新型コロナ。
要は玄関の外で人間に全く会わなければいいんでしょ? それなら普段からやってることじゃなーい。山の中腹にある寂れた神社とか、辺鄙な場所には行く。
このご時世だし、コロナで発狂している奴もいるだろう。そういう奴は子連れが変な場所にいたのを見かけたら絶対声かけてくるはず!! と外で爺とかに絡まれた時に「あんたはコロナに罹らなくてもそのうち死ぬよねー」等、咄嗟に何か言い返せるようにイメージトレーニングを続けていた。
半月前くらいなら多少は人も出ていて、出くわす爺婆にヒステリー起こされたらその倍の強さで返事しようと思っていた。けど爺婆には「こんな時期だからこんな場所でしか遊べなくてつまらないね、大変だね」と労われる始末。今は本当に誰も居ない。困ったら「しーね! しーね!」と手拍子つきで披露しようかと考えていたのに。私のトレーニングが無駄になっている。
生仁館は五十里川排水機場↑の南側一帯にあったという。雨宮坐日吉神社のすぐ近く。生仁館はこの辺を支配していた生身(生仁)氏と雨宮氏のお城。信州村上氏の傍系で古い資料に出てくるのは雨宮孫五郎義正と生身(生仁)大和守義長の兄弟ぐらい。
↑この辺りに館があったらしいが、現在は見ての通り。住宅と田んぼが混在している、田舎の郊外だよ。
五十里川排水機場の敷地内には立派な石碑があった。
本地区は、千曲川右岸更埴市の北東部に位置する農業地域で、肥沃な沖積砂壌土の農地を基盤として、水稲、花卉、蔬菜等の複合経営により都市近郊型農業が営まれている。
この地域は、千曲川の水位が上昇すると、これに伴い沢山川の水位も背水により上昇し、自然排水が不可能となり、毎年のように湛水による被害を受けていた。
特に昭和五十六年から三年連続の台風による被害は大きく、このため雨宮、土口、生萱の三区民が自主的に立ち上がり、雨宮地区水害対策委員会を結成し、沢山川の河川改修と湛水防除事業を関係方面に訴えた。
その結果、県営湛水防除事業として事業化が決定され、ここに生萱、五十里、鳴海の三排水機場の完成を見、また同時に沢山川の改修工事も完成し、永い間に及ぶ地域住民の悩みを解消することができた。
この歴史的な事業は、今後の当地域の発展と活性化に大きく寄与するものと確信し、確にその喜びをに刻み永く後世に伝えるものである。
平成四年五月吉日
当時の更埴市長の名前が刻まれていた。
↑これ(生萱排水機場)や。
↑これ(大堰排水機場)など、川の水位が上がったときに備える施設が至る所にあった。石碑本文中の鳴海排水機場もどこかにあるんだろう。
五十里排水機場の周りをウロついてみた。
排水機場の設置や住宅田畑でずいぶん改変されちゃったんだろう。生仁氏という無名豪族の館なんて昔の人達もさほど興味ないだろうなー。そういえば国重要無形民俗文化財に指定された雨宮の神事の一部は生仁氏の浮気がルーツなんだった。
何でも、田んぼが堀跡らしい。
館は東西約120m、南北約90mの広さ。1重の堀があり、堀は約11mの幅。
堀と用水路を合わせると11mぐらいになるのかなー? とすると、田んぼの奥の住宅地が館跡?
当たり前なのかもしれないけど、住宅地の方が田んぼより高い。しかし、住宅地が館跡であるとか断定できない。というか、田んぼが用水路・道路を挟んで両側にある。どの田んぼを指しているのかもすら分からんわ。
唯一、ああやっぱり堀跡なんだなーと思わせたのが、この用水路で。
無駄に深い。田んぼとの差が1mくらいありそうだよ。こんなに深いと使い勝手悪いんじゃないの? と心配になっちゃうよ。
生仁館のすぐ近くには唐崎城↓
川を一つ渡ればすぐにお城のある山だよー。
★☆☆☆☆
何もない。探しに行ったところで住宅地をウロつく不審者扱いかも。
<生仁館>
築城年 不明
築城主 生仁氏