ステイホーム期間中は、ちゃんと大人しくしていたわ。外出先で見ず知らずの人に石投げられるのも不愉快だよ。
ようやく出かけられるようになった。随分前、夕方に狐落城に登ろうとして断念したことがあり。ちょうどいいからあの山1人で登ろうと決める。折角だから真面目に登山しようと、それなりの装備で登ってみたよ。熊除けの鈴まで持っていったわ。そして非常に身体が重く…これはステイホームの結果の体重増加・運動不足ではなく、単に普段より荷物が重たいだけと信じたい。
↑奥の山が狐落城・三水城、手前の一部見えている山が自在山(出浦城)
登山口はここから。狐落城まで登り、更に尾根伝いに行けば三水城に辿り着ける。
事前に調べたところ、ここから狐落城は行き50分、狐落城から三水城まで行き40分。お帰りはそれぞれ30分と20分。摺鉢山(=竹把城)にも行けるよ。室賀峠まで行って戻ってくる人いるのかな。往復9時間よ?
まずは村上大國魂社に。
健御名方神、八坂斗売神のご夫妻と大國魂命(多分、大国主神のことだと思います)の3柱を祀っている。他に、天満宮と。
小さな社に村上氏の祖先が祀られていた。
顕清社(祭神:村上顕清)と義光社(祭神:村上義光)だ。
源(村上)顕清は白河院の院司を務めていたが、嘉保元(1094)年流刑に処され越前国に流された人。一説には信濃国村上郷に来て信濃村上氏の祖となったともされるので、ここに祠があるのかもしれない。この一族は元々信濃国に所領があったらしい(顕清の父・中宗の代から持っていた)。源顕清と父の中宗や長兄の惟清や兄弟達も全員流刑となっているが原因は白河院を源惟清が呪ったからとされている。白河院の晩年の寵妃となった祇園女御という人物が源惟清(または父の中宗)の妻で白河院が略奪してから元夫とその父や兄弟を全員配流したという古い記事なんかもあるそうで。本当だったら酷い話よねー。
村上義光は太平記に出てくる武将で、本来の表記は村上義日みたい。この人は後醍醐天皇の皇子、護良親王の家臣。元弘3/正慶2(1333)年、護良親王を守り吉野城(金峯山城)に籠城して戦死したという。
祠は古そうだったが、その説明をしている石碑はやけに新しい。
この村上大國魂社は古くは泉口明神という社号だったみたい。諏訪社なので上下社と2社あるそうで、泉口明神が上社、下社は村上神社(元は宮沖にあり今は上五明に遷座)だそうだ。社伝によると天徳2(958)年村上天皇第4皇子の為平親王が村上郷に御所を造営し、泉口御所と称したそうだ。この為平親王は父親の村上天皇に可愛がられ、母方祖父(藤原師輔)も権力者だし、賜姓皇族でかなり出世していた源高明の娘と結婚して後ろ盾を得て、という皇位に一番近い立場にいたらしい。が、祖父や実父・義父の次の世代の権力者達の事情で皇位を継承できず政治的な配慮として筆頭皇族の地位に留まり続けた人。村上源氏(為平親王流)の祖でもある。為平親王は天暦6(952)年生まれ。一説には為平親王が村上天皇より村上姓を賜る→為平親王の子・源(村上)顕定の娘婿に源頼清→源頼清の孫が村上(源)顕清、というのもあるらしい。
この建物は「十六夜観月殿」という建物で、寛治8(1094)年に流刑となり村上郷にきた源盛清(祇園女御の元夫?の源惟清の弟で惟清の養子とされる)がここで月を眺めて心を慰めた、と案内板に書かれていた。源盛清の子・為国が源顕清の養子となったそう。
元中年間(1324~1392)に村上満清が観月殿を建てる。観月殿に掲げられていた由緒書には元治年間とあったが、元治年間=1864~1865なので由緒書が間違っていそう。由緒書には「千曲川が氾濫して宮沖大御門堀上の地にあった城郭が流されてしまい、居を(対岸の)坂城に移したが堂宇を此処に建て代々仲秋の月を観賞した」とあり、コレは案内板には載ってなかった。宮沖、大御門、堀上は網掛地区の小字で、その辺りに最初の村上氏のお城があったようだ。宮沖には上社(村上大國魂社)と対になる下社(村上神社)があった。
泉口明神下社が元あった宮沖、堀上、大御門は、現在のびんぐし山の西側に広がる田んぼの辺りらしい。古い地図と比べても川筋が変わっていたりで、旧泉口明神下社の位置も分からんかった。ひょっとしたら、泉口明神下社が一番最初の村上氏の城郭跡かな? と思ったんだけどさー残念。
天文22(1553)年、武田軍が攻めてきたときに狐落城と社殿も観月殿も焼失した。社殿は天正11(1583)年村上景国により再建される。観月殿は寛永年間(1624~1645)に地元民により再建。現在の建物は安政3(
1856)年に再々建されたもの。
松尾芭蕉も来たそうで、その辺に句碑があるとか。
ここにも祠があった。松尾芭蕉の句碑は祠の近くらしい。
ここからすでに急坂だよ。
両脇が崖。
一気に登っていく。
木が倒れている。
なだらかになったと思いきや。
やっぱり急斜面を登る。
去年の台風のせいなのか、そこら中で木が倒れている。狐も落ちる! という評判通りの狭くて急な尾根道が続くため、倒木を処理できないのかもしれない。ただ、登山道はしっかりしているので人は通っているみたい。
そんな中、気になる巨石を見つけた。目印になりそうな巨石ではあるけど、ほぼ迷いそうにないレベルの尾根道だよ。よく見たら「山之神」と彫ってあった。よくお祈りした。
この木だけちょっと切られていた。
ここまでは急だけど問題なく歩ける道。
ついに現れたトラロープ。
登るときは階段もあるしまだ使わなくても良さそうだが。下りは必要だろうなー。
ロープがめっちゃ張られている。
この茂み、何か臭かった。ちょっとやばいんじゃねという臭さ。熊除けの鈴をリンリン鳴らして通ったわ。獣が死んでたのか手負いだったのかは分からないが、無事過ぎた。
ちょっとした平場が現れたので、ここで休憩。物見用でもあったのかな、上田方面への見通しが非常に良かった。ここまでの道のりキツかった。
さて動くかー。
少し歩いていたら、何か変な風景が。
着いたかなー?
石積みもある!
思ったより狭い。とにかく2周ぐるぐる。せっかく来たんだし。
古い案内板があった。昭和47年11月に立てられたものみたい。字も消えかかっている。
- 狐落城は戦国時代の山城で、葛尾城を本拠とする村上氏の支城
- 武田信玄の信州攻略を南から受けた村上義清は天文17(1548)年上田原にてこれを迎え撃ち、退けた
- 天文22(1553)年には武田信玄に筑摩方面から攻撃を受けた
- 武田方の調略により、狐落城の守将小島兵庫介兄弟がここで討ち死にし落城
- 狐落城の落城を見た村上義清は、本拠地内での落城にショックを受ける
- そのまま葛尾城を捨て、越後の上杉謙信を頼り落ち延びていった
- これがキッカケで川中島合戦に発展した
狐落城は別名「あみかけ小屋」ともいうそうだ。城っていうより、小屋の方がしっくりくる。
そんなに兵士詰められないだろうなー。
上にもまだ何かあるようだ。
ここにも石積みが。
上にも平場があった。
どうやら、ここが本郭のようだ。先ほどの説明板があった場所は2の郭だったみたい。
本郭も広くない。
2周まわった。
古い石仏がいらっしゃって、お詣りした。
本郭も「あみかけ小屋」という名前がしっくりくる程度の場所だった。重要拠点なのに思ったより狭い。更に登れば三水城がある。敵は筑摩方面から侵入、と説明板には書いてあった。三水城落としてから来ちゃったんだね。ここ貧弱過ぎて持たないと、素人目でも思うよ。
↑この先に三水城がある。
狐落城の三水城側にはたくさんの堀切が!
今まで堀切なんてなかったのに、大量に現れやがった。
いきなりやる気を見せた狐落城の堀切はロープなしじゃ踏破難しかった。
巨木が根こそぎやられて、転がっていた。
えぐられて、少し登りやすくなっている。
堀切いっぱい作っても詰められる兵士が少なければ何の意味もなかったかもね。
ようやく落ち着いた山道になってきた。三水城はまだ先。
★★★☆☆
その辺の丘を登るのとはレベルが違った。真面目な登山。
<狐落城>
築城年 不明
築城主 村上氏
2020年5月現在流行りのテイクアウトを頼んでみたよ!
↑インスタで見かけたイタリアンレストランの特製オードブル
料理のリクエスト、構成(大人何名・何歳の子供が何名か)、食べられないもの(アレルギー対応)など細かく聞かれた。ちゃんとしてそう…子連れで行けないなと思った。
↑同級生のお店の弁当
この銀ダラ粕漬けがローカルニュースで特集されていた、本気で美味いやつ。自分史上唯一皮まで食べられる。