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お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

大堀館(町田氏館)

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現在は更北中学のグラウンドになっている「大堀館」跡。大堀さんという方が建てたのではなく、町田さんのおうちと言われています。町田氏館と呼ばれてはいますが、この近所にも「町田氏館跡」という場所があり、おそらくそれと区別するためにこっちは大堀館跡と称しているのかも?

天文24(1555)年の第2次川中島合戦は別名、犀川の戦いと言われる。犀川を挟んで北側を上杉(長尾)軍、南側を武田軍が布陣し200日ぐらい延々と対峙し続けたらしい。そもそものきっかけは、栗田城の栗田さん(里栗田、善光寺別当)が武田さんに寝返ったことであり、朝日山城に立てこもった里栗田さんを上杉さんが落としに出かけたことで始まった。里栗田さんの朝日山城は落とせないし、犀川南岸にやってきた武田さんも倒せないし、お互い疲れちゃって「もうやめよかー」と今川義元さんに仲介してもらい戦後処理をした。これで、第2次川中島合戦はおしまいになった、という。

このとき武田さんが本陣として使った施設が、この大堀館とされている。

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けっこう太い木が校庭周りにある。

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更北中が開校したのは具体的にいつか知らないけど、太平洋戦争後(1945年以降)であるようだ。戦後植えられたとは思えない。どう見ても幹は太く、それより昔からここに生えてました。という様子の木が並んでいる。

 

その他周りの様子↓

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町田氏はこの付近を領地とする豪族であった。天文22(1553)年に町田正之さんは武田家の家来になった。町田氏は信玄と勝頼の2代に仕え、武田家滅亡ののちに上杉家家臣、上杉氏が会津に移ったタイミングで帰農。武田家臣時代には戦争で活躍したそうで、須坂市や静岡県静岡市清水区にも領地をいただいていたとのこと。

更北中学ができる前までは堀も土塁も存在していたらしい。が、今は何ひとつ残っていない。

 

大堀館は火災に遭い、別の場所に新しく屋敷を建てた。それが現在「町田氏館跡」と呼ばれている場所のようだ。町田さんが転居したあと郭跡は農地に転用されていたそうだが、周囲の土塁や堀は壊されることなくそのままになっていたという。

享和3(1803)年に松代藩家老が長徳寺を訪れたとき、大堀館跡の様子を書き残していた。それによると、

・四方に土居(土塁)がめぐらされ、その上には樹木が生い茂っている

・土居は南北約40m、東西約32m、幅が約6.4m、高さは約4.5m

・土居の外、四面に堀がある

・堀は幅約7.3m、深さ約3m

・内部は単郭(享和3年当時は畑になっている)

・隅に町田正之夫妻の供養塔? 二人の法名が刻まれた石碑がある

いちいち書き残すぐらいだから、規模が大きく立派な館跡だったかもしれない。甲斐から遠征中の武田軍の本陣に200日も使われるぐらいだしな。武田軍の兵数がどのくらいか知らんけど、本陣には数百人詰めてたかもね。

元領主だった町田家はお金持ち(豪農)である。その辺の農民とは違う。前述の松代藩家老が大堀館跡のデータと共に、町田氏は藩に献金をして賄格となり、十二人扶持となる、と記している。賄格というのがよく分からないけど、字面的に食事関係の役職だろか。十二人扶持は役職についたので手当もらえるということらしい。ざっと調べたところ、一人扶持は年に5俵の手当であるようだ。十二人扶持だと年60俵。現代風の感覚だと1俵10万円くらいじゃないかという説を見た。それだと、年600万円の支給か。

町田さんは藩に千両の献金をした。昔の米の値段で比較すると、1両=4万円だという。なんか、大工の手間賃換算で1両=30~40万、蕎麦換算で1両=12~13万とあって、現代とは経済の仕組みや物の価値が全く違うので一概に「1両=○万円」とは言えないらしい。考えてみたら、給料が米だった時代の話だしなぁ…。米基準で考えると、献金は4000万円かなー? 元を取るには7年かかっちゃうね。前述の松代藩家老の書き残した内容だと、享和3年時点で一代前の当主が献金とあるので…献金後7年以上経過してるのかな。ついでに名字帯刀も許されて名誉もつくならいいよね。

 

更北中ができる前の、古い空撮の写真がいくらか残っていたので見た。グラウンド部分は完全な森だった。グラウンド周りの道もひょっとしたら堀跡かもしれない。

グラウンドの北側には、謎の祠もあった。

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大堀館に関係あるものかしら?

 

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ちなみに、更北中のグラウンドだけが大堀館跡であって。校舎や体育館のある場所は関係ないそうです。

 

大堀館跡にあった、町田正之夫妻の石碑は近隣の長徳寺↓に墓として移されている。

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焼失した大堀館に代わる新しい屋敷「町田氏館」は、この長徳寺の北側にあった。現在は畑。大堀館がなくなった時期は謎だが、町田氏が帰農した跡に建てたなら…お城とは言えないかもしれない。堀らしきものを見つけたが、私の実家の近くにあるものすごく古い屋敷(元酒屋だという。女の人と楽しく遊べる場も提供していて、この酒屋でうちの先祖が酒池肉林の生活に溺れて財産失ったとか)にも堀があるので、堀がある=城館ではなさそう。

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↑中央付近の背の低いマサキの垣根の辺りがそうだという。

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↑ここ。下の図で示された撮影場所、あとは人の家なので。左側の社には石仏が、しかしなんだかよく分からず。ちょっと怪しい?と思ってしまった…。石仏のいらっしゃる社の裏側に堀らしきものがある。

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民家の周りのぐちゃぐちゃのヤツはでかい木のつもりです!

こういう場所なので入りづらく、不審者に思われないように辺りを警戒しつつ撮影。

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社の近くには道祖神庚申塔がひっそりと。

 

 

★★★☆☆

跡地は学校&民家(畑)であまり観察できない。そしてよく探さないと跡が見つからない…ゲーム感覚な楽しみ方。

 

<大堀館>

築城年 不明

築城主 町田氏?

構造 平城

 

<町田氏館>

築城年 不明

築城主 町田氏

構造 平城