クソ暑い毎日だった。しかしどこにも出かけないと辛い。そして出かけると夏の暑さに閉口し、やっぱり家に居たほうが良かったんじゃないかと後悔する、その繰り返しだった。なので、思い切って一番暑い時間帯に外へ出てやったよ。
手書きの看板が愛らしい古峯神社はこの辺りを治めた清野氏の屋敷跡だと言われている。元々清野氏の屋敷は現在の松代城にあったそうで、武田さんに屋敷を取られて新しく建てたものらしい。
入口。狭い。右側はちょっとした崖になっているようだ。
入口だけが狭いのかと思いきや。
内部も狭かった。追い出された人がとりあえず建てた屋敷、としてはこんなもんなのか。神社の境内部分が狭いだけで、今住宅地になっている部分も元は清野さんのお屋敷の一部だったのか。
やっぱり何か不便で困ったのか、また新しい屋敷(海津館)を作って引っ越す。
旧屋敷は倉庫として活用されたそうだ。酉の蔵屋敷と呼ばれる。
ここには清野氏を偲ぶ石碑があった。地元民に愛された領主かと思ったのだが、そうでもなかったようだ。
側面に清野氏とは。という文章が書いてあるらしい。漢文だったのでよく分からないけど、多分そう。
清野さんは村上→武田→上杉とこの辺りの豪族と同じような流れで主君を変えており、慶長3(1598)年の上杉家の会津転封にも同じくついていきこの地を離れた。その後、この地では不幸が続いたという。
不幸が続いた時期は詳しく分からない。古峰神社は宝永年間(1704~1710)に清野氏と住民のために建立とあるので、いなくなってから100年くらい不幸続いてたのかな? 建立以後も何かあるたび「清野様の祟りじゃ」ということになっていたのかも。宝暦7(1757)年、天保11(1840)年と、この地で大火に見舞われ。清野氏を偲ぶ石碑も松代藩家老に文字を書いてもらい、建てて供養したのが弘化3(1846)年。
清野氏が会津に引っ越して不幸な目に遭ってた訳ではなさそう。残された地元民が恐れるほど清野さんが出身地を祟るとは思えないの。多分、清野さんもこの事実を伝え聞いたら驚くと思うわ。地元民としては「我々はこの地を離れ異郷で暮らす清野様に対して思いやりが欠けていた、ないがしろにしていた」ということだったらしいが、清野さんに対して後ろめたいことがあったんだろう絶対そうだろうとか勘ぐってしまうよ。何か隠してるのー?
摂社があり、手書き看板の飛石天満宮の他にも祠が2宇。何の祠かは知らない。
天保10(1839)年8月とあるのでそんなに昔じゃなさそう。
飛石天満宮。
神社の奥のほう、変な虫が出てきそうな薄暗い場所にあった。
天満宮というぐらいだから学問の神様? 何故飛石なのか、飛んでいくのは梅だろうよ、などと思ったのだが。看板が出ているぐらいだから、何か凄い神様が宿っているのだと思う。
土塁とかそれっぽいものを探してみた。草ぼうぼうで分からなかった。ないのかも。
神社の裏手は山のようで、雑草だらけ。この草のせいか暑いせいか、草いきれで窒息しそうなほど境内がムンムンしており、ついでに蚊にも何か所か刺された。退散。
一旦神社を出て、周りを散策してみた。
田舎の風景、特に何も見つからず。
またもや手書きの看板が。
・高源寺 観音堂
高源寺というお寺さんはもう廃されて存在していないようだ
真田信之次女の見樹院という人が甥の松代藩二代藩主の大学(高源院)の菩提を弔うために承応2(1653)年荒れた寺を再興し、高源寺と名前を改めた
明治元(1868)年に廃止
現在あるのは観音堂のみ
見樹院さんは非常に良い人だったらしい
・真田信之供養塔
万治元(1658)年建立、大鋒院(真田信之)供養塔
天保15(1844)年建立、高源院(真田大学)二百回忌供養塔
があるそうだ
・和算の額
算額は見たい! と思ったけど、暑いので帰ることにした
これも高源寺跡に残されているようだ(ちなみに複製品らしい)
神社の東側は蓮の池があった。
★☆☆☆☆
普通の神社
<清野氏館>
築城年 不明
築城主 清野氏
構造 平城
この後、贅沢してきちゃったよー。