お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

頤気神社(小島田)

いつの間にか7月になっており、夏アニメで見ようと思っていた作品の初回放送が終わっていて戦慄した。見逃し配信あって良かった…令和バンザイ!

 

松代IC近くにある頥気神社とそこから千曲川の対岸の小島田地区にある頤気神社。こんな読めない字を当てるの、どうして…? 

読み方は松代→いけ神社。小島田→いき神社。漢字表記1字違う。この二つの神社は、式内社「頤気神社」の論社。延喜式では「頤気(イケノ)神社」と載っていたようだ。

 

御祭神は両社とも池生命と健御名方命事代主命。江戸時代の中頃に「頤気神社」と改称する動きがある前は諏訪大明神と呼ばれていたらしい。当時、国学が流行しており、村の鎮守社の名前を昔の名前に戻したり、「延喜式神名帳に載っている」というような格を求める運動が起こっていたようだ。

国学とは、契沖という妙法寺の住職が延宝7(1679)年以降に始めた古典研究が礎となり起こった学問らしい。契沖は万葉集の研究を知人の紹介で水戸徳川家から請け負っていたような著名な学者だったようだ。その業績の中でも「歴史的仮名遣い」が有名で、これは平安時代中期の文字の発音の仕方を研究しまとめたものらしい。

例えば平安時代の表記である「てふ」を今日では「ちょう」と読むとか、そういう昔の仮名遣いのルールを発見して、現代(江戸時代当時)の発音に当てはめて読んでみようという感覚の研究なのかなー? 江戸時代と20世紀~21世紀現在の話し方、発音はほぼ同一で我々が江戸時代へタイムスリップしても会話が出来るというが、それより前になってくると少し難しくなってくるという話を聞いたことがある。室町時代話し言葉狂言の台詞として今も伝わっていて、台詞回しも完璧に言えれば室町時代の人々と会話が出来るかもしれないとか。それ以前となると現代では消えてしまった発音があったそうで無理らしい。確かにタイムスクープハンターでも防人が出てくる回は字幕ないと難しかったな(それでもアレは完璧な古代日本語じゃないだろうが)。そして今よりゆっくりしゃべっていたらしい。

契沖が研究する前は、平安時代末期の藤原定家が作ったとされる定家仮名遣いが古い文献を読む時の教科書であったそうで。藤原定家も仮名遣い・表記揺れその他諸々に腹を立てていたらしく、「マイルールを定めました! これはぼくの師匠から教わったものではなく、ぼくが決めたルールです」と宣言して、下官集という写本を作る・和歌を作る・仮名の綴り方のルール本を作ったそうで、この本を元に和歌とか古い本を読んでいたらしい。

万葉集では定家ルールでも説明できない読み方があったりして、契沖が研究し直して作ったのが契沖仮名遣いだという。読み方ルールも定家派と契沖派で争いがあったらしく、そういう仮名遣いの争いから国学が流行ったのかもしれない。争い事ってよその他人から見たら非常に愉快なものだしねえ。

 

2つの神社も諏訪明神から「頤気神社」の旧称に戻そうとした際に争ったようだ。西寺尾村では寛政元(1789)年に頤気神社と改称しようとしたので、小島田村が「うちじゃ明和の頃からやろうと思ってた」と主張し、揉め事となってしまった。それを豊栄村の桑根井の神主が仲裁した。小島田村にあった頤気神社が西寺尾村に「頤気神社」の名称を分けた、ということで決着。これはおそらく、小島田村の「頤気」という地籍に神社があるからだと思う。しかしこの字は現在「いき」と読み、本来の読み方である「いけ」を西寺尾村だけが名乗れるような取り決めもしたかもしれない。

天保12(1841)年に二つの神社が無事に頤気神社と名乗ることが出来た。しかしこの時も揉めたらしい。西寺尾村側が先に神社名を書いて「ウチが先だろう」と激昂する小島田村側。活気ある昔話である。

 

西寺尾地区にある神社に比べると、若いイメージだ。一時期衰退・消滅してしまったとされている。

扁額の字は読めない。読めない字を当てることで箔を付けたかったのかな! って邪推してしまうわ。

ここの用水路に青鷺君がいて、急にバサバサと飛び出していったから肝を冷やした。

木々は若いとは言え、古い神社の体裁が整えられているようにも思える。

一番立派そうに見えたのがこの木だった。まだ若いようにも思えるが、多分この神社のリーダー格の木だと思うよ。

如何にも「村の鎮守」といった趣のお社である。昼下がりの微妙な時間に行ったにも関わらす、犬の散歩しているお姉さんが居たぐらい地域に馴染んじゃっている雰囲気ある。
住宅地でもなく、すぐ川の近くなので集落の外れみたい。

こちらも立派な社だが、何の神様か不明。健御名方命事代主命あたりかな? この神社に一緒に祀られているらしい(というか、以前は諏訪大明神と呼ばれていたぐらいだから、このこじんまりとした社にいるのが池生神かもしれないとも思った)。

装飾は素朴。

一度消滅したとされるだけあって、摂社が少ない。

屋根には「梶の葉」が掲げられていた。諏訪の神様だね。池生神も諏訪系の神様なので間違ってない。ただ、印象が「諏訪社」となってしまうので残念な気持ちになる。

川の近くだけあって虫が凄い。
個人的には延喜式の「イケノ神社」は松代の方かなって思った。摂社の数もこことは比較出来ない程、松代の方が多い。小島田にも松代にも同名の神社があって、訪れた人さえ色々混乱しているから統一して欲しいなーとは思うが、昔の経緯を読めばそれも出来なさそうだ。



★★★☆☆

散歩には良い感じ。

 

<頤気神社>

創建年 不明

 

 

 

 

7月に入り、ようやく少し明るい兆しが見えてきた。

新車→生産再開され、契約出来そう

遺産相続→親戚身内が見捨て始めたので、10年かかったが母親と疎遠になれそう

仕事→(下っ端だから出来ること少ないけど)忙しいが、多分7月半ばで落ち着きそう

お参りした甲斐があったかもしれない!!

頥気神社(松代)

今年度に入ってからロクな目に遭っていない。

色々あるけど、一番最近は「車がボロボロだし車検も間近だし思い切って新車に買い換え♡」ってお店に試乗だの商談だのやっていたんだけど。先日販売店から謝罪の電話来て生産中止と再開未定を告知されてしまったです。ちなみに現在乗っている車も今回の型式認証不正の対象。

こうなったら神頼みだよ!

頥気神社。読めない字の式内社に来た。「いけじんじゃ」と読むらしい。こんな漢字あるのかよ、と思っていたがPCで変換が出来た。あるらしい。神社の場所は松代ICの近く(松代町西寺尾)だが、この地は古く「池郷」「池村」と称していた。長野縣町村誌には「池清水という池があり、そこから池村と称していた。しかし現在は池清水の場所も分からず、恐らく千曲川の中か下河原地区あたりにあったかなー?」と記されていた。

「池村」から改称して「西寺尾村」となったが、村域が変で千曲川を横断した先にも飛び地(篠ノ井西寺尾)がある。池清水はその辺りにあったかもとされている。

池郷及び池村の産土神様なので、主祭神は池生命という池の字が入った神様。健御名方命事代主命も一緒に祀られている。池(イケ)から読みは変わらずに頥気という表記に代わったが、「頥」は顎という意味の字だそうで、それじゃますます意味の分からない神社になってしまっている。

境内は広い。この周辺は古くからの住宅密集地らしい。集落内の道がとにかく狭い。そして余所者を排除するかのように入り組んでいた。

なんて書いてあるか分からない石碑。道路標識的なもののようにも見える。

こっちは句碑かなー? 地元の俳人「月院社丿左(丸山丿左)」が天保13(1842)年に建てた松尾芭蕉の「顔に似ぬ発句も出でよはつ桜」という句碑らしい。内容は「我が弟子達も皆老いてしまった、あの初桜のような初々しい俳句を詠めれば良いのだが」というもので、凄く有名な句らしい。俳句よく分からないので感想も「えっどういうこと?」しか出てこないが、初心に帰れという戒め的な俳句なのかな?

丿左はこの句碑を建てた記念に俳句集も刊行しちゃったそうだ。この句が余程気に入っているらしい。

古い鳥居の跡。

厳重な雰囲気の祠。古そう。祠は他にもあって。

他の祠は鉄柵に守られていない。
厳重に管理されている祠は何か曰く付きなのかな…? それとも神職のお墓とかかな?

庚申塔とか。江戸時代のもの。

石仏。整然と並んでいるが、この辺りの高速道路やインターチェンジの設置で西寺尾村にあった神様達がこの神社に集められている風にも思えた。近くには「梓水神社」という猿田彦神を祀る神社があったようだが、跡形もない。

この辺りにあったようだが、今は松代インターの建物や周辺の道路で随分地形が変わってしまったようだ。

千曲川の向こう側、現在の篠ノ井西寺尾の旧西寺尾村内にあった赤川神社も同様。

赤川神社は健御名方神事代主神を祀る神社。

ここ跡地だよって表示があるだけマシかもしれない。同じ村内の頥気神社に集められているだろうなと思うけど…そんな話を載せたような案内板は現地になかった。

 

松代文化財ボランティアの会HPによると

  • 雄略天皇3(459)年に創建(地名の由来となった池清水の近く)
  • 主祭神は池生神で、健御名方神事代主神、後に猿田彦神も祀られている
  • 大同元(806)年に坂上田村麻呂が再建(清水畑)
  • 承和5(838)年、当時の信濃国司だった源弘が訪れた際に改修する
  • 養和元(1181)年、木曽義仲が古川沿いに移転、再建
  • 建武元(1334)年、新田義貞が社殿を現在地に移転
  • 永禄4(1561)年、川中島合戦により焼失
  • 慶長元(1596)年、再建
  • 寛保2(1742)年、洪水(戌の満水)により流出
  • 寛保3(1743)年、再建
  • 文化12(1815)年、火災により焼失
  • 文政2(1820)年、再建

という流れだそうで。「清水畑」とか「古川」とか今は残っていない地名のようで、どこだか分からなかった。ただ「古川」に関しては、神田川の隣に2つ小さい川が流れているから「ひょっとしてコレ?」と思っている。

 

まあ、千曲川のせいで何度も移転していることは確かであるようだ。

 

主祭神の池生命は健御名方命と八坂刀売命の子と伝わる。なので、お父さんの健御名方命とおじさんの事代主神も祀っているのかな。池生命は諏訪大社の権祝も務めた矢島氏の祖先に当たるし、信濃国開拓の神様としてあちこちで祀られている(池生神社とか)。池生命とその子孫の矢島氏は主に東信で勢力を広げており、真田家や海野氏にも関係していると言われている。

こちらは古峯神社。松代町清野に同名の神社があるが、関係あるのかな?

古社だけあって、ぶっとい木があるぞ!

こちらにも小さいお社があった。畜産神社という。

新しめの神社かな?

本殿に到着。工事をしている。

どうやら神社に隣接している民家の解体工事中で境内に働く車がたくさん来ているようだった。アスベスト置き場が設置されていたり、古い家を強引に壊しているらしい解体現場だった。

こんなところに御神木と水神様。

諏訪系の神様だけあって御柱もあるよ。江戸時代は諏訪大明神と名乗っていたようだ。

拝殿には古代人っぽい人を描いた扁額が掲げられていた。誰? 順当に考えたら池生命さんかな? 何をしようとしているのかな? 説明なしなので謎ですよ。

開拓神の池生命さんに祈りを捧げました。この後、すごーく良いことがありますように。頼みますよ…。

 

拝殿脇には鳥居があった。

猿田彦神を祀る梓水神社かな?

くぐっていくと本殿も見えた。

昔からあります!! という雰囲気ある。

奥はお社や祠があった。こちらが移転してきた梓水神社なのかな。御祭神が猿田彦神なら赤川神社みたいに本殿に吸収合併出来ないなあ。まあ、厳密に言えば敵だしな。

扁額は掲げられていなかった。
排他的な感じがする。さすが松代、相変わらずだなって思っちゃうわ(観光地になってきたので昔より排他的じゃなくなったというが)。

たくさんの祠があったが、こちらも詳細不明。

あー良いことあるといいな…。

 

 

★★★☆☆

境内の太い欅に癒やされたが、解体工事が気になっちゃって長居出来なかった。神様も落ち着かなかったに違いない。


<頥気神社>

創建年 雄略天皇3(459)年?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

身内が亡くなり遺産相続で揉めた。疲れたので相続放棄した。「多く寄越せ」と暴れる人が出たなどという良く聞くような話ではなく、もっと特殊な話なのでヨソ様には理解されない。

「ここに実印押して印鑑証明を渡せ! 書類の内容? 遺産の残高? 私も知らん、とにかく早く押せ」と張り切っている人がいる。以前から親と仲が良くないため、余計に拗れている。まずはどこから始めるか話し合いをしよう、手続きを分担しようと言っても「すべて私の仕事である」と取り合わず、「私は忙しいし遺産も大した額じゃないから。ハンコ押せ」しか言わず。そして何故か参戦してくるご近所さん。そのうち私の家族を敵視し始めたので切ったよ。

スッキリした!! しかし今後もヒステリー起こして面倒事ばかり押しつけてくるんだろうなと気持ちが晴れない。ストレス酷かったわ。黙って実印押せば良かったのかと愚痴ったが、「それやっちゃ絶対駄目なやつだから」と家族に慰められた。

砥石城

米山城から尾根を辿っていくと砥石城に至る。

分岐点から砥石城まで15分だという。ぱっと見、緩やかな雰囲気だったので走った。テンションも上がっていたので。

そうしたら意味ありげな石列を見つけた。道に沿って置いてあるわけでもなさそう、規則的にも見えるけど正体が分からず、そのまま先へ。

先にも似たような石列が。

これは一枚の岩盤の先っちょだけ出ているだけみたいな? 出てきた先端部分が浸食されて石列に見えただけのような気がする。

この山から砥石が産出されたので、山や城の名前に「砥石」が入っていると言われる。この石列も砥石を切り出すための跡とかだったりして(それにしては変な場所にあるし、不自然な切り出し方だなと思うけど)。

自然の驚異。ここまで走ったんだけど、ついに私も年貢を納める時が来たようだ。

長い階段である。階段は走れない。膝に来る。

どこまでも続いている…やはり、この城は随分手が入っている。さすが真田家が世に出てくるキッカケとなった城だわ、全国区になったから地元も気合いが入っているようだ。お城は走るもんじゃないって言われた気もする。

ずーっと階段だ。飽きてきた。

階段もそうだけど、景色も良くなくて変わらない。

先も見えないしさ…。などと思っていたら。

岩を削った階段が現れた。さすがに飽きてきただろうかと趣向を変えてくれたようだが。いや、階段に飽きているんだよね…。

少しは標高も高くなってきているだろうか? 下界がどうなっているか分からないが、高そうには見える。

階段もぐんぐん高度を上げているしさ。

ようやく空が見えてきた。感覚的に「やっと」と思った。尾根を走ったせいもある。長かったよ。

下には道っぽいものも見えているが、あれは今まで来た道か? さっきから階段ばかりなのに…古い登山道かもしれないし、山を手入れする人達の作業道かもしれない。どこかで分岐点あれば通ってみたい。

ちなみに地図には登山道はひとつしかないような感じだった。

 

階段から外れると古い登山道かもしれないが、ちょっと嫌な感じもする。立派なものを造ったのだから、わざわざ古い道へ回る人もいないかもしれないし。

平成28(2016)年なので、まだ10年たっていない。逆に言うと古い登山道が廃止?されて10年近くたっているので危険かもしれない。

長い階段の先にようやくゴールを見いだした。

ゴール!!

 

砥石城きたよ。古い標識と新しいものが混在している。

 

この城は元々、真田氏が築いたと言われる。海野平の戦いで負けて主を失い、村上氏が重要拠点として改築した。天文年間に楽厳寺雅方、依田新左衛門、布下政朝らに改修を命じたとされる。楽厳寺雅方は楽厳寺というお寺さんの僧侶だったと言われ、望月氏の家来からスタートし村上氏→武田氏の家臣となった人。楽厳寺は釈尊寺(布引観音)の末寺とされる。

 

なので、この人の「楽厳寺城」は布引観音の近くにある。楽厳寺ってお寺さんを城塞化したんだろうなって思った。

すぐ近くにある堀ノ内城は布下政朝の居城で、楽厳寺さんと布下さんはご近所・望月家の家臣から武田氏の家臣までずっと一緒、という間柄。仲良かったんだろうね。

茂沢城主・依田新左衛門という人も望月氏に近い人物で、この3人とも望月信雅の家臣であったらしい。望月信雅は天文17(1548)年に真田幸綱の仲介で武田氏に臣従し望月家の家督を継ぐことになった人物。

 

楽厳寺雅方、依田新左衛門、布下政朝の3名のうち、望月家家臣の家格が高かったのが依田新左衛門さんじゃないかな? 武田信玄が望月信雅宛に発行した所領安堵状は真田幸綱(武田家の使者)から依田新左衛門に託されているので。

依田家は信濃源氏の流れを汲む名家で、旧丸子町に依田城を築いて一帯を支配した一族である。源平合戦の頃に木曽義仲の家臣となり、源頼朝に敗れて勢力を失ったらしい。依田庄に残った一部が飯沼氏を名乗ったようだ。後に鎌倉幕府得宗家の家臣となり、依田庄地頭職を取り戻していた。鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代から室町時代には幕府の要職に何名か名前を連ねている。この頃には幕府要職についちゃう在府の依田氏と地元に残った在地の依田氏と分かれてしまう。在地の依田氏は当時力のあった小笠原氏系の大井氏(佐久が本拠地)の家来になる。そして佐久郡に進出した依田氏系は大地主になったり、松平さんのおうちの家臣になって上級武士で存続していた。

依田新左衛門さんについては、最終的に本貫地である旧丸子町の依田庄にお城を設けることに成功したので、良かったんじゃないかなと思う。その後の動きについては不明。楽厳寺雅方、布下政朝も同じようにいつの間にか消えてしまった。

ベンチめっちゃ置いてある。

この場所だけ平場があるという雰囲気。あとは細い尾根で周りに段郭などもない様子。

見晴らしも良く、上田市街地全部監視下に入るようだ。いいところじゃないか。

ここ本郭にあった説明板によると。

この場所が説明板の文章中にある「砥石城」で、メインは「本城」と呼ばれる部分らしいわ。真田氏本城も、真ん中に「真田氏本城」それを取り囲むように支城をぐるりと配置していたな。初期真田家特有の築城術とかなのかね?

説明板によると、この場所は

  • 幅9mの堀切がある
  • 本郭は幅20mの方形

だそうだ。やはり眺望がよいとのことで、米山城も合わせて見張り台の役割だったらしい。

本郭の周りは切岸となっているようだ。見た感じも危ない。

天気が良いと富士山まで見えるようだ。ここでも見えるのかよ。それは重要拠点にしちゃうの分かるよ。

ただし今日は見えない。

 

本城との連絡通路。こちらには9mの堀切があるはず。

降りてみる。虎ロープあった。

看板あった。

堀じゃなかった。

急。梯子かけるのかあ。

9mの堀切はこの先か?

振り返って見たが、やはり「切岸」の看板があるあたりが9mという堀切だったようだ。

本城方面へ。

心なしか、道幅が米山城砥石城区間より広い気がする。物見兵が走りやすいようにでしょうか?

ここから麓の陽泰寺に行けるらしい。

陽泰寺から登ってくる道が大手らしい。

陽泰寺は海野氏の菩提寺だそう。お寺さんのこと調べてみたら、以前珍しい蛇が見つかったという記事が現れた。古刹だし蛇がいてもおかしくないと思うけどさ、蛇怖い。享禄年間(1528~1532)に海野小太郎、龍州玄白が開基となっている。が、海野氏自体は平安末期の「保元物語」に出てくる海野親子から始まり、天文10(1541)年の海野平の戦いで滅亡している。あと海野氏の菩提寺は興善寺が有名。海野小太郎は海野氏嫡男が名乗る通称みたいです(なので誰だか分からない)。菩提寺としては時代的に合わない気がするけど、写真見た感じは非常に立派だった。蛇が出ないなら拝観したい。

陽泰寺がある伊勢山地区が城下町だったようなので、お寺が出来る前は館があったとかかもしれない。

 

本城方面。郭が目立つ。本城はすぐ近くにあるかもしれない。

ですが午後から用事があるため(この時13時くらいだった)、帰宅します。

さようなら(近々また来ます)。

砥石城が見えてきた。

堀切に到着。

登っていく。

誰も居なかった。

ここも離脱。

時間が勿体ないのでばーっと走った。

石を削って階段にした所。

帰る途中の方が、注意喚起が色々見つかるのね…やっぱり走って帰る人が多いのかな!? 

分岐点に到着。

泥濘にはたくさんの足跡が残されていた。

あっという間に櫓門まで来ちゃったよ。

特産の天狗石。砥石城の本郭にあった「富士山見えるよ」って書いてあったヤツにも使われていたな。

どうやら天狗石というのは六角柱状で産出される自然石のことらしい。具体的には柱状節理というものの一部らしい。溶岩が冷やされると五角柱・六角柱の岩が出来るそうで。じゃあどこかに火山があったってことか。柱状節理自体は珍しいものではないそうだ。

ただ規模が大きくなってくると「景勝地」として有名になっちゃうらしい。東尋坊は「柱状節理世界三大絶勝」という世界でも指折りの柱状節理が楽しめる場所になっていたり…。ひょっとしたら天狗石の産出地も火サスの世界観が楽しめるような断崖絶壁の景勝地かもしれないな。


★★★★☆
マニアとかが1度は登りたい城なのか相当人が来ている様子で、荒らされてはいないけど野生感に欠けるというか。



砥石城
築城主 真田氏? 村上氏?
築城年 不明

高田城

新潟に行ったよ。ここで車ぶつけた。悲しい。

 

高田城にも行った。

ここと隣接して高田駐屯地がある。高田城に向かう道中、私の車が自衛隊のトラックに前後挟まれたので、

「このまま駐屯地に入ったらどうする!? どうなっちゃうの???」

とワクワクして、そのまま駐屯地まで行っちゃおうかまで考えたが。

「普通に取り囲まれて普通に捕まるよ、止めてよね」

なんて冷たく返されてしまった。悲しい。観閲行進の気分になったからもういいや。

 

桜祭の季節だった。この日はまだ桜はまだ咲いていなかった。

もう三の丸あたりだった場所らしい。

明治41(1908)年に陸軍建築部が作成した図とある。この年は第13師団が高田に駐屯した年である。日露戦争中だった明治38(1905)年、旧日本帝国軍が従来の師団をすべて派遣しちゃったので、日本本土を守る軍団がいなくなっちゃった! という不思議な理由で新たに四個の師団を創設した。結構な総力戦だったけど、戦争に勝って良かったね、と思いました…負けると悲惨だよ。明治39(1906)年に四つの師団のうち、第13師団が信越地方に置かれると決まった際に、旧高田町が熱心に誘致活動をしたそうで。現在の高田駐屯地の前身に当たる第13師団司令部が出来た。

後に第13師団も主戦場の大陸へ投入され、日露戦争勝利へ導く活動をした。大正期には満州に移転するが2年後にはまた高田に戻された。この満州移転時期の師団長がイケメン軍人で有名な秋山好古だった。いいな。その後、関東大震災の救援部隊などを経て、大正14(1925)年に財政難を理由に廃止。

第13師団廃止後は施設を一般企業が使っていたらしい。

 

現在の高田駐屯地は昭和25(1950)年警察予備隊発足後に駐屯を始めたもので、旧高田駐屯地より規模を縮小しているようだ。

現在の高田駐屯地には東部方面隊下の第1施設団第5施設群、第12旅団下の第2普通下連隊などがいるようだ。主に人助けをする部隊という感じなのかな? ちなみに大昔に第12旅団本部の相馬が原駐屯地を見に行ったけど、当時も厳重だったよ。

この「第12旅団」は機動力が売りの旅団で、輸送用ヘリとか空中機動力に特化しているらしい。群馬~新潟の山岳地帯をカバーする部隊だからとかwikiに書いてあった。その分、火力は弱めのようだ(個人的には重火力好きなのでちょっと残念)。

 

図は高田駐屯地を作るために測量した図と駐屯地を置いた後の地形を重ねたものらしい。土塁や堀などはすべて埋め立てられてしまっているようだ。

今は堀など全くない。

↑高田図書館

若そうな木々ばかり。第13師団の時代にはなかった木なのかも?

高田城は桜が有名だけど、それは旧日本軍の第13師団が高田に置かれた記念に桜を植えていったからだという。

 

この辺りから当時のままのお城を楽しめるらしい。

高田城址公園のメインの場所だ。

お城の建物は残っておらず、唯一お城らしい物が三重櫓である。

お堀も綺麗よ。

木造の橋。極楽橋という名前。今の橋も復元されたもの。

お城は徳川家康の六男・松平忠輝という人の居城として築城された。幕府の命で全国の諸大名に金を出させて作らせた、とても大きな城だったらしい。忠輝さんの奥さんは伊達政宗の娘・五郎八姫だったので、築城の現場総監督は伊達政宗が務めた。

この辺りから本丸だが規模感すごい。

焼き物も置かれていた。

なんの為に置かれているのだろう…? 蓮を入れている?

極楽橋は、高田城を築城した際に二の丸と本丸を繋ぐ木橋として架けられた。明治41(1908)年に高田に来た陸軍第13師団により堀を埋め立てられて木橋も姿を消した。この橋は平成14(2002)年に復元されたものだという。埋め立てられた堀も同時に発掘調査したそうだが、橋の形を当時のまま復元することは難しく、目に見える場所だけは木や石で出来ているが見えない部分は鉄筋コンクリート造りと書かれている。耐震性の問題なども考えれば妥当よね。
堀の発掘調査では橋脚部分の木材が見つかったらしい。関東大震災の時に現れた旧相模川橋脚の例を考えても、大昔の木材が残っているなんて、わりと有りがちなのかもしれない。旧相模川橋脚なんて1198年に架けられたって言われているしな…江戸時代初めの極楽橋なんて旧相模川橋脚と比べたら赤ちゃんだよ。

 

さてここからは第13師団もほとんど手を着けていないという本丸部分である。

土塁もそのまま。

この土塁、二重になってるし。

近代城郭のわりには天守閣も石垣もなし。なので築城スピードが速く数ヶ月で完成したようだ。

寛文5(1666)年の寛文高田地震、宝暦元(1751)年宝暦高田地震、弘化4(1847)年の善光寺地震や享和2(1802)年の火災といった災害で、どんどんお城の規模が小さくなっていったようだ。

築城した松平忠輝時代は高田藩75万石→廃藩置県の榊原家15万石で、石高がおかしい。元は北陸・東北の押さえとして重要な地位のお城だったのに、時代が下るにつれお城や高田藩の意義が変わってしまったという。

お城が出来た後に起こった様々な出来事により高田藩のイメージが悪化し、ここは基本的に「懲罰人事用」の藩に成り下がってしまったそうだ。藩の格式と実際の財政のバランスが歪んじゃって直されないんだわ。なのでお城がどんどん小さくなっていっちゃったんだ。高田藩の実際の石高はとんでもなく低いらしい。

厳重ですね、と思ったけどちょっと不自然な感じもする。

どうやら本城御門(南門)の辺りにいるようだ。ここは枡形になっていたようだが、土塁の一部が現在なくなっている。二重になっていると思っていた部分、あの隙間に南門があったってことなの…?

ここに門?

これも新しいのか古いのか判別できないや。

 

高田城の現在の広さは、東西215m・南北228m。以前は鬼門除けや内枡形門などあり複雑な配置であったと案内板に書かれていた。本丸には御殿が配置されていたそうだが、土塁などがあった当時は御殿もかなり狭かったのではないかと思われる、とある。

第13師団司令部は本丸跡に置かれたとある。

 

江戸時代における高田城の面積は三の丸まで含めて約19万坪。大政奉還で明治4(1871)年に廃城後は陸軍の所有になる。しかし明治23(1890)年に政府は軍事費を捻出するために高田城の売却を決め、旧高田藩主家の榊原家に払い下げを行った。日清戦争直前の、朝鮮を巡って日本が清と対立している時期。明治40(1907)年に旧高田町が第13師団誘致のために榊原家から城や池を買い取り、土地を陸軍に納めたという。

現在の本丸跡地には上越教育大付属中学校があり、近隣の高校と合わせて学生だらけだったわ。高田城域と思われる区域内には、高田高校、高田農業高校、上越総合技術高校、そして堀の向こう側に高田北城高校がある。

 

現在の本丸。

↑本丸跡周辺

城のシンボル三重櫓。これも復元されたもので、元は明治3(1870)年の火災で焼失した。平成5(1993)年に外見など人目に触れる部分は往時に似せて造ったそうだ。三重櫓が天守閣代わりだったようだ。

明治3(1870)年の火災では三重櫓の他、本丸御殿も焼失し、翌年には廃藩置県を迎えたのでどれもこれも再建されなかったみたい。

この辺もどこまでが江戸時代なのか不明よ。

この城に石垣が見当たらなく天守もない理由のひとつは、この場所が湿地帯であったからだという。排水設備が城の至る所にあったようだ。ただし、少しぐらいは石垣造ったんじゃね? という説もあったりする。江戸だって広大な湿地帯だったのにガンガン埋め立てて石垣や天守を備えた巨大な城を造ったんだから、やれば出来たんじゃない? とも思う。昔のことだから分からないっていうのが正直なところなのだろうか。最初に「ここにデカい城造るわ」って決めた初代高田藩主がすごくせっかちで、工期を短くするために石垣や天守閣を造らなかったのかも? って説を推したいです。

近代の城って適した広大な土地が見つからなくなってきているせいか、変な場所に建ってるようなの多いなと感じる。

 

松平忠輝の家紋・葵紋と榊原家の家紋・源氏車紋がついている。

これだけ見るとかっこいいよね。でも左遷人事用の藩って考えちゃうと、三重櫓にすら哀愁を感じる。だってコレ、天守閣の代わりだったんでしょ…?

三重櫓まで登って気付いたが、狭間があった。これも最近のものっぽいな。

先ほど見た復元図には、ここも土塁があったはず。第13師団時代に削ってしまったのだろうか。また、堀を渡る橋もなかった。

車も通れそうな幅だし、物資搬入用として造ったんだろうねって感じだった。

土塁の向こう側は上越教育大付属中学の敷地内だと書いてあった。

三重櫓の復元を示す基礎の碑↓

 

三重櫓の下の土塁(切り通し部分)。

ここの景色はとても良く。夜桜見物のメインとなる場所と思われる。

この堀は第13師団時代も水源として残されていたのかな? 橋があるぐらいだから埋め立てられなかったと思った。

堀の先には博物館とか文化施設がいくつかあった。本丸の内堀と外堀(西堀)の間。

小林古径邸という国の登録有形文化財で、旧高田町出身の画家・小林古径さんの住んだ東京のおうちを移築してきたものだそう。

素敵な家だった。

 

お花見でもいいし、軽いピクニックでも良さそうね。

ええー鳶に襲われるんだ…。

この奥にある博物館で御城印をもらってきた。

博物館と外堀に当たる西堀の間には道路があった。

ただ、これも土塁っぽい感じなのここにあって。道路は掘を埋め立てて造ったのかもしれない? とも思う。

参道? 昭和14(1939)年の銘が刻まれていた。

西堀は蓮で覆われていた。こんな時期なので葉も花もない。
この蓮は明治維新で没落した高田藩財政再建や士族の収入獲得のために始まった蓮根栽培が元だとwikiに書いてあった。蓮根栽培で少しは収入あったかどうかだけど、昭和37(1962)年に終わってしまい、その後は「蓮が綺麗」ということで観光資源に変わり大事にされているらしい。

この赤い橋もいいよ。

さっき渡った内堀の橋方面に行けるみたいな門があった。これは第13師団司令部って感じがする。

この辺りも土塁が少し残されていた。

二の丸の土塁だそうだ。案内板には、

  • 慶長19(1614)年に高田城が築城された。石垣のない平城だった
  • なぜ石垣がなかったかについては、いくつか説がある
    • この地域には石材が足りなかった
    • 大坂冬の陣」直前で世情不安だったために工事を急いだ
  • 石垣がない代わりに関川の流路を利用した大規模な堀を造り、内側に土塁を積むことで城の防御とした

とあった。明治以降に高田城が廃城となり、陸軍第13師団が入った時に手狭だった用地を広げようと土塁を削り堀を埋めたので、本丸以外に残された土塁はここだけだと書いてあった。

本丸のところには「御殿用地は狭かったと思われる」と書かれていたな。そもそもが狭い土地を頑張って広げたとあるが、現在でもなんとなく城跡としては狭い気がする。

二の丸の土塁の周りは公園となっていた。

 

子供が遊んでいたりしていたよ。

本丸周辺の土塁と比べると少し迫力に欠ける気がする。昔は本丸同様の大きさだったかもしれないけど。

二の丸の近くに神社があった。

お城弁財天というらしい。

そんなに古いものでないらしく、高田信用金庫の創立者・和田憲太郎や高田市長・川合直次が相談して、昭和6(1931)年に開眼式を行ったというようなことが書かれていた。

川合直次さんは長年に渡り、議員をしてきた人らしい。中頸城郡会議員→新潟県会議員→衆議院議員→高田市長→衆議院議員という流れ。昭和13(1938)年に亡くなっている。昭和6(1931)年当時は高田市長だった。

和田憲太郎さんは地元の名士だったようで、大正13(1924)年頃には高田で開く予定の展覧会用の展示物を借りるため、大隅侯爵家・徳川侯爵家などに出向いているというのを見た。

 

色々あって、弁財天はお城の守り神として置かれたらしい。

弁財天は水の神様なので、蓮の増産も願ったりしていたのかも?

 

井戸らしきものもあったよ。

 

★★★☆☆

桜の名所で有名だが、わりと城跡って桜植えがちよね。

 

<高田城>

築城年 慶長19(1614)年

築城主 松平忠輝

米山城

矢沢城から約4km程離れた住吉地区にはお城跡が密集している地域がある。ここは上田と松代を結ぶ古い街道があったようで、上田側の出入り口(住吉地区)には狂ったようにお城を作ってあった。

 

調べて見ると、松代道は「上田城松代城を結ぶ道」だが途中でいくつか分かれているという。曲尾地区(旧真田町曲尾村)から地蔵峠、赤芝地区(旧松代町豊栄)を経て松代城下は共通で。曲尾村から長島村・金剛寺村(これらの村は明治初め合併して住吉村になり現在は上田市)を経て上田城下に至る道が主要道らしい。他にも矢沢地区を通過するルートもあったので、伊勢崎城と矢沢城も必要となってくる。

松代道は残っているようだが、車が通れるような道ではない。ほとんど使われなくなっているようだ。このエリアの城は村上氏が作ったものが多いとのことで、松代やその先の須坂市辺りから来る敵(高梨氏)への備えなんだろうなと思う。

住吉地区や殿城地区など辺り一帯は元々海野氏の領地だったが、天文10(1541)年の海野平の戦いで敗れた後に坂城の村上氏領地となっている。そのあと、お城群は村上氏により作られたと言われる。

この山だけでも稜線上に米山城砥石城・砥石本城・枡形城と4つ並んでいる。この地図でいうと金剛寺集落を挟んだ先の山の稜線にも似たようにいくつも城が並んでいるという。

神川を挟むと真田氏の本拠や真田氏のお城が建ち並ぶ。昔の大河ドラマ関係で作ったようだけど綺麗なままだった。こんな物が何故あるかというと、真田氏の出世のキッカケが砥石城攻略だから。少し時代が違うので真田丸には出てこなかったんじゃないのかな? と思うけど(大河ドラマはほぼ見ないから知らない。鎌倉殿みたいに殺伐としてないと見る気しない)。

 

この説明板によれば、

  • 天文17(1548)年の上田原合戦において村上義清に敗れた武田信玄は、天文19(1550)年に再び砥石城を攻めた
  • ここを破ると地蔵峠を越え、村上氏の本拠がある坂城の背後へ迫ることが出来るからだ
  • しかし砥石城は守りが堅く武田軍は攻撃を諦めたが、村上軍は追撃し武田軍を敗走させた、後に「砥石崩れ」と呼ばれる伝説的な敗走だった
  • 翌天文20(1551)年に、武田信玄の家臣・真田幸隆が調略しあっさりと落城させた
  • 真田幸隆はこの後も武田信玄の家臣として大いに活躍した

とあった。

 

一説によると真田幸隆は近隣の矢沢城主で親戚の矢沢頼綱と組み、砥石城を1日で落としたという。松代道は現在の長野県道35号と重なるようなルートだと思うが、村上氏領地の坂城とは深い山で隔てられている。県道35号はひたすら山の中を走っている。

途中の猿ヶ城、弥六城以外はめぼしい城もなく、傍陽地区を過ぎれば豊栄地区まで何もなかった山道だと思われる。

県道35号は数回車で走ったことがあるけど、山に分け入るような古道もほとんどなかった記憶がある。グーグルマップのコメントによれば猿ヶ城も登ることが難しい、素人不可の険しい場所のお城らしい。猿ヶ城と向かい合う形で設けられた弥六城も同じで、現在荒れて人が登ること難しくなっているようだ。猿ヶ城も弥六城も村上氏が関わるお城かどうか分からない(弥六城は原弥六築城と伝わるが、猿ヶ城は不明)。

坂城とは芝峠経由の道でしか繋がっていなかったようだ。現在は芝峠を越えて坂城に抜ける道はないよう(それらしき道はあるものの出入りがない状態)で、県道35号から分かれる古道らしきものにはすべて入り口に「入山禁止」の看板が立てられている。入山禁止の看板には松茸の文字はないが、多分松茸山なんだろう。

この先に芝峠があるんじゃないかと思った道。立ち入り禁止である。

航空写真見る限り、背後の松代道や猿ヶ城・弥六城辺りを押さえたとしても、なかなか攻めるのはキツいんじゃないかと思うような感じだけどね!

 

山に登る気はなかったが、矢沢城で楽しくなってしまいついここにも来てしまった。

米山城の入り口には古い石碑があった。

なんて書いてあるか分からず。どこからか移されたものだろうか。

お金かかっている記念碑、妙に恥ずかしくなった。時代を感じるなァという雰囲気。

石畳、オシャレ。

かなりマメにお金もかけて管理され、綺麗な状態を維持し続けている。

何か見えてきた。

中学生の頃書いていた二次創作の漫画が20年後発掘された時みたいな気持ちになる絵が掲げられていた。

復元(というのか?)された櫓門らしい。

なんと登れるようだ。

ちょっと木がボロボロかなと思ったが、登れる箇所はコンクリート作り。これなら安全だね。

ハシゴがあった。

櫓門を過ぎる。

ここでお爺さんとすれ違ったので「こんにちはー」と声をかけたら「えっもうそんな時間? ヤダもうお昼じゃない!」と驚きながらも颯爽と下りていった。お爺さん結構な早朝から山登っていたのかな? お爺さんは登山スタイルでやってきて、私は山登りではない軽装で壊れかけてる安物のスニーカー履いていたから「山を舐めるな」と怒られないかと内心ヒヤヒヤしていた。スニーカーはこのハイキングの末に壊れた(無事に下山出来て良かったよ)。

 

米山城はおまけで砥石城がメインである。

なだらかな坂道が続く。

よく人が訪れているようだ。今日も珍しく一人すれ違ったしな。

ただあまり景色が変わらないのが何とも…。

しばらくして案内があった。今度は木の奴だった。

少し雰囲気が変わってきたよ。

また木の案内板。

分岐点だ。まずは近い米山城へ。

これまでと同様、なだらかな坂道が続いていた。なので安心して登れそう。

こちらも向かう人が多いようで、しっかりした踏み跡がある。

ちょっと登山道の様子が変だと思ったが、自然なのか人工なのか分からず(細かい砕石で敷いた道のようにも見えたが、そんな面倒な手入れするかな?)。そのぐらい丁寧に手を入れているように思えたのだ。

そんな風に思えた道も当たり前だが長くは続かず。何故か二手に分かれている。姫道と武者道かー。

よし漢を見せてやる。武者道だ。

武者道はゴツゴツの岩場を通る斜面のルート。

野性味溢れてますわ。

虎ロープを伝って登れとな?

ここは敢えて虎ロープなしで! 意地で登ってやった。ソールがツルツルなので滑る。

またしても分岐点。今度は姫道・武者道の表記ではなく「ゆるやかな坂道」。険しい方で行くよ!

どうやら頂上も近いらしいな。ここも虎ロープ付き。

見えてきたぞ!

米山城に到着。やったー。

城というより物見台の役割なのか、ここに来る途中に堀とか全く見なかったわ。それでも県の史跡に指定されている重要な城。

米を馬の背に流して水に見せかけたという悲しい話。米も水が無いと炊けない。米だってもったいないだろうに。この伝説が元となり米山城という名前なのかしら?

米山城の城っぽいところは今のところ、ここしか見てない。広い郭。

そして見晴らしもいい。上田盆地がよく見える。

ストレス解消ついでに大きな声を出しておいた。ただ今回久しぶりに運動し爽快な気分だったため「嫌いな人死に絶えろ」と叫ぶに留めた。

石碑や石塔があった。石塔は供養塔かな?

石碑はなんと村上義清を讃えるものであった。上田といえば真田一色。東北信ではお隣の坂城町だけが村上推ししている雰囲気なのに。彼は冷遇されている気がしていたのでちょっと嬉しい。

揮毫した人は「輝虎十四代孫従二位伯爵藤原茂憲」と読めた。輝虎=上杉謙信十四代下った孫の上杉茂憲が書いたようだ。この人が「従二位」の官位に任ぜられたのが明治40(1907)年。調べたら石碑が建てられたのが明治42(1909)年だった。

上杉氏は藤原北家勧修寺流支流ということで藤原姓なんだそうな。村上義清も上杉氏の血を引いている。武田氏に追われて新潟に亡命し、山内上杉氏の当主だった上杉謙信の庇護を受けた。村上義清の息子の国清は謙信の養子となり、山内上杉氏の分家で断絶していた山浦氏を復興させた。という関係で、上杉茂憲に記念碑の揮毫をお願いすることになったのかな?

切岸かな?

さすがに富士山は見えないだろうと思ったら、なんと見えるというのである。

平成16(2004)年に国土交通省の「関東の富士見百選」に選ばれていたそうだ。ここと太郎山から見えるそう。凄いな!

砥石城米山城はほぼ一体運用されていたのか、現地にあった年季の入った案内図には一括りにされていた。
私が登ってきた道はこの図にない。後から設置された道なんだろう。
この図には米山の由来が書かれていた。米や麦の焼かれたものが見つかったので「米山」というんだそう。

ほとんど消えかけている「小宮山」とは、おそらく古い時代の呼び名だと思われる。砥石米山城跡保存会が発行している「米山城の里 金剛寺 歴史散策マップ」には文明年間(1469~1487)に海野氏配下の小宮山氏が築城、とあった。それって小宮山が米山に訛っただけじゃないの? と思ったけど…。

 

米山の麓に「向屋敷」という地名があるので、その辺りに居館があったのかと思っていたら違うらしい。米山城の居館とされる場所は「長島の堀之内」と呼ばれる辺りのようだ。

東條建代神社の西側の道路が旧松代道だそうで、それを監視するような位置に居館がある。向屋敷もお城関係の施設があったんだと思うが。

 

また「城代屋敷」と呼ばれる区画もある。

金剛寺公民館から西側、道路で囲まれている広い区域。この区域内にあった城代屋敷は村上義清の家臣・石井喜左衛門の屋敷だそうで、土塁などが残っているらしい。この辺りのお城を管理していた武士かな。

真田信之が元和4(1618)年に発給した文書の中に「小県郡本原(上田市真田町本原)の石井喜左衛門代官所」という文字が見え、この頃には真田家家臣となっていたらしい。本原は真田の本貫地周辺にあり、住吉とは米山城砥石城を擁する山の向こうの地区となる。この地域の有力者だったんだろうな。

石井さんは真田家の松代移封には従わずに当地に留まり帰農したとされる。また、この方のお墓は祟りを成したので後に「石井荒神」として祀られた。そして「石井荒神」は明治41(1908)年に米山城の頂上に遷座されたという。

 

村上義清の顕彰碑の左右に、確かにあったわ。

どっちだろうか?

どちらも普通に供養塔と思っていたのに…。

石仏は地蔵菩薩像で安政2(1855)の銘が彫ってあったので、石仏じゃない方かー。現地では知らなかったので手を合わせてきたかも覚えてないや…祟られたらどうしたらいいんだ。そして改めて(写真で)見るとおどろおどろしさがあるような気がしてきた。

 

古い感じの看板は、私が来た方の道を指していなかった。古地図でも上田市街地に向かって郭など配置されている様子だった。こちら側に何かあると思われる。

帰り道はこちらから。

本郭を振り返って見ました。下りてすぐにも広い郭がある。

この先は荒れているというか怪しい感じがした。何しろ軽装備なので(武者道で懲りました)。麓の金剛寺集落まで降りる道があったが、細い獣道で気が進まず。降りた先は金剛寺公民館・城代屋敷がある辺りなので、本来の大手道はこっち。

まあ、これで麓に降りちゃったら砥石城とか他の城には行けなくなるしな。

僅かに本郭の方が高い程度。本郭の周りには石積みもあったらしいが、気がつかなかった。

場所はココでした↓

青丸で囲った部分に石積みあったわ。

 

来た道とは違い、「何かある」感じなのよ。

お城の入り口?発見。あれここもお城が現役だった頃から使われている道だったのか?

土塁かな? この辺りも郭になっているのかもしれない。

切岸があるようだ。

これのことだろうか。

少し薮が濃くなってきた。

この虎ロープは人間用ではなく薮除け。この辺りまで下ると城域からは外れたようだ。

ここまで苦もなく下りていた。分岐点の標識を見つけた。今まで下りてきた道が「姫道」だったようだ。ひょっとして姫道が正解の道だった? わざわざ武者道で登ったのにショックだな。

更に歩きやすい道となり、軽快に下ったよ。

米山城砥石城の分岐点まできた。





★★★☆☆

かなり整備されているようだった。



米山城
築城主 小宮山氏?
築城年 文明年間(1469~1487)?

矢沢城

矢沢城は名前の通り、矢沢氏のお城。

元々この辺りは海野氏の領地で、その傍流である矢沢氏が治めていたそうだ。矢沢氏は諏訪氏の一族だという話も残っているらしい。まぁ婚姻や養子縁組で色んな血が混じってくるだろうしねー。

長野縣町村誌によれば、矢沢氏は天文年間(1532~1555)頃に真田氏から養子を迎えたそうだ。真田幸綱(幸隆)の弟・源之助が矢沢頼昌の養子となり、長じて矢沢頼綱と名乗り、真田幸綱と共に武田家に属して活躍したそうだ。

ちなみに真田家の祖は(幸綱の父である)真田頼昌とも言われているが、「矢沢頼昌」と同一人物かどうかは確証がない。だけど名前も一緒だし官途名も右馬介で同一なので、真田頼昌=矢沢頼昌じゃないかなと思った。そうすると幸綱が矢沢氏の出身で真田領をもらって「真田」姓を名乗ったのかな、真田家の養子に幸綱が入ったのかな? とか疑問がわいてくるけど、伝わっているのは「幸綱の弟・源之助が矢沢氏の養子となった」事だけのようだ。

 

真田頼昌という人物も何をやってきた人なのかイマイチ伝わっていない。この人は初代と「推定されている」という曖昧な立場の人で、江戸時代中期に真田家が編纂した「真田家系図書上案」は真田頼昌の子と言われている「幸綱」を真田氏の祖としており、真田頼昌なる人物は現れない(幸綱は海野棟綱の子であり、真田郷を領したため「真田」と称したとしている)。ちなみに滋野通記という真田町教育委員会が出版した本では源之助(頼綱)も棟綱の子で、矢沢家の初代となっている。

通字といえば、真田氏も「昌」という字を持つ人が多いけど、これは武田信玄に臣従して気に入られると貰える字らしいよ。武田信玄の家来に大量発生したとされる。なので真田氏の通字ではないようだ。

 

一方、矢沢氏の菩提寺過去帳「良泉寺矢沢氏系図」には「真田頼昌」という人物が存在し、この人の子供から矢沢氏が始まっていた。wikiによると頼昌の名前の初出である系図は元禄9(1696)年に作られたとされ、戦国時代の真田氏の通字が「綱」だから頼昌という名前ではないかも? とあった。

 

真田氏の戦国時代の通字「綱」の始まりは分からないが、真田氏が仕えていた海野氏の当主・棟綱から来ているのかもしれないなと思ったりもする。

海野氏の通字は「幸」「氏」であるため、両方入ってない海野棟綱がなんなのか気になるよ。彼は海野幸棟の子だそうだが、戦に敗れて落ち延びているうちに海野姓(宗家の家督も?)を分家の羽尾氏に取られているし(何かあったらしい)。名前に「幸」の字がないのでひょっとしたら元は正当な後継者ではなかったかもしれないかな、と思った。そのぐらいに通字は大事なもので、真田氏は海野氏後裔を称した為に通字も変わり、江戸時代以降は「幸」「信」になった。真田氏は最近の研究によれば、滋野御三家の禰津氏の傍流説が強いらしい。

滋野御三家は、海野(長男家)、禰津(次男家)、望月(三男家)で一応海野=嫡流ということになっているらしいが、ほぼ同格の家柄であるようだ。

 

真田氏も矢沢氏も室町時代にはいたんじゃないかとされているものの、その業績については資料がほぼないという。「意図的に隠されている」という陰謀論もあったりするぐらいだよ(本家の海野氏は武田氏の信濃侵攻により没落してしまうが、それを幸綱が悪用して「ウチは海野棟綱の直系子孫だ」と系図を乗っ取ったという説があるらしい)。

真田家にしても幸綱の後半生以降が判明しているだけだし、もうこの人が真田家祖でいいんじゃない? という感じらしい。近世の大名達も似たような状況らしく、一番有名なのは新田さん後裔のおうちから家系図買い取ったと言われる徳川家康かなー?

 

謎の多い真田氏だが、真田氏の本拠地と矢沢城は目と鼻の先程度の距離感しかない。

もともと矢沢氏も真田氏も弱小領主だったとされている。ちなみに真田頼昌の嫡男は綱吉という人物だそうだが、この人は若くして死んでいるらしく。海野氏の与力だったことぐらいしか分かっていない。綱吉の子は綱重という人らしいが、こちらも歴史の中に埋もれてしまって不明。「なんか江戸幕府の将軍と同じ名前の人達じゃん」と思った。

矢沢城は仙石氏館の極近く(歩いても5分程度)の場所だが、中世の矢沢氏の館はどこにあるか分からないそうだ。仙石氏館の前身が矢沢氏館かもしれないし、違うかもしれない。

入り口には大日堂があった。建物は新しいが、並ぶ石仏は年季が入っている。どこからか集められたものかもしれない。

大日堂。

 

近くにお城の説明板があった。

手作り感のあるものだった。

 

入り口は坂だった。

急なので杖が用意されていた。親切。

こちらも手作り。

城の前には川が流れている。お堀代わりの川だったのかな? それともお堀だった川かな?

ぐいぐい登っていく。見晴らしが良くなる。正面の山は虚空蔵山といい、頂上にはお城(伊勢崎城)がある。

交通の要衝だったようで、お城の入り口付近にはこんなものもあった↓

ごく最近の物だけど、街道の石標だよ。

「←左 伊勢山ヲ経テ上田市街ニ至ル」

「→右 本原ヲ経テ地蔵峠鳥居峠ニ至ル」

この他に経度・緯度が刻まれていた。この辺りは町おこしに熱心な人がいるのかな。地蔵峠は旧真田町と旧松代町を結ぶ峠、鳥居峠は旧真田町から長野県と群馬県の県境となっている峠である。

 

公園に着いたよ。段郭らしきものがたくさん見える…? 公園整備で随分地形が変わっている印象。そもそも道路が舗装されているしね。

昔の登城口かもしれない小道があったよ。

公園内はどう進めば良いのか分からない状態になっていた。

左は緩やかな坂道、右は急な坂道。
右へ行くと何か小さな建物?がある。

建物はトイレだった。便意・尿意を催した場合は真っ直ぐトイレに向かえるようになっている。入り口の変な看板は「ココはひょっとしたらハーフマラソンのコースなのかもしれない」と思わせたが、新型コロナウィルス関連の注意書きが貼られていただけらしい。必要がなくなったから剥がされたのか、自然に剥がれたのか謎だけど、要らないなら撤去しなよ(面白いからいいけどさ)と思った。

 

先ほどの分かれ道、左側はこんな感じ。

景色を楽しむコースとなっていた。

公園は広く、まだ先がある。

段郭?

右手に行けば本郭に向かえそうだが、あえて左側に行ってみる。

公園整備されてる部分以外は、そこそこ荒れた様子の里山ですよ。

たくさんの段郭らしきものが見えている。

多分藤棚だな。

石積みを見つけたよ。

積み方が粗いけど、時代はいつ頃かな。古そうに見えないが…? 分からん。

こちらにも僅かに石積みらしきものがあったよ。

 

長野縣町村誌によれば、

  • 代々海野氏の領地であり、矢沢氏(諏訪氏一族という説もある)の所領である
  • 矢沢氏が衰えた中世の頃に真田幸隆の弟・源之助が矢沢昌頼の養子に入った
  • 源之助は矢沢城に入り、矢沢頼綱下之郷の起請文に真田頼綱の名が見える)と称し、幸隆と共に武田氏配下となった
  • 天正10年の武田氏滅亡では頼綱は真田氏配下となっており、上州沼田城におり織田信長に下った
  • 織田氏の家臣・滝川一益の配下となり上州厩橋城の将となったが、信長が死んだ後は旧領回復し真田家家臣となり、上州の沼田城城代にもなった
  • 矢沢頼綱は慶長2年死去、子供の頼康が跡を継いだ
  • 慶長5年、真田昌幸の次男・信繁と共に西軍に属した(関ヶ原の戦い)が、長男の信幸が徳川氏に属した為に頼幸も東軍へ行った
  • 信幸が上田城主になり、頼幸は本領を安堵された
  • 慶長19年、元和元年の大阪の役にて頼幸が信幸の子、信𠮷・信政をよく補佐したという功がある
  • 元和8年、信幸が松城(松代城)へ移封となり、それに従い頼幸も松代へ

とあった。主を失った矢沢城は廃城となったようだ。

 

地形を生かして? 植物が植えられている。郭がたくさんあるように感じ、複雑な地形になっているようだ。

だけど、どこまでお城の地形を生かしているのだろうか…? なんとなく道っぽいものはあるので、なんとなく歩いている。

不思議な城になっているぐらいなので、多分重要な城だったんじゃないかなと思う!

矢沢氏と真田氏の関係は養子縁組から始まっているらしいが、その後については↓

  1. 真田家含めた海野一族が天文10(1541)年の海野平の戦いで、武田・村上・諏訪連合軍に駆逐される
  2. 矢沢氏は元々諏訪神党の一族でもあったので、諏訪氏により特別に許された(同じ理由で滋野御三家なのに禰津氏は許されて、本領安堵されている)
  3. 矢沢氏は村上氏に、禰津氏は武田氏に臣従する
  4. 海野平の戦いが終わってすぐ、武田家で内紛があり当主が晴信になった。晴信に禰津氏の娘が嫁ぎ、晴信の妹が禰津氏に嫁いでいる
  5. 禰津氏の紹介で真田氏が武田氏の家臣となる
  6. 武田氏と諏訪氏が敵対し諏訪氏滅亡、武田氏は他の地域の豪族も滅ぼしたので、村上氏の領地を狙ったが、上田原の戦い→砥石崩れで2連敗した
  7. 村上氏が守る砥石城が硬すぎたので、真田氏は近くの領主・矢沢氏が親戚だし誘って仲間にし、矢沢氏を使って砥石城を乗っ取る
  8. その後も矢沢氏は真田家の重臣として、明治維新まで頑張る

という感じだったようだ。

禰津氏は武田氏に臣従したが、海野氏や真田氏と一緒に群馬へ落ち延びた人もいた。その人(禰津政直)も戻ってきて武田氏の家臣となり、武田晴信の妹を正室に迎えている。政直が禰津氏の次期当主となる。

wikiでは禰津政直の母は真田信之の乳母って書かれており、つまり真田信之とは乳兄弟の関係になるはずだが、禰津政直(?~1597)と真田信之(1566~1658)では年齢離れている気がするから嘘だと思うわ。早世したという政直の嫡男・月直(1555~1575)ですらちょっと合わないしな? でも根拠があるんだろうし、謎だわ。

禰津氏も真田氏の親戚だけあって、戦国時代に主君を次々乗り換えたり分家したりで、本家は真田氏家臣となり、分家は豊岡藩主家(ただし三代で終わった)となった。武田家と姻戚関係を結べる禰津氏、真田氏より家格は上だったのに、江戸時代には家来か。戦国時代は怖いなあ。

 

神社の付属みたいな石柱やらが見える。

石碑も点在している。

誰かの住処っぽい穴が木にあったりする。

神社あったよ。奥の本殿には狐がたくさんいた。お稲荷さんらしい。麓は大日堂だったのに不思議だわ。お参りした。

この神社がある郭は二の郭だそうで、本郭はまだ先にあるようだ。

拝殿の裏には高い平場があり、これが本郭のようだ。

周りの郭の石碑はお城に関係ない顕彰碑が多いようだ。

本郭へ。

城内で一番高く、広い。ここの特徴は細々した郭なのかしら? と思っていたけど、本郭は広くて良いな。

奥までずっと続いている。

先ほどのお稲荷さんのお社。裏手には古そうな祠がたくさんあった。いつのものか分からないが、矢沢城は戦場になっている。その頃の供養のための祠もあるかもしれない。

新たな石碑が見えてきた。

ちょうど郭と郭の境になっているらしく、堀切らしきものがあった。歩いてきた郭より低いので、二の郭なのかな? 稲荷社がある郭が二の郭かしら? よく分からないわ。

とりあえず、一番高い場所だけ分かった!

石碑は何かというと。

矢沢城跡を公園整備した記念碑だった。細かい意味は(文体が古くさいのか、癖がすごいのか、どうしても読めない字がいっぱいあったの)読み取れなかったが、

  • ここは風光明媚なので公園にします、後世まで変わらず保存してくれ
  • 信濃国小県郡矢沢城は矢沢氏の居城で、天文年間に真田領主の真田幸隆の弟・源之助が矢沢頼昌の養嗣子となり、幸隆と共に武田氏に属した
  • 武田氏滅亡後は真田氏に属した
  • 元和八年九月に真田信之が上田から松代へ移った時に矢沢頼幸と子の頼康も従ったので廃城となった
  • その後は仙石政勝の領地となり、城址は荒れた
  • 真田も矢沢も仙石も武勇に優れた名族で名を残している
  • 公園整備したのでその記念に真田と矢沢と仙石の経歴を記した、また公園も村人さん達に末永く楽しんで欲しい

みたいな感じなのかなー? 表題の「城山遊園記」は正三位伯爵真田幸民という人が書いている。この人は松代藩の最後の藩主で明治36(1903)年になくなっている。碑が建てられたのが明治34(1901)年8月なので、御本人が亡くなる数年前だ。松代城を公園整備したり、妻女山招魂社を創建したりしている。

顕彰活動に熱心な人だったのかな? そもそも伯爵とか爵位を持っている貴族って明治時代は何をしていたんだろう? 働いているイメージが全くない。

 

真田幸民は松代藩主→松代藩知事となっていたが明治4(1871)年の廃藩置県により藩知事を辞め、特に政府関係の仕事もしていなさそうなので無職になったようだ。

なのに明治5(1872)年に真田幸民は欧米視察を行ったらしい。これは岩倉使節団や左院視察団とは別のようだ。ひょっとして私費で行ったのか?

えーお金大丈夫かな? と心配していたら。明治政府は明治4(1871)年の廃藩置県後も旧武士階級の人々に禄を払う義務があったそうで。旧武士階級(華族・士族)の数は人口5%程度であったが、国家予算40%程度という金額だった。ただの士族だと維新前からずっと禄が削減されていたので明治以降も貰える額は少ないとされるが、旧藩主家レベルだと貰える禄の額が高めに設定(各藩の収入の1/10程度)だったため、気楽に生きて行けるようだった。

 

幕末の松代藩倒幕派が主流だったようで、戊辰戦争では新政府軍に早い段階で加入したようだ。松代藩には金児伯温という砲術家がおり、この人は江川英龍に師事したという当時有名な人だったようだ。この時代、松代藩には佐久間象山という学者がいて藩の命令により江川英龍の元で砲術を学ぶことになったものの、江川が佐久間を嫌っていたらしい。

  1. 江川側の要請で他の松代藩士も一緒に入門させた
  2. 金児伯温なども一緒に学ぶ(この間、佐久間象山は江川の門下生とも揉めて退学処分に、その後は江川の兄弟弟子の下曽根信敦に学んだ)
  3. 唯一江川に嫌われなかった?金児伯温が免許を貰い、松代藩砲術家になった

という流れみたい。国内でも近代的な軍備をしていたために松代藩士は会津まで大砲を転がしていき、会津戦争で戦功を立て、天皇から褒賞をもらったようだ。松代藩戊辰戦争で投入した兵は三千人以上で新政府軍の中でもかなり多い数だった。戊辰戦争後に褒賞として3万石追加。

松代藩の幕末頃の石高が10万石で維新の功労で3万プラス、なので廃藩置県後に政府から貰えた禄は1.3万石ほど。お米の量から今のお金に変換すると約9億7500万円程。以前は藩収入から借金返済と家臣への禄を払っていたが、維新後はない。何もせずにこの額貰えるなら働かないし、そりゃ自腹でヨーロッパ視察しちゃうわ。

禄も政府の財政逼迫のために途中でなくなるものの、基本的には旧大名家は資産が多く裕福な者が多く居たそうだ(逆に言えば旧大名家以外は経済基盤も脆弱で明治維新前から収入が少なかったりでわりとすぐ貧乏になったそうだ)。明治の後半になってくると何かしらの仕事(軍人が多いようで、他は実業家だったり政府関係の仕事とか)したり資産で投資を行うようになったらしい。

昭和恐慌や戦争で没落した華族も多いようだ。

華族の人って今何をしているんだろうと思ってwiki華族ゆかりの人物・団体の項目を見た。軍人、文化人、大学教授、実業家と錚々たる面々の中、スケベ椅子開発者がいた(浴室用プラスチック製品を作っていた会社の経営者)。名前のインパクトだけでテンション上がる。

本郭の奥には堀があるようだ。

堀はこんな感じだった。

一番深い堀かな。

古い祠があった。寛政5(1793)年と彫られている。長野縣町村誌には「矢沢城の本郭には神明社がある」と書かれていたが、この祠のことだと思う。

公園から外れた位置にあり、散策しにきた人には気付かれなさそう。この辺りは古い時代から変わらず残されている雰囲気がある。典型的な城跡だなと思った。

先には溜め池があった。比較的新しい池かもしれない、お城とは関係なさそうだ。

こちら側、麓にはお墓が何基か残されていた。お城に縁がある人達かもしれないし、ない人達かもしれない。(墓石すべて見てはいないが)彫られていた元号は江戸期のもので、武士階級の男女のお墓かなと思った。墓石が立派だったので。

数基のお墓は向かい合うように建てられており、俗名の苗字が違う人もいたりで血縁者ではないかもだが、何かで関係ある人達のようだった。手入れもされているかいないか微妙な雰囲気ではあるものの、墓石の状態は良かったからたまに訪れる人もいるのかもしれない。おどろおどろしさはなく穏やかだった。不思議な佇まいだった。手を合わせた。

よく見たら、本郭の下に石が積まれていた。

笹で隠されている。

一番城跡らしい堀切りや祠のある郭なども人目につかないように隠されているとはねえ…。

いや、開発の手を逃れるためにわざと隠したのかしらね? この公園、「城跡公園」と謳っているわりにはお城の図もないし。記念碑が1基あるだけの城跡公園だしな。

元来た道を戻った。

ここまで戻ってきた。ここにも古い祠があるのに、そういえば本郭の先にあった祠はなんで残されたままなんだろう。

この場所は矢沢城以外にいらっしゃった神様が集められているんだろうが、旧矢沢村内にはお稲荷さんはいなかったらしい。お稲荷さんは別の場所からいらっしゃったのか、それとも新たに祀られるようになったのか…? しかも覆い屋まで建ててもらって。

いろいろ謎だな。

城内の石碑も謎なの多いよ。

こちらは(多分)公園整備の際に寄付をした人達のご芳名を記していると思う。読めなくなってる。

御大典記念碑。昭和3年の昭和天皇即位記念かな。

英霊供養塔。いつに建てられたものか分からず。

誰かの顕彰碑。

石が崩れていたり。

立派な松があったり。

歌碑もあったよ。

ちなみに矢沢氏と真田氏が乗っ取る砥石城もここから見える。

正面にある小高い山じゃないかと思う。

帰ります!






★★★☆☆

本郭の奥、手つかずの郭と祠はボーナスステージみたいで面白かった

 

 

<矢沢城>

築城年 不明

築城主 矢沢氏

仙石氏館(矢沢陣屋)

運動不足を感じたので、久しぶりに山へ行ったよ。集落に極近い山だけど。熊とか本当に勘弁だからな。

まずはこういう感じの。現役の民家だよ。

 

寛文9(1669)年、上田藩主仙石政俊が幕府に隠居を願い出た序でに、政俊の弟・政勝が上田藩領約六万石のうち二千石を分知されて出来た矢沢領の陣屋である。仙石氏の分家ということになる。独立して旗本になっている。

上田藩主の仙石氏は宝永3(1706)年に但馬出石藩へ移封されたそうだが、この分家は当地に留まり明治維新を迎えるまで矢沢領を治めたという。この他にも飛び地で730石ほどの領地があるらしい。

二千石くらいだと旗本でも上級の家格になるらしく、陣屋とはいえ城みたいな石垣を作っている。調べたら現在でいうと年収5~6000万円ほどの家になるようだ。

でかくて近代的なお城だと、こういう感じの石垣あるよね!

↑祠っぽいが、とにかくここ民家なのでじっくり観察してない。

 

航空写真だと民家が3軒はあるみたい。御子孫なのかしら? ちなみに陣屋の主は江戸定府なのでここにはほとんど来ていないようだ。代わりに代官を派遣していたみたい。

石垣の周りは綺麗に整備されており、ちょっと歩いてみた。桜の木が並んでいるので春は美しいかもしれないね。

裏側はこんな感じだった。崖。そして川も流れている。

道路に面している豪奢な蔵も良かったが、こっちも古そうだわ。

戻るよ。

保存されているのか分からんが、蔵だけバンッと現れてびっくりする。ちなみに城内にある民家は現代的な建物だった。蔵は人目を引くものの、江戸時代の建物かは怪しい気もする…?

石垣は続くが、蔵周辺の鋭角な石垣じゃなくなってきている。

入り口と門があった。ここが陣屋の正門跡じゃないかと思う。

しかしながら、案内板などはない。さっきの石垣周辺にも仙石氏館とか矢沢陣屋とかそういった名前が分かる看板はなかったな。グーグルマップにはガッツリ載っているんだけど。

現地にあった看板はこれだけ↓

近くに「矢沢城」というお城があり、こっちを推しているようだ。

石仏?が並んでいる。陣屋があるぐらいだし、街道が通ってる地区だったんだろうなと思う。


矢沢陣屋近くの町並みはこんな感じだった↓

 

狭い道だが、閉店した古い構造の商店が並んでいた。多分、長野県道176号線の旧道じゃないかな? 旧真田町大屋駅を結んでいる。古地図ではこの道が主要道として太線で描かれていた。この道には矢沢村の道路元標もあったらしい。

 

周辺、石積みが多かったよ。一応城下町だしね、とても立派だった。

ここまでが陣屋かな?

 

左側は崖。一応堀的なもの?

耕作放棄地のような場所にも石垣。

道路の向こう側にも石垣がある。お城跡ではないと思うけど。

ここの見所はこれよね! ってことで、蔵を最後によく見た。

おしまい。


★★★☆☆

陣屋にしては大変立派なものだった。




<仙石氏館>
築城年 寛文9(1669)年
築城主 仙石政勝