お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

自在神社(自在山)

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目指す予定はこの山の頂上。自在山といい、天狗3兄弟が元々修行していた山である。この綺麗な三角錐のてっぺんには烽火台があった。

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それじゃ大した遺跡じゃないと思っちゃうが、実は出浦城という名前で、ちゃんとしたお城である。ここから自在神社の参道へ入るのが正しいと思われるが、ちょっと先へ行ってみた。

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別の参道から。

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自在神社神楽殿。最初正しい方の参道から来てもココに出る。この神社の奉納神楽は有名らしい。村上一族の支配下の土地柄、御祭神は大己貴命だけど村上義光さんという方も合祀されているという。

村上義光さんは鎌倉時代末期に活躍した武将で、後醍醐天皇の皇子・護良親王の家来さんなんだそうだ。熊野へ落ち延びる際に護良親王をかばい、その身代わりになって死んだ忠義の人という感じになっている。

村上氏は同じ河内源氏ではあるが鎌倉幕府を作った源氏とは縁遠く、ましてや北条氏なんて赤の他人だったため、鎌倉時代を通じて不遇だったようだ。このころ、後醍醐天皇の討幕運動に参加し、護良親王を守り切った村上義光さんの功績により、その後始まった建武の新政信濃国の権益などを認めてもらうことができた。つまり、村上氏中興の祖ということらしい。

また、この神社は村上一族の出身である出浦氏の産土神でもあるという。出浦氏はここの山城の主で忍者らしい。そして修験者が修行していた山でもある。修験者も忍者も変な技?使うし似たようなもんじゃないの? 共存しているのはなんか分かる気がした。

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神楽殿スタートで、今のところは自在山往復(2、3時間くらいか)の予定…今回一人なので制約なし、余裕があるよー。

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石段の先にはこんなものが。

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イノシシよけらしい。かなり大がかりにフェンスで柵を作っているようで、フェンス設置の地図も貼り付けてあった。

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フェンス壊されないよう堀まで。そして長い長い石段。

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ようやく見えてきた鳥居。しかしその先にも。

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石段地獄!

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けっこう上ってきた。

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見た感じ石段古そう。人力のみなら数年かかるくらい?

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石段の途中、向こうの茂みの中に朱色がはげた鳥居が見えた。

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お参りする人も絶えてしまったのか、正式な参道じゃないのか、草をかき分けないと進めない感じ。お稲荷さんらしい。元の道に戻る。

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クッソ長い石段の向こうに何か見えてきた。

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自在神社の奥社だという。

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なかなかの見晴し。ちょうど孤落城・三水城と向かいあう格好だ。

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自在神社奥社。

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天狗さんが修行してそうな崖。なんか子供の守護神にもなってしまったようだ。

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裏の岩山にも石碑とか何かあるという。お参りもほどほどに、先へ進む。

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まずい、松茸山だったかー。捕まったらすんごい額のお金取られそう(松茸山トラブルは半端ないからなぁ)。ただでさえこんな山の中で人間に出くわすの嫌なのに、罰金寄越せと迫るような屈強な男たちに取り囲まれるとか想像したらぞっとする。

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でもちょっとだけ…。

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やっぱり怖くなって逃げた。松茸シーズンが終わると狩猟シーズンが始まり、どこからか鉄砲の音が聞こえてくる、これまた恐ろしい山になってしまうそうだ。入るなら4月5月がいいのかしら?

 

★★☆☆☆

あの崖の上に行ってみたかった…。

 

 

<自在神社>

創建年 南北朝時代

御祭神 大己貴命 村上義光

 

一旦下りて。

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別ルートで頑張れないだろうか、とちょっと思った(そもそも、どこから入っても止め山だからダメなんだがね)。

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自在山沿いを走る。

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青麻神社。比較的新しい神社で、大正13(1924)年に宮城県の岩切青麻山・青麻神社から勧請した天照大御神を祀っているという。このあたりの人は中風に苦しむ人が多かったそうで、青麻神社は中風封じにご利益があるんだそうな。

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左手の崖には祠がたくさん。ここから100メートル上ると薬師如来を祀っている大きな祠があるという。見えず。

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更に山に沿ってうろつくと、こんな場所に出た。

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庄内神社。

この神社裏あたりから自在山への登山道があるらしい。登山道というより鉄塔用の作業道だか林道だか。軽トラ程度なら途中までは上がれるようだ。

 

竜王城

名前かっこいい。「竜王城」でググるドラクエの攻略情報ばかりヒットする。このお城がなんで竜王城なのか、由来は謎です(地名とは全く関係ないし、現地の説明板にあった水神と雨乞いが関係あるかも?)。

 

竜王城に行く途中の看板↓

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どこにも城名がない。名前が派手めだけど、実際は山の中にひっそりあるみたいだし…観光客がイメージ先行で訪れるとガッカリさせてしまうと考えて、案内・宣伝を自粛しているとかなのかー?

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ここから行きまーす。

「林道」なので山の中を走る1車線幅の道。景色も山しか見えない。

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林道とはいえ舗装路、路面状態は大変よくひび割れもほとんどない。頻繁に整備されている様子だが、すれ違う車はなし…。この先に大きなマレットゴルフ場や集落があるようで、そこまでコミュニティバスが通っているという。それでこんなに綺麗なのかー。

道筋でお城は見つかるようだが、よく見ないと分からないとか。だが、うちの車のナビにはばっちりと「竜王城址」の表示が。迷わずに済んだ。

目印はこの看板のみ↓

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この説明板にはお城の来歴が書かれている。

天正11(1583)年、この地を含め北信濃上杉景勝支配下であった。深志城主の小笠原貞慶は猿ケ馬場峠(聖高原)より攻め込んできた。竜王城の城将清野清寿軒は景勝と自分の息子に急報を送り、小笠原軍相手に奇策を用いわずかな手勢(40人)で迎え撃ち、先鋒を撃破。山頂に多数の旗を立て、兵士もいるように見せかけ「景勝様からの援軍いーっぱい」と偽装し貞慶との戦を回避することに成功。

合戦の歴史はこの戦いのみで、この辺りは古い街道もあり川中島の合戦天正壬午の乱で度々合戦が起こっている。天正11年時点では上杉領と徳川領(小笠原領)の境目ぐらいになっているのかなー?

他には書かれていることは。文禄3(1595)年に清野氏が猿ケ馬場峠の留守役(見張り番)を命じられた記録があり、士卒250人を常駐させたと。そして、お城の遺構はなしと。

250人が寝起きした砦があったわりには遺構がない…? ということで、「竜王城そんなものはなかった」と考える人も出てきているようだ。近くにも佐野山城、小坂城というお城があるから、そっちじゃないかという主張。しかし説明板には「2つのお城で250人じゃ狭くて収容できないの、ここじゃなきゃ無理だと思うの」と書いてあった。

では間を取って、佐野山城・小坂城に80人ずつ、90人を竜王城でどうだろうか。見張り番を3交代制とすれば、大きな施設もいらないかもしれない。まぁひょっとしたら清野さんが「竜王城というお城があり250人で守ってる」と盛った報告をしただけかもしれない。

清野さん率いる250人の猿ケ馬場峠守備隊の本拠地は未だに確定されていない。

 

なんか雰囲気としてはコレ↓っぽいかなと思った。

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養和元(1181)年、横田河原の戦い木曽義仲の家来の楯さんが兵士を隠した場所。こちらは進軍中キャンプした場所ってだけのお話だけど、雰囲気はね…。竜王城も隠すだけなら250人いけそうよ。

 

お城周辺↓

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山の中で、ここだけ広く平らになっている。兵を隠すには最高の場所。説明板のある側は平らだが。

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説明板の反対側は郭?みたいなのがあり、よく見ると切岸らしきものも。

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この上にあるという大田原集落へ向かう。

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こんな道。説明板では搦め手(裏門)側だそうで左は山の急斜面、右は急な崖、道はくねってるみたい。

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ちなみに大手側はこちら↓

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説明板のある場所より大手方向。おそらく城の中心あたりで撮った写真となる。お城は扇形のようだ。

 

★☆☆☆☆

なんだかよく分からず…。

 

 

竜王城>

築城年 天正11(1583)年以前?

築城主 清野氏?

構造 山城

 

 

下の佐野集落には佐野薬師という古いお寺さんがあった。ちょっと見た目が神社のようだ。

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元は佐野山医王院という寺号で、御本尊は薬師如来。この薬師如来行基上人(668~749)の作と伝えられている。とすると、このお寺さんは奈良時代から存在しているのかと思ったが。この地にある説明板には一言も触れられていなかった。ただ、「西行法師が訪れている」「横田河原の合戦で兵火に巻き込まれ焼失」という記述があるので、平安時代末期にはあったのだろう。

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劣化で文字読めないけど、西行法師来遊の碑↑

 

そして、ここから佐野山城に行ける。

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丸山城

何かで城があるということを知ったものの、ほぼ予備知識なし(大まかな場所しか分からなかった)が、案外簡単にたどり着けた気がする。実際、条件に合う場所がココしかなかった、というだけで本当に目的の城かどうかは自信なし。

安藤氏(青柳一族)の城(下屋敷とのこと)で、名前は丸山城というようだ。川中島の合戦が終わった後に、安藤氏はよそに移ったため廃城。

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入口は神社の参道。社号標に波閉祥神社とある。読み方は「はべしなじんじゃ」というそうで、読めない名前的にも石柱に延喜式内とあることからも相当古そう。ヤマトタケルさんがこの近くにある「はべしなの峠」を無事に越えられたので、当地に天照大神を勧請したのが始まりらしい。はべしなの意味は「曲がりくねった」だそうで。現在の峠名称は四十八曲峠。この名前からもすんごいグネグネしてそうだけど、2005年に開通した四十八曲峠の下に長いトンネルがあるので、旧道はそれ以来通行止め(二度と解除されない、実質廃道)に。現在はグネグネっぷりを体感できなくなっている。

その四十八曲峠へ向かう山道の入り口に社号標がある。しかし。

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なぜか一ノ鳥居は朽ちたまま?再建されていないようだ。

 

この道をしばらく行くと、見えてくるのがここ。

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あら、ミニチュアの山城みたいじゃーん。見た感じはお城。

郭跡のような場所にお墓が立ち並んでいる。本郭じゃないかと思うところには公民館。

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まずは怪しげな神社から。お名前はというと。

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安藤。

鳥居はあっても神社じゃないのかね、これは。お城の主だった安藤氏を示しているのだろうか。

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社殿の周りは草ボーボー。赤い鳥居と社殿にお狐様がいらっしゃったので、お稲荷さんなのかな?

 

社殿横の階段を上る。

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お墓は所狭しと並んでいるわけでなく、余裕がある。比較的新しい墓地でもなく、江戸時代の元号が彫ってあった墓石もあった。郭だろうと思うけど、ちょっと低い位置にあり山城としては防御が低そう。館としては防御高め、という状況か。

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更に上を目指す。

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公民館到着。

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公民館周辺。

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公民館の後ろは崖。このあたりからも下へ降りられるようになっている。ただし、墓地側よりも急(こちら側は本来崖になっていたんじゃないかと思う)。

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崖の上は何かあるかな?

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何もなさそう。一応、上れるか道を探してみる。それっぽいのは、公民館と墓地の間。

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微妙。まあいいかー。ちょっと行ってみよう。

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やっぱり道はなし。バカ(アメリカセンダングサの種)が付いてしまった挙句に蚊に刺された。撤収。

 

★★☆☆☆

名前もないような小さな丘だが街道監視の目的もあるためか、ちょっと山城っぽくてよかった。あとで地図を確認したら、山頂に向かう階段があり何かの施設があったよ…事前準備は大事ね。

 

 

<丸山城>

築城年 不明

築城主 安藤氏

構造 平城

 

 

 

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四十八曲峠の新道を行き、聖高原経由でまたここにきた。

車のナンバーから東京より遠征中と思しきお兄さんが三脚を立て、何かのシャッターチャンスを待っていた。何を狙っていたか不明。というか、狙うようなものがあるのか…? と思ってしまった。この場所には駐車スペースは二台分しかない。ドライブ中の観光客っぽい車が2,3台来たが、諦めたようで冠着山方面へ走り去っていった。ああ、この場所は有名になってしまったのか、なんか残念。

松代城(真田十万石まつり)

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ちょっと誘われたので真田まつりに行ってみた。今回で61回目ということで、昔からやってるらしい。この手のお祭りはあまり好きではない(とはいえお誘いを断れるような相手でもない)。

まずは鉄砲隊を見に行くことに。

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太鼓門の前では何かやってた。13時からの武者行列の出発地点はココだというので、きっとリハーサルか何かだねーとスルーし、多分鉄砲隊は二の丸のとこでやるんじゃないかと向かう。広いし。

 

二の丸では演武っぽい殺陣のショーが始まっていた。

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隣り合う武田軍と上杉軍。

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武田信玄さんと上杉謙信さんが談笑していた。

一緒に行った人(迷子になった)がウロウロしていたところ、観光客のオバサマが「あのう徳川家康さんですよね? 写真一緒に撮ってもらえませんか!?」とコスプレしてるオジサンに声をかけていた、と報告してきた。そういう感じのお祭りらしかった。

先ほど信玄さんとおしゃべりしていた謙信さんのショーが始まったので見た。上杉おもてなし武将隊というチームだそうで、上越から遠征しているようだった。謙信公がイメージとは違い饒舌でおもしろかった。ショーが終わるとアナウンスが。

「真田鉄砲隊演武はこの後、太鼓門前で開催されます」

まじか、さっきの赤い人たちは鉄砲隊だったのか…と自分の迂闊さにクソッタレと歯噛みした。太鼓門前は行列見たさで陣取っている人が多くいたと思い込んでしまったのが敗因か。だが「ここじゃないんかい」と思った人は私だけではないようで、「ええー向こうか」という声が周りから上がった。そして、ざわざわしながら人間が塊になって移動し始めた。その流れに乗って太鼓門に向かうと、もう人が人が…でいい場所やっぱり取れなかった。

そのどさくさで松代城本丸も閉鎖に。

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真後ろ。しばらく見ていたが、やはり物足りなくなり強引に人をかき分けて歩き、いい場所ぶんどってやった。

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正面だー。

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ばきゅーん。大筒も撃ってた。

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装填中。毎回弾込めるの面倒くさいねえ。

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火蓋切れ―。

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 構えー。

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どーん。

というのを何度もやってくれた。銃火器はいいね、心が躍る。

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ありがとうございました。

 

13時からの武者行列がおすすめらしく(私個人としては、鉄砲隊でもう満足しちゃったのですが)、せっかくならと良いポイントを探して歩く。

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樋口さんちの前あたりがまだ人も少なめだったので、ここらで行列を待つことにした。

 

13時、お城の方から行列が出てきたようなアナウンスが聞こえてきた。それぞれの武将・姫に扮している人を紹介しているっぽい。この通りにはまだ行列がやってこないので、人も集まっていない。時間が経つ、ばらばらと人が現れ始める。

そうこうしているうちに、やってきた気配が。

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昔、戦国モノのゲームやっていたので武将の名前はわりと知ってる方だとちょっと自信ある(しかし何をしたか、どういう人物かなどは分からず。イラストや能力ぐらいしか思い出せない状態)。

先頭は武田兄弟。信玄さんと信繁さんだった。てっきり勝頼さん来ると思ってたけど意外にも。そういえば松代には信繁さんの菩提寺の典厩寺がある。

 

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次は織田さん。

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武将に仮装の人は市長だったり商工会関係の役員か会社社長ばかりのようだ。武将名の書かれた幟に名前と肩書きが書き添えられていた。織田信長役の人は長野市長だった。

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織田さんのあとは、ちょっと間があいた。

 

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徳川さん来た。家康・秀忠親子。

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観光客のオバサマ、よくこれで「家康さんですね」って分かったな。私たぶん「秀吉さんですか?」って声かけちゃいそう。そのオバサマはゴリゴリの歴史マニアに違いない。

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上杉さん。

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景勝さんと直江さん。この2人は常に一緒にいるイメージがある、何故なんだろう。

 

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豊臣家御一行。秀吉さん、秀頼さん、ねねさん、茶々さん。有名な人は来ない、と聞いていたが、茶々さんはリオ五輪銅メダルを掲げていた。有名人が来てるじゃないか。

 

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真田さん。真田家は二手に分かれており、こちらは昌幸さんと信繁さん。ちょっとテレビ見すぎの同行者は「昌幸、毛皮着てない」とブー垂れていた。恥ずかしい。

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誰? 有名な女人なの?

同行者によれば、長澤まさみが演じてる役だとか。みんなテレビ見すぎよ…。

 

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松代藩次席家老だという小山田さんと、その妻・小松殿(昌幸さんの娘)。

 

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こちらは「戦国武将あこがれ隊」という、趣味でコスプレしている参加者たち。甲冑コスプレも奥が深く、時々特集組まれたりして見聞きする。お手軽に段ボールなどの紙から自作する人もいるし、こだわってプラスチック板(段ボールじゃ歩くときガシャガシャ音ならないし、鉄っぽく見えるように熱で曲げたりできるから)を加工して作ったり陣羽織の素材を革や織物などこだわったり。兜だけでもウサ耳だとかビヨーンと馬鹿みたいに細長い奴とか、いろんな種類があるらしいし。はまり込むと大鎧を自作することもあるらしい…恐ろしい世界だー。

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先ほどの謙信公。

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上越は良いところじゃ、そちたちも参れ。待っておるぞ」とおっしゃっていました。

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上越から遠征の謙信公に限らず、あちこちから遠征軍が来ているようだった。上田とか小諸とか。

 

時代は少し下って、大名行列になった。

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「したにーしたにー」の御侍様。

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奴さんのパフォーマンス。

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そして本物のお殿様登場。現在は誰でも知ってる有名大学の教授だそうな。本当に住む世界が違うんだ、と思ってしまう。

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お殿様騎乗の馬が一番きれいな馬だった。

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徳川さんの家来の本多さん。娘の小松殿、小松姫の娘まん。

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 行列自体は松代町内をぐるーっと回ってお城へ戻ってくるけど…私はこれで撤収です。

 

 

★★★★☆

お城には入れなかったものの、思ったより武者行列が長く続いて驚いた。

 

 

第61回松代藩真田十万石まつり 2016年10月8日

屋代城+屋代氏館

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この半ば隠れているような、ひっそりしているお地蔵さまが長い間気になっていました。

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これのせいかね? この記念道路を見守るお地蔵さんなのかね?

裏に大正4年11月と刻まれており、どうやら大正天皇の即位を記念した道路みたいだが…杏で町おこししてる森に続く、こんな道↓

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この付近には、屋代城への上り口が。前回は別ルートで本丸のみ見に行ったが、今回は正式な入口から行けるところまで行ってみよう、と。

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上る前に周りを観察したよー。入口左横奥は平場が。

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こちらにも謎の石碑があった。顕彰碑らしい。市川なんとか山先生とか本村佐五郎さんとか…もちろん誰だか分からない。本村さんのほうはともかく、市川先生は樹木に覆われてしまっており目立たない状況。

この平場は兵士さんの詰所みたいになってたのかなー? と思った。

上にあがってみる。

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石段を上った先にはお堂があった。

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一重山不動尊という。明治18(1885)年に千葉から成田不動尊を勧請し、そういう名前になったようだ。成田不動尊は歌舞伎の世界で成田屋の屋号を持ってるあの一家が信奉している成田山新勝寺のことらしい。明治18年以前は「山ん堂」と呼ばれていたようで、鼻取り地蔵なるお地蔵様を祀るお堂だったようだ。

説明板に書かれている話によれば、雨乞いの地蔵である。日照りになると鼻取り地蔵をお堂から引きずり出して五十里川の念仏土井というものに投げ込んでは「雨降れ」と祈願したという。石仏だそうだが度々放り込まれるので、鼻がそげ両手はなく体もボロボロになってしまったという。鼻がないから「鼻取り地蔵」という名前になったようだ。高さ60cm・幅40cmというからそれなりに重そう。神事とはいえ、毎回石仏落とす→拾ってお堂に戻す、っていうの大変だねー。まぁ、人間を落とすよりは良心的か。お地蔵様は天正3(1575)年にこちらに安置されたと言われている。

↓一重山不動尊からの景色。

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一重山不動尊の横から更に続いていく道。

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遊歩道はコンクリ敷き。整備されており、非常に歩きやすい。

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宝暦7(1757)年の石碑。奉納大乗なんとか…。

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御嶽神社。数年前噴火した御嶽山への山岳信仰に基づく。天地開闢のときに現れた日本初の神・国常立尊、国譲りの神様・大国主大己貴命)、大国主の国づくりを手伝った小さい神様・ 少彦名命の3柱を主祭神としているようだ。

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これなんだろね? 頭ないし。

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ときどき郭跡のようなものが現れ、そこはすべて墓場になっている。ちょうどお彼岸だったので墓地周辺は綺麗に草が刈られていて歩きやすかった。

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途中で郭が3段になっている場所もあった。もちろんお墓がいっぱい。

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細長いお城なので…尾根上を進む道と郭跡を利用している墓地や神社以外は斜面となっている。それも、わりと急な。

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まだまだ道は続いているよー。

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右・休憩所?

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何か見えてきたぞー。

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矢代神社。屋代城で一番大きな郭である。北側の防御の中心となっている郭らしい。見晴しもいい。

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ここも草を刈ったばかりらしい。

この先の道は左かなー? 右かなー?

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右側↑

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左側↑

左が正解のようだ。が、綺麗に草を刈ったのは矢代神社まで。コンクリ敷きも矢代神社の鳥居まで。この先の道はあるものの草が伸びている。一人なら問題なく歩けそう…しかし子供は無理だなぁ。この先採石場もあるしな、ということで引き返した。

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すぐ先に慰霊碑→堀切→郭→堀切→郭(馬の背と呼ばれ、急に下り斜面になる)→採石場(虎口があったらしい、今は遺構なし)→上り急斜面→郭→堀切→郭→堀切→郭→堀切→郭→堀切→郭→本郭という長い道のりが待っている。前回のように初冬か春先に本郭へスルッと上って4つ目の郭辺りまで下りたほうが満足しそうだし、絶対楽だわ、と思った。

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一重山不動尊まで下りてきた。

せっかくなので、屋代城の真横を歩いてみることにした。

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ちょうど一重山に沿って細い道があったので。

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横っちょは崖。攻められませんねー。

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何かの遺構? と思ったら墓地予定地。

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何かあるぞ! と上ったら。

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墓地でした。この山、墓だらけじゃーん。

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もういいか、と引き返す。

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↑一重山。今回は右端の部分まで行けたか行けないか(たぶんそこまで行けなかったかなー?)。一番高いとこが本郭跡になると思う。

 

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反対側に回る。

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満照寺というお寺さんがある。このお寺の開基は屋代政国で、お寺の名前は政国さんの爺さんの名前・満照から取ったそうだ。屋代氏は村上一族であるので、お寺さんの屋根には「〇に上」の家紋がばっちりついていた。

ここが屋代氏の居館跡と言われている。

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このすぐ後ろに屋代城本郭がある。昔はこのお寺から本郭へ行ける小道があったとか。

 

 

★★☆☆☆

邪道かもしれんがやっぱり本郭からいったほうがよい、というのが分かった。

道のり長いよぅ。

 

 

<屋代城>

築城年 永正~天文年間(1504~1555)

築城主 屋代氏

構造 山城

麻績神明宮

麻績神明宮という神社、去年も来たけど改修工事中だった。1年たてば終わっているだろうと思い、お参りに行ってみた。

結論からいうと、まだ改修工事終わってなかった。いつ終わるのか…調べては見たけどちょっとよく分からず。2011年に文化庁の視察があったこと、その後に改修工事の予算がつきそう、という記事を見つけたが、それから5年。改修はまだ1年くらいかかるのかねぇ。

この神社の5棟の建物が国の重要文化財に指定されており、改修しているのはそれら建物らしい。

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拝殿や本殿は修復済みのようだ。

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「改修に差し障りがある」という理由で大杉を一本伐採したとのこと。拝殿と本殿の間に生えていたようだ。切り株のみがドーンとあるので、ちょっとびっくりした。さすがに取り除くことはしないのね。切り株の奥が本殿です。

 

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仮殿。こちらも改修済み。今回のように本殿を改修したり、あるいは新しく建て直す場合、神様にお移りしていただく場所。長野県内では仮殿が独立している神社はココだけ、という感じで珍しいものだそう。本殿と同じ形式のもので(本殿と違い、拝殿がない)素朴な印象。

ここはとても古い神社。神明宮は天照大神を祭神とする。数年前、伊勢神宮式年遷宮があった。ここと同じく(あたりまえだけど)本殿の建築様式は同じく神明造り。伊勢神宮は行く機会があったものの、その時の同行者に一人ひどすぎるのがいたため断ってしまい、まだお参りに行ってない。けど、麻績神明宮は伊勢神宮と同じ種類の建物ならお伊勢参り気分に浸れるね。

本殿の裏は森だった。

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昔からこんな感じの雑木林なんだろうな、と思わせるなんとなく人の手が入ってる風の森。遊歩道があったがどこへ連れていかれるのやら?

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途中で行き止まりじゃないの? と思って止めた。スタート地点こんなん↑だし。

 

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摂社たくさん。さすがは古い神社。

 

麻績神明宮は、長暦2(1038)年に麻績御厨が成立したことで創建された。御厨は神様の台所→神様へのお供え物を供給するための土地を意味し、このあたり一帯が伊勢神宮の荘園となった。伊勢神宮の土地なので、当然のように伊勢神宮から天照大御神を勧請し、この地に祀って麻績神明宮ができた。

地元の川中島の御厨も大きそうだったけど、麻績御厨が信濃国の中で一番規模が大きかったようだ。そもそも「麻績」って初見で読めないくらいだし、麻績御厨が成立する以前から結構古くから人が住んでる豊かな土地だったんじゃないのー? と思うけどどうなんだろ?

麻績の意味は「青麻(あおそ)を績むこと/績む人」らしい。「青麻を湿らしながら指先で細かく裂いて、よってつなぐ」=績む、となり、どうやら麻から糸を紡ぐことを指しているようだ。言葉自体は万葉集にも出てくるので、古代では重要な産業だったのかもしれない。

ここは麻の産地だったんだな、と分かった。麻で作った布は平安時代頃には信濃布と呼ばれていた程で、一大産地だったようだ。「信濃布」とは元は国名の由来でもある科の木の繊維で織られた布を指していたようだ。麻もよく育つためか、麻布(当時は高級品)も生産されるようになり、信濃の年貢はほぼ布で納められたとか。信濃国東山道が走っているし、麻績も東山道支道が通っているので国に納税するにも便利な場所。調布(租庸調という税のカテゴリのうち調は繊維製品を指す)2万反、庸布(成人男性に課せられた労役の代わりとして布を納めた)4万反、商布(交易用の布)7500反を国に納めていたそうな。古代では1反を幅9寸5分(約29cm)~1尺(約30cm)、長さ2丈8尺(約8.5m)~3丈(約9.1m)としていたようだ。

 

神社の歴史は古いが、建物は江戸期のもの。

本殿:貞享元(1684)年

仮殿:宝暦10(1760)年

拝殿:天保11(1840)年

神楽殿:元禄11(1698)年

舞台:天明3(1783)年

この5つが重文で、改修が終わっていないのが神楽殿と舞台。ブルーシートで覆われていたので中身はあんまり見えなかったけど、一旦バラして組み直すっぽい。なんか意外なものでも発見されたら面白いのにな…沖縄のお城跡みたいに3~4世紀の古代ローマのコインが出てくるとかさ、うわーってなるよ?

 

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二ノ鳥居付近。たまにこの手の橋を神社で見るけど、けっこう渡りづらそうよね。無理して作らなくても、とつい思ってしまう。神事に関係あるとかなら仕方ないのかー。

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修復中の舞台(ブルーシートの向こう)と境内を示すお堀。お堀にはでかいカエルがうろうろしてた。

 

 

 ★★★☆☆

改修工事さ、いつ終わるのよ…?

 

<麻績神明宮>

創建年 長暦2(1038)年以降

御祭神 天照大御神

 

 

 

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一ノ鳥居と二ノ鳥居の間にある祠群。何を祀っているのだろうと気になり、この祠を見て回る。江戸時代の元号天明や文化など)の日付、名前+官職名、年齢が彫ってあるものもあった。なんなのこれは? と考えたが。名前、すべて同じ名字だった。

つまりはここの神主のお墓? 神道式のお墓というのは見たことがないし(ぐぐってみたけどこんな形じゃなかったぞ)、神社の境内ではない(境内に祀ると神様になってしまうんだろうか)けど隣接した部分に葬るのだろうか。神主さんたちが奉納した祠とも考えたけど、じゃあそれが境内に入ってない理由がよく分からない。…えええーやっぱりお墓?

青柳氏館+青柳宿

本来の目的地→青柳城

リベンジをしようと思ったが、諸事情(主に怖がられた為)で奥への探索を諦める。

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クマよけなのか、イノシシよけなのか分からないが、ゲートができてた。「開けたら閉める!!!」的なことが書いてあったので。私もコレにビビった。なんだか怖いよねえ(しかも天気があまり良くなく、ちょっと降りそうだし)。

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写真を振り返って見ても、特に怖さはなさそうだが…仰々しいゲートのせいか?

 

せっかくここまで来たので、何も見ずに帰るのもなんかなー? と思ったので。館跡のほうを見に行くことにした。館跡は集落に残っているらしい。

ここの集落は「青柳宿」として多くの旅人が行き交う宿場町だった。地元のボランティアさん作成なのか、↓の地図を配布していた。

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青柳宿に犬がいない理由が気になるー! 地図の内容から察するに、お狐様のたたりを恐れてかしら?

調べてみると、お稲荷さんの狐が昼夜3回見回りしてくれているので、この地区には災難がない。と言い伝えが残っているのだそう。なので、お狐さまに害を与えぬよう犬は絶対飼わないというお話。3匹の狐がそれぞれ1日1回づつ見回りしてるのかねー。

お稲荷さんの狐というので、3匹の狐のボスは里坊稲荷神社のおじょろさま狐になるのかも? おじょろさま狐って名前的に女の子っぽい。小女郎様→おじょろさま? この里坊稲荷神社では7年に1度、「狐の嫁入り」という、文字通り狐の嫁入り行列を再現する伝統のお祭りがある。花嫁の狐がでかい油揚げを咥えて嫁入りする、このあたりでは奇祭として有名らしい。御柱の翌年開催ということで、じゃ来年やるのかな?

 

地図を手に、駐車場を探しつつ細い道を走る。

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目的地は畑と畑の間の細い道の上にあった。「寺小路」という名前の道は細いが、駐車場はばっちり準備されていて、車を停めるのも楽々。駐車場が侍屋敷跡らしい。その他の区画も田畑や空き地ばかりなものの、綺麗に分けられているので元は何かの建物とかあったのかな?

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一本道をずーっと上がった、突き当りにこんな石碑が。地図によると現在は「清長寺」というお寺さんになっているようだが? 周りに民家が全くないので、とてもさみしい場所に思える。

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この清長寺さんは青柳学校という学校も併設されていたらしい。明治7(1874)年に清長寺を借りて学校としたものの、当初から手狭だったようで翌年には校舎を新築して改めて開校したという。後ろの白壁の建物がそのとき新築したものっぽい。明治19(1886)年には廃校となった。せっかく新築したのに、短い命だったな。

 

清長寺は、天正元(1673)年に青柳頼長の創建。元は少し離れた場所(前述の里坊稲荷神社)にあったが、青柳氏を滅ぼした小笠原氏が青柳氏の館跡に移したものという。頼長さんの父・清長さんの菩提寺ということで、その名をとって「清長寺」という。

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お寺は石垣の上に建っている。

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まったく読めず。

 

さてお寺さんは↓

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おしゃれな鐘楼。ただし戦時中、鐘を供出してしまいその後は鐘なし。

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廃寺じゃないですか…。しかし名前も地図に残されているし、裏手に墓地も残っていたので、単に住職がいないだけなのか? 大昔流行った「杉沢村」思い出しちゃった。中を覗く勇気はないものの、廃屋自体は好きよー。

奥の墓地には清長さん・頼長さんの奥さまのお墓があるそうです。清長さんと頼長さんのお墓は碩水寺にある。清長寺は碩水寺の末寺にあたる。

↓前回見に行った碩水寺

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ここからも青柳城への登山道があるが、少し荒れてる? 上にも駐車場もあるし、わざわざ登っていく物好きな人もいないよね。

 

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侍屋敷跡(駐車場)より見た青柳氏館跡。木がボーボーだー。

 

さて、青柳宿。

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栄えた雰囲気のある宿場町。↑は本陣・問屋跡の青柳家。元領主の青柳家は江戸時代にはここに住んでいたようだ。元は青柳氏の城下町として発展したらしく、慶長年間(1598~1615)に松本城主だった小笠原秀政善光寺街道を整備したときに、ここを宿場と定めたみたい。青柳宿の長さは東西約600m。善光寺長野市)側で左に曲がるが、その折れた辺りの「横町」という地区を含める。家数は89軒という。

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真ん中が善光寺街道。両側の家々は新しいものもあれば往時を偲ばせる古民家もある。公民館らしき建物もあった。ほぼすべての建物の玄関に屋号の札がかかっていた。

この宿場町の特徴として、こんなものが。

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石組用水路と呼ばれるもので、坂道に並ぶ家の生活用水路らしい。地図を見ると、ちょうど坂の上に川が流れていて、そこから取水しているようだ。下にも川があり、石組用水路と接続しているように見える。町内にはこの他に井戸4、湧水1、鉱泉2と山の中とは思えない水資源の充実ぶり。このあたりは山の中で平らな土地を確保することが難しかったらしく、このような石垣を作ってその上に屋敷を建てたらしい。なんか…相当お金持ってた匂いのする村だねえ。うらやましい。

横町を更に進むと、もう一つ名所がある。

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切通し。削り跡も生々しい。路面に近い下の部分は昭和30(1955)年に適当な感じで削ったもので、他はノミを使い人力で削っている。切り開かれた年は天正8(1580)年、領主の青柳頼長さんによる。元禄11(1698)年の記録では「長さ約25.15m、横2.58、高さ3m」という規模。これが享保元(1716)年、明和6(1769)年、文化6(1809)年、昭和30(1955)年と拡張されてきた。現在は「長さ27m、幅3.3m、高さ6m」。

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軽トラでちょうどいいサイズかなぁ?

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この切通の両側あちこちに「磨崖仏」が。ここの崖を削ったり、露出している岩を彫刻して仏の姿を造る。石仏とは違う、磨崖仏は移動ができない。十数年前にタリバンバーミヤンの大仏を爆破したが、あれの小さい奴がここにはいっぱいある、ということです。

右側上部には普請記録と馬頭観音、周辺には百体観音が安置されていた。とあった。

この切通しは「大切通し」といい、道の先の麻績村側に「小切通し」があるとのこと。

宿場町は見どころが多く、全部回りきれなかったわ残念。

 

 

★★★★☆

青柳氏館よりも切通しのほうが見ごたえあった。

 

 

<青柳氏館>

築城年 不明

築城主 青柳氏

構造 平城