お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

本間十二社+暇を持て余してウロウロした成果

本間城の麓に降りてきた時点で午前11時半。ローカル線は正午ほぼ列車が走らない。11時台の列車はちょうど発車したぐらいで、次は13時台の列車。1時間半くらい時間が出来てしまった。

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することもなく本間城の麓の神社に寄ってみた。本間十二社という名前らしい。神社は修復中。

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崖のすぐ手前にある。ここは日当たりが悪いらしく、昼だというのに氷柱が見える。解けないのかー。

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名前が付いた柱と案内板は先行して造ったらしく、ぴかぴかだよー。

  • 創建は寛永4(1627)年、木曽奈良井宿の鎮神社を勧請した
  • 当初の御祭神は鎮神社と同じ、経津主命
  • 宝永6(1706)年再建、御祭神を改め天之御中主神以下、天神7代・地神5代を祀り、十二神社となったらしい
  • 再建時の棟札が遺されている
  • 現在の社殿は享和元(1801)年に完成

元和4(1618)年奈良井宿に「すくみ」という疫病が流行り多くの人が亡くなった。村人達が相談し、京都の神祇官の卜部兼英にお願いした。卜部氏は千葉の香取神宮から御祭神の経津主神を勧請させた。経津主命は出雲の国譲りの神話に出てくる神様で、建御雷神と一緒に大国主神に国を譲るよう迫る神様だそう。建御雷神は鹿島神宮の御祭神。

また、鎮神社の創建は元和4年ではなく。近衛天皇の時代(平安時代末期)に奈良井に住んでいた中原兼氏という有徳の人を偲んで建てられた神社だそうだ。平安時代末期の中原といえば、木曽義仲を庇護した中原兼遠が思い浮かぶけど。その人の兄という木曽(中原)兼氏という人物が居り、この方が鎮神社の最初の御祭神らしい。奈良井宿と薮原宿の間にある鳥居峠に最初あり、奈良井村の鎮守神社だったようだ。しかし天正年間、木曽氏と武田氏の戦乱で燃えてしまった。奈良井城主の奈良井義高(木曽義在の子?)が鳥居峠の麓に移し、再建した。奈良井義高は木曽一族だけど、早くから武田信玄に出仕していたので神社の事とか割と簡単に許可されたのかも? で、元和4年に御祭神が変更しちゃったそうだ。

最初の勧請元の鎮神社がそんな変遷なので、本間十二社も何かの理由で御祭神を変更ちゃったらしい。12柱の神様を祀っているから十二社という名前に変わったんだと思うけど、それ以前の名前は案内板に書かれていなかった。

祀られている神様は

らしい。何か、180度方向転換した感じだな。

ちょうど今社殿を修復中らしく、誰もいなかったので白いシートをこっそり捲って中を覗いてみた。上屋の中は解体されていた。壊されたに近い。

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とりあえず駅の方角へ歩きながら、途中のコンビニで昼飯を買う。

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馬頭観音辺りの石仏だろうか? 幹線道路沿いになんとなく集まっていた。石仏は道の方に向かっておらず、しかし石仏正面は道じゃなくて民家なので、ものすごく不思議な石仏群だった。一応全部すっくと立っているので、打ち棄てられた訳ではない様子。民家側に旧来の街道でもあったのかな? 民家の奥も民家だし、その向こうもコレといって何かあるわけでもなかった。

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とりあえずコンビニで弁当を買ったので、それを食べても目立たない場所を探すことにした。お昼時なので、住宅地には人っ子ひとり居ない。静か。

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こんな場所を見つけた。ちょうど良さそう。

それにしても「渡るなよ渡るなよ絶対に渡るなよ」と迫ってくるJR長野支社の警告よ。この立地で渡らないなんて有り得るのかね…。この辺りは日当たりの良い斜面にお墓が点在しており、お墓の入り口には必ずJR小海線の警告が立てられていた。建てられたばかりの綺麗なお墓もある。

列車が来ないのは確認済みなので、神社にお参りすることにした。

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 こちらの神社も丁寧に整備されている。地元の産土神なんだろうけど、こちらは地図にも載っていないし名前が分かるようなものもない。地元の老人クラブが桜を植えたりして大切にしているらしい、ということは分かった。

 

明治初めのこの辺り(穂積村)の地図を見たら、社と寺があったようだがお寺さんはすでにないようだ。山肌にお墓がたくさんあるのは、お寺さんの名残かもしれない。

ちなみに、この墓地の線路道路を挟んだ向かいにはこんな場所があった。

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啓育学校支校、整理学校の跡地らしい。昔の学校ってお寺さんに併設されることが多いような印象があるので、ひょっとしたら古地図にあったお寺さんというのは学校が出来る前、この地にあったのかもしれない。

後で色々調べて見たら「高岩寺」というお寺が現地にあるというのだが、寺らしき建物をここで見た記憶が無い。石柱は昭和55年建立だった。

 

この石柱には

  • 啓育学校支校 明治6年開校
  • 明治16年 整理学校と改名す

という情報しかなく、啓育学校や整理学校に関しては良く分からないまま。この地区も穂積村→八千穂村→佐久穂町と合併している(しかも途中で併合したり分割している忙しなさ)ので、明治初期の穂積村の歴史について探してもパッと見つからなかった。啓育学校の本校は今の八千穂駅の北側辺りなのかな? と勝手に思った(穂積村の中心部のような感じ)。

さて、神社は急斜面にあった。

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古地図だと、寺(高岩寺?)とこの神社の間には道があり、山の上の集落(荢冷田?)まで続いていたようだが。今は耕作地らしきものが僅かに見える程度で集落は消滅しているようだし、あったはずの道自体もないようだ(耕作地へは別の集落から出入り出来そう)。

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急斜面過ぎて腰を下ろすのもちょっと苦労だったけど、見晴らしが良くて気持ちよかった。弁当も美味い! 結局、この神社がどういう来歴なのか分からなかったけど、とても古くからありそうな気がする。

 

まだまだ時間があるよ…。

集落の真ん中を走る県道2号川上佐久線は、古地図にも太字で描かれているぐらい行き交う人が多い道だったようだ。最初、佐久甲州街道の旧道かなと思ったけど、違うみたい。佐久甲州街道が経由する宿場町の位置を考えると、やはり対岸の国道がほぼ踏襲している感じ。

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大正時代建立の道祖神

 

県道2号線もまた、色々な道を合併して出来た路線。県道2号線は所謂「険道」で、途中の旧立原線(馬越峠、元は林道だったらしく狭い)は特に有名。

ネットで立原線開通記念碑を見つけてしまった。その石碑には旧日本軍の陸軍中佐→自衛隊の陸将というエリート軍人の名前と所属・階級が彫られている。彼が立原線とどういう関係があるのか謎。彫られた階級から年代を探ると、昭和39(1964)年~41(1966)年の間に建てられたもののようだ。戦後完成させたものらしい。

天狗岩の前を通るこの道も元はこの地区と南相木村を結ぶものだったようだ。

 

県道2号沿いに天狗岩という断崖絶壁があるはずなので、時間が許す限りそれをガッツリ観光することにした。

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この辺りは千曲川が迫る。しかも川幅が狭い。去年の台風でも崩れたみたいだ。

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ここから先が天狗岩らしく、古そうな石仏が安置されていた。古地図には社があったと記されている。

説明板も設置されていた。

  • 掛樋と棚橋と秩父事件戦跡
  • 天狗岩の岩裾は高岩、穴原、樋口、崎田の4地区用の飲水や田用水の取り入れ口だった
  • 毎年のように増水し、川底が削られた為に施設は流失してしまった
  • そのたびに水揚口を繰り上げて水を取り入れていた
  • しかし、このままではどうしようもないと思い「岩堀」普請を計画して宝永3(1706)年江戸幕府に願い出たが許可されなかった
  • 文化4(1807)年、幕府へ直訴を敢行(違法)した
  • しかし経費多額を理由に「掛樋」普請に変更させられた
  • 掛樋は長さ200間で、その後大正時代までの100年以上掛樋が使われた
  • また、ここには道路を造る余地がなかったので岩の割れ目に杭を打ち込み、棚橋をかけて通行した
  • 秩父困民党も通り、官軍と戦った

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線路に落石がないよう、ガードが堅い。掛樋や棚橋の跡を見たいと思ったけどこれじゃ近づけないね。小海線の前身の佐久鉄道がここに鉄道を開業させたのが大正8(1919)年なのでその年に掛樋と棚橋を廃止したのだろうか。

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例の「線路を渡るな」警告があるので、恐らく線路の向こう側に跡があるんだろう。

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秩父事件の碑もあった。

棚橋でしか通行できないような場所だし、敵をここにおびき寄せるって大正解なんだろうな。

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正直、掛樋と棚橋の方が価値を感じます…。

時間をやっと消費した、列車に乗れる。良かった。

 

 

★★★☆☆

本間十二社は修復中だったので、残念だった

 

 

 

<本間十二社>

創建 寛永4(1627)年

御祭神 経津主命→天神7代・地神5代

本間城

本格的な花粉シーズン到来。外は雪が舞っていても鼻水・目のかゆみ・くしゃみが止まらない。そしてマスクがどこにも売っていない。うちの在庫切れたら死ねる。どうしてくれよう…新型コロナなんかよりずっと切実な問題。

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浅間山を眺めた後。

旧佐久甲州街道から本間城のある山の裏へ回ってきた。ここももしかしたら古い道なのか、途中に石仏があった。

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大きめの岩がゴロゴロする。三沢川というらしい。この川も千曲川と合流する。

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川を隔てて本間城が多分↑の山の中、どこかにあるらしい。そしてこの古い橋は何に利用されていたのか気になる。

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登り口はここから↑

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東電が管理している鉄塔と管理用道を目指せば良いそうだが。

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管理用の道なので、当然立ち入り禁止だと思うのです。

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人気が無いことを確認し。

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一休さんのような屁理屈めいた言い訳を頑張って考えつつ、入り込んだけど。誰もいなかったわ。

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管理用道路が途中まであったけど、見失った。仕方ないので適当な斜面を登り始めたよ。

 

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あっという間に、管理用建物が小さくなってしまった。

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見失った道を発見…近づいて降りてみよう。

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怪しげな穴がそこかしこにある。ちょっと覗き込む気も起こらず。大きさ的には熊じゃなさそうだけどさー。

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道に降りた。斜面ひたすら登るだけよりずっと楽に移動できるよ。

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早速崩れている。

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最近崩れたばかりなのか、道もここで寸断されている様子。まあ、巡回とか荷物が少ない場合だと大した問題にはならなそうな。

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目印の鉄塔が見えてきた。この鉄塔を左に行けばあるらしいが。

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なんとなく右へ進んでみた。こっちにも道があったからだ。

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すぐに行き止まりになった。何にも無かったなあ。

行き止まりには柵があった。畑と山を区切っている奴だ。向こう側にも鉄塔がある。

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ここには立ち入り禁止の表示はない(向こう側の表示は立ち入り禁止になっているのかな?)。もしかして柵が開くのではないか? と思ってガシガシ揺らしてみた。この扉開くんだったら、出入りはこの場所からの方が楽なんじゃないだろうか。猟友会の仕掛けた罠が置いてあるみたいだし、入っても良さそうな気がする。

なんか分からないけど開かなかった。

 

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とりあえず、先ほどの場所まで戻る。 

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この尾根を伝っていくらしいよ。

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何か貧弱な尾根だな。

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今のところはなし。

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んーこれは? 到達したみたいだよ。

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急に現れた感じ!

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とにかく本郭を目指す。

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ここもまた鉄塔の管理用道らしく、歩きやすく整備されている。

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凄いのが見えた?

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先に駱駝の瘤みたいなアップダウンがあるよ。

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堀。

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ぽんぽーん、の間には。

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さっきより深い堀あったよ。

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マスクして登ると息が上がっちゃう。そして日頃の運動不足がたたり、斜面を上がっていたら足を攣った。色々考えるのが面倒臭くなっちゃって、そのまま上がってみたんだけどそれがダメで筋ちょこっと痛めたみたい。一旦は収まった痛みが、次の日ぶり返しやがった。普段からなるべく身体動かそうと反省したよ。

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最後の瘤を登り切ってみたよ。

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なんだね、あの祠は。

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どうやらここが本郭らしい。

祠と石標は間新しい感じがする。誰が設置したのか(小海町ではなさそう)分からない。書いていない。まさか東電さんが???

 

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台座の文字。何を表しているのかさっぱりだよ。鳥の名前? 設置者の名前? ぐぐってみたけど全くヒットしなかった。ちなみに「鸞」は中国の伝説の霊鳥(雄)で、絵だと雉っぽい? と思ったが。wikiによれば、ケツァールという南米の鳥に見た目が似ているという説もあるらしい(グアテマラの国鳥で、世界一美しいという極彩色の鳥だってさ)。

 

本郭の様子。

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土塁とかある。

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そして雄大浅間山

今のところ、このお城を作った人が誰なのか、いつ作られたのかハッキリしないらしい。普通に考えて、元あった小さな砦を武田信玄が宮の上キャンプ地造営に併せて改良した、なのかなー? 収容人数が多そうな広い宿営地にもすぐに異常を知らせることが出来るような、物見台は必要な気がするわ。大人数だと動きも鈍くなっちゃうだろうしな。

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先に進んだ。

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猫の額みたいな?

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更に先へ。

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人工的な地形がずっと続くんだけれども、小規模な感じ。1人でスコップ担いで数日間働けば完成しそうな雰囲気の小さなやつだ。

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鉄塔を示すやつ。

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広い感じの堀切。本郭と2の郭を守衛している。本当に狭い。
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↑2の郭方面

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堀切の先の山を登る。

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浅間山が見える。右側は蟻城がある山。

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ちょっと高い。本郭より佐久地方が見やすい。

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先に広がる盆地は佐久だ。佐久地方は武田信玄の父親がよく遠征に出かけ、侵攻を繰り返していたらしい。武田信玄の初陣も佐久地方の領主だった平賀源心(平賀源内と名前が似てるね、と思ったら彼のご先祖様らしい)だとか。

佐久自体は866年の書物に記載があり、郡衙も発掘から「存在した」と推定されているほど古くから栄えていた土地らしい。古東山道も佐久を経由していたはず。甲府からも侵攻しやすい場所にある。川があるから米とか食べ物も豊かなのかも。領土にするなら良い土地なのかも。

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この辺りでお城は終わりらしいが。まだ歩けるので先に行ってみようと思う。

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鉄塔の管理用道も続いている。

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振り返ったりしてみるけど。

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さっきみたいにコレといった人工的な雰囲気はない。

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急にやる気が失せたかのよう。造った作業員も嫌になっちゃったのかな。

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堀切? みたいなやつ。

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戻る。

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↑これはなんかやる気感じるよね。ここからがお城跡なのかもね。

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本郭まで戻った。

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気合い入れて造ったのはここまで↑みたいだよ。

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あとはなんかぼんやりしている。

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さよなら本間城。

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帰りは管理用道を見失うことなく歩いてきたので、非常に楽に買えることが出来た。

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三沢川の対岸、隣の山にも鉄塔管理用道があるらしい。鉄塔だらけなのか。

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★★★★☆

子供連れだとリスク高いけど見応えはあった

 

 

 

<本間城>

築城年 不明

築城主 不明

宮の上+宮上諏訪神社

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本日は列車で小海町まで来た。

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「HYBRID TRAIN」とデカデカと車体に書かれている。なにやら世界初のハイブリッド列車だそう。初めて乗ったわ。確かに走り出す時の音がプリウスのそれと似ている気がした。気動車といえばJR四国の2000GT(2000系ガスタービン)しか思い出せない程度に興味ない。

 

この辺りは車で通り過ぎたことはあるけど、ウロついたことはない。小海駅は終点だったし、小海線の中心駅と思いきや。とんだ駅だった。

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通路がこんなだし。戦前みたいな。今時、線路をそのまま渡るような駅があるとは思わず、「えっココ渡っていいの…?」と戸惑う。そんな様子の乗客は私の他にもいたよ。

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小海トンネル…。

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もらってきた。

これだけの用事で2時間くらいかけてやってきたのですが。

 

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2時間もかけてきたので帰るには勿体なく、少し歩くことにした。

途中、秩父事件戦死者の墓という表示があった。

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明治17(1884)年に埼玉(秩父)の農民が武装蜂起し長野のここまできたけど、政府軍に鎮圧された事件らしい。関心がないです…。

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目指したのは↑この高台。宮の上というらしい。現在は小海高校がある。

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遠目から見ると、高台だが広そうな雰囲気。

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台地の周りには本間川という川が流れていた。

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結構な急坂。

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崖の方には馬頭観音らしき石仏がちらほら見えてきた。古い街道なのだろうか。

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この馬頭観音は新しそうだよ。

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随分高くまできた。

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小海高校に到着。

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小海高校の敷地は昔、武田信玄がよく利用した宿営地だと言われている。かなり広い場所だが、跡は残っていないらしい。お城を作ったという話はなさそうだが、たびたびここでキャンプしていたのなら、ちょっろした施設はあったかもね。

件のカードにも武田信玄の話が出ていた。

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佐久甲州街道というのが、現在の国道141号線。「宮の上」がある台地の直下を通過している(さっき通ってきた)。

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小海高校のある場所は平らだが、端はびっくりするほど高い崖。

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先の方は、ちょうど砂時計の中央のくびれた所みたいに狭まっている。その両側には山が迫っている。交通の要衝だと思う。当然ながら、両方の山の上にはお城がある。

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対岸の崖下を、さっき乗ってきたハイブリット電車が通っていった。

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小海高校の敷地を通り過ぎた。

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この先は広い場所はなさそう。宮の上のキャンプ跡地もこの辺りまでなのかなー?

宮の上の北側には本間城というお城がある。

 

この先は畑に民家が点在する里山のように見える。

更に先に進んでいくと、神社が見えてきた。

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神社っぽいので、ここから登った。

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鳥居がない? と思ったら脇道から入ってしまったらしい。

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上諏訪神社だった。

  • 祭神は健御名方命、八坂刃売命、事代主命
  • 創建は応和年間(961~963)諏訪より勧請
  • しかしながら、天正年間(1573~1585)の火災により、宝物・日記など一切を焼失
  • 文政13(1830)年、本間・宮下・本間川・馬流・鎰掛の5か村の総社として現社殿の建設を決め、お金を募り天保7(1836)年に竣工
  • 大工の棟梁は清水惣兵衛重貴(その他の職人達の名前と出身地が書かれている)
  • 天保期の立川流彫刻の代表的な神社建築の一つである

1000年以上の歴史を持つ神社であるようだ。

境内には大きなお社が2、祠は境内にいくつも点在していた。本殿はこちら↓のようだ。

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健御名方神夫妻を祀っているのかな?

もう一つお社がある。

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こちらは事代主命を祀っているのかな? 案内板もなく分からなかった。

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祠の裏側は道っぽい?

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今度は参道から降り、さよならした。

ふとガードレールの下を見れば、何かあった。

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道? 九十九折りの坂道を下がり、見上げたところ確かに道だった。

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古い参道が微妙に残っていたらしい。新しい舗装路に分断されているが、参道はまだ続いていた。

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これを下ると国道141号線の方へ、崖下まですぐ降りることが出来た。

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凄く綺麗な山が見えた。富士山か? と一瞬思ったけど。方角から考えると浅間山だと思う…私は富士山が見たかった。今歩いているこの道が佐久甲州街道の旧道みたい。昔の人々もここで浅間山見て「おおー」とか歓声上げてたのかなー?



★★☆☆☆

眺めが良い、気持ちの良い宿営地だった

 

湯田中駅

家族と出かければロクに御飯も食べられないが…1人だと最高だよ、店構えがオシャレなとこに入れるし、ゆっくり味わえるー! 湯宮神社の近くに目を付けていたお店があって入ったらこんな感じ↓

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ザ☆男飯みたいな。奥のドンブリ位の大きさのお椀は味噌汁入っている。見るだけでワクワクするわ。

発酵食品をテーマにしたお店で、味噌とか麹を使ったメニューばかり。全体的に量が多い。美味しい。そして、20代~30代の「趣味はDIYです」みたいなオシャレで男気ありそうなお兄さん達が働いていた。まさかココ天国では!?

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デザートのアイスとチョコ。チョコには蕗味噌が入っているそうだけど、蕗味噌味はほとんどしなかった。味の奥に苦みがある程度。言われなければ普通のガトーショコラとしか思えなかったよ。

 

この後どうしようかなー? と思ったけど。渋温泉の金具屋見てこようかとか…日帰り入浴やってないし時間も微妙で断念。湯田中駅を見に行くことにした。

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こんなの居たわ。

湯田中駅前は大きなスーツケース引きずった外国人が多く、雪がなくて残念だなという様子。滑りに来た人もいるかもしれないが、多くは温泉に入る猿目当てらしい。わざわざ北信の各スキー場まで滑りにきた外国人が目的を果たせず、でもいいかと気持ち切り替えてまずは猿見に行くらしいぞ! と後で家族が教えてくれた。

 

私が小学生時分では地獄谷なんて静かな僻地で、間欠泉を見に行ってお昼の御膳に紅葉の天ぷらがあった、という記憶しかないや。地獄谷野猿公苑は昭和39(1964)年開苑だそうだが、行った覚えがない。1970年のLIFE誌の表紙を地獄谷温泉に入浴中のキメ顔の猿が飾ったそうで、それをキッカケに有名となったらしい。開苑してからわりとすぐに海外に紹介されてたのか。

元々は餌を求めて里に下りて畑を荒らすようになった猿の害が酷く、駆除の許可をもらうところまで話が進んだが、ある人が猿駆除に異を唱え。「山の奥地で餌を与えて猿の生活圏を管理すれば里での被害がなくなるのではないか?」というコンセプトで猿を手なずけ始めたのが公苑誕生のキッカケだそうだ。そういう概念で運営しているので、管理者以外の餌やりは厳禁、お触りも禁止。他にも禁止事項がいくつもある。管理者は猿を見に来た見学者の行動も監視します、とのこと。禁を破ると猿は餌目当てで人間を襲うようになるし、守れば猿は人間に関心を持たないから温泉の猿を近くで観察できるようになるらしい。

猿の餌やり場が間欠泉がある近くの温泉宿で、子猿が冬場面白がって温泉宿の露天風呂に入る→温まる→それを見た親猿も入って暖を取る→冬場は温泉に浸かるようになる、といった変遷で、スノーモンキーが誕生したそうだ。ちなみに入るのは子猿と雌猿のみで成年の雄猿は入らないらしい。

 

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湯田中駅は温泉も併設されている。先ほどのレストランの店長の話だと「いつも混雑してるしごく普通の銭湯」だそう。確かにいっぱい人いたわ。駐車場も空きなかった。

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温泉の手前は昔の駅舎だった。 

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有形文化財に登録されているそうだ。

  • 昭和2(1927)年に開業した、旧湯田中駅
  • 昭和31(1956)年、上野~湯田中間で急行列車の乗り入れにより現駅舎(反対側)に利用が移ったため廃止

 何故急行列車が乗り入れると駅舎も変えなきゃならないのか? 技術的な理由かと思ったけど、単に東京からの観光客を招くために新しくしただけなのかな? そんな急行列車も昭和57(1982)年に運行終了していた。急行列車が来ていたときが一番賑わっていたらしい。何か昭和っぽい雰囲気の場所だなと思ったよ、そのまま時が止まっている感じだわ。

湯田中駅舎の中は、展示室と掲げられていたが、どちらかというと観光案内所だった。

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このスペースは駅の事務室だったようだ。駅の待合室や改札口だった場所は簡素な会議用テーブルみたいなのが置かれ、持ち込みOKで御飯食べたり出来る場所になっていた。そちらでは家族連れが何か食べていたよ。

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切符売り場の中かな?

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外国人向けのパンフレットの方が多かったかもしれない。分厚いパンフレットは日本国内の国立公園の詳細な案内だった。湯田中は「上信越高原」という名称の国立公園の玄関口に当たる。モデルコースも設定してあった。

  1. 東京駅出発→鉄道を乗り継いで湯田中(昼食)→上林温泉スノーモンキー見学→湯田中に戻り渋か湯田中の温泉宿に1泊
  2. 湯田中or渋→志賀高原バックカントリーツアー→草津志賀高原で1泊
  3. 志賀高原1日フリー
  4. 志賀高原→長野・善光寺→東京駅到着

スキーやらないからなんとも言えないけど、バックカントリーは楽しそうだよなー。

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駅舎時代のものはあまりないようだが。

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謎のフェルメールルノワールゴッホの偽物。他にも掛け軸の仏画?1点と印象派の絵画複製物3点が飾られていた。元駅長の趣味で飾られていたものだろうか。特に「真珠の耳飾りの少女」が2点もあり、情熱を感じる。

 

旧駅舎の外には、レンタルスキー板の生まれ変わりが置いてあった。

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ベンチ。

 

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最後はコイツ↑の出発を見届けて帰った。4両しかいなかったよ、短かったな。

 

 

★☆☆☆☆

英語のパンフを持ち帰って、解読を試みようと思います

 

 

<旧湯田中駅

昭和2(1927)年 開業

湯宮神社+動き岩

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自力・他力でようやく半分集まった。釜トンネルをもらってきたぞーやっほー。

 

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本日は1人で出かけて良し! と許可をもらったので。ここに来た目的はもちろん例のカードである。カードもらうだけだと一瞬で終わるからな。 何年かぶりに1人でウロつく時間も出来たぞー。

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スキー場と温泉が名物のここ、驚くほど雪がない。でも道の駅は混雑していた。リンゴが大量に売っていたよ(暖冬のせいでまだ採れるの?)。

 

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なんとなく行き着いたのがココだった。神社の一角に駐車スペースがあったのだ。 湯宮神社といい、この辺りの産土神らしい。

 

  • 御祭神は、健御名方神・大國魂神・軻遇突智神金山彦神豊受大神
  • 神代に、大巳貴命と少名彦名命がやってきて温泉を開いたという伝承がある
  • 湯宮山脈最高峰の岩菅山の山頂に奥宮があり、少名彦名命を祀る
  • 岩菅山頂の奥宮は岩菅大権現と称し、宝暦10年社領を与えられる
  • 諏訪社は永禄2年に祀る
  • 明治6年、村社
  • 明治25年、諏訪社→湯宮神社と改称、秋葉社神明社・地神社も合祀
  • 明治26年、金比羅宮も合祀

 

岩菅山は湯宮神社より東へ13kmほど離れた山のことで、標高2300mで登る気力がわかない。案内板の内容通り、頂上に祠があるそうだ。大巳貴命とは大国主神(大國魂神)のことで、少名彦名命は大国主神の国作りに参加したイタズラ好きの小さい神様だそうな。この2柱はセットで扱われる事が多いそうだ。岩菅山の祠には少名彦名命が祀られているからか、里宮?のここは大国主神のみ祀っているのだろうか。

と思ったら、湯宮神社は御柱祭やっているそうだ。元々は諏訪社だったらしい。案内板の記述の半分が大国主神と少名彦名神の話なので、その辺の謎がちょっと気になるよー。

 

この辺りは1万6千年以上前(旧石器時代)から人が住んでいるみたい。黒曜石製の石器も出土するし、3千年以上前(縄文時代)の遺跡もいくつか残っている。特に佐野遺跡から出土した縄文時代の土器(佐野式土器)は中部地方独特の様式を表しており、そのため指標になっているとかいう。土器の様式から日本全体の交易の様子と文化の伝播が分かるそうで、土器により文化圏が徐々に統合していき縄文時代末期で東日本・西日本の2つで落ち着くという変遷を辿れるらしい。

 

神社の伝承では島根在住の大国主神とその仲間達が遠く離れた長野の山奥で温泉を開いた、とのこと。日本各地には大国主神と少名彦名神の開湯伝説というものが散らばっているそうで、それらは主に6世紀半ばより前に発見された温泉に多い伝承みたい。湯田中温泉縄文時代から温泉が湧き出していたそうだが、文献上は「天智天皇(626~672)の時代に僧・智由により発見」というのが初出らしい。

軻遇突智神は火の神様で秋葉社金山彦神はゲロから生まれた神様。豊受大神は食べ物の神様で神明社かなー? とすると、ゲロの神様は元は地神社で祀られてたのかな? 調べると金山彦神は鉱山の神様だそうな。地元の観光協会の公式サイトでは「地神社(産土神)、金山社を祀る」という内容の記載があるので、地神社は別の神様かもしれない(じゃあ大国主神かなー?)。

この神社から直線距離で2kmほどに金倉鉱山という鉱山があったそうで。褐鉄鉱(天然の錆びた鉄で鉄鉱石)と蝋石(耐火煉瓦・ガラス繊維の原料)と蛍石(製鉄用の融剤)が採れたらしい。1919(大正8)年に採掘開始、70年程前まで操業していたらしいが今は閉山。近くには他にも下高井鉱山というのもあったらしいが、場所不明。この辺り温泉だらけだもん、鉱脈もありそう。

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端っこには神楽を仕舞っている建物があった。

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金比羅宮のみ、独立して案内板があった。

梅翁寺は今もあって、足湯に浸かるお地蔵様が有名らしい。

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拝殿と本殿の間に川が流れていた。

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参拝者は私の他にカップルがおり、カップルは建物奥に消えていった。

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動き岩というものがあるらしい。

カップルのすぐ後をつけていくのは気が引けたので、離れて登ってみることにする。

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途中、分かれ道があった。「雨含の松」と書いてある標示が。これも観光名所なんだろうか。

 

とはいえ、「動き岩」なるものを全く分からないままだし、カップルも男が女を気遣ってゆっくり登っていくので追いつきそう。写真を撮るふりをして時間を潰していたら、誰かの声がした。

見れば、下の道路から地元のお爺さんが私を呼んでいた。何事かと話をしたら、どうやら私が「動き岩」の場所分からなくて迷っていると思われたらしく。「動き岩はもっと上だよ、登って!」と言われた。

動き岩とは一体? と聞こうかなと思ったけど、なんかそんな雰囲気じゃなかったので止めた。

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岩が見えてきた。あれが動くのか?

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ごく普通の丘に突如の岩山。てっぺん付近だ。

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小型の動物の住処になりそうな窪み。蛇でも出そうだな。

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で、動き岩って何? 案内板があった。

 

  • 古来より、神の御座所、磐座として崇拝されてきた
  • 湯治場を開き、民の病を癒やしたと伝えられる大巳貴神大国主神)を産土神として祀り、湯宮と呼んだ(里宮とした)
  • 岩菅山に奥宮を建立し、大治元(1126)年に少名彦名神を岩菅大権現として祀る
  • 武田信玄により湯宮に健御名方神が勧請され、永禄2(1559)年諏訪社となった
  • 国を造った大国主神と少名彦名神の2神と一緒に国造りに尽力した須勢理比売命(大国主神の正妻)と事代主命大国主神の子、健御名方神の兄)もこの地(神社裏の丘)に祀り、湯宮山と称した
  • 大立岩の夫婦岩大国主神と須勢理比売命
  • 夫婦岩の隣の烏帽子岩事代主命
  • 南側の蟇岩(ひきがえるのような岩)は少名彦名神
  • 蟇岩は神力により指一点で押すと動き、古来より「動き岩」と呼ばれている
  • 磐座の間をすりぬけると生まれ変わる事が出来る
  • この場所は今も神域である

 

湯宮神社の元の御祭神は大国主神で、岩菅山の岩菅大権現の祠(奥宮)と対になる神社(里宮)だったようだ。それが武田信玄のせいで主祭神の座を健御名方神に取られてしまった。ただ、磐座があるので本来の祭祀の場は小高い丘(湯宮山)なのかもしれない。

やだ、ふらっと来ただけなのに恐ろしく古い起源の神社に出くわしちゃったのかもー。嬉しいわー。

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急に現れた聖徳太子

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大山津見命。山の神様。一般的には「大山祇神」と称される神様のようだ。神社庁の調査でこの神様の表記は大山祇神85%、大山津見神9%、大山積神5%という結果があるらしい。こちらのは日本で9%の珍しい形態だね!

大山祇神伊弉諾尊伊弉冉尊の子で、軻遇突智神の兄弟に当たる。また、伊弉諾尊伊弉冉尊の子である素戔嗚尊の奥様・奇稲田姫大山祇神の孫で、この夫婦から産まれた子供は大山祇神の子と結婚している。また、大国主神の奥様・須勢理姫素戔嗚尊奇稲田姫の娘である。そして大国主神自身も大山祇神素戔嗚尊の子孫でもある(大山祇神の娘と、素戔嗚尊(と結婚した大山祇神の別の娘と)の息子が結婚しており、その夫婦の子孫が大国主神)。神様の世界の婚姻関係はなんてややこしいんだ。

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さっきの聖徳太子大山祇神の説明は一切なかった。

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これが磐座らしい。

立て札は、新しい方が「奉納 大石大注連縄金安祭典奉仕会」で古い方が「奉納 金倉神社祭典奉仕会」かな? この立て札の後ろが事代主命烏帽子岩じゃないかと思う。右側の横長の岩が少名彦名神の蟇岩、動き岩かな。動かさなかったです。

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夫婦岩はこれだろうか。

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引きで見てもよく分からなかったー。
磐座の間をすり抜ける「胎内くぐり」もやらなかった。生まれ変わってもあんまり嬉しくないや。

 

丘を下りて、さっきよく分からない標示があった分かれ道に戻った。

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「雨含の松」というのを見に行ってみようと思う。

 

途中にも神社があった。

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うち捨てられた神社? 手前に木の看板があったけど、ボロボロだった。頑張って読もうとした。

 

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無理だった。

両端は文字が辛うじて残っているので「御稲荷さん」だと分かるものの、真ん中は文字が完全に消えている。

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なんかねー色々不気味なの!(後ろのお宅は廃墟です)

2014年は木々が多い茂っていたようだ。奥にある赤い鳥居が御稲荷さんと思われる。 

 

近くには、また別の神社があった。

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ここに「雨舎の松」があるようだ。「うがんのまつ」と読むそうな。

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雨含の松 跡碑

樹齢三百数十年の雄姿を誇り吉沢の里の平和・安全を見守り続けた雨含の松は使命を終え ここに眠る 未来・永劫見守りあれ

                    吉沢組一同

平成二十四年四月吉日

 

という看板があった。枯れてしまったのね。 

山ノ内町指定の天然記念物で、2011年11月に枯れてしまったので伐採したとか。看板が立てられたのは翌年、この辺りの人には親しまれた巨木だったんだな。巨木愛好家には有名らしく、在りし日の「雨含の松」をネットで見ることが出来た。傘みたいな松だった。神社の御神木だったのかも。

 

神社の方も古い縁起があるらしい。座王神社という名前で、室町時代以前からあり安産の神様として知られているとあった。戦時中には「武運長久」「無事帰還」を祈願した人達に御利益をもたらしたみたい。

 

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安産の神様は石仏だという。蔵王権現堂とも呼ばれているようだ。蔵王権現は日本独自の仏様で、修験道においての本尊。釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩が合体した神様。神道だと大巳貴命・少名彦名命・国常立尊日本武尊金山彦神などの神様が合体したことになっていた。すぐ後ろ山だし、昔は修験者がウロウロしていたのかしら。

蔵王権現って安産の神様だっけ? と思ったけど。蔵王権現は「ありとあらゆるものを司る王様」で、すべての神様仏様と同じ能力を持っているという何でも出来ちゃう凄い神だそう。安産や子の健やかな成長にも御利益もたらすし無事に兵士が帰還できるし武運長久もOK。万能じゃないの。

「無事戻ってくる」御利益は最近出来たものかも? ここにお祈りして出征した兵士達が誰1人欠けることなく戻ってきたから信仰されているためらしい。言い方から何となく太平洋戦争の話かと思った。

 

★★★★☆

磐座なんて素敵だった

 

 

<湯宮神社>

創建年 不明

御祭神 健御名方神

 

 

大昔からの温泉地ということで、公会堂すら銭湯に。

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鬼無里神社

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鬼無里神社は鬼無里村の郷社らしい。村の中心部にありながら、そんなに凄い縁起はないらしい。村内には古くて謂れのある神社がいくつかある(天武天皇の遷都計画時に鎮守として建てた白髯神社・賀茂神社春日神社がある)ので、帰りがけにこちらもどうかな? と思って覗いてみたんだけれども。

 

鬼無里神社

湖底が地上に現れて魚山が出現し、その頭部館山に神竜の精を祀って諏訪明神招請したものという。

8世紀末、征夷大将軍坂上田村麻呂蝦夷平定のため、10世紀末に平維茂が紅葉退治のため祈願所にしたと伝えられる。

 

と、書いてあるだけだった。

ちょっと何言ってるか分かんないと思ったけど、前半部分は「元々鬼無里は湖だった」という伝承のことらしい。

これは鬼無里村全域に伝承が残っているそうで、鬼無里神社の他に証拠となるモノが点在しているらしい。現在の鬼無里村中心部は山に囲まれた小さな盆地で、ここがすべて湖だったので、南北の岸をロープで繋ぎ、それを頼りに船で行き来していたとか(船着き場跡は神社として残っている)。それがあるときに、山崩れのため湖水がすべて流れ出して水が無くなってしまったから、水無瀬村(鬼無里の昔の名前)が誕生した。という筋書き。

魚山は水が干上がったあとに出現したという。名前から、逃げ遅れた魚がピチピチしてたような感じの場所だったんかねー?

 

大昔は湖だった系の、似たような伝承は日本中にあるけれど。毎回「誰がいつ決壊を見たのか」と気になる。大災害だし。

鬼無里盆地は少なくとも685年には遷都計画で都から調査団が来ているし先住民(鬼)が住んでいたからなー。災害直後ではなさそうだわ。500年頃の出来事だったら口伝もギリ残ってて、大陸から伝わった文字で書き残せる時期だろうか?

 

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御祭神は諏訪明神の二柱と素戔嗚尊大物主神と明治の終わりに合祀された金比羅さんの五柱だそう。

元々は「従前諏訪大明神」という名称だったそうだ。創建年は不明だけど、平安時代初期にはあったということらしい。

江戸時代を通して鬼無里村の総社だったようだ。お祭りは賑やかに行われていたらしい。小津安二郎の映画に出てきそうな感じの鎮守社っぽいのかな? ちなみに小津作品は1本も見たことないです。あくまでイメージで!

 

 

★★☆☆☆

所々が戦前っぽい雰囲気の村だった。

 

 

鬼無里神社>

創建年 不明

御祭神 健御名方神・八坂斗売神

松巖寺

先々月(駐車場で荷物を積んでいたら、隣に停まっていた車にバックしてきた車がぶつかった)と先月(自宅で「外がやけにうるさいな?」とカーテンを開けたら窓下にボンネットが潰れた車&警察官が20人位いた)と身近で交通事故があった。まだ今年は何も起こってないけどやだなー。

 

まずは、鬼無里まで遠征した。鬼無里までの道のりは最高でしたよ。新旧トンネルが入り交じった訳分かんない世界。おどろおどろしくてボロボロのトンネルもあれば、ピカピカの真新しい感じのトンネルもあった。ランダムに色んな姿のトンネルやってくるんでとても楽しかったですわ。どんなやつ来るんだろうという期待感。トンネルが7、洞門が2あった。

一番良かったのが裾花大橋だった。同時期に造られたダムもあり、景勝地にしたかったような橋だよ。モータリゼーションという言葉が大人気だった時期のものじゃないかな? あの時代の建造物って高揚感あるよなー。

明治19(1886)年開通という最初の鬼無里街道も、ダム湖の底に沈んだり、代わりのトンネルが出来て旧道は自然に還っているみたい。私のイメージは「鬼無里遠い」だったのに、新しい道は思ったより距離が近いと感じたよ。

帰ってから、鬼無里へ行く道かっこいい。っていう話をしたら、身内に「意味分かんない」とドン引きされた。

 

鬼無里にはまだ雪が残っており子供には喜ばれた。

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ふと見ると、立派なお寺さんが見えた。用事が済んだら行ってみようと、地元の人にお寺さんのことを伺ったところ「あれは松巖寺である」と返ってきた。

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鬼無里は鬼女紅葉伝説で有名な山間の村で、この松巖寺には紅葉の墓があるそうだ。

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元々、この場所には紅葉の守護仏だった地蔵尊を祀っていたそうで。

説明板には、

  • 安和2(969)年、戸隠山で鬼女紅葉を滅ぼした平維茂は、紅葉の守護仏地蔵尊を祀るために堂宇を建てた
  • 「釜岩紅葉大禅定尼」の法名を贈り、紅葉の供養をした
  • 立山地蔵院である
  • 元和元(1615)年、松巌芳祝禅師を迎えて松巖寺と改称した
  • また、京へ向かう木曽義仲が地蔵院に参拝したときに文殊菩薩を安置したと伝わる
  • この文殊菩薩は、寛永2(1625)年に聖観音を本尊とした観音堂を建立した際に脇本尊として安置した

安曇野の青原寺から松巌芳祝禅師を招いて新しくお寺を創ったそうだ。どういう関係なのかな? と思い調べてみた。松巌芳祝は戸隠にある、紅葉と平維茂菩提寺・大昌寺の住職も務めていたそうで。この縁で招かれたのかな?

 

大昌寺の前身は永正年間(1504~1521)に福平城主の溝口氏の開基した真言宗密蔵寺と伝わるそうで、一度荒廃したあとに青原寺の7世住職だった松巌芳祝が再興したものだという。松巌芳祝はやり手だったようで、上記3つのお寺の他、竜門寺と明松寺の計5ヶ寺の住職を務めていたそうだ。大昌寺は再建した際に幕府から寺領を寄進・安堵されて現在の寺号に変更していた。

 

 

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土地の名前の由来にもなった鬼女紅葉は元は京都の人。

  • 伴氏の娘・紅葉という美しい娘がいた
  • 長じて、源経基という人に見初められて側室になる
  • 妊娠中の紅葉は源経基正室を呪い殺そうとした
  • バレて信濃国戸隠へ追放
  • 追放先の戸隠・鬼無里の現地民に憐れに思われ、住まい提供などの世話をした
  • 紅葉は大層喜び、お礼に病人の面倒や裁縫・読み書きの教授など現地民と親しく交流した
  • 男の子を産み、この子を源経基に見せたいなと考え兵を募り上京することにした
  • 世話になった現地民に迷惑をかけたくないので嘘をついて村を去る
  • 山奥の山賊を雇って縁のない村を襲いながら金を貯めた
  • その荒稼ぎの噂が京まで届いて、朝廷から追討軍を派遣されてしまう
  • 将軍は平維茂という人で、山賊は呆気なく敗れる
  • 紅葉は妖術を用いたが、別所の北向観音から宝剣と加護を得た平維茂に宝剣で刺された(なんと宝剣を弓につがえて放つ、という荒技で)
  • 享年33歳

可哀想な話である。義理堅い人のような気もする。鬼無里では「紅葉は素敵な人」と伝わっているらしい。村を荒らさず恵みをもたらしたしね! まぁ1日でも早く大金を得たいなら、もう強盗しかないのかなとも思うけどねー犯罪だけどさー。

この伝説は能の演目になったり色々な書物に書かれたりと、大昔から有名らしい。

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ここは聖観音を御本尊とした観音堂寛永2(1625)年に、地蔵院跡に建てられた。脇侍として、木曽義仲が上洛するときに寄進していったという文珠菩薩も置かれたと案内板に書かれていたけど、その文珠菩薩はここにいないらしい。ここから5km離れた土倉文珠堂という別の場所に安置されているという。

土倉文珠堂は寛政7(1795)年に創建されたようだ。長野市文化財データベースによると、この観音堂の中はたくさんの観音像があるようだ。案内板にも、

  • 2世、承応2(1654)年に西国霊場33体の観音像を安置
  • 4世、西国・板東・秩父の三大霊場の100体の観音像を安置
  • 16世、明治28(1895)年に馬頭観音を勧請

この他にも算額が奉納されたりしているようだ。

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馬頭観音の石仏群

 

文珠菩薩は手狭になってしまい、木曽義仲ゆかりの地である土倉にお堂(土倉文珠堂)を造ってお引っ越ししたのかね。

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↑こんな看板まであったんだよ。 

 

鬼女紅葉の時代よりもっと前に、この田舎村に都を作ろうとしたことがあったらしい。それが「鬼無里」のもうひとつの由来だそうだ。

  • 天武天皇13(685)年、当時の飛鳥京から信濃国水無瀬へ都を移すために三野王、小錦下釆女臣筑羅ら調査チームが送り込まれる
  • 調査チームは館を建設し、西京・東京といった京都っぽい地名をつけたり、賀茂神社春日神社を勧請した
  • 水無瀬に以前から住んでいた鬼達が「住む場所を追われるのでは?」と危惧し、調査の妨害を決意
  • 夜、鬼達は水無瀬に山を運び、入れぬよう塞いでしまった
  • 天武天皇は怒り、阿倍比羅夫を遣わして鬼を退治させた
  • 鬼は見事退治され、いなくなった=鬼無里と呼ばれるようになる
  • 一夜山は今も存在している

後に「飛鳥浄御原宮」と名付けられる飛鳥岡本宮に新たな宮殿を建てたものの、満足できなくて、ずっと新しい都を建設する土地を探していたらしい。天武天皇5(676)年に遷都計画を立て、天武天皇11(682)年には三野王らに土地を調査させ、天武天皇13(684)年都の建設予定地を決めた。後の藤原京であるそうな。天武天皇は複都制を考えており、天武天皇12(683)年難波京を置いた。もう一つ東にも…と考えたらしく、信濃国へ人を派遣し視察させたがそちらは不調に終わったのか、朱鳥元(686)年、天武天皇崩御でそのまま開発されることもなく今に至る。

天武天皇はなんで本拠の奈良から離れた、辺鄙な場所に都を?  という感想ですよ。

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観音堂の中では、誰かが走り回る音が聞こえていて「座敷童!?」と騒ぐ(お寺のお子さんが入り込んで走っていただけ、と後に判明)。正体不明だったときは本当に神の仕業かと思っていたよー。

 

★★★☆☆

うちの子供は外で走り回り、転んで着替えが足りなくなった

 

 

<松巖寺>

 創建年 元和元(1615)年