お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

小柴見城

小柴見城は現在、大部分が浄水場となっている。

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その為お城までの道路状況はかなりよく、車でサクサク上れる好立地。

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こんな感じの山道を上ったところにある。切通風の道だが、実は本郭と2の郭との間にあった堀切を流用した道路らしい。

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右側が2の郭だった場所らしい。しかし、2の郭は浄水場化しており立ち入れないし跡もなくなってそう。では本郭はどうかというと、こちらはそのまま手つかずで残っているらしく。

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↑コレが入口。

ちょっと行ってみる。コンクリで覆われた部分は土塁の名残であるらしい。

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入ってすぐに、何やら急斜面が出てくる。実は現在道路になっている堀切跡の他にもうひとつ堀切があり、手つかずでそのまま残っていた。

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道は細い。ごく普通の山道に見える。

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しかし歩きやすく整備されているような? 知名度も低めで地味なお城だけど、もしかして展望台なんかに整備されてるとか? 入口も綺麗になっていたしな。

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↑奥の高くなっている部分が本郭の土塁。

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うーん、お城っぽいものもあるけど、なにか普通の里山の風景に見えるー。土塁・堀切にしても自然に還りつつある感じ。などと思いながら歩いていたら突如。

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建物だぁ。

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この場所が本郭跡地じゃなかったかな…人気はない。見た感じ私有地のようだ。人に出くわしたら嫌なので、早々に引き揚げる。にんげんこわい。

 

小柴見城の来歴はよく分からないらしい。

戦国時代にこの辺の豪族に「小柴見氏」がいてその居城だったとか、小田切氏に属するお城だったとか、いやいや起源はもっと古くて南北朝時代信濃守護所の詰城として造られたとか。どの説も確定的ではない。吹けば飛んでいくようなちっぽけな豪族だったらしい小柴見氏は、小田切氏の配下だった、栗田氏の配下だった、とアレコレ言われている。

田切氏配下説。弘治3(1557)年に小田切氏と共に葛山城で戦い、武田軍に敗れて滅ぶ?

栗田氏配下説。栗田氏は武田方に属した→第4次川中島合戦で上杉のスパイやってたと言われる→永禄5(1562)年に武田軍に滅ぼされ小柴見氏・小柴見城消える。

という感じで、どちらにしろ結局は武田に滅ぼされてしまっている。時系列から考えると、小田切氏家来→栗田氏家来→滅亡という順序なのかなー?

お城の戦闘記録はこれといってないらしい。が、南北朝時代の元中4/嘉慶元(1387)年に地元の豪族連合軍が守護所を襲って勝利するという事件が起き、この時襲撃した守護所というのが小柴見城の近くにあったとされている (「平芝守護所」という名前で、今の平柴にあったと思われるが場所は定かではない)。この守護所と小柴見城が関係している(守護所の詰城=小柴見城だったのではないか)ということらしく。ひょっとしたらお城での戦闘があったのではないかと思われる。ちなみに正平24/応安2(1369)年にも守護と地元豪族の間で戦争が起き平柴に守護方が陣を置いたという記録がある。このとき小柴見城があったかは謎だが、もしかしたら原型はあったかもしれない…防御設備もない場所に陣なんか置かないだろうし。

南北朝時代は北信の豪族が信濃守護・幕府に対して反抗的な態度をとっていたそうな。大塔合戦以外にも揉め事はしょっちゅうで、幕府は手を焼いていたらしい。平芝守護所の記録はほとんどないらしく、これは北信平定のために守護が置いた前線基地のようなものだったからかも?

 

その後とりあえず浄水場へ向かう。こんな公園が併設されていた。

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初めてきたのでよく分からないが、これもお城跡地に作られているのでは? とウキウキして入ろうと子供を車から降ろそうとした。

寝ていやがった。先ほどの本郭から車で3分くらいだぞ、寝るの早っ。

 

仕方ないので、入り口付近だけ写真に収めてみた。

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何もなさそうだ…。

 

★★★☆☆

けっきょく公園には行き損ねたが、公園ついでのお城散策に良さそう。

 

 <小柴見城>

築城年 不明

築城主 不明

構造 山城

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木曽殿屋敷

朝日将軍といえば木曽義仲である。そしてここは朝日山の近く、木曽殿屋敷と呼ばれるお城跡がある。

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ここに古いお屋敷があったことは間違いないらしい。木曽義仲縁者のお屋敷だとか、守護の小笠原氏の館じゃないかとか、ここから歩いて10分ほどにある朝日城城主の朝日氏居館だとか、色々な説を読んだものの確定的な説は未だになし。だいたいいつ頃に使われたのか具体的な時期も分からない、謎のお城ということになっている。

「木曽殿屋敷」というのは、朝日つながりでとりあえず木曽義仲にしとこう、というノリで生まれた短絡的な伝説なのかもしれない。というか、ほぼ関係ないらしい。だいたい、木曽氏の本拠地からかなり離れてる。現代でも高速使って2時間くらいかかるんじゃないの? 遠いよ。遠すぎてこの場所まで支配権が及んでいたとは思えない。ホラ吹くにしても、もっともらしい根拠も一緒に作ってほしいものだ。

高台にあるせいか、とても景色がいい。眼下に広がる町並み。「人がゴミのようだ」と呟きたい権力者志向を持った人向きのお屋敷かもしれない。

 

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お屋敷跡と言われる場所は現在果樹園になっている。平地・土塁をそのまま利用しているようで、地形がそのまま残っていた。堀はよく分からなかったが、道として埋め立てたのかな。

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あらら違うみたいだな。

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果樹園の奥の一段高い場所。あれはなんなのか。どう見ても人工的すぎて怪しい。

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誰の屋敷だったのやら。

 

 

★★☆☆☆

人工物くささはプンプンするけれども、ここは私有地、立ち入り禁止。あの一段高い場所が気になる。

 

 

<木曽殿屋敷>

築城年 不明

築城主 不明

構造 平山城

 

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近くの神社。「諏訪神社」といい、この地区の住民の氏神様だそうな。創建年は不明だが、天文24(1555)年に焼失、武田氏が神社領を安堵し再建と記録が残っているのでそれ以前からあったらしい。

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探すの面倒くさくなったのでそのままだが、神社の境内に古墳があるそうだ。古代人の住みたい場所の条件が

・川がある

・洪水などの影響を受けない山が川の近くにある

と聞いたことがあるので、この辺りぴったりじゃないのーと思った。

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朝日山観音

受験生の合格祈願で有名な神社。そして正月三が日の初詣でも賑わう。

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ここまでの車道がかなり狭い。1車線幅。↓こんな感じなのよ。すれ違い絶望的な箇所もある。

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なので、お正月だと神社の氏子さんたち総出で交通整理に当たる。受験シーズンはどうだったかな…遠い昔過ぎて覚えてないやー。

ちなみに、車道の他に歩道(登山道)もある↓ 入口の看板に車道より近道、と書いてあったけど急そうな感じだね。

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今はお参りのオフシーズンなので、人っ子一人いない。

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この神社の創建は不詳。本尊は聖観音。現世における様々な苦しみ・災いから救ってくれる神様で、特に学問(受験)の神様というわけではない。そういえば何故受験の神様になったんだろう? 学習内容に興味がわかないような受験勉強は苦しいからねえ、勉強地獄から逃れたい=合格して自由になりたい、ということなのかも?

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神社は元々別の場所にあった。朝日山北面の岩屋に祀られていたそうだが、昭和57(1982)年に現在の場所に遷座。というのも、参道が危険過ぎて死者が出ているからだ。岩屋や旧参道自体は今でも残っているが廃道とされている。が、歩く人がいないわけではないらしい。ぐぐったところ、その旧参道を最近歩いた人のレポートが見つかった。読んでみたが、完全に道が崩れて消えている箇所もあり、岩屋はほぼ潰れていた。個人的には興味がありますわ…某有名廃道サイトの踏破レポートをよく読みにいっているような人間だからね。ちなみに、去年(おそらく廃道ファンの)中学生がその道を歩いて亡くなっている。そんな大層危険な道。

 

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この山は善光寺平を見下ろせる場所にあるせいか、お城跡いっぱい。まず山頂に「朝日山城」、近くの大黒山に「朝日城」、大黒山の途中には「木曽殿屋敷」、朝日山の尾根には「小柴見城」があり、大人が効率的に回れば1日で全部行けそうな範囲。朝日山(朝日山城跡)は小学生の遠足で行くらしいし、朝日城跡は神社になっているのでどこかに車を置いて山道を数分歩けば着くらしいので余裕。他2つは車で。

ここら周辺にやたらお城が集中してるのも、交通の要衝だったとか見晴らしがいいとか、そういう理由の他に。もしかしたら朝日山観音の御利益を分けて欲しいという願いもあったのかなーとちょっと思った。

 

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朝日山観音から朝日山城へ向かう登山道があるはずだが、これかなー? 何故か道はひとつではなく幾つかルートがあるらしい。

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★★☆☆☆

現在の神社も車でこられるとはいえ、ガードレールもない崖の道で危ない箇所もある。何故霊験あらたかな神社は険しい場所にあるのだろうか。多少危険を感じないと有難味がないだろうから、ということなのか。

 

 

<朝日山観音>

創建年 不明

御祭神 聖観音

 

 

 

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小田切氏館

田切氏館はこの道の奥にあった。

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周りは畑、宅地、そして小学校。小学校を造った時に結構開発されちゃったとか。

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なので、小田切氏がここに館を作った当時の様子はどうだったのか、分からなくなっているらしい。小学校を建てるずっと以前から「古城跡」という話は知られていたようだが、特に正式な発掘を行ったということもないらしく。

この辺りの歴史をまとめた古い本を読んだところ、東西61.8m、南北58.2m、幅7.2m、高さ2m余の土塁が東西に続いていたという。西側は沢が流れており、これを堀としていたようだ。

小学校の開校が昭和47(1972)年なので、この年より前に土塁は壊されていると思う。昭和51(1976)年には小学校の東側で配水場と付属の道路工事が行われたらしい。そのとき多数の五輪塔が発掘されるとあったが、小田切氏館とどう関係あるかは分かっていないらしい。昔から知られていた割にはアバウトな。

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坂を上りきると。

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今はこんな↑ものが。このダムはごく新しく、平成22(2010)年竣工とあった。沢が氾濫したんだかで鉄砲水が出て小学校の体育館や近くの住宅が浸水したせいで、このダムが造られた。それまではただの平場だった。小学校辺りもお城に含まれていたんじゃないかと思われるものの、造成時にかなり削っているようなのでよく分からず。

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ダム周りはというと。

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また随分変わってしまったように思う。

ダムが出来る前にこの場所に来たことがあるが写真など撮った覚えもなく、画像なし。あやふやだが野兎のウンコがコロコロ転がっている林だった。なんとなく植林されているような記憶があり、人の手が入っていた印象。ダムがあるあたりが本郭だったかな、すぐに家を建てられるような感じのかなり平らな場所だった。

そうだなぁ、こんな感じの林だったかなぁ?

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とふらふらと木の生えている方へ歩いていった。

なんかあるぞー?

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端っこはなんか残ってたよー! びっくりしたよ。

そして、その端っこから山の方へ登る道も発見。

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真偽不明だが、富士ノ塔山に抜ける古い道があるとか聞いたことがある(富士ノ塔の頂上には小田切氏の砦があったらしい)が、この道か? 富士ノ塔の砦は小田切さんの詰めの城ではなく、物見に使っていたとか。ちなみに富士ノ塔は子供でも簡単に登れるメジャーなお山。私も大昔登ってきのこ抱えて下りてきたことがあったけど、どこから登ったか覚えてない。

 

田切さんの居城は吉窪城という。

田切といえばコレ↓

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田切ダムである。吉窪城はこのすぐ近くの山にある。小田切氏館からは少し離れているかも。ダム周辺は景色が良い。

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↑対岸に見える道は廃道となった旧国道19号線。

 

田切さんというのは、元は佐久の豪族だったようだ。滋野系である。佐久から移ってきた時期など詳細は分からないが、鎌倉時代にこの辺りの地頭職となりそのまま居ついたとか。この辺りの領主様たちは軒並み滋野系らしい。ごっそり移ってきたのかなー?

 

足がかりとしてこの場所に城館を作り、徐々に支配地域を広めていったようだ。館は高台にあるが、ここから見える方向へどんどん侵食していった。

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内後館(上屋敷)、於下館(下屋敷)という二つの館を作ったらしい。支配地域は結構広い。

田切氏館の置かれた辺りは古墳群もあるし東山道支道(北陸道連絡道)が通っていた・亘理駅(読みの通り、川の渡し場)が置かれていたという噂もあり、どうやら古くからの集落があったらしい。小田切さんは近隣の滋野系領主のリーダー格に育っていったようで、戦国時代には春日、朝日、長嶺、久保寺(窪寺)、平林、布施、横山という7つの領主家を傘下に収めていた。当時の小田切さんは村上家に従っており、村上さんが越後に亡命した後も信濃の自分の支配地域に居残っていた。そして当然のごとく武田家と抗争中だった。

越後からの援軍が期待できない冬に武田さんは葛山城というお城を襲う。この葛山城の城主・落合さんも小田切さんと同じ立場(滋野系、近隣の領主を従えている)の親分だった。多分小田切さんと協定を結んでいたんだろうと思う。葛山城大ピンチなので小田切家当主の幸長さんが助けに行ったが、敢え無く戦死。小田切家の嫡男は吉窪城にいたものの逃げて行方知れずに(後に名乗り出て、武田に仕えたり、村上さんとこに復帰して朝鮮出兵に参加したがその地で亡くなったらしい)。その子孫は松代藩主の真田家に召し抱えてもらったものの、最終的にはこの場所を去ったようだ。

 

 

★★☆☆☆

年々破壊される遺構。そのうち無になりそう。

 

 

<小田切氏館>

築城主 小田切

築城年 不明

構造 平山城

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佐久間氏館

長沼城の近くに、佐久間氏が使っていた館があったらしい。長沼藩時代の館で、当時藩主の他に二つ分家があった。長沼知行所(5000石)の佐久間勝盛家、赤沼知行所(3000石)の佐久間勝興家。

長沼知行所の勝盛さんは初代藩主の佐久間勝之さんの嫡男・勝年さんの子。勝年さんはお父様より先、40歳という歳で亡くなったために、佐久間氏の家督は弟の勝友さんが継いだ。寛永12(1635)年に勝盛さんは勝友さんより5000石分知されて長沼知行所ができた。が、正保3(1646)年に23歳で若死にした勝盛さんの跡を継ぐ者がおらず1代限りで消滅した。

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長沼知行所の跡地は貞心寺境内らしい、↑の長沼城の地図では「元因幡守屋敷」という注釈が付いていた。これは勝年さんの官位が「因幡守」だったせいじゃないかと思う。長沼知行所は勝年さんの屋敷跡に作られているそうだ。

 

赤沼知行所は勝友さんの二男にあたる勝興さんが、寛永19(1642)年に3代藩主・勝豊(勝興さんの兄)さんより3000石を分知されて成立した。跡地は「蓮生寺境内」らしいが、そもそも蓮生寺どこだよ。地図探しても見つからないんだけどー。

見つかったのが妙願寺というお寺さんだけ。

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このお寺さんは、明徳2(1391)年茨城県で創建→永享2(1429)年長野市安茂里小市に移転→永禄9(1566)年長野市津野に移転→宝暦2(1752)年現在地に移る、という変遷をたどっているようだ。開基は林学(俗名:鹿野林平)といい、源義詮の家臣だとあった。源義詮=足利義詮だと。室町幕府2代目将軍様だ。茨城から長野に移った理由が知りたい…縁もゆかりもなさそうだけどー。 

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結局、蓮生寺こと赤沼知行所は見つからなかった。

ちなみに赤沼知行所は圧政だったらしく、年貢の取り立てが厳しすぎると農民に訴えられてしまったらしい。「公儀奉行宛水内郡赤沼知行所惣百姓苛政非道につき百姓退転次第訴状」という寛文10(1670)年の文書が残されていた。訴えたくなるほど人が逃げちゃってたのか。

 

★☆☆☆☆

赤沼知行所どこいっちゃったの? 何も見つからなかったからね…これも破却→洪水で流されたのかねー?

 

<長沼知行所>

築城年 寛永12(1635)年

築城主 佐久間勝盛

構造 平城

 

赤沼知行所>

築城年 寛永19(1642)年

築城主 佐久間勝興

構造 平城

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長沼城

元和元(1615)年に成立した長沼藩1万8千石がかつてココにあった。貞享5(1688)年に廃藩された、短命な藩だった。藩主は佐久間氏で、大阪の陣で戦功を挙げた佐久間勝之という人が藩祖である。それから数えて4代目、佐久間勝親は時の将軍・徳川綱吉の小姓に命じられたが、病と偽ってこれを拒否。すぐに仮病とバレたにも関わらず、また懲りずに仮病で休んだ。さすがに綱吉も怒って長沼藩を廃した。当時20歳の本人にサボり癖があったのか、綱吉のことがよほど嫌だったのか…どちらだろ?

 

長沼藩成立以前から、この場所にはお城があった。もちろん名前は長沼城で変わらず。ここを拠点にしていた島津氏長沼家が作った館みたいな素朴なお城だったらしい。信州島津氏(信州家)のうち島津初代忠久の三男・忠直の家系が長沼家と称していた。その島津長沼家が武田に攻められ逃げた後に武田軍が長沼城を接収した。武田信玄の北信濃攻略の拠点として度々大規模改修をされて、かなり立派なお城に変貌したらしい。

武田が滅んだあとに上杉がこの地を支配した。そのとき、上杉家の家臣やってた島津長沼家の当主・島津忠直(←この名前の人多すぎ)が長沼城に復帰した。だが上杉の国替えのときには長野に留まらず、ついていったようだ。

↓お城の全体像。

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立派な城下町ができたので、武田は北信濃における拠点を海津城から長沼城に移したほど。江戸時代に入ると長沼藩の藩庁・城下町として賑わったはず。そんな長沼城だが、今は畑が広がっている静かな場所。

 

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お城の北にあたる場所には現在「守田神社」がある。この神社は古く、延喜式内社という。創建年は分からない。社殿が新しいように感じるが、これは正保年間(1644~1647)に現在地に移転してきたからだという。元は100メートルほど離れた別の場所にあったが、洪水で流されたためという。

ここには、いかにも武田さんのお城っぽい、三日月堀があったらしいのだが。

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なんもないねえ。

ちなみに、守田神社から少し行ったところにお城の大手門があったようだが。

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↓大手門があったらしき場所から、侍屋敷方面。

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単なる住宅地ですなぁ。この反対側には大きな外堀や土塁があったそうだが。

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写真中央付近を横切るようにあったと思われる土塁、奥の突き当りまであった外堀。全く跡形なし。綺麗に平地にされてるー。

なんでここまでお城の気配が完全になくなっているのかというと、千曲川の氾濫で全部流されたからだという。自然の力って恐ろしいねえー。

 

千曲川の堤防道路から見た北三日月跡地、本丸方向。

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現在果樹園が広がっている。

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↑左側は千曲川

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ここを本丸方向へ歩く。

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この辺が本丸かなー? 

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現在、本丸は堤防道路の下にある。堤防道路自体は近年整備されたような印象を受けるものの、建設されるときに発掘調査したような形跡もない。果樹園と住宅地で調査できなくなっていたのかな。

 

東屋の近くにはお城の来歴を書いた案内板があった。これも新しい感じがする。

<長沼城の略歴>

・島津氏が鎌倉時代に作った館が元になっているというが、それは確定した話ではない

・しかし島津氏が長沼城を使っていたのは確かで、武田に追われ島津氏がいなくなった後の長沼城を武田氏が改造し続けた

・武田氏滅亡後、織田→上杉景勝→豊臣(直轄地)→松平忠輝→佐久間(長沼藩)と支配者が代わり元禄元(1988)年廃城

<長沼城の概要>

・廃城になる前(1680年頃)の古地図等を元に現地調査を行い、城の復元図を作った

・城域:南北約650m、東西約500m、面積約34ha

・北端は玅笑寺付近、南端は貞心寺、西端は県道368号線より130mほど西へ、東端は堤防より150m東へ

天守閣はない

・残された遺構は「天王宮の土丘」「北の三日月堀」「西の三日月堀」の一部

・大手門の門扉2枚は玅笑寺にある

 

「北の三日月堀」跡、さっき見たけど遺構あったのかしら? ちょっと窪地になっているから上から見たら三日月の形が浮き上がるとかかな?

「天王宮の土丘」というのは、これである↓

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堤防より低い位置。

本丸方面↓

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下りてみよう。

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春先なので花もなく、春っぽいものは土筆ぐらいだった。しかも、かなーり小さい奴。

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本丸跡に到着! なんもない!

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二の丸到着! なんもない!

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復元図では土塁・堀・馬出しへ続く橋?があったようだが、見事に平地に。

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この方角へ向かうと、遺構のひとつ「天王宮の土丘」があるらしい。

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↑これが本丸の土塁一部。こじんまりとした…。

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その手前には南三日月堀跡の標識。石碑があったけど、長沼城とあまり関係なさそうな内容のようだ。

 

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ここはほぼ唯一の遺構ということで、記念碑的なものがいくつも集まっている。

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読めません。

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上にのぼってみた。

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五輪塔?とか祠とか、洪水で流されたあとに残った物をここに全部集めてきた感がある。木は相当昔から根付いてそうだけど、これが土塁の跡だよって言われないと分からないかも。

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戻ります。

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何か看板が遠くに見えます。

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堀があったようだ。これもまた、完全消滅か。

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また歩いていくと。

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櫓跡に出くわす。もちろんこれも遺構なし。現在はビニールハウスに。

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跡形もなく消えた遺構を示す看板だけは、やたらある。

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この看板だけが頼り。ただ、大きなお城だったことは分かった。

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まだ他にも「馬出し」「西三日月堀」があるはず、この道をまっすぐ歩くとそれらの看板があるはず…だが、もういいか、という気分になっていた。多分看板しかないし。

 

 

★☆☆☆☆

本当に、何もなかった。

 

<長沼城>

築城年 室町時代

築城主 島津氏

構造 平城

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妻女山陣場

第4次川中島合戦で、上杉謙信が本陣を置いた場所、と言われている。

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現在は松代妻女山招魂社という神社と見晴らし台がある。招魂社は戊辰戦争の折に従軍し命を落とした松代藩士52名を弔うために明治2(1869)年に第10代藩主真田幸民が建立したもので、日清・日露・太平洋戦争などそれ以後の戦争での戦死者も合祀され、現在は969柱の御霊が祀られているという。ちなみに、幕末の松代藩は勤王(政府軍)に属していたらしい。

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この辺りは平場になっており、標高は低めだが見晴らしはよろしい。

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ここまで車で上がってこられる。フラフラ歩いていたらランニングシャツに短パンのオッサンが現れて、驚いた。

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招魂社の参道らしい。ここを駆け上がってきたのか、なんという元気。ぬっと現れたので恐怖を感じましたわ。

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何かの石碑。有名な戦争の舞台のひとつであるこの場所、偉い人が訪れている。どうやらその記念碑らしい。

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大正天皇御手植えの樹木(枯れている)。

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真田伯爵御手植えの樹木(枯れている)。真田家は伯爵の基準を満たさなかったので当初は子爵だった。が、早い段階で政府軍に参加していたので特例として伯爵に叙された。五爵の第三位で、徳川御三卿や上杉家・伊達家などの有名武家と同じ身分だ(出世してるねえ)。

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ここが展望台付近。妻女山についての案内看板もあり、ここに陣を置いたのか―と思う。わりと低い場所にあり(これ攻撃しやすくないかな?)と心配になることと上杉軍1万3千の収容所としては手狭かなと思った。整備されているせいか、痕跡らしきものは全く見当たらず。

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この山の裾を走る上信越道の更埴ジャンクション~須坂長野東インターは平成5(1993)年開通なので同時期にこちらも整備されたのではないかと思う。

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新しい感じだが明治33(1900)年の建立。大正天皇東宮時代に一度いらしているようだ(2回も来るなんて、よほどこの場所がお気に召したのかしら)。

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上杉謙信はこういう景色を眺め、武田軍の動きを察知し、雨宮の渡しをそっと渡り川中島の武田本陣を攻撃した、のであろうと思っていた。

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実は。

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こっちが本物…。斎場山が訛って妻女山になったのか、ここから山を更に登って20分くらいだと。斎場山という名前の由来はこの山に古墳が点在しているからだという。戦国時代ぐらいでも古墳=お墓の認識があったのか、と少し驚いた。斎場山には「陣場平」「床几塚(謙信本陣)」「千人窪(伏兵千人潜みます)」などの地名が残る。

斎場山まで車でも行けなくはない。

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軽トラなら余裕だろうよ。

 

 

★★☆☆☆

どこが本当の陣場跡なのさー?

 

 

<妻女山陣場

上杉氏本陣跡 永禄4(1561)年第四次川中島合戦の際に使用

 

 

この陣場跡には上杉謙信ゆかりの場所がいくつかある。

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謙信が槍の尻で突いたら湧き出た泉。その名も「槍尻之泉」。喉が渇いた謙信が天に祈りを捧げ、槍の柄の先端で地面を叩いたら水がびゅーっと噴出したとか。

 

会津比売神社。

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こちらは斎場山の山頂に元あった神社という。上杉謙信の庇護下にあったために武田信玄が火付けしちゃったから麓に移転してきたそうだ。御祭神の会津比売さんは出速雄命のお嬢様だという。北信開拓の祖神の子にあたる重要な神様のようだ。どのくらい重要かというと、貞観8(866)年に「従四位下」という位をもらっている。上から八番目の位階、人間だと殿上人・貴族になれる。ちなみに父上の出速雄命は貞観2(860)年に従五位下で娘より低い位(大国主の孫だから仕方ないね)。会津比売さんの夫が神武天皇の曾孫に当たる建五百建命さん(初代科野国造)と婚姻を結んだために位が上になったのかと思う。朝廷と彼らに滅ぼされた出雲系との和合の象徴、ということかねー。

この神社の境内には謙信ゆかりの史跡がある。

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上杉謙信公槍先之清水。湧水らしい。

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一応「謙信」と名が付いているぐらいだから、こっちも不思議な力で湧き出させたのかと思いきや…そういう伝説もない、ただの湧水らしい。しかも比較的新しいモノらしい。

上杉謙信公鞍掛の松」。いやいや、杉にしか見えないのだが。

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と思ったら、鞍をかけた松は枯れてしまって二代目がスクスク生育中とのこと。

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 正直、陣場跡よりこっちの神社の方が興味深かったです。

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