お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

治田神社(上宮)

ちょっとした山に登りたいと思いつつ。今年は熊害多いよなーコロナ明けで狂ったように行事やるなー等々、雑務や子供の行事で時間潰されまくった。11月も子供の行事で忙殺される。物忘れが酷く記憶がぽろぽろとこぼれ落ちてしまい、年を取った実感わいてきてるわー。少し長めに寝たら治るんだろうか。

 

そんなこんなで隙間時間で人里近い神社を巡っているだけの人になってしまった。熊が怖いしね!

治田神社は古く、延喜式内社だという。

上宮と下宮があって、まずは上宮に行ってみた。下宮には以前行ったことがあったけど、上宮は初めてだった。
下宮に比べると小さく、田舎の鎮守社という雰囲気。

境内の説明板には、

御祭神

 

由緒

・治田山(篠山)に創建される

彦坐命の子孫である熊田氏は「治田連」の姓を賜り、近江国から当地へ移住した

先住民達と共に当地を開拓し、治田山(篠山)に祖先神である彦坐命を祀り、この地を治めた

・延長5(927)年、延喜式内社治田神社となる

延長5年完成の「延喜式神社名帳」に記載された

・治田山(篠山)から現在地に遷座する

永享の乱(1438年)以降、地元の豪族・桑原幸光により遷座

同時に健御名方命と八坂刀売命を勧請合祀し、「諏訪大明神」と称する

天明2(1782)年、名前が戻る

元の名前に戻すため、寺社奉行に申請し京都の吉田家の認可を受けた

・明治6(1873)年、郷社となる

それまでの村社から郷社に昇格した

一の宮と称され、人々から篤く信仰された

・昭和46(1971)年、火災により社殿焼失

昭和49(1974)年に、氏子の浄財により再建された

 

治田山という名より篠山の方がメジャーらしい。治田神社の背後の山らしいが。

 

どれかなー? 一番高く見える山かな?

長野市千曲市の境界になっている山だそうで、小坂山を越えていくとあるらしい。登山道はあるようで、わりと登る人も多い山のようだ。

 

開化天皇の第2皇子(wikiだと第3皇子)という彦坐命(日子坐命)の子孫が山に祖神を祀ったというのが最初だそうで。この彦坐命という人の業績について古事記によると、崇神天皇10(紀元前88?)年に「四道将軍」と呼ばれる4人の将軍が日本を平定するために各地へ派遣されており、そのうちの一人らしい(日本書記では、彦坐命ではなく、子の丹波道主命とされている)。

彦坐命の業績は日本書紀にほとんど載っていないが、古事記には系譜が詳細に残されている人物だという。それは多分、彦坐命の子達が天皇暗殺を企てたとか、彦坐命の子孫の一人に神功皇后がいるし、景行天皇の母方の曾祖父にも当たる人がいるとか、子孫に重要人物が多いからだと思った。

 

まず成務天皇の時代に彦坐命の三世孫である大陀牟夜別が淡海国(近江国)の国造に任命される。栗太郡内に治田郷(読み方はハッタらしい)がある。七世紀頃はこちらに子孫が居住していたとか。

彦坐命の四世孫が(北蝦夷?の討伐による)戦功により近江国浅井郡に土地を貰い移住し、その子孫である熊田氏や宮平氏という人達が「治田連」という姓を賜ったらしい。

 

また、岐阜県岐阜市に彦坐命(日子坐命)の墓がある(これは明治時代に宮内庁が認定した陵墓)。その隣に式内社の伊波乃西神社がある。元は彦坐命の墓に伊波乃西神社があったそうで、明治8(1875)年に彦坐命陵墓と認定されたため立ち入り禁止となってしまったためにやむなく現在地に遷座したそうだ。

 

彦坐命を祀る神社は他にもある。

三重県「賀毛神社」

  御祭神 彦坐命、相殿神は子孫の鴨県主治田連命

 近江国から移住してきた治田連の子孫が祀ったものが始まり。鴨県主は山城国から移住してきた、同じく治田連の子孫。

 

京都府「竹野神社(斎宮いつきのみや)」の摂社である「斎宮神社」

  御祭神 彦坐命、竹野媛命(開化天皇妃)、建豊波豆良和気命

竹野神社は開化天皇妃だった竹野媛命が晩年創建したと言われる。御祭神は天照大御神。摂社の斎宮神社には彦坐命も祀られているが、彦坐王の母は竹野媛命ではないという複雑さ。もう一柱の建豊波豆良和気命も開化天皇の子だが、母は竹野媛命ではない。彦坐命と建豊波豆良和気命は異母兄弟で、二人とも庶子。竹野媛命自身の子(第一皇子)もいたようだがこちらは何故祀られていないんだ…? とはいえ、竹野媛命は父が丹波県主という丹波の豪族で、彦坐命の息子とされる丹波道主命は竹野媛命の孫という説もある。

竹野媛命の子は比古由牟須美命(彦湯産隅命)という人。 比古由牟須美命→大筒木垂根王迦具夜比売命垂仁天皇妃)と繋がり、名前の通り迦具夜比売命竹取物語かぐや姫のモデルと言われている。ちなみに求婚した5人の貴公子も3人が実在・残りもモデルだろうと言われる実在の人物がいる。5人が生きた時代が奈良時代初期なので、竹取物語の舞台は奈良時代とも言われているし、竹取物語「竹」も祖である竹野媛命から連想されたとか…個人的には竹野媛命と彦坐命が夫婦で、その子が比古由牟須美命(彦湯産隅命)だったりしてね、と思っている。彦って字が付いてるし。

 

滋賀県「佐波加刀神社」

  御祭神 彦坐王と7人の子(大俣王、小俣王、志夫美宿禰王、沙本毘古王、袁邪本王、佐波遅比売王、室毘古王)

7人の子は2人の妃(山代之荏名津比売、沙本之大闇見戸売)から生まれた。2人の妃はそれぞれ山代(京都府南部)、大和(奈良県の大和盆地北側)に拠点を持つ一族出身。この中で最も有名なのが沙本毘古王。この人は同母妹で垂仁天皇妃の沙本毘売命に垂仁天皇暗殺を頼み、失敗して二人で自殺する。その後沙本毘売命の遺言?で、垂仁天皇に彦坐命の孫に当たる4姉妹が妃に迎えられている。4姉妹の他に迦具夜比売命かぐや姫のモデルと言われる)もいるよ。

 

岐阜の伊波乃西神社も含めて、すべて式内社であるという。丹波国も彦坐命の勢力下らしい。古代に大変な勢力を誇った一族なんじゃないかねー? 天皇にガンガン子女を入内させているなんて、なかなかな一族じゃなかろうか。上記の式内社以外でも彦坐命とその子孫に関連があるとされる社がいくつかあった。

 

一説によると、治田神社は雄略8(463)年に創建されたという。

雄略天皇は中国の元号の昇明2(478)年に皇帝へ上表文を送った倭王武だと言われている。実在したと言われる最古の天皇でもある。宋の順帝宛てた上記の上奏文には「倭国内を統一した」という内容が含まれている。雄略天皇の時代に盛んに討伐が行われていたようなので、彦坐命の子孫が戦功で近江国の土地を下賜された時期もこの辺りなのかな?

開化天皇自体が実在怪しまれているが、次代の崇神天皇は実在が有力視されている(最初の天皇ではないかと言われている)。崇神天皇の兄弟にあたる彦坐命とその一族も実在しているのかな? 崇神天皇は3世紀後半~4世紀前半(250~350)に在位したと言われ、その頃には大和盆地に初期の前方後円墳たちと纏向古墳が大和盆地に出来、初期の大和政権が出来たと言われている。なので、日本建国の初期メンバーに彦坐命一家がいて、その子孫が治田神社の関係者なのかもしれない。わくわくするね!

ちなみに日本書紀の記述と西暦を当てはめていくと、崇神天皇の在位は崇神天皇元年(紀元前97年)~崇神天皇68(紀元前30)年、次代の垂仁天皇の在位は垂仁天皇元年(紀元前29年)~垂仁天皇99年(紀元70)年とされている。崇神天皇は120歳、垂仁天皇は140歳で崩御していることになっており、この辺の天皇は超長命(奈良時代の庶民の寿命は30歳と言われている)。中国や朝鮮の古い文献・碑文と日本書紀天皇の業績年表が一致してくるのが5世紀頃らしい。

 

土塁が盛られている。

祠はたくさんあったが、石碑は1基しかなかった。郷社なのに珍しい。

ここの地元の名士の碑のようだ(明治生まれで桑原村議会→稲荷山町議会でずっと議員やってきて地域の発展に寄与したので、昭和33(1958)年に稲荷山町議会で建てたようだ。桑原村は昭和30(1955)年に稲荷山町と合併し稲荷山桑原町に、合併半年ほどで稲荷山町と名称変更、稲荷山町は石碑を建てた翌年の昭和34(1959)年に合併のため消滅し更埴市が発足している)。


寄進された灯籠。寄進した年は分からず、風雨にさらされたのか、文字が読めない。古いのかな?

社殿。いかにも昭和の、彫刻とか装飾は必要ないよねって感じの。

長野縣町村誌によれば、

  • 郷社で、祭神は健御名方命・八坂斗女命と保食神
  • 昔は治田山に鎮座していたが、現在地へ遷座している
  • 治田連は開化天皇皇子の彦坐命の末裔というが、筑前国御笠郡治田宿治田神社の天穂日命という説もある
  • 天文年間(1532~1555)に再建されている
  • 元禄15(1703)年にも再建されている
  • 修復は元文5(1740)年、宝暦8(1758)年に行われている
  • 明和8(1771)年、境内の西方にあった槻の老木が倒れたため、祠などを損壊したが、再建された
  • 寛政元(1789)年、祠殿を造営
  • 文化12(1815)年、拝殿を再建
  • また祠等は壊れちゃったりしたので、文久元(1861)年に本殿や拝殿を再建した
  • 明治6(1873)年、郷社になった
  • 当初は治田連が管理していたが、やがて桑原氏に代わったので、この辺りを桑原郷と改めた
  • 治田神社は桑原郷の産土神でもある
  • 時期は不明だが下宮ができたため、村も桑原村・稲荷山村に分かれた
  • 上宮(当社)は桑原村の産土神、下宮は稲荷山村の産土神である
  • 近隣の人々からは一の宮と呼ばれて崇敬を集めた

とあった。

 

筑前国御笠郡治田宿治田神社というのが分からなかった。あるのかなー? 天穂日命は「アマテラスとスサノオの誓約」という出来事があり、その時生まれた五男三女神のうちの1柱らしい。五男は天照大御神の子で、三女は素戔嗚尊の子だという。天穂日命天照大御神の次男という。この人は天照大御神の命で葦原中つ国へ侵略しに出かけたのに、葦原中つ国の主・大国主命に心服しちゃったという神様である。故に他の神様が葦原中つ国の平定に成功すると、天穂日命大国主命に仕えるようにと言われ出雲大社の祭祀と出雲国造となったそうだ。天穂日命の子孫は出雲大社宮司家の他、最古の相撲の試合で勝った野見宿禰菅原道真大江千里和泉式部赤染衛門大江広元等の大江一族→毛利氏といるみたい。

 

永享の乱(1438年)は関東地方で起きた内乱である。鎌倉公方関東管領との戦争で関東管領が勝ったようだ。その頃から治田連に代わって桑原氏が当地を治めたとされる。桑原氏は佐野山城を築いた一族。永享12(1440)年の結城合戦には信濃守護の小笠原氏に従って参加したとされている。保元元(1156)年に起きた保元の乱を描いた保元物語などに桑原氏は諏訪武士として現れているそうで、どうやら諏訪氏の庶流らしい。時代が下って、諏訪から移住してきたのかなー?

どちらにしろ、桑原氏がこの辺りを治めるようになってから治田神社の御祭神に健御名方命・八坂斗女命も祀るようになったらしい。もし桑原氏が諏訪から移住してきたら自分たちの氏神様を祀っているわけだし、変じゃないのかも? 神社を乗っ取った感もあるよ。

神社的には「甲斐の武田信玄信濃に侵攻してきたので、戦火を逃れるため武田信玄が信仰している諏訪神を祀る神社として社名を諏訪大明神に改めた」ともしている。結果的に諏訪の神様を祀っておいて良かったね、という話かー。

近隣からは「一ノ宮」と呼ばれていたらしい。でも千曲市内には武水別神社という大きな神社がある。武水別神社を差し置いて、何故一の宮とか呼ばれているんだろうと思った。

  • 治田神社上宮を一ノ宮
  • 治田神社下宮を二ノ宮
  • 長谷神社(長野市長谷寺近くの長谷神社下社)を三ノ宮
    長谷神社も式内社である。 長谷神社は上社・下社と分かれており、上社は長谷寺境内にある。恐らく上社が式内社で、下社はそこまで古くないのかもしれない。下社はかつて諏訪大明神と称していたそうだ。上社の御祭神は八聖神。下社は長谷郷の産土神とされた。天保7(1836)年に長谷神社下社と改称している。
  • 御林の諏訪社(たぶん長野市篠ノ井の中郷神社)を四ノ宮
    長野縣町村誌によれば、中郷神社は村上天皇の子・為平親王の神殿とも云われる。 隣接して為平親王陵と称する古墳がある=中郷神社前方後円墳だが、長野縣町村誌の塩崎村編纂者すら為平親王陵ではなく別の高貴な人物の墓だろうと書いてあった。 為平親王はこの地を支配した村上氏の祖であるという。 この近辺というと村上源氏が有名で戦国時代は領主様だったのだが、平安時代末期に豪族・二柳氏とその分家の夏目氏はwiki(夏目氏の項目)によれば清和源氏だそうな。系図をちょっと遡ると源為邦という人物が河内源氏の庶流である頼清流村上氏より養子に入ってきたそうで、源為邦は為平親王の子・源(村上)憲定の娘婿となり村上氏を名乗ったとも言われるが、説としては弱いものらしい。ただし、源憲定の弟の源頼定の子孫に夏目氏初代の夏目国平のパパさんと同名の国忠という人物がいるし、これは養子キテル?などとも思ったりする。そうすると夏目氏は為平親王の子孫ということに。源頼定枕草子にも登場し、イケメンの代表と称されている。それ故か、女性スキャンダルを起しまくっている。夏目氏は神社がある四之宮の隣、石川村を領地としている
  • 石川布制神社(長野市篠ノ井石川の布制神社)を五ノ宮
    長野市篠ノ井には「布施神社」が四社ある。 そのうちの1つが石川布制神社だが、この神社は江戸期に「諏訪大明神宮」と称していたそうだ。布制神社は延喜式内社の古社であり同名社のうち三社が「ウチです」と主張しているようだ。しかし式内社としては布施五明にある布制神社が紹介されていることが多い。そして布制神社の主祭神大彦命。彦坐命の伯父?に当たる。古代に四道将軍に任じられた日本建国に関わる人。その大彦命の子孫として最も有名な氏族が阿倍氏である。政府高官の他、阿倍比羅夫など軍人も多く日本各地に氏族が散っていったそうだ。古代の篠ノ井周辺を掌握していた豪族は大彦命後裔の布施氏だったという。古代の将軍・阿倍比羅夫阿部一族のうち「引田臣」という一族を率い、その引田氏と対立したのが「布勢臣(布施氏)」である。ちなみに竹取物語に出てくる阿倍御主人は布勢臣の出身者で、阿倍氏氏長者になった時に阿倍姓となった。石川布制神社は石川廃寺の跡地に建てられたと言われ、神社付近から基礎などが発掘されているそうだ。

つまり諏訪大明神関係の五宮ということのようだ。なんでそう呼ばれたのかの経緯は分からなかった。

 

天明2(1782)年に諏訪大明神から治田神社と名前が戻されているが、この年から天明の大飢饉が始まっており、それに関係して戻したのだろうか。この地区も飢饉の影響なかったはずないし、飢饉になったのは元の御祭神が怒っているとか思ったのかな?

 

誰も居なかった。静かな神社。

さっそくお参りですよ。扁額は妙に綺麗だった。

古社のはずなのに、そんな雰囲気ないのは社殿が新しいからかな?

摂社。特に案内はなかった。デカいのはなんだろう? 帰宅後調べたところ、杵築社というらしい。出雲大社の別名である。健御名方命の父親・大国主命が御祭神。

小さな祠達を従えているようにも見える。祠が載っている土台がなんとなく昭和っぽいので、もしかしたら大きめの社の周りに集めようとあちこちから遷座してきたのかもしれない。祠も綺麗なものから少しくたびれたものまで、年代がバラバラっぽい。

杵築社は以前から鎮座していたのかなー? 基礎が違う。

 

神社の裏手。

境内は木々も多いんだが、意外なこと?に幹が太い「いかにも」な木が少ないのだ。

鳥居の傍にあった太い木以外は若そう。江戸時代に本殿・拝殿・祠等が結構な勢いで壊れていたけど、ほとんどの原因は「老木が倒れた」なのかな? 壊れすぎじゃね?と思ったんだよ。

 

★★★☆☆

古社の威厳が薄い感じ。何故か竹取物語に関わる事柄が多い理由は子供が「かぐや姫の劇をやる」というので、話の内容をお復習いしたせいである。

 

 

<治田神社>

創建年 不明

 

 

 

中村神社

中村神社。ここは古く、延喜式内社とされている。

ちなみに信濃国埴科郡にあった延喜式内社の「中村神社」とされる神社は二つある。論社はここと現在の松代町にある神社。どちらがどうなのかよく分からない(多分、地元民以外は関心低いんだろうし)。

明治時代の長野縣町村誌にも、どちらの神社とも「延喜式内社と伝わります!」と高らかに書かれている。が、それ以外の部分、御祭神などは全く違う。以下は長野縣町村誌の記述から。


「中村神社(長野市松代町西条)」

御祭神 天兒屋根命(天児屋命春日神

元は旧西条村南側にある高遠山(現在の上田市真田町傍陽)の中腹、宮ノ平にあった。当時の平地は沼地で住めるような環境ではなかったらしいが、やがて水が引いたために現在地へ移転したらしい。

永禄年間(1558~1570)に兵火のため建物から古記録や宝物などすべて灰になった。現在の社殿は永禄11(1568)年再建(棟札が残っており、そこには領主の西条氏と思われる名前なども書かれていたという)。棟札には「西条大国大明神社」とあり、以前はこの名前で呼ばれていたようだ。

旧社地は寛保2(1742)年(戌の満水が起こったため)崩壊し、現在は跡形もないと伝わる。

 

「中村神社(千曲市中)」

御祭神 健御名方命

太古の千曲川氾濫により村が流されたために、川の被害が少ない陸地で更級郡内の現在地に移転した。この地は「埴科郡」→「更級郡」→「埴科郡」と属する郡が変わっていった地区だった。後に諏訪大明神社と名称を変え、明治11(1878)年に中村諏訪神社という名前となることが許された。

 

個人的な印象だと、長野市の中村神社の方が古くからありそうな気がする。

旧西条村は松代町と旧真田町上田市を結ぶ街道上にあり、寺社仏閣を多く抱えている村。領主の清野氏は鎌倉幕府末期の元弘年間(1331~1334)あたりには旧清野村を治めたと言われているので、それ以前から人が住んでいるはずだろうし…。古代には英多郡に属しており、村落名はずっと変えてませんとのこと。

対する千曲市中は、そもそも村落名が「中村」だしなあ…。「時期は不明だが大昔に千曲川が氾濫し、村が流された。その後、千曲川の流路跡を徐々に開墾していき中村と称する村落を形成していったが、後に中村・向八幡村・小船山村に分裂。明治4(1872)年に再びひとつの村として合併し向八幡村となった」とあったので、交通の要衝だったわけでもなく大きな事件もなく静かに開発された村だったらしい。「古代は埴科郡小谷郷(大穴郷?)に属していたんじゃないかなあ?」という暢気なことも書かれていたよ。村が流されちゃってるから仕方ないよね。

長野市の方が古くからあるぽいし、千曲市の方はなんか来歴が怪しい。そう思う人が多かったのか、式内社一覧などでも長野市の方だけ載せていることがほとんど。

 

鳥居は以前、この位置にあったらしい。

今ある鳥居もさほど新しいものでもないような感じ。

延喜式内社を名乗るぐらい、幹の太い木が何本も境内にある。欅かな? 分からん。

こちらは銀杏のようだ。

書いてあったからね。

お参りをした。

社殿に装飾はない。なんだかとても近代的な雰囲気よ…。

式内社でないにしろ、境内の様子からそれなりに古い神社であることが確実なのでお賽銭はずんだよ。会社の状況は相変わらず良くないのでねー(にも関わらず東信にある事業所の社員募集していたわ)。

摂社の祠はたくさんあったが、神社の由緒書などは一切ない。

 

こういうのがあった。

この方は、中村神社の神主家に嫡男として生まれた人。幼い頃から画才に恵まれて地元の絵師に師事し、その後群馬の高名な画家に教えを乞い、上京し絵の修行をしたそうで。地元に戻って画塾を開いて住民に絵を教えて慕われた先生の記念碑だった。なので神社の話とはちょっと関わりないもの。

 

少し前に近所の保育園の園児が遊びに来ていたらしい。手入れは隅々までされており、地元で大切にされている神社のようだ。ご利益あるかな!!

 

神社の隣に蔵がある古い屋敷もあったが、神主家ではない様子。代々続く開業医かなあ…? 屋敷の中に何かの顕彰碑があって気になったが、さすがに敷地内に侵入出来なかったわ。

 

★★☆☆☆

私と入れ替わるように、赤ちゃん連れの親子が遊びに来ていた。居心地がいい。

 

 

 

<中村神社>

創建年 不明

 

元八幡神社

働いている会社の雲行きが怪しい。夏のボーナス遅配(賞与は遅配と言えるのか分からんが)辺りから転職活動の準備をし始めたものの「転職は早くても冬あたりにするかなー?」なんて思ってたら。今月から勤務時間が短縮されちゃった! いつでも転職出来る用意しとかなきゃなー。

 

そんなこんなでまずは神頼みしようということで。

笹焼神社から気になっていた矢崎山に登ってみようと思った。私の妄想だと、矢崎山の伊勢社にもお参りしないと片参りになっちゃうからね。

目指す矢崎山は歩いて5分もかからず着いた。
矢崎山から尾根続きで行ける霊諍山も、矢崎山の背後から抜けられるようになっているらしい。

昭和って感じの標識だな。通称「白看」と呼ばれる案内標識で、昭和25(1950)年~昭和46(1971)年の間使われていたものと思われる。その当時は有名な観光地だったのかもしれない。

霊諍山へ向かう道もこんな感じ↓

キテル。

 

矢崎山の入り口まで戻ったよ。

オフシーズン(草と虫、もしくは獣・蛇が出てくる季節)にはちょっと躊躇しちゃう道だよね。私はふらっと来ちゃったので、虫や薮に立ち向かう装備ではなかった。

地元民の散歩コースみたいなイメージ持っていたのよね。ちょっと違うのか。

修験者が修行する山なので、こんな感じの石碑がたくさんあったよ。

上にあるのが「三笠山 鏡心霊神」、下は「賢なんとか霊神」とあり、修験道が行われた山にありがちな石碑だ。上の方の「鏡心霊神」は明治時代に入ってからの建立のようで、比較的文字が読みやすい。下のなんとか霊神は明治以前の古いものなのだろうか。「長野縣町村誌」によれば、ここ矢崎山には仙福寺というお寺さんがあったらしいが、そのお寺さん今はもうなさそう。

他にも青山霊神などの石碑もあった。この辺りは明治以降の新しいもののような感じがする。明治以前の修験道関連は少ないのかもしれない。

ここの石碑はシーサーみたいなモノに守られていた。

もう一匹おり、狛犬みたいな感じだったよ。

晩秋から冬に来るべき場所だな。今年の夏は「12万年間で一番暑い」と称される、とにかく暑い夏なので…そんな昔から統計取ってるのかよ!? と思ったけどさ。とにかく地球上で最も暑い夏を迎えたらしく、今夏はさすがに山に登る気分にはならなかったよ…。矢崎山も見る限り登らない方が無難な雰囲気を醸し出している。

この辺りは「信濃国で最も古い時代の郡衙が置かれた」とも言われている場所であり、現在の武水別神社の元となった神社「元八幡神社」があったとも言われる場所でもある。

古い神社なら霊験あらたかであろう、修験道の祠(というか、笹焼神社の対になっているであろう伊勢社)へのお参りも果たせず、このまま帰る訳にはいかない。
武水別神社の前身、元八幡神社を目指そう。

矢印の通り進んでみると、趣のある蔵なんかあたりして、なかなか楽しいです。

が、行き止まり? 元八幡は行きすぎてしまったらしい。

この道を進むと霊諍山へ至るらしい。

矢崎山登るよりは気楽そうに見えた。が、ハナから霊諍山は目指していないのよ。

とにかく、元八幡は過ぎてしまったようだ。どこだよ…? 元八幡らしきものはなかったが? 戻ろう。

道は合っていた。

おかしい。大雲寺方面にも歩いてみたが、それらしきものは見えず。

 

もう一度、ゆっくり「元八幡→」の方向へ進んでみた。

あらー!?

あれじゃないかな…。

赤い矢印が元八幡の社殿

青い矢印が(おそらく)元八幡の案内板

 

参道は結局見当たらなかったよ。どうやってあそこへ行けば良いんだ。全く分からず、遠くから祈っておいた。

ショートカットするには民家侵入するしかないし、社殿がある畑では働いている人がいた。勇気出ないです。

これでは転職上手く行かなそうだな…悲しい。

 

★☆☆☆☆

社殿への出入り口が謎過ぎる、転職頑張ります…

 

 

 

<元八幡神社

創建年 不明

開基 不明

恋渡神社(鳥居)

暑い・お盆休み混雑という二重苦で、どこか行きたいが行く場所が決まらない。プラネタリウムはどうですか??? という私に「は?」と答える子供。ヤツは「おもちゃ王国行きたいんだけど」しか言わなくなっていた(おもちゃ王国は来月また行きます…)。アスレチックが余程楽しかったらしい。

 

とにかくどこか車を走らせろ、山道が良い。というリクエストにより、青木村へ蕎麦食べに行った。

そこから「更に山へ行け」という子供の指示で、かねてから気になっていた保福寺峠の道を行こうとした。冬季閉鎖される古くて険しい道だけど峠を越えた保福寺にはずーっと気になっていた大正ロマンなレトロカフェがあるのよね(これも子供は全く興味ないだろうけど)。

 

冬はともかく、夏も無理ですよ…。軽トラなら行けるかもしれない。1車線幅のボロボロな険道。林道じゃないの? 

この道は律令制だった時代に作られた東山道であるそうだ。万葉集にも登場する。江戸時代に中山道が出来るまで重要な国道だったし、江戸時代でも松本藩主が参勤交代で利用した立派な街道だった。一応舗装されているけど現代ではどうしようもなく不安になる道だよ。

途中で引き返したわ。同乗者いると気になっちゃうから、こういう険道は一人で楽しみたい。

 

明治23(1890)年に出来た国道最古とされる明通トンネルと同い年の会吉トンネル、トンネル達がある国道143号のせいで需要が低下した旧街道だった。まあ、国道143号と青木峠はロクな話を聞かないが(お化け出るから絶対通らない!! って人もいる)。

そんなトンネルが出来た翌年の1981年に、保福寺道に日本アルプスを世界に紹介したというウェルター・ウェストン(登山家)さんが来ており、保福寺峠に記念碑が置かれているという。由緒ある道なので、趣味で「通りたい」という人もいるらしい。

 

そんな保福寺道の途中で、立派な鳥居があった。

恋渡(戀渡)神社というらしい。

東山道の保福寺峠の麓にある集落なので、昔は賑わっただろうなー。

扁額は旧字を使った戀渡神社となっている。元は越戸(峠の登り口という意味)とか声渡(緊急を要するとき神社のある尾根から叫んだらしい)とか呼んだらしいが、いつの間にかこんな字が当てられるようになったと。

いつからこんな名前なのか分からなかったが、そう古い時代ではないと思う。

明治時代の地図を見ると、この場所には稲荷社と秋葉社があったようだ。何かの事情で合祀した際に「恋渡神社」にしたのかも? と思ったが確証はもちろんないです。

この場所にあった稲荷社も秋葉社も創建年は不明とあった。この地区(旧奈良本村)の郷社は奈良本神社と言い、もう少し麓にある。

 

現在は婚活神社として町おこしに役立てているらしい。道の駅あおきにも戀渡屋という、この神社から取った名前の店があったよ。

コンパラなる植物を使ったソフトクリームが名物らしいです。

参道は古そう。鳥居も古そう。回りの石碑も古そう。

金五百圓也 かな?

富士嶽、従二位勲一等男爵ぐらいしか読めない。頑張って誰のことか探したけど分からなかった。

石段の先、どう考えても崩れているよねえ? 踏み跡も全くないよねえ?
暗くて見えないし。

じゃあ迂回路はこっちか? 道っぽいけど違うような気もする。暗いし。

 

じゃあこっちかな?

行ってみたら、ただの休耕地だったよ。

もう道はない。村おこしに使ってる神社にしては…と思い、スマホで検索したところ、車道が整えられているとのこと。保福寺道沿いに看板があったな、ということで探しに行ったよ。

辿り着いたのがここ↓

さすがに交通の要衝だったからか、古民家が密集しており道も狭い。もはやどちらの道を進めば良いのか分からず(どっちも突き当たりかと思った)、そのままバックして帰りましたよ。

正解は上にあがっている道だったようだ。

 

婚活中の人々のブログによれば、車を脇に置いていくのが正解だったらしい。この先も軽トラ幅の道がずっと続いているそうで。麓の鳥居から登る石段はすでに崩れ通行止め。神社の駐車場もなし。

 

真っ暗な切り通しみたいな道もどうやら社殿に続いていたらしい↓

これは初見殺しだと思いますよ…。

 

なので、恋渡神社に行くにはこういう感じになるらしい。

 

ここに車捨てて(いいのか?)、歩いて300mほど細道を行くのが一番マシだと思う。

多分この人達も恋渡神社目指していたと思うよ!

 

 

鳥居の所にあった定書きの看板の年号は読めた。昭和16年だった。

恋渡神社の御祭神はどこにも書いていないようだ。村の公式サイトの紹介にも御祭神には触れていない。ただ、倉稲魂神火産霊神とするサイトがあり、それだと昔ここにあった二つの社、秋葉社軻遇突智命(火の神様)と稲荷社の倉稲魂命と一緒だ。

定書きの年号が合祀し、新しい神社を創った年かなーって勝手に思ってます! しかし「恋渡神社」なんてキラキラした名前に決めたか興味あるわ。

 

 

★☆☆☆☆

辿り着けなかった

 

 

<恋渡神社>

創建年 不明

鎌原観音堂

鎌原城の近くには鎌原観音堂があった。ここも旧鎌原村内であり、鎌原氏の開発した領地内。お城や観音堂があるぐらいだから、村の中心部だったのかもしれない。

この場所は「日本のポンペイ」として有名で、嬬恋村とイタリアのポンペイ市は友好都市協定を結んでいる(正式に結ばれたのは2022年とごく最近だが、準備を始めてから10年かかったという。まあ、ポンペイ市側はあまり旨味がないんじゃないかという気もした)。火山災害という共通点があるから。埋まった犠牲者は旧鎌原村・約480人、ポンペイ・約2000人と言われ、規模が全然違うけど。

(↑高校時代「どうしても本物を見たい」と思っていた絵の一部ですよ)

2万人くらい住んでいた古代都市と人口600人足らずの村じゃあねー。ポンペイの犠牲者が人口規模に比べて少なかったのは、ヴェスヴィオ火山の噴火から都市を壊したの火砕流の発生まで約12時間の猶予が有り、逃げられる人はさっさと逃げちゃったかららしい。

 

ずいぶん昔にどこかの博物館で、階段で見つかった折り重なった遺体のパネルを見たのよね。それがこの階段だった。

確か高齢の母と中年の娘じゃなかったかな?(調べたら女性二人で近親者だが、親子か姉妹か関係性は不明だそう)。おばあさんをおんぶして避難する途中で埋まってしまったという。その様子を見た人々はとんでもないトラウマを植え付けられてしまったのかもしれない。

現在は15段程度の階段だが本来はもっと長く(発掘調査の結果で50段あったことが判明)、天明3(1783)年の浅間山噴火で積もった土砂は約6.5mと分かったそうだ。発掘調査はまた再開しており、この日もどこかで調査していたはず。あわよくば、調査の様子を見たかったんだけど、どこでやっているか分からず…。

そう、この写真を見たのよ。
発掘調査は昭和54(1979)年度に文部省の補助金が下りて始まったそうだ。次年度も国や群馬県から補助金を受け発掘している。鎌原観音堂以外にも延命寺というお寺さんや家屋跡を発掘しており、山奥の村にしては非常に豊かな生活用品が出土している、と驚かれていた。寺からは唐津伊万里の絵皿だとか見つかり、民家からはガラスの鏡とかネコ(敷物)というものも出てきたらしい。猫柄の敷物なのか猫の毛皮を用いた敷物なのか…? どちらにしろ、庶民の生活が妙に豊かだったことが分かったという。江戸時代でも600人近く住んでいる村ってあんまりないんじゃないかと思うわ。

wikiによれば、自分の地元の善光寺町だと1780年に6500人、松代城下は1767年に2300人程度。

鎌原村は真田街道の宿場町でもあったそうだ。鎌原村近辺を走る五街道のひとつ・中山道だと1843年時点の人口が松井田宿1003人、坂本宿732人、軽井沢宿451人、沓掛宿507人とあり、鎌原村は五街道の宿場たちと遜色ない機能を有していたのかもしれない。

延命寺の石碑もあった。延命寺は鎌原観音堂から北へ200mほどの場所にあり、発掘調査でもやはり6m下の地中から発掘されている。この石碑は明治43(1910)年になって吾妻川の川原で見つかっている。元あった場所から20kmくらい離れた所だそうだ。延命寺は江戸の寛永寺の末寺だったので、鎌原村民は寛永寺に支援を求めた。元寛永寺の僧で当時は出身地の善光寺の住職をしていた等順という人物が中心となり炊き出しや復興のための資金集めをしたそうだ。

発掘の結果では、火砕流ではなく土石流(岩屑なだれ)で壊滅したことも分かった。

とにかくお詣りだ!

鎌原観音堂はそんなに広くない。

敷地内に100人近く逃げていたというが、ギリ100人収容できるかな? 程度の広さしかない。ここに逃げてきた村人や村外にたまたまいた人しか助からなかったそうで。その約100人が村人同士で新たに結婚したり養子に取ったりで、新しい家族を作って村の復興をしたそうだ。土砂に埋まった不毛の土地なんか捨てて新天地に行く、というのが災害にあった人達のほとんどらしくて、鎌原村の住民が同じ土地で暮らすことを選択すること自体珍しい事例という。

10年以上前の東日本大震災でも地震被害を見て地元に戻る若者が増えたとかいう話を聞いた気がするけど。それと似たような感覚なのかな。

いや、目の前で人間が二人飲み込まれていったらなあ…とここ捨てて移住しようとは考えにくくなってしまうかもしれない。東日本大震災でも、津波に飲まれる映像ずっと流れてたな。

2015年の国勢調査では鎌原地区の人口が2000人近くいるそうだ。

 

鎌原観音堂の周辺には慰霊碑や石仏がたくさん安置されていた。

慰霊碑も平成、昭和の元号が記されたものもあり、古いものだと三十三回忌の供養碑。

もう古いので、何が書いてあるのか読めなくなっているが。この大きな碑の全面に建立の経緯や亡くなった477名の戒名がびっしりと書かれているという。災害があったあとから現在まで供養を続けているということだねー。

本当は資料館も行きたかったんだけど、子供がごねる&社会見学の小学生団体?(我々は夏休み中だし、学校関係じゃない団体かな?)がいたため断念。子供が「おもちゃ王国にまた行きたい」とうるさいので、次回は必ず立ち寄りたいです!

 

復興前の鎌原村、岩屑なだれはこんな感じかな?

アスレチックやらされた。溶岩ゴロゴロの場所なので、ヘルメットとプロテクター必須。受付でしっかり注意事項を言い渡された。危険な場所なので、子供はものすごーく楽しかったようだ。

アスレチックフィールドの近くに祠があった。安全祈願のためかもしれないが、お客さんには目立たない、少し外れた場所にあった。遠くからお参りしたよ。

 

★★★★★

家の周りが突然巨大岩でゴロゴロし始めたら、多分もう生きていかないと思う

 

 

<鎌原観音堂

創建年 大同元(806)年?

鎌原城

鎌原城に行ったよ。ここは鎌原観音堂の近く。

 

というか、鎌原観音堂近くの嬬恋村郷土資料館(ここの展示物はほぼ鎌原観音堂や付近の遺物関係のはず)の駐車場あたりから側道に入っていく。

 

細い道を進んでいくと急にキャベツ畑が現れる。川と細長い丘陵に挟まれた耕作地が旧鎌原城の敷地のようだ。

 

進入した道路は細かったが、城域はかなり広いようだ。鎌原城址のほぼ中央に道があるのでひょっとしたら相当改変しているのかもしれない。

ちなみにこの日は標高が700m~1400mという嬬恋村ですら気温が30℃近くあり暑かったです(下界の気温など考えることすら恐ろしい)。6月から9月の平均気温は15℃~20℃だそうだ。外出自体が危険行為な一日。後で調べたら、お城に出かけた9時頃で既に28℃だった。

鎌原城址駐車場周辺だけ見てきましたよ…ここは三の丸あたりなのかな?

草刈りが終わったばかりという様子。

本丸・二の丸はこの道の向こうである。多分遠い。

駐車場も奥の方には土塁でしっかり囲まれていた。

駐車場に設置された案内板には、来歴が書かれていた。

  • 鎌原城は南北約400m・幅約150mの広さ
  • (我々が入ってきた鎌原観音堂からの道がある)南側から三の丸、二の丸、本丸、東郭、笹郭の5郭に分かれる
  • この辺りには「上城」「下城」「丸」「陣場」などの城に関係した地名が残る
  • 郭を仕切る堀切は現在、道や畑で不明瞭となっている
  • 虎口(大手)は三の丸の南堀切の中央部にあり、食い違い構造であったと思われる
  • 吾妻郡への武田氏侵攻の際、鎌原城主は早々と武田氏に下り、鎌原城は吾妻郡侵攻における拠点となった
  • 永禄年間での上杉氏と武田氏の争いで、鎌原城は激しい争奪戦が繰り広げられた
  • 鎌原城は応永4(1397)年築城と伝わる
  • 廃城年は元和元(1615)年、一国一城令による

城主は鎌原氏とされる。こちらについては、

  • 滋野氏→海野氏の一族(真田氏と同族)
  • 平安時代末期より現在の嬬恋村を支配した豪族・下屋氏の末裔
  • 嬬恋村を開拓した下屋幸房の子孫・下屋幸兼が鎌原に屋敷を構え、「鎌原氏」と称したことが始まり
  • 天和元(1681)年に当時沼田藩真田氏家老であった鎌原重継が記した書類によれば、「鎌原氏の先祖は三原(現・嬬恋村)を支配し、頼朝の頃には鎌倉に勤め、その後は上杉氏に仕え、次いで信玄に仕えて、武田氏滅亡の後は徳川幕府に属して代々沼田の真田氏に仕えた」と書かれている
  • 真田氏の沼田藩は天和元(1681)年に改易廃藩され、鎌原氏は大笹関所の関守となった。明治元(1868)年に関所が廃止されるまで関守を務めた

 

天和元年に沼田藩が廃藩されたのは、

  1. 明暦4(1658)年に真田本家の当主が急死し、家督争いが起きる
  2. 負けた真田信直が沼田領主となり、これにより沼田領は松代藩から正式に独立し沼田藩となった
  3. 信直は表高3万石だった沼田藩の石高を14万石4000石と幕府に過大申告し、領民は重税を課せられた
  4. 幕府から命じられた両国橋架け替え用の材木調達に失敗し、その責任を取らされて改易→廃藩→一家離散

という流れらしい。本家に対抗し、見栄張っちゃった結果の没落。鎌原氏は海野氏の影響下にあった一族であったようで、吾妻鏡の仁治2年3月25日に海野幸氏武田信光上野国三原庄(嬬恋村三原)と信濃国長倉保(軽井沢町長倉)の境界争いをし、海野幸氏が勝訴している(これはよく分からなかったが、海野氏の支配が上野国にも及んでいたということらしい。海野氏が勝ったので、三原庄支配も海野氏が関わっているということらしい)。

鎌原氏はこの辺りでも名族だったということだが、戦国期になると周辺の豪族と争うようになり、真田氏の庇護を受けるようになる。具体的には、真田氏から養子をもらって家督を継がせるということ。真田家の祖と言われる真田頼昌の子が鎌原氏の家督を継いでいる。この人物は真田幸隆の兄弟と言われている。

沼田藩が改易された当時の家老だった鎌原重継の祖母は真田昌幸の娘であり、真田家の血筋を相当引いている。そのためか、子孫は最終的に松代藩士となって真田姓を名乗った者もいる。

 

鎌原氏が後に関守となる「大笹関所」↓

鎌原城に来る途中、確かにあった。嬬恋村全体が綺麗だし、こういった過去の遺跡も保存状態が非常に良く手入れされている雰囲気あるよ。

畑の向こうに堀切が見える。

駐車場から森の中に入る道があった。入ってみた。

ここには土塁がたくさん残されていた。

お墓があった。これが縄張り図にもあった「鎌原家のお墓」らしい。お墓の周りには石仏が3体、祠もあるし、なんか色々あって賑やかだった。

真田の分家みたいなもんだからか、六文銭の家紋が入ったこんな石碑まである。

祠には「頼朝廟」という文字が彫られていた。この祠は平成5年に設置されたもので、


建久4年の源頼朝公の浅間野の狩りから800年、勲功により「鎌」の字を賜ったと伝わる故事に因り、鎌原命名を記念して再び建立

平成5年1994秋

鎌原郷 鎌原館

とあった。平成5年以前にも似たような頼朝廟があったのだろうか。建久4年の狩りと言えば、曽我兄弟の仇討ちがあった富士の巻き狩り。鎌原氏の主君?の海野幸氏や彼と境界争いをした武田信光も参加している。

鎌原の「鎌」の字って、頼朝さんからもらってたのか(もしかして鎌倉の「鎌」をもらったとか?)。そりゃ名家よね。

本来の「群馬に来た目的」はここではないので怒ってしまった怒ってしまったよ。暑いしねー。

ちなみに真田の本拠地である旧真田町(現上田市)と嬬恋村は道一本(国道144号・145号)で来られる。

もちろん、嬬恋村を抜けて岩櫃城(鎌原氏を城将としていたらしい)を経由し沼田市に着ける。国道145号の終点は沼田市。真田氏が整備した真田道という軍用道路が元だという。走りやすかったよー。はとバスも3台くらいすれ違ったよ。

 

 

★★★★☆

遺構は大部分が不明瞭かもしれないが、きちんと整備されていて良かった…暑くなかったらなぁ

 

 

鎌原城

築城年 応永4(1397)年

築城主 鎌原氏

鎌原虚空蔵堂

矢島城のすぐ近くに立派なお堂があった。虚空蔵堂だそうだ。

味わい深い文字の石標。

縁起があった。昭和55(1980)年製のくせに読みづらい文章だわ、と思った。読めない字が多数ある。

  • 御本尊は虚空蔵菩薩(恵心僧都作)
  • 曽我祐成が仇討ちした後、その妻である虎御前は出家し貞蓮尼と名乗る
  • 諸国の霊場を巡り、当国善光寺へ参詣の折に太郎山の麓にお寺を創建した。それが虎立山祐成寺という
  • 祐成寺の傍らにお堂を建て、虚空蔵菩薩を安置した
  • 天保15年再建する

建久4(1193)年の曽我兄弟の仇討ち、兄の方が曽我祐成。奥さんは大磯の遊女だった虎御前という人。遊女というと今では聞こえが悪いが、この当時は卑賤な身分ではないらしい。貴族を相手にすることも多く、教養がないと出来ない仕事だったようだ。なので鎌倉時代半ばまでは上流階級の人々でもごく普通に妻にしているし、家系図にも妻・母の職業として「遊女」と当たり前のように書かれている。鎌倉初期の遊女は歌ったり踊ったりして生計を立てていたらしい。

鎌倉時代初期の結婚は平安時代から続く妻問婚なので、母系制であった当時の夫婦の力関係は妻>夫、そのため売春業は成立しなかったそうだ。娼婦のルーツは巫女さんだとされるが、鎌倉時代の半ば頃に多くの寺社が経営破綻してしまい、所属していた巫女さんたちが食べるために旅をしながら歌って踊って春を売り始めた結果娼婦という職業が生まれたとwikiに書かれていた。

 

建久4年、源頼朝が開催した富士の巻き狩りという名前の大規模軍事演習のどさくさで仇討ちをしちゃったとき、曽我祐成は22歳で虎御前は19歳だと言われる。

仇討ちを考えていた曽我兄は妻を持つ気はなかったけど、虎御前は自営業で稼いでいるからいいかと妻になってもらったという。美談ぽく書かれているが、なんか酷い話だなと思った。結婚2年後に仇討ち決行。もちろん仇討ちの話は決行直前に奥さんに話した。奥さんとても困っただろうな…虎御前は吾妻鏡にも登場するので実在したとされる。

建久4年の仇討ち現場で曽我兄は死んだが、事件の尋問で犯人の妻だからという理由で虎御前も呼ばれたそうだ。しかし無罪放免とされている。その後は兄弟の菩提を弔うため尼になり、諸国の霊場を巡ったそうで。源頼朝と縁が深い善光寺には曽我兄弟の遺骨を納めたという。

お堂の説明板には善光寺の帰り道こちらに立ち寄り、曽我兄の名前をつけた祐成寺を建てたとあった。建立時期は建久年間(1190~1199)と言われる。曽我の仇討ちが1193年、曽我物語では善光寺参詣が兄弟の一周忌を営んでから諸国の霊場を巡り、善光寺に参拝し、その後は佐久郡落合村にしばらく住んでから小県郡常磐城村に移住、という変遷を辿っている。建立は建久年間でも終わりの方だろうか。

自身で稼いでいるとはいえ、お金がよく続くなあ…と思いました。大冒険しているじゃないか。まあスポンサーがいたんだろうな。

 

祐成寺跡は北林城に隣接した山の斜面だったようだ。

↑ここらしい。かなり広い場所。

応永年間(1394~1428)には鎌倉の光明寺から俊厳という僧を招いたりしている。交通の便が悪いと言うことで永享5(1433)年、市街地に移転し、寺号も「呈蓮寺」に改称している。

 

 

虎御前は祐成寺の近くに堂を建て、仏像を安置したという。私でも名前を知っている恵心僧都作の仏像(本物なら平安時代の作品)。二回再建している? ような文章。虚空蔵菩薩は知恵の菩薩として信仰されている。

この御本尊、虚空蔵菩薩像は虎御前が諸国を巡るときにずっと持っていたものらしい。高さ約30cmなのでさほど大きくない。

 

改修が都度あるようで、石段は新しい物と古い物が共存していた。

巨木が出迎えていた。欅らしい。

藪田石材店かな? 比較的新しいものも転がっている。

 

境内はこんな感じ。由緒あるお堂の雰囲気なのに、何故か情報量は異常に少ない。グーグルマップにさえ存在を消されている有様。地元ではちゃんと祭日もやっているようだが。

狛犬は亡くなった方の奉納されたと思われる。戦争関係かと思ったが…昭和28(1953)年の日付もあったので、ちょっと分からなくなった。

だが、(多分)同じ人物が寄進しているこっち↑は昭和17(1942)年だった。無念さを感じる。

 

お堂は天保15(1844)年に再建されたとあった。幕末。

水を溜める場所? みたいなのもあったが近くには川もある。

お堂の裏手は山である。虚空蔵山という名前で、頂上には牛伏城がある。

お堂の脇から登山道がある。

お堂の周りには石仏がたくさんあった。

石仏っぽいのが遠くにあったよ。

お不動様。

鎌倉の光明寺は浄土宗のお寺さんで、祐成寺の後継に当たる呈蓮寺も同じく浄土宗。なので南無阿弥陀仏って書かれているのかしら?

板碑っぽい。文字がほとんど読めない。

板碑は鎌倉時代から室町時代初めに流行したもので、戦国時代に入ると見られなくなる。供養塔の一種。ひょっとしたら、境内の石碑達の中で最も古いものかもしれない。

 

牛伏城方面への道にも祠があった。

いい雰囲気のお堂よね。

入り口の欅の下にも石灯籠があり、文化3(1806)年の銘があった。

そんなに古い物とは思えない! 台座はもっと古そう。

川のそばだからか、とにかく蚊が凄かった。

 

境内の外だが、新しめの祠もあった。

 

 

★★★☆☆

蚊が凄かった…。

 

 

<鎌原虚空蔵堂>

創建年 建久年間(1190~1199)?

開基 虎御前

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コレが欲しくてひたすらゲームやってたわ。3日で1振り目きて、お話聞いていたら満足しちゃってモチベダウン、2振り目はまだ…時間あるし頑張ろう。現在貝は18万、あと12万集めないと!!