お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

皇足穂吉田大御神宮

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皇足穂吉田大御神宮。延喜式神名帳に「白玉足穂命神社」の名前で載っている神社の論社のひとつ、とされている(別の「白玉足穂命神社」論社の話だと、白玉=皇の誤記ではないかとあった)。地元では「吉田神社」と呼ばれているらしい。皇足穂吉田大御神宮は「すめたるほよしだおおみかみのぐう」と読む。また現れた読めない系神社。

 

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↑本殿

古い神社で、摂社もたくさんある。

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玉垣かと思ったら、全部お社。

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全国の一ノ宮を祀っているとか。平安中期、全国を68州に分けていた頃の一ノ宮だそうで。

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くねった字で「忠魂碑」。乃木将軍の字かねー?

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wikiによれば、摂社は100社だそう。この神社は昔別の場所にあって、慶長年間(1596~1615)に現在地へお移りになった際に近隣の神社を統合した結果とのこと。

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現社号になったのも文政2(1819)年のこと。

以上がこの神社の歴史である。長い歴史があるわりには、分かっていることが少なすぎじゃないだろうかねー? 創建年不明だし。旧社号は「白玉足穂命神社」だったのかも確証なさそう。ちなみに移転は「川の近くで氾濫しまくって大変」「新しく街道ができた」という理由だそうだ。

皇足穂命というのは食べ物の神様のことを指すようで、この神社の御祭神も食べ物の神様・豊受大神だった。「白玉足穂命神社」論社は他に2社(御祭神はそれぞれ違い、瓊瓊杵尊と倉稻魂命である)、飯縄権現(=皇足穂命)を祀る皇足穂命神社という神社もあるらしい。瓊瓊杵尊は食べ物の神様じゃないと思うんだけどー。

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↑本殿

御祭神は天照大神豊受大神。見ての通りのお伊勢さん系列の神社だった。摂社もお伊勢さんが多い。

  • 伊勢神宮別宮(13社)
  • 全国一宮(68社)
  • 町内鎮守社(10社)
  • その他(9社)

 

皇足穂命という神様も具体像がよく分からない。口から食べ物を吐き出す女神様の名前が皇足穂命ではないようだ。古い神社は謎が多いなー。

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★★★☆☆

社務所の他にお寺?もあった、混沌としている

 

 

<皇足穂吉田大御神宮>

創建年 不明

御祭神 天照大御神豊受大神

 

押鐘城

今年の花粉は酷い気がする。

 

信越放送旧社屋跡地の裏に、こんなものが。

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本城→押鐘城跡である。信越放送のHPには開局頃の写真が載っていた。当時の信越放送の周りは田んぼだらけだったようだ。

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現在はアパートが目立つ住宅地となっていた。

SBCの古い写真、社屋の裏手に林っぽいものが写っているものの、ソレが押鐘城跡か分からず。現在のように開発される前までは土塁も残っていたらしい。

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今はこんな小っちゃい公園の名前にしか、押鐘城の名残を感じることが出来なくなっているようだ。

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小っちゃい公園に小っちゃいキノコ。

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本城公園から人しか行き来できない犬走りを通る。

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本城公園より広い公園あった。

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吉田公園というらしい。

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何てことはない公園だ。

押鐘城は万刀美神社の西側にあったそうだ。ざっと歩いてみたけど、全く何もない。起伏もない。綺麗に整地しちゃったのね。

 

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吉田公園と万刀美神社の境にあったベンチ。押鐘の文字。

 

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↑万刀美神社

この神社所在地の旧住所表示も「押鐘本城」だったようなので、ひょっとしたら押鐘城跡地の一部だったのかも? 地図を見たところ、押鐘城の東境=吉田公園と万刀美神社の境、のようで。しかし吉田公園と万刀美神社の境界はフラットだ。

 

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↑万刀美神社拝殿

 

↓境内の様子

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白山社

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社宮社・金毘羅社・弥栄社

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↓万刀美神社本殿

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由緒を書いた看板があった。

・御祭神は健御名方神・馬背の神(牧場の出入口に祀られた神)

・創建年不明、桐原牧(平安時代にあった牧)の牧官が祀った

小鹿野村→押鐘村の産土神小鹿野村は名前を変更し押鐘村となった)

・以前は別の場所にあったが、寛文6(1666)年この地に遷座

・文政12(1829)年社殿再建

・創建時より「諏訪大明神」と称していたが、弘化4(1847)年「万刀美神社」に改称

・万刀美神社とは、健御名方神の別名「南方刀美命」から採られている

ということで、なかなか古い神社らしい。

肝心の「押鐘城」の話はひとつも書いてなかった。

 

江戸初期に移転なら、押鐘城もまだ残っていそうだ。吉田公園が堀(と土塁の?)跡なのかねー?

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押鐘城は、大永年間(1521~1527)に多田(押鐘)氏が居城として築いたらしい。周辺は古代から人が住んでいて、いたるところに遺跡があるようで。「浅川扇状地遺跡群」とひとくくりにされており、各遺跡の報告書もいっぱいあった。ただザッとタイトルだけ眺めた感じでは、押鐘城関係の調査報告は見当たらなかった…きっと調査してないのでしょうねー。

多田氏が最初に造った館は盛伝寺というお寺さんになっている。その後押鐘城の造営にあたり、居館を廃してお寺にしたようだ。扇状地というぐらいだから平らな場所だし、城ひとつで充分なのかな。

多田から押鐘に改姓した理由ははっきりと分からないが、

・「小鹿野」が訛って「押鐘」に変化説

 神社の由緒書きにもあった古い地名「小鹿野」から

村上義清さんに褒められた逸話から採った説

 鐘を叩いて味方の兵を鼓舞してくれたから戦に勝てた有難う、と言われたから

という2説があるようだ。 

 

旧姓の「多田」はなんだろー? この辺りの地名とは関係なさそう。どこからか来た一族だろうか。信濃源氏の祖先で源(多田)満仲という人を見つけた。この人は河内源氏摂津源氏などの祖先でもあり、かなりのやり手で出世した。同輩に妬まれて自宅放火されてしまう人(とはいえ、多田さん本人も汚い手法で成り上がった模様)。

多田満仲河内源氏信濃源氏という別れ方で、信濃源氏の祖となるのは多田さんの孫2人がメイン(井上氏系統と村上氏系統)。多田満仲嫡流摂津源氏で「多田」を名乗れる、河内源氏は満仲三男の子孫。「多田」姓名乗ってない。摂津源氏の「多田」一族の誰かが「同じ源氏じゃないか」と村上か井上を頼って引っ越してきたとかねー違うかなー。

 

 

★☆☆☆☆

何もない、吉田公園は遊べた

 

 

<押鐘城>

築城年 大永年間(1521~1527)?

築城主 多田(押鐘)氏

構造 平城

中村神社

名前は難しくないが、ロマン感じる延喜式内社。

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鳥居が綺麗なのは、15年程前に再建されたばかりなので。

この神社のあちらこちらに「倒木注意」というような看板が立っていた。根元に×印がスプレー書きされている木もあった。見た感じは今にも倒れそうな老木ではなさそう。しかしきちんと調査した結果のようだし、隣が小学校だから多少大げさに注意喚起しているのだろうか。

 

↓境内の様子

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↑摂社がたくさんあった。

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↑拝殿と本殿

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拝殿、なんか長くないかなー? ちょっと気になった

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別の鳥居を発見。

 

古い神社なのに由緒書きの看板が見当たらなかった。御祭神についてのものだけ見つけた。

素戔嗚命

天児屋命

大国主命

建御名方富命

事代主命

の五柱の神様が祀られているそうだ。

素戔嗚命の子孫=大国主命

大国主命の息子=事代主命・建御名方富命

という関係性なので、なんとなく一緒に祀られていることがすんなり頭に入ってくるものの、天児屋命は他の四柱とどういう関係なんだろ? と思った。

天児屋命の業績としては、

・岩戸隠れの際、祝詞を唱える。ちょっと出てきた天照大神に鏡を差し出す

天孫降臨の際、瓊瓊杵尊随行した

・中臣氏(藤原氏)の祖

ということで、天孫降臨の時だけちょっと他の神様たちと関わり合っているようだ。

この神社が再建された際の棟札には「大国大明神」と記載されていたとのことで、主祭神大国主命らしい。

 

創建年は不明ということだけど、延喜式がまとめられた延長5(927)年にはこの場所に鎮座していたと言われている。それなら境内の木々を調査して「倒れそう気を付けて」といたる場所に看板立っているのも分かる気がするなー。パッと見、樹齢千年なんて古木はなさそうだが、数百年クラスはゴロゴロしてるのかもねー。

永禄年間(1558~1570)に兵火で本殿・拝殿・社庫などすべてを消失したらしく、永禄12(1569)年に当時の領主で竹山城主の西条裕直という人が社殿を再建しているそうだ。この地区の産土神でもあるらしい。

 

 

★★☆☆☆

気持ちの良い神社

 

<中村神社>

創建年 不明

御祭神 大国主命

 

源関神社

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この神社は、関屋氏という一族が諏訪大社の分霊を勧請したことが初め、と言われているようだ。関屋氏は諏訪氏の一族で、諏訪明神の氏子から成る諏訪神党という武士団のメンバーだとか。諏訪一族の大祝為盛という人が関屋地区に移住して、関屋氏と名乗ったのが延久元(1069)年と伝わっており、それ以後に氏神として建御名方をお招きしたそうだ。御祭神は建御名方命の他、八坂刀売命、事代主命御柱は何故か明治17(1884)年からやり始めたらしい。歴とした諏訪系神社なのに意外だわ。

別の場所だが関屋氏の関屋城も残っている。ここには地蔵峠に向かう重要な街道がある。松代と真田を結ぶ道。関屋城はその監視をするためのお城だったらしい。関屋氏の館は氏神様を祀るこの神社近くなのかなと思っていたが、実は館がどこにあったか分からないという。

 

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広くないものの、雰囲気はとてつもなく良好な神社。

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古風な神社。拝殿はどうだか知らないが、本殿は応永12(1405)年に造られたらしい。棟札も残され「造営の趣旨」や依頼した関屋さんの名前、建てた大工の名前などが残っていたという。そんな大昔の建物だから、がっつり保護されていて何も見えなかった。

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 ↑この中に本殿があるようだ。

左:源関神社本殿 中央:皇大神宮 右:住吉社

という順番で並んでいるとか…皇大神宮が真ん中なのか、最高神だからなのかねー? 並び方も意外に思った。

 

説明板には

・本殿の形式は一間社流造

 流造は全国の神社で最も多い形式で、屋根が反る・前に伸びてきて向拝(庇)のように出てきているもの。その中でも、桁行の柱間が1間(支える柱が2本)であるものを一間社流造と呼ぶようだ。

・屋根は板葺、母屋は丸柱、向拝の柱は角柱

 流造の一般的な形式と同じ

・母屋の柱上には舟肘木

 下半円の形をしている肘木(単純な、ありふれたもの)

・妻飾は豕扠首

 切妻屋根の両端に棟木を受けるために△形に組んだものを扠首といい、豕扠首は△の中央に束(短い棒)を立てた形式

・正面は幣軸付板扉

 扉口の上方と左右の三方につく繰形付きの額縁の付いている板戸(よく見かける板扉の様式)

・三方は板壁で切目縁を廻す

 切目縁=板の張り方で外側に板の木口が見えるようにある

・向拝は大面取角柱、木鼻付頭貫を通し、組物は連れ三斗

 大面取角柱=面取り部分を大きく削っている角柱

 木鼻=貫から飛び出している部分、装飾されていることがある

 頭貫=柱と柱を上部でつなぐために柱の頭部に用いる横木

 組物=柱上に置かれ軒や屋根を支える装置

 連れ三斗=三斗はШ←こんなような形(縦棒が斗と呼ばれる)、連れ三斗は斗が4つになったもの

・母屋柱と向拝柱は繋虹梁で結び、正面には三段の階段

 虹梁=⌒と虹っぽく反った梁

 繋虹梁=柱と柱を繋ぐ虹梁

ということだが。文章だけでは本殿の姿がイメージとして浮かんでこない。実物を見たい。

と思っていたら、写真で見られたよ。600年以上前の物の割には綺麗な気がしたよ。大事に護られてきた神社なのね。文化財データベースに感謝した。

 

 拝殿は特に文化財指定されていないから本殿と同時期に建てられたものではなさそうだが、それなりには古そうだ。

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装飾も少なく、こちらも古風な感じがする。室町時代に造られた本殿と雰囲気を合わせているかのような。文化財指定されてないんだから、やっぱり見た目ほど築年数が古くはないんだろうねー。

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↑拝殿の掲額、字が完全に消えてるよー。なんて書いてあったんだろう?

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二軒繁垂木っていうものなのかな、京都の寺社っぽい感じ。

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1月に出かけた、江戸後期に造られた古大穴神社と同じような軒裏だけど、やっぱりどこか見た目の違いがあるような気がする。こちらの方が「古い」としか言いようのない見た目(明確にどこがどうとか説明できないが、そういう印象を持った)。拝殿を建て直したときに、元の拝殿と全く同じものを建てたとかなのかなー?

 

 

★★★☆☆

雰囲気あった、良かった

 

 

<源関神社>

創建年 延久元(1069)年以降?

御祭神 健御名方命 八坂刀賣命 事代主命

 

平林館

長野市文化財データベースによると、

・平林館跡とは、松代町豊栄地区の諏訪社周辺に比定されている居館跡

・沢状低地に挟まれた小高い傾斜地にあると推測されている

・現在は宅地である

・古い地図にも堀や土塁の痕跡が読み取れない

・具体的なことは何一つ分からない

とあった。

 

実際に見に行ってみた。

諏訪社というのはこんな場所↓

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村中安全所。

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諏訪社の本殿。

 

この場所は大昔の荘園で、名前を「英多荘」と言ったらしい。「英多=あがた」だそう。本当、昔のモノは読めない。延久2(1070)年には殿下御領という藤氏長者の荘園になっていたようだ。藤氏長者藤原氏の一番偉い人のことで、藤氏長者の地位に付属する土地の名称というのが殿下御領というそうだ。…荘園ってなんだっけ、と分からないのでとりあえず家族に聞いてみた。

 

・荘園とは?

 脱税するやつ

・何故脱税に繋がるのか?

 名目上は私有地である別荘の庭で、庭から農作物はとれないことになってる

 

分かったような分からんような。とりあえず、農地であれば税が課せられるが「農地ではなく非課税である庭」と貴族とかが主張し、管理人を常駐させて税取立てにくる国の役人を追い払ってたようだ。

鎌倉時代の「英多荘」の地頭(管理人)が地元在住の平林さんという人で、その屋敷がココにあったということらしい。

 

不思議な場所で、神社境内より道路の方が高い。

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道路の反対側は民家だったが、こちらは下がっている。

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何故か隣の民家の敷地と神社を結ぶ道がある。

諏訪社からは館跡っぽいものがまるでない感じで、ちょっと館跡をイメージしづらい。データベースの記述通り。

 

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裏手も何もなし。
 

 英多荘内には館の他に、清滝城というお城があった。そのお城も来歴不明みたい。この館からは結構離れた山の頂上にあるので、きっと平林館とは関係が薄いのかもしれないと思った。清滝城も古く、室町時代南北朝時代が始まった建武3(1336)年には存在していたようだ。

 

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↑諏訪社の摂社。鏑木門の祠が気になる。

 

★☆☆☆☆

何もない神社

 

 

 

<平林館>

築城主 平林氏

築城年 不明

構造 平城

 

 

 

 

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鳥居の傍に桜の古木と石柱が。

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皇太子殿下誕生記念。昭和9(1934)年に建てられたものだった。並び的に桜を生誕記念として植えたのかと思ったけど、違うのかなー。桜の木、ちょっと老い過ぎてるような気がする。

 

 

荒堀内記屋敷

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杵渕氏の家来だという荒堀さんのお屋敷跡は現在「荒堀公民館」になっている。

こちらも古くからある集落なので、周りは民家。遺構も見当たらず。

 

公民館の敷地内には祠と石碑。

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石碑の方は文字が薄れすぎていて分からない。「なんとか大神」と書いてあるように見えた。裏は萬延とかあったので幕末頃の石碑だろうか。この荒堀公民館の中には雨乞いのお地蔵様が安置されているというので、その関係のものかね? 雨乞いのお地蔵様が何で公民館にあるのかもよく分からんが。ここは昔、神社だったとかなんだろうか。

 

内記は律令制度下の職で、詔勅宣命・位記の起草・天皇の公式行動記録をつける仕事をしていた。字の上手い人が就く仕事だったらしい。よく聞く「外記」というのは内記が上げてきた詔勅などの内容をチェックしたり、除目・叙位といった公的儀式の執行を司る職、とあった。そもそも内記の仕事だった天皇の行動記録作成はいつの間にか外記の仕事になり、ここの職員は多忙になってしまったらしい。そして、最初は同等だったのに内記<外記という位置づけに変えられてしまう。平安時代以降は内記という職が衰退していった。そういう経緯で人気がなさそうな官職のようだ。

 

 

★☆☆☆☆

祠などは気になったものの、他は何もなかった

 

 

<荒堀内記屋敷>

築城年 不明

築城主 荒堀氏?

構造 平城?

杵渕氏館

古い豪族の杵渕氏。ココが発祥の地らしい。

平安時代末期の源平合戦の頃から杵渕氏はいた。養和元(1181)年の横田河原の戦いで戦死した杵渕重光という人がいたようだ。富部家俊の家来やっていたとか。二人とも平家軍所属で木曽義仲の軍勢に討たれたそうだ。

その後はどうなったのか知らないが、「杵渕氏館跡」が今も微妙に残っているので、しばらくは家存続してたんだろうと思う。一説によれば戦国時代まで存続していたという。

 

こそっと畦道を伝って近づいてみた。

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↑土塁の一部だけ残っている。堀もあったはずだが、今はなくなっているようだ。

土塁自体は結構大きいように見えた。ほんのごく一部だけのようなので、土塁から屋敷の規模を推測できなさそうだ。航空写真でこの場所を眺めたとき、なんとなく見えてくるような? というレベル。多分、杵渕さんの屋敷跡と関係なく区画整理され、民家が建てられているような気がする。

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土塁跡の一番高い場所には何か建物が。

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お社っぽいものの、空き家の気配。神様はいなさそう。地図上にも神社の記号は載っていなかった。なんだろね? 周りの家からは完全に独立している様子。

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帰宅してからこの神社らしき建物について調べてみた。正体はお稲荷さんだったようだ。近隣の民家の氏神様とか。じゃあ神様いらっしゃったのか、お参りしてくれば良かった。

 

 

★☆☆☆☆

遺構はこれだけ。周りにも何もなし。

 

 

<杵渕氏館>

築城年 不明

築城主 杵渕氏?

構造 平城

 

 

 

上記より2年後、令和2(2020)年。

綺麗になっているらしいことに気付いて、ちょっと行ってみた。

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様変わりしている…。

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稲荷社とその回りの木は変わっていないようだ。

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こんな案内板まであったよ↓

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平成22年と入っていたけど、やたら新しい物のように見える。とても10年前からあるようには見えない。別の場所から移設したようにも見えないぞ。そもそも、以前コレ見た覚えがない。

 

案内板には、

  • 所在地と現在の規模
  • 杵渕氏は「源平盛衰記」に出てくる
  • 杵渕小源太重光は「横田河原の合戦」で城資職率いる平家方・富部三郎家俊の家来として、源氏方・木曽義仲と戦った
  • 主君である富部氏が源氏方の西七郎広助に討たれたので、重光は西を襲い返し見事に首級を挙げる
  • しかし多くの敵に囲まれており、十数人倒すもそれ以上は諦めて太刀を口に咥えて馬から飛び降りて死ぬ
  • その後の時代、村上義清が葛尾城落城し越後に落ち延びていったが、杵渕備中守も同行し越後へ向かう
  • 上杉謙信に従い、杵渕備中守が川中島の戦いに出陣したときにも、何度も軍功をあげている
  • 現在、土塁の遺構には稲荷社が祀られている
  • 以前は西側に深い堀跡があり水泳も出来たそうだが、今は僅かに残るだけとなった

という内容だった。

 

土塁跡に残る稲荷社前まで進んだ。

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無人ではなく、中には神様がいらっしゃった。ご挨拶した。

 

堀跡の名残り↓

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ここが一番分かりやすかった↓

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なんとなく、綺麗になっている理由も分かるような…分からないような? 2年前に災害跡があったので。ご冥福をお祈りいたします。

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