お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

福島城

須田城から近いので、福島城にもちょっと寄ってみた。

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ここは昔の宿場町「福島宿」である。この場所は千曲川の渡船場と北国街道の脇道(松代道)・大笹街道という2つの街道が交わる交通の要衝であった。松代道はその名の通り松代を経由する道、大笹街道は長野県須坂市福島から菅平高原を通り群馬県嬬恋村大笹を結ぶ道(冬季閉鎖するらしい)。ここから大笹という場所に向かうので、大笹街道と言われている。逆に群馬側からは信州街道・仁礼街道(福島宿の隣の仁礼宿から)と呼ばれる。

昔の物流は宿場町から宿場町へ渡す、という仕組みだったらしく。宿場町についたら荷を渡し載せ替えて、次の宿場町へ向かわせるというリレー方式。料金は宿場町間毎にかかり、同じ行先でも宿場町の数が少ない街道を通ったほうが配送料が安く上がる。北国街道の沓掛宿から沓掛道(沓掛宿と大笹宿を結ぶ)・大笹街道経由なら3つの宿場町を通過するだけで着く。沓掛宿よりさらに北国街道を進むと12つも宿場町があるようだ。善光寺や松代に物資送るにしても大笹街道使った方が断然安い。そのため荷物が大笹街道経由でガンガン送られるようになり、北国街道筋の宿場町の関係者に「大笹街道廃止しろ」と裁判起こされたりもした。揉めに揉め裁判合戦にまで発展したり。

しかしながら幕府が整備する高規格道路・北国街道より格が落ちるため宿場町としては少し地味な様子。現在重伝建地区に指定され昔の面影がそのまま残っている旧宿場町、海野宿や奈良井宿に比べれば、賑々しさは感じられない。

 

松代道は慶長16(1611)年に松代藩主だった松平忠輝より整備されたという。幕府が同じ時期に整備した北国街道の丹波島の渡しが増水で船を出せなくなること(川留め)が度々ある難所で、松代道はその迂回路として成立した。福島宿の渡し場(布野の渡し)は滅多に川留めにならず、便利だったらしい。江戸時代以前では布野の渡しルートが正式だった時期もあるそうで、そのくらい信頼感ある渡し場だったようだ。だったら松代経由を正式ルートで採用しとけ。と思うけども。それが出来なかったのは大人の事情があったのかしらね…。

大笹街道の方も、戦国時代に一部が真田氏の軍用道路として使われていたこともあり古そう。長野・群馬の県境にあたる鳥居峠嬬恋村にはヤマトタケルの伝説が残ってるとか…古代から続く由緒ある道なのかも。

 

福島城は、須田城から須田氏が移ってきたときに作られたとされる。立地はともかく、お城としての機能など須田城のほうが良かったかもしれない。引っ越しは臣従した武田さんの指示だったのかも。

現在はこんな場所↓

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左側のコンクリ柱には「福島居館跡」とうっすら書いてある、もうボロボロな木の杭があった。背の低い記念碑のほうが新しく立派で、説明文も添えられていたた。

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これによると、弘治年間(1555~1558)から天正13(1585)年までの約30年間、この場所には福島城が存在していた。

こういう場所なので↓

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お城っぽいものはなにもない。ちなみに、中央奥へ伸びていく道が「大笹街道」である。果樹園・田んぼばかりの普通の田園風景。

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なんと長閑な。須田城より移ってきたときもこんな感じの風景だったのかねえ。

福島城はお城っていうより街道の見張り小屋みたいなもんだったのかな。須田城よりもずっと規模が小さいと思う。記念碑のある果樹園と、道路を挟んだ向かいの田んぼが福島城のすべてらしい。

 

戦国時代に信濃侵攻してきた武田方の配下になった須田城の須田さん、武田滅亡後は上杉さんに従うが、天正13(1585)年に真田昌幸さんのお誘いを受け徳川さんの家来になろうとする。これに気づいた上杉景勝さんが福島城を攻め、この系統の須田さんが滅亡。福島城もそのまま廃城になった。

というか、こんな場所の城など攻められたらひとたまりもないな、と素人でも思う。攻め込める場所多過ぎよー。須田城だったらまだ少し戦えたかもしれない。

 

福島城だったはずの場所の真ん中には、大笹街道が走っている。廃城後に道を通したのか、はたまた凹を逆さにした(奥行きのある櫓門+左右に多門櫓の)ような建物だったのか。

城跡付近は微妙な高地になっている、というけど。考えてみれば堀も土塁も残ってない。何度か区画整理が行われているそうだが、記念碑を建ててるのに遺構が全くない状況も何か…あっ元々なかったのか? と疑ってしまいそうな。

福島城は須田信頼さんという方が築城したと言われている。実際このお城に入城していたのは信頼さんの息子・信正さんだという(信頼さんの動向は謎)。ここで景勝さんに滅ぼされたのも信正さん。須田城が廃された年は天正13年ではなくもう少し後なので誰か入城していたはず。大岩城の須田さん(上杉家NO.3の須田さん)は当時真田昌幸さんが徳川氏から離反してきたときの交渉役を務めており、海津城将であったという記録がある。なので須田城にはいなかった。

ホントの本拠は須田城と麓の須田館だったのかもー、当主は信正さんじゃなくて信頼さんだったのかもねーと妄想しました。真田昌幸から徳川に寝返るよう誘われた時に応じたのが信正さんだけで、信頼さんが乗らなかったから須田城は助かったのかもしれない。などと色々考えると楽しい。

 

 

★☆☆☆☆

住宅地の中にあるお城跡たちよりも、ずっと遺構が少ない。やっぱり見張り小屋の類だったのかも…。

 

 

<福島城>

築城年 弘治年間(1555~1558)

築城主 須田信頼?

構造 平城

 

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