お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

船山守護所

ごく短い数年の間だけ、信濃国の役所として登場する船山守護所。中先代の乱での戦場のひとつとなった。

 

後醍醐天皇の討幕運動に参加していた小笠原貞宗さんは建武2(1335)年、武功により信濃守護職に任命され、守護所を船山郷(現在の千曲市)に置いた。

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場所は↑らしい。現在の主郭跡周辺は住宅地である。

鎌倉時代信濃国北条氏知行国であった。船山郷は第13代執権・北条基時の領地で、彼の屋敷があった。基時は鎌倉時代末期の武将。北条一族の中でも家格が高い家の出身で、幕府要職を歴任し最後に執権に就任している。また信濃守護に任命された記録もあった。基時は得宗家出身の北条高時に執権の座を譲ると引退、出家した。第16代執権の時代、元弘3(1333)年の元弘の乱により鎌倉幕府が滅亡する。基時はそのとき鎌倉の防衛に当たっていた。陥落してしまったため自刃。

鎌倉幕府滅亡後、信濃守護となった小笠原さんは北条基時の屋敷を再利用し、守護所としたようだ。現在は遺構など全くない。が、主郭跡とされる場所を取り巻く道路は怪しく、これは堀跡じゃないかね? と言われている。

 

そんな主郭の堀跡と言われる道をぐるーっと回ってみた。

①からスタート。正面の道を行く。

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②北側堀の中間ぐらい。

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③の角を曲がる(↓の写真だと右へ)。

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④東側堀

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⑤南側堀

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⑥西側堀

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⑦西側堀と北側堀の交点(バス停付近)

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これで1周おわりー。なんにもなかったー。

 

船山守護所は鎌倉幕府滅亡後に置かれた。小笠原さんが守護になった建武2(1335)年、その年に青沼合戦が起こり守護所が襲われる。この合戦は北条支持の四宮氏、保科氏など在地国人衆と守護・小笠原氏の戦いだった。小笠原氏が優位に進み、敗走する国人連合軍を追撃し続けた。このとき蜂起した四宮氏、保科氏は諏訪氏の庶流と伝わっている。

実は諏訪氏や滋野氏が中心となって北条政権再興をもとめて、反乱軍を組織していた。四宮氏や保科氏などの守護所周辺に領地を持つ国人も反乱軍の一味だった。守護の小笠原氏を引き付ける役目で、この間に本体の諏訪氏、滋野氏と北条高時の子・時行や北条残党は松本の国衙国司のいる役所)を焼き討ちし、勢いづいて足利直義(尊氏の弟)がいる鎌倉まで侵攻、直義を追い出し一時占拠した。京から足利尊氏が弟の救援にきた。尊氏により反乱軍は徐々に劣勢となり、首謀者の諏訪氏が自害したりし、反乱は収束に向かう。この反乱を中先代の乱と呼ぶ。

中先代の乱は、歴史の教科書もに出てくる単語だけど、よく知らない。時期は鎌倉幕府室町幕府の間。後醍醐天皇が親政を行っていた短い時代に起こった。鎌倉幕府(先代)と室町幕府(次代)の中に起こった先代幕府の反乱だから、そういう名前になったという。倭国大乱と同じくらい、かっこいい名称だなとなんとなく名前だけ覚えていた。

 

この反乱が収束したのち、船山守護所は近くに移転した、という説もある。それが今の「船山神社」ではないかと言われている。

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船山神社も「船山守護所跡地」という伝承が残っているらしい(船山神社は戦国時代末期の某氏屋敷跡、という伝承も残っている)。いずれにしろ、有力武将の館跡というのは確定だという。

移転かどうかは確定していない。小船山の「小→古」で本来は古船山という字を当てていたんじゃないかという意見から、移転したんじゃないかと言われている。同じ船山郷内で移転したので、前の守護所を「古船山」と呼んで区別したのではないかという話。

 

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境内は細長い。屋敷跡の一部が船山神社という言い方のほうが正しいのかもしれない。この辺りは水路が多く、ひょっとしたら堀跡かもしれないと思った。

船山守護所は正平6(1351)年にまた焼き討ちされた。南北朝時代南朝(村上氏など)と北朝(小笠原氏など)が争っており、その中の戦いのひとつで焼かれたそうな。守護所は善光寺の近くへ移転したと言われている。このころの小笠原家当主は政長さん(貞宗さんの息子さん)という。政長さんは翌正平7(1352)年に5歳の長男、長基さんに家督を譲る。時が経ち、長基さんの次男の長秀さんが当主になり、応永6(1399)年に信濃守護職として長秀さんは京から信濃善光寺へ向かった。地元民から「偉そうだ」などと言われ、戦争になったのは翌年のこと(大塔合戦)。

 

小船山には「小船山神社」という神社もあった。最初、こちらが船山守護所跡地なのかと思っていたら、全く違った。古い名称では「猿田彦社」というらしかった。

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小船山にあった船山守護所跡の周りには、釈迦堂、阿弥陀堂もあったようだが、現在はない。1か所にお堂を集めて、「小船山神社」としたのかも?

 

★☆☆☆☆

20年くらい前の資料だと「矢竹があちこちに自生しており、守護所の雰囲気はちょっとある」とあった。今は見かけなかった。単なる住宅地なので探しにくい。

 

 

<船山守護所>

築城年 不明(建武2(1335)年改装)

築城主 北条基時(改装者 小笠原貞宗)

構造 平城

 

 

 

 

鎌倉幕府の滅亡と、建武の新政室町幕府の流れがよく分からないので、勉強してみた。

後嵯峨天皇には後深草天皇(兄)と亀山天皇(弟)という二人の息子がいた。二人は同腹の兄弟で、母・大宮院の身分は中宮と高かった。しかし後深草は病弱(身体に障害もあったようだ)、両親は健康体の亀山をかわいがっていた。兄弟は対立していた。

いろんな意味で興味深い作品「とはずがたり」だと、後深草は寝取らせ、亀山は逆に女好きで寝取りが好きだったようだ。その内容は、後深草のビッチな愛人を亀山にも貸したが、愛人が上手な亀山に乗り換えたという噂を聞き、大変なショックを受けて愛人を捨てたとある。

後嵯峨はまず後深草に譲位し、自身は院政を始める。10数年後に後深草から亀山に譲位させた。後深草、亀山2人にもそれぞれ息子がいたが、亀山即位したあと後嵯峨は亀山の息子を立太子させる。後嵯峨は次の「治天の君」を指名せず、「鎌倉幕府の意向にしたがってね」という遺言を残し崩御。普通この順序だと次代「治天の君」は亀山になる、しかし院政をやりたがった後深草が異議を申し立てた。幕府が仲裁に入る。幕府は大宮院に相談した。大宮院は「亀山でー」と答え、治天の君は亀山になった。後深草は「うちの子孫の皇位継承権なくなっちゃう」と揉め続けた。幕府が困って考えた末「じゃ公平に、10年づつの交代制でいきましょう」と裁定した。兄の後深草の子孫=持明院統、弟の亀山の子孫=大覚寺統、と呼ぶ。持明院統大覚寺統皇位が行き来することになったという。これを両統迭立という。

私はドロドロした権力争いの話が好きなのですが、平和な解決方法で名目上決着ついてがっかり。「とはずがたり」がめちゃくちゃだった分、両統迭立じゃ物足りない。しかし、持明院統大覚寺統も完全決着を望んでいたようで、水面下では色々な工作を行っていたようだ。内容までは伝わってこないので、幕府にばれないよう悪口を言い合う的な生ぬるいことをやってたんだろうか。相手に毒盛ったとか、陥れて島流したり、幽閉して憤死させたり、そんな風なことをやってたら面白いのにな。個人的にはそういう話が聞きたい。

 

大覚寺統後醍醐天皇が即位したのは徳治3(1308)年。本来なら10年後くらいに持明院統に交代、また10年後くらいに自分の子孫に皇位が巡ってくる。が、お父様の後宇多天皇は最初から後醍醐の兄・後二条の子に継がせたいと明言していた。2つの皇統の緊張が高まっていた時期で、後二条の前に持明院統が2回連続で天皇位についていたり、と大覚寺統が不利っぽくなっていた(鎌倉幕府持明院統に近かったようだ)ので、亀山院が幕府に「裁定と違う、ずるくない?」と不服申し立てをし、後二条が皇太子となることができたぐらい形勢が悪かったようだ。後二条は在位7年くらいで崩御、その遺児はまだ子供。皇太子にしても幼すぎて心許ない。後宇多は仕方なく、皇太子の順番を後醍醐→持明院統→後二条の子→持明院統→…という流れにしようと持明院統に持ちかけた。持明院統は特にデメリットがないので、これを受けた。後醍醐は自分の子孫は皇位を継げないことが明白なので、イラついた。

なぜ後醍醐がお父様から嫌われていたのかというと、彼の祖父である亀山が原因だった。彼は寝取りが好きらしい、ということは先に書いた。亀山は息子の後宇多の嫁にも手を出して奪った。亀山に奪われた妃が後醍醐の母だったので、後醍醐は父に疎まれた。ひょっとして叔父子なの? とワクワクしたけど、そうではないらしい。亀山が息子の嫁に手を出した時期は、後醍醐が生まれたより後だったようだ、残念。

 

イラついていた後醍醐は、まずは「皇位は交代制にしよう」と介入してきた鎌倉幕府を壊すことにした。持明院統はもちろん、大覚寺統の大多数も後二条の子がいずれ皇位を継ぐということに賛成していたので、後醍醐は普通に討幕に失敗し廃位→配流。しかし鎌倉幕府に不満を持つ武士たちを煽動し、ついに鎌倉幕府が滅亡。意気揚々と都に凱旋した後醍醐は自分の廃位、在任中の光厳天皇の即位や人事を否定し摂関家などの力を持っていた貴族たちを追い出した。持明院統と自分の子孫以外の大覚寺統の人間、幕府に近い人間も追い出して、討幕を手伝った人たちと新しい政治を始める。これが建武の新政

 

建武の新政を始めたが、後醍醐は気に入らん奴は死んでもらいますという感じの独裁者だった。とても良いと思う。第三者として遠くから眺めている場合は、バタバタと皆ぶっ殺していくような爽快な展開を楽しめるはず! しかしそうはならずに中先代の乱が起こる。

鎌倉にいる弟がやばいから助けに行きたい、つきましては追討命令と征夷大将軍の身分ください。と足利尊氏が後醍醐にお願いしたところ、後醍醐が拒否した。仕方ないので、尊氏は勝手に弟の直義を助けに行った。冷静になって考えてみると、後醍醐の追討令をもらわずに出てきちゃったので、帰ったら殺されるかもしれない。まずいなぁと鎌倉に長居する。

思った通り、後醍醐は足利を粛清することにした。同格の新田を使うことにした。一応新田に勝った足利だが、「天皇に弓を引いた」と認定されるとかなーりまずい。足利は持明院統光厳を頼ることにした。もともと鎌倉幕府(武士層)寄りだった光厳側もめんどくさい危険人物が復帰して、勝手に退位させられて怒っていたので、手を組む。足利さんは全国の武士に支持されていたので、当然のように武士層も光厳持明院統を支持。

光厳からきちんと討伐命令を受け取り、一時劣勢だった足利があっという間に京を取り返して、後醍醐を追放したあと持明院統天皇を即位させる。後醍醐は諦めず、三種の神器を持って吉野に行った。「俺天皇だから」などど言い出し、そこにも朝廷ができた。京と吉野に2つの朝廷が誕生し、京(持明院統)=北朝、吉野(大覚寺統)=南朝、と南北朝時代が始まった。

明徳3/元中9(1392)年、室町幕府三代将軍・足利義満により、南北朝が解消された。南朝が持っていた三種の神器北朝に渡すという形の決着。北朝天皇はそのまま在位、官職も北朝方の公家で占められていた(南北朝合一の条件は、両統迭立だったが約束は破られた)。で、南朝方は無職になる。これを不服とし、色々あった末に後南朝ができる。後南朝応仁の乱が始まった頃まで、紛争があるたび担ぎ出されていたが、いつの間にかすうっと消えた。

明治になり、南北朝のどっちが正統かという論争になり。三種の神器を持っていた南朝が正統だということになった。しかし、現在の皇室は北朝の末裔である。農家の三男坊(熊沢天皇)が「俺は南朝第118代天皇だ」などと主張したり、そのほか数名の天皇が現れたりしたので、現皇室の皇統が正統である。ということになっている。