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お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

皆神山

その筋の人にはお馴染みの聖地、皆神山に行ってきた。この日も愛好者が県内外から巡礼にきていたっぽい。駐車場には色々な土地のナンバーつけた車が数台。

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↑こんな場所である。

 

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山頂付近には皆神神社がある。ここは自在山自在神社で出てきた3兄弟の次兄が修行した場所らしい。修験道の拠点である。神社の通称は「皆神神社」だが、正式には「熊野出速雄神社」という。この神社は現存する数少ない修験道の遺構ということで、貴重な建物だそうな。鳥居はごく最近になって作られ、当初は山門しかなかったという。

鳥居の奥に見える神社は「侍従神社」。

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↑山門。

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↑侍従神社本殿。

最初ここ本殿かと思った。違うらしい。ややこしい。

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↑熊野出速雄神社の本殿。侍従神社の裏にある。

 

「熊野」は天台宗系の修験道一派の本山派が拠点としていた熊野三山からきているらしい(本山派に属していたようだ)。「出速雄」は諏訪大社の神様・健御名方神の御子様にあたる神様らしい。この方は北信地方の開拓祖神という。養老2(718)年にまず、出速雄神社が創建される。中世に修験道が盛んとなり熊野権現が勧請されて熊野出速雄神社となった。社殿は康応元/元中6(1389)年に再建され、当時は修験道の道場として建てたためか建築様式(撞木造り)に修験道要素が色濃く残っていると。ちなみに、撞木造りは善光寺本殿と同じ様式である(善光寺修験道がどう関係あるかは知らないが)。

大規模な道場だったようで最盛期には信濃全域の本山派山伏の支配権が皆神山にあった。

 

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侍従神社本殿の脇から「侍従大神」のお墓に抜ける小道があった。この神様は佐久の内山城主の子で、密教修験道を修めるべく各地で修行していた内山満顕が内山氏滅亡の後こちらに入山し、侍従天狗坊と名乗り皆神山の修験を完成させたという。その人のお墓。彼は厳しい修行を長らくしてきた行者さんで、「吾を念ずれば諸々の願いを叶える」と言い入定という究極の修行(即身仏になる)をしている。子育てから長寿、火防などの御利益があり、特に子供を侍従大神の弟子にすると無病息災に育つんだとか。奥の方の古墳みたいなのが入定所になるのかな。

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最奥には浅間神社もあった。

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他にも色々な祠があちらこちらに。

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自然豊かな場所でサンショウウオの仲間まで住んでいる。近年まで小さなゴルフ場があったようだが、今は失われた。代わりにソーラーパネルが並べられていた。とはいえまだ自然がかなり残る小さな山だ。

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ごく普通の、田舎に昔からある古い神社に見えたのはここまで。問題はこの先である。

 

まずは熊野出速雄本殿向かって左の天地カゴメ之宮。碑文があり、それによると

・昭和49年に私に「国常立大神お立ち上がり」の神示があった

・「皆神山に行け、そこにお立ち上がりとなる、神の御出現じゃ」

・「神の州と書いて、神州。信州へ」

・出かけた皆神神社の前で神がかり状態

・そして日本の八百万の神様の他、龍神眷族、モーゼ、キリスト、ギリシャ神話の神々など皆がココに集まった

・このたび、神の御許しを得て宮を建立しました

だそうな…。お宮自体は木の祠という感じで、碑文より小さいサイズ。てっきり熊野出速雄神社本殿の近くにあった(本殿のような大きな建物が二つもあるし、侍従神社本殿を皆神神社だと勘違いする人は絶対いると思うような雰囲気だった)ので、碑文中の「お宮」=熊野出速雄神社本殿、と思っちゃったよ。

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細かい、怪しいものも多々。正面の木の杭の文字がさっぱり分からなかったが、空の融合だとか興味ある内容が四面に並ぶ。杭の根元の石にも消えかかった文字(もう読む気が起こらない)。奥の白杭はいつものアレ(世界人類が平和云々)。

トンデモ本によく登場、某宗教の教祖・出口王仁三郎さんの歌碑?もあったよー出口さん、皆神山を聖地認定していたようだ。

カゴメ之宮と並ぶ愛好者の礼拝スポットがこの看板↓

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今回はこの看板を見に来たようなもの。人気過ぎて文字が消えかかってる!! 内容は大変興味深い。

 

世界最大最古の皆神山ピラミッド

◎皆神山の造山方法はエジプトのピラミッドのように人の労力ではなく初歩的な重力制御技法(部分的干渉波動の抑圧)により、当時長野盆地が遊水湖沼(最後のウルム氷期の終末期で東・南信の氷解水による)となっておりその岸のゴロタ石等堆積土砂石を浮遊させ空間移動させるといったダイナミックな方法でした。

(したがって現在でも皆神山山塊だけが非常に軽く負の重力異常塊となっています)

◎この皆神山の盛土的山塊が自重により不均衡凝縮=ねじれ摩擦現象=起電=電流発生といったダイナモ機能山塊となり、電磁波が生じこの磁力と重力制御(反重力)により物体(電磁反発飛昇体)が垂直に離着陸するようになったのです。古文書に出てくる《天の羅摩船》等がこの飛行体です。

謎の皆神山ピラミッド物語

◎皆神山は、古い古墳時代弥生時代さらに遡っての縄文時代やエジプト・インダス・黄河シュメール各文明よりもずっと古い、今から約2~3万年前浅間山・焼岳ができたころ。飯縄・妙高・富士は約9万年前)の超太古ともいうべき遠い旧石器の時代に造られました。(人口造山=ピラミッド、ピラミッドはギリシャ語源で三角形のパンの意)

◎この皆神山を造った人間は、古事記に出てくる須佐之男命自然主義的な科学技術者集団の総称)で現代科学とは全く異質ではるかに優れた高い知的能力をもつ人類でした。(旧人ネアンデルタール人系)

◎では、何のために造ったかというと、墳墓ではなく地球上の各地や、宇宙空間への航行基地として造られたのです。

皆神山ピラミッドの祭神は知力・体力の神

◎超太古の宇宙航行基地である皆神山の祭神は従って高度の知的能力集団でみんな宇宙航行や宇宙基地に関係する次の四神です。

○熊野出速雄命

 宇宙船《天の羅摩船》等の航行の技術・管理を引き継いだ最後の集団で、北信地方の開拓祖神

○少名毘古那神

 宇宙船で皆神山航行基地を離着した大国主命の参謀集団

○泉津事解男神

 皆神山航行基地をはじめ…全宇宙基地を管理した集団

○速玉男神

 地球周回軌道の人工衛星(宇宙航行の中継基地)の技術者の集団

◎このように皆神山は、神々が活躍した基地であり、宇宙船で現れたり姿を消したりしたので自然人たちは神聖な山=高天ガ原として崇め、後世に伝えたものです。

 

好きだー!!と叫びだしたくなるような。この手の文章は、そのまま読んで楽しむものだと思う。ツッコミは無粋。中二的な小難しい単語を並べ、分かったような分からんような文章。難解な文章を「フムフム」と理解した気分を楽しむものである、と考える。

今の人類とは異なるヒトビト(数万年前に滅んだとされるネアンデルタール人)が岩を空中浮遊させて作った、宇宙基地。山自体が電動機だか発電機だかになっており、宇宙船自体も(反重力は現在も実現不可能)超電導リニアっぽい感じで浮かんで飛ぶというのかね? 磁力だけで宇宙に行けた! これはNASAさん・JAXAさん研究したほうがイイネ。

少名毘古那神は大国主の元でその国造りに参加した神様。やってきた時「天の羅摩船」という船(何かの実らしい)に乗ってきたという。イメージとしては一寸法師

泉津事解男神イザナギの子で、神話だと須佐之男命の兄弟に当たる。速玉男神イザナミの子。泉津事解男神と速玉男神はセットで扱われることが多いよう。イザナミが死に、その後を追ってイザナギが黄泉の国へ行ったときのこと。身体が腐りかけたイザナミが自分の姿を見るなと約束させたにも関わらず、イザナギが見てしまい、大喧嘩になる。「お前とは絶交だぁ」などと言い争い、キレたイザナミが唾を吐いた。その唾から生まれたのが速玉男神(唾の神様→古代では約束をするときに唾などを交換した)。イザナギが掃き払った(腐ったイザナミとの関係を清算した)ときに生まれたのが泉津事解男神(絶縁の神様)。この神々は熊野に関係がある。熊野本宮大社主祭神須佐之男命、熊野速玉大社の主祭神は速玉男神(またはイザナギ)とも言われている。泉津事解男神は速玉男神と一緒に祀られていることが多いらしい。熊野の修験道と深い関わりのある神社だから、このような神様を登場させたのだろうか。としたら、教養の深い人物の手による看板だろうな。

熊野や修験道に関係ない少名毘古那神や大国主が出てきたのは「天の羅摩船」って言ってみたかっただけなのかもしれない。

真面目な方の看板↓。

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温度差がある二つの看板は、並んでいた。

 

皆神山は溶岩ドームらしい。この山だけ独立しており、見た目もちょっと変わっている。溶岩ドームだと言われれば納得できる。そして松代群発地震震源地はココである(だけど噴火したりはしなかったらしい)。山全体がプルプル震えてた感じ。そして群発地震の時、山が光ったという目撃談をよく聞く。あれれ…これって発電中のスパークだよね!

特徴的な山だからか、修験道の霊山になったり信仰の対象になっている。皆神神社付近には井戸のあとらしき結界張られている何かが点在していた。

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麓に「大日堂」というお堂があり、そこに水が湧いている。元々この辺りの水は綺麗だが、特に有名らしく2リットルペットボトル数十本を携えて汲みに来るような迷惑な輩も出ちゃうとか。で、この池、大日堂近くの大日池まで繋がってるらしい。名水が湧くような場所と繋がってれば、そりゃサンショウウオも棲みつくよね。

 

ここはまだまだ見どころがある。車で通っただけだが、岩戸神社というピラミッド入口を見つけた。正直、古墳とむき出しになった石室にしか見えなかった。他にも、山の上に「小丸山古墳」という古墳があり、これは大正時代に「天照大神の御陵だ」と話題になって大いに賑わった。この名残は大日堂にあるそうだ。

信州→神州というのは、太平洋戦争中に軍部が思いついたのと一緒で、皆神山という名前も縁起いいじゃん! と最初はこの山の下に大本営を造り始めた、その跡地入口もある。ここは溶岩ドーム、ものすごく脆いし軽い岩質で出来ている。掘ってみたけど役立たずで、象山の地下に改めて大本営を掘り始めた(あっちは堅い)。

大本営のトンネルとは別に、もともと皆神山内部には空間があったとも言われている。あるとき重みに耐えかねたのか、潰れてしまった。で、あんな形のお山になったとされる。潰れる前は綺麗なピラミッド型だったのだ!

 

★★★★★

竹内文書」ファンなら満足のお山。

 

 

<皆神山>

30~35万年前にできたとされる

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雨宮の渡し

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第4次川中島合戦で有名な雨宮の渡しに行った。

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ここの場所については↑の写真の通り。

元々この場所は街道の要衝にある渡し場だったらしい。案内板には「川中島平の死命を制するほどの重要な拠点でもあり、戦術戦況を左右する場でもあった」と仰々しく書いてあった。

横田河原の戦い大塔合戦などが対岸で行われ、近くのお城(生仁城)でも戦闘が何度かあったようだ。確かに重要な場所であるらしい。ただそんな大事な渡し場なのに、武田軍は抑えるどころか合戦中にも偵察とか出さなかったのかなーと疑問に思った。挟み撃ちをする予定だったので、戦闘予想地域から離れている場所に兵を置く気分はなかったのかしらね。一応、この当時の生仁城主の雨宮氏は武田支配下に入っていた模様。名字が「雨宮」というぐらいだから、この家が渡し場を管理してたんじゃないかな。川を渡る上杉軍に気づかなかった訳じゃないだろうし、黙って見過ごしていたとすれば…上杉のスパイだったのかも。

 

一応、千曲川のそばではあるものの。今は川筋が変わり、この場所の周りは工場・住宅・田畑となっている。

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申し訳程度に、碑の傍には川だか用水路が。

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石碑の周りはちょっとした公園になっている。桜の木もあるものの、まだ芽がかたそうだった。

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雨宮の渡しと言えば、この言葉↓

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べんせーしゅくしゅくー。

なんと頼山陽直筆の石碑で、いたるところに「拓本とるな」の看板。

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どうしても欲しければ、某所で1枚3500円で売ってるからそこへ行け、とも書いてあった。碑文の拓本マニアの人って意外といるのかしら。会ったことない。

碑文は、以下の通り。

 

鞭聲粛粛夜過河(鞭聲粛粛夜河を過る)

暁見千兵擁大牙(暁に見る千兵の大牙を擁するを)

遺恨十年磨一剣(遺恨なり十年一剣を磨き)

流星光底逸長蛇(流星光底に長蛇を逸す)

 

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どんぐりころころ。

 

 

★☆☆☆☆

目ぼしいものはなし。

 

 

<雨宮の渡し>

開通年 不明(平安時代?)

 

 

今話題のオスプレイ見たー!! 年末年始にもF15みたいなのを何度か見かけて(しかも並んで飛んでるとか)、今年は幸先いいなと考えていたが。まるでオスプレイ祭りかのように、こうも立て続けにあの機体を見かけるとは思いもよらなかった。やっぱり姿も音も独特ね。オスプレイは、ジェット戦闘機みたいに音はすれども姿が見えぬ(速すぎる)…ということがない程度のスピードだから、探しやすいのも良かった。ちなみに本名は「V-22」というそうだ。

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原畑城+室賀氷上神社

晴れた日に、室賀峠→原畑城→室賀氷上神社と回ってきました。

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室賀峠というのは、どうも古くから存在する道のよう。その記念として、ちょっとした広場があった。

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見晴らしは…。素朴な峠、といったところか。

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とりあえずコイツ↑が邪魔をしている気がする。

石碑いろいろ。

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秋の七草の歌。山上憶良斉明天皇6(660)年~天平5(733)年)が詠んだために、秋の七草というものができたらしい。春と違って、食べる草ではない。観賞用であるが、これを愛でるなどの行事的なものはない。これが代表作じゃないが、花の名前を羅列するだけなのに長らく残る作品になってるなんて…私にもできそうと傲慢にも思ってしまった。

この歌のような、万葉集などに載っている和歌の碑を昭和61(1986)年に建立、とあった。内訳は万葉集から4首、勅撰和歌集詞花和歌集)から1首。詞花和歌集のものは、長元5(1032)年に信濃守として下向してきた藤原家経が詠んだもの(ただし、この場所ではなく伊那で詠んだもののようだ)。その他にも謎の石碑群があった。

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たぶんタイムカプセルだなー2036年に掘り出すのを忘れられたりして。

 

戦国時代の史跡としても、こんな話が。上田原の戦いで武田に大勝し、意気揚々と本拠に戻る村上義清軍がこの場所で休憩。ニヤニヤしながら合戦を振り返ったそうだ。このとき、着ていた鎧を松にかけたらしい。「鎧かけの松」と呼ばれ、現在2代目の松がスクスク育っているとのこと。

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↑これが2代目かしら?

 

原畑城。

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現在は「原組公民館」があるあたりが主郭部分らしい。ここは居住用の館で、詰めの城(笹洞城)は別の場所にある。

周囲の様子。

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この道の先に、ものすごくちょっとした立体交差があった。それは原畑城の堀切を利用したものらしい。ちょっとしすぎてて、あとで調べて驚きました…ので写真なし。公民館の他は宅地・畑になっており、見る影もなし。昔は「原畑城」を示す碑があったようだけど、今はなくなっている。

城の規模は大きく、公民館の前の道のだいたい端から端までが城域だったみたい。

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八幡社。

この城の主は、この辺りを治めた豪族の室賀氏。村上氏支流の屋代氏支流という村上家の遠い親戚にあたる。とすると氏神も多分八幡神なんだろうし、それでひっそりと八幡社が残されているんだろうか。

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未だに「真田丸」の旗が。ここが室賀氏の居館だと具体的に示すものは一切ないが、唯一この旗が匂わせている。大河ドラマはつまみ食い程度にしか観ていなかったけど、前半の主要キャラだった室賀正武は知ってる。その人の御屋敷だ。さすがに旬は過ぎたので我々の他に見物客はいなかった。

ドラマでは小物臭が酷かったものの、実際の室賀氏は力のある豪族だったようで。当時は真田氏と小県地域を二分する勢力だった(北が真田領、南が室賀領だったようだ)。真田氏は滋野氏末裔の海野氏庶流ということになっていて、元々の領地から村上一族により信濃国外へ追い出された過去を持つ滋野氏末裔の真田氏と村上氏傍系の室賀氏は親しくなかったのかもしれない。

真田氏にとって一番近所かつ親近感もなく邪魔くさかったのと、わりと簡単に滅ぼせそうだったと思われたのだろうということで、当主の室賀正武上田城で誅殺。というのはドラマ通り。そんな程度の存在なら、殺したところで罪悪感持つこともなさそうだねえ。この件で室賀氏は一家離散の憂き目に遭う。真田氏に信濃を追われて、最終的には徳川家臣(旗本)になったようだ。

 

この場所は、室賀峠への往来を監視するような位置にある。今は室賀峠へ続く道が県道として2車線道路になっているが、古い時代の道も遊歩道として一部残っていた。その道は恐らく原畑城のごく近くを通る。詰めの城である笹洞城も、この道を高いところから監視できる。

ここから室賀峠を越えると村上氏の本領になる。前述したが、上田原の戦いに勝利した村上義清さんが室賀領を通り本拠に戻っていて、村上さんと室賀さんは山ひとつ隔ててお隣同士のようだ。

本家の屋代さんは村上一族の中でも地位が高い。室賀家は屋代氏庶流ということになっているものの屋代さんとは同格というか家族に近いようで、頻繁に子供をやりとりしている。室賀家から屋代さんの養子に入ったりその逆もあるようだ。室賀家も村上一族の中で有力な家なんじゃないかと勝手に思った。

村上氏が越後へ亡命することになった大きな理由の一つで真田さんによる屋代さん調略事件があったが、このときに室賀さんも屋代さんに同調したように思われる。室賀氏は分裂せずに信濃に居残ったらしい。村上さんも領地を接している豪族たちが軒並み離反されちゃ、そりゃ居づらくなるわね…。屋代さんは真田さんに誘われて離反したとはいえ、真田さんと距離を取って生活していたようで室賀さんみたいに狙われることなく、こちらも徳川家臣として落ち着いた。

 

居館の原畑城・居城の笹洞城を合わせて「室賀城」と呼ぶそうだ。昔は原畑城から笹洞城へ向かう道があっただろうけど、現在はなし。別の場所から登山道が伸びている。

 

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室賀氷上神社。

この神社の近くにある前松寺は室賀信俊さん(正武さんの祖父らしい)が建てたお寺さんで、室賀氏代々のお墓があるそうだ。しかし殺された室賀正武の御骨は納められてないとか(ご遺体を遺族に引き渡さなかったんじゃないのかねー?)。

室賀氷上神社の御祭神だとか由来とか、よく分からない。神社にはそれが書いてある案内板もないし、調べても出てこなかった。まぁまぁ古そうな神社ではある。

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貞亨4(1687)年に寄贈されたという、境内で最も古い灯篭がコレ↑

江戸時代初期にはこの神社が存在していたようだ。

室賀氏のお城「笹洞城」へはこの神社から登る。

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90分くらいで着ける、と小さく書いてあった。今回は上るつもりが全くなかったので行かない、が。

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神社本殿への石段どーん。何か上る気が失せた。ので、笹洞城登山道をちょっとだけ体験してみることにした(本殿への道がこの石段だけじゃなく、どうせ登山道の途中で分岐するだろうと思った)。

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こんなところにも旗が。どうせこの旗を目印に笹洞城へ行けるんだろう、絶対に登らないからねっと思ってしまう。

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やはり分岐があったので、右へ。左は旗が続いている、笹洞城へ連れてかれると思われる。

小春日和の急な山道。地面がぬるぬるしている。霜柱ができる→日差しで溶ける→地面ぬるぬる、だと思う。上のお宮に着くまでに泥だらけになった。

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やっと見えてきた。ぬるぬるしてなきゃすぐ着いただろうに…。

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本殿はまた少し上がった場所にあるようだ。もう少しぬるぬるの坂を上ればよかったのかもしれないが、今日のような日は石段をゆっくり上がった方がマシだったかもしれない。

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ごく普通の、古びた神社に見える。しかしここにも御祭神についてや由緒を書いた看板は見当たらないので、地元民の産土神が祀られててお参りも地元民しか来ないということなのだろうか。

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日陰な分、まぁまぁ歩きやすい…のかも?

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額に何か書いてあったが、読めず。

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覗く勇気も出ず。

お参りしたので、帰ります。

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下りはやはり子供に厳しかったのか、滑って一回転して。しかし微妙に喜んでいた。服と地面との摩擦係数が大きかったようで、ただくるっと回っただけで止まった。本人は喜び、私も安心。下まで転がらなくて良かったわ。

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ゆっくり下りたものの、泥が増し増しになってしまった。

下の境内は広場になっていた。ここはそんなに地面がぬかるんでいなかったが、子供は座り込んで遊び始めやがった。よほど泥遊びがお気に召したらしい。

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喜んでくれたようなので、良しとしよう…。

 

笹洞城↓

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中央の山の頂上らしい。遠目からだが、赤い旗がヒラヒラしているのが見えた。あの旗は頂上まで続いているのかもしれない。親切だな。

 

★★☆☆☆

堀切にしろ、他の遺構にしろ、けっこう目立たなくなっていると思う

 

 

<原畑城>

築城年 不明

築城主 室賀氏

構造 平城

竹山城

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今年初めて山っぽいものに登った。

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あの山。標高500mないらしい。頂上には竹山城というお城があった。

「竹山」というのはあの山の名前らしいが、基本的には象山と呼ばれている。竹山という名前も江戸時代に入って真田家がこの地にやってきたときに、あの山に竹を植えたから「竹山」とも呼ばれるようになったとか…と、その辺の看板に書いてあった。

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スタートはここ↑ 山のそばを川が流れてる、その名前は神田川。どこかで聞いたような名前だね。

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川を渡って、登る。

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まぁまぁ急。マメに整備されているのか、見た感じ岩盤堅そうだし崩れることがないからなのか、歩きやすい感じ。

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あっという間にさっきの橋が小さく、遠くなった。

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何か見えてきた。

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象山配水池。今は施設が2つあるが、聞いた話だと以前は1つしかなかったとか(多分向かって右だな)。広場があり眺めも良かったので学校の授業で写生しにくる場所だったという話だった。今は広場というか…。

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こんな怪しい建物があるだけ。授業で写生に来るような広さもなし。まぁこの場所も普通に考えて郭跡だったのかなと思った。

 

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ちょっと石がごーろごーろしてるのよね。ここは岩山なのかしら? と思ってたら。どうもかなり岩盤強くて、そのせいで大本営作られた場所だと。多分まだ足元には大本営ないと思うが、もう少し先へ進むとありそう。

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目指す場所もこっち。ここからは普通の山道っぽくなってきた。

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雪残ってるー! 今の所、見た感じ堀っぽいのはなかったようだ。

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石柱には「象山神社神苑」とあった。

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おお? 上ってから人が作った防御設備っぽいものを初めて見つけたぞ。道が左右に分かれている。

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でも郭とか見つけられなかった。(実際あるのかないのか分からんが)落ち葉と雪のせいにしておこう。

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周りは急斜面だったー。

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何か見えてきたぞ。

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石垣か?

 

急に広場が。二の郭跡地だ。桜の木がところどころ植えてあり、春には花見やってる人がいそう。

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東屋の周りにはなんか石垣? ここだけちょっと盛り土されているような。石碑のせいかもしれない。石碑は「山崎國次郎翁頌徳碑」とあり、裏も読もうとしたけど字が読めないので分からない。昭和九年だけ分かった(この広場を整備した人かも?)。

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見晴らしは結構いい。

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で、主郭はあっち。

 

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また別の登山道発見。

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西条へ向かうようだ。

「竹山城」の主は、西条氏であったと言われている。この辺りの豪族の清野氏の分家筋で、このお城は鞍骨城(清野さんの居城)の支城であったらしい。「西条」氏と名乗るぐらいだから、領地はきっと西条地区だろうな。一家が寝起きしていた館も西条にあるはずだ。と思って探してみたが、館跡は場所が分からなくなってしまったようだ(2説あった、確定してないらしい)。

西条氏は最初清野氏に従い村上→武田、武田滅亡後は上杉という感じに主家を変えていったが、武田氏時代に海津城改修に伴ってこのお城も新たなお役目(海津城支城)として整備されたようだ。とすると、私が上ってきた道にも何かあったのかな? 堀切とか郭とか、そういうの見つけられなかったよー登山道作るときに壊されたのかしらねー?

とはいえ、もとは西条さんの城とすると西条登山道が大手なんじゃないの? と思った。きっと何かしらのお城っぽいアレが見つかるかも? しかし道の踏み跡も怪しかったら、下りなかったです。

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ちょっとこの辺りから主郭方面まで石垣がたくさんあるのですが。そこかしこですよ。

二の郭から主郭へ向かう道にも、なにやら怪しげな感じがしますわ。道が二手に。

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そして郭らしきものも発見↓

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何故か急に山城っぽくなってきたぞ。どうしたのか。

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そしてやっぱり石垣も増える増える。こんなに石積みが残っているとは思わなかった。

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 二の郭までの道とは違い、急に険しくなっている様子。雪も残っており、それがところどころ凍っていて足場が悪い。

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どうやらゴール目前のようだ。しかしまた石垣を発見してしまい、寄り道しまくる。

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主郭に到着! 二の郭より狭いです。

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なんの石碑か分からず。

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こちらの眺めも大変良い。

驚いたことがもう一つ。主郭から西条方面へ降りる斜面、郭がいっぱいだったよ。

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竹林から仄かに覗く郭。

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面倒くさくなって下りなかったけど、どうも主郭周りは石垣で囲まれてるくさい。

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足元にある石が気になるから見たいけど、上がってこれなくなるとまずいのでねー。そして、西条側の方が防御厚い。見るべきものはこちら側だったのだ。

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晴れてればね…。

 

 主郭跡地には、何かあったらしい形跡が。象山神社関係の何かかな? と思った。さっき「象山神社神苑」っていうの見たし。

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台座しか残ってない寂しい。

 

後で調べたところ、主郭から更に尾根伝いで山を登っていくと鞍骨城に至る。その道沿いで堀切が2本あるようだ。

 

さぁ山を下るよー。

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下りはそんなに寄り道しないで降りたので、30分位でここに着く。

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壁伝いの向こう側へ、この先も何かありそう…。

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向こうは別の山(離山という名前のようだ)らしい。時間は少し余裕があるので、寄り道。

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配水池。

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更に進む。

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途中で(面倒くさくなって)引き返した。帰宅して調べたところ「離山神社」という神社に出るらしい。

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分岐点から最初の橋へ。

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ちなみに、二の郭と西条を結んでいる道だと象山地下壕の脇に出るようだ。

 

★★★★☆

思ったより石積みが残されていて、個人的には満足した。

 

 

<竹山城>

築城年 不明

築城主 西条氏?

構造 山城

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笄の渡し+横吹八丁

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この場所は昔、川の渡し場があったという。「笄の渡し」という名前で、笄とは棒状の装身具。元々は髷を結うときに髪を掻き上げるため使った道具で、結った髪を崩さずに頭皮を掻けるという便利グッズでもあったらしい。それが、江戸期には花魁が頭にこれでもかと挿しまくってた、ああいう簪みたいな髪飾りとしての用途に変化したようだ。

 

なんでその笄が名前に入っているのかというと。

天文22(1553)年に村上氏居城の葛尾城が武田氏に攻められ、落城した。そのときに逃げ出した村上義清の側室(於フ子さんというらしい。オフコと読むのかと思ってたら、実はオフネさん…私には難しい読み方だった)がこの場所にたどり着き、船頭さんに「向こう岸まで渡してくれ」と頼んだそうな。一応戦場なので船頭さんも命かけなきゃならない。無事に向こう岸に着いたお礼に、髪に挿していた笄を船頭に与えた(やっすいなーと思ったけど船頭はそんなお礼で満足できたのだろうか…まあ逃げる時に金目のものを持ち出す余裕はないか)。

という逸話からきているようだ。しかし、笄というものを頭に挿し始めたのは江戸時代中期からという話。この当時、笄を髪に挿してるイカレポンチなんぞいるもんか! というのでこの逸話自体創作じゃないかとも言われている。

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笄の渡し跡より。正面の山に葛尾城があったのかな。現在の渡し場跡地は国道18号が通っているものの、戦国時代は崖であったらしい。それも、けっこう高めな。高崖と呼んでいたとも伝わる。高崖→こうがい→笄で話が生まれたのかも? という説も。

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オフネさんが逃げた方向。正面の山には出浦城跡がある。その先の荒砥城へ向かう予定だったみたい。川を渡った後の足取りは諸説あり、落ち延びた・死んだ(亡くなった場合も様々なバリエーションがあるようだ)とある。有名な説だと村上義清戦死のニセ情報を掴まされて、ショックで自殺したようだ。村上さん脱出して新潟に行ったからねー。

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オフネさん自殺の場所はここ↑

出浦城の麓にある姫宮跡。実は、川を渡ってすぐ位の場所。こんなところで自害じゃただの逃げ損じゃないかね? 憐れに思った人がこの話のオチを色々創作しちゃったのかなー?

 

河原に降りてみる。高崖と呼ぶにふさわしいのか、本当にちょっと河原からここまでは高いし急だなぁ。

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人がいない。水かさもなく穏やかだ。たまには洪水を起こしている。洪水の記録では仁和4(888)年が一番古く、現代までたびたび荒れ狂っている。

 

上の国道に戻る。新しめのものからボロボロのものまで、石碑がいくつも並んでいる。これらは最初からこの場所にあったものではないらしい。別の場所にあったものをこちらに移したようだ。

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 これら石碑群は旧北国街道の道沿いにあったものらしい。他にも石碑があったようだが、崖崩れなどで失われてしまったようだ。今は使われていないその箇所を「横吹八丁」と呼ぶ。

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何故か埋まっている水天宮。字面で分かるように水の神様だ。元は高倉平中宮の女官だった按察使局という女性が平家滅亡(寿永4(1185)年、壇ノ浦の戦い)のあと隠遁し、「水天宮」を祀り近隣の住民のために加持祈祷を行っていた。これが大当たりして信者が増え、全国に広まったとか。なので水天宮は天之御中主神天地開闢のときに現れた神)と、安徳天皇平清盛の孫)・高倉平中宮建礼門院平徳子)・二位の尼平時子)と平家にゆかりの人々も御祭神としている。

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でかい真ん中のは「音」の字しか分からない。両サイドはちゃんと「馬頭観音」と読めた。じゃあ真ん中のも馬頭観音かしら? 馬の供養塔である。

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真ん中の、横に仏様が彫ってあるー。

 

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よこふきや駒もいななく雪あらし と書いてあるらしい。吹雪いているのに過酷な道を歩かされた馬が悲しく鳴きながら崖下に落ちていきました。って感じの句? 名所なのでこんな句碑がいくつか。

 

慶長16(1611)年このあたりに道が作られた。それが北国街道らしい。それ以前は道がない。急峻で技術的に難しかったようだ。北国街道全通以前は、ここから上田方面にお出かけの際にはまず山を越えることから始めたようだ(山の向こうには道がある)。

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このあたりからは北国街道→国道になっているらしく、国道18号は江戸時代の道を改良してを走っているとか。江戸当時も国道扱いだっただろうが、ここまで広くなかったのかなあ? わりとなだらかに進む道でカーブもなく走りやすい。

 

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問題は、こちら側である。この道は明治時代に新しく作ったものらしい。江戸時代の道は崖へ上っていくようだ。歩道部分は旧線路だと。

電車用のトンネルが掘ってあるので、もうこんなところ通っていない。歩道にしては広いなとは思っていたが、電車が通るには狭そうだな。

幕末から明治にかけての時期にヨーロッパの蚕が病気で死にかけており、鎖国してた日本の蚕が無事だったために絹糸が良い値段で輸出していた。いつの間にか世界一の生糸生産国に成り上がり、昭和恐慌(世界恐慌)ぐらいまでは日本の主要輸出品だった。生糸主産地だった群馬や長野で早い時期に鉄道が通された理由らしい。

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このトンネルの近くに立派なお地蔵様が安置されていた。立地的に、トンネル掘削時に殉職した人々の供養じゃないかと思った…ただ、それにしてはお地蔵様が新しい。ひょっとして最近になってトンネルに幽霊さんが現れるようになったとか?

 

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横吹八丁は山の中腹あたりの隙間を歩く道だったらしい。道としてはもう残ってないらしい。崩れまくりで道は消え、歩けないっぽい。八丁=八町で約873m。その距離かつ崖の上・下は川というスリルがたまらん道だったんだろうねえ。

 

一応、入り口2か所は分かった。地図に照らし合わせて探さなきゃまず見つかるまい…。

出入口①  看板奥、落石フェンスの始まりあたりより

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ちょっとフェンスの向こう側を見たものの、道らしきものはなし。というか、崖をコンクリで固めてあったので消されたくさい。

出入り口② 案内板の先。向こうは店舗、店舗裏から上る

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書かれている文章の通り、店舗裏をこっそり覗いたら上り口があった。しかし、何人とも入り込めないよう、上り口はコンクリで固めてあった。そんなに危ない道なのか…人が使わないとあっという間にダメになるらしいがね(北国街道の難所としては、岩鼻狭間という場所もあり。切通もあるそうで興味があり、そこは一度歩こうと思って調べたが通行禁止っぽい。さほど崩れていないらしかったが昔はロッククライミングの名所、今は落石監視の機材や鉄塔なんかがあって常に人の手が入っているせいなのかも)。廃道(古道)好きだけど、無駄にキツい道だと関わりたくない感じになるわ。

 

そんな道なので、明治9(1876)年に村人が山肌を削って、新しく道を作った。翌明治10(1877)年開通。漢文の石碑もあって、そこには場所の概要、新しく作った道路の距離、経費と新道の効果、6年間通行人から金取ったなどと書いてあった(多分)。

道普請は許可制だったようで、国からの条件付き(旧道を廃止せず維持)でOKが出た。が、守られなかったのかね…案内板には「通行がなくなった」と書いてあった。

 

★★☆☆☆

渡し場より廃道が気になってしまった。

 

<横吹八丁>

開通年 中世

 

 

 

 

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変な所(道路わきの崖上)に南無阿弥陀仏。見た感じ古そうなものだけど。こういうの、どうやって運ぶんだろう。その場で削りだし&彫るのかね?

 

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生島足島神社

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行ってきました↑

ここは生島神・足島神の二柱を祀るとても古い神社である。信州一宮は諏訪大社だそうな。

 

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境内はこんな感じ。本殿がある場所を「神島」、神島が浮かぶ池を「神池」と呼ぶようだ。パッと見、海に浮かぶ島=日本みたいな図式で、長い間二神を国生みの神様と思い込んでいた。生島神=イザナギ、足島神=イザナミかと。実際は全く関係ないらしい。

ここの神々は古事記にも日本書紀にも登場せず、どんな神様かよく分からないらしい。ただ、天皇の即位儀礼のひとつ(現在は廃絶しており、やっていない儀式)で八十島祭というものがあり、それと関係する神様とか。八十島というのは日本のことで、このお祭りの主神が生島神・足島神であったという説がある。この説では日本国土の神である生島神・足島神を祀ることにより、国土の支配者は天皇であるということを示す目的だったんじゃないかとされている。

私のイメージもあながち間違っちゃいなかったのかも…なんか嬉しい。

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境内は朱色。綺麗ね。

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奥の建物が本殿。創建の由来は建御名方が諏訪に行く途中この地に留まり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられたことから、という。そのせいか、本殿の向かいに諏訪神社がある。そして御柱も行われているらしい。

皇室に深い関わりのある神社だからか、大同元(806)年の平城天皇に始まり何度か皇室の寄進を受けているようだ。最近もあったようで、平成28(2016)年の日付で「天皇陛下幣帛料御下賜」という看板が立っていた。去年じゃないかー。今の本殿も昭和15(1940)年に国費で建てたという。この本殿、権現造とあったから「なんでだ?」と思ってた。建物は新しいのね。

 

生島足島神社延喜式にも載っている古い神社。主祭神が日本国土(大地)の神であるせいか御神体は地面のようだ。本殿の中には内殿があり、その中には内陣・外陣があるという。ややこしいが、元々の本殿は現在の内殿のことで、18世紀後半~19世紀に内殿を保護・覆うようにして現在の本殿が出来上がったという。内殿は天文年間(1522年~1555年)に作られたらしい。

内殿の中の内陣、外陣ともに床は張られていない。土間になっている。内陣の土間(地面)が御神体であるらしい。同じように自然物を御神体として祀る神社といえば大神神社を思い出すけど、このような神社はかなり初期のタイプらしく、神道が生まれた頃の形態を残しているみたい。ひょっとすると、建御名方がこの地に来たときにはもう何か施設があったのかもね。

古さを証明するものとして、こんなものがあったよ↓

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磐座・磐境。古神道での祭祀場跡地。こういう祭祀場が使われるようになったのは古墳時代(3世紀半ば~7世紀)から。やがて神社(神殿)が造営されるようになったので磐座を作る必要がなくなり、ほとんどの神社にはない。磐座で祭祀を行っていた場合にはその近くに神様のためのお社を建てたのだが、古い祭祀場も神聖視されて壊されず残っているようだ。

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↑御神橋

神島に渡る橋である。やっぱり朱色。華やかでいいわねー。皇族、勅使用の橋なのかと思いきや。向かいの諏訪神社から本殿へ建御名方神がお渡りになる神事があるそうで、その時神様が使う専用の橋だという。

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 このあと諏訪神社にもお参りをした。もちろん朱色の綺麗な建物。

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神社には夫婦杉とか夫婦松とか、夫婦○○という名前の御神木があったりする。こちらにも夫婦欅。木が並んで生えてるとか、根元から二股に分かれて伸びていくとか、そういう様子から名づけられた御神木がほとんどなんだろうけど、ここは違った。古木が1本にょきっとしているだけ。

根元に幕が張られている。洞がある。覗いたら、なんで夫婦欅なのか分かった…さすが原始宗教の面影を残す神社である。手を合わせてきました。

 

 

★★★★☆

古い神社だけど、全体的に朱色なせいか明るく綺麗で。あんまり古さを感じなかった。

 

 

生島足島神社

創建年 不明

御祭神 生島大神 足島大神

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中御所守護館

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この神社、鳥居の扁額には「八幡宮」と書かれているが、どちらかというと御所天満宮と呼ばれている方が多いと思う。天満宮は学問の神様・菅原道真さんを祀る神社。受験シーズン、幟がたくさんたっている。ちなみに、ただの日本人から神様になったのは菅原道真さんが初めてらしい。近場で「学問の神様」を祀っているの、ここぐらいしか思い出せない。で、だいたい受験時はここにお参りに来る感じ。

「御所」とついているのは、この場所に信濃国守護所「中御所(なかのごしょ)」があったからだと言われている。この辺一帯は今でも「中御所」という地名。単に御所と呼んでいないのは、同時期に豊御所(とよごしょ)が近隣にあったからかもしれない。豊御所のあった場所は、問御所(豊御所が訛っちゃったらしい)付近、つまりトイーゴとかいう建物がある昔の繁華街あたり。

中御所と豊御所は、鎌倉時代初期に善光寺中興の祖であり鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝善光寺参りで寝泊まりする館として建てられたと伝わる。彼は折に触れて善光寺に来ていたらしい。噂では松代の尼飾城の娘に手を付けて鎌倉に連れ帰ったけど、嫁(正妻)にキレられて娘を里に返してしまったとか。

この時期は全国各地に鎌倉幕府が「守護」を置いていた。ここは守護の館跡とも言われている。当時は朝廷の置いた役所「国衙」の近くに守護所を建てることが多かったらしい、この二つの守護所も信濃国国衙のあった場所に近い。信濃国国衙は後庁と呼ばれていて、今の地名でいうと後町にあったようだ。

3つともかなり古い時代の役所跡なので、現在は跡形もなし。

御所天満宮付近はこんな感じの住宅街↓

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新しい家が並ぶ。オリンピック前に開発し始めたが、私の感覚だとスローペースな開発進度。元は(綺麗とは言い難いような)古い家がゴチャゴチャしていた訳わかんない地区だったよ。その不思議さに魅かれて高校ぐらいから時々見に来てたが、あの頃はまだ襤褸家が多少残っていたのにな。ここ数年で一気に変わってしまったらしい。見渡してもみんな新しく立派な家ばかり。でも、昔見に来てた時からお城の名残的なものはなかったような気がする

 

社務所らしき建物に、守護所跡のことが掲示されていた。それによると、

源頼朝が建久8(1198)年、善光寺に参詣したときの宿跡(領主の漆田氏がおもてなしのため建てた)

・この辺を領地としていた豪族漆田氏の館跡

信濃守護職小笠原氏の守護所または関連施設

という説があり、明治初年編纂の資料にも「御所跡」と紹介されているとあった。

館の規模は、東西66m、南北56mで中央が一段高く周囲に空堀があったらしい。平成5(1993)年からこの辺りの区画整理事業が始まったそうで、翌年の平成6(1994)年には「御所遺跡」という古墳時代から平安時代にかけての集落跡とされる場所の発掘調査がされていた。「御所遺跡」は「御所跡」をすっぽり覆う広さだ。元々この場所に集落があったから館を作る気になったのかな。

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それから10年以上あとの平成16(2004)年にようやく「御所跡」の調査が始まる。その結果は。

空堀 幅12m前後 深さ2m以上

・土塁 堀の底から測ると高さ5m以上

何それでかいじゃん。目と鼻の先の近さで栗田城があるけども、どっちもでかいお城だったんだな。

 

御所天満宮のある位置は、中御所守護館の北辺の中央ぐらい。じゃあ、すぐ後ろにでも堀あるんかなーと見たが、何もなし。御所跡の調査では建物跡の他、出土品も多数見つかっているようだ。古瀬戸などの国産品から青磁・白磁の舶来品、銅銭が出てきたのでそれらの解析から館は鎌倉時代に造営、戦国時代まで使われたと確定したようだ。

文安3(1446)年に「漆田の戦い」とかいう合戦がこの場所であったとも書いてあった。室町時代の小笠原家の家督争いだそう。調べてみたら、南北朝時代の元中4/嘉慶元(1387)年に地元豪族連合軍と守護軍(当時は二宮氏)が戦い、文明9(1477)年に領主の漆田氏が隣の領主栗田氏に攻め込まれて、負けるという合戦もあり。ちょくちょく戦乱に巻き込まれている場所らしい。大変だねぇ。

 

館は江戸時代には廃城となったが、そのあとここに八幡宮が建てられた。なので、鳥居の扁額が「八幡宮」になっているようだ。昭和54(1979)年に亀戸天神社より天神様が勧請され、「御所天満宮」にもなっている。

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建物は火災に遭い、平成4年に再建されていた。

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こんな絵もあったよ↑

 

私は絵馬に書かれた願い事を覗き見るのが好きなのだが。そういう不逞の輩が多いせいで絵馬を奉納する人達も警戒しているのか、願文も当たり障りのないものばかりになってしまった。この御所天満宮も「志望校に受かりますように」ばかりでちょっと物足りない。学問の神様宛てだし学業成就ばかりは仕方ないか。一昔前の、例えば縁結びをウリにする神社だと「○○さんと□□さんが別れて、私と○○さんが早く結婚できますように」なんて、色んな妄想と強い興奮が入り混じる不思議な気持ちになる絵馬があったりしたんだけど…そういうの最近減りましたねー。ちょっと寂しい。

 

★★☆☆☆

この地区変わりすぎ。まったく知らん場所になってるわ。

 

 

<中御所守護館>

築城年 鎌倉時代

築城主 漆田氏?

構造 平城

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