お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

福島城

須田城から近いので、福島城にもちょっと寄ってみた。

f:id:henrilesidaner:20160911112540j:plain

ここは昔の宿場町「福島宿」である。この場所は千曲川の渡船場と北国街道の脇道(松代道)・大笹街道という2つの街道が交わる交通の要衝であった。松代道はその名の通り松代を経由する道、大笹街道は長野県須坂市福島から菅平高原を通り群馬県嬬恋村大笹を結ぶ道(冬季閉鎖するらしい)。ここから大笹という場所に向かうので、大笹街道と言われている。逆に群馬側からは信州街道・仁礼街道(福島宿の隣の仁礼宿から)と呼ばれる。

昔の物流は宿場町から宿場町へ渡す、という仕組みだったらしく。宿場町についたら荷を渡し載せ替えて、次の宿場町へ向かわせるというリレー方式。料金は宿場町間毎にかかり、同じ行先でも宿場町の数が少ない街道を通ったほうが配送料が安く上がる。北国街道の沓掛宿から沓掛道(沓掛宿と大笹宿を結ぶ)・大笹街道経由なら3つの宿場町を通過するだけで着く。沓掛宿よりさらに北国街道を進むと12つも宿場町があるようだ。善光寺や松代に物資送るにしても大笹街道使った方が断然安い。そのため荷物が大笹街道経由でガンガン送られるようになり、北国街道筋の宿場町の関係者に「大笹街道廃止しろ」と裁判起こされたりもした。揉めに揉め裁判合戦にまで発展したり。

しかしながら幕府が整備する高規格道路・北国街道より格が落ちるため宿場町としては少し地味な様子。現在重伝建地区に指定され昔の面影がそのまま残っている旧宿場町、海野宿や奈良井宿に比べれば、賑々しさは感じられない。

 

松代道は慶長16(1611)年に松代藩主だった松平忠輝より整備されたという。幕府が同じ時期に整備した北国街道の丹波島の渡しが増水で船を出せなくなること(川留め)が度々ある難所で、松代道はその迂回路として成立した。福島宿の渡し場(布野の渡し)は滅多に川留めにならず、便利だったらしい。江戸時代以前では布野の渡しルートが正式だった時期もあるそうで、そのくらい信頼感ある渡し場だったようだ。だったら松代経由を正式ルートで採用しとけ。と思うけども。それが出来なかったのは大人の事情があったのかしらね…。

大笹街道の方も、戦国時代に一部が真田氏の軍用道路として使われていたこともあり古そう。長野・群馬の県境にあたる鳥居峠嬬恋村にはヤマトタケルの伝説が残ってるとか…古代から続く由緒ある道なのかも。

 

福島城は、須田城から須田氏が移ってきたときに作られたとされる。立地はともかく、お城としての機能など須田城のほうが良かったかもしれない。引っ越しは臣従した武田さんの指示だったのかも。

現在はこんな場所↓

f:id:henrilesidaner:20160911112534j:plain

左側のコンクリ柱には「福島居館跡」とうっすら書いてある、もうボロボロな木の杭があった。背の低い記念碑のほうが新しく立派で、説明文も添えられていたた。

f:id:henrilesidaner:20160911112538j:plain

これによると、弘治年間(1555~1558)から天正13(1585)年までの約30年間、この場所には福島城が存在していた。

こういう場所なので↓

f:id:henrilesidaner:20160911112536j:plain

お城っぽいものはなにもない。ちなみに、中央奥へ伸びていく道が「大笹街道」である。果樹園・田んぼばかりの普通の田園風景。

f:id:henrilesidaner:20160911112535j:plain

f:id:henrilesidaner:20160911112539j:plain

なんと長閑な。須田城より移ってきたときもこんな感じの風景だったのかねえ。

福島城はお城っていうより街道の見張り小屋みたいなもんだったのかな。須田城よりもずっと規模が小さいと思う。記念碑のある果樹園と、道路を挟んだ向かいの田んぼが福島城のすべてらしい。

 

戦国時代に信濃侵攻してきた武田方の配下になった須田城の須田さん、武田滅亡後は上杉さんに従うが、天正13(1585)年に真田昌幸さんのお誘いを受け徳川さんの家来になろうとする。これに気づいた上杉景勝さんが福島城を攻め、この系統の須田さんが滅亡。福島城もそのまま廃城になった。

というか、こんな場所の城など攻められたらひとたまりもないな、と素人でも思う。攻め込める場所多過ぎよー。須田城だったらまだ少し戦えたかもしれない。

 

福島城だったはずの場所の真ん中には、大笹街道が走っている。廃城後に道を通したのか、はたまた凹を逆さにした(奥行きのある櫓門+左右に多門櫓の)ような建物だったのか。

城跡付近は微妙な高地になっている、というけど。考えてみれば堀も土塁も残ってない。何度か区画整理が行われているそうだが、記念碑を建ててるのに遺構が全くない状況も何か…あっ元々なかったのか? と疑ってしまいそうな。

福島城は須田信頼さんという方が築城したと言われている。実際このお城に入城していたのは信頼さんの息子・信正さんだという(信頼さんの動向は謎)。ここで景勝さんに滅ぼされたのも信正さん。須田城が廃された年は天正13年ではなくもう少し後なので誰か入城していたはず。大岩城の須田さん(上杉家NO.3の須田さん)は当時真田昌幸さんが徳川氏から離反してきたときの交渉役を務めており、海津城将であったという記録がある。なので須田城にはいなかった。

ホントの本拠は須田城と麓の須田館だったのかもー、当主は信正さんじゃなくて信頼さんだったのかもねーと妄想しました。真田昌幸から徳川に寝返るよう誘われた時に応じたのが信正さんだけで、信頼さんが乗らなかったから須田城は助かったのかもしれない。などと色々考えると楽しい。

 

 

★☆☆☆☆

住宅地の中にあるお城跡たちよりも、ずっと遺構が少ない。やっぱり見張り小屋の類だったのかも…。

 

 

<福島城>

築城年 弘治年間(1555~1558)

築城主 須田信頼?

構造 平城

 

須田城

ちょっと山に登ってみたくなった。今回のぼるのは須田城。 

f:id:henrilesidaner:20160902132511j:plain

この山の頂上にある。山っていってもかなり標高は低く、お城まで行くのにあんまり時間はかからないらしい。

今回の入口↓

f:id:henrilesidaner:20160902132512j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132513j:plain

右手のお寺さんは興国寺。しばらく興国寺さんが管理する墓地を通る(でも遊歩道になってるはずなの)。左はテニスコート

先客がいらっしゃった。先客のおじいさんは足が速く、だいたい同じくらいに遊歩道を歩き始めたにもかかわらず、あっという間に見えなくなる。

f:id:henrilesidaner:20160902132514j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132515j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132516j:plain

出た、分かれ道。須田城はまっすぐ、臥竜山方面の右に曲がると、堀切跡を利用した橋があるようだ。おじいさんは遠目で右の臥竜山方面に曲がったが、私はそのまままっすぐ。

f:id:henrilesidaner:20160902132517j:plain

石段が現れたー。

f:id:henrilesidaner:20160902132518j:plain

石段をのぼると、途中で右曲り。しかし、まっすぐの道もあった。なんだ、この道は? 石段できる前の古い道か? と歩を進めたが。

f:id:henrilesidaner:20160902132519j:plain

石仏が2体あった。で、道は分からなくなった。

元に戻る。

f:id:henrilesidaner:20160902132520j:plain

石段の先には先ほどの看板にあった阿弥陀堂と思われる建物が。

f:id:henrilesidaner:20160902132521j:plain

そして、さっきのおじいさんにまた会う。きっと石段を歩きたくなかったから、大回りしてきたのかな? ここまでの別ルートがあったのか。おじいさんは引き返し、おそらく臥竜山のほうへ消えていった。こちらは更に奥へ進む。

f:id:henrilesidaner:20160902132522j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132523j:plain

また石段、その先に何かある。

f:id:henrilesidaner:20160902132524j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132525j:plain

須坂藩第13代藩主・堀直虎(1836-1868)公霊廟、だそう。堀氏というと、信長さんに仕えて有名になった、なんでもこなせる名人の堀さんと同じ苗字だし、子孫かねえ? 調べたら、その名人さんのいとこの奥田(のちに堀姓)さんの子孫にあたるようだ。

堀直虎さんは幕末の大名で、大リストラやって須坂藩の財政再建に成功したり、早い段階で須坂藩に洋式軍制を取り入れたり、と革新的なお殿様だったらしい。その功績で外様の小藩主にも関わらず、外国総奉行という幕府の要職に就任。慶応4(1868)年に江戸城で自殺したそうな。時の将軍・徳川慶喜様に諫言した直後に、自害とかなんとか…。時系列としては、

慶応3(1867)年10月14日 大政奉還

          12月 5日 堀直虎若年寄兼外国総奉行に就任

              9日 王政復古の大号令徳川慶喜、政界を追われる)

慶応4(1868)年 1月 3日 鳥羽伏見の戦い始まる

              6日 徳川慶喜、逃亡(江戸到着11日)

             17日 堀直虎江戸城内で自殺

で、かなり展開が早くてクラクラしそう。

慶応4年1月に堀さんは江戸にもどった将軍に謁見し「敵前逃亡よくないし、しかも家来を見捨てて帰ってくるとかさ」と怒ったと言われている。その説教に耳が痛くなった慶喜様は席をぷいっと立って出ていってしまった、そして堀さん切腹。という経緯らしい。田舎から立身出世した30代前半の男が幕府高官になって1か月半、上司の将軍(将軍様も30代前半)と喧嘩して自殺か…凄い時代だ。なんか私、大政奉還したときの徳川慶喜って50歳前後のオッサンだと思い込んでた、意外と若かったのね。

この霊廟も、須田城の郭跡地に建てられているようだ。

 

f:id:henrilesidaner:20160902132527j:plain

この看板では、この先一本道で須田城にたどり着きそう。

f:id:henrilesidaner:20160902132528j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132529j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132530j:plain

道が…そこらじゅうで枝分かれしているのですが…。とりあえず景色の良さそうな方向へ向かおう…こんなしょぼい山で迷子になんかならないさー。

f:id:henrilesidaner:20160902132531j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132532j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132533j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132534j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132535j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132536j:plain

眺めが良い感じになったところで、また高台へ上る段が現れる。

f:id:henrilesidaner:20160902132537j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132538j:plain

予想では、この上が須田城主郭かな。のぼってみる。

f:id:henrilesidaner:20160902132539j:plain

当たりだーやったー。「ぐるっと1周コース」と「のんびりロマンチックコース」があったらしい。自分はどっちのコースで来たのやら? あちこちで道が分かれていたのはそのせいなのか。

f:id:henrilesidaner:20160902132540j:plain

何かの建物跡。

f:id:henrilesidaner:20160902132541j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132543j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132544j:plain

↓主郭のすぐ下に桝形の跡があるらしい。

f:id:henrilesidaner:20160902132545j:plain

桝形は主郭と二の郭の間に作られていた。二つの高台から一斉射撃し、下まできてる敵兵を桝形で一網打尽にする、という戦略らしく。確かにここから下の方は見やすかった。このお城の見どころは桝形らしいが…行くのはちょっと嫌な感じがしたのでやめました(主郭直前でヘビに出くわしたのよね)。

 

設置されている説明板によると。ここは須田さんのお城で、大岩城の出城ではなかったか、と推定されているそうな。言われてみれば、狭いし本拠城ではなさそうな感じは確かにする。山城はこんなもん、と言われても私は納得してしまいそうだが。 

f:id:henrilesidaner:20160902132542j:plain

祠? 屋根と台座しかない。

 

須田さんというのは、平安時代須坂市井上に土着した井上氏の分家とのこと。井上満実の子・為実を祖としていると伝わる。

井上さんは信濃源氏の中で最も早く信濃に土着した家系で、源平合戦の頃には北信濃における源氏の代表格であったらしい。横田河原の戦いでは木曽義仲の軍に参加したが、上洛にはついていかずに源頼朝の軍に入っていったようだ。そのせいで代表格扱いなのだろうか。ただ、頼朝軍に加入した当主は頼朝に怪しまれて殺されたり、その後も武士団を上手く作れず、弱体化してしまったようだ。信濃から他国に引っ越す者も出て、日本各地に井上氏の子孫を名乗る一族が散ったとか。

須田さんは井上さんの分家でありながら、衰退した井上家をよそにどんどん発展していった。須田郷に攻めてきた井上氏を逆に打ち取ったという記録もあるらしい。その後も井上領を奪ったりして、大きく成長していった。

この須田城は大岩城の出城だったかも? と書いてあったが。須田さんは須田城を本拠とする系統、大岩城を本拠とする系統に分裂した。両須田家は当時勢いのあった村上さんの傘下に入る。が、村上さんも武田さんに負けて越後に亡命してしまう。大岩城の須田さんも越後に亡命したようだ。須田城の須田さんは居残り→武田さんの家来になったらしい。よく見るパターンだ。武田さんの家来になった後、福島城という城をつくり、そちらに移ったとも言われる。

須田城の須田さん、武田家滅亡後には上杉景勝さんに従った。しかし天正13(1585)年、徳川に臣従していた真田昌幸の誘いに乗って、徳川に内応した。と上杉に攻め滅ぼされたという。その後の須田家は大岩城の系統に統一されることとなった。

 

須田さんは上杉さんの家来として大活躍した。天正16(1588)年時点で須田さんは上杉家NO.3の座におり、須田満親さんは豊臣秀吉から豊臣姓を賜うという名誉に浴した。が、満親の長男は失脚し、上杉家から追放される。満親さんの跡をついだのが次男の長義さんで、この人は地味に凄い。

徳川家康会津征伐に呼応した最上軍(+伊達さんが出した援軍)が北から上杉を攻めた(徳川軍は関ヶ原に向かったので挟み撃ちにはならず)。関ヶ原の戦いが最上・伊達の属する東軍勝利で終わり、上杉さんは最上さんに敗れ、戦闘は終わったものの。伊達政宗さんは「ついでに領土を奪おう」と自ら軍を率いて上杉領に侵攻。

この時、須田長義さんは梁川城の城主となっていた。この梁川城、元々は伊達家のお城だった。伊達政宗初陣の時の伊達軍拠点であり、正室の愛姫さんがお輿入れの際の受け渡し場所だったりと思い出がたくさんのお城。なので長義さんは「絶対ここにくる」と思っていた。しかし伊達軍はお隣・福島城(←福島県福島市にあるお城。現在は福島県庁)に向かってしまった。長義さんは軍備を完璧に整えていたので、お隣にいった伊達軍を追いかける。福島城にいる本庄さんにも連絡して、伊達軍を挟み撃ちにした。で、伊達さんぼろ負け。政宗は悔しかったのか、その後もたびたび福島城を襲いにきたものの、上手くいかず。じゃあ、ということで梁川城を落としにきたが、やっぱり負けた。3,4回ほどの襲撃全部で負けてしまい。結果的に不問に付されたものの、この戦闘が家康に無断で行われた為、政宗の恩賞は少ない。(偉そうだったり、調子に乗った)有名人が無名の小物に負ける話、私は好きです。「バーカ」とか思います。

綺麗なアゲハチョウもいましたよー。

f:id:henrilesidaner:20160902132546j:plain

眺めはこんな感じ↓

f:id:henrilesidaner:20160902132547j:plain

↓主郭から階段下りて見上げる。たかーい。この上から矢を射かけられても、見えなさそうだー。

f:id:henrilesidaner:20160902132548j:plain

ここから「あずまや」を目指してみる。

f:id:henrilesidaner:20160902132549j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132550j:plain

今まで以上に道が入り組んでいる…。ところどころ広い場所もあり、そこからまた道が分かれていったり…地図が欲しいです。

f:id:henrilesidaner:20160902132552j:plain

このあたり一帯には天明年間(1781~1788)に整備された「臥竜山百番観音」というものがあり、全部巡れば功徳があるよという霊場みたいになってるらしい。最初に見た石仏も、霊場に散らばった観音様の一部だったようだ。ひょっとしたらこの「臥龍山百番観音」を作ったために少し改変されてしまってるのだろうか。

↓こういう石仏が点在。この石仏の場所は二の郭だそう。

f:id:henrilesidaner:20160902132551j:plain

もう少し行くとまた開けた場所が見えた。

f:id:henrilesidaner:20160902132553j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132554j:plain

あずまや到着ー。ここは主郭の半分くらいの広さかな? 主郭から見えるのは本家の井上領や、武田家が進軍してくる方角。こちらはそれとは逆方向の眺め、上杉家の進軍してくる方角が見渡せた。

f:id:henrilesidaner:20160902132555j:plain

あずまやを過ぎると、下り道のみ。が、ますます道が増えてる感じ。

f:id:henrilesidaner:20160902132556j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132557j:plain

池が見えてきた。池に向かって進めば出られる(はず)。

f:id:henrilesidaner:20160902132559j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132600j:plain

なんだかじめじめした、ちょっと気味の悪い場所…。日が当たらないせいなのだろうか。

ちなみに、私は裏から入ったと思っている。こちら側が敵さん攻めてくる設定になっていると思われます、というのも私が入った側には天然の堀になりそうな川が流れていたので。敵さんあんまり攻めてこないでしょう、なのでちょっと手薄でのどかな雰囲気だった。日も当たるしねえ。

f:id:henrilesidaner:20160902132601j:plain

こちら側には、薄暗いけどBBQ会場にできそうな細長い平場(後で調べたが、帯郭というやつかもしれん)があった。やはり防御施設とかの遺構はこちら側のほうがたくさんあるようだ。

f:id:henrilesidaner:20160902132602j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132603j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132604j:plain

つづら折りの道を下りてきた。この道にはなんと。

f:id:henrilesidaner:20160902132605j:plain

塹壕があったらしい。何気なく下りてきたが、戦時ならもう死んでるな私。茂みだらけで、兵士が隠れられそうな場所いっぱいだった。

f:id:henrilesidaner:20160902132606j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132607j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132608j:plain

f:id:henrilesidaner:20160908110500j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132609j:plain

池側の入り口に到着ー。

 

滝というのがこれ↓

f:id:henrilesidaner:20160902132610j:plain

「弁天滝」といい、農業用水を使って滝に見せているそうだ。人工物なのね。

山の上の方から見えていた、大きな池は「竜ヶ池」という、これまた人工池。

f:id:henrilesidaner:20160908110414j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132611j:plain

竜ヶ池の前身は、須田さんの館跡だとか言われていますが…。だとしたら、めちゃくちゃでかい家ですねー。

ちょっとポケゴを起動させたら、コイキングがたくさん跳ねてた。さっきの弁天滝のあたりにもピチピチ。とりあえずコイキングを数匹捕まえておいた。ひょっとするとここには滝登りに成功してギャラドスに進化したやつが出てくるのかもしれない…夢のある話ね。

 

f:id:henrilesidaner:20160902132612j:plain

帰りに地図を発見。しかし、我々がたどった道はこの地図に載ってないと思う。

 

 

★★★★★

遺構全部見ることができなかったけど、大満足だあ!

 

 

<須田城>

築城年 不明

築城主 須田氏

構造 山城

 

 

 

 

 

車のある駐車場まで、動物園内を通行。

アカカンガルーのハッチで有名になった須坂市動物園。(私はミーハーなので)ハッチを見に2回ほど来たことがある。それからずいぶん経っている。だいぶ様変わりしていた。

f:id:henrilesidaner:20160902132613j:plain

トラ兄妹は御健在。

f:id:henrilesidaner:20160902132615j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132616j:plain

ペンギンやフラミンゴもいた。有名になったアカカンガルーはいない(どうやら他園に行ったりお亡くなりになったりしてしまった模様)。猛獣好きなのでトラ見られれば充分ですがね。

f:id:henrilesidaner:20160902132614j:plain

f:id:henrilesidaner:20160902132617j:plain

せっかくの動物園だが、子供は山歩きに疲れてしまい、途中から寝てしまう。ごめんよ。

 

大堀館(町田氏館)

f:id:henrilesidaner:20160804134909j:plain

現在は更北中学のグラウンドになっている「大堀館」跡。大堀さんという方が建てたのではなく、町田さんのおうちと言われています。町田氏館と呼ばれてはいますが、この近所にも「町田氏館跡」という場所があり、おそらくそれと区別するためにこっちは大堀館跡と称しているのかも?

天文24(1555)年の第2次川中島合戦は別名、犀川の戦いと言われる。犀川を挟んで北側を上杉(長尾)軍、南側を武田軍が布陣し200日ぐらい延々と対峙し続けたらしい。そもそものきっかけは、栗田城の栗田さん(里栗田、善光寺別当)が武田さんに寝返ったことであり、朝日山城に立てこもった里栗田さんを上杉さんが落としに出かけたことで始まった。里栗田さんの朝日山城は落とせないし、犀川南岸にやってきた武田さんも倒せないし、お互い疲れちゃって「もうやめよかー」と今川義元さんに仲介してもらい戦後処理をした。これで、第2次川中島合戦はおしまいになった、という。

このとき武田さんが本陣として使った施設が、この大堀館とされている。

f:id:henrilesidaner:20160826150136j:plain

けっこう太い木が校庭周りにある。

f:id:henrilesidaner:20160826150137j:plain

f:id:henrilesidaner:20160826150138j:plain

更北中が開校したのは具体的にいつか知らないけど、太平洋戦争後(1945年以降)であるようだ。戦後植えられたとは思えない。どう見ても幹は太く、それより昔からここに生えてました。という様子の木が並んでいる。

 

その他周りの様子↓

f:id:henrilesidaner:20160804134910j:plain

f:id:henrilesidaner:20160804134911j:plain

f:id:henrilesidaner:20160804135513j:plain

町田氏はこの付近を領地とする豪族であった。天文22(1553)年に町田正之さんは武田家の家来になった。町田氏は信玄と勝頼の2代に仕え、武田家滅亡ののちに上杉家家臣、上杉氏が会津に移ったタイミングで帰農。武田家臣時代には戦争で活躍したそうで、須坂市や静岡県静岡市清水区にも領地をいただいていたとのこと。

更北中学ができる前までは堀も土塁も存在していたらしい。が、今は何ひとつ残っていない。

 

大堀館は火災に遭い、別の場所に新しく屋敷を建てた。それが現在「町田氏館跡」と呼ばれている場所のようだ。町田さんが転居したあと郭跡は農地に転用されていたそうだが、周囲の土塁や堀は壊されることなくそのままになっていたという。

享和3(1803)年に松代藩家老が長徳寺を訪れたとき、大堀館跡の様子を書き残していた。それによると、

・四方に土居(土塁)がめぐらされ、その上には樹木が生い茂っている

・土居は南北約40m、東西約32m、幅が約6.4m、高さは約4.5m

・土居の外、四面に堀がある

・堀は幅約7.3m、深さ約3m

・内部は単郭(享和3年当時は畑になっている)

・隅に町田正之夫妻の供養塔? 二人の法名が刻まれた石碑がある

いちいち書き残すぐらいだから、規模が大きく立派な館跡だったかもしれない。甲斐から遠征中の武田軍の本陣に200日も使われるぐらいだしな。武田軍の兵数がどのくらいか知らんけど、本陣には数百人詰めてたかもね。

元領主だった町田家はお金持ち(豪農)である。その辺の農民とは違う。前述の松代藩家老が大堀館跡のデータと共に、町田氏は藩に献金をして賄格となり、十二人扶持となる、と記している。賄格というのがよく分からないけど、字面的に食事関係の役職だろか。十二人扶持は役職についたので手当もらえるということらしい。ざっと調べたところ、一人扶持は年に5俵の手当であるようだ。十二人扶持だと年60俵。現代風の感覚だと1俵10万円くらいじゃないかという説を見た。それだと、年600万円の支給か。

町田さんは藩に千両の献金をした。昔の米の値段で比較すると、1両=4万円だという。なんか、大工の手間賃換算で1両=30~40万、蕎麦換算で1両=12~13万とあって、現代とは経済の仕組みや物の価値が全く違うので一概に「1両=○万円」とは言えないらしい。考えてみたら、給料が米だった時代の話だしなぁ…。米基準で考えると、献金は4000万円かなー? 元を取るには7年かかっちゃうね。前述の松代藩家老の書き残した内容だと、享和3年時点で一代前の当主が献金とあるので…献金後7年以上経過してるのかな。ついでに名字帯刀も許されて名誉もつくならいいよね。

 

更北中ができる前の、古い空撮の写真がいくらか残っていたので見た。グラウンド部分は完全な森だった。グラウンド周りの道もひょっとしたら堀跡かもしれない。

グラウンドの北側には、謎の祠もあった。

f:id:henrilesidaner:20160804134912j:plain

大堀館に関係あるものかしら?

 

f:id:henrilesidaner:20160804135514j:plain

ちなみに、更北中のグラウンドだけが大堀館跡であって。校舎や体育館のある場所は関係ないそうです。

 

大堀館跡にあった、町田正之夫妻の石碑は近隣の長徳寺↓に墓として移されている。

f:id:henrilesidaner:20160821141456j:plain

 

焼失した大堀館に代わる新しい屋敷「町田氏館」は、この長徳寺の北側にあった。現在は畑。大堀館がなくなった時期は謎だが、町田氏が帰農した跡に建てたなら…お城とは言えないかもしれない。堀らしきものを見つけたが、私の実家の近くにあるものすごく古い屋敷(元酒屋だという。女の人と楽しく遊べる場も提供していて、この酒屋でうちの先祖が酒池肉林の生活に溺れて財産失ったとか)にも堀があるので、堀がある=城館ではなさそう。

f:id:henrilesidaner:20160804135730j:plain

↑中央付近の背の低いマサキの垣根の辺りがそうだという。

f:id:henrilesidaner:20160810101030j:plain

↑ここ。下の図で示された撮影場所、あとは人の家なので。左側の社には石仏が、しかしなんだかよく分からず。ちょっと怪しい?と思ってしまった…。石仏のいらっしゃる社の裏側に堀らしきものがある。

f:id:henrilesidaner:20160810100935j:plain

民家の周りのぐちゃぐちゃのヤツはでかい木のつもりです!

こういう場所なので入りづらく、不審者に思われないように辺りを警戒しつつ撮影。

f:id:henrilesidaner:20160804135732j:plain

社の近くには道祖神庚申塔がひっそりと。

 

 

★★★☆☆

跡地は学校&民家(畑)であまり観察できない。そしてよく探さないと跡が見つからない…ゲーム感覚な楽しみ方。

 

<大堀館>

築城年 不明

築城主 町田氏?

構造 平城

 

<町田氏館>

築城年 不明

築城主 町田氏

構造 平城

松代城の総構え+寺社

松代城は総構えというカッコイイ防御システムを持っていた、ということを最近知った。今まではちんまりとしたお城というイメージしかなかったの。

総構えとは、お城と城下町の周囲を土塁と堀で防御して町ごと全部守っちゃおう、というもの。ヨーロッパだと石造りの高い城壁で取り囲み、お城や街を守る。中国はそれより凄い、万里の長城という壮大な防御壁がある。しかし日本だと土塁と空堀で防御、海外と比べたら見た目の印象がちょっとイマイチ。なんか原始的というかね…。

「総構え」で一番有名なお城は小田原城だと思う。とにかくでかい。小田原市すべてを守ってくれる規模だそう。総延長9キロ。

最古の総構えは南北朝時代に築城された伊丹城有岡城)というが、総構えの歴史はそこまで古くないようだ。天正2年に織田さんの家来やってた荒木村重さんが改修したときに総構えを作ったみたい。このとき、日本初の天守閣も作ったそうだ。

 

今、松代城の総構えが残っている場所は2か所。

f:id:henrilesidaner:20160807122214j:plain

ひとつめは「寺町」。文字通り、お寺密集地。

慶長年間は1596年~1615年で、このあたりの支配者は上杉景勝豊臣秀吉→森忠政(蘭丸の弟)→松平忠輝(家康6男)と代わっており、このあたりの皆様でゆっくりと城下町を作り上げていったのかもしれない。

f:id:henrilesidaner:20160807122215j:plain

こんな感じの場所。まずは證蓮寺。

f:id:henrilesidaner:20160807220923j:plain

 ここの墓地の南側に、土塁が残されている。通り過ぎる。證蓮寺のお隣には大林寺というお寺さんがある。

f:id:henrilesidaner:20160807220928j:plain

f:id:henrilesidaner:20160807220934j:plain

ここは、元和(1622)年、真田信之が上田から松代へ移封したときに、母・山手殿のお墓がある大輪寺から母の霊を分霊してもらい、松代に建てたお寺。家人に上記を説明したら「はぁ?」と言われてしまったが、「大泉洋が建てた、高畑淳子を供養するための寺」って言ったらすんなり理解してもらえた…。

ここの北側に松代城の総構えの土塁がある。それが證蓮寺と大林寺の境界かと思ったら。なんと證蓮寺と大林寺の墓地は境界を示す柵がなく、行き来できちゃうのだぁ。

↓左に見える白っぽい屋根:證蓮寺、右の林の合間に見える黒っぽい屋根:大林寺。

f:id:henrilesidaner:20160807220927j:plain

さすがに墓地の写真は無理なので。おうちに帰り、5分で描いた絵↓

f:id:henrilesidaner:20160810100730j:plain

石垣が総構え跡と思われます…。ブロック塀は総構え跡の上のお墓を囲ってるやつです。この周りもすべて墓地なので、何が何だか分かりません。墓地をうろついていると門が。

f:id:henrilesidaner:20160807220933j:plain

進んでいくと、證蓮寺の本堂がありました。ちょっと最初戸惑いました。

 

元々の松代城は、この辺一帯の領主様の清野さんの館だったそうで。清野さんは村上さんの家来だったのが、武田家の信濃侵攻で武田さんにつくことにした。そのときに屋敷を武田軍に接収されてしまったそうです。武田さんは奪った館を改造し、出来上がったのが松代城。屋敷を取られた清野さんは現在の大英寺あたりに新しく館を作ったとか。ちなみに大英寺は小松姫菩提寺です。

f:id:henrilesidaner:20160814110226j:plain

f:id:henrilesidaner:20160814110227j:plain

大英寺は現在改修中。

大林寺と證蓮寺と同じく、大英寺とお隣の本誓寺も墓地がつながってた。

 

寺町は地蔵峠という松代と昔の真田町をつなぐ峠道の入り口に当たる。城下町のお寺さんは有事の際は砦みたいな機能を果たすので、墓地を地続きにしちゃうとか、こんな変わった構造にしたのかも? 大林寺、大英寺ともに松代藩から手厚い保護を受けていたそうです。しかし総構えは城下町の人口増で邪魔になったとのことで、あっさり壊されてしまったようです。 

 

松代は城下町の各屋敷の庭に水路(水道)を作ったという、ちょっと変わった特徴がある。泉水路という名前のその水道は隣の家からまた隣りへと、個人宅の敷地内を流れてずっとつながっている。上流域の屋敷の庭で水路を詰まらせると、水が流れてこない下流域の住人たちが当該住人を吊し上げる、ということもあっただろう…みんな自分の家を流れる泉水路を一生懸命掃除して綺麗にしただろうね。そんなこんなで、今でも松代は水がとてもきれい。

f:id:henrilesidaner:20160807220926j:plain

沢蟹まで住んでいる(この子はうっかり水路から出てしまい、夏の暑さにやられてあの世に行ってしまったようだ)。泉水路は現在でも稼働中。去年だったか、その前の年か、泉水路を初めて一般公開(普段は個人宅の庭先を流れているものなので、もちろん非公開)したとか聞いた気がする。小学生のころ、城下町から歩いて10分くらい離れた住宅地で蛍を見たが…今でも見られるのかしら?

 

総構え、もうひとつは長国寺にあるという。

f:id:henrilesidaner:20160807220943j:plain

ここは真田家歴代藩主のお墓がある。あと、城下町の端っこにもあたる。長国寺の裏側に残っているらしい。奥の方は(大人の事情で)見に行かなかった。

f:id:henrilesidaner:20160807220944j:plain

↑こんなバスがあったよーイラストの人物は誰なのかしらー?

 

★★☆☆☆

気づくとお寺めぐりしてた!!

 

松代城 総構え>

設置年 江戸初期

 

 

その他見た場所。

 f:id:henrilesidaner:20160807220938j:plain

 

f:id:henrilesidaner:20160807220936j:plain

佐久間象山が蟄居した聚遠楼跡。安政元(1854)年にお弟子さんの吉田松陰さんがアメリカへ密入国をしようとした事件のとばっちりで蟄居。

 

f:id:henrilesidaner:20160807220937j:plain

蓮乗寺。お祭り(8/8,9の二日間)があったらしい。七面さんこと七面大明神さんの縁日。ちなみに七面大明神七面天女)は日蓮宗の神様。法華経を守護する女神様だそう。

 

f:id:henrilesidaner:20160807220940j:plain

↑祝神社

f:id:henrilesidaner:20160807220939j:plain

↑宗像社

祝神社、通称・お諏訪さん。その名前の通り健御名方さんを祀り、御柱やってる神社。が、主祭神は生魂命さん。元は東条の山の上にあった(その旧跡は「祝畑」と呼ばれているようだ)。

歴史はとても古く、延喜式内神社であるという。実は延喜式に載ってた「祝神社」とは屋代の須々岐水神社のことだという話もある(この神社もけっこうでかい)。須々岐水神社は中世に別の名前を名乗っており、松代にあった諏訪大明神の神社(現・祝神社)に「名乗っていいよ」と許可を与えたという。名の件はともかく、東条にあった旧宮も創建年代が伝わらないほどの古さであった。

慶長3(1598)年に東条から生魂命を、海津城松代城)の二の丸から健御名方さんと奥様の八坂斗売さんを、現在の神社に合祀したんだそうな。この当時は「諏訪大明神」と呼ばれていた。宝暦元(1751)年に祝神社に改称。

諏訪の神様たちは、天文22(1553)年に武田さんが改修した松代城内に勧請したもの、と伝わる。清野さんの館を接収したのは、この年なのかしら?

 

更科御所?

f:id:henrilesidaner:20160726104133j:plain

佐良志奈神社は、このあたりの地名「更科」と同じく「さらしな」と読む。万葉仮名を使っているかのような名前。創建も古く、神社に伝わる話では允恭天皇の皇子・黒彦王の勧請という。允恭天皇は中国の歴史書「宋書」「梁書」に出てくる倭の五王の済にあたる、と言われている。2つの歴史書に出てくる済は443年~451年(または460年?)に登場している。済の息子さんとされる興(安康天皇)・武(雄略天皇)は462年~502年。黒彦王はこのあたりの時代を生きていた人とすれば、神社の創建もこのぐらいかな?

調べたら、允恭天皇の第二皇子に境黒彦皇子という人がいた。安康天皇の次の皇位継承のゴタゴタで殺されたようだ。この方かしら?

安康天皇は殺されてしまったらしい。そもそものキッカケは、天皇の位にあった安康天皇が自分の叔父さんを誅殺し、叔父の妃を皇后に立てた事。叔父夫妻の子・眉輪王は皇后の連れ子として育てられた。彼はあるとき養父の安康天皇が実父殺しの真犯人だった、と気づいて安康天皇を殺害するという事件が起こった。なんかコレ、似たような話なかったっけ? と色々調べたがよく分からず。シェイクスピアハムレットがちょっとだけ似てた。

眉輪王は境黒彦皇子と一緒に逃げた。雄略天皇が軍を差し向け二人を殺している。安康天皇は後継者を指名せずに崩御したので、境黒彦皇子や他の有力皇子を雄略が一掃してしまったようだ。有名なワカタケル大王というのが雄略天皇とされる。境黒彦皇子は信濃と関係しているという記述は見つからなかったが、この神社の近くに「黒彦」という地名が残っている。

 f:id:henrilesidaner:20160726104132j:plain

↓今年は御柱の年(摂社があるらしい)。この神社の神職諏訪大社に奉公していた御縁で、御柱が行われているらしい。

f:id:henrilesidaner:20160726104134j:plain

佐良志奈神社の御祭神は、応神天皇神功皇后仁徳天皇の三柱(それと正体不明の神様が1柱)。武水別神社と同じ八幡神を祀る神社? でも御祭神がちょっと違う。元々は八王子山にあった大鷦鷯命(仁徳天皇)を祀る神社?が仁和3(887)年に地震で倒壊し、麓の若宮八幡宮(佐良志奈神社の前身と思われる)に合祀されたという。この地震は仁和地震というM8~8.5クラスの巨大地震南海トラフが絡んでいるのに信濃もそうとう揺れたとか。東南海地震やばい。合祀された結果、御祭神がちょっと八幡神っぽいのに、仁徳天皇も含まれているちょっと不思議な感じになったのか。もしかしたら、不明の神様が八幡神比売神かもしれないねえ。

八幡神は皇祖神、古墳でおなじみ仁徳天皇は境黒彦皇子や眉輪王の祖父に当たる。創建年は不明だが、延喜式内神社ということで、少なくとも延喜5(927)年までにはあったはず。

仁徳天皇が祀られていた八王子社はこんな場所↓

f:id:henrilesidaner:20160111154655j:plain

5月に景色を見ようとここまで上がった時に獣に出くわしたので、以来行くのは止めた。

 

ここの神社には、もう一つ気になる説明文があった。

正平年間(1346年~1370年)後醍醐天皇の皇子・宗良親王御潜居の折、暫定御所とした。とあった。その遺構が今でも微妙に残っているという。柏王こと信濃宮こと宗良親王だ。柏王神社で寝込んでたあの方。信濃における親王の本拠地は長野県大鹿村で、在住期間は興国5/康永3(1344)年~文中2(1377)年の約30年。正平年間というのを調べたら、は、そのほとんどを指している…。まあ、御所といってもメインで住んでなかったようで、支城みたいなもん?

いろいろ調べていくうちに、正平2(1347)年から数年だけ住んでたという伝承を見つけた。清涼殿にも「更科の里」というタイトルの襖絵があったとかで、姨捨と更科は都にも聞こえた名勝地だったみたい。ちょっと別荘建ててみたかったとか? 宗良親王は和歌がお上手で、更科の里に住んだときに詠んだ御歌もいくつかあるみたいだー。

 

f:id:henrilesidaner:20160726104135j:plain

ここが御所だった、という証拠の一つという。逆修塚。宗良親王に従い、出陣する人々が自らの墓として建てた「逆修塚」と言い伝えられている。

正式名称は宝篋印塔。本来は宝篋印陀羅尼経というお経を納めるために作られた塔であったが、のちに供養塔や墓として建てられるようになった、とあった。宝篋印陀羅尼経というのは、一切の如来の奥深い悟りの神髄と全身舎利の功徳を集積した箱という陀羅尼(一番すぐれている教えを記憶保持する力)、という何かよく分からんが凄いものだったらしいが、私のような凡人には到底理解できそうにない。悟りの奥義をSDカードに保存しときましたよ的なもの?

オリジナルは中国だそうだが、日本にも伝播し鎌倉時代初期から作られるようになった。ちなみに、日本でこの宝篋印塔から宝篋印陀羅尼経が出てきた例はないそうです。日本では最初から墓という位置づけだったのか。

 

この塔の下には「信州若宮 永和二年 六月□□ 契約□□ 四拾五人」と刻まれている。45人分の墓だったのね。永和二年は北朝の年号で1376年を指す。宗良親王南朝の幹部。そんな方が北朝年号使うんかね、というツッコミがあって、南朝方のものかどうかは微妙じゃね? ということになってるとか。

 

メインの更級御所?の土塁跡はこの辺らしい↓

f:id:henrilesidaner:20160726104136j:plain

f:id:henrilesidaner:20160726104137j:plain

f:id:henrilesidaner:20160726104138j:plain

f:id:henrilesidaner:20160726104139j:plain

f:id:henrilesidaner:20160726104146j:plain

f:id:henrilesidaner:20160726104147j:plain

f:id:henrilesidaner:20160726104148j:plain

境内から本来の鳥居までの間は↑こんな感じ。雰囲気あるー。

幹の太い木と不自然な盛り土。このあたりが御所の土塁じゃないかなと思われる。土塁らしきものはずいぶん低くなってしまい、木の根が露わに。

f:id:henrilesidaner:20160726104150j:plain

f:id:henrilesidaner:20160726104151j:plain

f:id:henrilesidaner:20160726104152j:plain

f:id:henrilesidaner:20160726104153j:plain

f:id:henrilesidaner:20160726104154j:plain

公園もあったが、家が2軒も建てられそうな平地もあり使われていなかった。どうやら駐車場ということになっているらしいが。車は一台もなし。

 f:id:henrilesidaner:20160814160859j:plain

駐車場使用時。

 

本来の鳥居はこちら↓

f:id:henrilesidaner:20160726104141j:plain

文久元(1861)年に建てられた神社の社標↓

f:id:henrilesidaner:20160726104142j:plain

幕末に佐良志奈神社神主の松田(豊城)直友さんが正親町三条実愛さんというお公家さんの知遇を得て、社標の文字を書いてもらったものという。正親町三条家は大臣家(朝廷で兼務なしの内大臣までは出世できる、摂家清華家につぐ家格)で、一般人が簡単に会える身分の方ではない。この方は幕末に討幕派公卿の一人として活躍、討幕の密勅を薩摩藩に渡した人だってさー。

社標の側面は佐久間象山が書いたもの。男らしい堂々とした字で、正親町三条さんの教科書的な字より好きかも。

f:id:henrilesidaner:20160726104143j:plain

f:id:henrilesidaner:20160726104144j:plain

松城 佐久間啓 書→佐久間象山。神主の松田さんと佐久間さんはお友達で、この地に佐久間さんが何度か訪れているそうです。ということは、佐久間さんの仲介で正親町三条さんに面会できたのかしら?

神主の松田氏も武水別神社の宮司のおうちと同じ名前。親戚だろうか。ちなみに、直友さんは武水別神社にライバル心を持ち、うちの神社も古い、延喜式に載ってると知名度アップに奔走したとか。それから、近隣から子供たちを集めて勉強を教えていたそう。こういう昔の篤志家って凄いな、と思う。私財や時間を費やして他人に尽くすなんて自分には無理。私のような心の狭い者は、近所のクソな御子様につまらんこと言われたら(このガキの脳みそ飛び出るぐらい石で殴り続けたい)と思い詰められてしまうだろう。まぁ、勉強教えてーってあちこちから集まってくるような子供達だし、みんなきっと志高く品行方正よね、暴言吐かないよね。直友さんの息子さんも国学者・教育者として地域に貢献したようだ。豊城氏顕彰碑もあった。

 

県道77号線側に白い石でできた綺麗な鳥居がある。この辺はたびたび千曲川の氾濫で水害に遭うことが多いようだが(説明板にも黒彦村の住人の移住分村が何度も行われたとあった)、南北朝時代の遺構があるぐらいだし神社の境内は古よりずっと無事なのか。ここの土地を選んだ人凄いな。

 

神社境内から離れると、やっぱり水害多い。20年位前にも一度、県道77号線の道路流されたんじゃないかな?

f:id:henrilesidaner:20160726104130j:plain

f:id:henrilesidaner:20160726104128j:plain ←川側覗くとちょっと見えるコレ、昔の路面じゃないかね?

f:id:henrilesidaner:20160726104127j:plain

水位を監視する施設? 古い建物だけど、今の路面と高さが違う。覗くと見える古い路面と同じ高さ。

f:id:henrilesidaner:20160726104129j:plain

f:id:henrilesidaner:20160726104131j:plain

昔、ここに洞窟があって酔っ払いがションベンしに来てしまうのか、洞窟の入り口辺りに鳥居のマークが描かれていたんだけど、今はどこにあるのやら? そして洞窟内部で事故?事件?があったと聞いており、金網で封鎖されてたような記憶が…埋められたか。

 

 

★★☆☆☆

何度か来てる(通っている)が、県道77号線側が神社のメインの入り口だと思っていた。本来の鳥居の方が立派で趣あったのに、今まで気づかず神社にごめんなさいした。

 

 

<更科御所?>

築城年 正中年間(1346年~1370年)

築城主 宗良親王

構造 平城

栗田城

f:id:henrilesidaner:20160707135428j:plain

 ここのところ、暑いとか虫刺されが怖いとか獣が出るなどの事情で山に入れず、お城の片鱗も見当たらないような住宅地ばかりでつまらなかった。ここも住宅地の中に残る昔のお城跡の一つ。

他のと違って、なんかここは保存運動が盛り上がっているらしく。でかでかと「栗田城址」と彫られた石碑がー! しかも新しいぞ。栗田城址を整備する会という組織が編集したパンフレットも配っていた。パンフレットは平成27年1月の日付が入っており、たぶん石碑も去年あたりに建立されたのではないかと思った。

 

パンフレットによると、現在の場所は栗田城の内郭を取り囲む土塁の北西付近だそうだ。この場所は今、水内惣社日吉大神社(通称:栗田神社)の社殿がある。

f:id:henrilesidaner:20160707135429j:plain

f:id:henrilesidaner:20160707135430j:plain

緩やかに上っていっているが、横から見るとこんな感じ↓

f:id:henrilesidaner:20160707135438j:plain

f:id:henrilesidaner:20160707135437j:plain

土塁は幅11m・高さ9m・長さ40mの部分のみが残されており、残りは壊したらしい。

栗田神社の社殿付近からから内郭跡を見た様子↓

f:id:henrilesidaner:20160707135435j:plain

意外と高い。下のゲートボール場みたいな敷地は内郭跡地(一部)。この高さの土塁が回の字形で作られ、大きさは東西709m、南北1090mと。でっかいなー。

パンフによれば栗田場周辺の発掘調査を昭和62年~平成25年の間に5回行われている。茶道やお香に関する出土品が多く、ここの主が地方の領主にしてはお金持ちだったことが分かってきている。こんな広い敷地に大きな土塁を造成することができる権力者だしなー金持ってるよね。長野市内最大規模の居館跡だそう。また、この近辺で中世(1192年~1573年)の建物跡も多数見つかっている。栗田城は栗田仲国さんにより平安時代末期(1190年ごろ)築城されたという伝承とだいたい一致するようだ。

f:id:henrilesidaner:20160707135431j:plain

f:id:henrilesidaner:20160707135432j:plain

f:id:henrilesidaner:20160707135433j:plain

f:id:henrilesidaner:20160707135434j:plain

このお城を作った栗田仲国さんのお父様、寛覚さんが栗田氏初代になる。何者かというと、信濃村上氏初代の村上為国さんの息子さんだそうだ。栗田村に住んだので、氏を「栗田」に変えました、という。

村上一族の中でも栗田さんは独自路線を行くことになるらしい。栗田氏初代の寛覚さんの名前はなんか戒名っぽい感じがした。栗田禅師と呼ばれていたというので、やっぱりお坊さんなんだろう。栗田村は園城寺三井寺)や聖護院の荘園であったというので、ここの管理を任された関係でお坊さんになったのかも? 逆で、三井寺のお坊さんになったから管理人になれたのかもしれないけど。まぁどちらでもいいのか…。

 

三井寺天台寺門宗の総本山。開基は大友皇子天智天皇の皇子)の皇子・与多王。大友皇子壬申の乱大海人皇子に負けた人。首を吊って自殺した父の菩提を弔いたいということで、天武天皇大海人皇子)に許可を得て、お寺を作ったとされている。そして、大友氏の氏寺となった。大友氏の本拠地の近江国大友郷だった地(滋賀県大津市)にある。ちなみに、大友皇子の御陵もそこ。大友一族は大友皇子の有力な支持者だったそうな。

支持者だった大友一族は渡来人で、後漢の最後の皇帝・献帝の子孫を自称していた。後漢の皇帝の後裔を称する渡来人集団は4世紀から6世紀にかけて日本に多数入国しており、大友氏以外にも色々いるらしい。みんな後漢の皇帝の子孫だとか。後漢が滅んで、中国は魏蜀呉の三国志の時代に入ったみたい。後漢の皇族は日本にも亡命してきたのかもねー。園城寺天武天皇が名前を与えた。三井寺というのは、天智・天武・持統(天智の皇女、天武の皇后、天皇)の3代がつかった産湯がここのお寺さんにある霊泉であり、「御井(みい)の寺」と呼んでたことから。御井の寺→三井寺

平安時代になって、円珍という偉いお坊さんが現れる。入唐八家(最澄空海以下唐に渡って勉強して法具や経典を持ち帰ってきた僧8人)の一人で、讃岐国出身だとあった。四国といえば空海と思ったら、案の定空海の親戚だった。比叡山に入り修行してたのに、役小角に傾倒したために熊野三山などで修験道の修行もし始めた人。空海もなんか洞窟に籠って修行してなかったっけ? 親戚だけあって似てるな。

とにかく円珍さんが日本に帰国し、三井寺を修行の場にする。その後、延暦寺のトップに。円珍は生き方も個性的な感じで、仏教密教(←これは当時最先端の学問、秘密仏教の略らしい)・修験道(日本で発生した山岳信仰仏教をミックスさせた宗教)の3つの柱を修めたので、「新しい」とファンが多かったみたい。この人が亡くなったあと延暦寺では第3代座主・円仁(最澄の愛弟子、円珍に比べて正統っぽい)派と第5代座主・円珍派に分裂して、円珍派(寺門派)は追い出される。三井寺を拠点にして、比叡山延暦寺(山門派)と対立。延暦寺は屈強な男を多数雇い、兵団を組織して三井寺との抗争に備える。三井寺は武装化せずに政府との関係を深めた。特に藤原道長白河上皇などの著名な権力者が帰依し支援したようで、荘園の寄進を受けてどんどん成長していった。なんと善光寺さんも三井寺の支配下にあった。政府は大兵団を持つ延暦寺の力をそぐため、三井寺を庇護する。以後、三井寺鎌倉幕府室町幕府と支配体制が変わってもずっと支配者側の寺だった。

八ッ橋で有名な聖護院のほうは、門跡寺院修験道本山派の中心寺院でもある。円珍は修験道にもハマり、修行をしていた。三井寺のお坊さんたちも倣い、熊野三山で修行をしていく。本山派は天台宗系の修験道を指している(対になっている当山派は真言宗の僧侶・聖宝が創始した真言宗系の修験道)。鎌倉時代三井寺にも縁がある聖護院門跡の覚助法親王後嵯峨天皇皇子)が三井寺と聖護院のお坊さんたちを統制するに結びつけたようだ。その後、さらに組織化されて勢力が拡がっていった。

転機が訪れたのは豊臣秀吉の時代。文禄4(1595)年になんだか分からないけど秀吉を怒らせちゃって、三井寺はあっけなく廃寺に。兵力(たぶん)ゼロだし、天下人相手にどうにもならなかったのね。御本尊などの寺宝はよそへ移された。金堂は延暦寺に移されたそうなので、長年の抗争に決着がついた、勝った、と比叡山の方々は喜んだに違いない。廃寺にされて3年後の慶長3(1598)年に再興許可が出て、今に至る。

聖護院のほうは門跡寺院だったせいか、特にお咎めなし。しかし京都にあるお寺さんなので応仁の乱などの兵火、普通の火事でもたびたび燃えた。現在の建物は延宝(1676)年に再興されたもの。慶長年間(三井寺再興~江戸幕府初期:1596年~1615年)に本山派と当山派が揉めて、江戸幕府の裁定で修験道ルールが設けられた。これは本山派のほうが不利なルールであり、聖護院は弱体化した。

 

ところで、栗田さんは三井寺・聖護院の荘園管理人やっていたのに、三井寺と敵対している延暦寺の末寺・顕光寺(戸隠神社)の別当職(お寺の一番偉い人)もやり始めた。当時の戸隠神社神道真言密教天台密教神仏習合した修験道のお寺(むしろ道場だったみたい)で有名だった。流行っていたらしい。栗田さん寺門派じゃなかったのか…。蝙蝠みたいなやつだ。その後は三井寺の末寺だった善光寺別当もつとめはじめ、二つのお寺さんからの収入でお金持ちになる。

栗田さんは本家筋の村上氏に従っていた。出土品見ても、寺からの収入が良かったようだし独立できそうじゃない? と思ったものの、栗田氏年表を見る限り、代々の当主は戦下手なのかもしれない、と感じた。近隣の領主と一緒によその領土で暴れようとしたが、決着がつかなかったり失敗したり。よそから攻撃受けて陥落したり。栗田家が勝った、というのがあまりない(近隣の館を襲って成功したぐらい)。それで村上家所属のままにしておいたのかも。

戦国時代に武田の信濃侵攻が始まると、栗田氏は分裂した。戸隠神社の栗田さん(山栗田)と善光寺の栗田さん(里栗田)。山栗田は上杉に、里栗田は武田さんに、それぞれ従うことになった。

里栗田は、例の誰も見たことがないという善光寺御本尊で秘仏阿弥陀如来と甲斐に行き甲斐善光寺の住職になったり、長野市内の武田領の長沼城の番衆として留まったりと、ちょっと分散。天正10(1582)年の武田家滅亡まで里栗田の兵団は存在していたようだ。武田の滅亡後は主君を変えたりし生き延びた。里栗田さんは信濃に戻ってきたが、善光寺別当職に返り咲くことができず、元の領地にもいられず一家離散状態に。

山栗田さんは上杉に従ったものの、慶長3(1598)年の上杉家会津転封がきっかけで会津組と戸隠神社組、帰農組に分かれた。同年に秀吉から戸隠神社神職として取り立てられ、明治まで戸隠神社の神官家として続いた。帰農組は苗字を変え、信濃に戻る。会津組は、8500石の城主になったものの。慶長5(1600)年の上杉討伐で直江兼続の「石田三成さんと呼応して徳川挟み撃ち」案に反対。400人くらい人を集めて会津から脱出しようとして、追っ手の直江さんに捕まり150人ほどが成敗される。残りの250人が無事に徳川家に身を寄せた。その中に山栗田の会津組の生き残りがいて、のちに水戸藩藩士となった人がいた。この人の子孫は幕末まで続き水戸黄門でおなじみ大日本史の編纂に携わった人、天狗党に参加した人などいたそうな。

どちらの家系もばらばらになってしまった。

 

f:id:henrilesidaner:20160707135439j:plain

内郭端っこに当たる場所にででーんと立派な木。栗田城が築城されたころからあるのかも!

f:id:henrilesidaner:20160723173227j:plain

地図に照らし合わせてみると、内郭は建物だらけで見る影もなし。現在地の栗田神社は西側の土塁のうち、北側半分くらいか? 神社自体もさほど小さくはなかったので…。

想定図を見ると、土塁と堀を完全に平地にしてから、建物や道を作ったようで。現在の町並みから城の跡を探すの、難しそうだぞー。

↓たぶん内郭の中心方面。

f:id:henrilesidaner:20160707135440j:plain

f:id:henrilesidaner:20160707135442j:plain

↑こういう感じで住居が建ち並んでいる。

堀跡はこの辺かなー?

f:id:henrilesidaner:20160707135441j:plain

f:id:henrilesidaner:20160707135443j:plain

想定図ではこの道路幅が堀すべてではなく、もっと広いようで。周囲の建物も堀の上に建っているっぽい。

 

神社に残る土塁跡をぐるっとめぐる。

f:id:henrilesidaner:20160707135444j:plain

f:id:henrilesidaner:20160707135445j:plain

f:id:henrilesidaner:20160707135446j:plain

f:id:henrilesidaner:20160707135448j:plain

f:id:henrilesidaner:20160707135447j:plain

f:id:henrilesidaner:20160707140839j:plain

f:id:henrilesidaner:20160707140840j:plain

ちょうどこの公園の幅=堀の幅だそうだ。これは広いぞ! 埋められちゃってるから謎だけど、深さはどのくらいだったか気になりますなー。

f:id:henrilesidaner:20160707140842j:plain

 

 栗田氏はこの栗田村の他に、飛び地を持っていた。栗田氏の氏神として日吉大社の御分霊を長野市内に勧請し、「日吉山王」として祀っていた場所。また、その地は出城として使っていたと言われている。この日吉山王は明治41(1908)年に現在地へお移りになっている。

元和元(1615)年に主を失った栗田城が壊されたのちは、地元民の産土神として戸隠から神々を勧請し、栗田権現(栗田大元神社)として祀っていたようだ。日吉山王がこちらにお移りになったときに合祀され、現在に至る。

御祭神は大山咋命罔象女命大山咋命が栗田さんが日吉大社より勧請した神様。別名を山王権現という。罔象女命は水の神様。他に戸隠から勧請したと思われる手力雄命(岩戸隠れのとき天照大神が隠れてた岩戸を戸隠まで放り投げた神様)、天思兼命(知恵の神様で、天照大神をどうやって連れ出すか提案した)、天表春命(天思兼命の子供)、天鈿女命(岩戸の前でストリップした神様)。

 

日吉山王社が元あった場所はここ。

f:id:henrilesidaner:20160723173224j:plain

駐車場になってた。名前だけ残っている。

f:id:henrilesidaner:20160723173225j:plain

f:id:henrilesidaner:20160723173226j:plain

駐車場にされてから数年? 私が知らん間にこんなことに…。知っている限り、ここだけ鬱蒼とした木が茂る真っ暗な場所だった。昔、この近くの学習塾に通ってたので、夜なんとなくここを見に行ったりしていた。なんかここだけ浮いてて気になってた。塀も高かったし。建物はあったけど、当時から使われていなさそうで人気なし。聞くと国鉄(JR)の紫雲寮という施設とのこと。寮というから社宅の類かと思ったけど、集会所という(でも人が出入りした様子もなく、打ち捨てられた感ありありな建物だった)。もっと遡ると、その集会所の前身は病院だと分かった。ぐぐると写真が出てきた。その写真で見る限り、瀟洒な洋館だった。こんな建物だったら壊しちゃってもったいないんじゃないのー? と感じたものの、私の記憶の中の「紫雲寮」はこんなんじゃなく無機質で面白味のない建物だった。あーやっぱり壊されてもいいや、と思い直した。

 

この「出城跡」と言われる場所の近くには裾花川という川が流れている。その対岸には朝日山城や小柴見城がある。

↓正面の山の頂きにあったのが朝日山城。武田さんと上杉さんで取り合った。

f:id:henrilesidaner:20160723173223j:plain

天文24(1555)年の第2次川中島合戦では里栗田さんが武田方の武将として朝日山城を守備したそうだが、栗田氏の出城跡の場所から朝日山城がよく見える。また、この場所は善光寺にも近い。この辺りは武田さんちと上杉さんちの境界線なのか、お城が多い。善光寺横山城)を取り囲むように小柴見城・朝日山城・葛山城・大峰城・桝形城・押鐘城とあり、他に盛伝寺館・桐原要害・中越館と拠点にできそうな施設もあるようだ。

 

 

 

★★★★☆

住宅地・街中にあるお城跡にはガッカリすることが多かったものの、ここは土塁の規模が大きく期待したよりも良かった。出城跡は何もなかった、寂しくなった。

 

 

<栗田城>

築城年 平安時代末期

築城主 栗田仲国

構造 平城

戸部城+鍛冶屋敷

布施氏の庶流・戸部氏のお城「戸部城」。「鍛冶屋敷」は戸部氏とは関係ないらしいが、ごく近くにある。

まずは「鍛冶屋敷」。

f:id:henrilesidaner:20160627110323j:plain

現在は伊勢社となっている。おたや祭りというお祭りで有名らしい。

「おたや祭り」というのは豊受大神(食物の女神様・伊勢神宮外宮に祀られている神様)の例祭という。伊勢神宮の御師(お伊勢参りの勧誘で全国回ったり、伊勢神宮参詣者のガイドや宿泊などの世話をする人)が布教の旅で利用した伊勢社の宿泊施設「旅屋または田屋(読み方はどちらも”たや”)」から来ているようだ。たぶん、これは大きな伊勢社にしかなかったんじゃなかろうか。この施設がある伊勢社のお祭りを「おたや祭り」と呼ぶそうだ。

鍛冶屋敷と伊勢社、どう関係があるのかというと、全く分からない。というか、「鍛冶屋敷という建物があった」ということ以外ナゾらしい。誰の持ち物で、どういう使用目的があったのかも分からんそうな。ただ、この場所に規模の大きな伊勢社があったことと、現在の伊勢社(以前は違う場所にあって、鍛冶屋敷跡地にお移りになってきたのでは? という話も。元の伊勢社もどこにあったかよく分からんということ)がこの地にあること、などから「鍛冶屋敷は伊勢社の付属施設じゃないのかな」という説が有力であるらしい。お堀や土塁の跡が見当たらないので城館ではなさそう、とのこと。伊勢社神官の居住館、伊勢神宮などからの使者をお迎えするための館、という二つの説がある。お旅屋はまた別の場所にあったようだ。

f:id:henrilesidaner:20160627110324j:plain

f:id:henrilesidaner:20160627110326j:plain

趣ある神社。あんまり神明神社にお参りする機会がないような気がする(諏訪大社があってそのせいなのか、健御名方さんばっかりな気がする…今ちょっと調べたら、諏訪神社北条氏の所領に特に多いそうだ)、なのでこのスタイルの神社が新鮮な感じ。

「御厨」というのは、神の台所という意味。神様のお供え物を供給するための所領。ここは伊勢神宮の御厨だったので、大きな伊勢社があったのだ。

f:id:henrilesidaner:20160704105651j:plain

↑天水釜というそうだ。元々は防火用水として雨水を溜めていた大釜だったそうで、現在は神格を現す神具のひとつだそう。

f:id:henrilesidaner:20160627110327j:plain

こちらは伊勢社の造営に協力した人々の名前を書いた銅の塔?があったそうで「大東亜戦争の折に金属として供出しちゃって土台しかないです」と下の方に書かれていた。石碑はあまり関係なさそうな「玉垣改修記念碑」。

 

鍛冶屋敷から少し離れたところに戸部城跡。

f:id:henrilesidaner:20160627110331j:plain

今はこれだけ。↑写真の中、グレーチングがあることで分かるが、手前の道路は暗渠になっている。これ、お堀跡だそう。

f:id:henrilesidaner:20160627110330j:plain

鳥居は綺麗だけど、ぱっと見には古い祠があるだけで何が何だか…。一応、説明板があった。それによると、

・付近一帯は富部(戸部)三郎家俊の城跡

・家俊は平家方の武将、治承5(1181)年の横田河原の戦いで戦死し、館も焼けた

天正時代(1573~1592)、ここに郷蔵が建てられたので「御蔵屋敷」とも呼ばれる

・戸部御厨があったので、多くの寺社が集まり小城下町として栄えた

とあった。

戸部氏は最終的に上杉さんの家来になったはずなので、治承5年以降はどこか別の場所に城館作って引っ越していたのかも。天文22(1553)年、武田さんに敗れた村上さんと一緒に越後へ行ったらしい。この年から武田家滅亡の天正10(1582)年まで、この地は武田領となる。同年の天正壬午の乱のあと慶長3(1598)年まで上杉領となった。おそらく、上杉領になって戦乱が落ち着いたから郷蔵建てたんじゃないかな?

f:id:henrilesidaner:20160627110335j:plain

戸部城跡のごくごく近く、更級斗女神社がある。

元々はこのあたりの土着神を祀る神社だったらしい(最初のお名前は斗女郷精霊地主神)。それが戸部家俊の支配地になったために、元歴元(1184)年に戸部家の氏神として諏訪大明神健御名方神)を勧請した(ただし諏訪大社の分社ではない)。御祭神は健御名方命、奥様の八坂斗賣命(八坂刀売神)。

神社の説明板では、斗女(とめ)→戸辺→斗賣→戸部→富部と転訛していき、富部から戸部に戻って落ち着いたようだ。この内容から考えると、神社の創建は相当古そう。

そして応永7(1400)年には村上氏領地になっていたという。どうやら戸部さんは、その年までには村上さんの家来になったようだ。

 f:id:henrilesidaner:20160627110336j:plain

参道に沿った並木が雰囲気ある。

大きな木が1本。

f:id:henrilesidaner:20160627110332j:plain

f:id:henrilesidaner:20160627110334j:plain

でかい欅。戸部さんのお城が横田河原の戦いで焼失したとき、この神社も兵火に巻き込まれたが欅だけは焼け残っていたので目印にして神社を再興した、という言い伝えがある。この欅の樹齢は1200年以上だそう。1200年前というと、奈良時代末になるのかな? 早良親王が祟っている頃かしら?

 

平家方だった戸部さんだが、更級斗女神社の境内に八幡神が祀られていた。

f:id:henrilesidaner:20160627110333j:plain

勝鬨八幡社というお名前で、元は少し離れた別の場所にあったが明治時代にお移りになってきたようだ。養和元(1181)年の横田河原の戦いで勝った木曽義仲がこのお社の前で勝鬨をあげたので、「勝鬨八幡社」と呼ばれるようになった、という。

 

神社の裏手には用水路があった。

f:id:henrilesidaner:20160627110337j:plain

f:id:henrilesidaner:20160627110329j:plain

ここで暗渠になって、戸部城前の堀跡と合流しているみたい。ひょっとしたらココも堀跡だったりしてー。

 

戸部城の説明板でも見たが、ほんとに寺社が集まっている。なんでもない住宅地だが、その辺を徘徊しているだけで4つぐらいお寺さんを見かけた。「小城下町」というだけあって、街並みも古い。

f:id:henrilesidaner:20160627110339j:plain

f:id:henrilesidaner:20160627110340j:plain

f:id:henrilesidaner:20160627110341j:plain

 

 

★★★☆☆

更級斗女神社が雰囲気良かった。古い神社はやっぱりなんか違うなー。住宅地の中の城跡で遺構ほぼないけど。街歩きと思えば見どころがあり楽しい。

 

 

<戸部城跡>

築城年 治承5(1181)年以前

築城主 富部(戸部)家俊

構造 平城