お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

松代城の総構え+寺社

松代城は総構えというカッコイイ防御システムを持っていた、ということを最近知った。今まではちんまりとしたお城というイメージしかなかったの。

総構えとは、お城と城下町の周囲を土塁と堀で防御して町ごと全部守っちゃおう、というもの。ヨーロッパだと石造りの高い城壁で取り囲み、お城や街を守る。中国はそれより凄い、万里の長城という壮大な防御壁がある。しかし日本だと土塁と空堀で防御、海外と比べたら見た目の印象がちょっとイマイチ。なんか原始的というかね…。

「総構え」で一番有名なお城は小田原城だと思う。とにかくでかい。小田原市すべてを守ってくれる規模だそう。総延長9キロ。

最古の総構えは南北朝時代に築城された伊丹城有岡城)というが、総構えの歴史はそこまで古くないようだ。天正2年に織田さんの家来やってた荒木村重さんが改修したときに総構えを作ったみたい。このとき、日本初の天守閣も作ったそうだ。

 

今、松代城の総構えが残っている場所は2か所。

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ひとつめは「寺町」。文字通り、お寺密集地。

慶長年間は1596年~1615年で、このあたりの支配者は上杉景勝豊臣秀吉→森忠政(蘭丸の弟)→松平忠輝(家康6男)と代わっており、このあたりの皆様でゆっくりと城下町を作り上げていったのかもしれない。

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こんな感じの場所。まずは證蓮寺。

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 ここの墓地の南側に、土塁が残されている。通り過ぎる。證蓮寺のお隣には大林寺というお寺さんがある。

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ここは、元和(1622)年、真田信之が上田から松代へ移封したときに、母・山手殿のお墓がある大輪寺から母の霊を分霊してもらい、松代に建てたお寺。家人に上記を説明したら「はぁ?」と言われてしまったが、「大泉洋が建てた、高畑淳子を供養するための寺」って言ったらすんなり理解してもらえた…。

ここの北側に松代城の総構えの土塁がある。それが證蓮寺と大林寺の境界かと思ったら。なんと證蓮寺と大林寺の墓地は境界を示す柵がなく、行き来できちゃうのだぁ。

↓左に見える白っぽい屋根:證蓮寺、右の林の合間に見える黒っぽい屋根:大林寺。

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さすがに墓地の写真は無理なので。おうちに帰り、5分で描いた絵↓

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石垣が総構え跡と思われます…。ブロック塀は総構え跡の上のお墓を囲ってるやつです。この周りもすべて墓地なので、何が何だか分かりません。墓地をうろついていると門が。

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進んでいくと、證蓮寺の本堂がありました。ちょっと最初戸惑いました。

 

元々の松代城は、この辺一帯の領主様の清野さんの館だったそうで。清野さんは村上さんの家来だったのが、武田家の信濃侵攻で武田さんにつくことにした。そのときに屋敷を武田軍に接収されてしまったそうです。武田さんは奪った館を改造し、出来上がったのが松代城。屋敷を取られた清野さんは現在の大英寺あたりに新しく館を作ったとか。ちなみに大英寺は小松姫菩提寺です。

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大英寺は現在改修中。

大林寺と證蓮寺と同じく、大英寺とお隣の本誓寺も墓地がつながってた。

 

寺町は地蔵峠という松代と昔の真田町をつなぐ峠道の入り口に当たる。城下町のお寺さんは有事の際は砦みたいな機能を果たすので、墓地を地続きにしちゃうとか、こんな変わった構造にしたのかも? 大林寺、大英寺ともに松代藩から手厚い保護を受けていたそうです。しかし総構えは城下町の人口増で邪魔になったとのことで、あっさり壊されてしまったようです。 

 

松代は城下町の各屋敷の庭に水路(水道)を作ったという、ちょっと変わった特徴がある。泉水路という名前のその水道は隣の家からまた隣りへと、個人宅の敷地内を流れてずっとつながっている。上流域の屋敷の庭で水路を詰まらせると、水が流れてこない下流域の住人たちが当該住人を吊し上げる、ということもあっただろう…みんな自分の家を流れる泉水路を一生懸命掃除して綺麗にしただろうね。そんなこんなで、今でも松代は水がとてもきれい。

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沢蟹まで住んでいる(この子はうっかり水路から出てしまい、夏の暑さにやられてあの世に行ってしまったようだ)。泉水路は現在でも稼働中。去年だったか、その前の年か、泉水路を初めて一般公開(普段は個人宅の庭先を流れているものなので、もちろん非公開)したとか聞いた気がする。小学生のころ、城下町から歩いて10分くらい離れた住宅地で蛍を見たが…今でも見られるのかしら?

 

総構え、もうひとつは長国寺にあるという。

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ここは真田家歴代藩主のお墓がある。あと、城下町の端っこにもあたる。長国寺の裏側に残っているらしい。奥の方は(大人の事情で)見に行かなかった。

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↑こんなバスがあったよーイラストの人物は誰なのかしらー?

 

★★☆☆☆

気づくとお寺めぐりしてた!!

 

松代城 総構え>

設置年 江戸初期

 

 

その他見た場所。

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佐久間象山が蟄居した聚遠楼跡。安政元(1854)年にお弟子さんの吉田松陰さんがアメリカへ密入国をしようとした事件のとばっちりで蟄居。

 

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蓮乗寺。お祭り(8/8,9の二日間)があったらしい。七面さんこと七面大明神さんの縁日。ちなみに七面大明神七面天女)は日蓮宗の神様。法華経を守護する女神様だそう。

 

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↑祝神社

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↑宗像社

祝神社、通称・お諏訪さん。その名前の通り健御名方さんを祀り、御柱やってる神社。が、主祭神は生魂命さん。元は東条の山の上にあった(その旧跡は「祝畑」と呼ばれているようだ)。

歴史はとても古く、延喜式内神社であるという。実は延喜式に載ってた「祝神社」とは屋代の須々岐水神社のことだという話もある(この神社もけっこうでかい)。須々岐水神社は中世に別の名前を名乗っており、松代にあった諏訪大明神の神社(現・祝神社)に「名乗っていいよ」と許可を与えたという。名の件はともかく、東条にあった旧宮も創建年代が伝わらないほどの古さであった。

慶長3(1598)年に東条から生魂命を、海津城松代城)の二の丸から健御名方さんと奥様の八坂斗売さんを、現在の神社に合祀したんだそうな。この当時は「諏訪大明神」と呼ばれていた。宝暦元(1751)年に祝神社に改称。

諏訪の神様たちは、天文22(1553)年に武田さんが改修した松代城内に勧請したもの、と伝わる。清野さんの館を接収したのは、この年なのかしら?

 

更科御所?

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佐良志奈神社は、このあたりの地名「更科」と同じく「さらしな」と読む。万葉仮名を使っているかのような名前。創建も古く、神社に伝わる話では允恭天皇の皇子・黒彦王の勧請という。允恭天皇は中国の歴史書「宋書」「梁書」に出てくる倭の五王の済にあたる、と言われている。2つの歴史書に出てくる済は443年~451年(または460年?)に登場している。済の息子さんとされる興(安康天皇)・武(雄略天皇)は462年~502年。黒彦王はこのあたりの時代を生きていた人とすれば、神社の創建もこのぐらいかな?

調べたら、允恭天皇の第二皇子に境黒彦皇子という人がいた。安康天皇の次の皇位継承のゴタゴタで殺されたようだ。この方かしら?

安康天皇は殺されてしまったらしい。そもそものキッカケは、天皇の位にあった安康天皇が自分の叔父さんを誅殺し、叔父の妃を皇后に立てた事。叔父夫妻の子・眉輪王は皇后の連れ子として育てられた。彼はあるとき養父の安康天皇が実父殺しの真犯人だった、と気づいて安康天皇を殺害するという事件が起こった。なんかコレ、似たような話なかったっけ? と色々調べたがよく分からず。シェイクスピアハムレットがちょっとだけ似てた。

眉輪王は境黒彦皇子と一緒に逃げた。雄略天皇が軍を差し向け二人を殺している。安康天皇は後継者を指名せずに崩御したので、境黒彦皇子や他の有力皇子を雄略が一掃してしまったようだ。有名なワカタケル大王というのが雄略天皇とされる。境黒彦皇子は信濃と関係しているという記述は見つからなかったが、この神社の近くに「黒彦」という地名が残っている。

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↓今年は御柱の年(摂社があるらしい)。この神社の神職諏訪大社に奉公していた御縁で、御柱が行われているらしい。

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佐良志奈神社の御祭神は、応神天皇神功皇后仁徳天皇の三柱(それと正体不明の神様が1柱)。武水別神社と同じ八幡神を祀る神社? でも御祭神がちょっと違う。元々は八王子山にあった大鷦鷯命(仁徳天皇)を祀る神社?が仁和3(887)年に地震で倒壊し、麓の若宮八幡宮(佐良志奈神社の前身と思われる)に合祀されたという。この地震は仁和地震というM8~8.5クラスの巨大地震南海トラフが絡んでいるのに信濃もそうとう揺れたとか。東南海地震やばい。合祀された結果、御祭神がちょっと八幡神っぽいのに、仁徳天皇も含まれているちょっと不思議な感じになったのか。もしかしたら、不明の神様が八幡神比売神かもしれないねえ。

八幡神は皇祖神、古墳でおなじみ仁徳天皇は境黒彦皇子や眉輪王の祖父に当たる。創建年は不明だが、延喜式内神社ということで、少なくとも延喜5(927)年までにはあったはず。

仁徳天皇が祀られていた八王子社はこんな場所↓

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5月に景色を見ようとここまで上がった時に獣に出くわしたので、以来行くのは止めた。

 

ここの神社には、もう一つ気になる説明文があった。

正平年間(1346年~1370年)後醍醐天皇の皇子・宗良親王御潜居の折、暫定御所とした。とあった。その遺構が今でも微妙に残っているという。柏王こと信濃宮こと宗良親王だ。柏王神社で寝込んでたあの方。信濃における親王の本拠地は長野県大鹿村で、在住期間は興国5/康永3(1344)年~文中2(1377)年の約30年。正平年間というのを調べたら、は、そのほとんどを指している…。まあ、御所といってもメインで住んでなかったようで、支城みたいなもん?

いろいろ調べていくうちに、正平2(1347)年から数年だけ住んでたという伝承を見つけた。清涼殿にも「更科の里」というタイトルの襖絵があったとかで、姨捨と更科は都にも聞こえた名勝地だったみたい。ちょっと別荘建ててみたかったとか? 宗良親王は和歌がお上手で、更科の里に住んだときに詠んだ御歌もいくつかあるみたいだー。

 

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ここが御所だった、という証拠の一つという。逆修塚。宗良親王に従い、出陣する人々が自らの墓として建てた「逆修塚」と言い伝えられている。

正式名称は宝篋印塔。本来は宝篋印陀羅尼経というお経を納めるために作られた塔であったが、のちに供養塔や墓として建てられるようになった、とあった。宝篋印陀羅尼経というのは、一切の如来の奥深い悟りの神髄と全身舎利の功徳を集積した箱という陀羅尼(一番すぐれている教えを記憶保持する力)、という何かよく分からんが凄いものだったらしいが、私のような凡人には到底理解できそうにない。悟りの奥義をSDカードに保存しときましたよ的なもの?

オリジナルは中国だそうだが、日本にも伝播し鎌倉時代初期から作られるようになった。ちなみに、日本でこの宝篋印塔から宝篋印陀羅尼経が出てきた例はないそうです。日本では最初から墓という位置づけだったのか。

 

この塔の下には「信州若宮 永和二年 六月□□ 契約□□ 四拾五人」と刻まれている。45人分の墓だったのね。永和二年は北朝の年号で1376年を指す。宗良親王南朝の幹部。そんな方が北朝年号使うんかね、というツッコミがあって、南朝方のものかどうかは微妙じゃね? ということになってるとか。

 

メインの更級御所?の土塁跡はこの辺らしい↓

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境内から本来の鳥居までの間は↑こんな感じ。雰囲気あるー。

幹の太い木と不自然な盛り土。このあたりが御所の土塁じゃないかなと思われる。土塁らしきものはずいぶん低くなってしまい、木の根が露わに。

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公園もあったが、家が2軒も建てられそうな平地もあり使われていなかった。どうやら駐車場ということになっているらしいが。車は一台もなし。

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駐車場使用時。

 

本来の鳥居はこちら↓

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文久元(1861)年に建てられた神社の社標↓

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幕末に佐良志奈神社神主の松田(豊城)直友さんが正親町三条実愛さんというお公家さんの知遇を得て、社標の文字を書いてもらったものという。正親町三条家は大臣家(朝廷で兼務なしの内大臣までは出世できる、摂家清華家につぐ家格)で、一般人が簡単に会える身分の方ではない。この方は幕末に討幕派公卿の一人として活躍、討幕の密勅を薩摩藩に渡した人だってさー。

社標の側面は佐久間象山が書いたもの。男らしい堂々とした字で、正親町三条さんの教科書的な字より好きかも。

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松城 佐久間啓 書→佐久間象山。神主の松田さんと佐久間さんはお友達で、この地に佐久間さんが何度か訪れているそうです。ということは、佐久間さんの仲介で正親町三条さんに面会できたのかしら?

神主の松田氏も武水別神社の宮司のおうちと同じ名前。親戚だろうか。ちなみに、直友さんは武水別神社にライバル心を持ち、うちの神社も古い、延喜式に載ってると知名度アップに奔走したとか。それから、近隣から子供たちを集めて勉強を教えていたそう。こういう昔の篤志家って凄いな、と思う。私財や時間を費やして他人に尽くすなんて自分には無理。私のような心の狭い者は、近所のクソな御子様につまらんこと言われたら(このガキの脳みそ飛び出るぐらい石で殴り続けたい)と思い詰められてしまうだろう。まぁ、勉強教えてーってあちこちから集まってくるような子供達だし、みんなきっと志高く品行方正よね、暴言吐かないよね。直友さんの息子さんも国学者・教育者として地域に貢献したようだ。豊城氏顕彰碑もあった。

 

県道77号線側に白い石でできた綺麗な鳥居がある。この辺はたびたび千曲川の氾濫で水害に遭うことが多いようだが(説明板にも黒彦村の住人の移住分村が何度も行われたとあった)、南北朝時代の遺構があるぐらいだし神社の境内は古よりずっと無事なのか。ここの土地を選んだ人凄いな。

 

神社境内から離れると、やっぱり水害多い。20年位前にも一度、県道77号線の道路流されたんじゃないかな?

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f:id:henrilesidaner:20160726104128j:plain ←川側覗くとちょっと見えるコレ、昔の路面じゃないかね?

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水位を監視する施設? 古い建物だけど、今の路面と高さが違う。覗くと見える古い路面と同じ高さ。

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昔、ここに洞窟があって酔っ払いがションベンしに来てしまうのか、洞窟の入り口辺りに鳥居のマークが描かれていたんだけど、今はどこにあるのやら? そして洞窟内部で事故?事件?があったと聞いており、金網で封鎖されてたような記憶が…埋められたか。

 

 

★★☆☆☆

何度か来てる(通っている)が、県道77号線側が神社のメインの入り口だと思っていた。本来の鳥居の方が立派で趣あったのに、今まで気づかず神社にごめんなさいした。

 

 

<更科御所?>

築城年 正中年間(1346年~1370年)

築城主 宗良親王

構造 平城

栗田城

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 ここのところ、暑いとか虫刺されが怖いとか獣が出るなどの事情で山に入れず、お城の片鱗も見当たらないような住宅地ばかりでつまらなかった。ここも住宅地の中に残る昔のお城跡の一つ。

他のと違って、なんかここは保存運動が盛り上がっているらしく。でかでかと「栗田城址」と彫られた石碑がー! しかも新しいぞ。栗田城址を整備する会という組織が編集したパンフレットも配っていた。パンフレットは平成27年1月の日付が入っており、たぶん石碑も去年あたりに建立されたのではないかと思った。

 

パンフレットによると、現在の場所は栗田城の内郭を取り囲む土塁の北西付近だそうだ。この場所は今、水内惣社日吉大神社(通称:栗田神社)の社殿がある。

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緩やかに上っていっているが、横から見るとこんな感じ↓

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土塁は幅11m・高さ9m・長さ40mの部分のみが残されており、残りは壊したらしい。

栗田神社の社殿付近からから内郭跡を見た様子↓

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意外と高い。下のゲートボール場みたいな敷地は内郭跡地(一部)。この高さの土塁が回の字形で作られ、大きさは東西709m、南北1090mと。でっかいなー。

パンフによれば栗田場周辺の発掘調査を昭和62年~平成25年の間に5回行われている。茶道やお香に関する出土品が多く、ここの主が地方の領主にしてはお金持ちだったことが分かってきている。こんな広い敷地に大きな土塁を造成することができる権力者だしなー金持ってるよね。長野市内最大規模の居館跡だそう。また、この近辺で中世(1192年~1573年)の建物跡も多数見つかっている。栗田城は栗田仲国さんにより平安時代末期(1190年ごろ)築城されたという伝承とだいたい一致するようだ。

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このお城を作った栗田仲国さんのお父様、寛覚さんが栗田氏初代になる。何者かというと、信濃村上氏初代の村上為国さんの息子さんだそうだ。栗田村に住んだので、氏を「栗田」に変えました、という。

村上一族の中でも栗田さんは独自路線を行くことになるらしい。栗田氏初代の寛覚さんの名前はなんか戒名っぽい感じがした。栗田禅師と呼ばれていたというので、やっぱりお坊さんなんだろう。栗田村は園城寺三井寺)や聖護院の荘園であったというので、ここの管理を任された関係でお坊さんになったのかも? 逆で、三井寺のお坊さんになったから管理人になれたのかもしれないけど。まぁどちらでもいいのか…。

 

三井寺天台寺門宗の総本山。開基は大友皇子天智天皇の皇子)の皇子・与多王。大友皇子壬申の乱大海人皇子に負けた人。首を吊って自殺した父の菩提を弔いたいということで、天武天皇大海人皇子)に許可を得て、お寺を作ったとされている。そして、大友氏の氏寺となった。大友氏の本拠地の近江国大友郷だった地(滋賀県大津市)にある。ちなみに、大友皇子の御陵もそこ。大友一族は大友皇子の有力な支持者だったそうな。

支持者だった大友一族は渡来人で、後漢の最後の皇帝・献帝の子孫を自称していた。後漢の皇帝の後裔を称する渡来人集団は4世紀から6世紀にかけて日本に多数入国しており、大友氏以外にも色々いるらしい。みんな後漢の皇帝の子孫だとか。後漢が滅んで、中国は魏蜀呉の三国志の時代に入ったみたい。後漢の皇族は日本にも亡命してきたのかもねー。園城寺天武天皇が名前を与えた。三井寺というのは、天智・天武・持統(天智の皇女、天武の皇后、天皇)の3代がつかった産湯がここのお寺さんにある霊泉であり、「御井(みい)の寺」と呼んでたことから。御井の寺→三井寺

平安時代になって、円珍という偉いお坊さんが現れる。入唐八家(最澄空海以下唐に渡って勉強して法具や経典を持ち帰ってきた僧8人)の一人で、讃岐国出身だとあった。四国といえば空海と思ったら、案の定空海の親戚だった。比叡山に入り修行してたのに、役小角に傾倒したために熊野三山などで修験道の修行もし始めた人。空海もなんか洞窟に籠って修行してなかったっけ? 親戚だけあって似てるな。

とにかく円珍さんが日本に帰国し、三井寺を修行の場にする。その後、延暦寺のトップに。円珍は生き方も個性的な感じで、仏教密教(←これは当時最先端の学問、秘密仏教の略らしい)・修験道(日本で発生した山岳信仰仏教をミックスさせた宗教)の3つの柱を修めたので、「新しい」とファンが多かったみたい。この人が亡くなったあと延暦寺では第3代座主・円仁(最澄の愛弟子、円珍に比べて正統っぽい)派と第5代座主・円珍派に分裂して、円珍派(寺門派)は追い出される。三井寺を拠点にして、比叡山延暦寺(山門派)と対立。延暦寺は屈強な男を多数雇い、兵団を組織して三井寺との抗争に備える。三井寺は武装化せずに政府との関係を深めた。特に藤原道長白河上皇などの著名な権力者が帰依し支援したようで、荘園の寄進を受けてどんどん成長していった。なんと善光寺さんも三井寺の支配下にあった。政府は大兵団を持つ延暦寺の力をそぐため、三井寺を庇護する。以後、三井寺鎌倉幕府室町幕府と支配体制が変わってもずっと支配者側の寺だった。

八ッ橋で有名な聖護院のほうは、門跡寺院修験道本山派の中心寺院でもある。円珍は修験道にもハマり、修行をしていた。三井寺のお坊さんたちも倣い、熊野三山で修行をしていく。本山派は天台宗系の修験道を指している(対になっている当山派は真言宗の僧侶・聖宝が創始した真言宗系の修験道)。鎌倉時代三井寺にも縁がある聖護院門跡の覚助法親王後嵯峨天皇皇子)が三井寺と聖護院のお坊さんたちを統制するに結びつけたようだ。その後、さらに組織化されて勢力が拡がっていった。

転機が訪れたのは豊臣秀吉の時代。文禄4(1595)年になんだか分からないけど秀吉を怒らせちゃって、三井寺はあっけなく廃寺に。兵力(たぶん)ゼロだし、天下人相手にどうにもならなかったのね。御本尊などの寺宝はよそへ移された。金堂は延暦寺に移されたそうなので、長年の抗争に決着がついた、勝った、と比叡山の方々は喜んだに違いない。廃寺にされて3年後の慶長3(1598)年に再興許可が出て、今に至る。

聖護院のほうは門跡寺院だったせいか、特にお咎めなし。しかし京都にあるお寺さんなので応仁の乱などの兵火、普通の火事でもたびたび燃えた。現在の建物は延宝(1676)年に再興されたもの。慶長年間(三井寺再興~江戸幕府初期:1596年~1615年)に本山派と当山派が揉めて、江戸幕府の裁定で修験道ルールが設けられた。これは本山派のほうが不利なルールであり、聖護院は弱体化した。

 

ところで、栗田さんは三井寺・聖護院の荘園管理人やっていたのに、三井寺と敵対している延暦寺の末寺・顕光寺(戸隠神社)の別当職(お寺の一番偉い人)もやり始めた。当時の戸隠神社神道真言密教天台密教神仏習合した修験道のお寺(むしろ道場だったみたい)で有名だった。流行っていたらしい。栗田さん寺門派じゃなかったのか…。蝙蝠みたいなやつだ。その後は三井寺の末寺だった善光寺別当もつとめはじめ、二つのお寺さんからの収入でお金持ちになる。

栗田さんは本家筋の村上氏に従っていた。出土品見ても、寺からの収入が良かったようだし独立できそうじゃない? と思ったものの、栗田氏年表を見る限り、代々の当主は戦下手なのかもしれない、と感じた。近隣の領主と一緒によその領土で暴れようとしたが、決着がつかなかったり失敗したり。よそから攻撃受けて陥落したり。栗田家が勝った、というのがあまりない(近隣の館を襲って成功したぐらい)。それで村上家所属のままにしておいたのかも。

戦国時代に武田の信濃侵攻が始まると、栗田氏は分裂した。戸隠神社の栗田さん(山栗田)と善光寺の栗田さん(里栗田)。山栗田は上杉に、里栗田は武田さんに、それぞれ従うことになった。

里栗田は、例の誰も見たことがないという善光寺御本尊で秘仏阿弥陀如来と甲斐に行き甲斐善光寺の住職になったり、長野市内の武田領の長沼城の番衆として留まったりと、ちょっと分散。天正10(1582)年の武田家滅亡まで里栗田の兵団は存在していたようだ。武田の滅亡後は主君を変えたりし生き延びた。里栗田さんは信濃に戻ってきたが、善光寺別当職に返り咲くことができず、元の領地にもいられず一家離散状態に。

山栗田さんは上杉に従ったものの、慶長3(1598)年の上杉家会津転封がきっかけで会津組と戸隠神社組、帰農組に分かれた。同年に秀吉から戸隠神社神職として取り立てられ、明治まで戸隠神社の神官家として続いた。帰農組は苗字を変え、信濃に戻る。会津組は、8500石の城主になったものの。慶長5(1600)年の上杉討伐で直江兼続の「石田三成さんと呼応して徳川挟み撃ち」案に反対。400人くらい人を集めて会津から脱出しようとして、追っ手の直江さんに捕まり150人ほどが成敗される。残りの250人が無事に徳川家に身を寄せた。その中に山栗田の会津組の生き残りがいて、のちに水戸藩藩士となった人がいた。この人の子孫は幕末まで続き水戸黄門でおなじみ大日本史の編纂に携わった人、天狗党に参加した人などいたそうな。

どちらの家系もばらばらになってしまった。

 

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内郭端っこに当たる場所にででーんと立派な木。栗田城が築城されたころからあるのかも!

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地図に照らし合わせてみると、内郭は建物だらけで見る影もなし。現在地の栗田神社は西側の土塁のうち、北側半分くらいか? 神社自体もさほど小さくはなかったので…。

想定図を見ると、土塁と堀を完全に平地にしてから、建物や道を作ったようで。現在の町並みから城の跡を探すの、難しそうだぞー。

↓たぶん内郭の中心方面。

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↑こういう感じで住居が建ち並んでいる。

堀跡はこの辺かなー?

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想定図ではこの道路幅が堀すべてではなく、もっと広いようで。周囲の建物も堀の上に建っているっぽい。

 

神社に残る土塁跡をぐるっとめぐる。

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ちょうどこの公園の幅=堀の幅だそうだ。これは広いぞ! 埋められちゃってるから謎だけど、深さはどのくらいだったか気になりますなー。

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 栗田氏はこの栗田村の他に、飛び地を持っていた。栗田氏の氏神として日吉大社の御分霊を長野市内に勧請し、「日吉山王」として祀っていた場所。また、その地は出城として使っていたと言われている。この日吉山王は明治41(1908)年に現在地へお移りになっている。

元和元(1615)年に主を失った栗田城が壊されたのちは、地元民の産土神として戸隠から神々を勧請し、栗田権現(栗田大元神社)として祀っていたようだ。日吉山王がこちらにお移りになったときに合祀され、現在に至る。

御祭神は大山咋命罔象女命大山咋命が栗田さんが日吉大社より勧請した神様。別名を山王権現という。罔象女命は水の神様。他に戸隠から勧請したと思われる手力雄命(岩戸隠れのとき天照大神が隠れてた岩戸を戸隠まで放り投げた神様)、天思兼命(知恵の神様で、天照大神をどうやって連れ出すか提案した)、天表春命(天思兼命の子供)、天鈿女命(岩戸の前でストリップした神様)。

 

日吉山王社が元あった場所はここ。

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駐車場になってた。名前だけ残っている。

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駐車場にされてから数年? 私が知らん間にこんなことに…。知っている限り、ここだけ鬱蒼とした木が茂る真っ暗な場所だった。昔、この近くの学習塾に通ってたので、夜なんとなくここを見に行ったりしていた。なんかここだけ浮いてて気になってた。塀も高かったし。建物はあったけど、当時から使われていなさそうで人気なし。聞くと国鉄(JR)の紫雲寮という施設とのこと。寮というから社宅の類かと思ったけど、集会所という(でも人が出入りした様子もなく、打ち捨てられた感ありありな建物だった)。もっと遡ると、その集会所の前身は病院だと分かった。ぐぐると写真が出てきた。その写真で見る限り、瀟洒な洋館だった。こんな建物だったら壊しちゃってもったいないんじゃないのー? と感じたものの、私の記憶の中の「紫雲寮」はこんなんじゃなく無機質で面白味のない建物だった。あーやっぱり壊されてもいいや、と思い直した。

 

この「出城跡」と言われる場所の近くには裾花川という川が流れている。その対岸には朝日山城や小柴見城がある。

↓正面の山の頂きにあったのが朝日山城。武田さんと上杉さんで取り合った。

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天文24(1555)年の第2次川中島合戦では里栗田さんが武田方の武将として朝日山城を守備したそうだが、栗田氏の出城跡の場所から朝日山城がよく見える。また、この場所は善光寺にも近い。この辺りは武田さんちと上杉さんちの境界線なのか、お城が多い。善光寺横山城)を取り囲むように小柴見城・朝日山城・葛山城・大峰城・桝形城・押鐘城とあり、他に盛伝寺館・桐原要害・中越館と拠点にできそうな施設もあるようだ。

 

 

 

★★★★☆

住宅地・街中にあるお城跡にはガッカリすることが多かったものの、ここは土塁の規模が大きく期待したよりも良かった。出城跡は何もなかった、寂しくなった。

 

 

<栗田城>

築城年 平安時代末期

築城主 栗田仲国

構造 平城

戸部城+鍛冶屋敷

布施氏の庶流・戸部氏のお城「戸部城」。「鍛冶屋敷」は戸部氏とは関係ないらしいが、ごく近くにある。

まずは「鍛冶屋敷」。

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現在は伊勢社となっている。おたや祭りというお祭りで有名らしい。

「おたや祭り」というのは豊受大神(食物の女神様・伊勢神宮外宮に祀られている神様)の例祭という。伊勢神宮の御師(お伊勢参りの勧誘で全国回ったり、伊勢神宮参詣者のガイドや宿泊などの世話をする人)が布教の旅で利用した伊勢社の宿泊施設「旅屋または田屋(読み方はどちらも”たや”)」から来ているようだ。たぶん、これは大きな伊勢社にしかなかったんじゃなかろうか。この施設がある伊勢社のお祭りを「おたや祭り」と呼ぶそうだ。

鍛冶屋敷と伊勢社、どう関係があるのかというと、全く分からない。というか、「鍛冶屋敷という建物があった」ということ以外ナゾらしい。誰の持ち物で、どういう使用目的があったのかも分からんそうな。ただ、この場所に規模の大きな伊勢社があったことと、現在の伊勢社(以前は違う場所にあって、鍛冶屋敷跡地にお移りになってきたのでは? という話も。元の伊勢社もどこにあったかよく分からんということ)がこの地にあること、などから「鍛冶屋敷は伊勢社の付属施設じゃないのかな」という説が有力であるらしい。お堀や土塁の跡が見当たらないので城館ではなさそう、とのこと。伊勢社神官の居住館、伊勢神宮などからの使者をお迎えするための館、という二つの説がある。お旅屋はまた別の場所にあったようだ。

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趣ある神社。あんまり神明神社にお参りする機会がないような気がする(諏訪大社があってそのせいなのか、健御名方さんばっかりな気がする…今ちょっと調べたら、諏訪神社北条氏の所領に特に多いそうだ)、なのでこのスタイルの神社が新鮮な感じ。

「御厨」というのは、神の台所という意味。神様のお供え物を供給するための所領。ここは伊勢神宮の御厨だったので、大きな伊勢社があったのだ。

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↑天水釜というそうだ。元々は防火用水として雨水を溜めていた大釜だったそうで、現在は神格を現す神具のひとつだそう。

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こちらは伊勢社の造営に協力した人々の名前を書いた銅の塔?があったそうで「大東亜戦争の折に金属として供出しちゃって土台しかないです」と下の方に書かれていた。石碑はあまり関係なさそうな「玉垣改修記念碑」。

 

鍛冶屋敷から少し離れたところに戸部城跡。

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今はこれだけ。↑写真の中、グレーチングがあることで分かるが、手前の道路は暗渠になっている。これ、お堀跡だそう。

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鳥居は綺麗だけど、ぱっと見には古い祠があるだけで何が何だか…。一応、説明板があった。それによると、

・付近一帯は富部(戸部)三郎家俊の城跡

・家俊は平家方の武将、治承5(1181)年の横田河原の戦いで戦死し、館も焼けた

天正時代(1573~1592)、ここに郷蔵が建てられたので「御蔵屋敷」とも呼ばれる

・戸部御厨があったので、多くの寺社が集まり小城下町として栄えた

とあった。

戸部氏は最終的に上杉さんの家来になったはずなので、治承5年以降はどこか別の場所に城館作って引っ越していたのかも。天文22(1553)年、武田さんに敗れた村上さんと一緒に越後へ行ったらしい。この年から武田家滅亡の天正10(1582)年まで、この地は武田領となる。同年の天正壬午の乱のあと慶長3(1598)年まで上杉領となった。おそらく、上杉領になって戦乱が落ち着いたから郷蔵建てたんじゃないかな?

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戸部城跡のごくごく近く、更級斗女神社がある。

元々はこのあたりの土着神を祀る神社だったらしい(最初のお名前は斗女郷精霊地主神)。それが戸部家俊の支配地になったために、元歴元(1184)年に戸部家の氏神として諏訪大明神健御名方神)を勧請した(ただし諏訪大社の分社ではない)。御祭神は健御名方命、奥様の八坂斗賣命(八坂刀売神)。

神社の説明板では、斗女(とめ)→戸辺→斗賣→戸部→富部と転訛していき、富部から戸部に戻って落ち着いたようだ。この内容から考えると、神社の創建は相当古そう。

そして応永7(1400)年には村上氏領地になっていたという。どうやら戸部さんは、その年までには村上さんの家来になったようだ。

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参道に沿った並木が雰囲気ある。

大きな木が1本。

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でかい欅。戸部さんのお城が横田河原の戦いで焼失したとき、この神社も兵火に巻き込まれたが欅だけは焼け残っていたので目印にして神社を再興した、という言い伝えがある。この欅の樹齢は1200年以上だそう。1200年前というと、奈良時代末になるのかな? 早良親王が祟っている頃かしら?

 

平家方だった戸部さんだが、更級斗女神社の境内に八幡神が祀られていた。

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勝鬨八幡社というお名前で、元は少し離れた別の場所にあったが明治時代にお移りになってきたようだ。養和元(1181)年の横田河原の戦いで勝った木曽義仲がこのお社の前で勝鬨をあげたので、「勝鬨八幡社」と呼ばれるようになった、という。

 

神社の裏手には用水路があった。

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ここで暗渠になって、戸部城前の堀跡と合流しているみたい。ひょっとしたらココも堀跡だったりしてー。

 

戸部城の説明板でも見たが、ほんとに寺社が集まっている。なんでもない住宅地だが、その辺を徘徊しているだけで4つぐらいお寺さんを見かけた。「小城下町」というだけあって、街並みも古い。

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★★★☆☆

更級斗女神社が雰囲気良かった。古い神社はやっぱりなんか違うなー。住宅地の中の城跡で遺構ほぼないけど。街歩きと思えば見どころがあり楽しい。

 

 

<戸部城跡>

築城年 治承5(1181)年以前

築城主 富部(戸部)家俊

構造 平城

 

 

柏王神社

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以前、当てもなく歩いてみたところ。この祠に呼ばれたのか、たどり着いた。石に彫られた文字はよく読めないが、元禄とか辛うじて分かったので古いことは古いらしい。綱吉の治世で、江戸時代で一番景気よかった時期だったっけ?

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良いお顔。

何かのご縁なので、ちょくちょくお参りさせてもらっている。が、この祠の詳細は分からず…。

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祠の右側は畑のような感じだけど、山に入る道っぽい感じもする。祠は山の神様を祀っているものなのかも。道は草ボーボーなので、夏場の探索は無理なご様子。ちなみに左側は墓地だった。

 

一体自分はどこに行ったのだろうか。グーグル先生(地理担当)に訊ねる。先生はすぐ場所を教えてくれた。そして「この近くに神社がありますよ、柏王神社」と教えてくれた。

柏王とか。王様だし。

f:id:henrilesidaner:20160613164226j:plain 別名「信濃宮」とおっしゃるようだ。皇族なのか。

明治時代に建てたものらしい。ちょうど北国街道沿いだった。観光名所にしようと考えての建立だろうか。

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↑北国街道

江戸幕府により整備された主要幹線道路。前田のお殿様はじめ11家が参勤交代で通った道、佐渡の金山から金輸送路、という結構重要な役割のある街道だったようだ。旅人も多かったかも?

 

柏王神社に到着。

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柏王神社の御祭神は伊弉諾命、相殿に相良親王、とあった。イザナミは知ってる。相良親王とは? どうやら、柏王こと信濃宮こと宗良親王のことらしい。名前がたくさんあるなー自分でも訳分からなくならないのだろうか。

 

宗良親王後醍醐天皇の息子で、この場所で病気になった。神社の説明板では「髻をお薬師様に供物し祈ったら治ったので、髻を埋めて塚にした」とあった。髻ってバカ殿の髪型じゃないかな? 貴族って確かあんな髪型してたような。

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信濃宮髻塚」と書いてあった。

 

おすがりしたというお薬師様もいらっしゃった。お薬師様の制作年代は不詳だそう。南北朝のころには存在していたんだろうし、けっこう古いものかもしれない。

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↑薬師堂。お薬師様は非公開だった。特に、首から腰の脊椎関係にご利益があるとのこと。そういえばお参り後、ヘルニアのせいなのか分からぬ腰痛がなくなった…気がする!

 

宗良親王は応長元(1311)年のお生まれで、元中2/至徳2(1385)年薨去信濃国には興国5/康永3(1344)年から文中2/応安6(1373)年まで住んでいたようだ。この近くには船山守護所がある。宗良親王南朝方として信濃を拠点にし、各地へ転戦したとあったが、ここは小笠原氏の守護所があるくらいだし、北朝方拠点のひとつではないのかー?

船山守護所が善光寺へ移転した観応2/正平6(1351)年以降なら、南朝方の信越地区攻略責任者がこっそり病気で寝ていても、襲撃されないかもしれない。

ワインで有名な桔梗ヶ原で宗良親王軍と小笠原軍との合戦が文和4/正平10(1355)年に起こったと言われている。南朝方と北朝方との戦いで、どうやら南朝方が敗れたようだ。というのも、その年を境に諏訪氏など有力氏族が南朝から手を引いたからだ。けっこう大きな合戦だったらしい(京在住の人が日記につけていたそう)が、京にまで情報がもたらされるほどの大戦だったわりには勝敗に関する記録がないらしい。

船山守護所近辺で青沼合戦に参加していた豪族の多くが諏訪氏庶流という。諏訪氏にならって、1355年以降こちらも北朝に下ったと思われる。とすると、神社の伝承にある「宗良親王が当地で臥せっていた」時期は1351年から1355年の4年間かな?

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本殿は質実剛健、といった構え。もともと神社じゃなく、宗良親王の療養所として作ったかのような様子。建物がなんか神社っぽくない雰囲気もあるような…ないような? まぁ、この建物が宗良親王の生きた時代のものじゃないと思うけど。f:id:henrilesidaner:20160613164230j:plain 

強引に見れば、本殿を高くしてちょっと要塞っぽくなっているようにも! 「防御」として考えたら相当弱いと思うから違うな。

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背中に山をしょっている、道の奥というような場所なので静かだった。療養するにはいいところね。

この辺りは古いおうちが多い。昔の街道筋なので、おうちも立派。

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★★★★☆

謎の祠と薬師如来にお参りするようになってから、体調が良くなってきている気がする。ありがたや。

 

<柏王神社>

 

 

宗良親王の母方の実家は古今伝授でおなじみの二条家、本人も和歌が得意だったらしい。出家し天台三門跡のひとつ妙法院に入り、天台宗で一番偉いお坊さん・天台座主になった。が、お父様の起こした元弘の乱のせいで失脚して島流しの刑を受けた。そのうちお父様が政界に復帰すると、天台座主に返り咲く。お父様がクーデターで京から吉野に行くと、お父様のお仕事を手伝うため還俗した。

後醍醐の当面のお仕事は、北朝と幕府・武士を滅ぼしてまた政権を奪還することである。後醍醐は自分の息子たちを各地に派遣して、勢力を盛り返そうとした。

今まで後醍醐は武士を煽動して鎌倉幕府を倒したり、配流先から武士の助けを借り京に戻ったりして革命を成功させてきたものの、実は武士を差別しており捨て駒として扱った。武士がこれまで後醍醐を助けてきたのも、「俺の思想に心酔している」とか思っていたくさい。大多数の武士は「機能しなくなった鎌倉幕府をなくしたい」と思っていただけで、特に後醍醐の思想信条には関心なかったようだ。

後醍醐の武士使い捨て的な態度が武士層を怒らせてしまったが、本人はあんまり反省していなかった感じ。そういう態度からなのか、今では後醍醐(笑)みたいな扱いにされてしまっている。

後醍醐は尊良親王恒良親王を北陸、懐良親王を九州、義良親王を奥州、宗良親王を東国へ軍団とともに送り込む。

宗良親王中先代の乱で蜂起した親北条の国人が多い信濃に住みついた。伊那在住の香坂さん(滋野氏支流望月氏の一族)という方に呼ばれて、やってきた。気に入ったらしく、30年くらい住んだ。東国の拠点となり、あちこちから追われてきた南朝方の武将を匿ったり、他国へ呼ばれて出陣したりする。

九州に行った懐良親王はほぼ全土を勢力下に治めることに成功し、中国皇帝から「日本国王」に冊封された。義良親王はいろいろ上手くいかず、空位になっていた皇太子に。尊良親王恒良親王は北陸で新田さんとともに挑んだ合戦で敗れ、自害したり捕まって殺されたり。

桔梗ヶ原の戦いで敗れたとされる文和4/正平10(1355)年以降は信濃国の有力氏族が離れていき、徐々に南朝方の勢いが弱まっていき、宗良親王は文中3/応安7(1374)年に東国の拠点を引き払い、吉野に戻ることになってしまった。その後、またお坊さんに戻った。

一番うまくいってた懐良親王も室町3代将軍義満が送った討伐軍に敗れ、九州は幕府の勢力下となった。が、すでに薨去している懐良親王が「日本国王」と中国の皇帝に認められていたために、他人が「日本国王ですけどー」などと言って皇帝にお手紙書いたりすると、「お前は王位を簒奪しようとしている不逞の輩か」と疑われてしまう事象が発生。仕方なく「懐良親王です」と詐称して書状を送ったり、「懐良親王は国王ではない」と説明したりと大変だったようだ。これは懐良親王もあの世で小さくガッツポーズしてそう。一矢報いた…かな? ぐらいは思ってそうだ。

義満が日本国王として朝貢(中国に「宗主国さまー」と平伏しながら、なんでもいいので貢ぐと、中国は「野蛮な国の連中が見たこともないような素晴らしいものをやろう」と言いながら、ものすごく高価でイイモノをお返しにくれるみたい。その贈り物を転売すればぼろ儲けできる)がしたかったのに、そこまでたどり着くのに苦労したらしい。朝貢貿易って一方的に中国が損するものだったのか。まぁ、そんなぼろい商売あるなら皆やりたがるね。

そういえば南朝は田舎住まいの男所帯だからなのか、下世話でドロドロした話がなかった。期待してたのに。つまらないガッカリ残念。

船山守護所

ごく短い数年の間だけ、信濃国の役所として登場する船山守護所。中先代の乱での戦場のひとつとなった。

 

後醍醐天皇の討幕運動に参加していた小笠原貞宗さんは建武2(1335)年、武功により信濃守護職に任命され、守護所を船山郷(現在の千曲市)に置いた。

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場所は↑らしい。現在の主郭跡周辺は住宅地である。

鎌倉時代信濃国北条氏知行国であった。船山郷は第13代執権・北条基時の領地で、彼の屋敷があった。基時は鎌倉時代末期の武将。北条一族の中でも家格が高い家の出身で、幕府要職を歴任し最後に執権に就任している。また信濃守護に任命された記録もあった。基時は得宗家出身の北条高時に執権の座を譲ると引退、出家した。第16代執権の時代、元弘3(1333)年の元弘の乱により鎌倉幕府が滅亡する。基時はそのとき鎌倉の防衛に当たっていた。陥落してしまったため自刃。

鎌倉幕府滅亡後、信濃守護となった小笠原さんは北条基時の屋敷を再利用し、守護所としたようだ。現在は遺構など全くない。が、主郭跡とされる場所を取り巻く道路は怪しく、これは堀跡じゃないかね? と言われている。

 

そんな主郭の堀跡と言われる道をぐるーっと回ってみた。

①からスタート。正面の道を行く。

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②北側堀の中間ぐらい。

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③の角を曲がる(↓の写真だと右へ)。

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④東側堀

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⑤南側堀

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⑥西側堀

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⑦西側堀と北側堀の交点(バス停付近)

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これで1周おわりー。なんにもなかったー。

 

船山守護所は鎌倉幕府滅亡後に置かれた。小笠原さんが守護になった建武2(1335)年、その年に青沼合戦が起こり守護所が襲われる。この合戦は北条支持の四宮氏、保科氏など在地国人衆と守護・小笠原氏の戦いだった。小笠原氏が優位に進み、敗走する国人連合軍を追撃し続けた。このとき蜂起した四宮氏、保科氏は諏訪氏の庶流と伝わっている。

実は諏訪氏や滋野氏が中心となって北条政権再興をもとめて、反乱軍を組織していた。四宮氏や保科氏などの守護所周辺に領地を持つ国人も反乱軍の一味だった。守護の小笠原氏を引き付ける役目で、この間に本体の諏訪氏、滋野氏と北条高時の子・時行や北条残党は松本の国衙国司のいる役所)を焼き討ちし、勢いづいて足利直義(尊氏の弟)がいる鎌倉まで侵攻、直義を追い出し一時占拠した。京から足利尊氏が弟の救援にきた。尊氏により反乱軍は徐々に劣勢となり、首謀者の諏訪氏が自害したりし、反乱は収束に向かう。この反乱を中先代の乱と呼ぶ。

中先代の乱は、歴史の教科書もに出てくる単語だけど、よく知らない。時期は鎌倉幕府室町幕府の間。後醍醐天皇が親政を行っていた短い時代に起こった。鎌倉幕府(先代)と室町幕府(次代)の中に起こった先代幕府の反乱だから、そういう名前になったという。倭国大乱と同じくらい、かっこいい名称だなとなんとなく名前だけ覚えていた。

 

この反乱が収束したのち、船山守護所は近くに移転した、という説もある。それが今の「船山神社」ではないかと言われている。

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船山神社も「船山守護所跡地」という伝承が残っているらしい(船山神社は戦国時代末期の某氏屋敷跡、という伝承も残っている)。いずれにしろ、有力武将の館跡というのは確定だという。

移転かどうかは確定していない。小船山の「小→古」で本来は古船山という字を当てていたんじゃないかという意見から、移転したんじゃないかと言われている。同じ船山郷内で移転したので、前の守護所を「古船山」と呼んで区別したのではないかという話。

 

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境内は細長い。屋敷跡の一部が船山神社という言い方のほうが正しいのかもしれない。この辺りは水路が多く、ひょっとしたら堀跡かもしれないと思った。

船山守護所は正平6(1351)年にまた焼き討ちされた。南北朝時代南朝(村上氏など)と北朝(小笠原氏など)が争っており、その中の戦いのひとつで焼かれたそうな。守護所は善光寺の近くへ移転したと言われている。このころの小笠原家当主は政長さん(貞宗さんの息子さん)という。政長さんは翌正平7(1352)年に5歳の長男、長基さんに家督を譲る。時が経ち、長基さんの次男の長秀さんが当主になり、応永6(1399)年に信濃守護職として長秀さんは京から信濃善光寺へ向かった。地元民から「偉そうだ」などと言われ、戦争になったのは翌年のこと(大塔合戦)。

 

小船山には「小船山神社」という神社もあった。最初、こちらが船山守護所跡地なのかと思っていたら、全く違った。古い名称では「猿田彦社」というらしかった。

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小船山にあった船山守護所跡の周りには、釈迦堂、阿弥陀堂もあったようだが、現在はない。1か所にお堂を集めて、「小船山神社」としたのかも?

 

★☆☆☆☆

20年くらい前の資料だと「矢竹があちこちに自生しており、守護所の雰囲気はちょっとある」とあった。今は見かけなかった。単なる住宅地なので探しにくい。

 

 

<船山守護所>

築城年 不明(建武2(1335)年改装)

築城主 北条基時(改装者 小笠原貞宗)

構造 平城

 

 

 

 

鎌倉幕府の滅亡と、建武の新政室町幕府の流れがよく分からないので、勉強してみた。

後嵯峨天皇には後深草天皇(兄)と亀山天皇(弟)という二人の息子がいた。二人は同腹の兄弟で、母・大宮院の身分は中宮と高かった。しかし後深草は病弱(身体に障害もあったようだ)、両親は健康体の亀山をかわいがっていた。兄弟は対立していた。

いろんな意味で興味深い作品「とはずがたり」だと、後深草は寝取らせ、亀山は逆に女好きで寝取りが好きだったようだ。その内容は、後深草のビッチな愛人を亀山にも貸したが、愛人が上手な亀山に乗り換えたという噂を聞き、大変なショックを受けて愛人を捨てたとある。

後嵯峨はまず後深草に譲位し、自身は院政を始める。10数年後に後深草から亀山に譲位させた。後深草、亀山2人にもそれぞれ息子がいたが、亀山即位したあと後嵯峨は亀山の息子を立太子させる。後嵯峨は次の「治天の君」を指名せず、「鎌倉幕府の意向にしたがってね」という遺言を残し崩御。普通この順序だと次代「治天の君」は亀山になる、しかし院政をやりたがった後深草が異議を申し立てた。幕府が仲裁に入る。幕府は大宮院に相談した。大宮院は「亀山でー」と答え、治天の君は亀山になった。後深草は「うちの子孫の皇位継承権なくなっちゃう」と揉め続けた。幕府が困って考えた末「じゃ公平に、10年づつの交代制でいきましょう」と裁定した。兄の後深草の子孫=持明院統、弟の亀山の子孫=大覚寺統、と呼ぶ。持明院統大覚寺統皇位が行き来することになったという。これを両統迭立という。

私はドロドロした権力争いの話が好きなのですが、平和な解決方法で名目上決着ついてがっかり。「とはずがたり」がめちゃくちゃだった分、両統迭立じゃ物足りない。しかし、持明院統大覚寺統も完全決着を望んでいたようで、水面下では色々な工作を行っていたようだ。内容までは伝わってこないので、幕府にばれないよう悪口を言い合う的な生ぬるいことをやってたんだろうか。相手に毒盛ったとか、陥れて島流したり、幽閉して憤死させたり、そんな風なことをやってたら面白いのにな。個人的にはそういう話が聞きたい。

 

大覚寺統後醍醐天皇が即位したのは徳治3(1308)年。本来なら10年後くらいに持明院統に交代、また10年後くらいに自分の子孫に皇位が巡ってくる。が、お父様の後宇多天皇は最初から後醍醐の兄・後二条の子に継がせたいと明言していた。2つの皇統の緊張が高まっていた時期で、後二条の前に持明院統が2回連続で天皇位についていたり、と大覚寺統が不利っぽくなっていた(鎌倉幕府持明院統に近かったようだ)ので、亀山院が幕府に「裁定と違う、ずるくない?」と不服申し立てをし、後二条が皇太子となることができたぐらい形勢が悪かったようだ。後二条は在位7年くらいで崩御、その遺児はまだ子供。皇太子にしても幼すぎて心許ない。後宇多は仕方なく、皇太子の順番を後醍醐→持明院統→後二条の子→持明院統→…という流れにしようと持明院統に持ちかけた。持明院統は特にデメリットがないので、これを受けた。後醍醐は自分の子孫は皇位を継げないことが明白なので、イラついた。

なぜ後醍醐がお父様から嫌われていたのかというと、彼の祖父である亀山が原因だった。彼は寝取りが好きらしい、ということは先に書いた。亀山は息子の後宇多の嫁にも手を出して奪った。亀山に奪われた妃が後醍醐の母だったので、後醍醐は父に疎まれた。ひょっとして叔父子なの? とワクワクしたけど、そうではないらしい。亀山が息子の嫁に手を出した時期は、後醍醐が生まれたより後だったようだ、残念。

 

イラついていた後醍醐は、まずは「皇位は交代制にしよう」と介入してきた鎌倉幕府を壊すことにした。持明院統はもちろん、大覚寺統の大多数も後二条の子がいずれ皇位を継ぐということに賛成していたので、後醍醐は普通に討幕に失敗し廃位→配流。しかし鎌倉幕府に不満を持つ武士たちを煽動し、ついに鎌倉幕府が滅亡。意気揚々と都に凱旋した後醍醐は自分の廃位、在任中の光厳天皇の即位や人事を否定し摂関家などの力を持っていた貴族たちを追い出した。持明院統と自分の子孫以外の大覚寺統の人間、幕府に近い人間も追い出して、討幕を手伝った人たちと新しい政治を始める。これが建武の新政

 

建武の新政を始めたが、後醍醐は気に入らん奴は死んでもらいますという感じの独裁者だった。とても良いと思う。第三者として遠くから眺めている場合は、バタバタと皆ぶっ殺していくような爽快な展開を楽しめるはず! しかしそうはならずに中先代の乱が起こる。

鎌倉にいる弟がやばいから助けに行きたい、つきましては追討命令と征夷大将軍の身分ください。と足利尊氏が後醍醐にお願いしたところ、後醍醐が拒否した。仕方ないので、尊氏は勝手に弟の直義を助けに行った。冷静になって考えてみると、後醍醐の追討令をもらわずに出てきちゃったので、帰ったら殺されるかもしれない。まずいなぁと鎌倉に長居する。

思った通り、後醍醐は足利を粛清することにした。同格の新田を使うことにした。一応新田に勝った足利だが、「天皇に弓を引いた」と認定されるとかなーりまずい。足利は持明院統光厳を頼ることにした。もともと鎌倉幕府(武士層)寄りだった光厳側もめんどくさい危険人物が復帰して、勝手に退位させられて怒っていたので、手を組む。足利さんは全国の武士に支持されていたので、当然のように武士層も光厳持明院統を支持。

光厳からきちんと討伐命令を受け取り、一時劣勢だった足利があっという間に京を取り返して、後醍醐を追放したあと持明院統天皇を即位させる。後醍醐は諦めず、三種の神器を持って吉野に行った。「俺天皇だから」などど言い出し、そこにも朝廷ができた。京と吉野に2つの朝廷が誕生し、京(持明院統)=北朝、吉野(大覚寺統)=南朝、と南北朝時代が始まった。

明徳3/元中9(1392)年、室町幕府三代将軍・足利義満により、南北朝が解消された。南朝が持っていた三種の神器北朝に渡すという形の決着。北朝天皇はそのまま在位、官職も北朝方の公家で占められていた(南北朝合一の条件は、両統迭立だったが約束は破られた)。で、南朝方は無職になる。これを不服とし、色々あった末に後南朝ができる。後南朝応仁の乱が始まった頃まで、紛争があるたび担ぎ出されていたが、いつの間にかすうっと消えた。

明治になり、南北朝のどっちが正統かという論争になり。三種の神器を持っていた南朝が正統だということになった。しかし、現在の皇室は北朝の末裔である。農家の三男坊(熊沢天皇)が「俺は南朝第118代天皇だ」などと主張したり、そのほか数名の天皇が現れたりしたので、現皇室の皇統が正統である。ということになっている。

布施氏館

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篠ノ井駅近くの普通の住宅地にある神社。鼻顔稲荷といい、佐久市にある鼻顔稲荷神社の御分霊を祀っている、とあった。

f:id:henrilesidaner:20160531134642j:plain ←鼻顔稲荷(佐久市

日本五大稲荷のひとつといわれ、創建は永禄年間(1558年~1569年)、商売繁盛を願う望月源八たちにより勧請された。伏見稲荷から勧請されたそうな。社殿は懸崖造り。文字通り、崖に社殿を懸けるというものだが、なぜかこの懸崖造りの寺社が長野県内で妙に多いらしい。理由は謎のまま。懸崖造りで最も有名なのが京都の清水寺

 

篠ノ井の鼻顔稲荷の周辺に、布施氏の館があった。広さは南北130m、北辺の東西幅120m、南辺の東西幅70mというちょっといびつな形。

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鼻顔神社周辺の様子。普通の住宅地、何も変わったことはない。

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↓(多分)堀跡たち。

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遺構は全くない、という話だけど、ほんとに何一つない。駐車場の隅っこに説明板がひっそりあるだけ。布施氏は川中島周辺に大きな勢力を誇った一族だというが、その面影がない。

 

大治4(1129)年に北面の武士をやっていた伊勢平氏の平正弘さんという方が、高田郷・市村郷(ともに長野)・野原郷(穂高)・麻績御厨(麻績)を与えられたのが始まりのようだ。彼の子が信濃にやってきた。11世紀末に布施惟俊さん(平正弘さんの息子さん)がこの地に土着し、彼が布施氏館の初代となる。ややこしいけど、「高田郷」は布施高田のことではなくまた別の場所。

「布施氏」はそれ以前は茶臼山城(篠ノ井有旅)にいたらしい。安和2(969)年、望月氏が移り住み布施郷を統治し氏も布施に改めたと言われている。望月氏は東信を拠点にしていた滋野氏の後裔とされている。

布施氏が最初に住んでいた有旅という場所には「有旅城」「有旅古城」という2つの城の存在をにおわす書物が残っているというが、この2つのお城は実在するかどうかも分からないようだ。他にも「須立之城」「篠ノ城」などのお城をいくつか持っていたらしい。他にも大塔合戦で使ったと言われる「宴の城」というお城の伝承も残っている。名前的に大塔合戦の戦勝祝賀会の会場のようだが、大塔合戦では布施氏は破れた守護方だったそうです(布施兵庫助さんが従軍、討死)。宴の城は布施氏の持ち物ではなさそうだ。

 

ごっちゃになってきた…平正弘さんの嫡男は別にいる(平家弘さん)ので、新しくもらった領地に元々土着していた豪族・布施家の名前を継いで新領地の経営を円滑に進めようとしたのか。

平正弘さん・家弘さんは保元の乱崇徳院側についた。正弘さん流罪、家弘さん斬首。もらっていた所領もすべて没収。が、近親者の布施惟俊さんにお咎めがあった形跡はなし。ひょっとしたら別の一族だよ、ということにするため布施氏の苗字を継いだのかもしれない、なーんて妄想も…。

布施さんが平家一門であったことは間違いないようだ。治承1(1177)年ころの平家一門の所領として、「布施御厨」「富部御厨」の名前が見える。布施御厨、富部御厨ともに伊勢神宮の荘園である。布施御厨の管理人が布施さん、富部御厨の管理人が富部さん。この二つの荘園は、11世紀末に伊勢神宮の造営のために臨時に課した税が払えず土地を物納したために成立した御厨。伊勢神宮の支配は甘いらしく、荘官(管理人)やると美味しい思いができたんじゃないかと思います。最終的には押領しちゃったみたいだし。

平家物語にも布施氏の関係者が出てくる。富部家俊さん(平正弘さんの孫、布施惟俊さんの子)は養和元(1181)年の横田河原の戦いで城長茂方(平家方)として従軍していた。富部(戸部)さんは長野市川中島御厨にかつてあった富部御厨を支配していた。ここには戸部氏の居館跡の戸部城と思われる遺跡がある。

平家だった布施さん、富部さんとも滅亡せず、その後も鎌倉幕府の書類など(御家人として合戦に従軍した記録、年貢未納の記録)に名前が登場する。戦国時代には両氏とも村上氏に属した。村上氏が武田氏に敗れると、布施氏は武田氏に下り、富部氏は村上氏とともに越後へ落ちていった。

武田氏も滅びると、布施氏は越後の上杉氏に従う。上杉氏の会津移封で布施氏も会津に移り、布施一族は信濃からいなくなってしまった。布施氏館は更級郡の中心地になっていたようで、布施氏館跡の近くには更級郡役所の跡地があった。主のいなくなった館は邪魔だったんだろう。壊して別の建物を。

 

布施氏の先祖・望月氏は滋野氏の後裔。滋野氏というのは、賜姓皇族だと自称している(祖先が皇族だというのは、かなーり怪しいと言われている)。しかし平安初期から名が記録されている古い名家であることは間違いない。

滋野氏は東信に大きな武士団を率いていた。それが「滋野党」である。後裔の海野氏、禰津氏、望月氏を「滋野御三家」と呼び、その他滋野家の親戚筋にあたる武家で形成されていた。この大きな武士団は滋野氏の当主が信濃国司に任ぜられた貞観12(870)年から天正10(1582)年まで存在していた。天正10年という年は信濃国が大きく変わった年、武田家が織田家に滅ぼされ、織田家も滅んで、近隣の武将たちがせーので信濃攻略しにきて、信濃の国人衆が右往左往した年。

滋野党はいつのまにか、滋野御三家が運営する武士団に変わっていった。どうやら本家の滋野氏は没落していったようだ。鎌倉幕府御家人になり台頭した海野氏が滋野氏嫡流と称し、御三家筆頭格だったようだ。本当に嫡流かは怪しく家系図乗っ取りかもしれない。禰津氏と望月氏は、海野氏から枝分かれしたとか、兄弟筋(長男家・海野、次男家・禰津、三男家・望月家)だったとか、いやむしろ望月氏から海野氏・禰津氏と分かれたとか、家系図によってまちまちで、こちらも怪しい。しかし滋野御三家はお互いに喧嘩せず助け合い、関係は相当良かった。

海野氏は村上氏や諏訪氏、武田氏など近隣の武将との戦いで徐々に弱体化していき、同じように禰津氏・望月氏も力を失っていく。滋野党は武田家に属することになった。そして武田家滅亡の年に、最後のリーダーだった望月家当主の望月信雅さんが滋野党解散、望月さんは責任を取ったのか世捨て人になってしまった。

海野氏の後裔と称するのが同じ家紋を使っている真田家、禰津氏宗家は真田の家臣、禰津氏傍系は大名に(3代で断絶)、望月家は滅亡、武士をやめた。

佐久の鼻顔稲荷を創建した商人の望月源八は、望月氏の子孫とされている。布施氏も望月氏の子孫とされている。布施氏領内にも鼻顔稲荷をわざわざ勧請したのは、こういう繋がりがあったせいだろうか。

 

「布施」の字が出てくるものはもうひとつ。

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第1次川中島の戦い、通称・布施の戦いである。今年で460周年。

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第1次川中島の戦いは、主にふたつの合戦から成るようだ。最初は八幡の戦い。八幡の戦いは、天文22(1553)年に武田さんに負けた村上さんが、越後の長尾さんの支援を受け、武水別神社付近で勝利するまで。居城(葛尾城)をいったん奪回した村上さんであったが、しかし再び武田さんに攻められた村上さん。こらえきれずに越後に逃れる。今度は長尾さん自ら兵を率いて武田さんと対決しようとし、まず布施の戦いで武田の先鋒を破る。小競り合いはあったけど、お互いにそれなりの成果もあったしー、ということで。けっきょく直接対決なく両軍は国に帰っていった。

 

 

★☆☆☆☆

布施氏の遺跡はない。

 

 

<布施氏館>

築城年 11世紀末

築城主 布施惟俊

構造 平城