お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

松山城(本丸)

松山城の本丸へは、徒歩・ロープウェー・リフトのどれかで行ける。このうちリフトとロープウェーは乗り場も切符も同一で、どちらに乗ってもいい。多分リフトが一番早く着ける。

 

リフト・ロープウェー乗り場から本丸まで15分くらい。

石垣がっつりの要塞だよ。

本丸まで来たけど、とにかく時間に追われたので写真をひたすら撮る。撮っては小走りに。案内板など読まず写真で撮って後で確認だよ。

本丸はかなり広かった。ここだけでも相当な数の兵を配置できる。千人くらい詰められそうかなー? この場所には本丸の門と番所が置かれており、常時3人詰めていたとある。

建物が残っている辺りは少し高台になっており、ごつめの石垣がそびえていたよ。ここから本丸の建物まで5分ほど。広い。

石材どうやって探してきたんだろう。

目指しているところ、まだ遠いんだけど! どうなっているのよ。

門があった。ここより本丸のメインの場所になるようだ。

入ってみると、先ほどの場所とは趣が違う。

山のてっぺんとは思えない。

この施設は平地ギリギリに作ってあるので、柵がなかったら落ちて死ぬかもな! って程度の危険度。本丸とは言え、番所がある区画よりずっと高台。


また門がある。

この門を潜ると、ようやく本丸の本丸に辿り着く。

くぐった門はこんな形。造りが非常にしっかりしている。

こちら側は遺構が多い。そしてまた広い。番所があった区画と同じくらいの面積があるんじゃないか? どうなっているんだ。

まだ少しずつ高くなっていく。位置感覚が分からないように通路が作られている。何度も来ていれば分かるのかもしれないけど、初見だと感覚狂っちゃう。

ようやく最深部かなー?

まだ門あるよ。

長かった。

遠くに見えるあれが天守閣である。

古そうで新しい感じするな。馬具櫓だって。

この城、どうなってんの??? まだ天守閣遠いよ。本丸部分だけで一般的な城と同じ広さ。とにかくでかい。

眼下には三の丸が。

やっと御城印もらえる売店に着く。時間がないもののやはり見たいので入城した。

時間がないのでここでも写真だけ撮りまくる。

ついに1ノ門まで来た。

本壇という言い方をするようだ。心臓部である。

また門が。三の門とあった。

天守も見に行くが、とにかく慌てて見た。ここからはスリッパに履き替えて建物内見学だよ!

玄関様子。

とても広い。

北隅櫓への階段。

お城とはいえ、幕末に建てられた最末期のものなので、造りはなんとなく古民家っぽい気がした。そして、各部屋には古い品物がずらっと展示されていた。久松家伝来の品々なのだろうか。
時間がないので、一切見ておりません。

北隅櫓には楯っぽいの置いてあった。

松山藩の藩主家一覧。蛇の目紋の加藤家と葵紋の久松家しか分からない。調べると「蛇の目紋」「下り藤紋」は加藤家、「葵紋」「星梅鉢紋」が久松家、残りの「三つ巴紋」は蒲生家ということだそうだ。

狭間も何かモダンな印象。幕末になってくると違うのか。戦国時代から250年以上経つもんな。

明るくて開放的なのよね。

刀・槍・鎧などずらっと展示されていた。刀もざっと見たけど知ってそうな刀いなかった。

何かのキャラクターもいた。まつやまお城フェスタに出てくる「足立重信CV.緑川光」だそう。ボイス聞けたらしい。知らなかった。大物呼んでるじゃないの聞きたかった。

松山城の構造は大天守・小天守・北隅櫓・南隅櫓の建物があり回廊でそれぞれ結ばれている。

 

天明4(1784)年に落雷で本丸のほとんどの建物を焼失してしまったそうで、安政元(1854)年に債権されたそうだ。元の位置とは少し違うかも? という調査結果があるそうだ。天明期から城の再建なんて不景気で大変だっただろうな。こんな山の上だし。

ちゃんと見て回ると2時間近くかかるんじゃないか? ここを常時3人程度しかおらず、有事に守るというのは厳しい気がするな。何かあったとしても麓で撃退できるか。

時間を気にして「見て回って写真を撮る」を重視したせいか、位置感覚がなくなってしまい、どの辺りにいるか全く分からない。

ここが小天守かな? お城フェスタのパネルがある。パネルは小天守にも設置されているとあった(大天守の入り口と先ほどの廊下と3つ設置されているそうだ)。

梁だけ見るとやはり古民家っぽい。細かいところに時代の差異を感じてしまう…建物自体にやる気があるようなないような? ぶっ殺すぞって感じがあんまりしない。石落としとか城っぽいものは揃っているんだけど。

ここからは本檀、三の丸と見晴らしが良い。

もちろん本檀の内部も丸見えである。

屋根に上がっていた弓矢の飾りのようだ。矢に見えない。

かっこいいフォトスポットあった。誰も撮ってなかったが、あるだけでも和む。

侵入禁止とか拘ってて良いわね。急に軍人になった気分よ。

何かの部屋があるけど入れない? 気になるけど多分見ても「あーさっき通ったわ」って場所のような気がする。入り組んでいる。

よし大天守だ!

天守は三層。二層めだよ。

五層だったと言われているけど寛永19(1642)年に三層に改修されてしまったそうだ。でも五層の天守なんかなかった! という調査結果もあったりして分からないらしい。城なんて機密しかないんだから。

見晴らしは…小天守の方が良かった。

やけに細い廊下。

天守最上階への階段。

さすがに最上階の見晴らしは格別ですわ。

でもあまり人いなかったわ。広さは小天守とほぼ同じくらいかな。違いは望遠鏡があったこと。100円入れると見えるやつ。昭和っぽい。

階段は二カ所あるらしい。登り専用・下り専用。そしてまた「侵入禁止」。

がーって降りて一階まで行った。ちなみに南隅櫓は立ち入り禁止になっていた。

そしてあっという間にお外へ。ここからは走った。

走っている私は何をしているのだろうか。敗走兵みたいじゃないの。

飛行機には間に合いました…。

 

★★★★★

さすが四国を代表するお城だけあって麓の二の丸・三の丸も含めて圧巻の一言だったよ、もっと時間欲しかった

 

松山城

築城年 慶長7(1602)年着工 完成は約25年後

築城主 加藤嘉明

 



 

 

三月末にこの人の映画が日本でも公開される。

全国ロードショーになっていたが、長野みたいなクソ田舎でも上映されるのか(この為に東京行くのか…? ロビーは好きじゃないし、猿っていうよりあいつ犬ぽくないか? えええ…)と思いつつシアター探したら、なんとこっちでも上映する。えっどうしよう。

でも待てロビーだよ? どんな映画か分からないしショック受けるんじゃないかと(Take That本当にドはまりしたアイドルグループで義務教育を終了してバイト出来るようになったらお金貯めて来日コンサート行くんだ、というのが目標だったぐらい。グループは私の中学卒業より前に崩壊した)。ロビーのことは2000年位までしか追ってないし、Take That再結成は知っていたけどロビーまで参加していたの知らない。2000年当時はロビーとゲイリーの関係が最悪だったし、確かロビー抜きだった(ロビーは当時ソロですんごい売れていた印象を持っていた)ので「再結成か…お金なくなったのかな」と色々と冷めた気持ちだった。

 

しかしロビーの映画の評価がとても高く、感動するらしい。えっロビーの人生が??? という狐につままれたような気分になった。私の中ではロビーは悪童のままなので。感動する要素なし。

 

そこで意を決して、2000年以降の流れを見た。
  • 2000年頃 ロビーは順調に売れている(アイドル時代からおクスリ常用していたためなのかわりとすぐパンツまで脱ごうとする)が、この頃にはゲイリー以下4人が表舞台より消えている(私はロビーがゲイリーをついに潰したと思っていたので、ロビーの曲も聴かなくなる。大多数の人がそう思っていたんじゃないかな? 口を開けばゲイリーを罵っていた感じ)
  • 2002年 メンバーで一番の人気を誇ったマークだが解散後は行き詰まってしまっていた、テレビのリアリティショー出演で再び注目が集まり嬉しくて泣く(箱推しだったけど、強いて一番をあげるならとにかくカワイイがすぎるマークですわ)
  • 2005年 Take That解散から10年(1996年解散だが、実質はロビー脱退の1995年ってことか)のドキュメンタリーが放送されて、本人達も一部別録だったものの登場し色々(主に悪さを?)暴露する内容だったようだ、ロビーとゲイリーの対立に関するインタビューもあったようでロビーが「酷いことして本当にごめんなさい」と言い、ゲイリーの方も「状況が悪かった(当時のマスゴミが煽った)ので仕方ないことだった、僕も君のようなキャリアを本当は積みたかった」と返してロビーの「彼の幸せな家庭と僕の経歴を交換したい」と締めくくる内容で和解っぽくなったものの結局ロビー以外のメンバーで再結成、入れ替わるようにロビーが売れなくなる
  • 2006年 アルバム出す、活動状況はメンバーからロビーにも伝えてあるとされ、ロビーもそろそろ参加するんじゃないかという噂が流れる
  • 2007年 ロビーが薬物治療施設に入所、マークが持ってきたロビーへのメッセージソング(ゲイリーは感づいていたが黙認したらしい)をシングルカットして、10枚目の大ヒットとなる(この曲凄く良かったです)。解散後初めてロビーとゲイリーが会う
  • 2008年 ロビーとゲイリーが一緒にマンチェスタ・ユナイテッド(Take Thatのホームもマンチェスター)の試合を観戦しているのに気付いた記者がインタビューし、「いやー仲悪いよ」「まだ一言もしゃべってないし」と答えている、しかし試合中二人で笑いながらしゃべっていたらしい
  • 2009年 ロビーが「ゲイリーが誘ってくれるなら戻っていいぞ」と雑誌インタビューで言い出すが、ゲイリーは「いや今アイツいらないし」と一蹴する、その年の暮れに5人で参加したTVのチャリティー番組で肩組んで歌い最後はハグする、レコーディングをみんなでしていることを発表
  • 2010年 ロビーが正式に再加入し、ロビーとゲイリーのデュエット曲(PVでいちゃついている)まで発売、本当は2009年に5人で作ったアルバムが完成していたがロビーの仕事が忙しく復帰できなかったことも公表し、5人に戻るまでのドキュメンタリー映画も発表(ロビーはじめ皆依存症など問題を抱えていたそうで、その辺りの問題やメンバー間対立の解消、再結成からロビー再加入の5年間がメインらしい)
  • 2011年 5人でのアルバム発表とツアーを開始、ツアーチケットは1日で完売し計110万枚売った、ロビーが育休取りたいという理由で脱退する、ゲイリーは「いつでも戻ってこいよ」と別れる(が、時間が合えばメンバーとしてイベント参加していた)
  • 2012年 ロビーとゲイリーが一緒に曲を作りロビーが歌ってヒットする(Candy)、ロンドン五輪閉会式で5人集まる予定がロビーの妻出産でキャンセル(ゲイリーも子供が死産だったばかりでもさすがにキャンセルできなかったのか参加している)、閉会式でメンバーのジェイソンが事実上引退(世捨て人みたいな人、この人はソロ転向せずほぼTake Thatの活動しかしなかった)
  • 2013年 レコーディングの予定発表
  • 2014年 ジェイソン正式脱退、レコーディング開始したが妻出産を理由にロビーは参加せず当面は3人で活動することになった(These DaysのPVはかわいらしく私もこんな感じのオジサンになりたいと思った)
  • 2023年頃まで アルバム出したりミュージカルやったり、それぞれ仕事したりする
  • 2023年 Netflixでロビーのドキュメンタリーが放映(中身は①Take That時代②ソロ時代③メディアに叩かれ病んでる時代④昔の仲間に再会した今の心境)
  • 2024年 現メンバー3人で来日コンサートした、ロビーの映画をイギリスで先行公開
  • 2025年 ロビーの映画が日本公開

これなら見てもいいか、と少し安心した。

映画の登場人物にギャラガー兄弟の名前もあった。懐かしい。2025年オアシス復活ツアー(来日する)があるそうだ。宣伝かしら。オールセインツの子が絡んでくるので出てくるらしい。オアシス再結成って兄弟が金に困ってとった最後の手段という感じがする。

 

Netflixドキュメンタリーの④の昔の仲間ってTake Thatでしょ…2007~2010あたりの話かな、ドキュメンタリーがそこで終わっているならいいか! ってなった(でも不安。日本公開前だから日本語での感想なし。Googleのレビュー見ても「ロビーあなたは素晴らしい」「ロビーの生き様に涙する」ばかりで、ロビーを知らないアメリカ人が「猿のお前誰だよ」と酷評しているし、辛うじてTake Thatの曲を最後昔の仲間達と歌う的なもの・Netflixドキュメンタリーの内容より新しい物はないという記述を見つけた程度でネタバレが一切ないのが凄い。まあイギリス人なら皆知ってるような内容ってことかもしれない)。映画見て泣いてくるよ!

 

1992年~1995年のコンサートとかTV番組のスタジオ録画見始めたらやっぱり面白く、ずーっと見ている。2010年の再結成やデュエット曲をTVで歌っているのも見たが、ロビーとゲイリーが並んでいる歌う場面が体感で1/3くらい。そりゃ皆ツーショット見たいよね。めっちゃ笑顔で話しているのを変な気持ちで見ていたが、だいぶ慣れたよ。Xファクターでキャンディ歌って、最後に審査員のゲイリーを誇らしげにロビーが紹介するっていう動画も見たけど、本当に仲良くしてるっぽいんだよね…。

 

ロビーとゲイリーのかっこいいやつ置いときます。

 

メインボーカルがロビー

ちょっとダサいのがゲイリー

 

ゲイリーが最初から身なりにも本気出してたらグループの方向性とか色々変わっていたのかもね。

ロビーはいない(解散間際の1995年末と思われる)。

 

15年後

www.nicovideo.jp

今もちょっと、どういう気持ちで見ればいいのか分からないw 

悪乗りしすぎと思うけど、とにかく今もう仲良しなのは分かったよ。 このグループの初期コンセプトは(マネージャーの趣味で)ゲイ向けだった。シンガーソングライター志望のゲイリーが上半身裸の写真を芸能事務所にバラまいたことがグループを作るキッカケになったみたいだしな。かなりの時期までゲイリーがさぶ(雑誌)に出てきそうな感じだったし(ゲイリーは妻子持ち。ロビーはゲイの噂が嫌でネタにしたゴシップ誌を訴えた。身持ちが堅いゲイリー以外のメンバー、特にマークは女にだらしない)…このコンセプトに囚われていなければBSBみたいにアメリカ含む全世界で売れていたかもな。再結成時に件のマネージャーは締め出され、物議を巻き起こしたデビュー曲は再結成以降歌わない事をメンバーで取り決めたらしい。あとBSBが未だに解散していないことも驚きだよ。

 

しかし無名時代からの付き合いで一緒に売れて大きな喧嘩もしたけどそれぞれ血反吐を吐く思いで頑張ってビッグネームになって、ドイツ統一みたいな歴史的和解して実際一緒に仕事してみたら楽しくなっちゃってしかも以前より売れたって素晴らしいよねえええええええ未だに信じられないよ!

 

という話を100%の熱量で家族にしたら引かれました。

私も結局コンサートは行けなかったけど、(1993年くらい?の)ベルリンコンサートやデビューしたての「アッー! これ売れなそう」と思っちゃうような古い動画もYouTubeで気軽に観られる。なんて良い時代なんだろう。長生きして良かった。

秋山兄弟生家跡

松山城二の丸のごく近くに立派な建物があった。昭和4(1929)年完成の建物。昭和恐慌直前に完成したそうで…完成にこぎ着けて良かったね、と思った。建築費は当時100万円で、現在のお金に換算すると100~120億円程度。高い。と思ったが。平成21(2009)年完成のマツダスタジアムは建築費110億円でだいたい一緒だったが、これに比べればむしろ安いのか? とよく分からなくなる。

この建物は令和2(2020)年に国の登録有形文化財に指定されている。松山市は太平洋戦争で計11回空襲を受けているそうだが、中でも昭和20(1945)年7月に松山大空襲という大きな空襲があり、260人ほど亡くなっている。松山城本丸がある山を中心に戦闘機がグルグル旋回しながら焼夷弾を落としまくったそうで。市街地の9割が灰に。麓にある愛媛県庁はなんとか焼け残ったそうだ。ちなみに松山城本丸も櫓11棟が燃えたが、逃げずに消火活動をした人がいたそうで幕末に作った天守は残っている。

愛媛県庁。入り口にはみきゃん柄の車が置いてあったよ。

愛媛の由来は「愛比売」という女神の名前から取っているそうだ。国産み神話の中で産まれた8つの島・大八洲国淡道之穂之狭別島伊予之二名島・隠伎之三子島・筑紫島・壱伎島・津島・佐渡島大倭豊秋津島)のうち2番目に産まれた島で。「伊予之二名島」は顔が4つ、身体が1つという神様だった。4つの顔には名前が付いている。

という名前でそれぞれ国を表している。二名という部分は男女2ペアだから?

愛比売こと伊予国がそのまま四国全体の名前にもなっていることは、ここが四国の中心地だったからなのかな? 現在も愛媛県松山市が四国で一番人口が多い街なので、多分そうなのかも(wikiの慶長3年国別石高でも伊予国が四国で一番石高多かった)。

国名が女神由来ってオシャレでいいね(長野なんて県庁が最初に置かれた地区の名からだし)。

愛媛県庁付近にクレーンがいるのは第二別館を新築しているからだそう。令和8(2026)年完成予定。

県庁の近くからお城(本丸)への案内があった。登山口…。

登山口も商店が並ぶ繁華街のようだが、さすがに今この時間に登る人いないわ。

秋山兄弟のお宅は松山城の麓にあった。下級武士のおうちだったせいか、少し奥まった場所にある。路地を入っていき案内板の通りに進んで行くとすぐ見つかった。

この建物だけ雰囲気違って目立っていた。秋山家だった。
晩年の兄・好古が住んだ生家は松山への空襲で燃えてしまい、平成17(2005)年に以前の秋山宅を知っている親族の証言を元に復元したそうだ。

早朝なのでやっていないが、秋山兄弟記念館として運営されている。

常盤同郷会という団体が運営している。明治初期に松山から上京する学生たちの為に旧松山藩主久松家が創設した東京の寄宿舎を現在運営している団体だそうだ。秋山兄が寄宿舎の監督を務めていたことがあり、その縁で昭和12(1937)年に秋山家から生家を寄贈されたようだ。団体本部もここにあり、合気道や柔道の教室も開いているとチラシが貼られていた。

敷地はそんなに大きくない。下級武士の屋敷だからこんなものかもね。

入れないので写真いっぱい撮ってみた。

松山市では「坂の上の雲ミュージアム」がまだ残っていた。

工事していた。

安藤忠雄の事務所が手掛けている。「こども本の森」は安藤忠雄が寄贈している図書館だそうで、これまでに全国でいくつかオープンしている。松山にも作っているそうだが、「坂の上の雲ミュージアム」が安藤忠雄の作品なので御本人からの申し出があったとのこと。

 

ここも江戸時代の武家屋敷跡が出たそうだ。ここは家老職の御屋敷があった場所という。古地図によれば松山城本丸がある山を囲むように5つの家老屋敷が点在していた。この屋敷跡からは出土品が見つかった。家老職というわりには質素な品ばかり見つかったそうで。松山藩久松家の時代には屋敷替えが8回あったとのことなので、毎回の引っ越しの際にはきちんと大事な物を持っていったから、ゴミしか出てこなかったのかな?

坂の上の雲ミュージアムの近くに豪邸があった。萬翠荘という建物で松山藩最後の藩主の久松定昭の養嗣子の久松定謨という人が晩年建てた別荘。この人は明治維新後にフランス留学を経て軍人になった方だそうで、フランスっぽい建物だった。

鉄筋コンクリート造りで、戦火を逃れたので今も残って国の重要文化財に指定されている由緒正しい建物。大正11(1922)年完成。

これは管理小屋? みたいなもので奥にある建物が萬翠荘

完成直後には当時の皇太子(昭和天皇)が滞在し、その後も皇族や貴族・名士がやってきた御屋敷で、戦後は進駐軍松山商工会議所→松山家庭裁判所愛媛県管轄(→現在管理を民間委託)という変遷で大事にされている。

早朝なので開いてないw

 

 

★★★☆☆

早朝じゃなければ観光めぐりで良かったんだろうなって思ってる。

 

松山城(二の丸・三の丸)

松山市に行った。ここは電車と路面電車が交差する場所らしいが、まだ路面電車は動いていなかったよ。すでに電車が動いているので人影は多く、高速バス乗り場なんかは30人くらい並んでいた。

以前から「路面電車がある地区は都会」説を提唱しているが、ここ松山も大都会なんだなって思った。

松山駅から東へ20分ほど歩くと、松山城の西側に辿り着く。でかい外堀がある。外堀の内側を走っている人の姿が見え、堀と土塁の間には道があるらしい。現在の三の丸はだだっ広い公園になっている。

三の丸は藩士屋敷や藩の施設があった場所で、二の丸は藩邸があった。松山城の本丸だけ高い山の上にある。

お堀に沿って歩く。

白鳥が住んでいるそうだが、羽を切られてしまって飛べないそうで。野生の白鳥ではなく、飼育用で購入されたコブハクチョウ。寿命は15年程度。

そうこうしているうちに路面電車も動き始めた。

橋があった。

元あった橋ではなく、後世になりかけられたようだ。松山城の三の丸は明治17(1884)年に歩兵第22連隊が置かれ、その頃にかけられた感じの橋。元の松山城の橋は北側(大手)と東側(搦手)にあったようだ。

歩兵第22連隊は別名「伊予の肉弾連隊」と呼ばれた精鋭部隊らしい。日清戦争から始まり、日露戦争から太平洋戦争まで色んな戦争に参加しており、最後は沖縄戦で壊滅したという。

外堀から遠く松山城の本丸が見える。

外堀の終わりが見えてきた。「八股榎お袖大明神」という賑やかな神社が見えてきた。場所柄、お城の鎮守とか何か関係しているのかと思ったが、そうではないようだ。

案内看板には「霊験あらたか 松山一の美女たぬき」とあった。弘化年間(1844~184)に松山城の杜に住んでいたお袖さんというタヌキが堀の近くにあった八股榎に移り住んできて、人々の願いを聞き届けた。とあった。

ちょっと意味分からなかったが。wikiによると、

  • 八股榎お袖大明神の起源は、かつて松山城に住んでいた神通力を持つタヌキの「お袖」が文政13(1830)年、かつてこの地に生えていた大きな榎に住み着いたことが始まり。
  • 榎の大木は明治44(1911)年に松山電気軌道開通の際に切られて、お堂は松山市内の常楽寺境内に移された。今も祀られている。
  • その後、別の榎の下に祠が建てられたが、伊予鉄道路面電車を複線化した際に切られることとなったが、難航して(祟りがあったようだ)喜福寺に移植されたがすぐに枯れた。同時に「大西駅で降りた女学生がタヌキのお袖ではないか」という噂が流れ、お袖は近隣の旧小西村山奥にある明堂というお堂に引っ越したとされて、参詣者が増えた。
  • その後、昭和27年頃にお袖が松山城の堀近くに戻ってきたらしいとされて、昭和31(1956)年についに本殿が造営された。

タヌキのお袖さんは地元で有名な方らしく大変な人気があるようだ。wikiの記述だと明治から昭和にかけて消されようとされたが、危機を乗り越えて復活している。お社が相当賑やかで管理者も常駐している様子。最初、お稲荷さんかと思ったよ。タヌキを祀る神社って珍しいわ。

信仰が盛り上がっているんだし、相当なご利益ありそうだわ。と願掛けしておいた。

松山城はタヌキに関わる伝承が多いようで。日本三大タヌキ話のひとつ「松山騒動808タヌキ物語」が伝わっているという。101匹わんちゃんみたいなタイトルだなと思ったが、内容は松山城の守護タヌキの隠神刑部とその眷属タヌキ808匹が松山城のために戦う話?らしい。ちなみに、日本三大タヌキ話の残り二つが「分福茶釜」「証誠寺の狸囃子」である。

愛媛の狸は好戦的で、他には日露戦争に出兵して戦功を挙げたとかがある。日露戦争では赤い服を着て戦い、ロシア兵を怯えさせたり、愛媛出身者を庇ったりの大活躍。四国全体で狸関係の伝承が多いそうだが、逆に狐の話が少ないそうだ。

お堀周辺は自然も多いが、路面電車も走っていたりと近代化もしている。住むには面白そうな場所よね。狸じゃなくてもまた住みたいって思う者はいると思う。

お堀の白鳥のおうちらしい建物もあったよ。お堀には句碑もあった。

河東碧梧桐という人の句碑。松山出身の俳人正岡子規の弟子だそうだ。正直、俳句に興味がわかないので「あっ文字書いてある!!」と思ったが。「さくら活けた 花屑の中から一枝拾ふ」という内容で、最初に建てられた句碑だそうだ。昭和6(1931)年、同じく正岡子規の弟子だった高浜虚子の句碑と共に松山刑務所に建てられていたという。なんで刑務所かというと、情操教育のためらしい。

昭和28(1953)年には現在地に移転。高浜さんの句碑は今も松山刑務所に残されたまま。なんで河東さんだけ出所出来たんだろう…? 高浜さんと河東さんは正岡子規のお弟子さんになる前から元々友人関係であった(野球マニアの正岡さんのところへ二人誘いあって野球教わりにいったことがキッカケで、俳句を学んだという)が、俳句の方向性が真逆で喧嘩したらしいです。誰か忖度して松山刑務所から移転させたのかな? 松山刑務所もなんか色々とあり凄かったようだ。

橋の向こうは三の丸エリアである。現在の三の丸は広い公園と美術館などの施設があり、以前は藩士屋敷や役場があったエリア。明治6(1873)年の廃城令により松山城すべてが国に帰属したが、どうも国から買う人がいなかったようで、翌明治7(1874)年には公園に、明治19(1886)年頃から松山歩兵第22連隊の駐屯地になった。兵が置かれたことで三の丸の建物がなくなってしまった感じなのかな? と思ったら、明治3(1870)年に火事で燃えてしまったらしい。ちなみに二の丸は明治5(1872)年に燃えてしまったそうだ。


松山の人達は松山城に対して畏敬の念というか、何か特別な思いを抱いていたようだ。軍の氏配下にあった本丸を明治43(1910)年から3年間無料で松山市に貸し出させることに成功としたという。そして、皆で本丸登山をしたそうだ。

大正11(1923)年には国から松山城払い下げを受けた旧松山藩主家の久松氏が松山市にそのままお城を寄贈した。しかも維持費4万円(現在の価値でおよそ4億円)付きで。破格ですわ!

二の丸は三の丸より少し高台にある。

 

松山城の本丸、二の丸、三の丸は同時期に整備され、慶長10(1605)年完成とされる。元々は藩主屋敷(藩庁)=二の丸、藩の施設と上級藩士の屋敷=三の丸という区分けかなと思っていたが。藩主屋敷も三の丸にあったが明治3(1870)年の火事で二の丸に移転したとあった。

じゃあ、二の丸は元々何があったんだ? と思ったら、貞享4(1867)年に三の丸に藩主屋敷が出来る前は藩庁だったようだ。藩主屋敷→藩主別邸→藩主屋敷という変遷。江戸時代は江戸の藩邸に正室&跡継ぎが住むことになっていたが、それ以外は国許に住んでいたらしい。つまり別邸に側室と跡継ぎ以外の子が住んでいたといことらしい。なので二の丸は別邸とはいえ凄くちゃんとしている御屋敷だったのだ。

基本、本丸は普段の生活には使えない場所なので別。

実は最初、元あった山城を松山城本丸とし、麓に城下町(館が二の丸、家臣の屋敷が三の丸)を整備したのかと思ったよ。全部新造だった。慶長10(1605)年完成という微妙な時期のお城らしく、荒れた戦国時代の気分を引きずっている印象を受けた。

二の丸登城口。非常に立派である。としか言い様がない。

二の丸御殿の門はこちら。

途中に石碑があった。

二の丸は城東中学校という学校が以前あったそうだ。その記念碑である。

 

二の丸も明治維新を迎え、用途が様々に変わっている。

  1. 明治5(1872)年 松山城二の丸(旧藩主屋敷)
  2. 明治17(1884)年 陸軍病院
  3. 昭和20(1945)年 国立病院松山病院(終戦で移管)
  4. 昭和22(1947)年 城東中学校(~昭和58(1983)年)
  5. 昭和59(1984)年 学術調査開始
  6. 平成4(1992)年 史跡庭園として開園

陸軍の管理下にあった頃は病院だったので、学術調査の際に人骨だの発掘されたそうだ。しかも、ロシア兵捕虜と病院勤務の日本人の女性看護師の名前が彫られた硬貨も発掘されたとかで、恋人の聖地として売り出しているらしい(フォトウェディングなんかもやっている)。ロシア人捕虜と女性看護師の本名は明治37(1907)年の地方新聞も載ったようで実際カップルだったようだ。新聞の逸話の裏付けが取れた感じよ。

江戸時代には跡継ぎの男児に恵まれないと悩んだ藩主・蒲生忠知が妊婦を憎み始め、領内から妊婦を攫っては二の丸御殿で腹を引き裂いて殺していたという逸話も伝わる。今でも死んだ妊婦のすすり泣きが聞こえるそうだ。

 

平成4(1992)年に出来た史跡公園は屋敷を復元していた。

高台なので三の丸が丸見えですよ。

以前あった城東中学校の石碑がまたあった。

復元された石垣。平成初期に整備されたとあるが、壊されずに残された石垣を綺麗にしただけなのかな? それにしては妙に綺麗だと思った。平成初期っていっても、もう30年以上も昔だしな。元通りに復元出来たと言えるのは、写真が残っていたからだそうだ。

山の上にある本丸も素晴らしいが、この二の丸も素晴らしいわ。櫓がずっと続いている。

早朝なので門は開いていなかった。内部は庭園となっている。

3年かけて江戸時代の遺構を確認したが、記録の上埋め戻しているという。二の丸の屋敷を含め松山城を作り始めた人は加藤嘉明だが、完成を見ずに会津へ引っ越し命令が出されてしまい、蒲生忠知が代わりにきて完成させている。妊婦の腹を切り裂いていた人だね!

二の丸御殿は表御殿と奥御殿と分かれていたそうだ。御殿は復元されていないみたい。

二の丸の御屋敷を素通り、奥にも石垣がある。

こっちの石垣は往時のまま残されていそう。

もう石垣が古そうだもん。

この石垣のバリケードの先が本丸である。天守閣まで900m。多分大手門と思われる。二の丸も急坂だったが、ここから本丸までは山道である。市民ランナーが坂を行き来していた。トレーニングには良い感じの坂だわ。
どう考えてもここが大手道だけど、今は

①ロープウェー・リフトに頼る(東雲口)

が一般的。ここは幕末頃できたルートらしい。ロープウェーの下には徒歩道がある。ロープウェーは昭和30(1955)年、リフトは昭和41(1966)年に出来た。

②県庁の裏を進む道(県庁裏登山口)

大正時代初め頃から使われているそうだ。どちらかがメインルートだそうだ。県庁裏登山口も見所(石垣↓)があるそうで、いいらしい。

 

慶長からある大手道だった黒門口は、明治17(1884)年三の丸に兵営が置かれたときに封鎖された。昭和44(1969)年に再び使われるようになったそうだ。ロープウェーやリフトが設置された後に開かれた。なので正式な道だけど、ちょっと印象が薄くなってしまったようだ。

息苦しい圧迫感よ。しかも道は上り坂。

ここにも二の丸御殿の門があった。もちろん閉じられている。

高い石垣はまだ続いている。

一体どこまで続けるつもりなんだ。

この時点でまだ本丸までは辿り着けていない。

あっという間に二の丸御殿も丸見えな高さになってしまう。
石垣の上は施設後もなさそう。門跡には階段が残されていて、多分櫓があったんじゃないかという雰囲気だったが、この辺りの石垣は上に何かあったような雰囲気がない。まあ、とにかく高すぎて上が見えないので…実際どうなっているか窺いしれない。

石垣は続いているが、道は完全に山道に。

案内板には「松山城山樹叢」とあり、松山城が築城された頃はハゲ山だったが、赤松の植樹を始めて今では一面緑に覆われたという感じのことが書かれていた。城の構造を隠すために松を植え始めたのだろうか。

本丸まで辿り着ける時間はないものの、少しだけ進んでみた。

こちら側は背の低い石垣が続いている。

登山口は鬱蒼としている。熊は出ないだろうか?

このまま進んで行くとこういう山道みたいだ↑ 中々の道、時間があれば行きたかった…。

戻る。

今度は本丸行きじゃない方へ進んでみた。

多分、ここは高い石垣の上あたりかと思う。本丸行きとは違い、ただの山道である。

井戸跡だろうか? 木枠があった。道はまだ続いている。

行き止まり。平場と井戸跡らしき木枠。しかし、案内板などはなかった。誰も見に来ないのかな。

古地図ではここの崖下にも石垣(登り石垣)があったようだが、現在は取り壊されている。幕末か明治辺りに壊されたとされるが、理由は不明。

そして、ここら辺にも施設があったような感じだった。

二の丸まで戻る。

二の丸御殿の紅葉が見事だった。

でも石垣が巨大すぎてちゃんと紅葉写せないの。

二の丸御殿正門に向かう道まで戻った。この区間の見通しは上り下りとも悪かった。出入口だから厳重なの当たり前だけど、山頂の本丸に普段行き来するとなると嫌だなー。二の丸の御屋敷もわりとすぐに藩主屋敷やめちゃった(高台登るの面倒臭くなったんじゃないかな?)ぐらいだしな。江戸時代の藩主居城でここまで本丸に行きにくいお城ってあるのかな、と思った。
色々見たけど、黒門口から本丸への道のりは険しいが石畳などもあって、江戸時代の雰囲気を残しているらしい。20分程で本丸に到着する。階段状になっているようだ。

県庁裏登城道は舗装路だが、登り石垣というものが見える。二の丸から本丸にかけて山登りをするように石垣を築いたものだそうだ。麓から山を登ってくる敵を防ぐもの。竪石垣ともいうそうで、竪堀の石垣バージョンみたいな? これが日本でもあまりないものだそうだ。

二の丸から三の丸に向かいます。デカすぎる石垣がまだ続いている。

巨大石垣のない斜面に、申し訳なさそうに「重要文化財」の看板。よく見る看板だけど日立製作所が社会貢献の一環で設置しているもの。昭和41(1966)年の大徳寺方丈(国宝)が放火されたことがキッカケで、旧文部省の要請で日立が設置している。松山城内の建物は明治以降、放火や失火で何度か燃やされている。

二の丸と三の丸を分けている箇所まで来た。

三の丸との境は意外にも土塁だった?

見た目からして堀跡だったんだろうなって思っちゃう駐車場。三の丸との境が分かりやすく盛り土してある。改変は最小限に留めて保存し公園にしてますという印象。

三の丸に到着。ここは黒門という門があったそうだ。

三の丸は広大すぎて何もない。最初は開発途中なのかと思ったが違うようだ。松山城を引き立たせるために、敢えてこうした建物を作らない公園にしているらしい。あとは古い絵図を参考に生えていた木を植え直すとか、そういうことをしているみたいだ。確かに堀の外から見た三の丸(堀之内公園)は格好良かったからな。

三の丸から見た二の丸御殿。

柵で囲ってある場所は藩主の屋敷だった三の丸御殿跡。これから発掘する様子。山の上の本丸も見える。

敷地内は美術館・図書館・市民会館・NHK放送局がある。しかし、どういうわけかあんまり存在感がないような? 

上手く木で隠してあるみたい。

建物があるエリアまで来た。ここは三の丸でも堀に近い外れの方。

ここは土塁だった。

古地図も石垣ではなく土塁が描かれていた。二の丸から本丸にかけた巨大な石垣普請でこっちまでは手が付けられなかったのかな? 必要性を感じなかっただけかもだけど。

堀も馬鹿でかいからな、土塁のほうが良かったのかもしれない。二の丸~本丸の本気な石垣あれば十分だと思う。そもそも近世城郭のくせしてあんな高台に本丸築くのはなんかなあ。このお城、築城から明治まで一度も攻められていないそうだ。






★★★★★

本丸行かなかったのに、満足しちゃった(後で行きますわ)

 

 

 

松山城 二の丸・三の丸>

築城年 慶長7(1602)年

築城主 加藤嘉明

 

布下氏館

ふと思い立って明神池まで車を走らせた。ただ到着した時間が13時近くだったため、まずはレストランに入ろうと思ったが、この日はすべて休みだった。もうお腹が空いて耐えられなかった。

とりあえず源清麿と外山城を見て帰ろう? という軽い気分で来ちゃったんだけど、外山城は徒歩40分だし(車で行けば大丈夫だろうけどそこまで下調べせずに来た)、もうお腹空いちゃったから。明神池だけ見て、麓に戻った。

 

麓から鹿曲川を渡った先に道の駅みまきがある。そこまで行きカフェでご飯食べた。道の駅みまきには温泉もあるけど、その敷地の大部分が介護施設関連でカフェも社会福祉法人が運営する就労支援施設でもあるようだ。そのせいか安くて美味くて、十分生き返った心地した。

 

道の駅みまきに隣接して「布下氏館跡」があるようだ。館はどこにあったか完全には特定されていないという。

お城は布引岩の上ぐらいにあるそうだ。堀ノ内城(または該城)という名前で諏訪刑部左衛門頼方(頼角)という武将のお城だったとかも言われている。

早々と放棄されたのか、布下氏館から直接登る道はないようだ。長野縣町村誌にも登る道は存在していない。布下氏館から見える場所にあるが崖の上。行くとなれば結構な大回りしないと駄目みたいだ。崖の上にある大久保地区からしか行けないようだ。

あの矢印の場所まで、山伝いに行くしかない。とても面倒そうだし移動距離も倍になってしまうかもしれない。

 

それでもグーグルマップでなんとなく探してみた。やはり道らしきものは分からなかった。元々無かったのかもしれない。あっても、こんな崖登るのは大変だったと思うよ。

 

長野縣町村誌の「布下村」では大久保村に属す布岩の巌上にあったと書いてあった。永正元(1504)年に大久保の釈尊寺に棟札を奉納した布下大和守がいたという。同じ棟札には天文17(1548)年に楽巌寺雅方のお城が武田軍に落とされたが、一緒に布下氏のお城も落とされたと書かれていたようだ。その後は二人で仲良く村上軍に参加して砥石城にいたそうだ。天文22(1553)年の上田原の戦いで村上軍が敗れ、二人は武田軍に参加。ただ、川中島合戦の際に布下さんを内通者として処分しているそうだ。この時一緒に死んだのが、楽巌寺・依・和田といった人達。苗字から思うに、ご近所の皆さんだったんじゃないかね?

天正18(1590)年の木次原の戦いで依田能登(相木雅朝)・伴野刑部(伴野貞長)と松平康国(依田康国)が戦った際で松平方として布下氏の名前があったらしい。

その後は不明。

 

「大久保村」の項には同じように布岩の約303m上にあるといい、北側は千曲川の崖があるが南側は平坦で望月牧に続いているとある。諏訪氏の居城「古城」と書いてあるが布下氏の名前は出てこない。

ただ、お城は広大だったようだ。

  • 城戸口には大きな三日月堀
  • ここから50間(約90m)先まで道は狭いが食い違いなどあり、左右に大塁と堀がある
  • 途中から道幅が6尺(約1.8m)になり、広い所になると57間(約100m)ほどになる
  • 巨石で壁があり、道は屈折して狭まり、食い違いがある
  • 5町(約545m)進むと本郭に至り、東18間(約32m)・西2間(約3.6m)の堀がある
  • 本郭は一段高くなっており、東西20間(約36m)×南北35間(約64m)の広さ
  • 郭はいくつかある
  • 溜め池は四カ所

といった具合で、籠城も出来そうだよ。

 

むしろお隣の楽巌寺さんの楽巌寺城の方が小さそうに思えてしまう。

 

楽巌寺さんと布下さんはほぼ同じ行動を取っているが、お城が隣り合ってるからという理由らしい。堀ノ内城は高台から眼下の千曲川周辺を見下ろすことができ、城という機能が十分にあると思うが、楽巌寺城は釈尊寺を守るような位置にあった。

 

釈尊寺こと布引観音は布引山の山中にある比叡山延暦寺の末寺で行基開祖の御本尊は聖徳太子が作ったという縁起が残る古い寺である。楽巌寺城は元々「楽巌寺」という釈尊寺に付属していた寺を改修して城にしたという説を聞いたことがある(確か楽巌寺城主は元僧侶だった)。他にも花成寺・一宝院・真福寺・神輿寺・慈現場という寺があり、すべて天文年間の兵火で燃えてしまったらしい。永禄元(1556)年に望月城主の望月氏釈尊寺だけ再興している。布下氏も楽巌寺氏も望月氏の家来だったので、釈尊寺も望月氏と関わりが深かったのかもしれない。

 

布下氏館跡はグーグルマップで見つけたが、「何もない場所」というクチコミが付けられていた。

本当に何もない。

放棄された耕作地もあれば、整備された田畑もある。農作業をしている人もいた。

長野縣町村誌には「字狐屋敷」にあったとされる。

現在の場所だと、BBC長野物流センターってところっぽい。

ひょっとしたら結構大きな御屋敷で、河岸段丘上に広がっていたのかもしれないし。

農閑期だからか人が居ない。集落自体が館跡がある河岸段丘の下にあるみたい。

奥の方に石段が見える。後世のものかと思う。

集落に続く怪しい道を発見した。

結構急な感じで続いているし、道沿いにある家は壊れている。
これは誰も通ってない道じゃないか? という気もするが…でも段丘上の畑に出るのは便利だしなぁ…? ちなみにココは完全な徒歩道だが、畑の中には舗装路もあったよ。

明治の古地図には川(用水路?)が流れており、水田利用可の良い感じな場所であるよ。

ここにも石積みあるよ。
ちなみにこの怪しい畦道は古い道の名残りらしく、古地図には隣村へ向かっていた。

隣の島河原村は小さな村だが、中山道と北国街道を結ぶ街道の入り口・千曲川の渡しという交通の要衝であり、この村から蓼科や望月へ向かう道が古くからあったようだ。望月の入り口付近はお城結構あったよ(当初行こうと思っていた外山城も街道監視みたいな場所にあるし)。
もう一本古い道がある。
 

この道と石積みが残る道は布下氏館跡を挟むように、平行に走っている。どちらかというと、グーグルマップで示した道がメインストリートっぽい。布下氏館もまた街道監視用の館だったようだ。

でも詰めの城がめっちゃ遠いところにあるのは変だよなぁ。

 

布下氏館跡周辺。すごく広い屋敷だったんじゃないかな?

 

 

 

★★★★☆

痕跡ゼロだけど温泉あるよ

 

 

<布下氏館>

築城年 不明

築城主 布下氏?

上田飛行場半地下工場建設跡

9月の半ばから10月終わり頃まで、あんまり記憶がないレベルで大変だった。自分の体調不良もあり、身内の入院などで病院に寝泊まりしたりで、暇つぶしに買ったクロスワードパズル誌を2日で解き終わり。現金当たれ!! とハガキたくさん送ったよ。良いことありますように☆という気持ちではなく、「良いことなければ人間なんぞやってらんないわ」という切実な気分。だから懸賞は当たると思う。

この日もトラブルがあり、やってらんねーわ! と、上田市松本市を結ぶ古い街道を歩いた。保福寺道というが、元々は律令時代の東山道である。古代からある街道で趣が違う。

道の途中にはこういうものもあり↓

戦国時代の合戦で亡くなった大勢の兵の菩提を弔うお寺もある。


石碑の内容によると、天文17(1548)年の上田原合戦で武田軍と村上軍が争い、兵数は両軍合わせて17000人が参戦し、双方合わせて4千~6千人死んだようだ。観音寺では毎年八月に上田原合戦の戦没者の法要を営んでおり、また無名兵士たちのお墓もあるそうだ。

集落のメインストリートは「止まれ標識」のところまでっぽい。

グーグルマップの表記では、保福寺街道は「止まれ標識」で右へ曲がる。旧中之条村から上田市街地へ千曲川を渡るルート、現長野県道65号線のようだ。

個人的には、この道をまっすぐ行くのが旧道かと思った。

この道が旧保福寺街道かなっていう根拠はあるよ。

集落内にあった地図、保福寺街道が何故か途中から白く潰されている? 「止まれ標識」地点で交差している黒い道を斜めに横断する形で先へ向かっている風なのね。なんでこれ白塗りされているんだろう? 理由に興味ある。そもそもこの「上田原資料館」ってなんなのか? グーグルマップのストビューでも2012年時点で廃館みたいな佇まいだった。


今回見に行くのも、その白塗りされた道沿いにある「上田飛行場半地下工場跡」なので、そっちに行く。

上田飛行場というのは、ざっくり言うと長野県上田千曲高校から東側一帯の場所にあったようだ↓

千曲川と長野県道77号線の間にある、碁盤の目のように整備された土地が元は上田飛行場だったようだ。飛行場跡の碑は長野県上田千曲高校にあるそうだ。県道65号線(保福寺街道)沿いかつ橋の近くの上田千曲高校に上田飛行場の旧正門があったとか。

 

上田飛行場は全国で二番目に出来た市営の飛行場。上田千曲高校の碑文によると。

昭和4(1929)年の世界恐慌から昭和5(1930)年の昭和恐慌で世の中はびっくりするぐらい不景気になった。とりわけ農村部への影響が深刻で、絹糸やら米やら農産物の価格が大暴落した。上田も例外ではなく困窮した。この「中之条地区」は千曲川の氾濫が起こりやすく荒れた土地であったが、地方部にばらまかれた政府のお金(失業救済農山漁村臨時対策低利資金)で荒れた土地を水田にする失業対策事業を計画した。工事を進めていったが上手くいかず「ここを開墾するの諦めよう」と飛行場建設に方針転換した。同年に飛行場が完成。そして昭和8(1933)年に陸軍へ献納、上田陸軍飛行場となる。昭和12(1937)年に熊谷陸軍飛行学校上田分教場となり、その後は特攻隊の訓練場となる。終戦2日前まで特攻隊を送り出していた。終戦で飛行場は接収されてしまう。昭和21(1946)年から女学校、耕地、住宅地の建設が始まる。昭和5年に荒れた土地を開墾するという目的の事業が終戦と同時に達成されるとか皮肉だわ。そして今日では飛行場の原形は全く留めてないです。

という感じの内容が書かれている。

 

以前から気になっていたが、長野の山の中にこんな↓よく分からない慰霊碑があるのは、軍の飛行場があったからだったのか。

 

いや、別所まで妻子連れて無理心中とか…最後に家族で温泉入りたかったのかなって思ってたけど、近くに住んでいた人達だったのね。

 

ここは飛行場があるので、飛行機関連の工場もいくつかあった。

そのうちのひとつが「上田飛行場半地下工場」だった。他には「仁古田飛行機製造地下工場」なんてのもあって、こっちもいずれ見たいなって思っている。ただ、「半地下」とは何か。どういう状態を指しているのだろう?

 

この説明板には、上田飛行場周辺に航空機工場を移す計画があったことが書かれていた。

  • 昭和20(1945)年5月に名古屋の三菱重工航空機工場が空襲で全滅
  • 日本軍は本土決戦に備えて航空機工場を上田市周辺に集結させることを決め、同年6月に仁古田・東塩田・川辺にエンジン部品組み立て、飛行機製造の半地下工場を建設する
  • 軍内では「ウ工事」と呼ばれる
  • 大きな工場を作る予定が、着工後すぐに終戦となり建設中のものはそのまま放棄された

つまり、ちょっと作り始めただけで止めちゃってたみたい。文中の「ウ工事」とは上田飛行場の頭文字を取った言い方かな? 松代大本営は「マ工事」だったはず。ここの工事も重要な計画だっただろう。

でも残された部分は僅か。

このコンクリ部分くらい。

30年位前に作った感じのするコンクリだよ。重要な計画に相応しい、戦時中とは思えないほど良い物使っているんじゃないかな? 現代は人材不足倒産とかでこういうコンクリ造りのもの作る職人さん達も減っているとかいうけど、戦時中の方が腕のいい職人さんたちいっぱいいたのかな? どこで職人さんの技術は廃れてしまったのだろう。私がガッツリ継承するから高賃金で雇って欲しいな。

ここではガレージみたいなものを作る予定だったようだ。戦時中だから英語使えずに半地下なんていう変な名称にしたのかー?

半地下工場の説明板がなければ見過ごされてしまうほど細やかなものだった。

 

★☆☆☆☆

本当に何もない場所。

 

 

<上田飛行場半地下工場建設跡>

昭和20(1945)年着工

妻科神社

最近は交通事故現場に出くわさないなー事故に遭わないよう念の為、交通事故の動画でも定期的に見ておこうかーとかやっていたんだけど、自転車で転んだ。変な転び方をしたので、両膝・両手・利き手の筋・顔を負傷した。しかも病院に行く途中だった。血まみれで病院に行くと騒ぎになるので、途中の店で絆創膏とか買い込んだわ。クソ。

 

妻科神社、↑こんな感じの「街中にある神社」だけど、実は式内社善光寺三社という由緒ある神社だそうだ。

主祭神は「八坂斗女命」、相殿神として「健御名方命」「彦神別命」。

近隣の学校や商店の幟がたくさん立っている。幟もボロボロのものがなく、新しそうだ。非常に賑やかな神社だよ。

妻科神社という名前の通り、妻を祀っている。主祭神は八坂斗女命で、健御名方命の妻である。よくある諏訪系の神社は健御名方神を祀っているので妻の方が主祭神とは珍しい。

善光寺三社とは妻科神社・武井神社・湯福神社の事を指し、全て諏訪系の神社であるようだ。善光寺周辺の町ごとに氏子が分かれているらしい。この3つの神社には序列がないが、三社の氏子達は同時に城山県社こと「健御名方富命彦神別神社」の氏子にもなっているそうだ。この神社は健御名方神を祀っている。城山県社が三社の上位格にあたる神社なのかもしれない。

「健御名方富命彦神別神社」も式内社であるが、延喜式に載っている神社の所在は現在不明となっている。論社は三社ある。

  1. 健御名方富命彦神別神社 長野市・城山公園の近く「城山県社」
  2. 健御名方富命彦神別神社 長野市信州新町「水内大社」
  3. 健御名方富命彦神別神社 飯山市「五束神社」

この中で一番近くにあるのが、城山公園の近くにある「健御名方富命彦神別神社」。この神社は明治11(1878)年に現在地へ移転するまで善光寺境内にあり「年神堂八幡宮」と称していたらしい。持統天皇5年(691年)に持統天皇信濃国に水内神を祀らせた「水内社」を創建したという記録があるようで。「年神堂八幡宮」は延文元(1356)年成立の書物に「年神堂八幡宮持統天皇が祀らせた水内神である」という記述があるとwikiに載っていた。

2.の神社は信州新町の「水内」地籍にある。

3.がある飯山盆地は大昔「水内海」という名前の湖があったと言い伝えられているそうだ。

それぞれに根拠があるものの、3つの論社のうち一番可能性が高いとされるのが城山公園の「健御名方富命彦神別神社」である。善光寺はこの辺の中心地だし、本来の式内社があそこにあってもおかしくないし、妻科神社から善光寺なんて歩いてすぐだしな。

 

ちなみに、武井神社・湯福神社は式内社ではない。

  • 武井神社 諏訪大社下社の神職だった武井(武居)氏が祀った為、武井神社と称する。武居とは健御名方命が諏訪にやってくる前からいた神だったと言われ、洩矢神と共に健御名方神と戦うが敗れてしまい、従うようになったとされる。元々諏訪大社下社の大祝は金刺氏だったが、諏訪大社上社との抗争の末敗れて他国に逃亡。その後は武居氏が大祝家を継いだ。昔は武居明神などと呼ばれていたそうだ。主祭神は健御名方命、後に八坂斗女命と彦神命も合祀された。
  • 湯福神社 善光寺開祖の本田善光の墓がある(大正時代に宝塚と呼ばれる石室から人骨が発見された)。湯福神社の「ゆふく」とは「いふき(息吹)」が訛ったものとして説明されているらしい。御祭神は健御名方命例大祭には湯立神事が行われる。境内には樹齢600~900年の欅3本がある。武井神社とセットで紹介されることが多い。

長野市誌には、この二社を諏訪大社下社と模したんじゃないかな? という記述があった。面白いので善光寺三社と城山県社の配置も見ていたら、見事に善光寺を囲んでいた。善光寺を中心にした御柱じゃないかー。

善光寺三社と城山県社は持ち回りで御柱をやっているらしい。7年に1度四社のうちどこかが御柱やってる感じ。

 

昔は善光寺も別の場所にあって、現在の仲見世の辺りだったらしい。

城山県社はもと本堂の北側にあった年神堂を移転したもので、善光寺大本願歴代上人様のお墓や徳川家の廟がある。善光寺の移転前も本堂の北側に年神堂があったそうで。善光寺の守護として置かれていたようだ。鬼門除けなのか。

諏訪信仰っぽいね! って指摘する人も多いようで、検索したら論じるトンデモっぽい感じのがいっぱい出てきて嬉しくなった。

 

妻科神社は他に論社もなく、式内社として確固たる地位を築いている。見た目は雑だけど。

雨だったが、少し人の出入りがあるようだ。

境内はこんな感じだった。

妻科神社の扁額。揮毫したのが陸軍大将・大迫尚道という人だ。大迫氏は梶原景時の子孫を称している。
調べて見ると、この人は幕末生まれの旧薩摩藩士。士官学校在学中に起こった西南戦争に追討軍として従軍、専門科は砲で参謀本部所属→ドイツ留学→駐在武官日清戦争日露戦争(旅順攻囲戦に参加)というエリートだった。最終的に陸軍大将まで出世したのが大正4(1915)年、大正8(1919)年に予備役に回ったようだ。大正24(1924)年退役。扁額は大正4年~8年の間に書かれたようだが、経歴上で妻科神社との関わりはなさそう。

この人は日蓮正宗新興宗教(たぶん国柱会?)の大日本救世団という団体設立に関わっている。団体設立は大正8(1919)年5月31日ということだが、設立式で講演した人がしゃべっていたら天啓を受けてヨガの団体を作っちゃったという話も伝わっていてカオスだよ。こういう思想団体設立が軍人・ジャーナリスト・文化人の間で流行っていたらしい。信奉する団体とは教義が違う、自身に余り関わりのない田舎の神社の扁額を揮毫するかな?と思うし、どういう経緯で話を大迫尚道さんに持っていたのか興味あるよ。

境内は拝殿・本殿ともよくある感じで、普通。周りも普通な感じ。

百度参りの石にも諏訪系の証、梶の葉紋が。

妻科神社は明治6(1873)年当時郷社だったが、昭和6(1931)年に県社に昇格した。その記念に建てられたであろう常夜灯。

境内いろいろ↓

天神社と石仏達。

地区の育成会五〇周年記念の豊後梅。

筆塚。元は近くにあった「中央院」という修験道のお寺にあったものらしい。明暦元(1655)年にできたという中央院は江戸時代まで存続し、寺子屋を開いて地元の子供達に読み書きを教えていたが、明治に入り明治3(1870)年に出された神仏分離令により明治11(1878)年についに廃寺となった。廃された中央院は地蔵の首を折られたり、破壊の跡も見られたそうで。

明治8(1875)年に寺子屋で学んだ塾生達が中心となり、筆塚を建立したようだ。

石碑・石塔。常夜灯の類いはたくさんあった。すべてが妻科神社由来のものではないのかもしれない。中央院の碑など関わるものは子孫が大切に保管していると説明板に書かれていた。

この辺りはひょっとしたら中央院関係の石仏なのかもしれない。
そうすると、ちょっと摂社少ないのかな? とも思ってしまう。式内社というには一緒に祭られている神様の数が少ない印象。

 

幹の太い御神木みたいな木はけっこうあった。

雷が落ちたそうだ。中が空洞だった。



比較的新しい、こういう記念碑↑は目立つ。

そのせいで、式内社っぽい雰囲気じゃなくなっているのかもしれない。

境内の説明板には善光寺との関係を示すものがあった反面、式内社であると書かれたものは入り口の標柱だけだった。妻科神社が善光寺より古いかどうかは分からない。ひょっとしたら善光寺より新しいかもしれない。
善光寺を守る形で諏訪の神様を配置したかもしれないしね…。

 

★★★★☆

式内社としての格式?みたいなのが感じられないが、地区で大事にされているという雰囲気があった

 

 

<妻科神社>

創建年 不明

御祭神 八坂斗女命

 

 

 

善光寺、開祖が本田善光という民間人とされているが。現在は「百済王善光」という百済から亡命してきた王族の人説が有力になっているらしい。確かに、古代の一民間人にお寺を建てる能力がなさそうだしな。百済王善光は人質として来日したが、白村江の戦いで帰国出来なくなり、最終的に難波の誉田(ほんだ)という場所に住んだので、ほんだ善光と名乗ったとも言われる。古い時代の善光寺縁起には本田善光の名前は出てこないそうだ。百済系の人々とお寺を建てた信濃国の豪族が所縁のある「百済王善光」に因んで善光寺としたのではないかという説があるらしい。

御館

また新潟に行かされた。お目当ては↑これ。コラボやってて、レストランもすみっコぐらし限定メニュー出していた。ねこのカフェオレ、異常に美味かった(これは限定メニューにすべきじゃないだろ…その辺のファミレスとかで飲むカフェオレよりずっと美味いと思った)。

上越市は相変わらず長野県内ナンバーだらけだった。お目当てが水族館のすみっコぐらしのみだったため、水族館の仲間達には見向きもせず。

ペンギンの子供が寝ていても興味なし。

何しに来ているんだろう…と思ったが、考えてみたら「すみっコぐらし目当てで来ているので、すみっコぐらしの展示物以外は見ない」が子供の正義なのかもしれない。正しいか別にしても筋は通っているな。
夏休み期間中は私の修行期間にもなっている。撮りだめしたアニメが見られない(今なら逃げ若など。異世界スーサイドスクワッドとか一緒に見ることはあっても、途中なのに推しの子を急に見始めてイラッとすることもある)、YouTubeを見るために私のスマホを持って逃げる(下ネタしか言わなくなった時期があって私はどぶろっく観賞を自粛)等、気持ちを強く持って誇り高い人生を送らなければならない! みたいな僧侶気分で過ごしている。アニメとかYouTubeとか、贅沢は敵なんだよ。と言い聞かせる毎日。

 

すみっコぐらしの為にここまでやってきたが、すみっコぐらしを楽しんで終わりとなると時間が短すぎる。「海は臭い」というので海水浴の用意はしていないし、とりあえず直江津のレールパーク行く(レールパークは元旦の大地震の影響で営業日が極端に少なくなっていた)か港へ行く(直江津港は何もない)か…などとマップを見ていたが。

実は御館公園が水族館のすぐ近くだったことに気付いてしまった。

御館は高校生ぐらいの頃に「一度見に行きたいなー」と思っていた場所。どの辺か探した事あったけど、まさか水族館と近い場所にあったとは…30分で戻るから行ってもいいよね!! と家族に強引に承諾させて、御館まで走った。

 

水族館から御館まで徒歩なら15分くらいだった。

 

住宅街の真ん中にある。

「五智」という地区には五智国分寺があるし、隣接している「国府」地区は大昔に越後国府があった場所だろうし、日本最古の城とされる渟足柵と次に置かれた磐舟柵はここから先の新潟市村上市にそれぞれあったとされる。最前線に近いがちょっと後方なで安全かなという絶妙な位置であり、敵に邪魔されずに都とやりとり出来る。後に建てられた越後国分寺も上越市内でないかと推定されているし(後継の五智国分寺は上越市内にある)、越後国一ノ宮を称する居多神社も上越市だしな。越後国の中心地であったことは推測されている。

 

そんな上越市に御館が出来たのは、戦国時代だった。

公園整備されている部分はごく僅かで、本当はもっと広かったらしい。

そりゃそうよね、越後国の政庁だった建物だし。

土塁のような盛り上がりもあるが、関係ないと思う。なんだろうね、水捌けのためかしら?

海から近いしね。

どこにでもあるような住宅地の公園。真夏で暑かったため公園内もおじさんが一人いたぐらい。

この場所は地元民でも特別感がある場所? 観光名所にしたい場所? のようで、いくつも先に挙げた案内板たちの他にも石碑や説明板が建てられていた。

この場所はどちらかというと私のような某小説のファンだった人達が聖地巡礼でふらっと立ち寄る場合が多いんじゃないかと思う。城好きなら春日山行くだろうしな。案内板に「JR線路」とあることから、平成27(2015)年より前に設置されたものだろうか。
これらの石碑・案内板たちの話を総合すると、

  • 天文21(1552)年、関東管領上杉憲政北条氏康との戦いで敗れ、平井城も落城。越後へ上杉謙信を頼って落ち延びる
  • 上杉謙信は受け入れ、ここに上杉憲政の館を建てた
  • 関東管領職」「山内上杉」を謙信に譲り、謙信はこの場所を政庁として使用する
  • 御館は古地図から、二重堀に囲まれた東西250m・南北300mの大きさと推定される。中心の郭は東西120m・南北150mの規模で御館公園の六倍の広さ
  • 発掘調査が40数年前に行われた
  • 天正6(1578)年に上杉謙信が亡くなった後、有力な養子(後継者)である景勝・景虎2人がおり争った御館の乱が起こる
  • 景勝は春日山城景虎様は御館を拠点として戦うが、天正7(1579)年に御館が落城し、妙高市の鮫ヶ尾城で景虎様が自殺。ちなみに上杉憲政御館の乱初期に死んでいる
  • 発掘調査では、武具など見つかる。歪んだ銃弾も発見され、これは実際に御館の乱で使用されたものだとされている

発掘調査が行われた40数年前というのは、具体的には昭和39年から3年間行われた調査のことらしい。調査では戦争の跡っぽい遺物の他、かんざしなども発掘されたようだ。一番多かったのが陶磁器類で、中でも越前焼珠洲焼が最も多く、日本海を渡って船で交易していたからだという。

越前焼福井県で焼かれた焼き物。平安時代末期に窯元が出来たらしい。常滑焼の流れを汲んでいる。明治時代に一旦途絶える。

珠洲焼も石川県で平安時代末期に窯が作られたそうで、こちらは戦国時代に突然途絶えた真っ黒な焼き物群らしい。近年復興されたが、元旦の地震で壊滅的な打撃を受けたという。

 

御館は弘治年間(1555~1558)に上杉謙信が建てたとされている。

御館も明治時代までは土塁と堀が残されていたそうだが、北陸本線建設用土砂として使われたらしく、序でに堀も埋められてしまったようだ。太平洋戦争後には住宅地となってしまったそうな。

この周辺には御館の他にも越後守護の上杉氏館(至徳寺館)や小規模な館が点在する地域らしいが、同様に住宅地の下に埋もれている。ちなみに至徳寺館越後国衙があった場所とも言われている。

本当にただの公園だったよね。

戻ってきて、家族に「どうだった?」と聞かれたので「いや実は茂みの中でこんなことが…」こんな写真↓を見せた。

爆笑してた。そりゃ私の子供も下ネタだらけになるよね!

 

 

★★☆☆☆

面影ないが、公園としては良い感じ。整備も行き届いているし。

 

 

<御館>

築城年 弘治年間(1555~1558)?

築城主 上杉謙信

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すんごい自慢したい。ここでご飯食べた。

ぼーっと夜景見ているだけで時間が過ぎちゃったよ。遠くで花火上がっているしさあ。

もう二度と来られないわね。

正面の亀甲模様の飾り?みたいなのが室内のテーブルにもあった。