お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

田中勝軍地蔵

なんとなく財布を変えた。なんやかんやで二十年近く使ったヴィヴィアンの財布から、よくあるような百貨店ブランドへ…もうヴィヴィアンが限界だったのよ。裂けてきてるし。ただ、買い換えた如何にも「お子さんからのプレゼントですか」みたいな財布も気に入らないのよ(自分で選んで買ったんだがね)。かといって、狙っていたブランドの財布を身内が使っていることに気付いてしまい「お揃いだね」などと言われるのもストレスだから止めた事情もある。

財布買い換えたい。

再びのヴィヴィアンにするか(ここ数年がま口タイプばかりでそれも嫌なんだけど)他のするか…アウトレットまで探しに行くの面倒臭くて並行輸入品で探しているのだが、円安のせいもあるかもしれないが割安感があまりなく、コレといったものがない。公式サイトで買うより安いけどさあ。とりあえずメゾンマルジェラにしとけば間違いないのかしら? どうしよう?

熊が出るから山行けないし、自分のストレスもあるのかしらね。

 

こんな地蔵を見かけた。

お地蔵さんの一種らしい。軍人姿の地蔵菩薩で、主に鎌倉時代以降の武士から「戦勝祈願の神」として信仰を集めていたようだ。時代が下り、防火の神様となったらしい。

まず、この神様は愛宕山山岳信仰修験道が融合し愛宕権現となったのち、その後の神仏習合地蔵菩薩(勝軍地蔵)と結びついたそうだ。

 

愛宕権現

愛宕山白雲寺の御本尊が勝軍地蔵、愛宕権現は勝軍地蔵の日本での姿である。白雲寺は明治政府の廃仏毀釈により廃止され、現在は愛宕神社となっている。全国の愛宕社の総本社である。

・「勝軍地蔵」という名前のせいで、戦勝祈願の神様となる。

愛宕社は火除けの神である。愛宕山愛宕神社)は平安京の北西に位置し、都の北西を守る神であった。塞の神様となる。

・塞神信仰(疫病や災害、外敵が自分たちの住処に入らないよう見張ってくれる神への信仰)から転じて、愛宕権現は火除け・泥棒除けの神様になる。

・戦勝祈願の神である愛宕権現は、「受験戦争に勝ちたい(試験合格したい)」ということで受験の神様となった。

 

色々な担当分野がある神様は忙しいだろうな。愛宕権現は「戦勝」「火除け」「盗賊除け」「合格祈願」の仕事を持っている。あまり関係深くなさそうな分野を掛け持ちして、ブラックな労働形態じゃないのかなー心配。

 

旧田中宿の火除けの神様である。ぱっと見、武装しているから防火に関係しているとは思えなかったわ。でもよく見たら、こいつは波をかき分けている。つまり水か。

背中に何か書いてあるよ。
善光寺しか分からん。元々は別の場所にあったらしい。田中宿自体も区画整備で今は見る影もない。


★☆☆☆☆

探さないと見つからない、情報量少ない

 

 

<田中勝軍地蔵>

安置年 不明

 

 

富山城

「ご飯が美味い」「景観がいい」「観光地ではない」という富山が世界に見つかってしまったらしい。私自身は大きな港が好きなので、こういう場所好き。

北陸だと伏木港が一番大きい。伏木港は昔行ったことがあるけどなんか刺さらなかった。富山新港が好き。

富山湾にある3つの港(伏木港、富山港、富山新港)を総称して伏木富山港と総称している。国際拠点港湾(港湾法における上から二番目に格式高い港)に指定されており、ロシア・中国・韓国あたりを行き来する船が多いようだ。日本海側に限定すれば取扱高は新潟港についで伏木富山港となるようだ。ロシア関係だけなら伏木富山港が国内1位。

令和6年全国開港別貿易額表によると日本国内で一番貿易額が高いのは「成田国際空港(368,334億円)」と「東京港(246,202億円)」。またこの表によれば、36位「新潟(9,007億円)」・47位「伏木(4,292億円)」となっている。

貿易収支とか経済の話はあまり興味がないのだが船には関心が高く、今回も「海王丸に入りたい」と提案した。却下された。子供が興味ないって言うのでね…。

巡視船だ!!! (これも子供が関心示さず)

あと、背後の橋(新湊大橋というそうだ)を走りたいとも言ったが、これは話し合う中で断念した。どこに出るのか分からないからだ。迷子になっちゃうよ。

 

富山城の入り口。

公園になっており、石垣が残る。入り口はここ。

ちなみに城の下は地下駐車場だった。

富山城は明治維新で廃城となり建物を払い下げたり移築、本丸御殿は県庁に、堀など町造りの邪魔になりそうな部分は埋め立てられる、ということになり。石垣なんかも壊されたりしたらしい。

今ある門も、明治初めに別の場所に移築された千歳御殿という御屋敷の門だったものを平成になり当地に復元したものだという。

千歳御門は、嘉永2(1849)年に建てられた藩主隠居用の御屋敷・千歳御殿にあった建物の門。富山城内の建築物で唯一現存しているもの。

明治5(1872)年に豪農に払い下げられ、平成17(2005)年に所有者から富山市へ寄贈された。平成18(2006)年から平成20(2008)年にかけて門を移築している。前述の通り城内にある隠居用の御屋敷の門だったため、元あった門ではない。この門の形式は三間薬医門といい、東大赤門(旧加賀藩主前田家上屋敷御守殿門)と同じ形式だという。富山藩は加賀藩支藩であるので、同じ形式の門を作ったのだろうか? 私は富山=薬のイメージなので、それに因んだものかと思ったよ。また水戸黄門の影響で、富山の薬売りの正体は爆薬で建物を破壊したりするムキムキ忍者(飛猿)だと思っている。

千歳御門に限らず城跡公園内の建物は往時のものとして復元されたわけではないようだ。地下駐車場の入り口もそうだし、他の建物もそう。最近流行りの「史実に基づいた復元」ではない。大阪城とか熊本城に近い復元の仕方なのかな? すごいなと思うことには変わりないし些末な話だからどっちでもいいんだけど。さすがに城には天守閣がないと駄目だって言い張る人はとりあえず殴っておこうかとは思うよ。

富山城も周囲の景観にマッチしており、とても雰囲気が良かった。駐車場が地下にあることも良いんだと思う。

千歳御門も知らなければ「昔からあった門」としか思えない。さすがニューヨークタイムズに紹介される街だけあるよ。建築とかかじっていたら「あれ?」って思うんだろうか。

内部は普通に公園で、建物は現存していない。

こういう庭園も後世のものだと思う。

 

天文12(1543)年に神保長職が命じて築城した、という説が有力のようだ。この人は越中国守護代・神保氏の当主であった。永正17(1521)年に越中守護の畠山氏と越後守護代の長尾氏の連合軍に敗れ、享禄4(1531)年の享禄の錯乱という内乱で負け、没落していく神保家を一生懸命再興しようとしている人だったらしい。

この当時の越中国越中国守護の畠山氏が滅亡しており、神保氏・椎名氏という二家で実質統治されていたそうだ。しかしながらどちらも大きな影響力を持っていたわけでもなく、隣の加賀国の影響で一向一揆衆の力が増していったようだ。神保氏は一向一揆の方々と協力して(そして武田氏の支援も受け)椎名氏を追い出すことに決めたそうで、越中大乱という大きな戦争になった。この戦争のために富山城を作ったとされている。

永禄3(1560)年に仲裁しにきた上杉謙信越中出兵に負けて、その後も懲りずに椎名氏を攻撃し続けたがそのたびに上杉謙信が仲裁という加勢に来て負け続けていた(度々上杉に援軍をお願いしている理由は、当時長尾氏から養子を迎えていたためとされる)。3回か4回かそれ以上か、懲りずに同じ事を繰り返している。トムとジェリーかと思ったぐらい。武田氏と上杉氏の代理戦争とも言われているようだ。

色々あり状況が変わったので上杉家と共闘する場面もあったが、神保長職は反上杉の立場であったようだ。度重なる国内の内乱・神保家の内紛で家は更に没落してしまった。嫡子の神保長住織田信長に仕えるため京に上っており、当主は神保長城となっていたらしい。天正4(1576)年までは神保長職と長城も存命していた。同年、将軍・足利義昭の第3次信長包囲網に参加した上杉謙信の北陸侵攻で敵と見做され、神保氏は滅亡している。

天正6(1678)年に上杉謙信が急死すると、信長に仕えていた神保長住が援軍を受け、椎名小四郎長尾景直、長尾氏の庶流出身で椎名氏の名跡を継いだ)と河田長親(上杉家臣で、上杉氏から離反した椎名氏を追放し居城と領地を受け継いだ)を破り富山城に入城する。この時、補佐役として佐々成政という信長の家臣が越中国平定に参加していたが、天正9(1581)年には神保氏の上司となっていたようだ。

 

しかし天正10(1582)年春に元家臣の小島職鎮と唐人親広がクーデターを起こして、神保氏から富山城を奪う事件が発生。神保長住が失脚し織田家中から追放される。結果、佐々成政越中国守護となり富山城を居城とした。同年に本能寺の変が起き、織田家羽柴秀吉方と柴田勝家方と二分された。佐々成政は上司である柴田勝家についた。

天正11(1583)年に羽柴秀吉柴田勝家が戦う(賤ヶ岳の戦い)。前年にようやく越中国を掌握したものの内部・外部(特に上杉氏)からの急襲が怖くて佐々成政が動けず、援軍もろくに出せなかった上に柴田さん負ける。佐々成政は降伏した。越中国をそのまま任されたが「柴田勝家が滅亡したのは佐々成政のせい」という噂も流れたそうだ、かわいそう。

天正12(1584)年に羽柴秀吉徳川家康が戦う(小牧・長久手の戦い)。佐々成政は徳川方についたが、また負けた。天正13(1585)年、反抗的ということで羽柴秀吉が富山城を軍勢10万で包囲した。結果、佐々成政は富山城を壊され越中国の所領を失い妻子と大阪に移住を命じられた。かわいそう。その後も謎の火事で家を燃やされたり(嫌がらせ)、朝鮮出兵の武功で国主に返り咲くも国政の責任を取らされ切腹した。この人の娘が狩野尚信に嫁いで狩野探幽を生んでいるので、この点は凄いなと思う。

 

富山城のあった新川郡以外の越中国前田利長が受け継いだ。新川郡は(多分)羽柴秀吉→土方雄久(前田利長の従兄弟、布市藩)→徳川家康→土方雄久と支配が移る。

土方雄久の家は織田の元家臣で、本人は織田信雄の家来だった。小牧・長久手の戦いのキッカケを作った人である。天正15(1587)年に犬山城主となるが、天正18(1590)年の「小田原の役」戦後の論功行賞で関東八州を徳川家康に、家康の旧領だった5カ国を織田信雄に与える話を織田信雄が蹴ってしまったことから失脚し、土方雄久は豊臣家に使えることとなった。天正19(1591)年に越中国新川郡を与えられた。

慶長4(1599)年に徳川家康の暗殺を計画したという理由で失脚、慶長5(1600)年に関ヶ原の戦いやるから前田利長を東軍に勧誘しろと徳川家康に命じられ、徳川家家臣となる。慶長5(1600)年に再び越中国新川郡の領主となる。

慶長13(1608)に新川郡が前田氏所領となる。土方雄久の布市藩1万石と前田家の散在する1万石超の所領を交換しようと持ちかけて幕府の許可も得て交換したという。土方雄久はタバコの吸いすぎで56歳で亡くなったようだ。

 

前田家は越中国を手に入れ、徳川家が天下取ったので前田利長が富山城の再建を始めた。慶長10(1605)年、弟の前田利常を後継者とし隠居して富山城に隠居した。この時、新川郡19万石の領主ともなるが、前田利常(13)だと藩の経営がロクにできないので実質的に藩運営をしていたようだ。慶長14(1609)年の火事で富山城を失う。近くに高岡城を作って引っ越し。戻れないまま慶長19(1614)年に前田利長が死去。

 

寛永16(1639)年、加賀藩主の前田利常が次男の利次に10万石を与えて分家させた(富山藩)。当時は加賀藩領内にあった富山城に移り、いずれ富山藩内に城を作って居城とする予定がお金なくて断念する。万治2(1659)年、加賀藩との領地交換で富山城周辺が富山藩領となり、正式に富山城を居城とする。万治4(1661)年に幕府の許可を得て富山城及び城下町の修復・開発する。

以後、明治維新まで富山藩が存続した。

 

石垣は多分、昔からある物。

城っぽい物は昭和28(1953)年に着工した富山産業大博覧会の会場である。特に、元あった建物を復元させたものではなく、城っぽい感じで建てた物だという。戦後の焼け野原からの復興を記念して作った模擬天守なので、古くからあるらしい石垣とかとは調和取れていない。地元では通称「富山城」で知られている。

明治時代は建築物も植木なんかも払い下げられて現存するものはあまりないらしい。

千歳御殿という富山城に隣接した御殿もあったが、こちらも解体され遊郭に生まれ変わって現在も歓楽街らしい。

 

明治から昭和にかけて火事が度々起こっており毎回焼失している。そして太平洋戦争で空襲があり街が焼かれ、戦後は富山城に進駐軍が住んだ。現・富山城は平成15(2003)年から耐震補強工事を始め、翌平成16(2004)年に完了する。同年に国の登録有形文化財に指定された。

 

富山城址公園の再整備は平成26(2014)年に完了した。しかし近年流行りの史実に基づいた復元ではないが、入り口の門といい元あったものや昔の風景に興味ない感じが潔くていいなと思った。街並みは綺麗だったし、過ごしやすければいいかっていう雰囲気。

この時期は令和6(2024)年に発生した能登半島地震で壊れた石垣他、公園内の修復作業が盛んに行われていた。

唯一、この辺りは城の雰囲気あった。

富山城に唯一残るお堀。他は埋め立てられてしまったという。

ここで鷺の大量死があったそうで、富山市が死因を調査したところ松の木の伐採時期が駄目だったことが分かった。死んだ鷺は令和7年7月29日時点で107羽と発表されている。近年、鷺の糞害や鳴き声がうるさいので問題となっていたようで、城内の松を6本切った。そうしたら住処にしていた鷺の子育て期間とぶつかってしまい、家を失い路頭に迷った鷺一家が多くおり、ご飯が食べられずに餓死したそうだ。確かに松林にデカい鳥がいっぱいいたなーとは思ったが、100羽以上住んでいることに驚いた。だって松林、そんなに大きくないもん。

昔と現在を重ね合わせたもの。富山藩10万石の居城としてはきちんと格のある規模だったらしい。あんまり面影残ってないのかもね。

「富山城」は現在博物館になっている。中は富山城に関する物が展示されていた。あまり中は広くなかった。

一番上の階から富山市街地が見えた。

 


★★☆☆☆

静かで良かった

 

<富山城>
築城年 天文12(1543)年?

築城主 神保長職

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



相変わらず、昔よく聞いていたアイドルグループの動画をyoutubeで漁っては見ている。最近はBSBまで見始めてしまい、BSBもデビューしたころは酷かったんだなって思った。ハウィーDとニック・カーターがリードボーカルだったよ。
いろんなのを見ているせいで、非常に暗い曲に行き着いてしまい、夜中に心に刺さって泣いたりしていたわw

 

終わった人間関係についての曲である。
この人が流行った理由がなんとなく分かったよ…そしてアメリカで売れないのも。一見生意気で快楽的なのに、内面に広がる闇。こういう人好き。アメリカじゃ受けないだろうな(アメリカ人は短絡的だしアメリカ国内にしか関心ない感じするし)。

 

  1. たまたま見つけたTAKE THATが何かのイベント(ロイヤルアルバートホールのステージじゃないかな?)で珍しく凄い迫力で歌っているゲイリー・バーロウと横で挙動不審になっているロビー・ウィリアムズの動画を見つけてしまう
  2. 妙に気になってしまい、色々調べて見ると、1994年11月23日(この日は第1回MTVユーロアワードの前日だった、TAKE THATは最優秀グループ賞を受賞した)にメンバーとオフを過ごしていたロビー・ウィリアムズがオーバードーズを起こし黒い胆汁をまき散らしたようで、それがキッカケでロビーを切ることになる
  3. 問題の動画の冒頭に「先週、MTVユーロアワードで最優秀グループ賞を受賞した」と紹介されていたので、やらかした直後だったようだ
  4. 多分、ゲイリー・バーロウめっちゃ怒っているし、歌っている途中でもロビー・ウィリアムズがちらちらゲイリーを見ている様子?

 

前述のPVは目つきがおかしいが、ネブワースのコンサートで歌っている動画も良かったんだけど、歌っているとどんどん目つきが虚ろになっている。曲の内容も重たい。最後に「僕たちの愛ははっきり言って死んでる」って言ってるし。

この曲は、「皆と疎遠にならず、共に生きていく話を聞きたい」とか「ラブソングを歌ってくれ、連絡欲しい」とか「嫌いになりたくない」とか「あなたが別れようというたび僕は留まりたくなった」とか「一緒に居てすごく楽しかった、ありがとう」とか「あなたが僕を見るたび、笑うたびにとても空しい気分になった」とか曲の終わりに近づくほど重たくなっていく。

2008年に曲の本来の意味を公表した(それまで大げんか中だったから言えなかったのかな? 90年半ばの決裂した後からずーっと悪口言ってた)。で、最後のフレーズを「僕たちの愛ははっきり言って生きてる」に変更した。何故なら再び友人関係になったから。

 

その時に一緒に作った仲直りの曲に、「手紙を書いたんだけど酷い言葉ばかりになっちゃってね」ってフレーズが有り、それがこの曲なのか? 「アルバートホールは僕の涙で溢れそうだった」みたいなフレーズもあって、それが私が見つけた動画の内容なのか?

いろいろ考えてしまったら悲しくなってしまい、「誰も悪くない、あなた方が若いから仕方ない」みたいな年寄り的な感傷に浸ってしまった。そして夜中No Regretsを聞いて泣くご乱心状態となる。

 

数日後に冷静になった。

やっぱり才能がある人達って高次元すぎて、ついていけない。作品を通して言いたいことを言うスタイルは一般人できない。元に戻って良かったねって気持ちと、4月に見た映画は私がもっと良い感じに作り直したいと思ったことと、一体本当はどういう関係なの?(ビジネス仲良しなのでは?)という疑問と、様々な感情が入り乱れ、まだしばらく動画を漁りそうである。

全体の流れを見ると世界でも稀な良い話なんだけどねー。

西山城

1年くらい交通事故見なくなったなあ…などと暢気にしていたら、急に厄災が始まった。ここ3日間程で既に数人から「お祓い行った方がいいよ」と真剣に言われた。

 

ここが西山城の登城口らしい。

近くに砥石城というビッグネームがいるせいか、ここはひっそりしている。

なんか怖い。でも道がある。

道はあるけどそれ以上分からない感じに。

城らしきものがあるかどうかも不明。

急に平場に出た。ここか?

なんと案内板があった。道は合っていたようだ。

ココは何かあったのかな? 昭和55(1980)年度に施工された土留めに守られている。

平場を抜けても道は続いていた。

さっきの平場は耕作地だったのかな? 小屋らしき残骸が見えた。

人の気配はなく、普通の山道になってしまった。でも、この道は少し行き来があるようでしっかりしている。

だいぶ高くなってきた。金剛寺集落が見える。

向こうの山は砥石城がある。

そしたら急に現れた。ここが西山城らしい。看板がなければ絶対分からない。

祠がある高めの場所が本郭のようだ。

倒れかかっている看板には、

  • 1330年代海野氏が村上氏対策として設けたと言われている
  • この尾根上には3つの起伏があり、それぞれ「西山城」「中の城」「花見城」と呼ばれている
  • 西山城は3つの城のうち、もっとも南にある
  • 砥石城より古い城のようだ
  • 現在は三峯社がある

と書かれている。

三峯社は多分、伊弉諾命・伊弉冉命を祀っていると思う。

周りには何もない。

この「中の城↑」が城の境界だろうか。

少し高台になっているだけで、それ以上は何もなさそうだった。それでもちょっとうろうろしてみた。

道があるので出入りされているからだろうか。ここがそうであったように他の城跡にも神様が祀られているのかな?

 

 

★☆☆☆☆

よく分からないが正直なところ。

 

<西山城>

築城年 不明

築城主 不明

米山城見張番所

米山城の見張り番所の跡地らしい。こちらも石柱&説明板がある。

  • 米山城の南裾に当たるこの場所は金剛寺集落の入り口にあたり、中世には通行人を見張る番所が置かれて取り締まりが行われていたという
  • 金剛寺集落の北側、金剛寺峠付近も同様に番所があったと伝わる
  • 金剛寺集落は東西の米山城砥石城など周りの山々にいくつかの城や砦を築き、中央に屋敷を置いた
  • 出入り口の北・南には土塁や高土手、番所で防御を固めた様子は一乗谷福井県)に似ていると言われている

一乗谷とは大きく出たな!? とは思ったが似ていなくもないかも。

谷の間にびよーんと延びている城下町。

認知度はともかく、ひょっとしたら似たような構造の城下町は全国にいくつもあったのかもしれない。

印象としては、砥石城の城下町で発展したらしい伊勢山集落よりも古い雰囲気がある。砥石城より古いらしい米山城の城下町として出来た様子が今も残っている。

ここの集落には洞源寺というお寺さんがある。

創建年は南北朝時代の1332(元弘2/正慶元)年で、開基は海野幸則と伝わる。この年は元弘の乱終結し負けた後醍醐天皇隠岐に流されている。しかし鎌倉幕府倒幕のために各地でゲリラ戦が行われていた。その翌年に鎌倉幕府が滅亡した。

この時代の海野家には海野幸康という人物がいる。鎌倉幕府滅亡から中先代の乱まで北条側についていた人物のようだ。この人は北条時行軍→南朝軍に属して各地を転戦したのち、埼玉県の笛吹峠で1352(観応3/正平7)年に戦死している。兄弟かどういう関係か分からないが、幸則という人物が地元に残って領地を守っていたのかも(海野則幸という人物がいて同一人物かと思うが、この人が何をしたか不明)。海野氏全体の意思として「今の地位を築けた恩義が鎌倉にある」が根底にあったのかもしれないし、乱に乗じないと自分たちが危ない! があったのかもしれない。

信濃国はその後、全国に先駆けて戦国時代に突入し反体制側で居続けたものの、屈して小笠原氏の配下に組み込まれてしまった。海野氏も村上氏などに圧迫されて、天文10(1541)年の海野平の戦いで負けたために領地を追われた。この場所は村上氏の領地となり、洞源寺は「海野氏ゆかりの寺」ということで破却された。江戸時代に入り、山を隔てた隣の集落から海野(真田)ゆかりの陽泰寺から人が派遣されて再興し、今に至るそうだ。

ただし、貞治2(1367)年、永和5(1379)年と彫られた宝篋印塔が残されているそうで。いずれも北朝元号だ。前述の海野幸康氏は最期まで南朝方の武将だった。ちなみに村上氏主流は北朝方だ。海野幸則という人物は北朝だったのかな? 中世でのライバル村上氏も北朝南朝と分れて戦うこともあったし、海野氏後裔とする真田氏も徳川・豊臣で分れて家の安泰を図っていたしね…よくある話なのかな? 

もう一つあった寺・金剛山玉蔵寺は弘仁12(819)年創建という洞源寺より古い起源を持つらしく、集落の名前はこの寺から取ったとされている。こちらも海野平の戦いで燃えてしまい集落の中心部で再興されたが明治42(1909)年に火事で失われ、今に至る。旧玉蔵寺跡付近からは四世紀頃の翡翠勾玉や鎌倉末期の茶碗が発見されているらしい。また古い時代の五輪塔も発掘されているようだ。玉蔵寺も海野氏の古くからの菩提寺であった海善寺の末寺であったため、海野氏ゆかりの寺だったはず。壊された記録はなさそうだ。

洞源寺は城館機能を持っていたとも言われ、洞源寺の山側には白山城という城があったとされている。

確かに何かありそうな雰囲気もある裏手の空き地。しかし先達のブログを読んでみると「白山城跡が見つからない」「よく分からない」が多かった。長野縣町村誌にも記載がない謎の城である。長野縣町村誌に記載されている「柏山にある古城跡」はその内容から考えても柏山城(上の城・下の城)であるので、洞源寺裏の白山にある城じゃないことは間違いないです。

玉蔵寺は何もせず? 洞源寺のみ破壊したところを見ると、やっぱり城館だったかもしれないなあとは思います。

見張番所跡は道路より少し高い位置にある。

この道路は古くから有るようだ。私もこの道を通って隣の伊勢山集落からやってきたよ。石碑が点在していた。

慰霊碑だった。日清戦争で従軍し、異国で戦死した方の名前が書かれていた。

集落内には墓(しかも古そうな時代の)が点在しているらしく、たまたま冬の時期でよく見えた。

その他にも異郷(埼玉県)で教職に就いていた方が川に落ちた生徒を助けようとして殉職した、その慰霊碑もある。この方は上田城内にも慰霊碑がある(この集落出身者で公共事業に私財をなげうった方の身内らしい)。

伊勢山集落もそうだが、この地区も昔からのお金持ちが多いんだろうなって印象。集落内に漂う何かが他と違う。

 

長野縣町村誌の旧住吉村図にも集落内のあちこちに「墓」という文字が散らばっている。また、中世の五輪塔が集落内で多数発掘されている。

玉蔵寺の裏、(玉蔵寺はだいたい洞源寺の隣り)白山の麓にも「ハカ」という字がたくさん書かれていた。白山の麓には14世紀に墓があったとされている。この五輪塔群も畑から出てきたものの一部であるらしい。
この地区で一番恐ろしかったのが、これである。

冬でよかった。

集落の中心部にある石碑群。

井戸。集落内にはかつて井戸が9つあったそうだが、現存しているものはここだけ。米山城砥石城の水も賄ったと言われている。水が豊富なのは素晴らしい。この井戸は「義清水」と呼ばれている。

グーグルマップのストリートビューで見たことある城代屋敷跡。

民家の一部。

各所の説明板も「ちょっと盛りすぎな部分あるんじゃないかな」と思う半分、以前の栄花も垣間見えて楽しかったです。

 

城下町が隣り合っている場所ってなかなかないよなあ。

 

★★★☆☆

こういう長閑な集落をうろついていると不審者って思われそうで緊張する

 

米山城見張番所

築城年 不明

築城主 不明

桝形城

桝形城へ。

ここもがっつり踏み跡がある。

桝形城までの道のりはすぐに終わった。

出入り口だった。結構急でトラロープもあった。

桝形城に到着。ここは城というより、砦? 物見? みたいな場所。すごく狭い。

説明板には

・ここが砥石城群の中で一番高い場所だったので「本城」とされていた時期があった

・真田氏の本拠が一望できる

とあった。

丸見えだね。

真田の本拠地だけでなく、かなり広範囲まで見渡せる。ここは10人程度入れるかな?

まだ続きがあった。

少し低い場所に郭があった。

本郭より少しだけ低い感じ? この山の中でもっとも小さい城である。それが一時期の本城だったのか…でも最深部にあるし見晴らしも最も良いので作戦本部っぽい雰囲気はある。

2の郭部分は見晴らし台となっている。

真田氏本城が眼下に見える。

この城は真田氏が整備したのか、村上氏なのか、もっと昔からあったのかもしれない。

この際は金剛寺峠となる。道があるらしいが。

荒れている。この先まで進む人がいないのかもしれない。

そうこうしていたら、他のお客が来るのが見えた。この郭は狭いので出ることにした。桝形城の本郭でその登山客と出くわす。

珍しかったのか色々聞かれた。なんで?

荒れた道から上がってきたと思われたようだ。もしかして登山道を整備しにきた人たちなのかもしれない。ちょっと面倒くさくなったのでそっと別れた。



★☆☆☆☆

休憩場所にはいい。

 

 

<桝形城>

築城年 不明

築城主 不明

砥石本城

去年途中まで登って、時間切れで帰った砥石城の続きしに行った。前回と同じでは味気ないので、今回は本城まで大手道を通ることにした。大手口は陽泰寺というお寺さんの近くにあるらしい。

至る所に砥石城の案内板があり、古い物から新設のものまで…気合いが入っている。

陽泰寺に到着。

お寺の横から道があるのかと思ったら、ちょっと離れていた。

ここからは徒歩道となるようだが、軽トラサイズの轍はあった。この先は林道か地元の人の作業道になっているのかもしれない。

大手道の入り口はこの先。途中で内小屋と呼ばれる一角があるらしい。昔の豪族の居館みたいなものだと思う。正直なところ、陽泰寺が館跡かと思っていたが違うようだ。


陽泰寺は真田家一族の祖先である海野氏の菩提寺だそう。享禄年間(1528~1532)または明応年間(1492~1501)に中興開山したと伝えられている。中興開山と言うことはその前にも存在していたようだが、行基(668~749)と同時期に生きた高僧・泰澄(682~767)という人が巡錫修行中に此の地で休憩し、そこに建てたお寺だから「養泰院→陽泰寺」という名前になった、という伝承もあるようだ。

少し行くと石碑があった。見落としそうなほど小さい。

何を書いてあるのかギリ判別できない。

 この付近は内小屋と呼ばれる地域です

 小屋とは「城」の意味です

 昭和29年に

読む気がなくなった。

お城の出入り口付近の平場が内小屋らしい。

この辺りは耕作地・耕作放棄地だった。民家はない。

 

きゅっと道が狭まり前方が見づらくなった地点に石碑が有り、その先は少し広くなっていた。

内小屋は真田氏時代のものか村上氏時代かは不明らしく、お城の付属施設であった以外は正確には分からないようだ。

内小屋があった場所の東側(砥石城とは反対側の丘の上? ↑の写真に写る小高い丘)には稲荷社があって、その境内に村上源三が寄進した灯籠が残されているそう。この灯籠は上田市内最古級のものという。天文15(1546)年の銘が刻まれている。長野縣町村誌には寄進者は村上義清の親族であり灯籠には「屋敷保護のため寄進」と刻まれているとあった。屋敷とは内小屋を指している。そうすると村上氏統治時代のものかなあ?

稲荷社は行かなかったです(ボロボロらしい)。

神社の入り口は、ここ↑ 「内小屋」石碑と小さな変電所?の間を神川方向に進むようだ。稲荷神社にも富士見100景の碑があるという。

内小屋の前の道は古くからあるらしい。標柱には「右 畑山ニ至ル」「左 戸石城二至ル 二十分」と書かれている。標柱自体は古いものでないらしい。この先の畑山地籍を通り傍陽村に続いている。松代と上田を結ぶ古道の一部であるらしい。今は隣の集落へいく生活徒歩道みたいなもんかな? 人が行き来している雰囲気がある。

この森を抜けた先の畑山地区も古い時代の遺跡がいくつか残っているらしい。真田昌幸夫人(寒松院)が建てたお寺「大輪寺」・村上義清所縁のお寺「龍洞院」の跡地があるそうだ。どちらのお寺も移転して、現在は別の場所にある。

グーグルマップ見る限りは伊勢山地区ほどの城下町感はないが、古い家の並び方的に街道沿い集落みたいな感じ。

そんな古道と分かれ、山に入る。

そんな道と分かれて、大手道がある。
実はこの日、何かを設置している人達がいた。新しい看板らしい。さすがに何しているのか聞きづらくて、帰り見に行こうと思った。

道は急激に山を上がる。

前回登った米山城側からの道よりも踏み跡が少ないが、それでもしっかりした道だった。これなら迷うこともない。

今回は今のところ人気がない。

この辺りは郭のようなものも見えた。

ここまで郭っぽいものは見たが、明らかに「城」って思える物はまだ見ていない。

真田の町が見えてきた。真田本城方面。

もう一つの道とぶつかった。「水の手」とある。この先に清水が湧く場所があるそうで。水の手周辺に幾筋かの道を作っているようだ。真田氏統治時代は水の手のある道が大手道とされていたらしい。お水は大事。

更に進む。

怪しい雰囲気。

砥石本城と桝形城の分岐点らしい。
この場所もお城っぽい雰囲気が強く、また単なる登山道っぽくない道であると思う。お城の通路として作った道なのかな。

明らかに人工的な感じがする。

砥石本城に向かう。


ひょっとして↑コレ?

周りも郭っぽいものがいっぱい。

とりあえず進みます。

なんか凄い。

唐突に現れた城っぽいやつは案内板もなく、ずっと続いている。とにかく広大だった。

なんの表示もないので、ただの郭だろう。

その辺の山城の3~4個分くらい? もっと大きいのかな? 収容人員も5000人とかいけるんじゃないのって思っちゃう。真田本城よりデカいかもしれない。

砥石本城に進む前に、前回の折り返し地点を見に行こうと思った。

郭を下りた。高さがかなりある。

そんなに遠くなかった。むしろ、この案内板から城域って感じかもしれない。

見覚えある景色。こんな案内板の先に城あるのになぁと少し迷ったんだが、見に行ってても大丈夫だった?(用事があって引き返したんだけど、もしかして見に行く時間くらいはあったのかな…?)。

先ほどの地点まで戻ります。

それでは改めて砥石本城の本郭へ。

さっそく何か見えた。前回撤退地点から目と鼻の先だったんだな。

表示はなんだったかというと。

崩れた石垣の後だった。ここから次の郭への出入り口も見える。

そして本城跡の表示も。
やったー到着だ。

着いた。

ベンチがたくさん置いてあった。

何故だろう。

ここが砥石本城の中心である。
砥石城と砥石本城が別の城として挙げられている理由は改修に次ぐ改修でどんどん規模が大きくなってしまったからのようだ。

小宮山氏の米山城と隣の砥石城から一体運用を始めて(どちらが先にあったお城だろうか? 米山城が一番古くからありそう)、拡張工事の末に砥石本城を中心として整備して桝形城という出城も作って備えたらしい。砥石城から中心が砥石本城に移ったので名前も移ったらしいが。

ここからも真田の本拠地が丸見えである。そりゃなんとしてでも獲りにいくし、なるべく兵を動かさないように少人数で潰したくなるかもしれないな(兵を動かしたら即バレそうだ)。

本郭は他の郭よりも小ぶりな気がする。ちょっと不思議だけど、他の場所が立派だったのにココは割と普通な気がした。他の場所の整備に力を入れ過ぎて本郭はおざなりになってしまったのか…真田氏が整備したぐらいだからそんな中途半端なことしないよなあ? とも思うし。ここに敵が来る=落城する、みたいな理由で本郭はいい加減にしちゃっているのか。

分からん。

本郭の先。

とはいえ、本郭は非常に高くなっている。

現地調達が出来るように竹を飢えているのか。

説明板もあった。

ここから先は桝形城だそうだ。

桝形城はこんな感じだった。

そして戻る。

すぐ戻ってきた。

ちょっと本郭の下を歩いてみた。

そして本郭で持ってきた弁当を食べた。非常に寒かった。なんでこんなところでご飯食べているのか分からなくなってきた。ベンチばかりはいっぱいあるからな。

ご飯していたら、先ほどの登山客のうち一人が去っていくのを見た。他の二人は金剛寺峠方面に下りていったのかな? 実はあんまり荒れていなかったのかな。

ご飯食べたあとはしばらくうろついた。

本郭の周りをぐるーっと回ってみる。

そろそろ帰ろうと思う。

大手口の説明板まで戻った。

ここから先はあまり何もなかったかなー?

出入り口まで戻った。

さて戻ってきたので、午前中に建てていた看板を見た。

ピカピカだよ。
この先にも何かあるのかも? と思ったので見にいった。

図にあった竪堀はこれだろうか?

この先は舗装されていないようだ。

でも道としては大きそう。山を入って行く。

ここら辺も竹が生えていた。



★★★★★
大きくて驚いた。



<砥石本城>
築城年 不明
築城主 真田氏?

 

 

 

 

 

 

 






映画のベターマン見てきた。正直なところ消化不良ですよ。

 

良かったところ

・主人公の猿が思った以上にロビー・ウィリアムズだった

 毛深い猿に本人と同じ場所にタトゥー彫ってあった(鎖骨に文字彫ってあった)ので芸が細かいな! とむしろ関心した。

・衣装など忠実だった

 ネブワースコンサートは昔映像で見たことがあって、映画の予告編映像だけで分かった。乱闘中も現れる猿の衣装でどのロビーか分かった(超大型巨人みたいなのはRock DJだな、とか)。グループ時代の衣装も同じく忠実だった(歌ってる曲は違うけどっていうのもあった)。

・ロビーの人物評が的確で面白かった

 癖の強いゲイリーがゲイリーっぽく登場したし、元婚約者に対して「カワイイしいい子なんだけど男を見る目がない」の一言に深く頷いた(結婚後の顛末は元々知ってた)。マークは一言「小柄で愛らしい」と紹介されていたがその通りのかわいらしさ。

・ロビーもそれなりに悩んだりしている

 すぐパンツまで脱ごうとするイメージだったロビーなのに「太ったことを気にすることもあるんだ」とちょっと驚いた。ステージ上でも普段でも自信過剰な俺様を貫くのは疲れただろうに。ただしロビー・ウィリアムズから不遜な態度がなくなったら今ほど売れたかな?とは思っちゃう。

・Take That解散について

 ゲイリー辺りに説教されたロビーが逆ギレして出て行ったのかと思っていたが、淡々としていた。何故追われたか分かっていたみたいだし、壊した自覚もあったのね。

 

気にくわないところ

・脚本

 お前それで謝ったつもりなのか(ただしスイカのくだりは本当にありそうだとは思った)等。幼なじみだって分け隔てなく付き合ってくれるイイ奴だったじゃないか。Take Thatとの絡みが少ないね? 辛うじてゲイリーが多少しゃべっていたけどその他メンバー空気だったよ? ゲイリーの紹介が他メンバーより長かったのに解散後のアレやコレや、ロビーがやってきたことがなかったよ(怒)。

・Take That

 Rock DJがTake That時代に流れたのは仕方ないかもだけど(グループのセンター・メインボーカルはゲイリーなので、ロビーのボーカル曲を探すと限られてしまうのは分かる)、グループ時代にロビーが歌ったEverything Changesがなかったです、残念。良い曲なんですが。ソロ転向後のkidsもあったかな?

・妻

 ロビーの妻、なんで登場しなかったんだよ。ロビーの衝動性に付き合えるぐらいだから相当出来た人だと思うんだが。

 

監督が評価高いらしいが、ひょっとしたら「グレイテスト・ショーマン」も主人公知っている人から見れば「は?」みたいなの多かったかもしれない(グレイテスト・ショーマン見てないです)。


色々考えた結果、「大人の事情(相手の都合等で使えないエピソードがあった)」とか「父親とは今もわだかまりがある(自分がいいように利用されていることが分かっているが父親とも分かり合いたいという願望がある)」とかでああいう内容なのかと思った。ロビーに対して個人的に「もっと酷いヤツだった」という印象があって生無ぬるいなって思っちゃったのかもしれない。さすが本人プロデュースだけあって盛ってないかな…?

ゲイリー関連の話がほぼなく(そもそも映画の中では関係が拗れてロビーがどう行動していたか描かれていないし、一連の過激さ故にマスコミからも叩かれたと思う)、彼の中でもう話が終わっていたからどうでも良かったのかもしれないし、普通に酷いから映画に盛り込みたくなかったのかもしれない。映画の中では思い出したように「ゲイリーが…ゲイリーは…」ってブツクサ言ってただけだった。そういえば眉毛兄弟とも喧嘩していたけど、口と態度の悪いバンドマン達からロビーが馬鹿にされているだけになっていたな。

映画の中途半端なハッピーエンド(お父さんと一緒にステージに立つ)も嫌かもしれない。個人的にはDancer in the Darkぐらいのバッドエンドが好きです。

ロビーはもっと破滅的でドラマチックな人生送っているし人としても色々ぶっ飛んでいると思うのでエピソードも豊富だろうし、なんか勿体ない映画だったなと思った。

 

 

コナンとかいう巨大コンテンツに映画館を乗っ取られた(長野県の場合、乗っ取ったのが映画館だけではない)ためもう上映終了した。一ヶ月近くモヤモヤしている。表向きは「ボクとパパさんとの和解」だが随所にゲイリーへの執着が散りばめられていたかもしれないとか思い始めてしまい、なんか怖くなってきてる。

  • 売り込みにいったレコード会社の人に「作曲のゲイリー・バーロウさんはどなたですか?」「はいボクです」(ロビーが勝手に名乗りでる)
  • 婚約者と別れた後にロビーが住んだ邸宅の外観とアイドル時代に訪れたゲイリー家が同じに見えた(実際はどうだったんだろう? イギリス人の豪邸はそんなに見た目・構造違わないのかもしれないけど、もし意図的に似せていたなら…?)
  • ロビーがレコーディングに失敗してしまい(多分)発売日の関係でゲイリーにボーカル変更した件も完全に逆恨みだと思うけど、恨んでいるエピソードはほぼそれだけだし、あの曲以前もボーカル曲あるし、なんならアルバムタイトル曲まで歌っているのに全部なかったことにすんな。グループで一番人気だったとされるマークですらアイドル時代のシングル曲は憂鬱な感じの1曲だけなのに。

良くも悪くもロビーはアイドル時代から再びTake That加入するまでの期間、ゲイリーに対する激重感情に突き動かされていたように見えていた(映画公開前に書かれた音楽系ライターの記事ではゲイリー案件が必ず書かれていた)のに、絡みが想定した以上に少なかったからな。

二人の関係を知らないと「海外セレブの栄光と転落そして再生」といったよくある話にしか見えないし…ひょっとしてお父さんへの思いを隠れ蓑にして、裏ではゲイリーに対する重たい愛がまた爆発してんのか? それってホラーじゃないか??? と映画の内容とかグルグルしている。

とはいえ、ゲイリーから「喧嘩を蒸し返すのは悲しいからやめて、あまり内容に盛り込まないで」とか言われたのかもしれないし。誰か教えて。

飯綱城

砥石城のある山の麓にある。

この城が砥石城より古いのか、関連施設(例えば館とか)なのかも不明。長野縣町村誌にも記載なし。位置的に砥石城の館とは考えられないので、多分大昔の城なのかも。

ちなみに飯綱城のある地区は伊勢山地区と呼ばれ、サマーウォーズの聖地だという(貞本の絵好きだし、一度見たいんだけど何故か見たことない。去年のリバイバル上映も上田でやるだろうから映画館で見ようかなって思ってたら長野県内は松本でしかやらなかった。なんでよ…)。地区名は伊勢宮を祀っていたことが由来となっているらしい。

砥石健城神社は砥石城のある山の中腹辺りにある。

 

個人的にはこの砥石健城神社(または伊勢宮)か陽泰寺あたりに砥石城の館があるのが自然かな? とは思った。館はどこにあったか不明のようだ。

 

飯綱城に関しては、現地にあった案内版が全てである。

誰が建てたとかいつ頃使われていたのかとか不明。

伊勢山集会所は明治23(1890)年に建てられたという。伊勢山集会所が城跡みたいな書き方にも思えるが、正確にいうと伊勢山集会所の裏手にある畑が城跡だそうな。

集落(城下町)は大きな古い御屋敷が建ち並んでおり、風格がある。中でも旧伊勢山集会所は立派な石垣の上にあり、他の建物より豪華そう。道が狭すぎて、写真撮れないよ。

↑これは陽泰寺にあった郷蔵を移築してきたものらしいよ。

 

豪農の屋敷門みたいな重厚さ。

実際の城跡は現在も耕作地。

奥の小高い丘がそうらしいぞ。

他の場所よりぐんと高くなっている。今は周りを民家で囲まれてしまっており、全体も見づらい。

畑の向こう側に石垣が見える。小高い丘の上に向かう道があるのだろうか。

伊勢山集落のメインストリートは古い街道だったので、道祖神がいくつか祀られていた。

明治時代までは坂城町(その先の長野市)と上田市を結ぶ街道のひとつとして存在していたらしい。傍陽からは一本道になり、現在の国道18号線と鉄路は明治時代に完成しているので坂城も千曲川に沿って向かう道はなかったらしい。今じゃ地蔵峠なんて大回りになるから通らないが、昔は坂城・松代への「最短ルート」として使われていたそうで。大変な時代である。現代でも「(昭和40年代開通でも)あんな曲がりくねった峠道」って扱いなので、旧道なんて相当不愉快な道だろうな…。
試しに「旧地蔵峠 上田市」で検索したところ、結構面倒臭そうな道のレポートだらけだったわ。廃道扱い(林道化されていない)なので地図にも載っていないらしいぞ。

少し高いところから見た飯綱城。

さて、個人的に砥石城の館跡じゃないかと思っている砥石健城神社ですが。

集落を見下ろす高台にある。

道っぽいものもある。ひょっとしたら古道跡かも? とも思ったが、裏手には地区名由来の伊勢宮があるという話もあるし(砥石健城神社に合祀されているという説もある)、謎が多いものの。伊勢山地区の村社は砥石健城神社であり、伊勢宮は雑社という扱いだったので、砥石健城神社の方が格式が高い。

何か凄い石垣あるよ。

ひっそりと祠もあるよ。この神社は元々「十二大明神」という名前だったが、明治2(1869)年に現在のお名前に改称している。創建年は文安(1448)年とされ、健御名方命と八坂斗女命を祀る諏訪系の神社である。元のお名前「十二大明神」から察するに神様が12柱いたんじゃないかと思うが、その辺りは不明です。

古い形態の神社だったようで、岩窟に上社・下社を祀っていたが寛文(1666)年に岩窟を壊して社殿をまとめたそうだ。

現在の社殿は寛政6(1794)年再建。

わりと普通の…?

ここからは集落が丸見えである。館としては良い立地じゃないかなと思うが、大手道入り口にある陽泰寺も捨てがたい(場所は奥まっており、見通しは悪い)。

拝殿の奥には本殿もあったし、石垣もなんかあった。

灯籠は宝暦の年号が刻まれていた。

神社の前には道祖神も。やはり道があるのか。

石積みもある。古そう。

文書に残らないド田舎の歴史は謎が多いよ…。

 

 

★☆☆☆☆

そもそも近づけない

 

 

<飯綱城>

築城年 不明

築城主 不明