性懲りもなく、再び住宅地の中にあるお城跡を見に行った。内後館という、小田切氏上屋敷。小田切さん館はこれで3つ目。
上屋敷とか下屋敷とか、大名みたい。江戸時代だと、上屋敷=藩主居住地・(中屋敷=跡継・隠居の住まい等)・下屋敷=別荘となるようだ。江戸以前でも似たような役割なのかしら? 小田切さんの場合は小田切館、内後館(上屋敷)、於下館(下屋敷)の3つのうちメインで使用してたのは内後館なのかしらね? 小田切館は高台にあって平時暮らすには少し不便そうだし。
内後館跡は現在民家。来る途中に「村内徐行」という手書きの看板がいっぱいあった。注意を払わないとならないほど道は広くないし、微妙に入り組んでいたりして先が見えづらい。ちょっとづつ大きくなっていった村落みたいな感じなのかな? 道はちょっと複雑。民家も多いが田畑も多い、幹線道路に面している地区ではあるが、昼間だからか騒音もあまり気にならない感じ。長閑な場所だー。
案内板を見つけた。
・昔は堀があった、徐々に埋められ昭和の初めには3つに減った
・小田切氏は村上氏に属し各地を転戦していたが、北信濃に進出してきた武田氏に追われ北部の山へ移動した
・墓は円光寺にある
周り↓
埋められてる堀かどうかは分からないけど。見た感じ、古い時代の遺構が残っているとは思えない風景ではある。
館跡と言われる民家には「小田切神社」なる神社が↓
小田切幸長夫妻を祀る神社(一般人立ち入り禁止?)がある。どうやらご位牌がこちらにあるらしい。
小田切幸長さんのお墓があるという円光寺もすぐ見つかった。目と鼻の先。
・建久元(1190)年、明譽上人により開山
・浄土宗のお寺
と案内板に書いてあった。
こちらにお墓があるのは、小田切幸長さんのお孫さんが住職をしていた関係らしい。なんで「小田切幸長」という名前をあちこちで見かけるのかというと、この辺りを攻略中だった武田信玄が感状で「小田切幸長」という名前をきちんと書いているかららしい。抵抗した豪族は十把一絡げに扱われ、個人名は出てこない。信玄が攻めたお城(葛山城)の主は落合という人だったようだが、その人の名前も出ずに援軍の将「小田切幸長」のみ。小田切幸長さんだけはこの辺りの豪族でも抜きん出ていた存在なんだ凄いんだぞ、ということのようだ。ちょっと落合さん可哀想。
★☆☆☆☆
何もない
<内後館>
築城主 小田切氏
築城年 不明
構造 平城