お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

矢島城(北林城)

「村上連珠砦」と呼ばれる太郎山周辺の砦群のうち、市街地から近い場所にある。上田駅から車で15分ほど。

「太郎山山系を楽しくつくる会」というボランティア団体があり、主に太郎山の登山道整備をしているらしい。この辺、大量の城跡があるのでついでにお城のガイドマップ作成や城跡の整備もしているようだ。村上連珠砦とは通称のようだ。全部で20ほどかたまっているので、いくつかの城を巡って縦走するルートも作ったり…さすが上田を代表する里山だ。気合いが入っている。

 

ちなみに太郎山はこれかな? 違うのかな?

名前はよく聞くけど登ったこともないし分からん。この近くに太郎山登山道があった。

 

入り口は崖沿いだった。眼下には虚空蔵沢が流れている。

「長野縣町村誌」によると、北林城(別名 矢島城)は

  • 東西30間、南北20間
  • 北側に堀切あり
  • 東西南は急峻
  • 城の来歴不明

とあった。また、これの近くに「館」という字があったらしい。

 

矢島屋敷跡がある。「緑ヶ丘西の館」という名前の館がコレじゃないかな? そして、この辺りが古地図にある字「館」だと思う。矢島城からそんなに離れていない。

 

また、長野縣町村誌はこの辺りの領主が諏訪氏→小泉氏(泉氏)→武田氏→織田氏→真田氏→(上田藩 成立)→仙石氏→松平氏という変遷を載せているものの、「矢島」「北林」という名前に関しては一切なかったよ。

最初の領主が諏訪氏ということは確かなようで、この辺りには諏訪・須波という名前がいくつも残っている。

諏訪氏から分かれた矢島氏という一族がいて、上社権祝家という格付けの、諏訪一族内でも高位のおうちらしい。その矢島氏がこの地にも土着したようだ。また、「大塔物語」の中に出てくる海野宮内少輔幸義という人物が大塔合戦(1400)に家来の「中村弥平四郎、会田岩下、大草、飛賀野、田沢、塔原、深井、土肥、矢島以下」を連れて参戦しており、ここに出てくる矢島という一族が矢島城主と言われている。

ちなみに矢島氏系図によると、矢島氏の祖は八嶋三郎継重という人。この人に男子がなかったため海野幸親の子を娘婿にし跡を継がせたとあった(八嶋太郎継貴)。継貴の子(矢島四郎行重)が武勇に優れており名乗りを矢島と改めたとか。海野氏とは遠縁に当たるようだ。

矢島氏系図には冒頭には書かれている事。

健御名方神の子・池生若御子(池生命)の子孫で、大神(天照大御神か?)の祭祀を司るという

数代を経ているというが、その間不詳

神若丸から12代を数え天永2(1111)年、磯並邊に籠り祝職を継ぐ

諏訪郡境村(現 富士見町境)の池之袋に鎮座する池生神(池生神社)の由緒に権祝神氏(矢島氏)の祖とある

 

また鎌倉幕府に近い海野氏から婿を迎え鎌倉幕府にも出仕しているので、どちらかというと諏訪氏と北条氏を繋ぐ一族かもしれないと思った。現に、諏訪氏鎌倉幕府最後の当主を養育し、旧鎌倉幕府軍として反乱を起こす(中先代の乱

 

ちなみに磯並邊=磯並(いそならべ)社のことと思われる。磯並社は諏訪大社上社にあり、上社の重要な神事には全て絡むという重要な社である。一説には前宮成立以前の磐座信仰の遺跡とも言われている

矢島氏が「大神の祭祀を司る」とは、朝廷からの勅使を持てなしを担当していたと思われる風祝職を権祝 矢島氏が担当していたとするので、個人的には「天照大御神(朝廷)関係全般を担当してたんだろうな」と勝手に思っている次第です…

 

 

矢島城の別名「北林城」は矢島氏の前の領主だった北林氏に由来すると言われている。元々諏訪氏の領地とあったが、北林氏は諏訪一族なのだろうか…? 北林氏に関しては情報がなく分からず…。矢島氏に追われて、善光寺平へ移動したとかいうが、どうだろうね。矢島氏のせいで一家離散しちゃったかなー?

降りてみる。ここまでの雰囲気、公園ぽいが果たして…?

 

階段の途中に、こんなものが。堀切である。

傍らの案内板を見る限り、非常に素朴なお城である。ほぼココの部分しか堀と土塁がないようだ。まあ、北側以外を急峻な崖で囲まれているため北側の防御のみ厚くしたとも言える感じ。

堀切。

土塁。

 

見所は以上である。先に進む。

道の先は畑であった。畑は本郭にあたる。

土塁には石積もあった。

土塁には五輪塔もあった。矢島氏の供養塔なのか、ひょっとしたら北林氏や他の一族のためのものか?

本郭の先には二の郭もあるはずだが、さすがに畑の中を勝手に通れないわ。手入れしてある畑だしな。

五輪塔もお城と同じく素朴な雰囲気である。お稲荷さんは賑やかだった。

由緒正しいお稲荷さんなんだろうか?

ベンチがあった。

お稲荷さんがある場所は本郭の中でも少し高くなっているようだ。

お詣りする人が多いのか、畑の片隅にあるわりには奉納されている狐さんが異様に多かった。コマ狐も立派である。

稲荷社の横はやはり急斜面となっており、随分低い位置に畑があった。

川(沢)が近いせいか、蚊が凄いんだよ!

多分、このお城自体は相当古いと思う。矢島氏は鎌倉幕府成立と同時期に出来た一族だが、お城も同じような平安時代末期の雰囲気する。古いお城ほど、低い場所にあるイメージなのよね。

畑の中に入るの躊躇して無理だから、できるだけ写真撮った。

帰ります。

北側の堀は、底から見たときはさほどでもない…と思ったが、上から見れば結構な深さだった。

ほぼ唯一の、と言っていい位の北側堀切だけど。ここだけは異様に深いんだよねー戦国時代に改修したのかなー? 

あと、虚空蔵沢側から見た矢島城ですが。

崖の上でした。手を加えなくても十分に硬そうなお城よね。

 

 

★☆☆☆☆

防御硬そうとはいえ、やっぱり規模も小さく地味で蚊も多かった

 

 

<矢島城(北林城)>

築城年 不明

築城主 北林氏? 矢島氏?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回、わざわざ上田に行ったのはクレーン車を見に行ったためだった。

上田駅から車で15分足らず…私は上田駅に用があったのだ。

車両の移動を途中から見てたよ!

  1. つり上げる車両が動かないように、ジャッキで固定
  2. 安全確認後、つり上げの準備、足回り下に2カ所スリングを渡す
  3. クレーンを車体上へ移動させる
  4. 一カ所づつスリングをクレーンのワイヤに繋げて固定
  5. 傾いた車体を1度刻みで直していく(カウントしていたから角度を測る器械を使っていたようだ)
  6. ジャッキの様子をチェック→ジャッキが外れそうなら外す
  7. 車輪を元のレールの上に載せる
  8. ジャッキを全て外れるまで頑張る
  9. ジャッキが外れたら、車体を少しづつ持ち上げる
  10. ずれないことを確認したのち、ゆっくりと隣のレールまで横移動させる
  11. 車輪を1個づつレールに下ろし、接地を確認する
  12. すべての車輪を下ろしたら手歯止めする

3以降で40分くらい? 1時間はかからなかったかな。

当たり前だけど、電車の上の架線も外してあった。

少し雨も降ったりしていたようだが、普通に作業していた。

あと、落ちていた車両は見事なほど脱線していたわ。赤ちゃんがプラレールで遊んでいる時みたいに、驚くほどレールと車輪が噛み合ってない。

 

レッカー車は2台来ていて、ニュースによれば新潟県からお越しらしい。港湾作業用とかかなー? と思ったが。クレーン車レンタルの会社のものであって新潟港とかにいるヤツじゃないらしい。100tのオールテレーンクレーンというものなのか。公道も走れるそうだ。

それよりコイツら高速乗れるのか、公道走るにしても新潟からって山越えるんだろうがどうやって行き来するんだろう? クネクネ山道も大丈夫な小回りきくのかな?

大きなトレーラー車もいたよ。眼福。

 

日本国内で数台しかいないという世界最大級の1600t吊れるクレーンも見たことがあるけど、凄かったな。1600tのクレーンを組み立てる為に500tクレーンが必要、500tクレーンを組み立てる為に100tクレーンが必要、そして部材を運ぶためにトレーラー約90台が必要…。クレーンを組み立てるだけで2週間かかるらしい。クレーン車の世界も奥深く、とりあえず玉掛の免許取得からやってみたいなと思ってしまった。

笹焼神社

ついに青崩峠のトンネルが開通した! というニュースを見てしまい喜ぶ。

そういえば稲荷山のトンネルはいつから通行可なんだろう(こっちは貫通したのが2018年)と思い切って工事現場まで行ってみた。絶賛工事中だった。バイパスに繋がるトンネル前後の道だってそう距離はないんだけど…水田跡の発掘調査やったりしてたせいかな?

 

その近くにある笹焼神社。変わった名前だ。

案内板によると、だいたいこんな感じ?

  • 「笹焼」という字地にあるから笹焼神社
  • 郡(地区名)の産土神
  • 古代は笹など生い茂る薮を焼き払って農地としたため、開拓神ではないかとも言われている
  • 御祭神は瀬織津姫
  • 瀬織津姫命は、明治41(1908)年に書かれた由緒書によれば、天照大御神の御分霊であるという
  • 寛政6(1794)年、和田宇右衛門により社殿が建てられた
  • 当時の春季祭は八幡宮(武水別神社のことだと思う)と同日であったが、現在は別日に行われている
  • 火災に遭ったため、明治17(1884)年現在地に移転
  • 以前は別の場所にあり、神楽が矢崎山にある天神社に奉納されていた
  • 同名の神社は少なく、善光寺7社のひとつ「左喜焼神社(現 柳原神社)」の神様は笹焼明神と呼ばれた
  • 修那羅山の石仏群の中には「ささやき明神」と彫られた石仏が安置されている

 

難解(とっちらかっている)な文章だが、武水別神社(八幡宮)の分社を匂わせる内容だと思った。

 

武水別神社の御祭神は

となっている。御祭神が違う。

 

笹焼神社の御祭神、瀬織津姫命は古事記日本書紀に出てこない神様だそうだが、案内文の通り天照大御神に関係した神様。伊勢神宮内宮にある荒祭宮に祀られている天照坐皇大御神荒御魂の別名とされている。

荒祭宮は別宮であり、主祭神に準じた神様なので当然内宮の境内社の中では序列第1位。字面的にも天照大御神と同一人物な感じなのに分けている理由は不明。色々な説があるようだが、和御魂(正宮)と荒御魂(別宮)を分けてお祭りするほうがより丁重であると言われているらしい。この二つは神道における「神様の二面性」を示し、和御魂は穏やか・平和な、荒御魂は猛々しい神威を示す、という感じ。

 

瀬織津姫は祓戸四神の1柱ともされる。

祓戸四神は、

  1. 瀬織津姫(穢れを川へ洗い流す)
  2. 速開都姫(川の河口で待ち構えており、流れてきた穢れを飲み込む)
  3. 気吹戸主(速開都姫が飲んだ穢れを根の国へ流す)
  4. 速佐須良姫(根の国に持ち込まれた穢れを持ってウロウロするうちに穢れが消える)

というリレー方式で、この世の穢れを異世界へ放り込んで消すお仕事をしている。

案内板の文章から妄想すると、武水別神社で出たゴミをここで燃やしたりして浄化させる神社なのかねー?

ちなみに、文章中に出てくる「左喜焼神社(現 柳原神社)」は善光寺で出た注連縄などを燃やしたので「笹焼神社」「笹焼大明神」とも呼ばれたそうだが、祀られている神様は健御名方命と少名彦命で旧称は諏訪大明神だったようだ。

 

矢崎山というのは、笹焼神社すぐ近くの小高い丘?のことらしい。

階段を登ると、頂上付近には祠があるそうだ。尾根伝いに隣の霊諍山へ行けるのでそこまで登っていく人が多いようだ(まあ、矢崎山だけだと10分くらいで終わりそう)。霊諍山は石仏がたくさんあることで有名らしい。

 

霊諍山は麓に古刹があるし修験道関係かなと思ったものの、その歴史は思いの外新しかった。

明治18(1885)年に旧八幡村在住の北川原権兵衛さんという人が母親の病気平癒の祈願のため、修行に入ったことで始まったらしい。明治24(1891)年には北川原さんが神様と交信できるようになったので里に下り、人々の願いを神様に取り次ぐことで信者をどんどん増やしていった。山に祀られた石仏は信者が神様への感謝として寄進されたもの。石仏が増えていったため、親類で修験者の和田辰五郎さんに頼んで社殿に住んで貰い、管理をお願いした。和田さんは修那羅山で修行した人なので、案内文の修那羅山の石仏群の話と繋がるし、石仏にも共通点が多いという。修那羅山も霊諍山も、猫の石仏が有名だそうな。明治の中頃は養蚕が盛んであり、蚕の敵であるネズミを捕らえる猫を神格化した仏がよく祀られたそうだ。

そういえば、案内文にも和田姓の人がいる。ここ旧八幡村の名主が中原という地区に屋敷を構える和田氏で、お寺さんなどたくさん建立したり、善光寺や武水別神社にも多く寄進している一族(和田氏は酒蔵を経営しておりそのHPを見ると、明治時代には教科書で見たことある名前の人達が何人も訪れているという記述があったよ、凄い)。笹焼神社の社殿も名主さん一族の寄進だと思われる。和田辰五郎も師匠の死後、修那羅山から生家がある中原に戻ったというので、やっぱり名主一族の人だろう。

 

矢崎山山頂の祠はいくつかあるようだ。

案内文中には「天神社」としかないが、長野縣町村誌によれば矢崎山には伊勢社が祀られているという。ひょっとしたら元々は矢崎山の伊勢社と笹焼神社はセットだったのかもしれない。奥宮と里宮みたいな関係の? 正宮と別宮? 笹焼神社に奉納する神楽なのに、わざわざ矢崎山で舞ってるっていうしねー。矢崎山の伊勢社も笹焼神社も、創建年不詳となっている。雰囲気的に相当古そう。

 

鳥居の傍らの標柱。

郡区建立。何を建立したか(対になるものがあるのかどうか、鳥居を建立したことを指しているのか)色々分からず。年月もなかった。

「郡」という地名は、古代この地に更級郡の郡衙が置かれたと言われ、その名残りの地名であるらしい。案内文にもあった「開拓神ではないかとも言われる」は大袈裟でもないかもね?

武水別神社も一番最初は郡地区にあったと言われ、旧地には「元八幡神社」が存在する。現在の武水別神社も笹焼神社からは離れているが、旧八幡村内にある。

 

笹焼神社から直線距離で300m程度。ご近所じゃないの。それで武水別神社と繋がりがあるんだね。

 

 

笹焼神社拝殿。

周りには巨木がいっぱい。

こんな立派な木があるのに、特に天然記念物などには指定されていない。この欅も樹齢300年以上と言われている。

子供の遊び場にはなっていないようで、踏み荒らされていないクローバー、草まみれになった遊具があった。ここじゃなくても遊ぶところはたくさんありそうだわー。

お詣りに来る人は多いようで、参道は踏み跡が多かった。

明治17(1884)年の社殿。華麗な装飾ではない。

明治時代の学校っぽい屋根だった。社殿が建てられた時期は民衆の武装蜂起だの政治家が襲われるだの、自由民権運動が激化した時代でわりと暗かったのかな?

社殿の周りには祠が並んでいた。

微妙な高さの草が生えており、あまり近寄らなかった。蛇はいないだろうが、変な虫はいそう。

天明2(1782)年。天明の大飢饉が発生した年。

古い祠だけではなく、新しい物もあった。

昭和48(1973)年奉納の子安様。

こちらも新しめ。


★★★☆☆
古く由緒ありげだが、分からん神社だった。今度は矢崎山登りたい!

 

 

<笹焼神社>

創建年不明

 

 

 

聖博物館フェスティバル

GWも急ぎ足で去ってしまった。家庭内で風邪が流行るし、頭痛が治らないし、大地震で揺れたらしいが気付かないし。

最終日は雨。

元々子供とこのイベントに行く予定だったが、「雨だから家から出ません」と言われてしまう。結局一人で行ったが…一人で行かないと駄目なイベントだったわ。

このイベントは、ボランティアグループが企画運営するらしい。今日しかやらない。チラシ的には地元民のちょっと飛行機とか好きなおじいちゃん達がやってるのかなー? という雰囲気もしたが。
中で話を聞いてみたところ、飛行機オタク・鉄道オタク・軍事オタクといったマニア達のイベントだった。一人で行って正解だった。乗り物系のオタクの場合、飛行機専門ではなく、兼業している人が多いイメージ。喧嘩もなく、平和なサークル活動だった。アニメとかアイドルだと「解釈の違い」「同担拒否」なんかの問題で揉めてくることがあったりするけど、「エアバス最高!! ボーイング○ね」みたいなこと騒ぐ奴っているんだろうか。「誰かの地雷は誰かの主食」って名言があるけども、乗り物のような趣味にも当てはまるのか…たまに気になって考えることがあります。

 

山の中は寒く、ガスっていた。

本日はイベントのため、屋外展示は開放していなかった。

屋内展示は常設展(仏像とか)の他にイベントブース。このイベントブースはボランティアグループメンバーの私物を持ち寄っているらしかった。そして写真撮影OKだった。

ここは鉄道写真とか部品があった。

Nゲージが動いていたが、趣味で作ったらしき特急・急行列車の模型とシレッと置いてある電車のライト。

麻績村周辺を走っている(いた)電車の写真とシレッと置いてあるラックレール(普通のレールも置いてあった)。

聖高原駅(旧麻績駅)から借りてきたものもあるだろうが、半分以上は私物じゃないかと思われる部品達。ケース内は国鉄の制帽とか合図灯、横サボさんとか。鉄道のブースは誰もいなかったので写真取り放題だったよ。制御盤とか鉄道用信号とか、これも私物じゃないかと思う(制御盤の実物よく見てこなかったけど、ボランティアグループのツイッターの画像から飯山線戸狩野沢温泉駅かな?と思った。戸狩って書いてあったし、戸狩野沢温泉駅構内図と制御盤の図が似ていた)。

その次は軍艦の模型がずらっと。私は駆逐艦・戦艦・空母ぐらいしか分類できないけど、各艦の構造がそれぞれ違うように見えるから、見る人が見れば「これは秋月」と分かるんだと思う。模型は相当小さい。一番小さいタイプは手のひらに収まると思われる。全部で200~300隻はいたよ。圧巻。個人的には空母が好きです。

 

一番広いスペースを取っていたのが飛行機関係の展示だった。

飛行機の模型もあった。旅客機と戦闘機が半々くらい。20機くらい?

そして、松本空港から借りてきたという古い表示器(パタパタするやつ)と古い座席、空港周辺のジオラマ。表示器は触らせてもらったし、座席も座らせてもらった。座席は20年位前の物じゃないかと言っていた。何の機体の座席とかかは分からないようだ。空港にただただ仕舞ってあったものっぽい。

家で調べたら、MDー87の座席だと分かったよ。MDって…そもそも会社が存在していないじゃない…。マクドネルダグラス、1997年消滅。日本で運用していた会社が日本エアシステム(2004年事実上消滅)だけらしく、この会社は東急グループだったから創業者出身地の長野県松本空港にも飛行機飛ばしていたのかなって勝手に思っている。MDー87で、平成6(1994)年から大阪便・札幌便・福岡便で就航していた。日本エアシステム日本航空に吸収合併された後も変わらず就航を続け、MD-87の引退は平成19(2007)年。飛行機の模型の中には日本エアシステムの塗装の物もあったな、そういや。

 

表示器の正式名称は「反転フラップ式案内表示器」といい、15年位前に電光掲示板に変えた時に仕舞われたそうで。別に壊れているわけじゃなくて動くんですよ! と動かしてくれた。パタパタひとつずつにモーターが付けられており、電源を供給すれば動くかもしれないと話していた。ギアを手で回せば、パタパタ動く。動かしていいよって言われたので、もちろん動かした。一式揃った完品だった。モーターからはリード線も切られずに少し出ていたので、そこに電源繋げれば…でも、動作制御が難しそうだな。プログラムを1から組むことになりそう。

 

その先には常設展示の「戦艦陸奥引き揚げ品」「戦闘機のエンジン」の他に、やはり私物っぽい飛行機の一部やブーツとか置いてあった。持ち主らしき方が「これはー」と説明してくれたが、編隊飛行灯も光るんです! 光らせますよ! と展示室を暗くして、光らせてくれた。

夜間飛行とかに使うものだそうで、暗くしないと分からないし明るいと壊れるらしい。どういうメカニズムなんだろう? 繊細すぎないか? 

でも、100vで点くそうな。つまり飛行機のバッテリーは100vなんだな? ちょっと意外に思った。特殊なものを積んでいると思っていたわ。ちなみに、編隊飛行灯はF-4のものらしい。

持ち主らしき方は外の戦闘機たちも手入れしているようで、「展示物は防衛省の貸し出し品です。年に1回、防衛省の職員がチェックに来られるんですよ。程度が悪いと防衛省が引き揚げていってしまうので、一生懸命綺麗にしているんです」とおっしゃっていた。リニューアル前の飛行機関連は防衛省も手元に置いておきたいようなものも多かっただろうしな…。そういえばJAL関係のもの(制服とか)はJALが引き揚げていったのかな?

 

外には静態保存されているSLの汽笛吹鳴体験もやってるよ! ってことで行ってみた。コンプレッサを繋いでいて、圧縮空気を作り出すグゴゴゴ…の音が響いていた。

機関室を公開している。

ライト光ってる。

 

機関室には一人、案内人がいた。ブレーキ弁や逆転機の仕組み、速度計などさらっと教えてくれたわ。速度は100キロ程度出せただろうとのこと。速度計は120キロまでメモリがあったけど、おそらくそこまでは出せないらしい。

運転席の窓にはタブレットかけてあって、蒸気機関車が動く映像を流していた。どこの路線か聞いたら、真岡鉄道で走っているSLの運転席から撮った動画だと教えてくれた。

機関車もだいぶ整備されており、ブレーキ弁も動くし、逆転機なんかも動かせる。足元のペダルが汽笛で、もちろん踏ませてもらった。軽く踏んでも音が出なかった。べた踏みするとゆっくりと吹鳴してくれる。

SLは運転席側と助士側でそれぞれ外を見張ったり、石炭くべて水のチェックしたり、世話が大変な乗り物だよなあと思うわ。とはいえ、蒸気機関自体は火力発電なんかで今もずっと使われている仕組みだし、世の中文明が進んでいるのか止まっているのか。

SLもATS警告灯もあったり確か前照灯とかも後付けだった気がするし、機器の配線が多すぎてごちゃごちゃしている。これは整備するのは大変そうだな…。

ちなみに今回、蒸気に見立てた煙も煙突から出す予定だったそうで。機材用意していたのに生憎の雨。

 

こんな日でも聖湖には釣り人がたくさんいたよ。

 

 

★★★★☆

軍艦模型が一番凄かった。子供と行ったら「コイツが余計な事を言わないように、マニアだと勘違いされないように」と警戒し続けて、私が楽しくなかっただろう。雨降って良かった。本当にマニアじゃないのにマニアだと思われて難しい話降られると返事に困るんだよ。

 

 

一人でご飯も食べた。ヤッター!

一人でゆっくり食べるご飯は美味しいぞ。

味噌汁がこごみ。

デザートは蕗のパウンドケーキを選んだ。こごみの味噌汁も蕗のケーキも食べたことが無かったけど、美味しかった!

弥彦神社

久しぶりに新潟行ったよ。

新潟には「新鮮な魚を見る・食べる」というスローガンで来たので、あんまり観光していない。泊まったホテルにほど近い弥彦神社には行った。

競輪場がある。日本唯一の村営競技場だそうだ。5月末まで改修中とのことだが、GⅠやGⅡのレースも開催されるような競技場だった。

2021年の競輪の売り上げは約9650億円で、宝くじより多い。近年イメージが良くなっている競馬(去年末のプレミアムウィークのCMで、私行きたくなったもん)など公営競技収益は軒並み前年比で伸びているが、中でも競輪は128%で最も売り上げを伸ばした。競輪の今年度上半期速報値では5270億円で、今年度の年間売り上げが1兆円超えるかも!? とニュースになっていたみたい。ちなみにパチンコは売り上げが減っているとはいえ、約14兆円の市場規模。

 

弥彦神社は私一人だけで参拝してきた。もう皆、疲れちゃったんだってさ。

花粉症酷かったんだけど、境内に入ったら良くなった気がする。これがおやひこさまの御神徳か。

しばらく行くと、石柱が見えた。

国幣中社である他、式内社名神大社)、越後国一宮といった社格も持っている。ちなみに「越後国一宮」は3つあるそうな。

  1. 天津神社(糸魚川市
  2. 居多神社(上越市
  3. 弥彦神社弥彦村

で、弥彦神社以外の2社の格は「小社」である。一宮は神社の規模とは関係ない。都から赴任した国司は任国内の神社参拝を義務づけられており、国司が参拝する1番目の神社を「一宮」と呼んだ事が起源らしい。

国司は「この順番通りに神社を参拝すること」と決められていなかったようで、一宮はふわっとした格でもある。延喜式神名帳にも「一宮」などの記載は無い。なので、勝手に「うちは一宮ですよ?」などと名乗りだした神社もあったかもしれないし、国の合併でどちらを新「一宮」とするかで揉めた神社さんもあったらしい。

 

個人的には、

  1. 都に近い神社から参拝した国司がいた
  2. 古代は上越市国府があったので国府近くの神社から参拝した国司がいた
  3. 越後国内で一番ご利益があるとされる名神大社から参拝した国司がいた

という理由で一宮が3つあるんじゃないかと思っている…一宮とされた神社はいつまでもその称号を名乗っていいそうだ。

一宮は11世紀から12世紀にかけて成立したとされる。平安時代中期から後期の時代に当たる。ちょうど律令制の崩壊・荘園公領制が成立した時期と重なる。地方有力者が武装して土地争いする世情不安な時代。お寺や神社も同じように収入安定させるため荘園開発(寺社領)していたそうで、領地増やすために「一宮」とか自称し出して有力者に(収入下さいと)アピールしていたのかもー? とか妄想しちゃった。戦国時代も色んな色んな武将が神社に戦勝祈願してたくさん寄進してくるしな。

 

百度参りの石標があった。数え石はついていなかった。慶応2(1866)年建立。

百度参りは元々「百日詣」だったが、そんな長い期間かけてられない急を要する祈願ということで、「100回お参りする」ことに変化していったそうだ。鎌倉時代初め頃には成立していた民間信仰の一種らしい。今日は誰も行っていないようで、石標の周りに石はなかった。

 

そろそろ見えてきた。私が来た真っ直ぐな道が参道と思いきや、違ったらしい。

本来の参道はこちら。

手水舎のところで90度曲がっている。

 

こんな感じで参道が曲がっている神社は怨霊封じだという都市伝説があるみたいだ。本当かなー?

 

二の鳥居を潜る。

杉が増えてきた。

神馬舎。

大正遷宮記念とあった。

実は弥彦神社本殿、明治45(1912)年に焼失してしまい、大正5(1916)年に現在地で再建されたという。神社のサイトには昔の境内鳥瞰図があったが、その当時は参道が拝殿に向かって真っ直ぐ伸びている様子だった。一の鳥居、二の鳥居ともに大正時代建立。
旧本殿は現在の宝物殿の手前にあったようだ。

↑二の鳥居の手前、右側に広場があった。元はこちらに本殿があったとか。つまり、一の鳥居から真っ直ぐ来ると本殿に突き当たる感じよ。

 

「宝物殿」と彫られた石碑の辺りが旧本殿。

 

古い神社の社叢にしては、木が若いようにも思える。この辺も燃えたのかなー?

 

随神門にきた。昭和15(1940)年の皇紀2600年記念で建立。長野でも皇紀2600年記念の建造物いろいろあるけど、新潟でも様々な物が建てられていたのか。

随神門の近くにはまた鳥居があり、その奥には摂社が並んでいる。
近くの案内板には祀られている神様のお名前が書かれていた。

 

越後一宮弥彦神社

摂社、末社

  • 竹呉神社 御祭神(第1嗣)天五田根命
  • 船山神社 御祭神(第2嗣)天忍人命
  • 草薙神社 御祭神(第3嗣)天戸国命
  • 今山神社 御祭神(第4嗣)建筒草命
  • 勝神社 御祭神(第5嗣)建田背命
  • 乙子神社 御祭神(第6嗣)建諸隅命
  • 二十二所社 御祭神 近隣の著名二十二カ所の大神を祀る
  • 八所神社 御祭神 京都以東の著名八カ所の大神を祀る
  • 十柱神社 御祭神 大巳貴神をはじめ大地、水、山、海、土など国土の安全をお守りする十柱の大神を祀る

 

まずは本殿へ。

随神門の前には小川が流れていた。

狛犬。シュッとしている。狛犬も本殿再建年に造られた。随神門の位置には再建当時、三の鳥居が建っていたようだ。皇紀1600年記念で随神門に立て替えられた。

 

本殿。

元の本殿跡に立て直さなかった理由は分かる。本殿の先に見える山が弥彦山だからだ。この神社の御神体弥彦山

 

弥彦山の頂には奥宮があるよ。ロープウェーか道路(冬季閉鎖)で行ける。この日はロープウェーも点検中で動いてなかった。道路もまだ閉鎖中。今日は辿り着けない。

 

弥彦山御神体主祭神天香山命天照大御神の曾孫に当たる神様。天孫降臨の時に地上へ降り立ったそうだ。天孫こと瓊瓊杵尊の甥に当たる。瓊瓊杵尊の孫である神武天皇の東征にも従い、平定後は勅命を受け越の国を開拓しにきた。新潟県の開拓の神様。

摂社に祀られる神様のうち、「第○嗣」と紹介されている神々は天香山命の子孫で、彼の跡を継いだ神様たち。

関係性は↓

  • 第1嗣 天五田根命=天村雲命、天香山の子
  • 第2嗣 天忍人命、天五田根命の子
  • 第3嗣 天戸国命、天忍人命の子
  • 第4嗣 建筒草命、天五田根命の孫(天五田根命ー天忍男命ー建額赤命ー建筒草命)
  • 第5嗣 建田背命、建筒草命の子
  • 第6嗣 建諸隅命、建田背命の子

 

天香山命の子孫は熱田神宮住吉大社といった大きな神社の社家になった一族が多いようだ。

本殿以下、火災の後に立て直したので大正5(1916)年のものだが、すべて国の登録有形文化財に指定されている。

せっかくなので御朱印もいただいたよ!

いただいたあと、摂社にもお参りした。

摂社の入り口。

摂社一覧。
門を潜ると、摂社は似たような規模で一列に並んでいた。

先客がおり、威勢良く拍手を4回打っていた。4回…?
動揺してしまったが、4回はやっぱり不安になるので私は2回打った。4回打つことで有名なのは出雲大社だが、それ以外に4回のところがあるのか。私は普通の「二礼二拍手一礼」でお参りしておいたよ…。

後で調べてみると、弥彦神社は「二礼四拍手一礼」が正式だそうで。「二礼二拍手一礼」でも大丈夫だよ!! と注意書きも載っていたので安堵した。
ちなみに、4回打つ神社は出雲大社弥彦神社の他に宇佐神宮もそうだという。宇佐神宮へ参拝することがあれば気を付けよう…。四拍手、出雲大社の場合は「四方の神様を讃えている」から「出雲(大和に負けた敗者)の死を表している」まで色んな説があったけど、公式だと「例大祭は末広がりの8回打つが、例大祭以外では半分の4回で神様を讃える作法としている」とあった。伊勢神宮は拍手を8回打つ作法だそうな。出雲大社伊勢神宮も別格の社なので8回なのかな…?
ちなみに、弥彦神社宇佐神宮の4拍手の謂れは不明なものの「昔からそうしているから」というが理由のようだ。

「二礼二拍手一礼」というのはごく最近に出来たものらしく、昔はなかったらしい。神社本庁のサイトにも「長い時間の変遷を経て、現在は二拝二拍手一拝になっている」とあり、昔は違っていたことを示唆しているし。神社毎に参拝方法があったとかいう説も見た。

この参拝方法の原形は明治時代以降に出来たというのが通説で、それ以前は三礼三拍手一礼とか、特に決まりはなかったなどと言われているようだ。古代には神や貴人に対して拍手打つことがマナーだったのに、平安時代は廃れてしまったとか。色々で分からない世界だったよ。神社によっては「しっくりくるやり方で参拝してね」とか言っているし。

 

摂社もほぼ大正5年再建だったけど、唯一「十柱神社」のみ明治45年の大火にも耐えた神社。この神社だけは国の重要文化財に指定されている。

元は元禄7(1694)年に当時の長岡第三代藩主・牧野忠辰が弥彦神社境内に建てた五所宮。建立の理由は以下の通りだとか。

長岡藩初代藩主の牧野忠成は短気だったが、弟の牧野秀成は温厚で人望があり藩主を弟に代えようという勢力が藩内に出てきたので弟は殺されたという伝承があったそうだ。弟が死んだ年、藩主(兄)の嫡子が急死してしまいお家騒動になった。このお家騒動は弟が祟っているとされ、五所宮は弟の怨霊を鎮めるために建てられたといわれている。その他に不遇な死に方をした牧野保成、神戸赤左衛門、宮内卿女の4名と大己貴命を合祀したので、五所宮と称した。

  • 牧野保成 東三河地方の牛久保城主。
    長岡藩初代藩主・忠成の義理の曾祖父に当たる。徳川家康に敵対→敗死のため、江戸時代の公的資料には存在しないことになっているらしい。

    長岡藩主家は東三河地方の国人領主・牧野氏の分家で、牧野氏本家は今橋合戦で今川氏親に敗れ滅亡している(その後、本姓の田口氏に復帰し最終的には徳川家の旗本として存続)。長岡藩他、大名として牧野氏が残っているが全部分家筋と言われているようだ。今橋合戦の時点で牛久保牧野氏(長岡藩主家の祖)は分家だったようだ。

    牧野氏は今川氏の配下だった。今川氏は西三河松平氏への押さえとして牧野古白など東三河の国人衆に命じて永正2(1505)年、今橋城を築城させている。牧野氏の本拠が一色城から今橋城になる。一色城には古白の次男・成勝(長岡藩主家祖)が入ったとされる。

    当時の牧野氏は戸田氏(松平氏の配下)と争っていた。戸田氏は今川氏に「牧野氏が松平氏に内通している」と讒言して、牧野氏は今川軍に攻められて本家滅亡。牧野成勝は助けに来たらしいが、敗北を知り地元に帰っているとか。

    その後の牧野氏は古白の子の信成という人が当主となったようで、打倒戸田を掲げ、奪われた領地の回復を願い、今川義元に臣従していたらしい。大永年間(1521~1528)には信成が今橋(吉田)城主に返り咲く。信成は成勝の兄弟に当たるらしい。

    一色城から400m程離れた所に成勝と保成は信成の命により、享禄2(1529)年に牛久保城を造った。牧野古白という人は子だくさんだったようで、成勝の兄弟に当たる人達が牛久保城へやってきたらしい。同年、牧野氏本家が松平清康に滅ぼされる。

    本家が滅ぼされた後、牛久保城は同族の牧野成敏という人が松平清康に内通したために攻められることはなかった。成敏は成勝の兄弟、古白の甥、成勝・氏成兄弟の父、とか色々言われているがよく分からないらしい。とにかく、松平氏に最も早く帰属した牧野一族の人間として有名であるそうだ。東三河地方が松平氏の勢力下になると吉田(今橋)城の在番城主となった。松平清康が暗殺されると城主になったが、一年後には城は戸田氏に奪われた。牧野氏は再び今川氏の配下となる。

    その後は保成が本家扱いとなる。成勝は保成の弟・貞成を養子にしていたらしい。兄弟の実父は成種という人物で、成勝の兄弟らしい(成勝の甥に当たる)。保成は今川義元の庇護の元、吉田(今橋)城から戸田氏を追い出し順調に旧領を回復していったらしい。牛久保城は弟の貞成が城主となったが、貞成は反今川氏(親織田氏)なので地位を追われ、氏成の子・成定が牛久保城主となった。

    成定と保成は今川方だったが、弘治2(1556)年に貞成は追放され織田に接近する。永禄3(1560)年、今川義元敗死。

    一色城跡には大聖寺というお寺さんがあり、今川義元の墓(胴塚)があった。今川義元が死んだ場所はいくつか説があるものの、すべて一色城跡より60kmは離れた場所。なんでこんなところに墓が? wikiによると、居城まで遺体を運ぼうと試みたが腐ってきてしまい、諦めて大聖寺に葬ったようだ。牧野氏がいる牛久保は今川氏の大きな拠点だったらしい。

    松平元康は今川義元の死を機に独立を目指し、永禄4(1561)年まず最初に牛久保城を攻撃した。しかし城は落ちずに失敗。同年、貞成は松平元康に臣従(翌年、貞成死去)。今川氏が弱体化し、東三河国人領主がどんどん松平方となる。永禄6(1563)年、保成が敗死した。有力な家臣もダメージをだいぶ受けている。永禄7(1564)年時点では、保成の姉妹が息子の嫁と奥平氏のみ今川方だった。永禄8(1565)年には成定が衰弱し、また家臣達も意見が分かれ始めて話し合い、松平氏の配下になることが決まった。永禄9(1566)年、成定が家康に謁見する。同年成定死去。成定の子・康成が家督を継ぐが、保成の子が家督を巡って争いになる。家康の後援により退ける。康成の子孫が長岡藩主家となる。

    という経緯がある。wikiとか見ながら系図書いてみたけどよく分からん。内輪もめ凄い。保成の死に関しては謎な部分が多く牧野氏の秘密らしい。怖い。

  • 神戸赤左衛門 牧野氏家臣の神戸氏出身。何があったか不明。
  • 宮内卿女 名前の通り「宮内卿」という人物の娘と思われるが、宮内卿が誰なのか不明。当然、何があったかも不明。
  • 大己貴命 大国主命、国を造った神様

祀った経緯は不明だそうだ。牧野秀成さん以外の祟る理由がほぼ不明っていうのは下世話だけど気になって仕方ない! 牧野家は何をしたんだろう。こういう感じのドロドロ大好き! 公に出来ないほど酷いのかな。ワクワクするね。

明治になり信濃川の大河津分水工事が開始されるに伴い、工事の安全祈願のために弥彦大神と土・水・山・野・川など10柱の神様を新しい河川のほとりに祀ったが、その後に弥彦神社へ合祀された。弥彦大神は本殿にお返しし、他の9柱の神様と大己貴命が合祀されて十柱神社と名前が変わった。どうやら牧野氏に祟りを成したという4柱は廃祀されたらしい。祀られた建物だけ奪って神様達を追い出すとかちょっと酷いような…牧野氏もう藩主じゃないから祀らなくても大丈夫って事なの?

 

ちなみに現在祀られている神様は以下の通り

  1. 大己貴命(国を造った神)
  2. 大地主神(土地神)
  3. 弥都波能売神(水の女神)
  4. 大山祇神(山の神)
  5. 草野姫神(草や野の神で、大山祇神の妻)
  6. 速秋津日子神(港の神、速秋津比売神と対)
  7. 速秋津比売神(港の神、速秋津日子神と対)
  8. 埴山姫神(土の女神)
  9. 阿須波神(地面の神、足で立っている地面を守るというニッチな神様)
  10. 波比岐神(屋敷の内外を守る神)

 

大河津分水は去年2022年に通水100年を迎えている。3年に1度の頻度で洪水が起こっていた信濃川、江戸時代から国に治水工事を請願し続けたが、ようやく明治3(1870)年に第一期分水工事が始まった。しかしお抱えの外国人技師が「信濃川河口の新潟港に影響でる」という報告書を出したことで、新潟港関係者が工事中止を請願し明治8(1875)年中止。第一期工事の中止で祀られていた10柱の神を弥彦神社に移す。

明治29(1896)年に大水害が起き、被害総額は当時のお金で1231万円。明治30年頃の1円=現在の2万円と言われているので計算すると2462億円となる。分水路やっぱり欲しいよねって話になり、明治40(1907)年第二期工事開始。通水(完成)は大正11(1922)年。

 

後で知ったが、境内に「某神社」というお社もあるという。

 

便宜的に「某神社」と呼ばれている。

祭神不明。弥彦の神様との関係も不明。何もかも不明な神様。境内案内図にも載っていない。明治政府に提出した弥彦神社関連の文書にも「某神社」については記述がなく、弥彦神社の摂社でもないらしい。

wikiなどでは「昔からいる土地の神様」や「荒ぶる神」とされているが、円墳みたいな盛り土の上に祠があるということで、古墳じゃないかな…?

江戸時代に弥彦神社神職だった高橋光則さんが弥彦神社についてまとめた書物「櫻井古水鏡」には、

  • 名称不明、御祭神不明
  • 宝暦年間(1751~1764)に本殿補修用の木を某神社境内から切り出したら、切った木こり病死→木こりから伝染病発生→神職や地域住民も多数死ぬ
  • とても恐ろしい、このことだけは末代まで伝えて欲しい

と書かれているそうだ。

江戸時代から名前が不明なの怖い。ちゃんと祭祀はやっているそうだ。

ちなみに発掘とか何かしらの考古学的研究はされていない。何しろ、木を切ったり土を掘ったりすることも禁忌(いじったら死にますよ)とされているらしい。

知っていたらお参りしたのに…残念。

参道を戻る。

何かあるかなー? とウロウロ。

手前の建物が舞殿、奥が参集殿。
舞殿は弥彦の神様に舞を奉納するための舞台。
参集殿は舞を観賞するための建物。
どちらも本殿と同じ大正5(1916)年建築。本殿と同じように国の登録有形文化財指定を受けている。

参集殿の向こう、少し高くなったところに十柱神社が見える。

ただ、神社ではないので人は皆素通りしている。誰もいない。雰囲気はいいんだけどね。

社務所かなー?

この辺りは大昔の神社の様子が感じられるような、古めかしさがあった。

こういう岩とかが。

巨木もあるし。

また参道に出てくると人がいた。まったりした神社だが、昭和31(1956)年に変わった直後に二年詣り客が124名圧死する雑踏事故があったという。そういえば、誘ってくる友達いないからか元々パーソナルスペース広めで人混み苦手だからか、二年詣りって今まで一度も行ったことがないや…。

左側の米俵の方は「弥彦神社 初穂講 創立五十年記念」とあった。これは米所新潟の農家さんたちが参加する「初穂講」というものがあり、毎年豊作を祈念しお米を奉納している集まりの記念碑のようだ。


隣のは「重軽の石」といい、持ち上げた石の感覚で吉凶を占うものらしい。

石の謂れというのが↓

慶長年間、弘前藩第二代藩主の津軽氏が日本海を船で北上中、暴風雨に遭い、船が難破しかけた。津軽氏が越後一宮の弥彦の神様に「鳥居奉納するからお願い」と祈ったところ、暴風が止み無事に弘前へ戻ることが出来た。以降、毎年弥彦神社へ使者を使わしお礼を欠かさなかった。ある時、二つの火の玉が城の天守閣をグルグル回るという怪異が起きた。調べると、大人の頭ほどの石が飛び回っている。毎晩コレに悩まされていたところ、「そういえば、弥彦神社に鳥居を奉納していなかった」という事実に気付き、慌てて鳥居を奉納することになった。元和3(1617)年、無事に鳥居が完成し、一緒に火の玉2つも奉納した。

火の玉だった二つの石を、願い事を心で念じながら持つ。軽ければ成就、重ければ駄目ということらしい。

私は謂れなど知らずに、とりあえず石を持った。どちらも重かった。無意識に持ち上げていたので願い事なんか考えてなかったわ。神様もさぞかし困っただろう。どちらも重かったなら、なんかよく分からないけどアウトってことかなー?

 

鹿苑があった。

神様のお使いなのかなー? と思ったが。昔から居たわけでは無く、大正2(1913)年に出来たものだそう。こちらの鹿さんは春日大社から譲り受けた雌雄2頭から始まっている、本物の神様の使いでいらした。修学旅行で必ず行き餌を差し上げる、あの奈良公園の鹿さんの子孫ですよ。

牡鹿もまったりしている。平和な暮らしぶりらしい。こちらをぼんやり見つめてくるだけで、あまり興味なさそう。神に見放されそうなのかな、私?

あと、鶏もたくさんいた。
鶏舎もあった。こちらは昭和33(1958)年に日本固有の鶏を保存するために設けたと書かれていた。GW期間に日本鶏品評会が50年以上行われているらしい。色々やっているのね。鶏も絶滅危惧種に指定されているような品種もいたりで、なかなか力を入れているようだ。

折角なので子供を呼んできたが、第一声が「クッサ」、第二声が「戻っていい?」だった。なんという罰当たりな。


★★★★★

とても居心地の良い神社だった。

 

弥彦神社

創建年 不明

 

 

 

上越の水族館もリニューアル後は初めてだ。

鳥インフルのせいでペンギンはおうちに引きこもっていた。見られなかった。

(相変わらず)長野の植民地みたいになっていたわ。駐車場が長野ナンバーだらけ。

 

私は浜辺より港やドックが好きだけど、私以外の人間達は興味がなかったらしい。浜辺なんてただ暑いだけじゃん。

子供は何にも無い浜で波と戯れていたよ。

個人的には打ち上げられて、あちこちにいたフグみたいな魚が気になった。

海鳥もコイツら食べないらしく、カピカピに干上がっていた。標本みたいだった。

調べてみたら、コイツらはホシフグというそうだ。毒があり、食用不可。2022年から2023年にかけた冬のシーズンの日本海側の広い範囲でホシフグが大量に打ち上げられているらしい。北は秋田県・南は福岡県という感じ。理由は謎。2013-2014の冬にも同じく大量漂着したことがあったらしい。自然の摂理(ホシフグは増えすぎた…)的な理由か?

毒フグなので各自治体では「触るな、持ち帰るな、死ぬぞ」とアナウンスしている。普段は水深100~400mの場所に住んでおり、外洋を群れで泳ぐ魚だというが、たまに沿岸の定置網に大量に引っかかる厄介者だそうだ。

海水浴はただ暑いだけなので楽しくないし滅多に出かけないが、海は好きです。

出浦城

冬は手足が霜焼けになりがちな私だけど、今シーズンは酷くて足の薬指がついに炭のような色になってしまった。これが拷問受けているみたいに痛い。何かに触れると声にならない悲鳴を上げてしまう程。我慢して触ると、ちょっと硬い? 触感が鈍っているような感じで触っている感覚が薄い。自分の指ではないような。

あーついに足の指が腐ってもげるのかー。骨まで腐るのかな? それとも骨は残るのか?

一瞬「病院に行くべきでは?」と思ったけど、腐るとどうなっていくのか気になってしまい放置した。足の薬指だしな。

春に近づいてくると炭のように真っ黒だった指の色が薄くなり始め、元の色に戻ってきた。3週間くらいで完全に治ったよ! 触った感じもおかしくなくて…人体は不思議だな。と感心した。

 

岩井堂山(自在山)に登ってきた。この山、高級な茸が採れる山なので入山出来る時期が決まっている。この日は年が明けたばかり、真冬なので茸は関係なく入山できる。

山の頂上が坂城町千曲市の境界となっている。坂城町では「自在山」、千曲市では「岩井堂山」と呼ぶようだ。

坂城町は麓の神社「自在神社」や修行していた人達から取っているだろうし、千曲市は修行していた人達が拠点にした岩井堂の名称から取っているのだろう。この地域では自在三兄弟は絶大な影響力を持っていたらしい。

長野縣町村誌だと更に名前が違う。自在山を取り巻く麓の村々はそれぞれ、上平村(坂城町)「出浦城山」、新山村(千曲市)「天坂山」、力石村(千曲市)「岩井堂山」と呼んでいたらしい。これ混乱しなかったのか心配になるぐらいだ(明治以前、この辺りは村の境界争いで揉めていたとか。それぞれの村は仲悪かったのかもしれない)。なお、岩井堂山と呼んでいた力石村の古い地図には、現在の青麻神社がある辺りに岩井堂が描かれている。

 

青麻神社。

以前行った記録だと、青麻神社から100m登った先に薬師堂があった。三兄弟の末弟が薬師堂で修行したとあった。

登っていないが、入り口らしきものはあった…道があるの!? 現在も薬師如来さんが安置されているらしい。岩井堂旧跡として「岩井堂山頂にあった岩井堂が慶長年間に人家の近くへ移った。旧地には梵鐘堂が残る。その場所を鐘撞堂と称している。古くからある霊場が無くなることを悲しみ、弘化年間には岩井堂跡に薬師如来を勧請した」という記事を読んだ。つまり、

  1. 岩井堂は自在山山頂にあった、山頂には梵鐘があった
  2. 慶長年間(1596~1615)に岩井堂が麓付近へ移転した(鐘撞堂そのまま)
  3. どこかのタイミングで修験道の行者がいなくなった?
  4. 弘化年間(1844~1848)、麓の岩井堂跡に薬師如来を勧請した

という経過で、徐々に下りてきている。また、修験道霊場だったことも分かる。慶長年間は豊臣政権から江戸幕府に至る20年間。元になった山伏の兄弟がいつ頃生きていたのか全く分からないが、それ以前の室町時代くらいかな?

 

「岩井堂合戦」という戦争もあった話もあり。これは天正壬午の乱において岩井堂周辺で上杉と北条が戦ったという話。この時点では「岩井堂」が存在していたのかもしれない。内容は、

  1. 本能寺の変により、織田領だった信濃国が空白地帯となる
  2. 信濃国を手中にしようと、上杉・徳川・北条がそれぞれやってくる
  3. 上杉家の家来となった真田昌幸さんと高坂源五郎さんだが、北条家にも臣従しており、スパイ行為を行う
  4. 真田昌幸さんは土地勘があるので上杉軍の先導をし、高坂源五郎さんは松代城を守るとし、最終的に上杉軍を真田・高坂で挟み撃ちにするという計画だった
  5. 高坂源五郎さんのスパイ行為がバレ、上杉家は妻子共々殺す
  6. 北条・上杉両軍が岩井堂周辺で出会う、上杉は北条へ高坂源五郎の死体を送りつけた
  7. 死体を見た北条軍が引き揚げる、それを上杉軍が追撃し、岩井堂合戦は上杉の勝利

というもので、岩井堂周辺の村々にはこの合戦の話が伝わっている(この合戦のことも岩井堂合戦とか油屋合戦とか称している)。それも登場人物も結末も同じ。高坂源五郎さんというのは通常、天正2(1575)年に戦死した高坂昌澄を指すことが多いみたいだけど、この場合の高坂源五郎高坂昌元春日信達)のことを指しているようだ。高坂昌元という人は真田昌幸に唆されて北条方に内通したことが発覚し、上杉方に処刑されている。

wikiとかだと真田昌幸の暗躍など事実だけど、合戦については「北条と上杉は川中島でにらみ合うもののそれぞれが抱える事情で和睦した」ということになっている。なので岩井堂合戦などないことになっている。それでも小競り合い程度はあったと思うので、ちょっとワーワーして数人死んだのを「合戦!」と大袈裟に語り伝えたのかもしれない(それはそれで何か平和な世界だなと思った)。

 

登山口は坂城町側・千曲市側と2カ所あるようだが…千曲市側はよく分からない(林道らしい)。千曲市側は別所へ向かう古道があり岩井堂山を経由しているというので、その古道が林道化しているのかも? 色々ネットで見たけど、坂城側の自在神社から登るルートしか出てこなかった。

自在神社の参道を歩いた。

緩やかな参道を歩くと、鳥居が現れた。

自在神社は社伝によると、南北朝時代に創建されたという。山伏は鎌倉時代後期~南北朝時代に組織化したらしい。ちょうど山伏の地位が上がった時期に霊場が設置されたのかな。

この神社は大己貴命と村上義光を祀っている。村上義光は坂城が本拠の村上氏で、鎌倉幕府の倒幕運動に参加している。当時の村上氏は承久の乱に幕府方として先祖が参戦しなかったので鎌倉幕府に冷遇されていたとかで、朝廷側になっていたらしい。功績を挙げたので、建武の新政では村上氏の地位が向上した。明治時代になり村上義光が神格化され、鎌倉市の神社にこの人の社殿が明治2(1896)年に建てられている。こちらは信州村上氏の本貫地なので、地元神社でも明治時代になって神とし合祀されたんじゃないかなと思う。近くの村上小学校の裏に村上義光を偲ぶ歌碑があった。

 

また、山伏の集団も鎌倉幕府討幕運動に参加している。村上氏と同じく山伏も倒幕成功したので地位があがった。それまでは得体の知れない反社会的なゴロツキ扱いだったらしい。権力に組み込まれていき諜報活動とかしてたらしいが、平和な時代になると街角の占い師さんとして庶民の世界で落ち着いたらしい(うちの先祖に不運が重なった時、丹波島の天狗(修験道の行者さん)に相談したら「先祖供養をしなさい」という助言を貰った。言う通りにしたら腰痛が治ったりイイコトたくさん起こった、という話が残ってた。天狗って随分フレンドリーな奴だなと思ったけど、その頃には一般人になっていたんだね)

 

ここは神楽殿だけど、里宮とも言われる。祭日には氏子が神楽を奉納する。

隣の斜面には獣除けのフェンスがある。その奥には砂防ダムがあり、何かの石碑もあった。

「明治44年 温泉試掘」などと書かれていた。近隣の温泉地の戸倉温泉は明治26(1893)年、上山田温泉は明治36(1903)年に温泉が湧いている。温泉掘削が流行ったのかもしれない。この地区には以前「阿多美冷泉」というものがあったらしい。「あたみ」って読むのかな? 山崩れで消えてしまった温泉から約220mほど下がった場所から今度は冷泉が湧いたとかで、そんな名前になったらしいが。今は阿多美冷泉もなさそうだ。

明治20(1887)年頃、上総掘りという安全に地下300mほどの穴を掘る事が出来る画期的な技術が完成し、あちこちで穴を掘りまくっていたみたい。大分の別府温泉は上総掘りで掘りまくって発展したそうだし、戸倉上山田温泉も上総掘りで温泉掘って発展している。

坂城の場合、この試掘では温泉は出てこなかった様子。時は流れ、平成9(1997)年に400m弱離れた場所で硫黄臭い(この山塊には上平黄銅鋐採掘跡とか鉱物を掘っていた跡地がいくつかある)温泉が掘り当てられていた。深さは1000mだったから明治中頃の技術じゃ無理だったかも。惜しかった。

 

温泉試掘の碑がある付近は大きな砂防ダムもあった。

人為的な水路みたいなものがあり、鉄砲水や地滑りが起こりやすい山なのかもしれない。

坂城町が用意している案内板。室賀峠まで往復してくる猛者はいるだろうか?

 

石段を登るとコーススタート。

こんなところにも治山工事が。凄い場所だな。

入り口。この柵は獣除けで自在山の周りに取り付けられている。平成25~26年の取り囲んでいる。2300万円の国庫金と地区の住民が労力奉仕により完成していた。

柵の裏側は堀のようになっていた。沢らしい。

 

ドアを閉める。下界と遮断された。

自在神社の奥宮に向かう参道。古そうに見えるが、石の切り方がちょっと違ったりしている。現代に至るまで修繕に修繕を重ねているということかな?

階段を上がって行けば行くほどボロボロになっていく。

どうやら崩れやすい山のようで。

そこかしこに土石流が起こった跡があった。

砂防ダムもある。昭和44年度とか書いてある銘板が取り付けられていた。「○○治山事業第214号工事 no.7」とも書かれており、数字見ただけでも嫌になるよ。こんな砂防ダムが山の中に相当数あるんだろうな。

参道から少しそれた所に古びた鳥居もあり、石を祀っているようだが何だか分からない。

ただし、この辺りは妙に新しい雰囲気。崩れたんだなきっと。

自在神社本殿が見えてきた。

到着。

最初に村上氏が来たときに建てた観月堂、狐落城、三水城が連なる山が見える。


背中に崖を背負っている本殿。主祭神大己貴命と明治期に合祀された村上義光。荒々しい感じ。

古い石碑も残されていた。慶応2年に建てられた、拝殿周りの石組みや石段の補修費用を寄進した人達の名前を刻んだものだった。

こちらも寄進されたもので、享保の文字が読めた。石碑より古いようだ。

ちなみに石段の最後には何かがあったようだが…現在は撤去されている。

ついに自在山登山します。

 

よく手入れされている様だ。

そして、よく崩れている。

道も崩れているな。

いいお天気だったので、足元は雪もなかった。

道らしき道はずっと続いており、それを辿りながらなんとか登っている。そこそこ有名な山だし、キノコの件もあるので、登るのがそこそこ難しい状態を保ちながら整備され続けている雰囲気ある。

さり気ないロープが…! ロープないと行き先が分からんわ。

フィールドアスレチックだね。こうなったらロープなんか使ってやらないんだから。

100m進んだ。結構大変だぞ。

体力を使う割には進めていない。悲しい。

また普通の道になった。

最近伐採された感じの丸太もあった。重い道具を背負って急斜面を登ってきて木を切る仕事か。大変だな…。本当はもっと楽に登れる道があるんじゃないかと勘ぐっちゃうわね。

古い丸太・新しい丸太が邪魔にならない位置で自然に還されている。

丸太だらけよ。

足跡発見。人がいるのか!?

やっと100m進めた。

なんか崩れているよねえ。

真新しい看板あった。この先道が続いているようだが、きっと差し障りが出来たのね。素直に従おう。

ちなみにこの辺りからコレ↓が目立つようになる。

「キノコ取るな○すぞ」の張り紙である。

もし違反者いたとして、本当に50万円取れる法的根拠があるのか興味があるものの、実体験しようとは思えないオッカナイ文面。値段も上がって100万円を要求するものもあった。

こういう張り紙がたくさんあるの。

この張り紙も毎年新たにくくりつけられているらしく、平成時代から去年のものまで(この日は令和5年になったばかりだった)たくさんあった。また、大きな窪み(多分土石流が起きた跡だと思う)の対岸にもたくさんあった。

そんなに皆キノコ好きなのかよ! 帰宅して「松茸より椎茸が好き」と言い張る家族に張り紙の話をしたら、「メルカリで売るんだろ、自分ちで松茸なんか食べないわw」と笑われました。

大田市場の松茸のキロ単価は去年2022年9月で25000円だった。そりゃ必死になるね。

ちなみに更埴警察署は平成15(2003)年の合併による千曲市の誕生に伴い、千曲警察署に名称変更されている。

やっと残り300m地点に。

少し上がってきたので残雪も目立つようになってきた。また足跡発見。

先ほど「残り300m」の看板を見たが、こちらでは距離が伸びている。

残り600mで所要時間60分らしい。しかも、手書きマジックで訂正されている。

手書き部分だと「残り400m所要時間15分」。これもさっきの標識の内容と異なっている。そんなに崩れてルートが変わっているのか、ただの悪戯なのか。真実は自分で歩いて確かめろ、ということかねー? 200m差で所要時間が45分も違うとか怖いわ。

崩れているねえ。

また少し行くと、修験道霊場だった頃の名残りがあった。

手前が「村明霊神」でこの時は気づかなかったが、不動明王の碑もあったらしい。写真見ると、「村明霊神」の奥に大きな石が転がっている。それかな? 文字に気づかないということは、もう壊れていたんだろう。
村明霊神はこの山の守り神かな。自在山にしかいらっしゃらないようだ。

 

残り200mに。

また別方向へ案内されている。従前は斜面登っていくはずだったのかな。

ついに残り100m到達。

あっ青空の量が増えてきている。

ついに頂上だ。トラロープが見える。不穏。

このトラロープはまだ新しく、奇麗だった。トラロープには張り紙があったよ。当然文面は↓

茸の季節ではないけど、怖気づいてしまった。この場所がお城の出入り口だということは分かっているものの、なんとなくそのまま進みたくなくなって回り道をした。

はい侵入。ちなみに、お城出入り口には防犯カメラが設置されていた。おー直感が正しかったね。

頂上がほぼ出浦城の区域であるらしい。頂上付近にしか遺構がないのだ。狼煙台としての機能しか持たなかったのかな?

ここの城主は出浦氏で、坂城の領主である村上氏の傍系。村上成国という人が出浦氏と称し、その子孫だといわれている。出浦氏は村上氏の重臣という立場だったようで、戦国時代には出浦国則の妻が村上義清の乳母を務めたとされている。出浦国則の子・清種は村上義清の乳兄弟という立場で、主君筋とは非常に近しかったらしい。出浦氏で一番有名な人が出浦盛清だが、この人は清種の次男とされている。

出浦清種と嫡子の清正は天文22(1553)年、村上氏と一緒に越後へ落ちていった。この系統は越後の上杉家家臣として存続していったらしい。次男の盛清は真田幸隆に捕まったと言われている。盛清さん天文15(1546)年生まれなので、天文22(1553)年時点では7歳?

この地区には「出浦氏」の他に「小野沢氏」という一族もいたようだ。小野沢は村上氏の支流というか、出浦氏の分家みたいな感じ? 出浦氏の祖である成国の子・仲実が小野沢氏を名乗ったようだ。出浦氏は村上一門として御家人の地位を持っていたが、小野沢氏は北条得宗家被官として鎌倉時代を生きていたらしい。小野沢氏の記事は吾妻鏡にたくさんあるものの、本家筋の村上一門については少なく。村上さんの本家を圧倒していた家のようだが、鎌倉幕府滅亡と共に小野沢氏は没落したらしい。

村上氏が武田氏に敗れて越後へ行った後は居残った出浦氏が武田氏家臣となり、小野沢氏はどうなったか不明とされているみたい。出浦城は武田氏所有となる。今出浦城といえば、自在山山頂のココを指す。実は本来の出浦城は別の山の頂上にあったらしい。本来の出浦城・出浦館は山崩れで跡形もなく消えてしまった、という話も伝わっているとか。

なので、この場所はあくまでも「烽火台」なのです。

説明板にも書かれている通り、頂上は土塁で囲まれている。

無数の足跡もあった。

今のところ誰にも会わないが、人が頻繁に出入りしているようだ。茸の季節以外でも監視がキツいのだろうか? ただの登山客かしら?

ほとんどが正規ルートである監視カメラの下を通ってきているらしい。

こんな感じになっているらしい。

井戸跡はこれだな!

石垣の土台に石碑が載っている。

これが頂上にあったという梵鐘堂跡かなー?

国常立尊」「国狭槌尊」「豊斟渟尊」と書いてあるらしい(後で調べた)。

これらの神様は日本書紀に書かれる「天地開闢のあと最初に現れた神々」として紹介されていた。ちなみに古事記の「天地開闢」の内容とは相当違う。一般的に「天地開闢」の話として採用されているのは古事記の方という印象。あちらの方が物語調だから分かりやすいし。

日本書紀では、この3柱の男神様が生まれて隠れて次世代の男女ペアの神様へ…みたいに話が続く。古事記日本書紀もこの3柱の話は「生まれて死にました」以外の記述はないらしい。

こちらは摩利支天。陽炎を神格化したもので、実体がないという特性があった。敵に捕らえられたり戦場で傷を負うこともないし、相手から見えないので自由自在に動き、敵を倒すこともできるのだ。無敵じゃないですか。そのため、鎌倉時代には護身除災や必勝の神様として武士の間で人気があったようだ。摩利支天の法とかいうおまじないみたいなものも存在していたらしい。今でもギャンブルの神様として有名みたいだ。

 

2つとも修験道関係の石碑だとされている。

修験道の行者が忍者になったと言われているし、摩利支天も忍者が信仰する神様だそうだ。大体、ここの主であった出浦盛清も忍者の頭領だって言うし。狼煙台の他、忍者の訓練道場なんかの機能も兼ねていたのかもしれない。

そういえば、山の途中のこういう場所↓だって、忍者修業の一環って言われれば信じちゃうわ。

戸隠の忍者村にもありそうだわー。

あっ、三角点あった。

 

地図には上山田側に段郭や土塁があると書かれていた。

覗き込むと確かにあったよ。

上山田側は荒れている雰囲気。防犯カメラの位置から考えると、茸泥棒は上山田側から上がってきていると思われるが。

本郭までは非常に綺麗に整備されている感じだった。ハイキングの人のためというより茸泥棒対策なんだろうけど、頻繁に手入れされている。

ハイキングコースも大林山やその先の室賀峠まで抜ける道があるはず。

降りてみよう。

道らしきものはある。

空堀の底に降りた。

ここもなかなか深い。

道を見上げると、なんとなーく足跡があった。足跡が続く方向は。

藪を抜けていく道がある。少し空堀を歩いてみた。

どこからか乾いた「パアン」という音が聞こえた。そういえば猟の季節真っ只中だった。茸が終わるとそんな季節。そして本郭へ戻った。

本郭も小さなものなので、下山します。

村明霊神まであっという間だった。

ただの修業場なので見るものもなく、ひたすら斜面を降りるのみ!

帰り道も「入山禁止 罰金50万円」の圧が凄い。

ただの山道でひたすら降りる、降りる。

だいぶ降りてきた。

あの場所にも到着した。

意地でもロープ使わないからな。

ようやく、罰金50万円のプレッシャーが和らいできた頃、遠くから熊除け鈴の音が聞こえてきた。こちらも鈴を身につけているので相手にも存在がバレているかもしれないが、熊除けの鈴は一定のリズムで近づいてくる。

ひょっとして巡回の警備員かもしれない。茸の季節じゃないけど、ひょっとしたらやっているのかも? と私は怯えてしまった。一人やってきたのは、気さくなお兄さんだった。こちらから挨拶したものの、フレンドリーに食い気味にに色々聞いてくる。お兄さんもこちらを「茸泥棒除けの巡回者かも?」と怪しんでいたかもしれない。「お気を付けて…」と言葉少なに別れたよ。

終わりが見えてしまった。

自在神社に到着。

無事のお礼をした。そして、持っていたパンを食べた。いい汗かいた。

食べ終わって、下山残りも開始。

間もなくゴール。

猪避けの柵からも出た。茸泥棒とか巡回の人とか猟師とか会わなくて良かった!

ふと気付くと、近くの木の根元に他所の神社の御札が。何故?

そして、自在神社の里宮にもお礼をして帰宅した。

★★☆☆☆
登りがいはあると思うが、慣れない人連れは足手まといになりそう。


<自在山烽火台(出浦城)>
築城年 不明
築城主 出浦氏

穂高神社

年に何度か行く安曇野。今年初めて行ったよ。なんかこの日はどこもかしこも空いていたわ。

用事も空いていたために早く終わってしまい、穂高神社に寄った。

式年遷宮が去年あったはずなので、古い建物が残っていないかなー? と思ったけど分からなかった。調べて見ると、去年は小遷宮で、神様を仮殿にお移しして本殿をお掃除したり修理する年だったそうだ。なので、新しく建物を造ったわけではないそうな。大遷宮は2029年の予定らしい。賑やかに小遷宮のお祭りを行ったようで、鳥居も新調されていた。

穂高神社は創建年不明の古い神社で、式内社・信州国三の宮という格式を持っている。ここは里宮で、奥宮は上高地にあり、更に嶺宮が奥穂高岳山頂にあるらしい。

↑嶺宮。とんでもない…。

 

御祭神は当地を治めた安曇氏の祖である穂高見命、穂高見命の父であり海の神様の綿津見命天孫降臨で有名な瓊瓊杵尊の3柱。穂高見命から見て瓊瓊杵尊は甥に当たるようだ。3柱の社は一直線に並んでいて、真ん中に穂高見命の社殿がある。

その他に、天照大御神や安曇氏で最も高名な阿曇比羅夫、ものぐさ太郎のモデルだと言われる信濃中将も祀られている。

古代の安曇族は海の民で、この神社では船のお祭りを行っている。本殿中央の穂高見命の社殿は穂高造という独特で日本唯一ココだけの形式で建てられている。穂高見命の社殿では海に関するもの(勝男木という、釣り竿か船の帆柱を表す木)を添えているらしい。

西日本中心に活動していた海の民が東日本へ勢力を広げて、信濃国が北限に当たるみたい。そして海なし県の信濃で大きな足跡を残している為か、安曇族と信濃国の関係をやたら重視され研究が進められている。

享保14(1729)年の銘があるお手水。

昭和24年製の神馬の像。古代より祈願の為に馬を奉納する習わしがあるそうで、昔は馬が高価&世話が大変ということで、馬の像や絵馬を奉納するように変わっていったらしい。延喜式には「晴れを願うときには白馬を奉納する」などという記述があり、もしかしたら晴れを願ったものかもしれない(単に白馬が綺麗だから、かもしれない)。

 

拝殿は前回の大遷宮が行われた2009年に新築された。まだピカピカだよ!

皇室とも関わりがあり(皇室の祖神も祀られているしな)、玉串の奉納があったようだ。

「船」がお祭りで重要な役割を果たすためか、交通安全でも有名。車用・子供用・連れ合い用…と交通安全のお守りを買い漁る!

 

摂社。この中でも一際大きいお社が阿曇比羅夫の社殿。

舒明天皇の時代に百済へ国使として派遣された人で、舒明天皇崩御により帰国。百済の王族と深く関係する高官だった。斉明天皇6(660)年、唐・新羅連合軍により百済が滅亡した。日本は百済を支援することにし、662年に日本に人質として送られていた王子の扶余豊璋を立て軍を送った。その百済国再興軍の将軍として阿曇比羅夫が水軍を率い、海を渡った。

百済の生き残り王族の鬼室福信(扶余豊璋から見ると、祖父の甥にあたる人物)が反乱軍を率いていたので合流し、日本の支援を受けた扶余豊璋が無事に百済国王になった。が、百済の高官でもあった鬼室福信の方が権力が上だったらしくて百済の掌握が上手くいかず、663年に扶余豊璋は鬼室福信を殺す。結果、すぐに百済国が弱体化して再度、唐と新羅の軍に攻め込まれた。日本は援軍を送ったが大敗した(白村江の戦い)。白村江の戦いで阿曇比羅夫が戦死したとされ、その命日といわれる9月27日に御船祭(例大祭)が毎年行われているそうな。

安曇氏の中で最も活躍した人なので、「立身出世」の神様らしく。デカデカと「祈願 延命長寿 立身出世」の立て札があった。

 

相殿神として、信濃中将という人も祀られている。ものぐさ太郎だ。

すべてにおいてやる気のない太郎が、彼を持て余した村人達に夫役を押しつけられ都へ行ったら物凄く働いた。帰郷の際、嫁になるような美女を見つけ強奪しようとするが、本人が風呂に入らず汚すぎて美女も抵抗しまくって失敗する。その時美女が逃げるために謎かけした言葉をヒントに家を突き止め、進入した太郎は床下に潜んでいた。当の美女が昼間変な奴に追いかけられた話を愚痴っていたために太郎に気付かれ、太郎に騒がれた為に屋敷の者達も何事かとバタバタし始めたので仕方なく太郎を匿うことに。太郎と話してみると意外と教養があったため、太郎に綺麗な服を着せて結婚した。その後、太郎を洗って綺麗にしたらイケメンになった。歌の才能もあるので、評判が帝にまで届いて只者ではなさそうな太郎の出自を調べることにした。実は仁明天皇の第2皇子の二位の中将が信濃へ流されて儲けた子と判明、信濃中将の地位と領地を与えて、信濃へ帰した。太郎は立派な御屋敷に多くの家来に囲まれ、多くの子にも恵まれて120歳まで生きた。そして「おたかの大明神」という神様に(奥さんの美女は「あさいの権現」という神様に)なったというお話。

仁明天皇の第2皇子は宗康親王という人で、天長5(828)年生まれ。領地は大和国播磨国美濃国にあった。嘉祥3(850)年出家。出家した時点で22歳。wiki見る限り子供はいなさそう。そして、信濃国に流された記録もない。ものぐさ太郎がこの人の子である可能性は非常に低いとのこと。他の皇子で似たような経歴の人居たけど信濃国には縁が無く、関係ないらしい。

そして穂高神社にものぐさ太郎が祀られている理由は、太郎が穂高神社を建てた、という伝承があるらしいから。

 

一旦戻って、御朱印をいただきにいった。

古い神社なので、清めの川が流れているし。

狛犬はムキムキだった。

 

御朱印を配布している社務所の周りには、石碑がいっぱいだった。

郷土の偉人達らしい。

 

ステンレスの道祖神

 

阿曇比羅夫の像。

新潟の糸魚川方面に向かう「千国街道」に置かれていた道祖神達。「過疎化した山里では管理できない」という理由で道沿いの大町市からこちらに移されたものだそうだ。安曇野市内にある道祖神たちとは違う材質(砂岩)だという。

 

早いもので梅が咲いている。今年の花粉は酷いそうだ。

 

御手洗川というらしい。橋は「神橋」と呼ばれる、明治16(1883)年建立のもの。穂高神社の参道でもあるが、千国街道の一部でもあるそうだ。だからさっきの道祖神穂高神社に移されたのね。

 

川が物凄く綺麗。水質良さそう。

 

 

句碑。

 

ものぐさ太郎のレリーフ。場面は、面倒くさがり過ぎて地頭に感心されているところ(右)・故郷に凱旋したところ(左)。

 

泉小太郎の像。犀川はまあまあ近くを流れる。造った人が旧穂高町の出身。泉小太郎の父が綿津見命・小太郎は穂高見命の化身であると説明されていたよ。

 

 

文章がよく分からなかったが、

 

昭和37年、天皇陛下へ恒例となっている山葵を献上した時に庭に生えていた松の枝も添えた。天皇陛下は「これは白松である」と我々にご教示してくださった、おめでたい松です。

昭和6年に中国・紫禁城から持ち帰った種が育ったものです。

 

ということらしい。松は説明板の後ろにある木ではなく、すぐ隣の土塀の奥にあるものを指しているみたい。中国では「長寿を象徴するおめでたい木」だそうだ。日本には自生せず、中国から持ち帰ったものがほとんどで庭木としては流通しておらず、あまり見かけない木だそうだ。松って感じがせず、ひょろひょろした木だった。

 

★★★★☆

子供はおみくじを引きたがり、小吉だと「アタリが出るまでやる」とか言い出して、色々めんどうくさい。

 

 

穂高神社

創建年 不明

御祭神 穂高見命・綿津見命瓊瓊杵尊

 

 

 

 

 

食べに行く予定のレストランが定休日だったので、ファミレスに行くことに。お昼時というのにそこそこ空いていた。

子供が選んだ席のすぐそばで、ここ3年くらい世界で流行っている感じの話をサシで話している(1人が一方的に話している)人達がいた。私もその話題に興味があり、どうカネに結びつけていくのか気になったから聞き耳を立てていた。相手もさすがで。ものの数分たたず私と目が合い(こいつ聞いているな)とバレて、相手が声のトーンを落としやがった。

絶対テレビじゃ報道しないけど実は…など漏れ聞こえてくる一部からして、やはり私の好きなアレだという確信を持てた。宴もたけなわとなり、黙って聞いていた人が「いやー啓けました」とか言い出して、次のセッションの予約について話し始めた。お金の話もする。アレひょっとして有料セッションを受けていた? それは聞き耳立てちゃいけなかったねw 個人的にはこういうの有料動画配信が8割、残りはこだわりのオーガニックカフェで開く勉強会と思っていたけど…ファミレスは盲点だったかもしれない。キャバクラの面接がファミレスで行われるって聞くけど、人に聞かれたくない類いの話をする敷居の低い場所として便利なのかもしれないわ。

しかし、有料セッションにこぎ着けるまでの過程を知ることが出来なくて残念だった。

窪寺城・窪寺観音

新年早々、また車に当てられちゃったよ。

前回と違い反社絡みじゃなさそうだから張り切って取り立てようと思ったら、ただの貧乏な爺だった。当然任意保険も未加入だし、住んでいるのも臭突が伸びるスラム風の市営住宅

事故の内容(雪道でノーマルタイヤの軽トラがスリップして突っ込んできた)からするとこちらの被害額は奇跡的に僅か。それでも腹は立つので「社会的に抹殺出来たらなー」と色々作戦を考えたが…ボロ長屋に住んでいる爺をこれ以上落とす有効な術が見つからない。既に落ちるところまで落ちていて、あと死ぬだけの無敵の人だった。私もなくす物がないような無敵の人だったら爺の住処に火を付けちゃうんだろうけどさー。世の中は理不尽。

あと、この手の話をすると「お祓い行きなよ」って言い出す人がいるんだけどさ。祟られたことがある経験上、まずこの程度じゃ済まないし普通に死にかけるよ! と声をかけたい(現実では話が長くなるからハイヨで終わらせちゃうけど-)。

 

その数日後。今度は車のタイヤがパンクした。ディーラーに連絡して修理をお願いしたところ、パンク箇所は側面だったので修理不可能を言い渡された。元々タイヤも古くて買い換え時だったので4本すべて交換にした。タイヤもちょうど4本だけストックがあったそうで、1日ですべて済んだ。飛び込みだったので代車もなく、ラッキーだなと思った。洗車もしてもらった車を引き取り帰宅。爺に付けられた傷を何気なく見ると、おかしな事に傷がない。跡形も無く消えている…!?

当てられた家族に「傷がないんだけど」と確認したが、本人は「確かに当てられて、ドアミラーが折れてしまってプラプラしている状態だった。たまたま近くにあったディーラー(これはタイヤ取り替えたトコとは別)で見てもらったけど、ドアミラー全損で交換だねって言われて6万の見積もりもらってきたでしょ」とのこと。しかし、ドアミラーは電動格納するしデフロスター入れれば温まってくれる。「気付いたらドアミラーは直っていたけど、最初は確かにプラプラになっていたんだよ…いつの間にか直ってたんだよ…」なんて本人は悲しげに呟いていたが、とにかく爺にぶつかる以前に戻っている状況である。ちなみにドアミラーがプラプラになっている状態は私まったく見ていないです。

やっぱり私はものっすごく運が良い。死にかけたこともあるが生きている(その遠因になった腫瘍も存在を確認されて、容態が落ち着いてからの手術となり日にちも決まっていたのに、突然消えて医者に手術出来ませんと宣告された)し、タイヤも新品にしなかったらうちの車も凍った道で滑っていただろう。

私が新興宗教の教祖になったら大儲けできるんじゃないかな!! ウキウキが止まりません。買い物帰り、玄関まで荷物を運んでいた時に急に思い立って「俺が運ぶのは荷物だけじゃない。幸運を運ぶ」と子供に言ったらガン無視された。それでもウキウキしちゃう。今乗ってる車、心の底から大事にしようと思う。

爺は絶対許さない。

 

中世、窪寺氏という一族が支配していたらしい。鎌倉時代に窪寺村へ移住し「窪寺氏」を称したみたい。滋野氏の傍流だそうな。

善光寺警護の奉行人を務めていた窪寺左衛門入道光阿さんは文永2(1265)年に善光寺側から「税の横取りなど職務を越えた行為があった」と訴えられ、鎌倉幕府内で評議の末クビになっている。これが窪寺氏の初出らしい。なんとも不名誉な。

その後も窪寺氏はこの地を代々領地として守ってきたが、寛正年間(1460~1466)頃にはお隣の小市村の領主・小田切さんの配下に成り下がってしまったとか。

弘治元(1555)年窪寺さん最後の当主の幸忠さんが死に、窪寺氏は滅亡したらしい。小市村領主の小田切さんも弘治2(1556)年に武田信玄に敗れて滅亡、小市も窪寺も武田の領地となったという。

 

近くには窪寺氏さんの館跡もあるよ。

 

ここは耕作地になっている。石垣なんかはあったけど、廃城以降のものだろうなと思う。

非常に見晴らしの良い場所で、犀川川中島一帯が広く見渡せる。城を置くには非常に良い場所だねー。

冬場なので、放棄地なのか休耕なのか分からないが、手入れされている様に見える。周りの畑には働いている人の姿もある。

どこが出入り口か分からないが、恐らく堀跡らしきココ↑を行くよ!

この様子では堀以外の何も見つけることが出来ず。

堀跡ですらこんな感じに↓

まあ、まだ通り抜け出来るがね!

また畑。

よく分からん。

変な藪を通らなくても横から進入出来ていた。

上から見るとこんな感じ↓

恐らく、ただの畑にいるような気がする。本体はまだ先のような気がするんだよね。

上がってきた堀。

ここもただの畑にしか見えず。この先の藪の中なんじゃないかな?

しかし畑より先に続く堀は、もはや見えない。

藪に覆われ、何も見えない。自然に還っているわ。

蛇とか居ない時期とはいえ、この中に入って行く気分にはならない(この前に窪寺観音に参拝してたんだけど、デカそうな生き物の物音に脅された。蛇は居ないけど猪は出るかも)。安茂里でも古い家が建ち並ぶこの辺りは旧道含めて檄セマだし、今日も窪寺観音の手前の坂で危うく車壊すところだったしさ。なんかイイコトなかったわ。

他に登れる場所はないのだろうか。

分からん。きっとこの畑も城の一部なのかもしれない!

見晴らしは良かったよ!

畑を抜けていく(藪へ進む)ことは諦めました。人の目が気になりますー。

すぐそばに正覚院というお寺さんがあり、そこから道があるか見に行ってみた。

 

正覚院は善光寺七寺に挙げられる場合(善光寺の近くにあった正覚院と合併した経緯がある)がある。もっと古い時代からお寺があるそうなので、ひょっとしたらここから窪寺城への道があるんじゃないかと。

結果、道はなかった。


このお寺は算額で有名で、長野県内で2番目に古い安永10(1781)年のものが奉納されている。気になる算額の内容は…画像で見たけど全く分からない。頭良くなりたい。

「月林寺跡地」という看板が山門のそばにあった。天安2(858)年、慈覚大師(794~864)が開山した、この辺りでは極めて大きなお寺だったとか。

慈覚大師(円仁)は第3代天台座主に就任した高僧。最後の遣唐使船に乗り留学した。wikiによれば、留学は物凄く大変だったらしい。行きは2回失敗、3回目で難破しながら辛くも唐に上陸。帰りも唐が滅亡しそうで船がなく新羅の商人の船に乗って帰ったらしい。留学中の約10年間は不法滞在して捕まったり、あちこちの山へ巡礼に行ったり、仏典を集めまくった日々を日記に書いていた。そして生きて帰国し、この人の日記は「日本人が書いた旅行記」として後世に残されている。また、日本のあちこちにお寺を建てたらしく、その数700近くあるという。布教しまくっていたんだねー。

とにかくこのお寺さんは古い。文献に初めて登場したのが吾妻鏡の文治2(1186)年三月の項で、朝廷から送りつけられた「源頼朝領地で年貢未納の荘園等の名簿」の中に月林寺の名前があった。

その後は衰退しちゃったので元和年間(1615~1624)に善光寺近くの正覚院から僧を出して再興した。その時に月林寺から正覚院に寺号が改まった。月林寺時代より平安時代初期の観音像があったみたいで、この木造観音像も県内2番目に古いものらしい。ここ2番目多いな。

観音像の他にも千手観音・薬師如来などもあったらしいが、今はないようだ。寺号より窪寺観音のほうが通じる気がする(私自身も窪寺観音って言われた方が分かる)。

山門をくぐって参道を行くと最初に見えてくるお堂(月光殿)には聖観音が祀られている。玉垣は大正7(1918)年の銘があった。

こちらには平安時代初期の観音像が有り、この観音像が何の観音像なのか(十一面観音っぽかったが違うのかな)ハッキリしないらしい。なので「伝観音像」として指定されている。前身の月林寺が衰退したせいなのか曖昧だわ。そして、その観音像は月光殿に祀られているわけではないようだ。

 

↓ここの左側にあったらしい。

正覚院と月光殿の間の墓地にあったらしい。出入り口がサッシの白いコンクリ造りのお堂があったが、あれがそうらしい…。予備知識なければ分からないと思う。

境内にはこんな供養塔たちも。

そして、高台にもお堂がある。

急な階段だよ。左側が上り。

途中の手すりがおかしくなっている! 手すり自体はびくともしなかったよ!

高台のお堂は円通殿という名前。千手観音が祀られている。

ここも見晴らしが良い。

句碑?

 

お堂の裏は林道だか道になっている。どこまで通じているのか分からない。

こんな感じの古そうな道もあった。

小さな祠もある。天満宮と三島社だった。

少し道を上がってみた。

時々、新幹線の走るグォーという低い音が聞こえてくる。

道はどんどん上にあがっていくが、窪寺城方面ではないのでUターンした。

円通殿の横から、また古そうな道があった。石仏が並んでおり、おそらく階段下にあった西国霊場とかの仏様だと思われる。

でも放置気味なのか倒れたり歪んだり埋まったり。まぁ、行ってみるかーと下りていった。

ガシャンドガッ。というとんでもなくデカい音がした。慌てた大きな獣がいたらしいが、姿が見えない。熊さんではなさそう(さすがに冬眠中じゃなかろうか)、猪かしら…こわーい。
霊場巡りは諦めました。

 

階段は急だし、せっかくだから裏手の道を下ることにした。

車の行き来はあるのか(山の方は畑があるようだ)、轍が残る。

墓地に出た。

山門に戻った。


★☆☆☆☆

人里そばの山の方が獣遭遇率高い気がする、餌が豊富なのかな?

 

 

<窪寺城>

築城年 不明

築城主 窪寺氏