古い豪族の杵渕氏。ココが発祥の地らしい。
平安時代末期の源平合戦の頃から杵渕氏はいた。養和元(1181)年の横田河原の戦いで戦死した杵渕重光という人がいたようだ。富部家俊の家来やっていたとか。二人とも平家軍所属で木曽義仲の軍勢に討たれたそうだ。
その後はどうなったのか知らないが、「杵渕氏館跡」が今も微妙に残っているので、しばらくは家存続してたんだろうと思う。一説によれば戦国時代まで存続していたという。
こそっと畦道を伝って近づいてみた。
↑土塁の一部だけ残っている。堀もあったはずだが、今はなくなっているようだ。
土塁自体は結構大きいように見えた。ほんのごく一部だけのようなので、土塁から屋敷の規模を推測できなさそうだ。航空写真でこの場所を眺めたとき、なんとなく見えてくるような? というレベル。多分、杵渕さんの屋敷跡と関係なく区画整理され、民家が建てられているような気がする。
土塁跡の一番高い場所には何か建物が。
お社っぽいものの、空き家の気配。神様はいなさそう。地図上にも神社の記号は載っていなかった。なんだろね? 周りの家からは完全に独立している様子。
帰宅してからこの神社らしき建物について調べてみた。正体はお稲荷さんだったようだ。近隣の民家の氏神様とか。じゃあ神様いらっしゃったのか、お参りしてくれば良かった。
★☆☆☆☆
遺構はこれだけ。周りにも何もなし。
<杵渕氏館>
築城年 不明
築城主 杵渕氏?
構造 平城
上記より2年後、令和2(2020)年。
綺麗になっているらしいことに気付いて、ちょっと行ってみた。
様変わりしている…。
稲荷社とその回りの木は変わっていないようだ。
こんな案内板まであったよ↓
平成22年と入っていたけど、やたら新しい物のように見える。とても10年前からあるようには見えない。別の場所から移設したようにも見えないぞ。そもそも、以前コレ見た覚えがない。
案内板には、
- 所在地と現在の規模
- 杵渕氏は「源平盛衰記」に出てくる
- 杵渕小源太重光は「横田河原の合戦」で城資職率いる平家方・富部三郎家俊の家来として、源氏方・木曽義仲と戦った
- 主君である富部氏が源氏方の西七郎広助に討たれたので、重光は西を襲い返し見事に首級を挙げる
- しかし多くの敵に囲まれており、十数人倒すもそれ以上は諦めて太刀を口に咥えて馬から飛び降りて死ぬ
- その後の時代、村上義清が葛尾城落城し越後に落ち延びていったが、杵渕備中守も同行し越後へ向かう
- 上杉謙信に従い、杵渕備中守が川中島の戦いに出陣したときにも、何度も軍功をあげている
- 現在、土塁の遺構には稲荷社が祀られている
- 以前は西側に深い堀跡があり水泳も出来たそうだが、今は僅かに残るだけとなった
という内容だった。
土塁跡に残る稲荷社前まで進んだ。
無人ではなく、中には神様がいらっしゃった。ご挨拶した。
堀跡の名残り↓
ここが一番分かりやすかった↓
なんとなく、綺麗になっている理由も分かるような…分からないような? 2年前に災害跡があったので。ご冥福をお祈りいたします。