お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

唐崎城

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生仁館から5分ほどの場所にある唐崎社まで来た。ここから天城山(天城城)まで行けるらしい。天城城はずっと「あまぎじょう」だと思い込んでいたんだけど、実は「てしろじょう」という読み方だそう。山の方は「てんしろやま」と読むらしい。石川さゆりのせい。また、天城城まで行かない(松代側から登った方が近いだろうなーと思ったよ)。

聖霊神がよく分からなくてスルーしちゃったんだけど、なんか明聖砦とかいう小さい砦だったみたいー。明聖霊神って地域の神様なのかしら? 千曲市文化財一覧にも名前がなく。御嶽山と彫られた石碑がいくつかあるようなので、山岳信仰とか修験道に関係しているのかしらね? 唐崎城から20分くらいだし、知ってたら行ったのになー残念。

現在地から70分の「分岐点」は鷲尾城方面に向かうハイキングコースとの分岐点らしい。天城山の先は多分、松代(妻女山)に向かうと思われる。

山の最奥には鞍骨城というお城があり、唐崎城(+明聖砦)・天城城・鷲尾城・竹山城は鞍骨城の支城とされている。鞍骨城の主が清野氏という一族らしい。この辺りの有力豪族で、川を挟んだ向こうの領主・寺尾氏と戦った一族。清野氏は、鞍骨城とその支城群を見る限り「寺尾w」って言えちゃうような規模の豪族と思える。弱小豪族(寺尾)が神の加護を得て清野に勝利したことが物凄く嬉しかったんだろう、と思った。本当にあの話は躍動感あって面白く印象に残っているわ。

 

登山口に唐崎城の由来という説明板があった。

  • 唐崎城、または朝日城、藤崎城とも呼ばれる
  • 生仁館の本城
  • 雨宮摂津守または生身大和守の居城といわれる
  • 一説には宇藤摂津守安時がここにいたとのことで、麓を宇藤坂ともいう
  • 城の本郭は東西24間(約44m)・南北14間(約25m)
  • 二の郭は東西37間(約67m)・南北19間(約35m)
  • 六の郭まである
  • 腰郭など、東西三方に段郭を三重に設けている
  • 自然の地形を利用して堀・枡形・馬出も作っている(一部崩壊?で見られない)
  • 城内には井泉跡も2カ所ある(雨宮氏が作ったと伝わる)
  • 築城年代は南北朝の末から応永時代、約600年前と推定される

ちなみに、wikiには「生仁城」という名前でページがあった。

 

ところで、宇藤摂津守安時って誰? この人のことは結局分からなかった。宇藤という苗字の発祥は熊本県宇土氏後裔)・静岡県藤原氏後裔)で、どちらもココとの関連性をあまり感じないような? 善知鳥峠っていうのが長野県内にあるが、そっち関係かなー? と思ったが善知鳥峠はココからだいぶ距離があるしなー? 善知鳥峠名の由来見たら、猟師に雛を奪われた善知鳥の呪い的な話だった。捕まえた珍しい鳥(善知鳥)の雛を売るために京へ向かう猟師とその息子を善知鳥の親鳥は追う。彼らが峠を越えていたところ、峠で酷い吹雪に遭い、猟師と親鳥はそれぞれの子を庇って凍死するという内容(この話の続きが能の演目になっているようで、猟師は地獄落ち後も善知鳥に責め苦を受け続ける内容だった。善知鳥は執念深い鳥らしい。どういう鳥か知らないが、むやみに捕まえない方が良いな)。

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登山口近くには鳥の巣が密集していた。善知鳥は海鳥なので山に巣は作らないよ。

宇藤さんは善知鳥峠とも関係ないような気がする。何者なんだよ?

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整備された道だった。なんか、猫車を押していったような轍が残っている。工事でもやってるんだろうか。

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周辺は崩れている?ようなんだけども、今日昨日崩れたような雰囲気ではない。登山道はしっかりしているし。急坂であっという間に登り口が下になってしまった。

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更に上がると。

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怪しげな何かを見つけた。奥の方の小山っぽいやつ。頂上で木が伐採されている。コレに関しては↓

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何かで完全に崩れて数年たっているっぽい。

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古い石碑が埋まっちゃっている。埋まっている石碑の文字を想像すると。庚申塔・御嶽参徳心○・奉納百番観世音かな? すぐ近くに唐崎社という神社があり、雨宮の神事では山踊りという行事が行われる場所らしい。

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 ↑この通り、管理をしているのが雨宮坐日吉神社のようだ。御嶽参(御嶽山?)の文字があるし、「山踊り」という行事が行われるし、山岳信仰の何かがあったのかなー? と思った。じゃあ明聖霊神の関係かな。里宮だったとか?

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↑唐崎社

 

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春ですよ。

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猫車の轍が微妙にある。この道は結構な急なんだけど、奥でどんな作業をしているんだろうな。伐採した木を運ぶとかかな、大変そう。

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この辺りから城域かもしれない。道は左に大きく曲がっているけど、真っ直ぐいっても何かある雰囲気(ただし、倒木が折り重なっていて進入出来ない)。多分、今日初めて見つけたちゃんとした郭かなー? 郭らしき平場は荒れていて足の踏み場がなさそうな様子だよ。
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竪堀に見えなくもないような…と思ったので、ちょっと見やすい位置まで移動したけどよく分からなかった。

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↑郭っぽい? 郭だろうけど、何が何やら…? 唐崎城の内部に入り込んでいると思うんだよ。

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ふと見ると、明らかに人の手が入ったと言えるような平場があったよ。

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先は怪しい。倒木で行けなさそう。

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ちなみに、まだ猫車の轍がある。ここから木か何かを猫車で下ろしていくの大変そう。

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鉄塔管理用道も兼ねているようだ。

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伐採した木が置いてある場所、郭跡の利用だろうか。最初に見た荒れた郭っぽいもの、段郭に見えなくもないが微妙なもの、そういうのがたくさんある。お城の規模としては大きいような感じよ。

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坂を登り切ると、土塁があった。

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先ほど横目で「伐採した材木が置かれている、郭っぽいな」と思いながら通り過ぎた平場を見下ろすような格好になった。上から見ると明らかね。

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土塁も。

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中央の盛り土とそれを回り込むように続く道は二股に分かれている(ように思う)。そろそろ本郭が現れるかもしれない。

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尾根伝いに続く道。土塁もずっと続いている。

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大きめの郭も倒木で遮られている。

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野生の水仙の脇を通っていくと、小高い丘のようなものが見えてきた。

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登山道はこの小山を避けるように続いているようだが。

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当然、この小山に登るよね!

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登った先は平場だった。

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端っこには土塁盛っている。

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見下ろせば、郭がいくつか見えた。

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本郭には水場があるという。

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あったー水場だよ!

どういう仕組みなのか分からないんだけど、ここには常に水があるらしい。最初の説明板にあった「井戸」というのはコレのことだと思う。井戸っていうから色々想像しちゃったのに、ただの溜め池じゃないか。

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本郭から先にも郭がいくつも見える。先へ行ってみる。道は急な下り坂となっていた。

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本郭をスルーして進んでいた道は、ここだったらしい。郭を利用した登山道。

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本郭を見上げる。

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堀っぽい?

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ここから先、道は急激に下っていた。さっきの本郭との出入りの坂道より長く、下って行っている。

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ところどころで荷物置き場みたいな、ちょっとした郭っぽいものがあった。

最後まで下っていって、本郭方向を見上げると、こんな感じに↓

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本日最大の見所である。

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えーと土橋なのかなー?

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深めの堀。

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そういえば、最初の説明板に一部崩壊?みたいなこと書いてあったなー。

<原文:東西三方に広狭不同の三重の段郭を廻している。地勢に依って堀・枡形・馬出と自然の要害をなしている。(一部は見られない。)又城内に井泉の跡も二ヶ所あり。>
一部っていうか、年月が過ぎていって山の手入れも微妙で伐採と放棄のせいにより、かなり崩れているのかもしれない。この場所だって、本郭から急激に下っている割には堀がイマイチ、浅い。もっとダイナミックでもいいんじゃないー?

この先の明聖霊神の件は知らなかったので、普通に引き返した(絶対そのうち行こう)。

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唐崎城は戦乱の舞台になっている。元中4/嘉慶元(1387)年に信濃の国人衆が平柴の守護所横山城を襲い、守護の軍勢を敗走させた。守護方はこの唐崎城に逃げ込み戦いに。室町時代の応永10(1402)年にも横山城に入城した室町幕府軍に対して信濃国人衆が反旗を翻して、幕府軍がやっぱり負けて、同じように唐崎城に逃げ込んで戦いになった。記録が付けられていないような小競り合いもいくつかあったかもしれない。

このお城が古くからあるのは、すぐ近くに雨宮の渡しという交通の要衝があるせいだとか。昔からある上に戦乱の舞台になりやすい、という特徴があるので拠点として整備しようにもボロボロになってたんじゃないかな、とちょっと思った。400年前の放棄された山のお城でもある程度の防御力を保っているのだってあるしさ。武田信玄さんとかが生きている時代基準でも築城から200年ほど経っている古城扱いだったのかも?

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また、天城城と鞍骨城の間に二本松峠という峠道があるらしい。いつ出来たか分からないが、倉科(鷲尾城のある集落、峠へは鷲尾城背後から登るようだ)から松代・清野(清野氏の本拠)へ抜ける道。メインのお城である鞍骨城に向かう場合も二本松峠経由が一番近いようだ。戦略上こちらの峠道の方が重要になったので、そのルートにない唐崎城の価値が落ちてしまい、そんなに手入れしなかったのかもしれない。

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本郭の下まで戻ってきた。本来の登山道を歩いてみようと思う。

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ここから先、郭が続いているようだ。

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大袈裟にいうとL字というのか、本郭が角で2方向に郭群が伸びている感じ(先ほどの明聖砦方向は高低差が激しいだけで距離はごく僅かな長さ)。L字の長い方は雨宮の渡し方向、短い方は鷲尾城方向へ伸びている。

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すぐ正面に見える山に鷲尾城がある。

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気のせいなのか、鷲尾城方向に伸びる郭達はしっかりしているような? 雨宮の渡し方向の郭達よりキチッとしている風。こちら側には伐採した材木が転がっていないので、雑然・荒廃した雰囲気がないからかもしれない。

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右手は本郭がある。

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だいぶ高い。

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この辺りの雰囲気は悪くなかった(というか、雨宮の渡し方向の郭達がしょぼすぎただけかもしれない)。

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また何かの花が咲いてる。

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そんな訳で帰りますーバイバイ本郭。

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だいぶ下界に近づいてきた。

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到着!



★★☆☆☆
本郭の井戸の仕組みが知りたい、湧いている様子はなかったが溜め池のように水が涸れない風だった



<唐崎城>

築城主 生仁氏・雨宮氏

築城年 不明


そのうち明聖砦に行こうと思う…。

信陽城主得替記「下伊那郡郊戸庄飯田郷長姫城」

別名:三本杉の城、家山の城

この城は信州南陽の地にある。平山城で南は切岸で眼下に松川が流れ。北は谷川を隔て、その先にも野低川があり。城東で松川と(野低川が)落ち合い、その30町東で天流川(天竜川)と合流。

 

昔は南追手口といい、今は西向きの大手の外郭にも家屋敷が縦横に立ち並び小路が延びる。1里(約4km)西へ行けば山々が連なり、さらに西へ6,7里(約24~27.5m)行けば木曽の深い山中に至る。城は左虎口、右虎口、水の手口、七曲がり口、更に本丸にも忍虎口がある。町の大きさは19丁(約9917平方メートル、東京ドーム4個分)。屋敷の数は1000軒、城下町は三方に広く広がっている(東側には松川・野底川・天竜川があるので、北南西に城下町が広がっている?)。

 

地元の伝承では、元暦年間(1184~1185)に四国阿波国の豪族・近藤(藤原)周家という人が源義経の家来となり、その後に鎌倉で源頼朝に仕え信州飯田郷の地頭になり、これが初代城主と言われている。家臣の竹村、久保田、吉川の3名を伴い、文治3(1187)年に移住。周家は義経に付き添い北陸まできたが、そこで解雇されてしまい信州にきて家を興したとも言われる(これは坂西家の創始でもあるという)。また飯田郷から農夫の源蔵、与作、藤助の三人が鎌倉へ行き、地頭をお願いしたとも言われている。

まず松原宿に落ち着いて、郷民の支持を集めてから屋敷を構えた。のちに源蔵→木下源蔵、与作→近藤与作と改名して飯田郷に住んだ。藤助→原助左衛門と改めて別府村に住む。その頃までには別府村は飯田郷の所属になっていた。

 

9年後(建久6(1195))年、飯坂に城を築いて引っ越す。

飯坂城↓

それまで住んでいた松原宿の館は近藤林と呼ばれるようになった。

周家の子は家名を「坂西」と改め、坂西淡路守と名乗るようになる。その子供は坂西長門守と名乗る。

 

飯坂城に3代住んだ。現在の飯田城には修験者の修行所があり、こちらに城を作ろうと山伏と飯坂城を交換して貰った。飯坂城は今で言うところの愛宕山で、飯坂城跡は飯田城から南西に15丁(約1.6km)離れた場所。現在の城の本丸奥にある郭が山伏丸と呼ばれる理由はこれ。山伏丸の奥に小谷→小山があるが、ここに熊野権現が祀られて当城の守り神としている。

 

坂西家

  1. 近藤六藤原周家
  2. 西淡路守(正治2(1200)年まで)
  3. 坂西長門守周定(承元4(1210)年まで、ここまで飯坂城在住3代、周定は政定・若狭守とも名乗ったと言われる)

 近藤林在住9年、建久6(1195)年に飯坂城移住

  1. 西淡路守周次(建保年間(1213~1219)より飯田城在住)
  2. 坂西兵庫頭
  3. 坂西若狭守
  4. 坂西伊予守
  5. 坂西但馬守(伊予守の弟、承久3(1221)年まで)
  6. 坂西帯刀周之
  7. 坂西因幡守周重

 家名を一色に改める、理由は分からない、一色家は源氏だが坂西家は藤原氏

  1. 一色弾正周信(因幡守の弟)
  2. 一色内蔵助(周信の弟)

 これまでの知行高(軍役の賦課基準)は丁(所有面積)で表されていたが、応永頃までに永銭(永楽通宝)で表されるようになる(所有する土地の収穫高を通貨換算した量で表した貫高制へ移行)。一色弾正の本領は後に千貫になった。文永年間(1264~1275)、坂西氏に戻す。

  1. 西淡路守周照(内蔵助の子)
  2. 坂西式部周利(周照の甥)
  3. 坂西八郎九郎周常
  4. 坂西左衛門佐周次(弘治年中より)

弘治2(1556)年から武田晴信の家来になる。軍役は60騎だったが、実戦になれば100騎で出陣した。周次は永禄5(1562)年戦死。子がいなかったので弟の坂西織部亮に継がせた。

  • 坂西織部亮(永禄5(1562)年)

この弟が家名を継ぐにあたり晴信から疑いを持たれて、小田原の北条氏政を頼り領地を離れていった。

永禄5(1562)年、隣の領主松尾小笠原氏の領地を奪おうとし、当主の小笠原信貴が晴信にそれを訴えた。6月はじめ、信貴が大軍で攻めてきて防戦したがかなわず。坂西氏は近藤茂介に書状を持たせ木曽へ送ったものの茂介は信貴の家臣に生け捕られてしまった。これにより百人余りを市瀬に送った。織部亮は風雨の激しい夜にこっそり逃げようとしたが伏兵に囲まれ、大将の長忠はじめ家臣は残らず討ち死にした(今の勝負平という所で)。

  

ある人いわく、飯田城は小笠原宗満が築いたという。しかし近藤周家は確かに松原宿(今でいう近藤)に館を構えたが、この家は断絶している。系図もない。一色弾正が川南(松川の南側)まで領地を広げたとあるが、この時代は松尾小笠原氏が隆盛だったので嘘くさい、古老の妄想だろう。この話は信用に足らず。

 

第96代天皇光厳院の時代(1331~1346)、当国守護の小笠原貞宗の3男・小笠原宗満が建武2(1335)年、愛宕の西に城(飯坂城)を造り居住、名前も坂西刑部少輔と改める。宗満の子は坂西由政。応永年間(1394~1428)開善寺の大鑑禅師の元で修行を積み、入道し正永と号して風越山の麓で静かに暮らした。

由政の子・長由は26歳の若さで亡くなり長由の遺児・小太郎は幼少だったので長由の弟・長国が家督を後見していた。長国は応永7(1400)年の大塔合戦長野市)にて戦死。

小太郎は9歳で当主となり伊予守政忠と名乗った。永享元(1429)年、飯坂城と愛宕を交換して飯田城を造る。

政忠の子・隼人正政重(孫六郎)は小笠原政康の家臣として永享年間(1429~1441)に関東結城へ出兵する。家伝にある小笠原孫六郎とはこの人のことである。

政重の子・伊予守政之は知久頼元(?~1555、武田信玄により処刑)と数度合戦しているが、小笠原貞忠の家臣下条伊豆守の仲介により和睦し、政之の知行地四カ所を知久に譲り、政之は知久の娘を娶っている。不幸にも知久の娘は早世し、後妻は小笠原左馬介の娘。

政之の子・若狭守長重(小太郎)と伊予守長忠(中比刑部)は享禄元(1528)年5月28日の同日生まれ。永禄5(1562)年、隣の松尾小笠原氏領内を奪おうとし、領主の小笠原信貴は武田信玄にこの件を訴えた。同年8月に武田と小笠原の大軍が飯田城を攻めてきた。坂西は多勢で防戦したが、8日長忠は手傷を負い無勢となってしまった。11日夜「織田信長の軍門に降ります」という内容の書状を近藤茂介に持たせ木曽へ向かわせたが、近藤は小笠原氏の家臣・清水に捕まる。清水は翌日小笠原信貴にこれを訴え、追手を遣わした。清水・増田・上野らをはじめ数十人を伏兵として一瀬に置いた。坂西永忠は家臣の湯渡・代田・竹村・久保田らを引き連れ木曽へと落ち延びようとしたが、伏兵に長忠(永忠と改めている)は前後取り囲まれ、長忠以下残らず討ち取られてしまった。このとき松尾家から五郎八清但馬入道へ感状を賜った。

 

  • 武田晴信城代として永禄(1562)5年高遠より移る 秋山伯耆守源直義*1

    2000石、入道しており晩霞齋という 

    50騎を持ち、他に信州伊那衆200騎の与力を持つ。伊那出身の忍者の松沢源五郎・小田切与作・林甚助の三人を諏訪へ送り込み様々な情報を入手していた。配下の軍勢は2000人という。

      

    天正元(1573)年信玄が死ぬ。

    勝頼は東濃へ発ち織田信長の小城18カ所を落とす。春、勝頼は秋山に岩村城代を命じ、秋山は岩村城へ移った。飯田城代は伊那の豪族が100日程度づつの当番制とした。天正3(1575)年に織田信長は(岩村城に)攻め込み秋山氏とその家来もすべて討たれた。

     

    • 坂西織部亮、天正元(1573)年より再城主

    この人は信玄が亡くなったあと北条氏政に取り持ってもらい、勝頼に許された。氏政が詫びを入れ、勝頼はそれを許容し、元の領地をそのまま返還してもらった。天正10(1582)年信長が勝頼退治ということで木曽義昌を配下に引き入れた。

     

    • 天正元年から保科越前守正直入道が伊那郡代に着任。

    信長は木曽から攻めてきたが、信長の嫡子である信忠が伊那下条から攻めてきた。勝頼はこれを聞くと保科正直、小幡因幡守、小幡の弟の五郎兵衛、波多野源左衛門を差し向けて飯田城に籠城した。が、下条信氏(武田氏家来で信玄の義兄弟)の一族の下条氏長が織田に寝返り、(2月6日)その手引きにより織田軍の川尻与四郎(秀隆)・森勝蔵(長可)・団平八(忠正)が攻め込んできた。

     

    (下条信氏はココ↓に詰めていたようだ)

    浪合(阿智村浪合、美濃国と接している交通の要衝)の領主・原万四郎が幼少なので心配になり保科正直は浪合に陣取ろうかとしたが。

    (↑滝之沢城がある平谷と原氏の領地の浪合はお隣のようだ)

    織田軍がすでに平谷から入ってきていると聞いて保科正直は浪合にいくのを取りやめた。

    松尾城主小笠原信嶺も降伏し人質を織田に出した。松尾城と飯田城は1里も離れていないので、坂西氏は城下町を焼いて、敵の侵入を防ごうとしたが。2月14日には大軍がきた。そのため、城兵は飯田城を捨て高遠城に退却。坂西は西の山の荒れたような道(現在の大平街道?)を使おうとしたが、小笠原信嶺の案内で清内路(木曽谷)側にも織田が軍勢を遣わして前後挟まれてしまったため2月15日市瀬の山中で自殺。坂西家17代・367年の歴史がこの日終わった。自殺した場所を勝負平と呼ぶ(大平街道に市ノ瀬橋があるがその辺りだろうか?)。

     

    信忠は飯田に2,3日いた。人馬を休めたり近隣の領主が降伏を願い出たら本領安堵したりした。その後は大島城を攻めた。大島城は大島氏と日向氏が守っていたが、加勢にきた人々に飯田城が落ちたと聞き、大島城も捨て逃亡。飯田城からは3里しか離れておらず、すぐに落城した。そのあと飯島城も落とされた。17日に飯島1泊。飯田城代として毛利秀頼を置いて、信忠は高遠へ逃げた武田軍を追撃した。織田親子は合流し、甲府へ攻め込み勝頼は滅亡した。信長は甲府に戦後処理担当者を置き、駿府から東海道経由で帰宅。信忠は伊那街道を使い飯田城に戻る。城下で勝頼親子と武田信廉(信玄の弟)をさらし首にした。

     

    • 天正10(1582)年から毛利秀頼(新介、5万石)が城主。

    毛利秀頼は武勇に優れ、今川義元の首を取ったこと出世した*2。織田親子が京都で明智光秀に討たれた報に驚いて、飯田城を明けて上洛した。徳川家康はこのとき上方におり、大阪の堺で情報を聞くとすぐに少人数で伊賀国の山道を抜け、伊勢の白子から海路で浜松城に帰宅。甲斐信濃両国で降伏した武田家遺臣を集めて、その中で武勇に優れた者達を即採用した。7月信濃へ攻め入り降伏してきた土豪の本領を安堵した。この時、家康は三河遠江駿河・甲斐・信濃の5カ国の主になった。

     

    • 天正10(1582)年8月より、菅沼大膳亮源定利が城代。徳川氏の譜代、三河武士、菅沼刑部定直の子、5万石の領地

    北は宮田から南は三河・美濃・遠江の各国境まで預かる。郡内の豪族は皆菅沼の配下となった。天正16(1588)年、太閤秀吉へ家康は定利を従五位下・諸太夫に叙して欲しいと働きかけた。天正17(1589)年定利は飯田城で病死*3した。子の小大膳定次12歳は浜松におり、父の定利病死の報を受け駆けつけたが間に合わなかった。菅沼家の執権職は石野新蔵と朝日千助。

    • 天正17(1589)年より、菅沼小大膳定次*4

    天正18(1590)年8月1日、家康は関八州の太守となり、小田原北条氏の旧領国を引き継ぎ江戸城に入った。信濃国は太閤秀吉の直轄領になり、菅沼定次は上州吉井に領地替えした。

     

    • 天正18(1590)年より8月より再城主、羽柴河内守従四品侍従藤原秀頼

    豊臣の姓を賜る、初名は毛利新介、中比河内守

    この年小田原北条氏が滅亡、秀頼も戦功があった。太閤秀吉の命で移る。本領は5万石で今回3万石が加増された。計8万石の伊那郡を治める。文禄元(1593)年朝鮮へ出陣するため海を渡ろうとしたが出来ず、戦功もあったのだが帰陣の途中で急死した。ただし、天正20(1592)年12月8日に文禄と改元したので、 3年在城した。

    • 文禄2(1594)年より 京極修理太夫従四品源高知*5 12万石のうち7万石加増

    伊那郡のうち240の村10万石と筑摩郡のうち木曽の妻籠、馬込、美濃の落合、中津川まで2万石、合わせて12万石を治めた。のち丹後の宮津に所領替え。この高知の代に城下町を建設したという。文禄5(1596)年12月27日慶長と改元した。

    ある書物には、慶長5(1600)年高知は美濃関ヶ原に出陣し武功があって、慶長6(1601)年丹後宮津に所領を替えたとある。

    この時代、大阪が大変賑わっており、伊那街道を西側の山の手に移動させた。修理太夫へ申しつけ、飯田・市田・原町・大嶋原町・片桐町・飯島町を現在の場所に建設させた。

     

    • 慶長6(1601)年より、下総古河より所領替え 小笠原兵部大輔源秀政

    初名は上総介、5万石。前年、関ヶ原にて秀政武功有り。本領3万石とこの度2万石を加増された。慶長18(1613)年、秀政は松本18万石に所領替え。当城はそのまま当分お預けとなる。老臣の光三郎左衛門に組を付けて一緒に生活させた。地方は美濃八十一鱗*6の領主・千村平右衛門重長へ預け、町より8、9里西の箕瀬羽場に陣屋を建て、これを役所とした。これまでの城は南に追手があったが、秀政の代に作り替えられたという。しかしながら、町家は京極高知の時代に広げられたという。今の三の丸にはその頃家臣の屋敷が建ち並んでいた。慶長19(1614)年大坂冬の陣があり慶長20(1615)年大坂夏の陣大阪城が落城(5月7日)した。その年の7月改元があり元和となった。13年在城。

     

    慶長6(1601)年から小笠原兵部大輔源秀政5万石領。秀政は小笠原信濃守長清から8代目の子孫で兵庫頭政長11代の嫡流。武蔵古河から所領替え。慶長6(1601)年から18(1613)年まで当城に居住。同年筑摩郡松本城へ所領替え。この時、飯田城の天守松本城へ移築させたという。この後はお預かり(天領)となる。慶長18(1613)年から元和2(1616)年までの4年間。

     

    ある書には小笠原兵部太夫秀政松本へ所領替えの後、飯田城は秀政の老臣光三郎とその組付従に、地方は美濃八十一鱗の領主・千村平右衛門に預けられた。この城から7,8丁西に行った箕瀬羽場に陣屋を建て役所とした。その後、今の荒町へ移り、これは明暦年間に脇坂淡路守と千村平右衛門が相談した結果の移転である。阿良町へ引っ越し。敷地は1900坪。伝馬町の西裏に茶畑8枚あり。千村が管理している部分は6000石余りだった。

    元和元年より高遠城主保科弾正忠源正直が飯田城お預かりとなり、その家臣が守った。

     

    • 元和3(1617)年より上総*7大洲より 脇坂淡路守安治*8 甚内→中務少輔、5800石余

    脇坂氏は藤原氏の庶流で、野に下ってから長い年月が経っている。近江脇坂村の藤助という人が新村太郎右衛門の下人になったが、後に武力を生業として渡世を送り地方で3石を得た。また太閤秀吉も凡俗の子供だった頃に藤助の家で働き、この家を逃げ出してからは方々へ行き美濃で松下嘉平治に仕えて侍となったが、その家からも逃亡し信長に直訴し仕えるようになってからはどんどん出世していった。彼は藤助の子である甚内を探し出し、300石で召し抱えた。脇坂家の家紋はナデシコだったが、ある時秀吉が敵の城を攻略中に輪違(紋)を金糸で付けた旗を出して諸軍に命令する中で、明日の合戦で一番乗りする者に旗をやると言った。兵士達は無言で顔を見合わせたがその時脇坂甚内は末席から進み出て、ソレください明日一番乗りになるからと広言して旗をもらった。宣言通り翌日の合戦で一番乗りとなり名をあげ、秀吉に誉められた。近江賤ヶ岳の戦いにおいては(特に功績を挙げた)七本槍の一人となる。このとき加増された5000石を合わせて5300貫、大和鷹取城主になった。また淡路洲本城主にもなる。この時には2万石になっており従五位下に叙され中務少輔に。慶長15年伊予に引っ越しを命じられ、大洲5万石を家康より給わる。今5千石を加増され当城にやってきた。領地は城より、北へ7里(約30km)離れた(駒ヶ根市)赤須、南は3里(約12km)離れた瀬川、東は供野から伊久間知久平までの46村、下条領のうち阿智原から三河国境の新野まで28村、上伊那の箕輪領のうち御子柴から羽広まで23村で計5万石。この他の5千石は上総国一ノ宮に加増分の領地があった。寛永3(1626)年8月6日安治亡くなり戒名は隣勝院*9

     

    • 寛永3(1626)年より 脇坂淡路守従五位下藤原安元 5万3千石余

    本領より上総国長柄郡一ノ宮の2千石を弟の六右衛門安全*10へ2千石を分知、承応2(1653)年死去。戒名は八雲院。父は安治・法名隣政院、祖父は藤介安時・法名林華院。

     

    • 承応2(1653)年より 脇坂中務少輔従五位下藤原安吉

    老中堀田加賀守紀正盛の次男。安元は嗣子がおらず、養子を取り安元の後の家督を継いだ。綱吉の代に安政と改名。万治3(1660)年安吉の実の兄である堀田上野介正信が上命に背き、領地没収の上安吉のいる飯田に引き取るよう幕命が下り蟄居した。我儘放埒がこの頃に露見して江戸まで噂が広がり、寛文12(1672)年5月将軍の命令を記した正式文書で安吉を江戸に呼び、6月安吉は江戸城に登城した。播磨龍野*11へ所領替えを命じられた。

     

    承応2(1653)年から脇坂中務少輔藤原安吉5万3千石領す。後に安政と改名。寛文12年まで20年間居住。将軍の命令で江戸へ召し出され、早速向かい、6月には江戸城へ登城した。播磨龍野へ所領替えを命じられる。これは前年、実の兄である堀田上野介が将軍の怒りにふれ居城の佐倉を取り上げられた上、飯田にお預けとなる。実兄の素行の悪さが幕閣にも知られるようになってしまったためという。

     

    当城は下野烏山城主の堀美濃守にかわり、引っ越し料白銀二千貫目で下野から越してきた。7月23日親昌の家来が先達としてやってきて、上使の下知を請い、飯田領を引き渡された。8月14日親昌入部。この時の引き渡しの上使は神尾若狭守と大久保次郎兵衛という二人の代官だった。

     

    7月5日引き渡し、この時の上使は神尾若狭守、大久保次郎兵衛。

     

    堀田上野介は蜂須賀家にお預けとなり、阿波国へ配流された。脇坂家、安元の代の執権は脇坂内匠、脇坂内膳、本城源太夫。安吉の代の執権は脇坂玄蕃、脇坂仁右衛門、脇坂新左衛門。飯田領は寛永10年の検地以降石高5万石にて、米俵8万俵納める。脇坂家父子孫3代56年在城した。

     

    • 寛文12(1672)年より下野烏山より 堀美作守従五位下菅原親昌 2万石 

    この堀氏は先年越後上杉景勝の旧領を統治していた羽柴左衛門督四位侍従秀治の弟・羽柴美濃守親良の嫡子で、祖父は堀久太郎秀政という。(祖父の秀政は)越前の国主となり、羽柴北ノ庄の侍従、左衛門督と号した武略の達人である。慶長15(1610)年、堀忠信の代で家中に騒動があり家が滅亡した。秀政の嫡子・秀治の次男が親良で、秀治の嫡子が忠信である。

    親良はその当時大名ではなかったが*12、後に加増され烏山に移る。城付きで2万5千石。このうち3千石を親昌の次弟・孫太郎に、2千石を三弟・三太郎に分知した。家督の3万石の飯田領は下郷14村、上郷13村に渡り、この他城外御用現米*13千石もあった。寛文13(1673)年7月16日江戸にて逝去。大玄院と号した。親良は東江寺宗月大居士。

     

    • 寛文13(1673)年より、同年9月21日延宝と改元 堀周防守従五位下菅原親貞 2万石

    貞享元(1684)年、将軍綱吉の代に2万石などの目録を頂戴する。貞享2(1685)年松平越後守三位中将光長が没収された越後高田領の在番を親貞が仰せつかるが、高田在番中に実子二人が父より先に亡くなった。親貞も大病を患い11月8日高田で死去。嫡子が無かったので立石領主近藤織部の子・千之助を養子とし家督を継がせた。越後国高田の領主はこのような災難続きで、上杉氏が数百年領地としてきたが慶長元(1596)年召し上げられ堀久太郎秀政に与えられたが、

     越前太守羽柴左衛門督秀政の嫡子・左衛門秀治賜り、国主となる

    嫡子の忠俊の代でお家騒動があり没収、配流となった。

    その後、家康の第九子・松平上総介忠輝の領国となったが、悪逆無道な振る舞いにより家を取り潰され飛騨高山へ配流、後に伊勢朝熊に移る。それから当国の諏訪へお預けとなる。越後国は越前の一伯*14が治め、一伯の子・光長の領地となるが、これまた逆臣の小栗美作の悪逆な振る舞いにより家が滅亡した。今回も堀親貞が在番中の急病で死去した。前の越後守秀治より4代目則ち親貞である、紹隆院と号した。飯田城の御用米は親貞の代、延宝9(1681)年幕府が200石必要として5月10日浅草御蔵に上納。残りの500石は飯田城の御囲米となった。

     

    • 貞享2(1685)年より 堀美作守従五位下菅原親常 幼名千之助、後に又七郎、2万石

    堀家の執権職の堀宇右衛門、石田平右衛門、安富勘右衛門、野村善左衛門。元禄10(1697)年3月7日江戸で病死、享年25歳。芳林院と号した。これもまた1子なく祖父親昌の弟・外記(孫太郎)親泰の長子・長吉が養子となり跡を継いだ。親常の時代の執権職は安富勘右衛門、堀新五左衛門、石田嘉平治、岩上治太夫

     

    • 元禄17 (1704)年から 堀大和守菅原親賢 幼名長吉、のち石見守

    正徳5(1715)年11月28日、大阪在番所*15青屋口において急死。32歳。東明院と号す。執権職は堀新五左衛門、安富勘右衛門、嶋地十右衛門、三浦唯右衛門、中山甚太夫

     

    • 正徳6年正月家督 堀若狭守菅原親庸 幼名一学、9歳にて家を継ぐ

    享保4(1719)年13歳で従五位下太夫に叙される。表向きは15歳。享保9(1724)年10月4日19歳で飯田にやってくる。享保13(1728)年4月江戸参勤、同年7月江戸にて病死。22歳。子はなし。弟の奥之丞が家督相続した。

     

    • 享保13(1728)年より 堀美濃守菅原親蔵 幼名奥之丞、のち右衛門佐

    親庸の代の執権職は堀新五右衛門、安富勘右衛門、野村善左衛門、中山弥五右衛門。享保15(1730)年9月右衛門佐に叙される。元文5(1740)年美濃守と改める。また大和守と改める。

    延享2(1745)年2月18日疱瘡にて死去。禅林院と号す。

     

    宝暦年中(1751~1764) 堀大和守菅原親長

    安永年中(1772~1781) 堀河内守菅原親忠

     

    (親忠の)幼名忠蔵、山城守、のちに大和守、河内守と号した。

     

     

     

     

     

     

    *1:秋山伯耆守直義とは、秋山虎繁(信友)という人物のことらしい。この人は、

  • 天文22(1553)年葛尾城城代
  • 大島城の城代と伊那郡の守備を任される(上伊那郡代)
  • 永禄5(1562)年飯田城代を兼任
  • 天正元(1573)年岩村城代を兼任
  • 天正3(1575)年長篠合戦、織田信長により処刑

という経歴で、高遠云々は、弘治2(1556)年~永禄5(1562)年まで高遠城主だったという記録もあるかららしい。

*2:首級を挙げたのは毛利新介という人物。毛利秀頼は尾張守護の斯波義統の子らしいとされ、父の暗殺時に毛利十郎という人物に助けられ養子になっている人で毛利新介とは別人

*3:wikiでは慶長7(1602)年死去。そのため、定利が上州吉井に転封→関ヶ原の戦いに参戦→実子がおらず養嗣子を取った、とあった

*4:菅沼定次という人物は見つからず

*5:毛利秀頼の娘婿で、秀頼の遺領のほとんどを受け継いだ

*6:くくり

*7:伊予の誤記?

*8:子の安元は城主になっている

*9:臨松院

*10:末弟・安総

*11:当時物凄く荒れ果てていた

*12:一族の人間と対立し出奔中に宗家が滅亡→滅亡後に領地を与えられた

*13:城米=備蓄米

*14:松平忠直の号

*15:大阪城警備、青屋口加番

飯田城

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飯田市ではここに泊まった。

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飯田城の跡地に建つ旅館。飯田城の一番奥まった場所にあり、旅館は崖の上にある。

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客室から見る眺めは。

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凄く良かった。飯田市の中心がココらしい。

旅館の近く(というか飯田城の跡地)には市役所・図書館・美術館がある。

 

旅館の成り立ち↓

  • 明治8(1875)年 飯田城の城守だった人が城址の一部を譲り受け、料亭を始める
  • 昭和(戦後) 進駐軍が飯田にやってきたが、宿泊施設がなかったために急遽旅館を開業
  • 平成7(1995)年 温泉が出来た

不思議な変遷の旅館であった。

飯田市内は戦後すぐ昭和22(1947)年に飯田大火という大きな火災(市街地の7割が灰となり、被害総額は現在の価値で200億円)が起こり、その後の街の復興にはGHQが大きく関わっているそう。そのとき災害派遣された進駐軍のための施設だったのかも。街割や防火施設の設置などGHQ主導のため、珍しいラウンドアバウトがあったりする。

 

ここの旅館、温泉がすごーく良かった。ここの温泉はぬるっとしててすべすべになったよ! 日帰り温泉もやっており、チェックインの時点で「日帰り温泉やってます、9時くらいまで混雑してます」と謝られた。

 

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飯田城の内部は↑こんな感じ。旅館は山伏丸という位置に立つ。飯田城を作ったのは坂西氏という一族らしい。

  • 坂西氏は小笠原貞宗の3男・宗満が飯田郷の地頭職となり坂西孫六と称したのが始まりらしい
  • 初代の小笠原宗満(坂西孫六)は正中年間(1324~1326)生まれ、永和二(1376)年死去、飯田郷に来た時期は貞和年間(1345~1350)頃とされる
  • 小笠原氏中興の祖・小笠原貞宗(1292~1347)は現在の飯田市生まれ(小笠原家は伊那郡伊賀良荘の開発領主だったそうで、この荘園に代々住んでいたらしい)
  • 飯田郷は伊賀良荘の隣

伊賀良荘は現在の飯田市から下伊那郡南部(南北10里 、東西5里)、郷戸荘は飯田市街地から北側と高森町の範囲のようだ。飯田市座光寺に伊那郡衙が置かれ、郡衙のある場所を郷戸と呼んだために郷戸荘と名前が付いたらしい。飯田郷というのは郷戸荘の一部を指している。伊賀良荘と郷戸荘飯田郷は松川を挟んだ隣同士ということらしい。

 

↓松川は飯田城から見えたよ

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飯田城がある場所が飯田郷なんだろうな。 

信陽城主得替記」という本の飯田長姫城という項目に、各時代の城主の来歴が詳しくに書いてあった。

この書物は主に戦国末~江戸時代半ばの信濃国内の武家の盛衰と交代について書かれているという。お城や番所などを挙げて、その歴代の主の経歴をまとめたもの。本自体は昭和8(1933)年発行だが、編纂された時期は元文年間(1736~1741)頃と考えられており、その理由は「各経歴がその時代で終わっているから」。確かに飯田長姫城の項目でも詳しい来歴は元文辺りで止まっている(ただし、その後の飯田城主も書き加えられていて城主の名前のみ2代分あった)

編纂者は全く分からない。特徴としては南信濃の記事が詳しく北信濃に関する内容は薄っぺらいとのこと。編纂者は伊那か諏訪の人ではないか? とあった。信陽城主得替記は写本が多く残されているそうで、初期のものと思われる本を所持している人の名前と在住地も列記されており、その全員が南信の人だった。

 

簡単に書くと

  1. 松尾小笠原家の分家・坂西氏が飯田城を作る。分家の名前は昔この土地を治めた名家・坂西氏(すでに絶えた家系)から取る→武田に滅ぼされた
  2. 武田氏領、城代として秋山虎繁
  3. 武田氏が滅ぼされて織田氏領、城代は毛利秀頼
  4. 織田氏が滅ぼされて徳川氏領、城代は菅原定利
  5. 徳川氏が関東に移ると毛利秀頼が城主に
  6. 毛利秀頼死去のため、娘婿の京極高知が城主に
  7. 小笠原氏が城主に
  8. 幕府領
  9. 脇坂氏が城主に
  10. 堀氏が城主に→明治維新で廃藩

信陽城主得替記の飯田長姫城の内容は「本当なの!?」と言いたくなるような内容もあり、資料としてはどういう位置づけのものなのか分からないが、話としては面白かった。脇坂氏とか。堀氏は相当呪われてるんじゃないの?(上杉の呪いかなw)みたいな勢いだし。

 

飯田城の最初は山伏丸と呼ばれた、現在旅館が建つ箇所らしい。ここからどんどん拡張されて、現在の銀座3・4丁目信号機付近が追手門跡らしく。

ここら辺りまで城域だったようだ。

 

最終的に本丸は現在の長姫神社に作られたそうだ。

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説明板が2つあった。古い方には、

  • 姫神社・柳田館・日夏館の用地
  • 南北100m、土塀で囲まれていた
  • 本丸御殿を中心に7棟の建物があり、400年余り存在した
  • 大杉が生い茂り陰気で建物も大きすぎ、城下町より離れているという理由で公式行事以外は使うことがなくなった
  • 普段の執務は桜丸という場所をメインで使った
  • 長姫城とも呼ばれる
  • 遺構は柳田館と美術館の間の空堀跡、神社裏の石積土塁跡、観耕亭の碑
  • 境内に長姫神社由来碑(三条実美書)がある
  • 三宜亭旅館の用地になっている
  • 東端には武具庫3棟と番所が置かれた山伏丸と呼ばれる内郭があった

姫神社境内↓

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三条実美の碑というのが、↑上の写真の石碑のようだ。石碑の内容は、

多分上記のような事が漢文で書かれているみたい。

この神社には、堀秀政(堀氏出世のキッカケになった人)、堀親良(秀治の次男で堀宗家内が揉めている→滅んだ、という変遷の中一族を離れていたためにお咎めを受けること無く堀氏再興させた人)、堀親昌(親良の次男で飯田藩主堀家初代)の3霊が祀られ、俗に「ご三霊さま」と呼ばれているそうだ。

元は東京の堀家菩提寺・東江寺というお寺さんに祀られていた三霊神を、嘉永3(1850)年、当時の藩主堀親義が飯田に遷し、飯田市内の普門院に神殿を作り祀った。明治に入り廃藩後は藩主家も城を出て別の場所に引っ越したが、明治13(1880)年旧飯田藩士が協議して最初は飯田城の二の丸に、明治33(1900)年現在地に社殿が出来た。

 

新しい方の説明板には、内容としては古い方と同様だったが本丸の図があった。

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そして神社の周りは高い杉で囲まれていた。

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観耕亭がこれ↓

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安政6(1859)年に建てられた碑で、説明板によると、

  • 飯田藩主堀親義は文武に励み、折に触れ城外に出て山水を賞することを楽しみとしていた名君
  • が、外出すれば働いている農民の邪魔になると思いついた
  • そのため城内に小亭を造り働いている農民を眺めることにした
  • 賢者だ、まさに仁政の人

この堀親義という人のwiki見たら、「病弱、凡庸で父に嫌われた」「ケチ大名と呼ばれ古着で蔵がいっぱい」「家臣に押込められた」など賢者でもなく仁政を施した人でもなさそうだった。親義の父親、先代の飯田藩主は非常に賢い人物だったようで、幕府老中にまで出世していた。

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観耕亭とは関係ないが、甲子の碑もあった。こちらにはなんの説明もなかったが、商売繁盛や五穀豊穣を神様に祈るお祭りに関係する碑だと思う。観耕亭とセットでもおかしくないかも。

 

日夏館↓

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日夏耿之介(1890~1971)という飯田市出身の文学者・詩人の記念館だそう。地元の名士の家に生まれた人で煌びやかな経歴の持ち主。この人の祖父は愛宕神社(元飯坂城)の宮司だったそうで、元飯坂城の中にあった自宅で晩年過ごして亡くなっている。この建物はそのお城跡にあった自宅を復元したものだそうな。

 

柳田館↓

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民俗学者柳田国男(1875~1962)の記念館・伊那民族学研究所。この人は名前だけ知ってる程度だけど、長野県の出身者じゃなかったと思ったが。柳田国男兵庫県出身だけど旧飯田藩士の柳田家に養子に入ったという縁らしい。

世田谷区成城にあった柳田国男の書庫だった建物を移築したんだそう。

 

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この2つの記念館を建てる際、用地の発掘調査を行ったとあった。建物周りの井戸跡やら礎石みたいなのは、本丸時代の建物群の跡のようだ。

 

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この辺りから二の丸で、今は飯田市美術博物館がある。目の前の道が城内のメインストリートでまっすぐ行くと追手門(大手門)、銀座3,4丁目交差点となる。城跡は明治維新後に筑摩県の飯田市庁舎が置かれたそうで。大手筋には今も公の建物が多かった。

 

藩主居館跡は現在長野県の飯田合同庁舎に↓

 

合同庁舎の敷地内に見えるのが桜丸御門(御守殿門)という門で、これは大名家に嫁いだ将軍家の娘に許された格式ある門だそうだ。飯田藩主家には将軍家からお嫁入りした人がいないそうだが、第7代藩主堀親長の元へ柳沢吉里(将軍家光の側近で有名な柳沢吉保の子)の娘が嫁いだときに特別に許されたという。ちなみに柳沢家の方が格上らしい。御守殿門は朱く塗るので赤門と俗称される。火事などで焼失しても再建は許されないので赤門はあまり残されていない。ここにあるのは厳密な意味では御守殿門でない。日本で唯一現存する、正真正銘の御守殿門は東大の赤門(加賀藩前田家上屋敷御守殿門)だそうだ。

 

 

藩の文武所は小学校になっており↑、当時の建物はないが現在の小学校は明治5(1872)年に建てられた古いもので国の登録有形文化財指定。

 

飯田は古くから栄えた町らしく、長野県内でも4番目に人口が多い市で南信の中心地だ。北信の人間にとって南信はむちゃくちゃ遠くて、とにかく真冬でも10℃以上ある温暖なイメージしかない。この日は普通に寒かった。えっ寒いんだ…と普通に驚いた。

 

 

 

★★★★★

旅館良かったよーまた行きたいー

 

 

<飯田城>

築城年 不明

築城主 坂西氏?

生仁館

新型コロナ。

要は玄関の外で人間に全く会わなければいいんでしょ? それなら普段からやってることじゃなーい。山の中腹にある寂れた神社とか、辺鄙な場所には行く。

このご時世だし、コロナで発狂している奴もいるだろう。そういう奴は子連れが変な場所にいたのを見かけたら絶対声かけてくるはず!! と外で爺とかに絡まれた時に「あんたはコロナに罹らなくてもそのうち死ぬよねー」等、咄嗟に何か言い返せるようにイメージトレーニングを続けていた。

半月前くらいなら多少は人も出ていて、出くわす爺婆にヒステリー起こされたらその倍の強さで返事しようと思っていた。けど爺婆には「こんな時期だからこんな場所でしか遊べなくてつまらないね、大変だね」と労われる始末。今は本当に誰も居ない。困ったら「しーね! しーね!」と手拍子つきで披露しようかと考えていたのに。私のトレーニングが無駄になっている。

 

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生仁館は五十里川排水機場↑の南側一帯にあったという。雨宮坐日吉神社のすぐ近く。生仁館はこの辺を支配していた生身(生仁)氏と雨宮氏のお城。信州村上氏の傍系で古い資料に出てくるのは雨宮孫五郎義正と生身(生仁)大和守義長の兄弟ぐらい。

 

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↑この辺りに館があったらしいが、現在は見ての通り。住宅と田んぼが混在している、田舎の郊外だよ。

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五十里川排水機場の敷地内には立派な石碑があった。

 

本地区は、千曲川右岸更埴市の北東部に位置する農業地域で、肥沃な沖積砂壌土の農地を基盤として、水稲、花卉、蔬菜等の複合経営により都市近郊型農業が営まれている。
この地域は、千曲川の水位が上昇すると、これに伴い沢山川の水位も背水により上昇し、自然排水が不可能となり、毎年のように湛水による被害を受けていた。
特に昭和五十六年から三年連続の台風による被害は大きく、このため雨宮、土口、生萱の三区民が自主的に立ち上がり、雨宮地区水害対策委員会を結成し、沢山川の河川改修と湛水防除事業を関係方面に訴えた。

その結果、県営湛水防除事業として事業化が決定され、ここに生萱、五十里、鳴海の三排水機場の完成を見、また同時に沢山川の改修工事も完成し、永い間に及ぶ地域住民の悩みを解消することができた。

この歴史的な事業は、今後の当地域の発展と活性化に大きく寄与するものと確信し、確にその喜びをに刻み永く後世に伝えるものである。

平成四年五月吉日

 

当時の更埴市長の名前が刻まれていた。

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↑これ(生萱排水機場)や。

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↑これ(大堰排水機場)など、川の水位が上がったときに備える施設が至る所にあった。石碑本文中の鳴海排水機場もどこかにあるんだろう。

 

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五十里排水機場の周りをウロついてみた。

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排水機場の設置や住宅田畑でずいぶん改変されちゃったんだろう。生仁氏という無名豪族の館なんて昔の人達もさほど興味ないだろうなー。そういえば国重要無形民俗文化財に指定された雨宮の神事の一部は生仁氏の浮気がルーツなんだった。

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何でも、田んぼが堀跡らしい。

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館は東西約120m、南北約90mの広さ。1重の堀があり、堀は約11mの幅。

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堀と用水路を合わせると11mぐらいになるのかなー? とすると、田んぼの奥の住宅地が館跡?

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当たり前なのかもしれないけど、住宅地の方が田んぼより高い。しかし、住宅地が館跡であるとか断定できない。というか、田んぼが用水路・道路を挟んで両側にある。どの田んぼを指しているのかもすら分からんわ。

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唯一、ああやっぱり堀跡なんだなーと思わせたのが、この用水路で。

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無駄に深い。田んぼとの差が1mくらいありそうだよ。こんなに深いと使い勝手悪いんじゃないの? と心配になっちゃうよ。

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生仁館のすぐ近くには唐崎城↓

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川を一つ渡ればすぐにお城のある山だよー。

 

 

 

★☆☆☆☆

何もない。探しに行ったところで住宅地をウロつく不審者扱いかも。

 

 

<生仁館>

築城年 不明

築城主 生仁氏

上田天満宮

春のパン祭り初参戦して日々をやり過ごしていたよ!

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所用で上田行って。時間があったから近くの神社を見てきた。名前は上田天満宮というらしい。

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誰も居ない。受験生もお詣りに来なさそう。天満宮なのにね。せっかくなので「頭良くなりますように☆」と祈願してみた。

  • 明治27(1894)年、初代上田駅前郵便局長が氏神として祀った
  • 元は、旧高田藩主が歴代所有していた天神様
  • 昭和25(1950)年、上田駅前広場の拡張に伴い現地に遷座
  • 遷座と同時に地元自治会に贈られた
  • 御本尊は江戸中期に作られた、学問の神様(菅原道真公)の坐像
  • 合格祈願・昇進・昇格商売繁盛・大願成就に御利益有り

高田藩の最後の主が榊原家らしい。多分、榊原さんから来たのかな? 初代上田駅前郵便局長の名前も載っていたが、この人は特に高田藩とは関係なさそうな感じがした。

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昭和25年に駅前を整備する際、こちらに移動したということだけど。上田駅前郵便局内で祀っていた天神像がここの住民の手に渡り、自治会で費用を工面して社殿を作ったような雰囲気がある。社殿の土台が古そうじゃないし(昭和40~50年代の道路の擁壁みたいな石組みみたいだわ)。

 

大正11年の地図を見ると、この場所は人口密集地となっていた。しかし町の名前は「天神町」だった。元になりそうな神社らしき記号はなかった。もしかして町名の由来も郵便局長の氏神様と関係あるのかねー?

隣接する道路は大正時代は県道だったようだった。細い↓

 

上田停車場(上田駅)からこの道を通り、上田市内最古の橋である上田橋(初代は明治23年開通、現在は3代目)で千曲川を渡って対岸の町に行ける道で、「縣道松本街道」と記載されていた。

松本街道(保福寺街道)は大宝2(702)年開通の東山道の一部だよ、そんな古い道だったんかコレ。

驚いて調べたが、当時の東山道は少し別のルートを通っているみたい。上田橋の隣の「古舟橋」というのが、東山道千曲川渡河地点だったようだ。長い間渡し船があったけど上田橋が完成した結果採算が取れなくなり、挙げ句に明治29年舟橋流失でトドメを刺されて廃止、そのため松本街道のルートが変わったということのようだ。

 

大正時代はこの場所「人口密集地」なので、道を拡張出来なかったのかも。この道を通らないルートで一部新しく作ったりして、上田駅と上田橋を繋ぐ広い道を完成させていた。

こちらはいじられずに県道から市道に格下げされてしまったらしい。でも古い道の趣きなんとなく感じたよ。

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↑こんなのもあったけど、もしかしたら県道時代の名残りなのかも。

現在は上田駅から某ショッピングモールに徒歩で向かう時に便利だし、新規オープンの店も界隈に多くて賑やか。

 

 

 

★★★☆☆

ここは寂しい神社かと思ってたけど、昔はずっと華やかだったのかも?

 

 

<上田天満宮

創建 昭和25(1950)年

御祭神 菅原道真

 

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和田城(遠山郷)

陸の孤島遠山郷」に来た。遠山郷といえば、コレ↓

 

下栗の里である。遠山郷の中でも秘境中の秘境みたいなイメージ。ただでさえ遠山郷まで行くの、非常にしんどかったのに。下栗の里までは時間なくて行けなかった(どうしても行ってみたい、という訳でもなかった)。

 

こんな秘境でも領主という立場の人が存在していた。

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和田城の主・遠山氏。

元は源頼朝重臣だった加藤景廉という人が褒美に岐阜県の遠山荘という荘園をもらい、その息子が初代地頭職に就いた際「遠山」と姓を改めて繁栄した。分家が数多く存在し、遠山一族の所領は物凄く広いらしい。ここの遠山氏は有力分家の明知遠山氏の分家だとか言われているらしい。ちなみに、明知遠山氏の子孫が遠山の金さんだそうだ。

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遠山城は静岡との境にある。ヒョー越峠とかいうふざけた名前(正式には兵越峠というようだ)の峠と青崩峠という不気味な名前の峠を行くとすぐ静岡市浜松市に至る。国道125号線(秋葉街道)は大昔からある道で、浜松市秋葉神社(全国の秋葉神社の総本社で火の神・軻遇突智神を祀る)に向かう。塩の道とも呼んだらしい。

ヒョー越峠は武田信玄が行軍したのでその名前がついたようだ。青崩峠(こちらも武田信玄が行軍した)は中央構造線の破砕帯でしょっちゅう崩れており、青い地盤を見せつけ続けているのでそんな名前になったそうだ。

 

酷道としても名高い。地図上の青崩峠を通過する遊歩道が所謂「点線国道」。

 

↑この場所も国道の一部で、酷道趣味の人達には大変有名。

 

ヒョー越峠は実は青崩峠越え迂回路の林道だ(いつの間にか長野県道369号・静岡県道412号に昇格した)。毎年ローカルニュースで放送されている峠の国盗り綱引き合戦がヒョー越峠で行われている。ここも残念な場所として有名で、三遠南信自動車道の一部として建設された草木トンネル(着工1986年・完成1992年)が開通後に地盤脆いと分かり、一般道として使うべく工事し直した経緯があるらしい。

↑北水窪IC。先に見える橋桁も将来に渡って使われることがない。どうするのかねー?

 

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遠山城は郷土資料館になっている。覗いてみたが、誰もいなかったのでそのまま戻った。

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お城は小高い場所にあり、城下町が一望出来る。

このお城の初代は遠山景広という人物で、16世紀半ば築城したと言われている。周りには程野城・中根城(天神ヶ森城)・木沢城・熊野城・高平館・尾の島館(一本松のお城)・八重河内城・長山城(名古山城)・十原城・大町城・満島城と県境に相応しくたくさんのお城があるそうだ。全部遠山一族のものらしい。山間とはいえ、交通の要所だからかなー?

景広は天文22(1553)年には武田信玄の家来になり、天正3(1575)年の長篠の戦いにも参戦、天正10(1582)年の甲州征伐で討ち死にした。

 

二代の景直は徳川家康の家来となり、天正13(1585)年の第1次上田合戦に従軍し3000石を賜った。景直は徳川家康に会ったことがあるそうだ。

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慶長元(1596)年岡崎城で謁見し、酒宴が開かれたそうだ。景直は御飯のお椀を手で覆い隠して食べていたので、家康が後日それを問いただしたところ。「領地は貧しいので、貴人と御飯する時は恥ずかしくなり手で隠して食べる習慣になってます」と答えた。家康が可哀想に思い、その場で+1000石。その上で、遠山氏の家紋を変えるように命じた。

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その家紋が↑提灯に描かれているもの。

景直が食べ終わった椀の上に箸を置いたことから、らしい。「行儀悪い奴だな」と家康に思われてしまったが咄嗟に同情を引くような話をしたので結果得をした、というラッキーなエピソードなのかも? 2代目の時代に遠山氏は全盛期を迎えた。

 

三代の景重は元和元(1615)年家督を継いだが、病弱だったのでその2年後没した。この人は子供が無く、養子を取っていた。養子の小平次と景重弟の景盛で家督争いとなった。江戸幕府が介入して収めようとしたが上手くいかず、結局はお取り潰しとなり滅んだ。遠山氏は一族離散となり悲惨な末路を辿る、と案内板にあった。具体的な話が分からなかったので、ちょっと探してみたところ。

  • 遠山景道(遠山景直の弟)、大河原で石子詰め
  • 遠山景盛、静岡県佐久間町で病死
  • 遠山氏の重臣達(四天王と呼ばれていたようだ)、和田城で虐殺
  • 遠山氏の家族もついでに虐殺(城から落ち延びた先で生き倒れたとかも)
  • 遠山氏の奥方はヒョー越峠を越えたものの、辿り着いた守谷さんちでこの世を去った(らしい)

 

遠山氏が滅んだ経緯は、実は領民に殺された伝説もある。下栗の里では「重税過ぎて領民が大河原峠で領主を殺した」とか「税の重さに耐えかねた領民が幕府に直訴し、それが成功、そして遠山氏の恨みを買い首謀者を殺した、その報復で領民が和田城を攻め滅ぼす」とかの話が伝わり。その話を踏まえて上記の末路があるらしい。

ちなみに、石子詰とは首より下を地面に埋めちゃってその周りに石を置いていき圧殺するという処刑方法だそうだ。戦場のメリークリスマスデヴィッド・ボウイが埋められていたのを思い出したが、ああいう感じかしら?

 

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遠山郷では「霜月祭」という鎌倉時代から続いているお祭りがある。これは国の重要無形文化財として保護されている古いお祭り。湯立神楽というのがメインだそうで、鎌倉時代鶴岡八幡宮の荘園儀礼だったものだそう。中世、遠山郷鶴岡八幡宮の神料地だったそうだ。祭りの名前の通り、デカい釜に湯を沸かすお祭り。

旧暦霜月(冬至がある月)に、太陽の復活と再生をお祈りするお祭りで、釜のお湯を神に捧げ、また天狗みたいなお面を付けた人(神の化身かな?)が釜のお湯バシャバシャ飛ばし、湯を浴びさせられることで万物の命の再生を図る。昔だと神仏のお社へお詣りする前に身を清める=お湯で流す、みたいなことがあったと思うんだけど。多分、そういう奴の発展系かも。遠山郷八幡宮がいっぱいあった。が、今は御祭神も関係ない神社(熊野神社とか稲荷神社とか)もこのお祭りを行っているらしい。

遠山氏が滅んだ直後に、郷で疫病が流行ったそうで。これ遠山一族の祟りだ! と霜月祭に遠山氏の慰霊行事も追加した。とあった。ひょっとしたら八幡神が関わらない神社もこの時湯立神楽の奉納をし始めたのかもなぁ(遠山一族滅んだ部分では関係ない訳じゃなさそうだし)、とちょっと思った。

 

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和田城内には「観音霊水」という湧き水もあり、龍淵寺というお寺さんが管理しているようだ。

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龍淵寺は遠山氏の菩提寺で、遠山一族が滅んだ後この場所に移転してきたようだ。創建から500年経つという古刹らしい。

  • 創建 大永元(1521)年
  • 本尊 聖観音
  • 開基 遠山景広

初代が、尾ノ島という場所に龍淵寺を建てたみたい。

 

尾ノ島館跡というものが遠山郷の外れに残っているが、この近くに龍淵寺の旧地があったのかも。

近くの神社も、

  • 諏訪神社  承久元(1219)年
  • 尾野島正八幡社 弘治元(1555)年、遠山景広が鶴岡八幡宮より勧請

ということで、初代が拠点としたところのようだ。

遠山氏が滅んだ後、慶安4(1651)年に龍淵寺が現在地へ移転。本堂がある場所が本郭らしい。

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本堂の奥には、歴代の遠山氏のお墓がある。

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真ん中の大きいお墓が景直と景重のお墓らしい。

その回りには、景忠(景直弟)・景盛(景重弟)・景則(景重弟)・宮崎半兵衛(代官)の4名のお墓がある。

宮崎半兵衛は元和9(1623)年、幕府がこちらに派遣した代官らしい。それ以前にも代官が派遣されているみたいだけど、収拾つかなかったらしい。この宮崎半兵衛とは、下伊那郡阿智村出身の宮崎氏のことらしい。元は武田家家臣だった家柄で、滅亡後は徳川家の旗本となり最終的には伊那の代官となったおうち。年代的には宮崎重次という人物が当たりそう。この一族出身で徳川家康の側室になった泰栄院という女性がいたり、「重次、慶長4年11月、大権現に拝謁して父の跡を継ぐ」という感じの文言を見つけたり。徳川家康に会える、高い家格みたい。

お墓の後ろの大杉4本は樹齢500年余りだそうだ。

 

この日、ご住職がお掃除していた。とても気さくな方で色々話したい雰囲気だったが、檀家の方もお掃除にみえており、忙しそうであった。

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本来、和田城跡はこっちであるようだ。先ほどのお城を模した郷土歴史館は違う(外観に騙されましたわ)。

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お城の脇から道を見つけた。

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鉄塔管理用道かー。

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ちょっと先に進んでみたかったけど、家族の目が…。

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城下町は遠山氏滅亡後、和田宿という宿場町になったようだ。

 

戦争や都市開発に無縁な山間の町だったせいか、宿場町の雰囲気残ってた。

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和田城の支城たちも残っているらしく、今度は時間あるときに来てみたいなぁと思ったものの、自宅から物凄く遠いのがネック。

 

★★★★★

偽お城に騙されたが、お寺さんは雰囲気良かった

 

<和田城>

築城年 16世紀半ば
築城主 遠山景広
 

 

 

 

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遠山郷の道の駅には川津桜という早咲きの桜が植えられていた。旧南信濃村出身で浜松市在住の人が寄付したという。

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本家の河津桜は2月半ばくらいに咲き始めるらしい。

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信濃とはいえ、山間部だからか3月半ばで7、8分咲きくらい?

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昭和30(1955)年に河津町で偶然発見された早咲きの品種で、花持ちが非常に良く1ヶ月ぐらい咲き続けるらしい。生態はまだよく分からない部分も多いらしい。桜は突然変異の多い植物だとか。1968年頃からあちこちで植えられるようになったようだ。こちらの桜は南信濃村出身の浜松市在住者が平成13(2001)年200本贈ったものだそうだ。

あと、山間部なのでジビエ料理も食べられた!

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鹿カツ。初めて食べたー。

 

本間十二社+暇を持て余してウロウロした成果

本間城の麓に降りてきた時点で午前11時半。ローカル線は正午ほぼ列車が走らない。11時台の列車はちょうど発車したぐらいで、次は13時台の列車。1時間半くらい時間が出来てしまった。

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することもなく本間城の麓の神社に寄ってみた。本間十二社という名前らしい。神社は修復中。

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崖のすぐ手前にある。ここは日当たりが悪いらしく、昼だというのに氷柱が見える。解けないのかー。

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名前が付いた柱と案内板は先行して造ったらしく、ぴかぴかだよー。

  • 創建は寛永4(1627)年、木曽奈良井宿の鎮神社を勧請した
  • 当初の御祭神は鎮神社と同じ、経津主命
  • 宝永6(1706)年再建、御祭神を改め天之御中主神以下、天神7代・地神5代を祀り、十二神社となったらしい
  • 再建時の棟札が遺されている
  • 現在の社殿は享和元(1801)年に完成

元和4(1618)年奈良井宿に「すくみ」という疫病が流行り多くの人が亡くなった。村人達が相談し、京都の神祇官の卜部兼英にお願いした。卜部氏は千葉の香取神宮から御祭神の経津主神を勧請させた。経津主命は出雲の国譲りの神話に出てくる神様で、建御雷神と一緒に大国主神に国を譲るよう迫る神様だそう。建御雷神は鹿島神宮の御祭神。

また、鎮神社の創建は元和4年ではなく。近衛天皇の時代(平安時代末期)に奈良井に住んでいた中原兼氏という有徳の人を偲んで建てられた神社だそうだ。平安時代末期の中原といえば、木曽義仲を庇護した中原兼遠が思い浮かぶけど。その人の兄という木曽(中原)兼氏という人物が居り、この方が鎮神社の最初の御祭神らしい。奈良井宿と薮原宿の間にある鳥居峠に最初あり、奈良井村の鎮守神社だったようだ。しかし天正年間、木曽氏と武田氏の戦乱で燃えてしまった。奈良井城主の奈良井義高(木曽義在の子?)が鳥居峠の麓に移し、再建した。奈良井義高は木曽一族だけど、早くから武田信玄に出仕していたので神社の事とか割と簡単に許可されたのかも? で、元和4年に御祭神が変更しちゃったそうだ。

最初の勧請元の鎮神社がそんな変遷なので、本間十二社も何かの理由で御祭神を変更ちゃったらしい。12柱の神様を祀っているから十二社という名前に変わったんだと思うけど、それ以前の名前は案内板に書かれていなかった。

祀られている神様は

らしい。何か、180度方向転換した感じだな。

ちょうど今社殿を修復中らしく、誰もいなかったので白いシートをこっそり捲って中を覗いてみた。上屋の中は解体されていた。壊されたに近い。

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とりあえず駅の方角へ歩きながら、途中のコンビニで昼飯を買う。

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馬頭観音辺りの石仏だろうか? 幹線道路沿いになんとなく集まっていた。石仏は道の方に向かっておらず、しかし石仏正面は道じゃなくて民家なので、ものすごく不思議な石仏群だった。一応全部すっくと立っているので、打ち棄てられた訳ではない様子。民家側に旧来の街道でもあったのかな? 民家の奥も民家だし、その向こうもコレといって何かあるわけでもなかった。

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とりあえずコンビニで弁当を買ったので、それを食べても目立たない場所を探すことにした。お昼時なので、住宅地には人っ子ひとり居ない。静か。

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こんな場所を見つけた。ちょうど良さそう。

それにしても「渡るなよ渡るなよ絶対に渡るなよ」と迫ってくるJR長野支社の警告よ。この立地で渡らないなんて有り得るのかね…。この辺りは日当たりの良い斜面にお墓が点在しており、お墓の入り口には必ずJR小海線の警告が立てられていた。建てられたばかりの綺麗なお墓もある。

列車が来ないのは確認済みなので、神社にお参りすることにした。

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 こちらの神社も丁寧に整備されている。地元の産土神なんだろうけど、こちらは地図にも載っていないし名前が分かるようなものもない。地元の老人クラブが桜を植えたりして大切にしているらしい、ということは分かった。

 

明治初めのこの辺り(穂積村)の地図を見たら、社と寺があったようだがお寺さんはすでにないようだ。山肌にお墓がたくさんあるのは、お寺さんの名残かもしれない。

ちなみに、この墓地の線路道路を挟んだ向かいにはこんな場所があった。

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啓育学校支校、整理学校の跡地らしい。昔の学校ってお寺さんに併設されることが多いような印象があるので、ひょっとしたら古地図にあったお寺さんというのは学校が出来る前、この地にあったのかもしれない。

後で色々調べて見たら「高岩寺」というお寺が現地にあるというのだが、寺らしき建物をここで見た記憶が無い。石柱は昭和55年建立だった。

 

この石柱には

  • 啓育学校支校 明治6年開校
  • 明治16年 整理学校と改名す

という情報しかなく、啓育学校や整理学校に関しては良く分からないまま。この地区も穂積村→八千穂村→佐久穂町と合併している(しかも途中で併合したり分割している忙しなさ)ので、明治初期の穂積村の歴史について探してもパッと見つからなかった。啓育学校の本校は今の八千穂駅の北側辺りなのかな? と勝手に思った(穂積村の中心部のような感じ)。

さて、神社は急斜面にあった。

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古地図だと、寺(高岩寺?)とこの神社の間には道があり、山の上の集落(荢冷田?)まで続いていたようだが。今は耕作地らしきものが僅かに見える程度で集落は消滅しているようだし、あったはずの道自体もないようだ(耕作地へは別の集落から出入り出来そう)。

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急斜面過ぎて腰を下ろすのもちょっと苦労だったけど、見晴らしが良くて気持ちよかった。弁当も美味い! 結局、この神社がどういう来歴なのか分からなかったけど、とても古くからありそうな気がする。

 

まだまだ時間があるよ…。

集落の真ん中を走る県道2号川上佐久線は、古地図にも太字で描かれているぐらい行き交う人が多い道だったようだ。最初、佐久甲州街道の旧道かなと思ったけど、違うみたい。佐久甲州街道が経由する宿場町の位置を考えると、やはり対岸の国道がほぼ踏襲している感じ。

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大正時代建立の道祖神

 

県道2号線もまた、色々な道を合併して出来た路線。県道2号線は所謂「険道」で、途中の旧立原線(馬越峠、元は林道だったらしく狭い)は特に有名。

ネットで立原線開通記念碑を見つけてしまった。その石碑には旧日本軍の陸軍中佐→自衛隊の陸将というエリート軍人の名前と所属・階級が彫られている。彼が立原線とどういう関係があるのか謎。彫られた階級から年代を探ると、昭和39(1964)年~41(1966)年の間に建てられたもののようだ。戦後完成させたものらしい。

天狗岩の前を通るこの道も元はこの地区と南相木村を結ぶものだったようだ。

 

県道2号沿いに天狗岩という断崖絶壁があるはずなので、時間が許す限りそれをガッツリ観光することにした。

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この辺りは千曲川が迫る。しかも川幅が狭い。去年の台風でも崩れたみたいだ。

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ここから先が天狗岩らしく、古そうな石仏が安置されていた。古地図には社があったと記されている。

説明板も設置されていた。

  • 掛樋と棚橋と秩父事件戦跡
  • 天狗岩の岩裾は高岩、穴原、樋口、崎田の4地区用の飲水や田用水の取り入れ口だった
  • 毎年のように増水し、川底が削られた為に施設は流失してしまった
  • そのたびに水揚口を繰り上げて水を取り入れていた
  • しかし、このままではどうしようもないと思い「岩堀」普請を計画して宝永3(1706)年江戸幕府に願い出たが許可されなかった
  • 文化4(1807)年、幕府へ直訴を敢行(違法)した
  • しかし経費多額を理由に「掛樋」普請に変更させられた
  • 掛樋は長さ200間で、その後大正時代までの100年以上掛樋が使われた
  • また、ここには道路を造る余地がなかったので岩の割れ目に杭を打ち込み、棚橋をかけて通行した
  • 秩父困民党も通り、官軍と戦った

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線路に落石がないよう、ガードが堅い。掛樋や棚橋の跡を見たいと思ったけどこれじゃ近づけないね。小海線の前身の佐久鉄道がここに鉄道を開業させたのが大正8(1919)年なのでその年に掛樋と棚橋を廃止したのだろうか。

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例の「線路を渡るな」警告があるので、恐らく線路の向こう側に跡があるんだろう。

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秩父事件の碑もあった。

棚橋でしか通行できないような場所だし、敵をここにおびき寄せるって大正解なんだろうな。

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正直、掛樋と棚橋の方が価値を感じます…。

時間をやっと消費した、列車に乗れる。良かった。

 

 

★★★☆☆

本間十二社は修復中だったので、残念だった

 

 

 

<本間十二社>

創建 寛永4(1627)年

御祭神 経津主命→天神7代・地神5代