お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

高島城

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諏訪に出かけました。高島城です。こちらは天守・櫓・門とありますが太平洋戦争後に再建されたもの。石垣は築城時のもの、だそうです。

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では、まず天守へー。

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資料館も兼ねてます。建物が再建されたのは昭和45(1970)年。お城のこと、諏訪藩のこと、藩主の生活ぶりや調度品の展示など。小ぶりな天守で、中もさほど広くなかった。

高島城は日根野高吉という人が築城した。この辺りは諏訪大社神職から戦国武将になった諏訪氏の勢力下だし、諏訪藩の藩主も諏訪氏だと思っていたので少し意外だった。日根野という苗字、自作の兜の人と同じじゃん。と思ったら、その日根野頭形兜で名高い日根野弘就の息子さんだという。

和泉国出身の日根野備中守弘就が小田原の北条家に転職した、その子・織部は美童だった。という話(武功雑記 巻十)を見つけてしまったのだが、そのイケメン織部が高島城を築城した日根野高吉だそう。

日根野高吉さんは、天正18(1590)年の小田原征伐での武功により、諏訪(高島)を与えられ、諏訪藩主となった。高島城は文禄元(1592)年より築城。当時この場所は諏訪湖のほとりだったため、難工事となった。地盤がね…だけど流行りのカッコイイ城を作りたかったため、石を頑張って積んだ。しかしいくら積んでも石は足りず、近くの城(金子城)で使われていた石、墓石、石仏を総動員したという。短期間の工期でお城作るときによくあることらしい。が、今回の場合は石を積んでも積んでも沈む、壊れるの悪循環で、近場の石を根こそぎ奪ってでも絶対石垣完成させてやると暴挙に出たようだ。そのためイケメン織部の評判は悪かったという。

7年かけて、ようやくお城は完成。天守のある側が諏訪湖だったので、見た目は非常に美しかったそう。頑張って石垣作った甲斐があった。しかし、日根野家は2代で国替えとなり、代わりに旧領復帰した諏訪氏諏訪湖干拓事業でお城の近くに田んぼを作った。諏訪湖の位置が変わり、高島城は普通のお城になった。日根野さん、あんなに頑張って石垣作ったのにね、もったいない。

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天守から見た諏訪湖。本当はこの真下まで湖面が広がっていた。

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諏訪湖の反対側は本丸跡。今は庭園。近所の小学生が写生に来ていた。

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お堀もこの部分のみ。

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次は冠御門へ。こちらも再建されたもの。手前の橋の名前は冠木橋というお名前。

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お堀の様子。

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多分、この冠御門が表門だと思う。本来の名は「冠木門」といい、その意味は「左右の柱の上部に一本の貫を通しただけの簡単な門」だそうな。

こんな感じの門か↓ (参考荒砥城

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これは簡素な門ではなさそう。2階部分もあるし。説明板によると、ここは当初、冠木門だったが、後で屋根つきの門に建て替えられたのではないか。とあった。

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実際は楼門あるいは高麗門と呼ばれる、かなり立派な門だったとのこと。高島城の古い本丸の絵図によると、冠木門の両脇に「御多門」という名称が残っていた。これは石垣の上に建てた長屋で、防御壁と武器庫を兼ねている建物らしい。現在その長屋は復元されていない。ちなみに御多門は城をぐるりと取り囲んだ石垣の上にほぼ配置されていた。敵が攻めてこられない諏訪湖側にないだけ。これはどちらかというと櫓の役割をしているような気がする。

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この冠木門が正門で、番所を通り本丸の玄関に到達する。

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冠木門両側の石垣。立派に積まれている。この場所の石垣は高島城の中でも規模が大きいものだそうな。正門だもんな。石垣は沈まないよう、大木を筏で組みその上に積んでいる(これは築城当時の最先端技術だった)。

近くの説明板には、高島城は衣之渡川・中門川などの川を堀とし、諏訪湖に囲まれており、城下町に通じる道(門)は一か所しかなかった、という。つまり、三の丸の大手門しか陸地へ通じてないということ。その道を封鎖したら、あとはお城に行くには船で渡るしかないのだ。それに今気づいた。

「高島」というのは諏訪湖にあった島のことで、築城前は漁村だか集落があった。日根野さんは住民を追い出してその島全体を使ってお城を築いた。陸地への唯一の道はたぶん桟橋みたいなやつだったんじゃないかなー?

「諏訪の浮城」とかいって、天守がある側に湖があっただけでちょっと大げさじゃないの? と実は思っていた。本当に諏訪湖の中にあったのね。お城に謝りたい。

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内部は庭園。本丸御殿跡はそれらしきものが一切ないものの、隅のほうには櫓跡、多門跡という表示があった。

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東角櫓。内部はお座敷があった。どうもお茶室らしい。炉を設置できるようになっていた。この角櫓の近くには野点用の真っ赤な傘が常設されていた。

 

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諏訪護国神社

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ここは元「御川渡御門」という門があり、諏訪湖に面していた時代には船着き場として使われていたようだ。有事の際はここから諏訪湖へ逃げられるようになっていたのかもしれない。門は移築されたもので、「三の丸御殿裏門」という名前。ちょっとややこしい。

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本丸西側石垣。本丸正面の石垣とは段違いの貧弱さ。ばらばら、適当に置いているけど大変だったはずだ。

 

せっかくだから諏訪湖にも行ってみた。

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間欠泉センターの近くの足湯でまったり。

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本当は水上バスに乗りたかったが、今は土日しか運航していないようだ。遊覧船は動いていた。

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諏訪湖には神社らしきものが。

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初島という人工島だそうだ。諏訪湖の花火大会の打ち上げ台として作られた。が、鳥居も見える…。新しい神社で、名前は初島神社。昭和29(1954)年に建立、御祭神はもちろん建御名方神。この神社も御柱をやっているそうな。

 

 

★★★☆☆

浮城だとか大げさなんだよー ってホントにずっと思ってた。長崎の出島もそうだが、絵やイメージと現在の様子が全く違うから、現物見ても凄さがあんまり伝わってこない…。

 

 

<高島城>

築城年 文禄元(1592)年

築城主 日根野高吉

構造 平城

 

 

上田城

上田城に行ってみた。通るたびにいつも混雑しているようで、どうしようかなと思っていたが。今日は平日だし、と出かけてみる。

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まずは、上田藩主居館跡。現在は上田高校になっている。場所は上田城三の丸にあたる。この門は寛政2(1790)年に作られた。居館自体はもちろんなく、表門とその周辺の土塀・濠のみ遺されている。

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こういう高校、かっこいいな。

 

ここに来た時点で、観光客は一人、二人。ひょっとしてあんまり居ない? と思ってしまった。じゃあ上田城にも。と向かってみたところ。

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まあまあいた。ここには何度か来たことがあるが、今は平日でも、1年で一番混雑する桜の季節なみの人出があるようだ。ここは二の丸のお堀にかかる橋。築城当時からこの場所にある。お城本丸への入り口は3か所。ここは東側の入り口。三の丸と二の丸を結んでいる。

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実戦でも落ちたことがないお城。堀が深い。今は遊歩道になっている。

それにしても、この道、やけにまっすぐで綺麗、なにか不自然だなと思っていた。実は上田温泉電軌(上田電鉄の前身会社)北東線(のちの上田交通真田傍陽線)の廃線跡を利用しているんだそうな。上田駅から地蔵峠経由で、こちらもすでに廃線になってしまった長野電鉄屋代線の松代駅を結ぶ壮大な事業計画を立てた。壮大すぎて計画倒れになったようだが、上田温泉電軌北東線として旧真田町まで線路を敷いた。遊歩道が線路跡なので幅も変わらず、まっすぐ延びているのだ。

開業は昭和2(1927)年、全通は翌年。この路線により菅平高原が開発されそこへ向かう観光客や沿線で収穫された農作物の輸送などで栄えた。しかし1960年代後半から赤字になってしまい、昭和47(1972)年に廃止。探せば、電車が走っていた当時のトンネル、ホーム跡、架線柱跡があるらしい。

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本丸へ入口。上田城で最も有名な門である。正式には東虎口櫓門という。ここに有名な真田石がある。このお城を作るときに近くの山(太郎山)から掘り出した大きな石のことで、見えている部分は2.5m×3m。上田から松代藩に移ることになった真田信之が「父上の形見」として運ぼうとしたけど、どうにも無理だった。という逸話が残る。この当時、お城は再建されていなかっただろうと思うが、石垣は壊されてなかったのかな。真田石の上にも石がけっこう高く積まれてるんだが、全部壊してでも松代へ持っていこうと思ったのだろうか…石垣って簡単に組めたり壊したりできるのかな、実際やったら相当めんどくさいし、お金もかかる工事になりそう。

 

上田城は、天正11(1583)年徳川家康の命令で、真田昌幸が築城した。目的は領地を接する上杉氏への備え。天正13(1585)年、上杉氏が徳川氏に対する備えとして増築。第1次上田合戦が起こり、真田氏が徳川軍に勝利。

(↑なんか酷い話だと思ってしまったのですが)

その後、大規模改修され、戦に備える。慶長5(1600)年関ヶ原の戦いが起こる。同時に起こった第2次上田合戦にて徳川秀忠軍に勝利する。しかし、関ヶ原の戦いでは徳川氏が勝利したために真田氏(真田昌幸・信繁父子)は罪に問われ、配流幽閉となった。上田城徳川氏により破却。

寛永3(1626)年、当時の上田城主・仙石忠政によりお城の再建が始まったが2年後に忠政が亡くなったため頓挫。本格的な再建はされず、現在に至る。

今残っている櫓や門などは、仙石忠政の時代に作られたものである。

 

大河ドラマの特設館は二の丸にある。東虎口櫓門のすぐそば。屋台が多く出ていて、食欲をそそるいい匂いが。メインの場所であるため、さらに観光客が増えた。真田石には記念撮影したい人が順番を待っている。待てない人は門の近くの石垣で撮影。

櫓門付近は空堀になっている。

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しかし、水抜き用の穴が見えるので、本来は堀だったのではないかと言われている。

 

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櫓門の本丸側から。

このお城は二度実戦を経験しており、その二度とも対徳川。しかも負けたことがない。特に有名なのは、徳川秀忠軍を足止めさせ秀忠が関ヶ原の戦いに遅刻して家康に怒られてしまう、第2次上田合戦。この戦い、真田方に真田昌幸・信繁父子、徳川方に真田信之がそれぞれ参加していたそうだ。以後、信之さんは「真田家に恥をかかされた」と秀忠さんの恨みを買い、パワハラを受け続けることになったっぽい。

お父様の昌幸さんと弟の信繁さんは大人の事情で死罪を免れ、九度山に配流された。昌幸さんは失意のうちに亡くなり、信繁さんは見た目が激変するレベルの極貧生活を送る(禿げて歯もなくなったとか…)。伝説では信繁さんの奥さまが開発した真田紐という組紐を皆で作り、行商して生計を立てていたという。しかし徳川さんにキツい監視を受けていたので貧乏から抜け出せなかった。

関ヶ原の終戦後も最初は昌幸さんも「ちょっと秀忠君と遊んだだけ―」ぐらいの感覚でそのうち家に帰られると考えていたようだが、当の家康は心の底から大嫌いな爺と憎み切っていたために許すとか有り得なかったと。家康さんの昌幸嫌いは皆よく知っているのでそれを逆手に取り、「あいつを減刑して、ワシの度量の大きさを見せつけるんじゃー」と流刑にしただけだった、という。

 

上田城徳川家康関ヶ原の戦いで勝利した翌年に壊された。関ヶ原の戦いののちに上田領は信之さんが受け継ぎ、元和7(1621)年にお城や城下町の整備を徳川さんに申請したが却下され、翌元和8(1622)年に松代へ移動させられた。一応栄転にあたるものの、信之さんはぶつくさ文句を言い、上田城や領内関係の資料を焼き捨て、城の庭木をむしり取って引っ越したそうな。これも嫌がらせの一つと感じていたらしい。

上司からのパワハラ、よほど頭に来たらしい。真田家では家康公より拝領した品が納められているという長持を「家宝」として24時間見張らせていたが、明治に入り中を開けて確認したら石田三成からの書状など反徳川とみなされても仕方ないような文書が入ってたという。

 

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真田神社。人が並んでいるとこを初めて見た。大河ドラマ聖地巡礼に来る人ってこんなに多いんだ…そりゃ誘致運動もするよね。

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城外脱出用の抜け穴(井戸)。

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本丸のあたり。家康さんにより破壊されてから数百年ずっとこのままなのかな? 今はいろいろな碑が建てられている。

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f:id:henrilesidaner:20160512104126j:plain 内堀。

f:id:henrilesidaner:20160512104123j:plain 西櫓。

f:id:henrilesidaner:20160512104124j:plain ハシゴをかける場所?

 

西櫓から、尼ヶ淵に降りる。

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下りるの、けっこう急。

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尼ヶ淵という名前の通り、ここは築城当時川が流れていた。今は駐車場と公園になっている。「淵」は、河川の流水が緩やかで深みのある場所という意味で、南側の堀と兼ねて水運も行われていたのでは? という説もある。

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築城当時は、石垣もなく↑こんな感じの崖だった。

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江戸期に護岸工事が行われ石垣が作られた。なんでも、この崖は非常にもろく、洪水があるたびに削れてしまうと説明文が。

ここは3つの地層から成る崖で、上から①上田泥流層(火山が崩壊して土砂が堆積したもの)②火砕流に由来する粉じん③染屋層(川の作用で砂礫が堆積したもの)、②が最も脆く(なんか全体的に水に弱そう)、これを中心に崖が削られるんだそうな。本丸の櫓のごく近くに崖が迫るということは…ひょっとしたら洪水でぶっ壊れたかもしれない脆い城だったのか。タモリの街歩き番組でこのお城に来たときは「崖削りやすいから、お城のお堀工事も簡単」と紹介されていたけど、維持が大変そうだな。

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享保17(1732)年に大洪水に見舞われ、ここの崖が大きくえぐられた。翌年の享保18(1733)年から石垣を築き、崖の浸食からお城を守る工事を命ずる。大規模な護岸工事はこの時ぐらいだが、築城当時からちょこちょこと直してはいたようだ。

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↑こんな感じで。あとから付け足した部分が目立つ。

そこまで悲壮感がなく、大掛かりな工事をほとんどしなかったのは、ここには政庁がなく(三の丸の藩主屋敷で執っていた)ほぼ廃墟だったからじゃないかと思う。

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諦めてやってない部分もあるし。

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南櫓遠景。この櫓下の整った感じの石垣は平成に入ってから修復された、一番新しい石垣。

 

★★★★☆

2度の実戦を経験し、輝かしい戦歴を残しているお城。城内の施設は徳川家により、全部壊されてしまっていると思われる。実際どういう防御施設があったのか、建物の配置だとか、このお城の築城当時の構造は謎だそうだ。天守あったかも? というお話。

 

 

上田城

築城年 天正11(1583)年

築城主 真田昌幸

構造 平城

古峠+東山道支道

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前回、ここに向かおうとしたら通行止めで断念した。冬季通行止め解除後のGW中、天気が良かったので行ってみる事にした。

ここの峠を調べていて、ものすごーく景色がいい場所だと知った。

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長野方面、こんな感じ。写真の腕が悪いので写りがイマイチだけど、実際は「おおっ」と言いたくなったぐらい感激した。知る人ぞ知る…と言う感じだと思っていたが、わりと有名な場所だったようだ。先客いたし、ガードレールに落書きが酷い。

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反対側の麻績方面は。

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分け入っても分け入っても青い山、という句を思い出したぐらい、ただただ眩しげな緑一色。麻績から善光寺平へ向かう人は長野方面の絶景に心打たれたかもしれないが、逆の人は「まだ山が…」とため息をついたかもしれない。集落が全く見えない。

古峠は、東山道北陸道を結ぶ連絡路であった。当時の国府は信濃国は現在の松本市越後国上越市に置かれていた。この二つの国府を結ぶ道でもある。現在の新潟県は対蝦夷の城柵(渟足柵、磐舟柵)があり、抗争の最前線の場所であったようだ。渟足柵は大化3(647)年、磐舟柵は大化4(648)年に置かれた。渟足柵は記録上、日本初の城柵である。城柵とは軍事防衛拠点だが、その周辺に人(柵戸)を移住させて開拓と警備をさせている。柵戸は、イメージとしては北海道の屯田兵みたいなものだろうか?

磐舟柵には「越(越前)、信濃から民を選んで(移住させ)初めて城柵を置く」という記録があるようで、北方の敵の備え用に人材物資は信濃からも供給されていた。入植と蝦夷征服が成功したあと、和銅2(709)年ごろ出羽柵を作る。和銅5(712)年に出羽国が置かれ、和銅7(714)年信濃・上野・尾張・越後などから柵戸を移住させている。

城柵の城と柵の使い分けが知りたかったが、どうやら使い分けてないらしい。多賀城とも多賀柵とも書かれる(どちらもキと読む)ので、書いた人のその時の気分で書きわけてるのか…?

そういえば万葉集にも信濃出身の防人の歌あったな、と思いだし、ちょっと調べてみると3首ヒットした。うち2首がこの近くに関係する単語が含まれていた(埴科郡出身者と小長谷部さんの名前=小長谷部はオバステの語源とも言われている)。信濃から九州に向かう人々もいたのか(歩けば1か月以上かかるのかね…)。この近辺は兵役に就く人を出せるぐらい大きな集落があったにだろう。多分こことかかな?

古峠周辺の様子。

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冠着山(姨捨山)

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↑羽尾方面(崩落のため通行止め)

この峠は聖瑚・羽尾・麻績・上山田(冠着山)の四方向からの道が交差している。古い時代の交通の要衝だったせいか、あちこちから集まってる。5月22日にヒストリカGPというのをやるので上山田方面は通行止めだそう。年代物の自動車がこんな山道を走るとか…上れるのかちょっと心配。他にクラシックカーの展示もやるとのこと、私の好きそうな内容だった。またお出かけ先が増えましたよ。

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古峠越えルートも復元されているとのこと。おお、それは是非とも通りたい。

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見た感じ、無理。

こんな感じだった。この先、崖をへつるような感じの危ない道な気がする…なんとかなるかもしれないが、なんともならないかもしれない。先が見えないや。案内板にも「古峠直下は、急峻であり、崩落の痕跡もあったため」という文章が。他の2つの峠越えの道は造られてからずっと使われて続けているのに、ここは険しすぎて捨てられたのか。

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ちょっと行く気がしないので、止めた。

 

代わりに、一本松峠の支道を歩いてみることにした。

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この建物周辺の道を。

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まずは一本松峠にもう一度行ってみる。

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250mの区間なのであっという間に一本松峠に到着。道幅は思ったより狭かった。

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なんもない場所なので、また戻る。

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公園内に入ると、支道はマレットゴルフのコースと兼用されるようだ。特に目印もないので迷いそう。

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しかも唐突に分かれる。

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左側にちょっと見えてる平地はマレットのコース。

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公園内では道幅が急に広くなった。たぶんこれが本来の道幅だったんじゃないのかな。まっすぐでいい道。さっきの峠付近も本当はこのぐらいの道幅で、もうちょいまっすぐだったのかも? と妄想してしまう…。

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ともあれ、マレットのコースにはちょうどいい幅だよねえ。

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そしてまた分岐。今度はマレットのコースと被ることはなかった。

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道路が見えてきた。公園内の部分は終了のようだ。

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公園内は550m。こちらもまっすぐで歩きやすかったためか、あっさり終わる。駐車場からどんどん離れてしまうので、今回はここまで。

東山道支道は(姨捨SA)→亘理(わたり、犀川渡し場)→多古(三才~田子)→沼辺(古間or野尻)→水門(直江津)・越後国府と駅を結び、水門駅で北陸道に接続する。この部分は、鉄道の昔でいう信越本線と同じルートらしい。

当時の有力豪族や集落がある場所に駅を置きたいために、こういう道筋にしたと言われる。亘理の場所は特定されていないものの、他はナウマンゾウの解体場所だったり、古くからの港町だったり、道が敷かれる前から栄えていた集落を結んでいるようだ。古峠・一本松峠付近も同じく「姨捨」には有力豪族・小長谷部氏がいたり、山間部ながら古屋敷という地籍には縄文式・弥生式のムラの遺跡が残されている。

こんな山の中…と思ってしまうが、当時の生活には非常に都合のいい立地条件だったようだ。山で猟ができる・木の実や薪が収集できる・川があるのに水害が少ない・川からも魚獲れる、そういう場所が好まれた時代だったようだ。しかも都と直結している街道筋なので、最新の農業技術もバンバン伝わる。水源も確保できるので農業も発展していったらしい。

 

古屋敷地籍の近くには、こんな大きな池があった。

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この近くに「大池八幡宮」という神社があったので、大池という池なのだろうか。神社はすぐ近くらしい。なにかとても古い神社のようで、案内板もあった。行ってみよう。

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中央奥が社殿。創建年は分からないが、とにかく古い、とだけあった。御祭神応神天皇、明治になってから保食神が合祀された。この神社もともとは2500㎡の敷地を持っていた。明治期に社地が縮小され、社殿も火災に遭い現在のこじんまりしたものになってしまった。

養和元(1181)年、横田河原の戦いの時に木曽義仲の先遣隊の将・楯六郎親忠がこの神社で戦勝を祈願し、兵馬を隠したという古伝があるそうだ。

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今でも隠れるのには良さそうな。

 

 

★★★★★

かねてから気になっていた古峠。景色が素晴らしい。晴れた日を選んで、また何度か見に行きたい。

 

 

<古峠>

開通年 大宝2(702)年以降

施工主 国

 

夏目城

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お城跡は神社になっていることが多い気がする。神社になっていなくても、ほぼ祠はあるような? 合戦で使われるものだから、慰霊のために神社や祠をたてているのだろうか。

湯入神社も昔は「夏目城」という名前のお城だったという。

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二ツ柳城のご近所さん。夏目氏というのは二ツ柳氏から分かれた一族なんだそうだ。こちらも早い段階で廃城となり、夏目氏は三河国に移住している。移住した時期は室町時代前期らしい。三河国に六栗城というお城を築城している(このお城は永禄年間(1558~1570)に築城されている)。戦国時代には徳川家の家来となっていた。家康の命を救った夏目吉信がいる。さらに時代は下り、小説家の夏目漱石さんや漫画評論家の夏目房之介さんも子孫にあたる。

元は同じ一族だった人たちが築城したためか、二ツ柳城と夏目城はよく比較される。双子のようだと評される。

個人的にはこちらのほうがより強固なお城に見える。二ツ柳城の周りは畑だらけになってしまったから、元のお城とだいぶ改変されてしまっているかもしれないけど、ぱっと見は夏目城のほうが攻めるの難しそうな気がした。

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階段は直線で伸びている。石段を排除すれば、なんとなく元のお城の風景が想像できる気がした。階段の形状が二ツ柳城にすごーく似てるんですけど!

ふたつのお城、どちらが先かと考えたら、多分二ツ柳城かな? 夏目氏初代は夏目国平(1175(安元元)年?~1125(嘉禄元)年)という方で、お父様の二ツ柳国忠が軍功によりこの地(夏目郷)をゲットしたそうな。国平は二男だったので分家し、夏目郷をもらって夏目氏を称した。普通に考えれば、その時には二ツ柳城が存在していたと思う。見た感じもこちらのお城の方が強固だし、見本がありそれを改良して堅くしたならすんなり納得できる。

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石段がようやく終わり、神社本殿に到着。

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ごく普通の神社だー。本殿がある場所が本郭だろう。わりと広い。本郭跡の平場の隅っこにちょっと高くなっている場所があった。

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あったのは祠が数前。

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裏側はこんな感じ↓

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二ツ柳城にもこんな感じのものがあったな、そういえば…。こちらは見晴らしのいい場所(盆地が見渡せる側)にあるが、二ツ柳城はお城の奥まった方(山側)にあった。

全体的な広さでいえば、夏目城の方が広い。

神社裏には。

f:id:henrilesidaner:20160416122215j:plain 土塁があった。その後ろ、山側は畑だった。

帰りは石段ではなく、別のルートで降りる。舗装された九十九折の道。神社とその近くの畑まで車で上がれる。1車線幅でちょっと狭い。右側が本郭側。

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ちょっと改変してあるかもしれない。が、雰囲気はよい。

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 夏目城と二ツ柳城。似ている部分が多い。違うのは、二ツ柳城は石垣があった。夏目城にはない(そもそもあの石垣は後世のものだと思うが)。

 

大塔合戦で守護方が逃げ込んだ「大塔の古要害 」とは二ツ柳城という説の他に、この夏目城も有力視されている。

大塔合戦に参加した人が「二柳城における戦功」により恩賞を要求した記録が残っているため(ただしこの記録も、大塔合戦での戦功かどうか定かではない)、最も有力な説は二ツ柳城ではある。しかし、二ツ柳城で確定、とならないのはあのお城が素人目で見ても貧弱だから。

・こっちの方が堅そう

・夏目城と二ツ柳城はかなり近い

・城の構造がかなり似ている

・夏目氏はもともと二ツ柳氏であり、お城の名前も混同された可能性?

と、私でも思いつく理由を並べたが、そんなこと他の人も当然考えているだろう。で、決着できないのだろう。古文書やお城発掘で何か出てくるような発見がなければ、ちょっと無理かも。個人的には、まだこっちのほうが籠城には向いているかな、と思う。守護方が目指していた塩崎城も夏目城のほうが近い。

あと、二つとも使われたと考えている人もいる。二つセットだったとしても、メイン利用のお城はやっぱり夏目城ではないかと思う。

ちなみに大塔合戦の「大塔」というのは、地名とされている。現在の地名では「大当」といい二ツ柳城の方が近い位置にある。

 

★★★★☆

車で楽々行ける、雰囲気も壊されていないお城。

 

 

<夏目城>

築城年 鎌倉時代?

築城主 夏目氏

構造 平山城

岩鼻

岩鼻。なんでそんな名前なのかというと、こんな外観だから。

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豚の鼻みたい…。

f:id:henrilesidaner:20160423141734j:plain 横から見た岩鼻。鼻の頭に東屋らしき建物が見える。ずいぶん前から気になっていたけど、つい最近重い腰を上げて「岩鼻」について調べた。岩鼻の上は「千曲公園」という公園になっている。

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麓から遊歩道も整備されているが、車で上まで上がれるそうなので行ってみよう。

f:id:henrilesidaner:20160423141723j:plain 道はトラック1台くらい通れる幅。昼間はいいが、夜は街灯もなく怖いかも。千曲公園は夜景の名所だそうで、ぽつぽつ上ってくる車はあるだろうけど。

f:id:henrilesidaner:20160423141724j:plain 獣も出るらしく、電気ビリビリな鉄柵がずーっと張り巡らされていた。

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遊歩道も整備されている。遊歩道は3か所あるらしい。このあと犬の散歩中の地元民さんに話しかけられ、岩鼻の詳しい説明を受けた。ゆっくり九十九折の遊歩道を上がると30分、崖をまっすぐ上っていく道が15分。さほど時間はかからないそうで、犬の散歩でよく歩いているとのこと。

 

f:id:henrilesidaner:20160423141727j:plain 公園内。細長い。人がいた(誰もいないと思っていたのに)。

f:id:henrilesidaner:20160423141732j:plain 桜は終わってしまったが、春は花見でにぎわいそう。細長く、三方が崖だからなのか、たまたまなのか、ものすごく風が強い。寒い。

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崖下の道の駅から見えるのは、この東屋だったようだ。東屋の先、崖の鼻先まで一応行ける。

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崖の上ということで、ここは自殺の名所でもあるようだ。このフェンスの先は行き止まりだが、そこにはお供え物が…。お供え物が気になり家に帰ってぐぐったら、この下の半過洞門の屋根にはご遺体がたくさん、、、という話がー。夜景が綺麗だというのは想像できるけど、夜に真っ暗な林道のぼって自殺の名所に行こうと思わない(自殺者と間違われそうだしさ)。ひょっとして、さっき地元民さんに話しかけられたのも自殺者と思われたからなのかも?

景色はほんといい。

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千曲市方面

岩鼻という場所は、昔ダムだったそうだ。上の写真の中央付近、千曲川の対岸に「下塩尻岩鼻」という場所がある(今いる場所は半過岩鼻)。半過岩鼻から下塩尻岩鼻まで陸続きになっていて、そこに大きな湖があった。あるときネズミが大量発生し、田畑を荒らした。人々は猫を集めてネズミを駆除しようとした。追い詰められたネズミたちは必死に湖をせき止めていた岩山を食い破った。湖から水が流れ出し、猫もネズミもみんな流されてしまった。という話がある。窮鼠猫を噛むという諺は知っているけど、岩山を噛みちぎるとは。自分にはない発想、ネズミ君たちの何が何でも逃げたいという熱意が凄い。

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上田駅上田城方面

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↑倉弁山方面

下に写っている説明板には「真田丸」と書いてるが、内容は天文17(1548)年の上田原の戦いについてだった。信濃侵攻してきた武田信玄坂城を拠点としている村上義清の合戦で、大河ドラマとはほぼ関係ない(幸村さんのおじい様が武田方として参戦しているらしい)。

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倉弁山は武田方が陣を布いた場所。ちなみに村上方は千曲公園の裏の山、天白山に布陣したそうだ。武田さんがボロ負けして終わった戦い。

 

ちなみに、ここの岩鼻の崖には、本州ではココだけ。という植物が生えている。

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白い花をモイワナズナというそうで、北海道で発見された植物とのこと。なぜ北海道の植物があるのか謎(ここよりも北海道の気候に近い地域なんていくらでもありそうなのに)。前述の犬の散歩中の地元民さんのお話によると、上田市でこの花を増やそうとしたことがあり、しかしその試みは失敗したという。その方もモイワナズナを株分けしてもらって育てようとしたがダメだったという。

イワナズナさん岩鼻がよほど気に入ったんだろう、しかし北海道の植物がなんでこんなところで群生しているのか気になります…。もしかしたら、モイワナズナでもない新種の植物なのかもねー。

 

下に降りる。下にも公園がある。道の駅が併設されていて、小さい子を連れてきても設備が充実しており使い勝手が大変いい。芝生、グラウンド、ドッグランまであった。芝生にレジャーシートを敷いて子を転がしてみたが。下も風が強く嫌がられてしまった。

 

f:id:henrilesidaner:20160423141742j:plain トンネル工事にともない、このあたりにあった遺跡が発掘されていた。中の沢遺跡・半過古墳群という名前で、弥生時代から平安時代の住居跡と4つの古墳群があったという。特に古墳は崩れた山の土砂で隠されており遺骨と副葬品が丸々残っていたそうな。ひょっとしたらまだ地下にお宝が眠っているかもしれない…。

 

せっかくなので、半過洞門と旧県道77号線がどうなっているのか見に行った。

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今はトンネルのほうが交通量も多いし安全なので、地元民しか使ってないかな? と思いきや。

f:id:henrilesidaner:20160423141737j:plain 通行止め(二度と解除されないだろう)。

小さいころ長野から佐久に帰るときここを通っていて、結構大人になっても便利な道だから使ってた馴染みの道がー。年1で崩れていたから仕方ないのか、またちょっと通ってみたかったがねぇ残念。

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これが半過洞門。どう見てもここは交通の難所である(ぐぐると北国街道随一の難所だった、と説明しているのが結構出てくる。北国街道って対岸の国道18号線にあたると思うが、もしかして下塩尻岩鼻とごっちゃになってる?)。県道77号線は崖と川の間をずーっと進む感じだった。無茶な場所を通しているから、そりゃ脆いよね…。

近くには石碑が3つもあった。1つは改良工事したことが書いてあるような感じ、もう2つはここを作るにあたり尽力した方を称えるもののようだった。

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崖上から岩がよく落ちてきていたらしく、ある年トドメをさされて廃道になった。もちろん過去何度も通った。今は心霊スポットになっている。何度も通ってきた道が実は自殺の名所、心霊スポットだったとは…ものすごくショックです。

 

 

★★★★☆

眺めがよく、上の公園(千曲公園)でも下の公園(道の駅)でも子供と遊べる。自殺の名所だけがネック。

 

 

<岩鼻>

 

横田城

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住宅地の真ん中にある。ぽつん、と盛り上がっている場所だけ。今はお稲荷さんの社が建っている。

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f:id:henrilesidaner:20160416121431j:plain ←盛り土の上のプレハブっぽいのがお社。

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古殿稲荷社というお名前、場所の狭さのわりにやけにぶっとい木(と切り株)が古くからあるっぽい雰囲気を出している。ここの部分は土塁のあととされていて、北側には昭和7(1932)年ごろまで堀のあとが見られたと伝えられているそうだ。元の堀は6~8m位らしく、それが二重三重とめぐらせてあったとのこと。

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説明板にあった地図だが、水色線が堀の跡か何か? ちょっとたどってみたが、水路になっていた(地図上では赤い○部分)。

f:id:henrilesidaner:20160416121438j:plain 元は堀だったかもしれないけど…? 

外堀は南北約180m、東西約230mという大きさ。この内側に集落があったという。その中に「殿屋敷」と呼ばれる場所がある。「殿屋敷」が本郭跡である。本郭の規模は55m×55m(=3025㎡)。本郭は南北10m、東西12m、高さ3mの土塁で囲まれており、土塁の西北隅が現在の古殿稲荷社とされる。

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本来はもっと大きな城であったようだ。説明板には環濠集落と書いてあったが、それだと私としては縄文時代のムラのイメージになってしまう…。

築城時期は平安時代末とされる。そのころ源平合戦があった。何気に、このお城も治承・寿永の乱(治承4(1180)年~宝暦2(1185)年)に登場する。合戦のひとつ、横田河原の戦いの舞台がこの場所。ここで平家に勝った木曽義仲は勢いに乗って倶利伽羅峠の戦いにも勝利する、という。不勉強なので、横田河原の戦いは知らなかったが、さすがに倶利伽羅峠の戦いは知ってる(火牛の計のインパクトすごかったので)。

治承5(1181)年、平家から木曽義仲追討の命を受けた越後の実力者・城長茂が1万の軍勢を率いて横田城に入った。木曽軍は佐久のほうから3000騎ほどで進軍し、この地で激突した合戦を横田河原の戦いと呼ぶそうだ。で、負けた城さんが越後へ逃げ帰ったときには300騎ほどにまで減っていた。越後にいられなくなって会津に行ったが、会津も追われて越後に逃げ帰った城さん。これ以後もずいぶんドラマチックな人生を歩んだらしい。

木曽さんは空白地帯になった越後に行き、北陸道から都を目指す。加賀と越中の国境の峠・倶利伽羅峠で平家軍に勝利し、都入りした。

 

応永7(1400)年の大塔合戦では、守護の小笠原さんが善光寺横山城かも?)から横田城に入り、国人衆との合戦に備える。が、味方が少なく(敵がかなり多く)横田城を捨て塩崎城へ移動した。途中で敵に察知され、二ツ柳城には塩崎城にたどり着けなかった大部分の兵が立てこもり、全員戦死した。

 

横田城最後の戦いは川中島の合戦。横田城は武田さんの家臣、原虎吉さんが入った。どうもこの地で亡くなったらしく、近くのお寺にお墓が残されていた。

f:id:henrilesidaner:20160416121439j:plain ←この向かい側に立派なお墓がありました。

原虎吉さんは永禄4(1561)年の第四次川中島合戦で上杉謙信武田信玄の一騎打ちの場面に居合わせ、信玄を救ったという話が残っている。なので、討死したとすれば永禄7(1564)年の第五次川中島合戦だろうか。これは「塩崎の対陣」とも呼ばれているそうで(信玄は塩崎城に布陣した)、横田城に武田軍がいて小競り合いしてもおかしくはない…。第五次川中島合戦は二か月くらいの間にらみ合いしただけで終わったため、戦闘があり戦死者がいたかどうかも分からず。ちなみに川中島合戦は第五次が最後。

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原さんが眠っている地蔵寺は、近代の軍人さんも多く眠っているようでした。

 

 

★★☆☆☆

住宅地になってしまい、お城の面影はわずか。重要な位置のお城だったようで、何度も合戦があったのかと思うと不思議な気分になった。今の町並みからは想像つかない。

 

 

<横田城>

築城年 平安時代末期

築城主 不明

構造 平城

 

 

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この近くに、去年できたばかりの広い公園が。子連れがたくさんいた。しかし広いから他の家族と接触することも少なそうで良かった。

明徳寺館

f:id:henrilesidaner:20160409222150j:plain 桜が満開の頃。またお城を見に行った。

近くに昔のムラを再現している公園があるというので、そこにも足を運んでみようと思う。

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f:id:henrilesidaner:20160409221549j:plain さらしなの里・古代体験パークという。同じ市内に似たような施設があるが、こちらは円光房遺跡を復元したもので、県立歴史館の施設より古いようだ。円光房遺跡は縄文中期の遺跡だそう。

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f:id:henrilesidaner:20160409222149j:plain←これの骨組みが

f:id:henrilesidaner:20160409222142j:plain ←こんな感じ

f:id:henrilesidaner:20160409222144j:plain ←高床式倉庫

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↑祭祀跡

f:id:henrilesidaner:20160409222148j:plain 竪穴式住居の床は石敷き。ここにゴザ敷いて寝たり起きたり…ちょっと痛いかな…。このあたりの遺跡群の特徴的な床で、柄鏡型敷石というそうだ。

 

この辺りは、そこら中から遺跡があるということで幅田遺跡群という名前が与えられていた。中でも、この円光房遺跡は大きい遺跡らしい。幅田遺跡群は縄文時代前期(約6000年前)から平安時代初頭(794年以降)の遺構などが見つかっている。姨捨伝説についても、ここの遺跡から何か分かったらしい(併設の資料館には入らなかったが、多分何かしら展示されているんじゃないかと思う)。

姨捨伝説というのは、口減らしなどのために高齢の親を山に捨てに行く話である。結局改心して親を連れ帰るのだが、同様の話は世界中に見られるという。日本では大和物語(950年ごろ成立)が初見。

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さて、本命のお城。明徳寺館という。現在は明徳寺というお寺になっている。

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このお寺さんは、徳治2(1307)年に創建。眼病治癒の御利益がある薬師如来さんと樹齢800年の大杉があるという。戦国時代に村上義清の家臣が今の地に移転させたという。当時から廃墟だったという噂。そのためか、遺構はほとんど残っていない。

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墓地周辺に土塁があるのみ。

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実は「明徳寺館」というのは、謎のお城(館)跡なのである。そもそも「明徳寺館」という名前も便宜上そう呼んでいるだけらしく、誰がいつなんのために造ったのか文献に残されていない。地元にも伝わっていない。本当の名前も分からない。

この館のことを初めて知ったのは、1990年代に発刊された北信濃の城郭?というようなタイトルの分厚い本だった。少々記憶が怪しいのだが、「近年発見された」と書いてあった。土塁なんかもそのままずーっと放置されていたと思うけど…気づいたのが20~30年位前なのか。文献に全く登場しないために今でも築城主や築城年や城の名前が分からないお城は他にもある。桝形城とか。

ここは館跡なので、当然お城も存在する。すぐ近くの小高い山に堂城山城がある。もちろん主不明である。先ほどのさらしなの里古代体験パークの説明板だと、この辺りは6000年前から人が住んでたというが…それで口頭伝承さえなかったのかと思うと、不自然な気がする。敢えて忘れ去らせてしまったのかもしれない…伝承したくないほどの惨劇があったとか、そういう怖い理由かも?

 

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★★☆☆☆

遺構が少なめ。お寺の雰囲気が強く、館の雰囲気あまりなし。

 

 

 

<明徳寺館>

築城主 不明

築城年 不明

構造 平城