お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

常田氏屋敷

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常田は平安時代末期には存在していた古い集落で、一時期は信濃国総社にも指定された科野大宮社という神社を抱えている地区だった。同じ上田市内には信濃国分寺もあった。常田地区から信濃国分寺は近い。

平安時代初期に信濃国府が松本市に移されるまでは上田市内に置かれていたらしい。科野大宮社も恐ろしく古い神社で、創建は崇神天皇の時代で科野国造だった建五百建命が作ったと言う。

そんな常田庄を治めていたのが常田氏で、この一族は滋野氏→海野氏の末裔ということぐらいしか分からないらしい。大昔からあった荘園の実力者ではあるので由緒ある豪族だったのかなー?

上田と言えば滋野氏(海野氏)末裔の真田氏、元から上田に住んでいた常田氏も一応同族ということになるらしいが。真田初代とされる真田頼昌の子が常田氏の養子に入っているので、真田氏の近しい親戚になるらしい。真田氏の近隣の豪族で敵対していた矢沢氏という豪族がいたが、同じように真田頼昌の子が養子に入って敵対関係を解消した(真田氏に従属させた?)そうで、常田氏への養子というのももしかしたら同じ理由なのかもー? と思った。常田氏も真田家の家臣として続いたそうだ。

 

この常田氏の屋敷があったとされる場所が、今の信州大学繊維学部キャンパスのあたりらしい。また、上田藩主代々のお屋敷も常田氏の屋敷跡という説があるらしい。いっぱい館を持ってたみたい。

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当然のことながら、館跡の遺構はない。このキャンパス、以前にも入ったことあったけど凄くコンパクトだった。当時通っていた学校の敷地の方が広かったよ。今もそんなに変わらない規模だった。繊維学部の前身は「上田蚕糸専門学校」という国立校で、これが日本初の蚕糸専門の学校なんだそうだ。設立は明治43(1910)年。

明治から昭和の戦前まで、日本の外貨獲得の大きな産業が養蚕(生糸)だったようなので。養蚕関係の専門学校や学部がその後、いくつも出来たようだ。ただ、もう日本は養蚕関係の仕事がほぼないので、学校も看板を下げちゃったりして、「繊維」と名の付く学部名を掲げているのはココだけになってしまったらしい。今はファイバー工学というのをメインにやっているらしい。なんか看板が立っていて読んだのに、なんにも頭に入ってこなかったわー。

 

お城の跡はもうないけど、「上田蚕糸専門学校」時代のものは残されていた。

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↑門の近くにはこれ。守衛所。

大正元(1912)年完成。上田蚕糸専門学校の第1回入学式は1911年だったそうで、授業を行いながら徐々に校内も整備させていった感じかなー? 守衛所は現役、守衛さんが詰めている。設立当時の正門はキャンパスの南側にあったそうで、昭和4年に正門がキャンパス西側に移されると同時に移築したと案内板には書いてあった。

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キャンパスに入り込む。

少し進んで左側に何かあったよ。

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レトロ(オンボロ)な建物。

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アイソトープ実験室。昭和5(1930)年竣工。最初は生物実験室として使われ、のちにアイソトープ実験室になったそうだ。鉄筋コンクリート造りで、しっかりした感じがする。

アイソトープ実験というのは、放射線の何かの実験のことらしい(何度読んでも分からない内容だった)。

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ちょっと窓開いている。現在は書庫ということだが、梅雨時に窓開けていても大丈夫なのだろうか。

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また元の場所に戻る。

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キャンパス案内図があった↓

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次の古い建物はコレだった↑

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さっきの旧アイソトープ実験室と同じ時期に建てられているが、↓こんな指定されていた。

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上田蚕糸専門学校の講堂として建てられたため、造りが全然違う。旧アイソトープ実験室がとにかく頑丈そうな造りだったけど、こっちは豪華な感じがする。

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昭和4(1929)年、洋風木造2階建て。設計者は文部省の役人で、養蚕の学校と言うためか装飾が桑・繭・蛾のモチーフなんだそう。あんまり格好良くない気がする。出窓も繭っぽい? 建てられた当時のままで改変なし、ということで映画やドラマの撮影にも使われているそうな。それらのタイトルの中には見たことあるドラマもあった。内部も公開しているみたいだけど、誰も居らずよく分からないので止めた。

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↑こいつも古そうだぞ

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最後にあったのが、旧千曲会館という建物。

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千曲会というのは同窓会だそうで、上田蚕糸専門学校創立25年を記念して同窓生の寄付により昭和10(1935)年建築。先ほどの講堂と調和するようにデザインされたようで、意図的に装飾を似せているらしい。現在は別の場所に千曲会館があるため、使われていないようだ。ここも建築当時のままで改修されておらず、貴重です、と案内板に書いてあった。

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表に回った。

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講堂の向かい辺りに大きな木があった。

昭和天皇お手植えのヒマラヤスギだって。大正8(1919)年、当時皇太子だった昭和天皇が行啓し、植えていったものだそうで。

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ちゃんと書いてある。すごく期待されていた専門学校だったのね。

 

 

 

★★★☆☆

常田屋敷のことは忘れ去られているが、明治~昭和の建物が良かった。

 

 

<常田氏屋敷>

築城年 不明

築城主 常田氏

構え屋敷

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千曲市の観光サイトで、智識寺の紫陽花が見頃です! などとあったので。通称「あじさい寺」と呼ばれるほど、このお寺さんは有名だったらしい。

私は自然の美しさ・雄大さに関心が低く、花とか景色を目当てに出かけることは皆無。その辺の里山に獣道を辿って登り、遠くから時折聞こえてくる車の音を聞きながらぼーっとする、病んでる行動はたまにする。しかし「国立公園の○○渓谷の水芭蕉を見に行く」とか「滅多に人が来ない山奥の渓流で川遊び」とか、多分やらない。とにかく人工物がない場所は嫌い。

紫陽花には興味が無い。紫陽花は口実で、このお寺さんは「構え屋敷」という館の跡地だというから来たのだ。残念ながら、うちの家族はこの事実に全く気付かず。 

 

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智識寺自体は凄いお寺さんらしい。仁王門が茅葺き。デカい草鞋が置いてある。そして立派な「国宝 大御堂 文部省」という石碑。明治40年8月28日に国宝指定と石碑が言っている。現在は重要文化財となっている。格下げされたのではなく、昭和4年まで国宝だったモノ=現「国の重要文化財」。現「国宝」は一旦、重文指定された後、新たに国宝として格上げしたという経緯だそうな。ややこしい。

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仁王門と金剛力士像は室町時代の作とあった。

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仁王門を抜けるとこういう感じ↓

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雨が降っているので、より良い感じに。木も太くて生命力に満ちあふれて参道のコンクリを壊そうとしている。

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紫陽花↓

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旧国宝指定の大御堂↑

 

紫陽花よりも気になったのがこれ↓

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やたら東京都内の地名が出てくる。

 

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大御堂は現在、国の重要文化財に指定されているようだ。御本尊の十一面観音像も昭和12年に重文指定を受けていた。

 

智識寺大御堂は

  • 真言宗智山派に属する
  • 正式名「清源山智識寺」
  • 本尊は十一面観音
  • 本堂は桁行4間・梁間3間、寄棟造り、茅葺き
  • 前の1間を外陣、後ろを内陣とした禅宗様式の仏堂
  • 室町時代末期の天文10(1541)年に再建
  • 慶長14(1609)年修理したという棟札があり、この棟札も昭和30年に追加指定された

木造十一面観音立像(御本尊)は

  • 大御堂の本尊
  • 高さ3m
  • 一部別材を薄く矧ぎ付けているが、基本は欅1本から彫りだしている
  • 内刳りなし
  • かなり荒く彫られていて、あちこちにノミ跡がある
  • 木像の特徴から、平安時代後半の作品と考えられる

 

この他、千曲市指定の文化財の仏像2体と仁王門・金剛力士像、史跡(古墳)の釜屋一号墳(釜屋二号墳もあったようだが、破壊されたらしい)、天然記念物の木が120本もあるそうだ。

茅葺きもやけに綺麗だなと思ったら、平成29年に葺き替えられたばかり。仁王門の茅葺きは苔むしていたけれども、大御堂の茅葺きはまだ苔が一つも無いっぽい。

 

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そして、青銅の香炉にも「東京 上山講」とあった。微かに良い匂い漂わせている。

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ぐぐってみたら東京には「上山講教団」という施設があったけど、ここのお寺さんの「上山講」と何か関係あるんかね?

 

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お寺さんの敷地は広い。紫陽花はまだまだたくさん植えられていた。

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構造が若干複雑で、ちょっと迷子になる。一旦、仁王門をくぐり外へ。改めて別の入り口から入ると、公園が↓

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智識の杜公園というらしく、こちらもお寺の境内のようだ。

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道があったので進む。

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広いところに出た。ここも少しづつ紫陽花の苗木を植え増やしているようで。最終的には紫陽花で埋め尽くす計画なのかもしれない。

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智識寺は天平12(740)年、聖武天皇の勅願により創建と言われ、大同2(807)年には坂上田村麻呂が堂宇を改修したと伝えられている。元は別の場所(冠着山の麓)にあったようで、現在地に移転したのは慶長14(1609)年らしい。以前は「構え屋敷」または「釜屋のタテ(館)」というものがあったと言われている。誰の屋敷かは不明。

このお寺は四十八曲峠という奈良時代からの古い道沿いにあり、館置きたくなるような交通の要衝にある。「構え」という名前を与えられているから、街道の監視小屋だったんじゃないかと思う。「釜屋のタテ」の釜屋が謎で、カマエ(構え)が訛ってカマヤ(釜屋)なのかね。智識寺境内の古墳の名称も、ここから来てるのかも?

 

お寺自体の歴史がとても煌めいており、屋敷の話はほぼ出てこない。

  • 天平12年、聖武天皇勅願寺
  • 大同2年、坂上田村麻呂が堂宇改修
  • 本尊の十一面観音像は平安時代後期の作品、(伝)行基
  • 建久9(1198)年、源頼朝が七堂伽藍を建立する、仁王門・仁王像も寄進?(寺号が智識寺と定められた?)
  • 室町時代には、村上氏歴代の庇護を受ける
  • 室町時代末期、大御堂を創建
  • 天正11(1583)年、法華寺に代わり別当寺(周辺の寺社を配下に置き管理する寺)となる
  • 慶長14(1609)年、現在地に移転
  • 江戸時代を通じて、松代藩主真田氏の庇護を受ける
  • 文政年間(1818~1830)、大御堂の大改修

 

そういや、大御堂のところ真田氏の家紋あったわ。

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もう一つは五三の桐だった。勅願寺ということになってるから?

 

ものによっては、「現在地に源頼朝が七堂伽藍・仁王門を建立」とあったりして、移転時期がよく分からなかったりする。仁王門も仁王像も室町時代初期~中期と推定されているので、頼朝関係なさそうだわ。慶長14年移転だけど、現在の場所に別のお寺があったのか? 智識寺の本堂は冠着山の麓にあったが智識寺の僧侶の生活の場が現在地だったのか? こんがらがってきたよ。

てか、鎌倉時代初期に伽藍を建立したなら、構え屋敷はもっと前に存在していたのかな? 古代から道があるので、あってもおかしくないけどな。古墳もあるから集落あったかも。大昔の豪族の館を改造→伽藍とした、なんて流れなのかねー? 豪族の館の中に僧侶用の伽藍を作っちゃった可能性もあるんだろうか。

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子供が虫ごときでギャーギャー騒ぐため先へ進めず、戻った。

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また境内の外へ。

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昭和50年とか書かれている、やっぱり東京の地名だ。「講」は信者集団のことだと思う、数十年前まであちこちに信者を抱えていたようだ。全国規模で信者がいたらしく、特に関東(東京)方面には智識寺詣での講が多数あったよう。この玉垣の寄進者名からなんとなく分かった。

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また新しい入り口を見つけた。国宝観音参道入り口。

歩いて行くと、大御堂の裏に出た。

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お寺さんの凄さは分かったんだけど、館跡っぽい部分は全く気付かなかった。古代豪族の館跡だとしたら面白いけど、発掘でもしない限り確定出来ないだろうなー。

 

★★★☆☆

紫陽花が綺麗だった、楽しかったと子供は言っていた

 

 

<構え屋敷>

築城年 不明

築城主 不明

 

森館

今月は子供接待強化月間で、金欠よー。

 

以前、ドライブしていて見つけたこれ↓

「浄土宗 大城山 興正寺」という看板。このお寺はお城跡なんじゃないの??? と思い調べてみたところ、予想が当たったわ。ちなみに家族に話したところ「ちょっとキモイ」と返されました。酷い。

この場所は興正寺が管理している(らしい)展望公園の案内看板が見える峠道。多分、古い時代に開かれた昔の道だと思う。興正寺は麓の集落の中にあった。

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全体的に新しい、綺麗な印象だ。平成初期に修復事業があったようだ。門の近くには文字も消えかけて読めない石碑が3基あった。

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この他になんとか供養塔とか。

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長い参道。このお寺さん、駐車場がかなり広い。奥の方にこぢんまりと見える山門・本堂・鐘楼の他、右手側には生活の拠点であろう母屋などの建物群が広がり、敷地面積は相当広い感じ。そして背後に山。あの山のどこかに詰めの城があるのだろうか(そこまで探せなかった)。看板を見つけた峠道は、お寺さんの背後の山を通っている。その峠道は森(現在地)→戸倉→上山田→坂城に抜けられる。

南北朝時代の館跡だった?という柏王神社の背後の山を通り、宮坂武男先生が「詰めの城あると思うんだけど痕跡が全く見当たらない」と口惜しそうに書いていた、地元にも伝承が残らないという謎の城(地名は残っていたらしい)があったかも? という峠道↓ですよ。

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現在は林道になっている。車よりトレッキング中の中高年が多かったわ。

 

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この辺りには森氏という一族がいたらしいが、絶えてしまったようで。坂城を本拠とした村上氏の支流だった入山氏という一族が上山田から引っ越してきて、森氏の旧領を引き継いだとか言われているらしい。

そういえば、上山田に入山城があったよ。あそこから来たのかねー?

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興正寺は、1500年代半ばにこの場所に移転してきたらしい。館機能が失われていたのかな? 住んでた人が滅ぼされたとかかねー? 戦国時代真っ只中だよ。

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山門や鐘楼は江戸末期の建築なのかねー。山門の彫刻は立川流2代目の立川和四郎冨昌の作品だそうな。見応えあったよ。

そして、「だぁ!だぁ!だぁ!」というマンガで主人公達が住んでいる寺院「西園寺」のモデルにもなっているらしい。私、読んだこと無いわー。有名なのかしら?

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 これから法事が行われるらしく、続々と人が集まってきていた。

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古い仏像や彫刻が置かれている。

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お寺さん、平成の大修理の関係なのか、元からなのか分からないけど。館だった時代の痕跡なさそうだ。雰囲気はお城っぽかったよー。嵩上げしている感じが特に。

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★★★★☆

山門や鐘楼目当てでやってくる人がいるようで、建築物が見事だった。

 

 

 

<森館>

築城年 不明

築城主 森氏? 入山氏?

小諸城(懐古園)

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懐古園に来た。お目当ては流しアジ。

ここもお城で、城内に動物園があり。そこのペンギン達が流れてくるアジを食べる、それを眺める、というイベントのようだ。イベントタイトルから全く想像できなかった。ジャケ買いしたCDをこれから聴くみたいな心境で、ドキドキしながらペンギン舎の前で2時間前から待っていた。

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しかしすぐに飽きた。頑張って子供免許証の列に並ぶとか、他の獣舎を見るとかしたけど難しいわ。そもそも自分が大人しく順番待ちするなんて嫌いだしな。

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この動物園自体は小さく、細長い。ペンギン舎から離れるとイベント開始直前には人だかりが出来ているだろうし、戻れなくなりそう。このままじっとしていたい。

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我々は忍耐というものを学ばないといけないね、などと言いつつ。結局徘徊した。

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動物園は細長い郭?の上にあるらしい。両脇は崖。

以前も(多分)来たことがあるはずだけど、動物園自体の印象は薄い。ライオンとかいた。オリジナルの萌えキャラもいるらしく、そこら中にかわいらしいイラスト看板が立っていた。

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流しアジの用意をし始めたので、慌てて戻り、なんとか前列を確保したぞ。

アジとアヒル隊長をランダムに樋に流し、ペンギンたちがアジとアヒル隊長を見分ける様を眺めていたよ。

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途中、おうちに帰るペンギン(生まれたての雛がいて気になったらしい)や樋以外からアジを掠め取るペンギンもいて、自由にやっていた。

 

ここの動物園は大正15(1926)年開園で、長野県最古の動物園らしい。日本国内でもどうやら7番目に出来た動物園みたい。敷地の関係で多分リニューアル難しそうだし、開園したときの姿に近いままで現在までやってそう。旭山動物園みたいなイマドキ感ない、私が子供の頃の動物園はこんな感じだった。

 

動物園と懐古園は繋がっていて、同じ入場料で行き来し放題。せっかくなのでお城も見るよー、と子供に言ったら、嫌な顔をされた。

 

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小諸城の前身は長享元(1487)年、大井光忠という人が築城したらしい。その後、東信の支配拠点として武田信玄が改修、安土桃山~江戸にかけて仙石秀久という人がきて近代的なお城に改築したようだ。仙石秀久は最近よくマンガの主人公になってる人という印象しかない(名前ぐらいしか知らない、大体よそ様のサクセスストーリーに関心が無いよ)。

なんか、イケメン?らしい。経歴は、

  • 豊臣家の出世頭
  • 九州で大失敗をして敵から臆病者と罵られ、領地没収され失脚
  • その後小田原攻めで功績を挙げたので、小諸領をもらい大名に復帰
  • 関ヶ原の戦いやその後もそつなくこなして、江戸時代には願譜代(譜代大名格)
  • 小諸城に石垣や天守閣を建て近代的に改修しつつ、領内の開拓事業を開始するが、その費用捻出のため重い年貢を取り立てたところ農民がかなり逃げた
  • 豊臣家臣だったのに徳川家にも重用された

 どうやら相当優秀な人のようだ。もし自分の身近にいたら(最期くらい不幸にならんかなー)ぐらいは思いそう。

 

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小諸城、石垣があっても大体がこんな感じ↑の断崖絶壁で成り立っている印象を持っていた。日本で唯一、一般人が住む市街地より下にあり別名「穴城」というそうな。変な城だけど武田信玄がわざわざここを拠点にしたぐらいだから、かなり攻めにくいのかもしれない。

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動物園側から入ったので、動物園の奥へ進む。ちなみに懐古園の内訳は本丸・二の丸で、大手門(正門、現存)と三の丸(今は小諸宿本陣だった建物の一部が移築され公園化しているらしい)は敷地外。多分、三の門もギリ敷地外。動物園もお城の一部なのだろうけど元はなんだったのやら…見つけた小諸城の古地図の文字が達筆すぎて読めない。御城の米蔵かなー?

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動物園内のしだれ桜は満開だった。

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動物園と本丸は「白鶴橋」という雅な名前のコンクリ橋で結ばれている。下は谷で天然の空堀の役目をしていた。

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本丸側も桜の木がたくさん。桜の花はほぼ咲いていない。まだ花見には少し早い。公園内の爺さん達はそんなこと気にせず、楽しげだった。よく見えないが、どうせ酒盛りでもしてるんじゃないのかね。

ここは昔、馬場だったらしい。

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今も馬いるし。

 

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本丸の石垣。上には大和守安定さん、加州清光さんと思われる方々がいた。

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この先は本丸になる。天守閣のあった天守台は反対側で、もうなんかいいやという感じで行かなかった(子供に嫌がられた)。天守台石垣は約7.5mということで、ここの石垣高さはそれよりも低いのかな?

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石垣の上に登れるらしいが、コスプレ撮影中なので気まずいし止める。

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現在本丸には懐古神社があった。ここの氏子さんになる資格が(藩主が牧野氏だった時の)小諸藩士の御子孫かつ小諸市内在住者のみというのが珍しいらしい。御祭神も牧野氏の歴代藩主の御霊とお城の鎮守神だった天満宮・火魂社(火之迦具土命)だそうで、一般人が氏子になれないのは仕方なくね? と思う。

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↑元は小諸領の境界に置かれていた石柱。この他にもう1本あり、それぞれ軽井沢町(追分の原)・立科町(笠取峠)に置かれていたそうだ。

  • 追分の原 北国街道と中山道の分岐点の追分宿? 北国街道を進むと小諸宿に至る。
  • 笠取峠 旧中山道にある峠で難所、旅人が上り坂を行く暑さと疲れで笠を取るため命名されたらしい。

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懐古神社の鳥居=本丸入り口っぽいな。

鳥居の外には↓お駕籠台という場所が合ったので。ここからお殿様とか偉い人が駕籠乗り降りしてたんかね。

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 懐古神社についての説明板があった。

  • 明治4(1871)年の廃藩置県の後、明治13(1880)年に荒れ果てた小諸城跡を「懐古園」として整備することになった
  • その際、本丸東北に城の鎮守神として祀られていた「天満宮」「火魂(荒神)社」、藩主牧野公歴代の合祀した懐古神社を創建
  • 天満宮」=菅原道真公(学問の神様)、天満宮天正12,3年頃に当時の城主・松平康国が城内の空堀を改修していたところ、地中から光る天神様の木像を発見し、以前からあった「火魂社」の隣に安置した
  • 「火魂(荒神)社」=火之迦具土命(竈の神様)、小諸城を最初に築いた大井氏が城の鎮守として紅葉ヶ丘に祀っていた

紅葉ヶ丘というのは、本丸と北谷の間にあるようだ。馬場跡は桜の木がたくさん植えられているが、本丸の北側は紅葉の木が多いらしい。

 

その他として、神社境内には以下のようなものがある

  • 天守台、寛永6(1629)年落雷により焼失
  • 神代桜、天然記念物、樹齢350年、松平憲長(松平憲良?)公お手植え
  • 鏡石、小諸城を縄張り(設計)した山本勘助愛用のもの
  • 懐古園の碑、題額は勝海舟の書
  • 牧野康満公の句碑、牧野氏第五代藩主
  • 左甚五郎作 喜内様・阿福様の像、将軍家から下賜された喜内(徳川家光)様と阿福(春日局)様の木像、以前は神社内に安置されていたが現在は徴古館にある

説明板には松平憲長公と書かれていたが、「松平憲良」という名前が正しいらしい。寛永元(1624)年から正保4(1647)年の間に神代桜というのを植えたらしい。現在だと、樹齢400年弱ぐらい? 品種はなんだか分からないや。徳川家康の異父弟の松平康元の嫡孫に当たる人物だが、若くして亡くなっており、この人の代で無嗣断絶となってしまった。残念。

左甚五郎作の木像2点、将軍家から下賜とあったが、もらった人は松平憲良さんじゃなかろうかね? 時代的に。将軍家にも近い家だったせいか、後に再興されていた。

 

小諸藩は、仙石氏→廃藩(甲府藩所領)→久松松平氏→廃藩(天領、管理は松本藩)→青山氏→酒井氏→西尾氏→石川松平氏→牧野氏→廃藩置県 という変遷を辿っており、元禄15(1702)年からの牧野氏時代になるまで、小諸領内が安定しなかったらしい。約100年で8回も領主が変わるとか。初代の牧野康重さんは元々1万石の零細藩主だったが、桂昌院の義理の甥に当たる(綱吉の義理の従兄弟)というコネで、特に何か良い仕事をした訳でもないのに栄転してきたらしい。小諸藩の格式は5万石並だったのに、人様からの妬み嫉みを受けないよう、小諸藩の表向きの石高を1万5千石としたようで(実質3万石以上だったみたい)、低い格式だから諸々の諸経費は安くあげられることになった。また、領地経営にも代々熱心で、最終的に石高を9千上乗せすることに成功。小諸藩士は下級武士も一軒家を持てたとか、廃藩置県の時だかの精算で黒字だったとか、裕福な藩だったそうな。旧藩士達が藩主の牧野公を崇め奉って神社も作っちゃうのも分かる気がするわ。

 

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この日の午前中は富士見城にいたので、近代的なお城・石垣に驚いている。富士見城の素朴な石垣とは全然違うよ。

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黒門跡。別名・一の門。

黒門と本丸の間、虎口の北側が紅葉ヶ丘という場所らしい。お城の鎮守神はこんな場所にいたのか。ちなみに堀は紅葉谷という名前を付けられているっぽい。

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一番攻められそうな箇所のようで、堀がものっすごく深い。小諸城はこの場所が一番狭い感じで。この場所を起点に奥へ三角形の形で広がる感じ。ココさえ守ればなんとかなりそうなお城でもある気がする。

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堀にかかる橋、昔は可動橋で取り外し可だったようだ。

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黒門跡から歩いて行くと、南の丸・北の丸が向かい合わせで出てきた。

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南の丸は石垣の上にあり、桜の木が植えてあるらしい。北の丸は弓道場になっていた。

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鶯石という石が、藩主の通行の際などに鳴いたそうだ。どういう仕組みか分からない。

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中仕切り門跡。その名の通り、一の門と二の門の間を仕切る門? 小さな門だったようだ。

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↑御城の番所跡。いくつか石碑が建っているけど、皇族が来た記念碑のようだ。

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更に行くと、二の丸跡。ここは上田の真田氏と戦った時、徳川氏が本陣を置いた場所らしい。天正13(1585)年・慶長5(1600)年の両方ともココ。ここから上田城まで攻めに行ったのかよ遠いじゃん! と思いました。

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例によって階段は上らず。

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二の門跡到着。

ここの角を曲がれば。

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三の門がちらっと見える。

 

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↑三の門側から二の門をのぞむ。

先がどうなっているか分からない感じに、ちゃんとなってるー。

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二の門と三の門の間、水櫓跡というものがあった。水車があり、下の川から水をくみ上げる給水所跡だそうだ。

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三の門到達。ここから線路をくぐり、大手門へ向かう通路があった。

そんなところへはもう行かないよ!

 

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崖凄い。脆そう、浅間山の噴火堆積物だか何からしい。

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三の門の近くのお土産屋さんなどのお店群を抜けていくと。北谷と呼ばれる、深い天然空堀を越え駐車場に至る。とにかく谷(空堀)が凄い。ほぼ浅間山の作った天然地形のままじゃないかな? 火山ヤバイ。

 

★★★★★

意外とお城の近代化改修に無理矢理感なくて良い

 

小諸城

築城年 長享元(1487)年?

築城主 大井光忠

富士見城

今年五月一日は「令和」と書いてあるお菓子を買い、皆で記念撮影をしてみた。

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以前、高速飛ばしてたときにナビが教えてくれたお城跡。通りかかったので、寄ってみた。

富士見城跡というらしい。

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現在は飯縄山公園というものになっているらしく、人間がウロウロしている。

↓公園の入り口はこんな感じだった。

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登ってみた。

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なだらかな山だった。尾根伝いに道が続いている。

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まず旗塚という盛り土があった。

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点々と続いていた。旗を立てた土台らしい。敵に「たくさんの兵が詰めているよ」と欺くために軍事機密というヤツだな。ただ、私はなんとなく、その辺のお店の入り口にあるような、「本日ポイント10倍デー」とか書かれた幟が延々と並んでいるのをイメージしてしまったわ。

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↑旗塚は5,6基くらいあった。

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↑城郭跡なのか分からないが、美術館があった。

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↑この山を高速道路が突き抜けている。しかし騒音は気にならず。うるさくない。

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↑北側集落の様子。南側に位置する集落からは150mの急斜面を登らなければならないが、北側集落からは30m程度で登れるらしい。見た感じはそれなりの急な斜面だし、段郭も見えたぞ。簡単には登れないんじゃないのかなー?

↓北側の斜面。桜が植えられていた。桜、まだ若そう。

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↓南側斜面。人の手が入っていなさそうな藪。

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↓石垣のようなものが、遠くから見えた。

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 ↓5の郭。城の東限とあった。さっきの美術館の敷地はお城関係ないらしい。

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5の郭はあまり広くなさそう。説明書によれば、木戸が設けられていた場所と思われるとある。玄関だったって言いたいのかね。

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4の郭と5の郭の間にはしょぼい堀切?があった。説明書には「現在残っている部分から、ここにも堀切があったと考えられる」と書かれていた。

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遠目で見えていた石垣はこんな感じだった↓

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この富士見城がある飯縄山は岩石で出来た岩山で、石が豊富だそう。そのせいなのか、郭の区画は石積みで区切られているという。しかも飯縄溶岩という名前の、市内ではこの山でしか採取できない特殊な石がゴロゴロしており、それを使っているとあった。時代考証的にはおかしいらしく(当時は石垣組める技術が低かったらしい)、どこまでがお城の石垣として作られたものか城域を特定するのが困難な状況です。なんて書いてあったよ。

まあ、築城当時の石垣かどうかは分からないが、この石垣も古そうだぞ。

 

4の郭、5の郭と書かれたプレートがある辺りも、よく見たら石垣っぽい。

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↓4の郭と5の郭の間の、推定堀切

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↓4の郭の中

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↓東西に土塁があった

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4の郭の次は主郭のようだ。

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橋が渡してあるぞ。

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富士見城最大の堀切があったよ。

こんなところにも石積みが。

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主郭到着後、振り返って堀切を見たよ↓

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主郭をぐるっと取り囲むように、石積みが並んでいる。

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主郭からの見晴らし。非常に良い。

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とにかく主郭を一回りしたよ。

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1周では飽き足らず、更に周回。

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それほど広くはないけれど、斜面が急だった。南側は石積みがある分、落ちたら頭を岩にガコンガコンぶつけて最悪死ぬんじゃないの? という感じ。骨の1,2本はやっちまいそうだ。北側は段郭らしきものが続き、落ちたところで軽い怪我だけでなんとか済みそう。

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↑この階段下も主郭らしい。説明書きには「東側の一段高い郭と西側に続く長方形の郭

が本城の中心です」とあった。

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堀切4に到達。相当浅い。ここで主郭が終わる。

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またもや石積みが。大雑把な感じする。大きな岩で、持ち上げて積んだだけで満足しそう。これでも凄い技術だったのかもしれないけどさ。

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2の郭↓

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2の郭と3の郭の間には危ないモノがあった。

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石塁だってー。1m程と書いてあったけど、だいぶ崩れている。これも適当に積んだだけ感がある。

この石塁の向こう側が3の郭になるようだ。

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富士見城の中で一番広いらしく、この郭を取り囲むように3m程の石垣があるそうだ。上からはもちろん見えないと思う。

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富士見城という名前でも想像つくけど、ここから富士山が見えるらしいぞ。いい天気なので見えるかしらねー?

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いたよー!

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本当に見えるもんなんだな、と感心した。「富士見」と名のつく場所で富士山見たの初めてかもしれない。

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本郭と2の郭と、崖が見えた。石垣多いねー。

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一番広い郭ということだが、ベンチが申し訳程度に置いてある程度で何もなかった。3の郭の下から遊歩道があり、お城の入り口まで続いているようだ。この遊歩道を辿って帰ろうと思う。

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3の郭を取り囲むという、高さ3m近い石垣というのがコレ↑なのかな? この角度から見ると立派だわ。3の郭から下は段郭が半円状にたくさん連なっているようだ。

遊歩道は3の郭から主郭に沿った段郭を利用したものらしい。お城見学用ではなくバードウォッチング用とか景色見るための歩道のような名称だった(看板があったけど、詳しくは覚えていない)。

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遊歩道から見上げればゴツい石垣群が。

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こういう山の中のお城では珍しいわね、確かに。説明書きでも「本当にすべてお城築いた時に造られたものなのか怪しい」とあったが、じゃあ後年ココは何に使われてたんだろう? と調べたところ。小諸市が平成8年にここを発掘調査したときの調査報告書を見つけた。

どうやら、畑になってたらしい。調査報告書では「遊歩道から見える石垣はお城と関係が無い、耕作用の畦石垣と土砂崩れ防止用の石垣だった」と結論づけられていた。江戸時代には畑になっていたようで、大豆・麦などの雑穀や桑が栽培され、明治以降は主に桑畑と化していたようだ。調査報告書はほぼ石垣の件ばかり語られていた。というか、調査箇所が石垣のみだった。

石垣もお城に関係ないとはいえ、こういう雰囲気は格好いいよねー。ちなみに、遊歩道回り以外の石垣(郭を囲む石垣や石塁)は調査していないようだ。

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説明書きには、

  • 戦国時代の終わり頃には存在していたと考えられる
  • 当時は城(戦闘用)と館(生活用)と別れており、この富士見城も常時人が生活していたものではないと思われる
  • 天文年間(1532~1554)、武田氏が佐久地方統括の拠点とした小諸鍋蓋城(小諸城の前身)の支城として整備され、ある程度の石垣はこの時期に積まれたと考えられる
  • 天正壬午の乱では徳川方の武将・柴田康忠が布陣したと言われる

と書いてあった。

一方、調査報告書のお城概要では、

  • 佐久地方の城塞の大半が応仁・文明の乱以降であることから、富士見城も15世紀後半に築かれたと考えられる
  • 築城者は当時の佐久地方の支配者、大井氏の誰か
  • 西方からの脅威(村上氏)に対する備えとして、小諸城の大遠見城(監視用の城)として築かれたようだ。
  • 築城から約100年後の天正壬午の乱で、徳川氏の将・柴田七九郎康忠が一時居城したという地元の伝承がある
  • 柴田七九郎は天正11(1583)年に徳川家康の命を受け、大井行吉攻めを行った依田信蕃の軍監(家康から派遣された監視役)を務め、天正13(1585)年の第1次徳川・真田合戦でも出陣した

 と説明されていた。多分、調査報告書の方が信用できるかなと思う。

 

柴田七九郎康忠さん

  • 永禄4(1561)年より徳川家康に仕える
  • 康忠という名は家康からもらう
  • 永禄12(1569)年、功績を挙げ家老に昇進
  • 天正10(1582)年、甲州奉行に任命
  • 文禄2(1593)年死去(享年56)

 

依田信蕃さん

  • お父さんの芦田信守の時代に武田氏家臣となる(元々は大井氏の家臣だったが、幼少の信守が生け捕られた挙げ句、脅されて武田氏家臣になったようだ)
  • 芦田信守は二俣城の城代となり、子の依田信蕃も一緒に入城
  • 長篠の戦い直後の二俣城攻防戦で籠城(籠城中に病気療養中の芦田信守が亡くなる)し、ついに城を落とせなかった徳川家康から城兵すべての安全な退却を約束させた上で開城、依田信蕃以下武田軍は撤退
  • その後は田中城の城代になる
  • 天正10(1582)年、織田信長甲州討伐を開始、田中城も家康に攻められるが、またしても籠城
  • 武田勝頼の自害の連絡を受けて、ようやく開城
  • 織田の武田氏残党狩りを警戒して、家康が依田信蕃を自領に匿う(家来になった?)
  • 本能寺の変が起こると、織田の重臣滝川一益の逃亡に手を貸す
  • その後信濃国に攻めてきた北条家と戦う(主にゲリラ戦)
  • 徳川の援軍を得、その後徳川氏が有利な条件で北条氏との講和が成立しその功績で小諸城代になる
  • 元々の主君筋・大井氏が邪魔をするので、攻めることになった
  • 簡単に落とせると思ったのに苦戦し、結局戦死した(享年36)

 

大井行吉さん

  • お父さんの代から武田氏に仕える
  • 長年、武田氏の元で活躍する
  • 武田氏滅亡~本能寺の変の間には(多分)埼玉県内にいたらしい
  • 本能寺の変のあとに北条家に下り、地元に帰してもらった
  • 岩尾城に戻り、討伐にやってきた柴田・依田軍と戦う
  • 依田信蕃を討ち、柴田康忠の説得に応じて開城し、群馬の保渡田村に行く
  • その地で没する(享年43)

 

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最初の駐車場に戻った。

 

 

★★★★★

整備されていて歩きやすいし、何より(後年のものとはいえ)石垣が良かった

 

 

<富士見城>

築城主 大井氏

築城年 不明

 

法蔵寺館

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構えの墓屋敷の本体にあたるお城にきた。現在は「法蔵寺」という立派なお寺さんになっている。

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↑この山門は長野県宝に指定されているとかで、重厚な造りだったよ。構えの墓屋敷の説明書きにもあったけど、このお寺は江戸時代に入って館跡に移転してきたもの。

 

お寺さんの案内板もあり、それによると

  • 浄土宗知恩院の末寺、永正3(1506)年に吉野梶海渡に創建
  • 成相新田宿の建設に伴い、慶長16(1611)年に現在地に移転
  • 山門は寛政元(1789)年に伊藤(柴宮)長左エ門らにより建築
  • 伊藤長左エ門はこの時代の傑出した工匠で、他に諏訪大社下社春宮弊拝殿や水上布奈山神社本殿(いずれも重文)などがある

諏訪大社で思い出したけど。諏訪大社の春宮と秋宮を同工期・同規模で作らせ、どちらが素晴らしいかと大隅流と立川流で競わせたヤツ、その時の勝負で負けた大隅流の棟梁の人っぽいわ。個人的には負けた方、この山門を手がけた大隅流の派手な感じが好きなんだけどなー。

宝蔵寺は成相新田宿の檀那寺(お布施で成り立っているお寺のことらしい)になった。江戸時代に寮舎が6坊、周辺の村に管理している庵が10棟あったらしい。お寺の規模としては大きい感じなのかな? と思った。

創建時の所在地「吉野梶海渡」という場所は、吉野堀屋敷の近くのようだ。

 

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お寺もちょっと見学したかったのに、子供はお隣の公園がいいとさっさと行ってしまった。

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訳の分からんタコの遊具とかあった。この公園も宝蔵寺館の一部なんだろうか。

 

走って行くあとを追いつつ、頑張って案内柱の内容を写真に収めたよ。

  • 戦国時代に武田氏が作った棒道沿いにあり、軍略上・交通上の要所
  • 真々部に続いて建設された館
  • 武田氏は「もやい堰」という水道を棒道沿いに最短距離で開削し、法蔵寺館と構えの墓屋敷へ導水した
  • 館の規模は109m四方で堀が巡らされていたと考えられる
  • 寺の記録によれば、東西3町(約327m)・南北1町半(約164m)が城郭であったとされる
  • 城主は成相氏と考えられる

 

公園内でも何か残っていないかなー? と思って探した。

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お寺と公園の境に盛り上がりがある。まさか土塁跡なの?

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よく分からないやー。

家帰ってぐぐってみたけど、コレは土塁跡ではなさそう。お城の遺構はお寺の本堂裏に残っていたもののみらしい。

 

この公園、「皇太子殿下御降誕奉祝記念公園」というものらしい。金属の記念柱があった。その柱には豊科町と書かれていた。旧豊科町が公園整備の計画を始めたのが昭和9(1934)年、土地を法蔵寺から購入したのが昭和10(1935)年のようだ。とすると、ここも館跡だったっぽいなー。

記念柱に色んな人の名前が彫られていたから、きっと寄付募ったのかねー? 戦前からある公園のようだけど、遊具は最近設置されたような非常にポップなものだった。

 

 

★★★☆☆

お寺さんにきちんとお参りできなかったことが悔しい、遊具が目立つせいだ

 

 

 

<宝蔵寺館

築城年 不明

築城主 武田氏? 成相氏?

構造 平城

 

構えの墓屋敷

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なんとも不吉な名前のお城跡に行ってきた。

このネーミングは単純に「現在は墓地である」ことからついたものらしい。本当のお名前は分からないのかも? ここの説明書きには、

  • 武田氏支配の時代に、熊倉ー成相新田ー穂高を結ぶ街道の要衝に建てられた「構え」と推定
  • 構えとは敵に構えるという意味、本拠の館から前衛に当たる場所を指す
  • 「構えの墓屋敷」は「宝蔵寺館」を守る前衛と考えられる
  • 東西36m、南北48m、四方に堀が巡らせてあったと思われる
  • 主は成相氏?

熊倉(熊倉の渡し)ー成相新田(ココ?)ー穂高穂高宿)というルートは千国街道のことらしい。上杉謙信武田信玄に塩を送りつけた街道としても有名な道だそうな。

どうやら、江戸時代に入り千国街道を整備した慶長9(1604)年に「成相新田宿」という宿場町を作ったらしい。この成相新田宿は千国街道が二つのルートに分かれる分岐点でもあったらしい。どちらの道を通っても松本城下に行き着く。成相新田が栄えたのは江戸期以降みたいだけど、とにかく昔からの交通の要衝ではあったらしい。

そして、江戸時代以前の千国街道はちょっとルートが違うようだ。ルートは3つある。

  • 熊倉の渡し経由(松本駅から豊科駅へ約5時間)
  • 飯田の渡し経由(松本駅から豊科駅へ約3時間)
  • 長尾前の渡し経由(松本駅から豊科駅へ約4時間)

熊倉の渡し経由では、吉野町屋敷吉野の堀屋敷から構えの墓屋敷

飯田の渡し経由では、飯田砦から構えの墓屋敷

長尾前の渡し経由では、真々部氏館・成相氏館から構えの屋敷

とそれぞれ監視の施設を通るようになっていた。このうち熊倉の渡し・飯田の渡しは松本城下へ進めるが、長尾前の渡し経由では真っ直ぐ松本城へ向かわず、どちらかといえば松本はスルーしちゃう雰囲気。長尾前の渡し経由は少し毛色が違う道なのかなー?

武田信玄が真っ先に宿場を置いたのが長尾前の渡しルートにある真々部という地区らしい。地図で追ってみたら、真々部→塩尻に行ける。塩尻から先は諏訪→韮崎→甲府という道があった。下諏訪からは昔で言う甲州街道なんだそうな。棒道とかいう武田の軍用道路かもしれない、などとも言われているらしい。そりゃ真っ先に真々部を整備するよねえ。

ちなみに一番古い塩の道が熊倉の渡し経由らしい。熊倉の渡し経由では養老坂という山道を通るキツい道。古代では松本に国府が置かれていたそうなので、塩尻には行かず松本に進むのが正解。飯田の渡し経由は山道を通らないようだ。

 

現在この成相新田にはイオン・市役所・警察署・総合病院・郵便局・銀行と信用金庫があり、街の中心地となっていた。成相氏の勢力下にあったからという推定だけなので、実際のところ構えの墓屋敷が成相氏の館なのかも不明。

ネットでぐぐったら、「天正年間に成相氏の一族成相藤兵衛猪之助が松本城主小笠原氏の配下として活躍したころの居館跡か」という記述もあった。これ以上はよく分からず。記述がほぼ「~か?」という推測ばかり。成相氏の記録がないのかもね。そして、墓地じゃ発掘調査だなんてまず無理だろうし。

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とにかく、現在はただの墓地である。

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説明が書かれた柱はあるものの、堀跡も微妙(一応あるらしい)、他は見当たらず。

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↑写真左側の木が生えている辺りが堀跡らしい。

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墓以外で目に入ったものは木の切り株ぐらい。発掘調査も出来なさそう。印だけある。それはまだマシなのか?

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★☆☆☆☆

名前のインパクトがすべて。

 

 

 

 <構えの墓屋敷>

築城年 不明

築城主 成相氏?

構造 平城