やーっと資格試験の結果きた。春ですよ。実務経験いつ積むか・もう少し関連資格取っておくかで悩み中。どちらが転職するのに楽なのだろうか。
科野大宮社にきた。こちらの御祭神は大己貴命・事代主命の二柱と健御名方神も祀られているという、長野によくあるような神社だと思った。
ここは長野県内でも相当古い部類の神社であるそうだ。延喜式以前からあったらしいが、延喜式には載っていないとか書いてあった。「総社」というタイプの神社だとも言われいるとかで。
総社というのは、
という理由で創建されたものらしい。国中の神社を巡るとものすごい時間がかかって面倒だから簡略化しよう、ということ。
最初の信濃国府が上田市内にあったそうなので、推定「信濃国総社」となっている。その後は松本市に国府が移ったので、松本市に新しく信濃国総社を建てたと推定されている(上田市のものはそのまま残されたようだ)。
市街地にあるためか、境内は広くない。ただし幹がぶっとい木が何本かあるよ。
摂社もなんかいっぱいあった。子安社とか稲荷社とか。
大きな石碑があり、そこに縁起が書かれているようだ。
「科野大宮の碑」というタイトルで、大勲位彰仁親王という人が題字を書き? 文章は枢密院顧問官正三位勲一等伯爵副島種臣が書きました。というような感じの仰々しい石碑だった。
彰仁親王は小松宮彰仁親王のことで、伏見宮邦家親王の第8王子(親王宣下を受けている)だったが出家→仁和寺の門跡→勅命で還俗する→軍人→活躍したので家格が世襲親王家にランクアップ(もともと一代限りの皇族だったのが永世皇族になった)→軍人としてさらに出世(陸軍中将→陸軍大将→初代近衛師団長→参謀総長→征清大総督→元帥)→英国王戴冠式に出席(現英国女王の祖父のエドワード7世)→後継者で揉めたため(最初は実弟を養子としたが、長年かわいがっていた甥を後継者にしたいと考え色々工作したが叶わず)彰仁親王薨去後は小松宮家が断絶してしまう という人生を送った人。
副島種臣は佐賀藩士の出身で、藩校の教授(槍術)を代々勤める家に生まれる→実兄は佐賀藩内に尊王と討幕を布教する政治結社「義祭同盟」を主宰していたので、それに参加する→江戸時代には英語を勉強している→明治維新後いろいろあって出世し外務大臣に→政変で政治家辞める→中国大陸に渡って3年くらい旅行する→帰国後は天皇の家庭教師→枢密院(天皇の最高諮問機関)のメンバー入り→内務大臣で政界復帰→3か月弱で失脚→枢密院顧問官復帰→在職中に死去(76歳) という感じだった。
立派な人たちなんだろうが、両人ともなんとも言えない人生を送っている…。石碑は2代目で、初代は漢文(副島種臣は中国で3年生活する程度、中国語をマスターしている)だと書いてあった。初代の碑は彰仁親王さんが陸軍大将・副島さんが枢密院宮中顧問官と、上り調子だった頃の明治22年11月に建てられたようだった。
明治頃の石碑って高名な人物に揮毫とか頼んじゃっている場合が多いように思ったけど、お金積めば書いてもらえたのだろうか? ってつまらないことを考えてしまう。中央の政治家より地方の名主達の方が、意外と金持っていたのかなー?
内容はこんな感じかな↓
- 崇神天皇7年、科野国造の五百建命が創建
- 主祭神は大己貴命(大国主)と事代主命
- 科野は後に信濃と名前が改められたが、科野と呼ばれた頃から社があったためにその名が冠されている
- この常田は古須波と称され、近くに国衙があったので須波ヶ岡または国衙台と呼ばれていた
- 天武天皇13年、都を科野に移そうと三野王(美濃王)と采女朝臣筑羅(采女竹羅)に地形を調査するよう命じ、この地に来て社に祈願した。天武天皇は社に土地を寄進した
- 文治年間、常田は八須波条院(八条院)暲子内親王領であり、常田荘と称した。華表(鳥居?)を山の上に建てている。南にある鳥居場という場所はその旧跡。
- 康安2年、鎌倉管領足利基氏が「彗星が現れた、何事も起こらないように」という願文を奉納。この頃には社の規模が南北8丁(約873m)東西6丁(約655m)となっていた。
- 承平の乱では、平将門が兵を連れこの地に現れた。小県の国造だった他田大鴨(万葉集収録の「防人の歌」の作者の他田舎人大嶋)の子孫である他田真樹(小県の郡司)は平貞盛に加勢し将門と国衙台の下常田の河原で戦ったが、このために社域が荒廃してしまった
- 享禄・天文年間、小県郡の豪族の上田、常田、海野、真田が隣郡(更級郡)の村上一族と争い止まず、天正元年ようやく再建された
- 真田氏と徳川氏が度々争ったために再び荒廃し修復するものもおらず、古例にのっとり租賦(=穀物奉納と労働力提供)を取り立て修復していた
- 毎年正月15日(上田)藩主自ら儀式を行っていたが、明治になり廃止された
- 常田の人々はこの事跡が忘れ去られることを恐れ、私に「事のあらましを述べ銅の碑に彫って後世に残したい」と許可を求めてきた
付記
- この碑文は銅碑に漢文で彫られていたが、太平洋戦争時の昭和18年8月政府の金属類回収令で献納されたために初代は失われた
- 有志により再建がかない、広島大学名誉教授正四位勲二等文学博士手塚吉道氏・門下の文学士小林勝人氏に依頼し、国文に改め石に彫り長く伝えるものである
- 横関豊龍書 藤澤群黄刻
- 昭和33年4月29日
とあった。
付記に登場する人物は、
手塚良道さん
- 本籍は愛知県
- 東京帝国大学文学部支那哲学科卒→愛知県立第五中学校教諭・新潟高等学校教授→広島高等師範学校教授
- ちなみに、広島高等師範学校が大学化→広島文理科大学→戦後の大学統合で広島大学 という変遷で手塚さんは「広島大学教授」になっている
- 家族は妻と息子1人、娘2人
- 専門は漢文
- 日本中国学会(日本における中国文学・中国哲学の研究者の学会)の理事を務めた
- 息子さんは運輸官僚→元海上保安庁長官
手塚さんは有名な方だったらしい。昭和3年の紳士録が閲覧可能だったので、手塚さん分を見たけど。家族の情報や住所まで載っていたよ。昔は大変だなー。
小林勝人さん(多分↓)
横関豊龍さん
- 地元の書家?
- 大正時代には信濃黎明会という団体に参加する青年だったらしい
藤澤群黄
- 群馬県にある石材店の号
- 初代が長野県出身の石工
戦後になると、戦前より人選が落ち着いている感じがした。戦前はキラキラ系人物だったのに。
江戸時代に入ってからは上田藩の庇護下、地元民にも大切にされていた神社だったようだ。
★★★★★
場所が良い。飽きたらイオン行けばいいから。
<科野大宮社>
創建年 大昔
近くにはこういうのもあった↓
国指定重要文化財「常田製糸場」というらしい。
群馬の富岡製糸場の仲間だー!
↑常田館(事務所兼住宅)
↓4階繭倉庫
↓創業者住宅・奥帳場・賄い倉
↓守衛所・(奥)5階繭倉庫
↓事務所兼住宅の一部分
古い建物が残っている。
↑5階繭倉庫の近くまで見学が出来る?
…ようだったが、守衛所に「見学は終了しました」とか書かれていた。後で見たけど、「内部の見学は行っていない」ということらしい。つまり、建物には入れないが敷地内は受付すれば入れてくれるようだ。
この場所は会社(製糸場を創業した一族が経営しているみたい)の私有地だが、人の姿は見えない。車は出入りしていたので、人は居るはず。
ちなみに築年は
- 5階繭倉庫 明治38(1905)年
- 常田館 明治39(1906)年
- 4階繭倉庫 明治45(1912)年(現在の建築基準法に適用させるため改築する)
- 5階鉄筋繭倉庫 大正15(1926)年
↓左にある5階鉄筋繭倉庫(ベージュ)
大正時代に鉄筋の五階建てビルかー。明治末から大正時代にかけて鉄筋コンクリート造りの技術が日本に入ってきたそうだ。元々あった建物が火災に遭い、翌年完成させた建物らしく、景観的にはベージュの部分だけ異質だわ。
近くの広い駐車場に怪しい看板あった。
狐坂の嫁入り桜という、伐採されずに残された桜が。
裏手は高台だし、狐坂とかいう坂道でも昔あったんか。
- 昔、信濃国に子狐を助けた老人がいた
- 子狐は成長し、嫁入りを迎えた
- 老人に「あのときのお礼」と素晴らしい引き出物を持参した
という話から、この桜を嫁入り桜と呼んで「縁結び」「子宝」に恵まれる桜と言われる。と書いてあった。そういう看板があるわりには祠とか一切ないです。素晴らしい引き出物も中身は金銀財宝系なのか未来の繁栄を約束する系なのか、はたまたドングリとかの残念品なのか…?
まんが日本昔話(1980年5月3日放送分)に「きつねのお礼」という話が放送されており、内容が似ていた。というか、具体的な民話はコレしか出てこなかった。元ネタは「信濃の民話(1957年刊)」収録の「きつねのお礼」で、南佐久郡八千穂村で聞き取ったものらしい。
- おじいさんが雨でびしょ濡れになった子狐を家に入れ、雨宿りさせた
- 子狐は雨が止んだ頃、山に帰っていった
- 子狐は毎日おじいさんのところに来るようになり、おじいさんは時々所用で町に出かけたが帰りを待つ子狐のためにお土産の油揚げを買ってくるようになった
- ある日、町から帰宅したおじいさんは雨に遭い、寝込んだ
- 子狐はおじいさんの看病をし、全快したおじいさんは子狐にお礼を言った
- 町へ出かけるおじいさんは子狐に「油揚げ買ってくるから待っててね」と声をかけた
- 子狐は、その日母狐と一緒に帰りを待っていた
- 母狐は持参した折り詰めをおじいさんの所に置いた
- 子狐は寂しそうな様子で母狐と山に帰っていった
- 折り詰めは豪華な料理が入った婚礼用のだった
- その日、少し離れた村では大きな婚礼があった。折り詰めが一つなくなって大騒ぎになっていた
お礼の品も盗んだものか! おじいさんが泥棒の疑いかけられなくてよかったよ。
看板に書かれた内容のものは「そういう話が信濃国にある」程度しか分からなかった。