お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

寺尾氏館?(中條埴志那神社)

ここのところ全く、山の中をうろつけない。里山の獣道を辿り、尾根沿いの景色の良い開けた場所まで登って、遠くの方から聞こえてくる車とかの音を聞きながら、私は独りぼっち。としんみりしたい。常に誰かいる環境、人間がギャーギャー騒いでいる生活していると苛々する。ぼっち生活に戻りたくて仕方ないわ。

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以前登った寺尾城の主・寺尾氏の館跡をスルーしちゃったので、行ってみた。中條埴志那神社という神社の辺りがそうらしい。寺尾氏館というのか寺尾屋敷というのか、館をどういう名称で呼んでいたか知らないが、館の名残として「屋敷」「北堀」「金堀」という地名で残っているとのこと。

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実際、寺尾氏なんてマイナーな豪族の館跡(城跡なら趣味の人もいるだろうけど)に関心を持ちにくいと思う。なので、寺尾城跡には案内看板もあったのに、館跡付近には一切ない。

 

中條埴志那神社に関しても、特に由緒や御祭神について書かれた看板もなく。家でぐぐったりしてみたけど、どんな神様をお祀りしているのかさっぱり。

ただ、「続群書類従」という江戸時代の国学者塙保己一という人が企画(途中で本人が亡くなったため、弟子達が志を継ぎ刊行)した古文書の資料集みたいな奴に、

信濃国埴科郡檞原庄中条宮弁財天由来記】中条埴志那神社の末社弁財天社の由来書

というものが収録されているようだ。

群書類従塙保己一が集めた古文書を元に編纂、41年かけて世に送り出した666冊のシリーズ本。続群書類従は続と銘打っていながら、群書類従の倍ほどあるボリュームだった。この続編は1885冊。塙保己一の生きている間には版木が出来上がらず、明治35(1902)年からやっと出版され、完結したのは昭和47(1972)年。wikiの記述だと、色々あって大変だったらしいよ! シリーズの続きとして「続々群書類従(1969~1978)」「群書解題(1960~1988)」がある。

国立国会図書館のデータベースに続群書類従の写本が公開されていた(しかし該当の記事が載っている巻は収蔵されていないようだ)。塙保己一は和学講談所という学問所を設立しており、彼の死後も学問所は存続、明治元(1868)年まで75年間続いたというので、その学問所で学んだ人達が写本を作り、事業を受け継いでいったんだろうなー。合計で何冊あるのか知らんが、手書きで全部写すとか…うわああああああってなりそう。

 

続群書類従自体がマニアックなので大きめの図書館にしかなさそう。だがラッキーなことに、出先の近くの図書館に収蔵されているのを発見し、コピってきたよ。平日昼間の図書館はお爺さんばかりだった。

家に帰って内容を読んだよ。ちょっとした伝奇物語だった。

 

信濃国埴科郡檞原庄中條宮弁財天由来記

  • 信濃国川中島海津の南、中條宮弁財天女の勧請由来を申し上げる。
  • 寛正(1461~1466)文明(1469~1486)の頃より、信濃国押領使(治安維持のお仕事)のお役目だった大豪族から小豪族まで、それぞれ好き勝手やっており国中が乱れていた。
  • そんな中、千曲川の東にある寺尾郷の領主「寺尾前豊後守業升」は神仏を敬い善政を施し立派に領土を守っていた。彼は智力と武勇に優れた人格者であった。その家来に坂井、田中、富岡という武芸に優れた者達がおり、寺尾氏に忠義を尽くしていた。領内は豊かで人々の暮らしぶりも良かったので、遠国から商人などが多く訪れた。近隣の領主達とも親しく交流し、争い事はなかった。
  • しかし、鞍骨山の城主「清野氏」とは以前から諍いがあり、ちょっとしたことでも戦いに発展した。寺尾氏の家来達はこれを嫌がった。特に富岡は神仏を敬い民を大事にする者だったので、清野氏との諍いを深く嘆いていた。寺尾郷の産土神である諏訪大明神に参拝し、清野氏との抗争が終わり平和になるよう祈願していた。
  • ある夜、富岡はお告げの夢を見た。白髪の老人が「あなたもあなたの主も、至誠心(神を信じる真心)があり、領地の治め方も民への接し方にも真心があることは神様もご存じである」「これより南に行くと、2つの川がある。西の方は小鮒沢、東の方は鰐沢という名前で、その二つの川に挟まれた中條という場所がある。ここに茅屋(あばら家)があり、1人の女性と大勢の童子が居る。彼女に戦の吉凶を問うてみなさい、勝利をたちどころに得よう」と言う
  • 主君の寺尾氏と同輩の坂井・田中両名と相談し、お告げの通り中條に行ってみた。7~8町(約764m~約873m)の距離をうろついてみたが、肝心の茅屋が見つからない。とりわけ大きな木があったのでよく見れば、藤や葛の陰に神殿の柱のようなものが見えた。梁などが朽ちかけ、薄や萩が屋根代わりに上に載っていた。これこそお告げの夢に出てきた茅屋だろうと思い、一心に祈った。
  • 城主の武威が更に増しますように、領地内がますます繁栄しますように、敵が退散しますように、この願いが叶いますように、とにかく祈る。
  • そして赤塚山(寺尾城山)に戻り、数百の兵を出し清野氏を攻めた。清野氏も、笠井、近藤、倉島といった老練の兵から若い勇士を集めて防戦をした。
  • 数日後、敵味方の境にあった多田山の嶺に1人の女性が現れた。女性は空の彼方からたくさんの童子と共にやってきて、清野軍と対峙した。そして、清野軍に対し雨のように石つぶてを降らせた。この石の雨により清野軍は総崩れとなり、詰めの城に立て籠もってしまった。
  • 女神と童子達は中條の森に降り立ち、「宗像宮弁財天女と15の童子を祀り、城主の寺尾氏を始め、富岡、田中、坂井その他の兵士に至るまで我々を深く信奉しろ。神は人の信心が深ければ霊威を増し、人は神の加護により輝き運命を好転させるのだ」と告げた。
  • 後に清野氏と和睦し、人質を取り交わし昔の確執を忘れて今の平和を誓い、親しく付き合うことになった。
  • 富岡は老齢に達し、家督を子供に譲った。思うところがあって中條に社を建立し、諏訪大明神と田心比女を勧請した。修行し、この社で神に仕えることにした。田心比女は天孫降臨の太古より地上にいた33の神様の1柱で水の神様でもある。
  • とにかく信奉すべきは慈悲深い弁財天女だ。この天宮を信仰することで「武運長久」「七福即生七難即滅(7つの幸福がやってきて7つの不幸が消えてなくなる)」といった神のご加護が得られる。
  • 諏訪大明神は当国(信濃国)の一の宮であり、昔から寺尾郷の産土神でもあるため主祭神とした。弁天天女と諏訪大明神が不可思議な霊力で人々を守る。不思議で奇妙な由来でした。
  • 慶長4年 辛丑 閏月 乙丑の日 中條宮 富岡駿河

 

神主の富岡さん、さりげなく自分の出自や神主になった経緯も書いていた。これが誰に当てた文書なのかまでは分からない。単に子孫に中條宮についての覚え書きを伝えたかったのかもしれない。

 

この物語で分かったことが、

  • 健御名方神諏訪大明神)と弁財天を祀っている
  • 寛正(1461~1466)文明(1469~1486)ぐらいで建立されている
  • 寺尾氏の家臣だった富岡氏が代々神主を世襲している(ようだ)

ということ。

寺尾氏は諏訪氏の一族だそうで、最終的には上杉氏に帰属して慶長3(1598)年に信濃から会津に引っ越したようだ。清野氏(信濃源氏村上氏の支流)と争ったと語られていたが、当の清野氏と一緒に早い段階で武田氏に仕えたり、武田滅亡後は両家とも上杉氏に帰属して、仲良く会津に引っ越していった。

ちなみに清野氏の詰めの城である鞍骨城の築城年代は不明となっているが、この文書によれば1400年代後半には存在していたことになる。永正年間(1504~1521)に清野勝照が築城と書いてあるものもあったけど。もしかしたらそれより古いのかも?

あと、文書では弁財天女=田心比女(タキリビメ宗像三女神の一柱)のようだが、本地垂迹ではイチキシマヒメ宗像三女神の一柱)が弁財天になっている。これはちょっと間違えて勧請してしまった感があるわ。

 

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その弁天社というのがこれ↑なのかしら?

末社らしいが、それっぽいのがコレのみなのよね。お社のお隣の石碑は道祖神。あの文書の霊験あらたかな神がこれとは…。

祠がやけに高い台座の上にあるのは、このすぐそばに川があるからだ。

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この神社に限らず、松代町内にある祠の台座はヒステリックな感じを受けるほど高い。

 

寺尾氏が館を構える場所として、目の前は川・背後は山(詰めの城)という理想的な立地条件。安土桃山時代までここに屋敷があったはずなので、「中條埴志那神社」がここお移りとなったのは江戸時代に入ってからかなー?

文書では中條の地は7~8町ほどの藪だとあったが、現在でいうとどの辺りなんだろう? 中條のヒントとして「小鮒沢・鰐沢という二つの川に挟まれる」があったけど、この二つの川は松代町西条にあるようだ。

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額の揮毫は真田家12代の真田幸治さん。重要な神社なのかもしれない。

 

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寺尾城の周りには、他にも祠があった。なんの祠なのかは知らないよ。

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↑グーグルマップに「供養塔」とあったので、探したらコレだった。

川中島合戦の戦死者を弔う供養塔らしい。しかそも、何故か道しるべでもある。

右 川田駅道 中 柴弥陀道 左 善光寺

と書いてある。

川田駅道というのが、あの鳥打峠に向かう道だ。

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先日鳥坂峠に行ったときの案内看板に「鳥は死者の魂を云々」と書いてあった。鳥=死者の魂を打つという不吉な名前。鳥打峠は慶長16(1611)年に海津城代の花井吉成という人が開いたと伝えられる。それ以前は可候峠という峠道を使っていたが、この峠は曲がりくねっている難所だったらしい。鳥打峠が出来たらこちらが主要道となってしまい、可候峠は廃道化。

鳥打峠の途中には慶長7(1602)年に600人を磔にしたという記録が残っている中世からの処刑場がある。その処刑場に関連して、鳥打峠なんて名前を付けたのだろうかね?

 

ついでだから鳥打峠辺りまで行ってみた。上の写真の雰囲気みたいな、陰鬱な峠道から急に砂利道だけど広い道路に変わる箇所がある。砂利道は途中で終わるし処刑場付近まで行けないよ、とグーグルマップは語ったが。航空写真にすると行き止まりはなく、どこまでも続いている様子。

これは行くしか無いか!? と砂利道を走らせようとしたところ。作業服姿のおじさんが駆る軽自動車がやってきて、不審そうにこちらをチラ見し、砂利道の奥へ消えていった。盆休みでも仕事してるのか…。奥は採石場があるらしい。怖い物見たさでいつか行ってみたいな処刑場。

 

 

★★★★☆

神社としては広い、由来記が面白くて満足した

 

 

<寺尾氏館>

築城年 不明

築城主 寺尾氏

鳥坂峠~小田原神社~桑原宿

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気の向くままに車を走らせていたところ、史跡っぽい看板を見つけた。

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鳥坂峠という古い峠道があるらしい。やはり夏は峠よね! ということでちょっと走ってみようということになった。

  • 標高差130mを約800mで登る塩崎の峠道
  • 天保3(1832)年の犀川通船開始で松本や西山(信州新町など)からの物資集積地として栄えた稲荷山宿への古道
  • 新町新道竣工による新鳥坂峠は昭和前期の交通の重要路線(鳥坂峠旧道がどこかにあるというの?)

  • ↑看板のある場所(左奥へ進む道が鳥坂峠旧道?と思うような位置関係、地図上の鳥坂峠はこの看板をすぎてから、県道の看板に従い左折し細い道に入るという分かりづらさ)
  • 鳥坂峠(とっさかみち)は千曲川流域・善光寺平と西山地方・安曇野やその先の日本海沿岸地方との交易の道として重要視された峠道
  • 神坂(神坂峠、信濃国美濃国を結ぶ、大宝2(702)年開通の古道)と同じように「峠」を付けずに鳥坂(とっさか)と呼ぶ(古代においては坂=峠なので「峠」はいらない)
  • 鳥坂は雁沢(山沢)という川に沿って登る
  • 沢の下流には鳥坂・鶴前・鶴萩など、鳥に関わる地名が残り、古来「鳥は死者の魂を運ぶ」と言うが、鳥坂の峠道付近には古墳が残り、多くの石仏が安置されている
  • 犀川通船(松本~信州新町、約60km)を利用した物資を信州新町から稲荷山宿まで運ぶ道として、稲荷山宿発展を支えた
  • 大正5(1916)年の鳥坂里道開通により、新町街道(県道70号線)への枢要道路となる
  • おかげで塩崎村が豊かになっていった

 

鳥坂峠は県道395号線にあり、新町街道(県道70号線)をショートカットするようなルートとなっている。どうやら県道70号線のうち、塩崎~篠ノ井石川の部分は鳥坂峠の道より後に出来たようだ(見つけた戦前だか戦中の地図には、上記の道がなかった)。信更町赤田から分岐して、善光寺方面・稲荷山町方面(鳥坂峠)と別れたところを、戦後になり塩崎~篠ノ井石川を付け足した感じだった。当然ながら、鳥坂峠を経由しない道の方が立派。

塩崎村の明治初期という古地図も見つけたので眺めたけど、鳥坂峠説明板の左へ向かう道はやっぱり怪しい…。明治初期の峠越えの道は中郷神社(諏訪社)の近く通ってなかったしな。相当昔からある(らしい)峠道、気になるわー。

説明板にも書いてあった「鳥は死者の魂を運ぶ」というの、墓地だったということなの? 京都の鳥辺野を思い出したわ。鳥葬でもやってたんか? 鶴萩古墳は見に行ったが、鶴前という場所は発掘している現場を何度か見かけた。古墳はなかったはず(中世の館が見つかったらしいが)。鳥坂だけは御遺体を捨てていた場所かもしれないけど。皆が使う道で死体ごろごろしているなんてイヤだなぁ。

そして「鳥坂は非常に古くからある峠道」というニュアンスを受ける書き方。あの案内板回りくどい言い方して、察してちゃんっぽい、気に入らない。

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雰囲気は林道よ。

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こんなカーブよ。昔の道よねぇ 。

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素朴な峠過ぎて、あっという間に着いた。車の中で垂れ流していた音楽、1曲終わらないうちに着いたよ。車でも数分程度で走り抜けられるんだから、大正時代でもとても重宝されただろうな。

 

 

★★☆☆☆

だが、現代の自動車では物足りない気分。

 

 

鳥坂峠

昔からある?

 

 

 

 

 

これじゃつまらなすぎて、家に帰れない。そのまま適当に車を走らせた。信更町の点在する集落を見て回るようなルートに。思ったより田畑があり、休耕田は少なかった。

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どこをどう走ったのか、かっこいい神社を見つける。

小田原神社というらしい。オダワラではなくコダワラと読むらしい。ここは一応長野市だが、隣の地区は千曲市大田原という名前で。その場所と何かしらの関係あるんだろうな、というところ。

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この神社の御祭神は健御名方神、これ以上のことは分からなかった。創建年代も不明となっていた。こんな、映画で出てきそうな神社を見かけたのは久しぶりだった。

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↑こんな感じの道を走ると、大田原地区に出た。

自治体が変わったせいなのか、急に道路状況が良くなった。それまでの道も悪いわけじゃないんだけど、急にオーバースペック感のある立派な道になったのよ。

大田原地区にも神社があった。「田原神社」といい、木花咲耶姫命を祀っているようだ。小田原神社とは系統が異なる神様だなー。田原神社も古いのか、創建年不詳となっていた。普通の集落のよくある郷社という見かけで、小田原神社見た後ではイマイチだなと思ってしまった。小田原神社よりずっと大きかったんだけどね…小田原神社の佇まいが尋常じゃ無いわ。

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今まで昭和な道路を走ってきたけど、いきなり平成な雰囲気になったわ(そういえば、私まだ令和感のある道路に出会ったことがない)。

大田原地区を抜けてこんなところにも!? ループ橋まであった。

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さらに下ると、今度は高速道路が交差する。近くまで行ける、車がビュンビュン行くよ。楽しいねー!

 

この道路の終点は旧桑原宿だった。山に近い田舎だからか、土塀で取り囲まれた立派なお屋敷がいっぱいあったよ!

 

 

★★★★★

途中の小田原神社、ホント良かった。

南向塚古墳

南向塚古墳は、ある幹線道路沿いに残る古墳。その幹線道路というのが常に混雑しているウンコ道路で私は苦手。

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開けた場所にあるので、目敏い人ならすぐ分かっちゃう。

wikiによれば、

  • 長野盆地唯一の、平野部にある古墳(長野市内の古墳、大多数は山頂・山麓にあるらしい)
  • 2017年現在、付近の芋井神社(写真の右側に見える神社)が所有
  • 長野市の史跡

であるという。周りは住宅地・商業施設が多いのに、よく壊されずに残っていたよなぁというのが私の感想。何やら伝承があるらしく、wikiにごちゃごちゃと書いてあった。

  1. 孝元天皇の皇子・少名日子建猪心がこの地を開拓に来たが斃れ、葬られた場所(王塚と呼ばれ、社殿も建てられた)
  2. 上杉景虎川中島の合戦時において築いた砦
  3. 上杉景虎が弘治元(1555)年の第2次川中島合戦で戦勝祈願をし、金を寄付して社殿など綺麗に直した
  4. 川中島合戦の首塚
  5. 天正壬午の乱上杉景勝が勝利を祈願し、願いが叶ったので甲冑を奉納

古墳を壊さない方が良さそうな内容が多い。

1に関しては、そもそも孝元天皇が欠史8代の一人で実在が怪しく、その子供の少名日子建猪心という人も業績が残されず怪しいとのこと。しかし、「少名日子建猪心=卑弥呼」説を唱える書籍を発見し、少し興奮した。卑弥呼は長野で死んでるかも!

2と3は、三国一のイケメン上杉景虎関連の遺跡ということでウキウキする。しかし三郎君が上杉謙信の養子になり「上杉景虎」という名前を貰ったのは元亀元(1570)年ということで、弘治元年の第2次川中島合戦には従軍していなさそう。川中島の戦いも永禄7(1564)年の第5次以降起きておらず、上杉景虎氏は「川中島合戦」のどれにも参加していないし、この地に砦を築く必要もなかった御様子。これは個人的に残念です。

4は平成8(1996)年の長野市史編纂事業のために発掘調査した結果、古墳とするのが妥当と結論づけられたので、首塚説はほぼ否定されている。

5については、考えることを放棄した。

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見た感じ、桜の木で埋め尽くされている。この付近では桜の名所としても有名らしい。入り口が分からない。頂上に社が見えるのでどこかからか登れるはず。

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古墳の周りをぐるっと回ってみた。

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この周りは原っぱ(しかも手入れされている)、古墳を中心として公園整備される予定があるようだ。古墳の周りは以前水田だったらしい。

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道が見えてきた。この古墳、少し変な形をしている。最初に見たときはちょうど真後ろだったせいか、円墳かと思った。歩いてみれば細長い?

長野市が行った測量では

  • 全長46m
  • 後円部
    • 直径33m
    • 高さ4.8m
  • 前方部
    • 長さ13m
    • 幅8m

とのこと。前方後円墳としているようだ。ただし、前方部のサイズ感がだいぶおかしいと疑っているみたいで、「未発達な前方後円墳」・「帆立貝形古墳」・「造出付き円墳」の3つで少し迷っているらしい。

 

帆立貝形古墳は、「円墳に方形の造り出しがあるもの」「前方後円墳の前方部が短小化したもの」の2種類に分類されるという。「造出付き円墳」=「円墳に方形の造り出しがあるもの」なんじゃないかと思うが、別物なのかね。専門家には明確な基準があるんだろうな。

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小道が芋井神社から続いているようだ。芋井神社に関しては、

  • 創建年代不明
  • 正和年間(1312~1317)には南向塚古墳の頂上と若宮にあった2社を、天文年間(1532~1555)戦火で失われたために1社にまとめ現在地に建立
  • 産土神
  • 元は諏訪社と呼ばれていた
  • 祭神は「南方止売命(女神)」「南方刀美命(男神)」
  • 明治13(1880)年、芋井神社に改称

元は諏訪社だったという位だから健御名方神夫妻を祀っているんだろうなと思うが、奥様の方が主祭神になっていた。芋井というと長野市の山奥の地区を思い出すけど、古代は現在の芋井地区、安茂里や善光寺や三輪、この辺りまで「芋井郷」という一つの地区だったらしい。ひろーい。

 

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現在の南向塚古墳には観音堂が建てられている。芋井神社ができた後の元禄10(1697)年に建てられたようだ。納められている観音像は享保4(1719)年の銘がある石像、明治時代の木造の二体らしい。馬頭観音だそうな。

宝暦9(1759)年に描かれた南向塚古墳の図が見つかり、それによれば現在の古墳の形と一緒であるようだ(1759年以降改変されていない)。

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長野市が史跡を示す色々な看板を立てていた。その中には「保存樹木」の看板もあった。内容は桜の木が40本ある、保存している、大事にしろ。だった。こんな狭い古墳内に40本もあるのか、密集してるけど全員元気なのか。桜の木の下には死体が云々という話は本当で、死体から養分を吸い取っているから元気なのかも。

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内部構造は不明で、副葬品も今まで残っているものが瑪瑙の勾玉1点。明治期に編纂された地域史には「出土品があった」ようなことが書かれているらしいが、どうやら現代までモノは残されていない感じ。昔から知られている古墳だというなら未盗掘の可能性は低いかなー?

古墳の築造年代は6世紀前半と推定されている。

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帰り道、基礎っぽい石を見つける。

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鳥居の残骸かしら?

 

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★★★★☆

「南向公園」平成31年度完成予定→今年5月ついに本格始動?

 

 

 

 

<南向塚古墳>

築造年代 六世紀前半

 

常田氏屋敷

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常田は平安時代末期には存在していた古い集落で、一時期は信濃国総社にも指定された科野大宮社という神社を抱えている地区だった。同じ上田市内には信濃国分寺もあった。常田地区から信濃国分寺は近い。

平安時代初期に信濃国府が松本市に移されるまでは上田市内に置かれていたらしい。科野大宮社も恐ろしく古い神社で、創建は崇神天皇の時代で科野国造だった建五百建命が作ったと言う。

そんな常田庄を治めていたのが常田氏で、この一族は滋野氏→海野氏の末裔ということぐらいしか分からないらしい。大昔からあった荘園の実力者ではあるので由緒ある豪族だったのかなー?

上田と言えば滋野氏(海野氏)末裔の真田氏、元から上田に住んでいた常田氏も一応同族ということになるらしいが。真田初代とされる真田頼昌の子が常田氏の養子に入っているので、真田氏の近しい親戚になるらしい。真田氏の近隣の豪族で敵対していた矢沢氏という豪族がいたが、同じように真田頼昌の子が養子に入って敵対関係を解消した(真田氏に従属させた?)そうで、常田氏への養子というのももしかしたら同じ理由なのかもー? と思った。常田氏も真田家の家臣として続いたそうだ。

 

この常田氏の屋敷があったとされる場所が、今の信州大学繊維学部キャンパスのあたりらしい。また、上田藩主代々のお屋敷も常田氏の屋敷跡という説があるらしい。いっぱい館を持ってたみたい。

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当然のことながら、館跡の遺構はない。このキャンパス、以前にも入ったことあったけど凄くコンパクトだった。当時通っていた学校の敷地の方が広かったよ。今もそんなに変わらない規模だった。繊維学部の前身は「上田蚕糸専門学校」という国立校で、これが日本初の蚕糸専門の学校なんだそうだ。設立は明治43(1910)年。

明治から昭和の戦前まで、日本の外貨獲得の大きな産業が養蚕(生糸)だったようなので。養蚕関係の専門学校や学部がその後、いくつも出来たようだ。ただ、もう日本は養蚕関係の仕事がほぼないので、学校も看板を下げちゃったりして、「繊維」と名の付く学部名を掲げているのはココだけになってしまったらしい。今はファイバー工学というのをメインにやっているらしい。なんか看板が立っていて読んだのに、なんにも頭に入ってこなかったわー。

 

お城の跡はもうないけど、「上田蚕糸専門学校」時代のものは残されていた。

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↑門の近くにはこれ。守衛所。

大正元(1912)年完成。上田蚕糸専門学校の第1回入学式は1911年だったそうで、授業を行いながら徐々に校内も整備させていった感じかなー? 守衛所は現役、守衛さんが詰めている。設立当時の正門はキャンパスの南側にあったそうで、昭和4年に正門がキャンパス西側に移されると同時に移築したと案内板には書いてあった。

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キャンパスに入り込む。

少し進んで左側に何かあったよ。

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レトロ(オンボロ)な建物。

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アイソトープ実験室。昭和5(1930)年竣工。最初は生物実験室として使われ、のちにアイソトープ実験室になったそうだ。鉄筋コンクリート造りで、しっかりした感じがする。

アイソトープ実験というのは、放射線の何かの実験のことらしい(何度読んでも分からない内容だった)。

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ちょっと窓開いている。現在は書庫ということだが、梅雨時に窓開けていても大丈夫なのだろうか。

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また元の場所に戻る。

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キャンパス案内図があった↓

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次の古い建物はコレだった↑

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さっきの旧アイソトープ実験室と同じ時期に建てられているが、↓こんな指定されていた。

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上田蚕糸専門学校の講堂として建てられたため、造りが全然違う。旧アイソトープ実験室がとにかく頑丈そうな造りだったけど、こっちは豪華な感じがする。

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昭和4(1929)年、洋風木造2階建て。設計者は文部省の役人で、養蚕の学校と言うためか装飾が桑・繭・蛾のモチーフなんだそう。あんまり格好良くない気がする。出窓も繭っぽい? 建てられた当時のままで改変なし、ということで映画やドラマの撮影にも使われているそうな。それらのタイトルの中には見たことあるドラマもあった。内部も公開しているみたいだけど、誰も居らずよく分からないので止めた。

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↑こいつも古そうだぞ

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最後にあったのが、旧千曲会館という建物。

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千曲会というのは同窓会だそうで、上田蚕糸専門学校創立25年を記念して同窓生の寄付により昭和10(1935)年建築。先ほどの講堂と調和するようにデザインされたようで、意図的に装飾を似せているらしい。現在は別の場所に千曲会館があるため、使われていないようだ。ここも建築当時のままで改修されておらず、貴重です、と案内板に書いてあった。

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表に回った。

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講堂の向かい辺りに大きな木があった。

昭和天皇お手植えのヒマラヤスギだって。大正8(1919)年、当時皇太子だった昭和天皇が行啓し、植えていったものだそうで。

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ちゃんと書いてある。すごく期待されていた専門学校だったのね。

 

 

 

★★★☆☆

常田屋敷のことは忘れ去られているが、明治~昭和の建物が良かった。

 

 

<常田氏屋敷>

築城年 不明

築城主 常田氏

構え屋敷

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千曲市の観光サイトで、智識寺の紫陽花が見頃です! などとあったので。通称「あじさい寺」と呼ばれるほど、このお寺さんは有名だったらしい。

私は自然の美しさ・雄大さに関心が低く、花とか景色を目当てに出かけることは皆無。その辺の里山に獣道を辿って登り、遠くから時折聞こえてくる車の音を聞きながらぼーっとする、病んでる行動はたまにする。しかし「国立公園の○○渓谷の水芭蕉を見に行く」とか「滅多に人が来ない山奥の渓流で川遊び」とか、多分やらない。とにかく人工物がない場所は嫌い。

紫陽花には興味が無い。紫陽花は口実で、このお寺さんは「構え屋敷」という館の跡地だというから来たのだ。残念ながら、うちの家族はこの事実に全く気付かず。 

 

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智識寺自体は凄いお寺さんらしい。仁王門が茅葺き。デカい草鞋が置いてある。そして立派な「国宝 大御堂 文部省」という石碑。明治40年8月28日に国宝指定と石碑が言っている。現在は重要文化財となっている。格下げされたのではなく、昭和4年まで国宝だったモノ=現「国の重要文化財」。現「国宝」は一旦、重文指定された後、新たに国宝として格上げしたという経緯だそうな。ややこしい。

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仁王門と金剛力士像は室町時代の作とあった。

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仁王門を抜けるとこういう感じ↓

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雨が降っているので、より良い感じに。木も太くて生命力に満ちあふれて参道のコンクリを壊そうとしている。

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紫陽花↓

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旧国宝指定の大御堂↑

 

紫陽花よりも気になったのがこれ↓

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やたら東京都内の地名が出てくる。

 

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大御堂は現在、国の重要文化財に指定されているようだ。御本尊の十一面観音像も昭和12年に重文指定を受けていた。

 

智識寺大御堂は

  • 真言宗智山派に属する
  • 正式名「清源山智識寺」
  • 本尊は十一面観音
  • 本堂は桁行4間・梁間3間、寄棟造り、茅葺き
  • 前の1間を外陣、後ろを内陣とした禅宗様式の仏堂
  • 室町時代末期の天文10(1541)年に再建
  • 慶長14(1609)年修理したという棟札があり、この棟札も昭和30年に追加指定された

木造十一面観音立像(御本尊)は

  • 大御堂の本尊
  • 高さ3m
  • 一部別材を薄く矧ぎ付けているが、基本は欅1本から彫りだしている
  • 内刳りなし
  • かなり荒く彫られていて、あちこちにノミ跡がある
  • 木像の特徴から、平安時代後半の作品と考えられる

 

この他、千曲市指定の文化財の仏像2体と仁王門・金剛力士像、史跡(古墳)の釜屋一号墳(釜屋二号墳もあったようだが、破壊されたらしい)、天然記念物の木が120本もあるそうだ。

茅葺きもやけに綺麗だなと思ったら、平成29年に葺き替えられたばかり。仁王門の茅葺きは苔むしていたけれども、大御堂の茅葺きはまだ苔が一つも無いっぽい。

 

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そして、青銅の香炉にも「東京 上山講」とあった。微かに良い匂い漂わせている。

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ぐぐってみたら東京には「上山講教団」という施設があったけど、ここのお寺さんの「上山講」と何か関係あるんかね?

 

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お寺さんの敷地は広い。紫陽花はまだまだたくさん植えられていた。

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構造が若干複雑で、ちょっと迷子になる。一旦、仁王門をくぐり外へ。改めて別の入り口から入ると、公園が↓

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智識の杜公園というらしく、こちらもお寺の境内のようだ。

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道があったので進む。

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広いところに出た。ここも少しづつ紫陽花の苗木を植え増やしているようで。最終的には紫陽花で埋め尽くす計画なのかもしれない。

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智識寺は天平12(740)年、聖武天皇の勅願により創建と言われ、大同2(807)年には坂上田村麻呂が堂宇を改修したと伝えられている。元は別の場所(冠着山の麓)にあったようで、現在地に移転したのは慶長14(1609)年らしい。以前は「構え屋敷」または「釜屋のタテ(館)」というものがあったと言われている。誰の屋敷かは不明。

このお寺は四十八曲峠という奈良時代からの古い道沿いにあり、館置きたくなるような交通の要衝にある。「構え」という名前を与えられているから、街道の監視小屋だったんじゃないかと思う。「釜屋のタテ」の釜屋が謎で、カマエ(構え)が訛ってカマヤ(釜屋)なのかね。智識寺境内の古墳の名称も、ここから来てるのかも?

 

お寺自体の歴史がとても煌めいており、屋敷の話はほぼ出てこない。

  • 天平12年、聖武天皇勅願寺
  • 大同2年、坂上田村麻呂が堂宇改修
  • 本尊の十一面観音像は平安時代後期の作品、(伝)行基
  • 建久9(1198)年、源頼朝が七堂伽藍を建立する、仁王門・仁王像も寄進?(寺号が智識寺と定められた?)
  • 室町時代には、村上氏歴代の庇護を受ける
  • 室町時代末期、大御堂を創建
  • 天正11(1583)年、法華寺に代わり別当寺(周辺の寺社を配下に置き管理する寺)となる
  • 慶長14(1609)年、現在地に移転
  • 江戸時代を通じて、松代藩主真田氏の庇護を受ける
  • 文政年間(1818~1830)、大御堂の大改修

 

そういや、大御堂のところ真田氏の家紋あったわ。

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もう一つは五三の桐だった。勅願寺ということになってるから?

 

ものによっては、「現在地に源頼朝が七堂伽藍・仁王門を建立」とあったりして、移転時期がよく分からなかったりする。仁王門も仁王像も室町時代初期~中期と推定されているので、頼朝関係なさそうだわ。慶長14年移転だけど、現在の場所に別のお寺があったのか? 智識寺の本堂は冠着山の麓にあったが智識寺の僧侶の生活の場が現在地だったのか? こんがらがってきたよ。

てか、鎌倉時代初期に伽藍を建立したなら、構え屋敷はもっと前に存在していたのかな? 古代から道があるので、あってもおかしくないけどな。古墳もあるから集落あったかも。大昔の豪族の館を改造→伽藍とした、なんて流れなのかねー? 豪族の館の中に僧侶用の伽藍を作っちゃった可能性もあるんだろうか。

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子供が虫ごときでギャーギャー騒ぐため先へ進めず、戻った。

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また境内の外へ。

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昭和50年とか書かれている、やっぱり東京の地名だ。「講」は信者集団のことだと思う、数十年前まであちこちに信者を抱えていたようだ。全国規模で信者がいたらしく、特に関東(東京)方面には智識寺詣での講が多数あったよう。この玉垣の寄進者名からなんとなく分かった。

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また新しい入り口を見つけた。国宝観音参道入り口。

歩いて行くと、大御堂の裏に出た。

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お寺さんの凄さは分かったんだけど、館跡っぽい部分は全く気付かなかった。古代豪族の館跡だとしたら面白いけど、発掘でもしない限り確定出来ないだろうなー。

 

★★★☆☆

紫陽花が綺麗だった、楽しかったと子供は言っていた

 

 

<構え屋敷>

築城年 不明

築城主 不明

 

森館

今月は子供接待強化月間で、金欠よー。

 

以前、ドライブしていて見つけたこれ↓

「浄土宗 大城山 興正寺」という看板。このお寺はお城跡なんじゃないの??? と思い調べてみたところ、予想が当たったわ。ちなみに家族に話したところ「ちょっとキモイ」と返されました。酷い。

この場所は興正寺が管理している(らしい)展望公園の案内看板が見える峠道。多分、古い時代に開かれた昔の道だと思う。興正寺は麓の集落の中にあった。

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全体的に新しい、綺麗な印象だ。平成初期に修復事業があったようだ。門の近くには文字も消えかけて読めない石碑が3基あった。

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この他になんとか供養塔とか。

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長い参道。このお寺さん、駐車場がかなり広い。奥の方にこぢんまりと見える山門・本堂・鐘楼の他、右手側には生活の拠点であろう母屋などの建物群が広がり、敷地面積は相当広い感じ。そして背後に山。あの山のどこかに詰めの城があるのだろうか(そこまで探せなかった)。看板を見つけた峠道は、お寺さんの背後の山を通っている。その峠道は森(現在地)→戸倉→上山田→坂城に抜けられる。

南北朝時代の館跡だった?という柏王神社の背後の山を通り、宮坂武男先生が「詰めの城あると思うんだけど痕跡が全く見当たらない」と口惜しそうに書いていた、地元にも伝承が残らないという謎の城(地名は残っていたらしい)があったかも? という峠道↓ですよ。

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現在は林道になっている。車よりトレッキング中の中高年が多かったわ。

 

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この辺りには森氏という一族がいたらしいが、絶えてしまったようで。坂城を本拠とした村上氏の支流だった入山氏という一族が上山田から引っ越してきて、森氏の旧領を引き継いだとか言われているらしい。

そういえば、上山田に入山城があったよ。あそこから来たのかねー?

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興正寺は、1500年代半ばにこの場所に移転してきたらしい。館機能が失われていたのかな? 住んでた人が滅ぼされたとかかねー? 戦国時代真っ只中だよ。

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山門や鐘楼は江戸末期の建築なのかねー。山門の彫刻は立川流2代目の立川和四郎冨昌の作品だそうな。見応えあったよ。

そして、「だぁ!だぁ!だぁ!」というマンガで主人公達が住んでいる寺院「西園寺」のモデルにもなっているらしい。私、読んだこと無いわー。有名なのかしら?

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 これから法事が行われるらしく、続々と人が集まってきていた。

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古い仏像や彫刻が置かれている。

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お寺さん、平成の大修理の関係なのか、元からなのか分からないけど。館だった時代の痕跡なさそうだ。雰囲気はお城っぽかったよー。嵩上げしている感じが特に。

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★★★★☆

山門や鐘楼目当てでやってくる人がいるようで、建築物が見事だった。

 

 

 

<森館>

築城年 不明

築城主 森氏? 入山氏?

小諸城(懐古園)

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懐古園に来た。お目当ては流しアジ。

ここもお城で、城内に動物園があり。そこのペンギン達が流れてくるアジを食べる、それを眺める、というイベントのようだ。イベントタイトルから全く想像できなかった。ジャケ買いしたCDをこれから聴くみたいな心境で、ドキドキしながらペンギン舎の前で2時間前から待っていた。

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しかしすぐに飽きた。頑張って子供免許証の列に並ぶとか、他の獣舎を見るとかしたけど難しいわ。そもそも自分が大人しく順番待ちするなんて嫌いだしな。

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この動物園自体は小さく、細長い。ペンギン舎から離れるとイベント開始直前には人だかりが出来ているだろうし、戻れなくなりそう。このままじっとしていたい。

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我々は忍耐というものを学ばないといけないね、などと言いつつ。結局徘徊した。

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動物園は細長い郭?の上にあるらしい。両脇は崖。

以前も(多分)来たことがあるはずだけど、動物園自体の印象は薄い。ライオンとかいた。オリジナルの萌えキャラもいるらしく、そこら中にかわいらしいイラスト看板が立っていた。

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流しアジの用意をし始めたので、慌てて戻り、なんとか前列を確保したぞ。

アジとアヒル隊長をランダムに樋に流し、ペンギンたちがアジとアヒル隊長を見分ける様を眺めていたよ。

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途中、おうちに帰るペンギン(生まれたての雛がいて気になったらしい)や樋以外からアジを掠め取るペンギンもいて、自由にやっていた。

 

ここの動物園は大正15(1926)年開園で、長野県最古の動物園らしい。日本国内でもどうやら7番目に出来た動物園みたい。敷地の関係で多分リニューアル難しそうだし、開園したときの姿に近いままで現在までやってそう。旭山動物園みたいなイマドキ感ない、私が子供の頃の動物園はこんな感じだった。

 

動物園と懐古園は繋がっていて、同じ入場料で行き来し放題。せっかくなのでお城も見るよー、と子供に言ったら、嫌な顔をされた。

 

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小諸城の前身は長享元(1487)年、大井光忠という人が築城したらしい。その後、東信の支配拠点として武田信玄が改修、安土桃山~江戸にかけて仙石秀久という人がきて近代的なお城に改築したようだ。仙石秀久は最近よくマンガの主人公になってる人という印象しかない(名前ぐらいしか知らない、大体よそ様のサクセスストーリーに関心が無いよ)。

なんか、イケメン?らしい。経歴は、

  • 豊臣家の出世頭
  • 九州で大失敗をして敵から臆病者と罵られ、領地没収され失脚
  • その後小田原攻めで功績を挙げたので、小諸領をもらい大名に復帰
  • 関ヶ原の戦いやその後もそつなくこなして、江戸時代には願譜代(譜代大名格)
  • 小諸城に石垣や天守閣を建て近代的に改修しつつ、領内の開拓事業を開始するが、その費用捻出のため重い年貢を取り立てたところ農民がかなり逃げた
  • 豊臣家臣だったのに徳川家にも重用された

 どうやら相当優秀な人のようだ。もし自分の身近にいたら(最期くらい不幸にならんかなー)ぐらいは思いそう。

 

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小諸城、石垣があっても大体がこんな感じ↑の断崖絶壁で成り立っている印象を持っていた。日本で唯一、一般人が住む市街地より下にあり別名「穴城」というそうな。変な城だけど武田信玄がわざわざここを拠点にしたぐらいだから、かなり攻めにくいのかもしれない。

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動物園側から入ったので、動物園の奥へ進む。ちなみに懐古園の内訳は本丸・二の丸で、大手門(正門、現存)と三の丸(今は小諸宿本陣だった建物の一部が移築され公園化しているらしい)は敷地外。多分、三の門もギリ敷地外。動物園もお城の一部なのだろうけど元はなんだったのやら…見つけた小諸城の古地図の文字が達筆すぎて読めない。御城の米蔵かなー?

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動物園内のしだれ桜は満開だった。

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動物園と本丸は「白鶴橋」という雅な名前のコンクリ橋で結ばれている。下は谷で天然の空堀の役目をしていた。

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本丸側も桜の木がたくさん。桜の花はほぼ咲いていない。まだ花見には少し早い。公園内の爺さん達はそんなこと気にせず、楽しげだった。よく見えないが、どうせ酒盛りでもしてるんじゃないのかね。

ここは昔、馬場だったらしい。

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今も馬いるし。

 

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本丸の石垣。上には大和守安定さん、加州清光さんと思われる方々がいた。

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この先は本丸になる。天守閣のあった天守台は反対側で、もうなんかいいやという感じで行かなかった(子供に嫌がられた)。天守台石垣は約7.5mということで、ここの石垣高さはそれよりも低いのかな?

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石垣の上に登れるらしいが、コスプレ撮影中なので気まずいし止める。

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現在本丸には懐古神社があった。ここの氏子さんになる資格が(藩主が牧野氏だった時の)小諸藩士の御子孫かつ小諸市内在住者のみというのが珍しいらしい。御祭神も牧野氏の歴代藩主の御霊とお城の鎮守神だった天満宮・火魂社(火之迦具土命)だそうで、一般人が氏子になれないのは仕方なくね? と思う。

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↑元は小諸領の境界に置かれていた石柱。この他にもう1本あり、それぞれ軽井沢町(追分の原)・立科町(笠取峠)に置かれていたそうだ。

  • 追分の原 北国街道と中山道の分岐点の追分宿? 北国街道を進むと小諸宿に至る。
  • 笠取峠 旧中山道にある峠で難所、旅人が上り坂を行く暑さと疲れで笠を取るため命名されたらしい。

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懐古神社の鳥居=本丸入り口っぽいな。

鳥居の外には↓お駕籠台という場所が合ったので。ここからお殿様とか偉い人が駕籠乗り降りしてたんかね。

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 懐古神社についての説明板があった。

  • 明治4(1871)年の廃藩置県の後、明治13(1880)年に荒れ果てた小諸城跡を「懐古園」として整備することになった
  • その際、本丸東北に城の鎮守神として祀られていた「天満宮」「火魂(荒神)社」、藩主牧野公歴代の合祀した懐古神社を創建
  • 天満宮」=菅原道真公(学問の神様)、天満宮天正12,3年頃に当時の城主・松平康国が城内の空堀を改修していたところ、地中から光る天神様の木像を発見し、以前からあった「火魂社」の隣に安置した
  • 「火魂(荒神)社」=火之迦具土命(竈の神様)、小諸城を最初に築いた大井氏が城の鎮守として紅葉ヶ丘に祀っていた

紅葉ヶ丘というのは、本丸と北谷の間にあるようだ。馬場跡は桜の木がたくさん植えられているが、本丸の北側は紅葉の木が多いらしい。

 

その他として、神社境内には以下のようなものがある

  • 天守台、寛永6(1629)年落雷により焼失
  • 神代桜、天然記念物、樹齢350年、松平憲長(松平憲良?)公お手植え
  • 鏡石、小諸城を縄張り(設計)した山本勘助愛用のもの
  • 懐古園の碑、題額は勝海舟の書
  • 牧野康満公の句碑、牧野氏第五代藩主
  • 左甚五郎作 喜内様・阿福様の像、将軍家から下賜された喜内(徳川家光)様と阿福(春日局)様の木像、以前は神社内に安置されていたが現在は徴古館にある

説明板には松平憲長公と書かれていたが、「松平憲良」という名前が正しいらしい。寛永元(1624)年から正保4(1647)年の間に神代桜というのを植えたらしい。現在だと、樹齢400年弱ぐらい? 品種はなんだか分からないや。徳川家康の異父弟の松平康元の嫡孫に当たる人物だが、若くして亡くなっており、この人の代で無嗣断絶となってしまった。残念。

左甚五郎作の木像2点、将軍家から下賜とあったが、もらった人は松平憲良さんじゃなかろうかね? 時代的に。将軍家にも近い家だったせいか、後に再興されていた。

 

小諸藩は、仙石氏→廃藩(甲府藩所領)→久松松平氏→廃藩(天領、管理は松本藩)→青山氏→酒井氏→西尾氏→石川松平氏→牧野氏→廃藩置県 という変遷を辿っており、元禄15(1702)年からの牧野氏時代になるまで、小諸領内が安定しなかったらしい。約100年で8回も領主が変わるとか。初代の牧野康重さんは元々1万石の零細藩主だったが、桂昌院の義理の甥に当たる(綱吉の義理の従兄弟)というコネで、特に何か良い仕事をした訳でもないのに栄転してきたらしい。小諸藩の格式は5万石並だったのに、人様からの妬み嫉みを受けないよう、小諸藩の表向きの石高を1万5千石としたようで(実質3万石以上だったみたい)、低い格式だから諸々の諸経費は安くあげられることになった。また、領地経営にも代々熱心で、最終的に石高を9千上乗せすることに成功。小諸藩士は下級武士も一軒家を持てたとか、廃藩置県の時だかの精算で黒字だったとか、裕福な藩だったそうな。旧藩士達が藩主の牧野公を崇め奉って神社も作っちゃうのも分かる気がするわ。

 

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この日の午前中は富士見城にいたので、近代的なお城・石垣に驚いている。富士見城の素朴な石垣とは全然違うよ。

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黒門跡。別名・一の門。

黒門と本丸の間、虎口の北側が紅葉ヶ丘という場所らしい。お城の鎮守神はこんな場所にいたのか。ちなみに堀は紅葉谷という名前を付けられているっぽい。

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一番攻められそうな箇所のようで、堀がものっすごく深い。小諸城はこの場所が一番狭い感じで。この場所を起点に奥へ三角形の形で広がる感じ。ココさえ守ればなんとかなりそうなお城でもある気がする。

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堀にかかる橋、昔は可動橋で取り外し可だったようだ。

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黒門跡から歩いて行くと、南の丸・北の丸が向かい合わせで出てきた。

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南の丸は石垣の上にあり、桜の木が植えてあるらしい。北の丸は弓道場になっていた。

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鶯石という石が、藩主の通行の際などに鳴いたそうだ。どういう仕組みか分からない。

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中仕切り門跡。その名の通り、一の門と二の門の間を仕切る門? 小さな門だったようだ。

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↑御城の番所跡。いくつか石碑が建っているけど、皇族が来た記念碑のようだ。

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更に行くと、二の丸跡。ここは上田の真田氏と戦った時、徳川氏が本陣を置いた場所らしい。天正13(1585)年・慶長5(1600)年の両方ともココ。ここから上田城まで攻めに行ったのかよ遠いじゃん! と思いました。

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例によって階段は上らず。

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二の門跡到着。

ここの角を曲がれば。

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三の門がちらっと見える。

 

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↑三の門側から二の門をのぞむ。

先がどうなっているか分からない感じに、ちゃんとなってるー。

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二の門と三の門の間、水櫓跡というものがあった。水車があり、下の川から水をくみ上げる給水所跡だそうだ。

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三の門到達。ここから線路をくぐり、大手門へ向かう通路があった。

そんなところへはもう行かないよ!

 

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崖凄い。脆そう、浅間山の噴火堆積物だか何からしい。

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三の門の近くのお土産屋さんなどのお店群を抜けていくと。北谷と呼ばれる、深い天然空堀を越え駐車場に至る。とにかく谷(空堀)が凄い。ほぼ浅間山の作った天然地形のままじゃないかな? 火山ヤバイ。

 

★★★★★

意外とお城の近代化改修に無理矢理感なくて良い

 

小諸城

築城年 長享元(1487)年?

築城主 大井光忠