠城ではなさそうな感じは確かにする。山城はこんなもん、と言われても私は納得してしまいそうだが。 

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祠? 屋根と台座しかない。

 

須田さんというのは、平安時代須坂市井上に土着した井上氏の分家とのこと。井上満実の子・為実を祖としていると伝わる。

井上さんは信濃源氏の中で最も早く信濃に土着した家系で、源平合戦の頃には北信濃における源氏の代表格であったらしい。横田河原の戦いでは木曽義仲の軍に参加したが、上洛にはついていかずに源頼朝の軍に入っていったようだ。そのせいで代表格扱いなのだろうか。ただ、頼朝軍に加入した当主は頼朝に怪しまれて殺されたり、その後も武士団を上手く作れず、弱体化してしまったようだ。信濃から他国に引っ越す者も出て、日本各地に井上氏の子孫を名乗る一族が散ったとか。

須田さんは井上さんの分家でありながら、衰退した井上家をよそにどんどん発展していった。須田郷に攻めてきた井上氏を逆に打ち取ったという記録もあるらしい。その後も井上領を奪ったりして、大きく成長していった。

この須田城は大岩城の出城だったかも? と書いてあったが。須田さんは須田城を本拠とする系統、大岩城を本拠とする系統に分裂した。両須田家は当時勢いのあった村上さんの傘下に入る。が、村上さんも武田さんに負けて越後に亡命してしまう。大岩城の須田さんも越後に亡命したようだ。須田城の須田さんは居残り→武田さんの家来になったらしい。よく見るパターンだ。武田さんの家来になった後、福島城という城をつくり、そちらに移ったとも言われる。

須田城の須田さん、武田家滅亡後には上杉景勝さんに従った。しかし天正13(1585)年、徳川に臣従していた真田昌幸の誘いに乗って、徳川に内応した。と上杉に攻め滅ぼされたという。その後の須田家は大岩城の系統に統一されることとなった。

 

須田さんは上杉さんの家来として大活躍した。天正16(1588)年時点で須田さんは上杉家NO.3の座におり、須田満親さんは豊臣秀吉から豊臣姓を賜うという名誉に浴した。が、満親の長男は失脚し、上杉家から追放される。満親さんの跡をついだのが次男の長義さんで、この人は地味に凄い。

徳川家康会津征伐に呼応した最上軍(+伊達さんが出した援軍)が北から上杉を攻めた(徳川軍は関ヶ原に向かったので挟み撃ちにはならず)。関ヶ原の戦いが最上・伊達の属する東軍勝利で終わり、上杉さんは最上さんに敗れ、戦闘は終わったものの。伊達政宗さんは「ついでに領土を奪おう」と自ら軍を率いて上杉領に侵攻。

この時、須田長義さんは梁川城の城主となっていた。この梁川城、元々は伊達家のお城だった。伊達政宗初陣の時の伊達軍拠点であり、正室の愛姫さんがお輿入れの際の受け渡し場所だったりと思い出がたくさんのお城。なので長義さんは「絶対ここにくる」と思っていた。しかし伊達軍はお隣・福島城(←福島県福島市にあるお城。現在は福島県庁)に向かってしまった。長義さんは軍備を完璧に整えていたので、お隣にいった伊達軍を追いかける。福島城にいる本庄さんにも連絡して、伊達軍を挟み撃ちにした。で、伊達さんぼろ負け。政宗は悔しかったのか、その後もたびたび福島城を襲いにきたものの、上手くいかず。じゃあ、ということで梁川城を落としにきたが、やっぱり負けた。3,4回ほどの襲撃全部で負けてしまい。結果的に不問に付されたものの、この戦闘が家康に無断で行われた為、政宗の恩賞は少ない。(偉そうだったり、調子に乗った)有名人が無名の小物に負ける話、私は好きです。「バーカ」とか思います。

綺麗なアゲハチョウもいましたよー。

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眺めはこんな感じ↓

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↓主郭から階段下りて見上げる。たかーい。この上から矢を射かけられても、見えなさそうだー。

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ここから「あずまや」を目指してみる。

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今まで以上に道が入り組んでいる…。ところどころ広い場所もあり、そこからまた道が分かれていったり…地図が欲しいです。

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このあたり一帯には天明年間(1781~1788)に整備された「臥竜山百番観音」というものがあり、全部巡れば功徳があるよという霊場みたいになってるらしい。最初に見た石仏も、霊場に散らばった観音様の一部だったようだ。ひょっとしたらこの「臥龍山百番観音」を作ったために少し改変されてしまってるのだろうか。

↓こういう石仏が点在。この石仏の場所は二の郭だそう。

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もう少し行くとまた開けた場所が見えた。

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あずまや到着ー。ここは主郭の半分くらいの広さかな? 主郭から見えるのは本家の井上領や、武田家が進軍してくる方角。こちらはそれとは逆方向の眺め、上杉家の進軍してくる方角が見渡せた。

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あずまやを過ぎると、下り道のみ。が、ますます道が増えてる感じ。

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池が見えてきた。池に向かって進めば出られる(はず)。

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なんだかじめじめした、ちょっと気味の悪い場所…。日が当たらないせいなのだろうか。

ちなみに、私は裏から入ったと思っている。こちら側が敵さん攻めてくる設定になっていると思われます、というのも私が入った側には天然の堀になりそうな川が流れていたので。敵さんあんまり攻めてこないでしょう、なのでちょっと手薄でのどかな雰囲気だった。日も当たるしねえ。

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こちら側には、薄暗いけどBBQ会場にできそうな細長い平場(後で調べたが、帯郭というやつかもしれん)があった。やはり防御施設とかの遺構はこちら側のほうがたくさんあるようだ。

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つづら折りの道を下りてきた。この道にはなんと。

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塹壕があったらしい。何気なく下りてきたが、戦時ならもう死んでるな私。茂みだらけで、兵士が隠れられそうな場所いっぱいだった。

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池側の入り口に到着ー。

 

滝というのがこれ↓

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「弁天滝」といい、農業用水を使って滝に見せているそうだ。人工物なのね。

山の上の方から見えていた、大きな池は「竜ヶ池」という、これまた人工池。

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竜ヶ池の前身は、須田さんの館跡だとか言われていますが…。だとしたら、めちゃくちゃでかい家ですねー。

ちょっとポケゴを起動させたら、コイキングがたくさん跳ねてた。さっきの弁天滝のあたりにもピチピチ。とりあえずコイキングを数匹捕まえておいた。ひょっとするとここには滝登りに成功してギャラドスに進化したやつが出てくるのかもしれない…夢のある話ね。

 

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帰りに地図を発見。しかし、我々がたどった道はこの地図に載ってないと思う。

 

 

★★★★★

遺構全部見ることができなかったけど、大満足だあ!

 

 

<須田城>

築城年 不明

築城主 須田氏

構造 山城

 

 

 

 

 

車のある駐車場まで、動物園内を通行。

アカカンガルーのハッチで有名になった須坂市動物園。(私はミーハーなので)ハッチを見に2回ほど来たことがある。それからずいぶん経っている。だいぶ様変わりしていた。

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トラ兄妹は御健在。

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ペンギンやフラミンゴもいた。有名になったアカカンガルーはいない(どうやら他園に行ったりお亡くなりになったりしてしまった模様)。猛獣好きなのでトラ見られれば充分ですがね。

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せっかくの動物園だが、子供は山歩きに疲れてしまい、途中から寝てしまう。ごめんよ。

 

大堀館(町田氏館)

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現在は更北中学のグラウンドになっている「大堀館」跡。大堀さんという方が建てたのではなく、町田さんのおうちと言われています。町田氏館と呼ばれてはいますが、この近所にも「町田氏館跡」という場所があり、おそらくそれと区別するためにこっちは大堀館跡と称しているのかも?

天文24(1555)年の第2次川中島合戦は別名、犀川の戦いと言われる。犀川を挟んで北側を上杉(長尾)軍、南側を武田軍が布陣し200日ぐらい延々と対峙し続けたらしい。そもそものきっかけは、栗田城の栗田さん(里栗田、善光寺別当)が武田さんに寝返ったことであり、朝日山城に立てこもった里栗田さんを上杉さんが落としに出かけたことで始まった。里栗田さんの朝日山城は落とせないし、犀川南岸にやってきた武田さんも倒せないし、お互い疲れちゃって「もうやめよかー」と今川義元さんに仲介してもらい戦後処理をした。これで、第2次川中島合戦はおしまいになった、という。

このとき武田さんが本陣として使った施設が、この大堀館とされている。

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けっこう太い木が校庭周りにある。

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更北中が開校したのは具体的にいつか知らないけど、太平洋戦争後(1945年以降)であるようだ。戦後植えられたとは思えない。どう見ても幹は太く、それより昔からここに生えてました。という様子の木が並んでいる。

 

その他周りの様子↓

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町田氏はこの付近を領地とする豪族であった。天文22(1553)年に町田正之さんは武田家の家来になった。町田氏は信玄と勝頼の2代に仕え、武田家滅亡ののちに上杉家家臣、上杉氏が会津に移ったタイミングで帰農。武田家臣時代には戦争で活躍したそうで、須坂市や静岡県静岡市清水区にも領地をいただいていたとのこと。

更北中学ができる前までは堀も土塁も存在していたらしい。が、今は何ひとつ残っていない。

 

大堀館は火災に遭い、別の場所に新しく屋敷を建てた。それが現在「町田氏館跡」と呼ばれている場所のようだ。町田さんが転居したあと郭跡は農地に転用されていたそうだが、周囲の土塁や堀は壊されることなくそのままになっていたという。

享和3(1803)年に松代藩家老が長徳寺を訪れたとき、大堀館跡の様子を書き残していた。それによると、

・四方に土居(土塁)がめぐらされ、その上には樹木が生い茂っている

・土居は南北約40m、東西約32m、幅が約6.4m、高さは約4.5m

・土居の外、四面に堀がある

・堀は幅約7.3m、深さ約3m

・内部は単郭(享和3年当時は畑になっている)

・隅に町田正之夫妻の供養塔? 二人の法名が刻まれた石碑がある

いちいち書き残すぐらいだから、規模が大きく立派な館跡だったかもしれない。甲斐から遠征中の武田軍の本陣に200日も使われるぐらいだしな。武田軍の兵数がどのくらいか知らんけど、本陣には数百人詰めてたかもね。

元領主だった町田家はお金持ち(豪農)である。その辺の農民とは違う。前述の松代藩家老が大堀館跡のデータと共に、町田氏は藩に献金をして賄格となり、十二人扶持となる、と記している。賄格というのがよく分からないけど、字面的に食事関係の役職だろか。十二人扶持は役職についたので手当もらえるということらしい。ざっと調べたところ、一人扶持は年に5俵の手当であるようだ。十二人扶持だと年60俵。現代風の感覚だと1俵10万円くらいじゃないかという説を見た。それだと、年600万円の支給か。

町田さんは藩に千両の献金をした。昔の米の値段で比較すると、1両=4万円だという。なんか、大工の手間賃換算で1両=30~40万、蕎麦換算で1両=12~13万とあって、現代とは経済の仕組みや物の価値が全く違うので一概に「1両=○万円」とは言えないらしい。考えてみたら、給料が米だった時代の話だしなぁ…。米基準で考えると、献金は4000万円かなー? 元を取るには7年かかっちゃうね。前述の松代藩家老の書き残した内容だと、享和3年時点で一代前の当主が献金とあるので…献金後7年以上経過してるのかな。ついでに名字帯刀も許されて名誉もつくならいいよね。

 

更北中ができる前の、古い空撮の写真がいくらか残っていたので見た。グラウンド部分は完全な森だった。グラウンド周りの道もひょっとしたら堀跡かもしれない。

グラウンドの北側には、謎の祠もあった。

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大堀館に関係あるものかしら?

 

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ちなみに、更北中のグラウンドだけが大堀館跡であって。校舎や体育館のある場所は関係ないそうです。

 

大堀館跡にあった、町田正之夫妻の石碑は近隣の長徳寺↓に墓として移されている。

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焼失した大堀館に代わる新しい屋敷「町田氏館」は、この長徳寺の北側にあった。現在は畑。大堀館がなくなった時期は謎だが、町田氏が帰農した跡に建てたなら…お城とは言えないかもしれない。堀らしきものを見つけたが、私の実家の近くにあるものすごく古い屋敷(元酒屋だという。女の人と楽しく遊べる場も提供していて、この酒屋でうちの先祖が酒池肉林の生活に溺れて財産失ったとか)にも堀があるので、堀がある=城館ではなさそう。

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↑中央付近の背の低いマサキの垣根の辺りがそうだという。

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↑ここ。下の図で示された撮影場所、あとは人の家なので。左側の社には石仏が、しかしなんだかよく分からず。ちょっと怪しい?と思ってしまった…。石仏のいらっしゃる社の裏側に堀らしきものがある。

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民家の周りのぐちゃぐちゃのヤツはでかい木のつもりです!

こういう場所なので入りづらく、不審者に思われないように辺りを警戒しつつ撮影。

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社の近くには道祖神庚申塔がひっそりと。

 

 

★★★☆☆

跡地は学校&民家(畑)であまり観察できない。そしてよく探さないと跡が見つからない…ゲーム感覚な楽しみ方。

 

<大堀館>

築城年 不明

築城主 町田氏?

構造 平城

 

<町田氏館>

築城年 不明

築城主 町田氏

構造 平城