お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

柏王神社

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以前、当てもなく歩いてみたところ。この祠に呼ばれたのか、たどり着いた。石に彫られた文字はよく読めないが、元禄とか辛うじて分かったので古いことは古いらしい。綱吉の治世で、江戸時代で一番景気よかった時期だったっけ?

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良いお顔。

何かのご縁なので、ちょくちょくお参りさせてもらっている。が、この祠の詳細は分からず…。

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祠の右側は畑のような感じだけど、山に入る道っぽい感じもする。祠は山の神様を祀っているものなのかも。道は草ボーボーなので、夏場の探索は無理なご様子。ちなみに左側は墓地だった。

 

一体自分はどこに行ったのだろうか。グーグル先生(地理担当)に訊ねる。先生はすぐ場所を教えてくれた。そして「この近くに神社がありますよ、柏王神社」と教えてくれた。

柏王とか。王様だし。

f:id:henrilesidaner:20160613164226j:plain 別名「信濃宮」とおっしゃるようだ。皇族なのか。

明治時代に建てたものらしい。ちょうど北国街道沿いだった。観光名所にしようと考えての建立だろうか。

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↑北国街道

江戸幕府により整備された主要幹線道路。前田のお殿様はじめ11家が参勤交代で通った道、佐渡の金山から金輸送路、という結構重要な役割のある街道だったようだ。旅人も多かったかも?

 

柏王神社に到着。

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柏王神社の御祭神は伊弉諾命、相殿に相良親王、とあった。イザナミは知ってる。相良親王とは? どうやら、柏王こと信濃宮こと宗良親王のことらしい。名前がたくさんあるなー自分でも訳分からなくならないのだろうか。

 

宗良親王後醍醐天皇の息子で、この場所で病気になった。神社の説明板では「髻をお薬師様に供物し祈ったら治ったので、髻を埋めて塚にした」とあった。髻ってバカ殿の髪型じゃないかな? 貴族って確かあんな髪型してたような。

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信濃宮髻塚」と書いてあった。

 

おすがりしたというお薬師様もいらっしゃった。お薬師様の制作年代は不詳だそう。南北朝のころには存在していたんだろうし、けっこう古いものかもしれない。

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↑薬師堂。お薬師様は非公開だった。特に、首から腰の脊椎関係にご利益があるとのこと。そういえばお参り後、ヘルニアのせいなのか分からぬ腰痛がなくなった…気がする!

 

宗良親王は応長元(1311)年のお生まれで、元中2/至徳2(1385)年薨去信濃国には興国5/康永3(1344)年から文中2/応安6(1373)年まで住んでいたようだ。この近くには船山守護所がある。宗良親王南朝方として信濃を拠点にし、各地へ転戦したとあったが、ここは小笠原氏の守護所があるくらいだし、北朝方拠点のひとつではないのかー?

船山守護所が善光寺へ移転した観応2/正平6(1351)年以降なら、南朝方の信越地区攻略責任者がこっそり病気で寝ていても、襲撃されないかもしれない。

ワインで有名な桔梗ヶ原で宗良親王軍と小笠原軍との合戦が文和4/正平10(1355)年に起こったと言われている。南朝方と北朝方との戦いで、どうやら南朝方が敗れたようだ。というのも、その年を境に諏訪氏など有力氏族が南朝から手を引いたからだ。けっこう大きな合戦だったらしい(京在住の人が日記につけていたそう)が、京にまで情報がもたらされるほどの大戦だったわりには勝敗に関する記録がないらしい。

船山守護所近辺で青沼合戦に参加していた豪族の多くが諏訪氏庶流という。諏訪氏にならって、1355年以降こちらも北朝に下ったと思われる。とすると、神社の伝承にある「宗良親王が当地で臥せっていた」時期は1351年から1355年の4年間かな?

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本殿は質実剛健、といった構え。もともと神社じゃなく、宗良親王の療養所として作ったかのような様子。建物がなんか神社っぽくない雰囲気もあるような…ないような? まぁ、この建物が宗良親王の生きた時代のものじゃないと思うけど。f:id:henrilesidaner:20160613164230j:plain 

強引に見れば、本殿を高くしてちょっと要塞っぽくなっているようにも! 「防御」として考えたら相当弱いと思うから違うな。

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背中に山をしょっている、道の奥というような場所なので静かだった。療養するにはいいところね。

この辺りは古いおうちが多い。昔の街道筋なので、おうちも立派。

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★★★★☆

謎の祠と薬師如来にお参りするようになってから、体調が良くなってきている気がする。ありがたや。

 

<柏王神社>

 

 

宗良親王の母方の実家は古今伝授でおなじみの二条家、本人も和歌が得意だったらしい。出家し天台三門跡のひとつ妙法院に入り、天台宗で一番偉いお坊さん・天台座主になった。が、お父様の起こした元弘の乱のせいで失脚して島流しの刑を受けた。そのうちお父様が政界に復帰すると、天台座主に返り咲く。お父様がクーデターで京から吉野に行くと、お父様のお仕事を手伝うため還俗した。

後醍醐の当面のお仕事は、北朝と幕府・武士を滅ぼしてまた政権を奪還することである。後醍醐は自分の息子たちを各地に派遣して、勢力を盛り返そうとした。

今まで後醍醐は武士を煽動して鎌倉幕府を倒したり、配流先から武士の助けを借り京に戻ったりして革命を成功させてきたものの、実は武士を差別しており捨て駒として扱った。武士がこれまで後醍醐を助けてきたのも、「俺の思想に心酔している」とか思っていたくさい。大多数の武士は「機能しなくなった鎌倉幕府をなくしたい」と思っていただけで、特に後醍醐の思想信条には関心なかったようだ。

後醍醐の武士使い捨て的な態度が武士層を怒らせてしまったが、本人はあんまり反省していなかった感じ。そういう態度からなのか、今では後醍醐(笑)みたいな扱いにされてしまっている。

後醍醐は尊良親王恒良親王を北陸、懐良親王を九州、義良親王を奥州、宗良親王を東国へ軍団とともに送り込む。

宗良親王中先代の乱で蜂起した親北条の国人が多い信濃に住みついた。伊那在住の香坂さん(滋野氏支流望月氏の一族)という方に呼ばれて、やってきた。気に入ったらしく、30年くらい住んだ。東国の拠点となり、あちこちから追われてきた南朝方の武将を匿ったり、他国へ呼ばれて出陣したりする。

九州に行った懐良親王はほぼ全土を勢力下に治めることに成功し、中国皇帝から「日本国王」に冊封された。義良親王はいろいろ上手くいかず、空位になっていた皇太子に。尊良親王恒良親王は北陸で新田さんとともに挑んだ合戦で敗れ、自害したり捕まって殺されたり。

桔梗ヶ原の戦いで敗れたとされる文和4/正平10(1355)年以降は信濃国の有力氏族が離れていき、徐々に南朝方の勢いが弱まっていき、宗良親王は文中3/応安7(1374)年に東国の拠点を引き払い、吉野に戻ることになってしまった。その後、またお坊さんに戻った。

一番うまくいってた懐良親王も室町3代将軍義満が送った討伐軍に敗れ、九州は幕府の勢力下となった。が、すでに薨去している懐良親王が「日本国王」と中国の皇帝に認められていたために、他人が「日本国王ですけどー」などと言って皇帝にお手紙書いたりすると、「お前は王位を簒奪しようとしている不逞の輩か」と疑われてしまう事象が発生。仕方なく「懐良親王です」と詐称して書状を送ったり、「懐良親王は国王ではない」と説明したりと大変だったようだ。これは懐良親王もあの世で小さくガッツポーズしてそう。一矢報いた…かな? ぐらいは思ってそうだ。

義満が日本国王として朝貢(中国に「宗主国さまー」と平伏しながら、なんでもいいので貢ぐと、中国は「野蛮な国の連中が見たこともないような素晴らしいものをやろう」と言いながら、ものすごく高価でイイモノをお返しにくれるみたい。その贈り物を転売すればぼろ儲けできる)がしたかったのに、そこまでたどり着くのに苦労したらしい。朝貢貿易って一方的に中国が損するものだったのか。まぁ、そんなぼろい商売あるなら皆やりたがるね。

そういえば南朝は田舎住まいの男所帯だからなのか、下世話でドロドロした話がなかった。期待してたのに。つまらないガッカリ残念。

船山守護所

ごく短い数年の間だけ、信濃国の役所として登場する船山守護所。中先代の乱での戦場のひとつとなった。

 

後醍醐天皇の討幕運動に参加していた小笠原貞宗さんは建武2(1335)年、武功により信濃守護職に任命され、守護所を船山郷(現在の千曲市)に置いた。

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場所は↑らしい。現在の主郭跡周辺は住宅地である。

鎌倉時代信濃国北条氏知行国であった。船山郷は第13代執権・北条基時の領地で、彼の屋敷があった。基時は鎌倉時代末期の武将。北条一族の中でも家格が高い家の出身で、幕府要職を歴任し最後に執権に就任している。また信濃守護に任命された記録もあった。基時は得宗家出身の北条高時に執権の座を譲ると引退、出家した。第16代執権の時代、元弘3(1333)年の元弘の乱により鎌倉幕府が滅亡する。基時はそのとき鎌倉の防衛に当たっていた。陥落してしまったため自刃。

鎌倉幕府滅亡後、信濃守護となった小笠原さんは北条基時の屋敷を再利用し、守護所としたようだ。現在は遺構など全くない。が、主郭跡とされる場所を取り巻く道路は怪しく、これは堀跡じゃないかね? と言われている。

 

そんな主郭の堀跡と言われる道をぐるーっと回ってみた。

①からスタート。正面の道を行く。

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②北側堀の中間ぐらい。

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③の角を曲がる(↓の写真だと右へ)。

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④東側堀

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⑤南側堀

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⑥西側堀

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⑦西側堀と北側堀の交点(バス停付近)

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これで1周おわりー。なんにもなかったー。

 

船山守護所は鎌倉幕府滅亡後に置かれた。小笠原さんが守護になった建武2(1335)年、その年に青沼合戦が起こり守護所が襲われる。この合戦は北条支持の四宮氏、保科氏など在地国人衆と守護・小笠原氏の戦いだった。小笠原氏が優位に進み、敗走する国人連合軍を追撃し続けた。このとき蜂起した四宮氏、保科氏は諏訪氏の庶流と伝わっている。

実は諏訪氏や滋野氏が中心となって北条政権再興をもとめて、反乱軍を組織していた。四宮氏や保科氏などの守護所周辺に領地を持つ国人も反乱軍の一味だった。守護の小笠原氏を引き付ける役目で、この間に本体の諏訪氏、滋野氏と北条高時の子・時行や北条残党は松本の国衙国司のいる役所)を焼き討ちし、勢いづいて足利直義(尊氏の弟)がいる鎌倉まで侵攻、直義を追い出し一時占拠した。京から足利尊氏が弟の救援にきた。尊氏により反乱軍は徐々に劣勢となり、首謀者の諏訪氏が自害したりし、反乱は収束に向かう。この反乱を中先代の乱と呼ぶ。

中先代の乱は、歴史の教科書もに出てくる単語だけど、よく知らない。時期は鎌倉幕府室町幕府の間。後醍醐天皇が親政を行っていた短い時代に起こった。鎌倉幕府(先代)と室町幕府(次代)の中に起こった先代幕府の反乱だから、そういう名前になったという。倭国大乱と同じくらい、かっこいい名称だなとなんとなく名前だけ覚えていた。

 

この反乱が収束したのち、船山守護所は近くに移転した、という説もある。それが今の「船山神社」ではないかと言われている。

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船山神社も「船山守護所跡地」という伝承が残っているらしい(船山神社は戦国時代末期の某氏屋敷跡、という伝承も残っている)。いずれにしろ、有力武将の館跡というのは確定だという。

移転かどうかは確定していない。小船山の「小→古」で本来は古船山という字を当てていたんじゃないかという意見から、移転したんじゃないかと言われている。同じ船山郷内で移転したので、前の守護所を「古船山」と呼んで区別したのではないかという話。

 

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境内は細長い。屋敷跡の一部が船山神社という言い方のほうが正しいのかもしれない。この辺りは水路が多く、ひょっとしたら堀跡かもしれないと思った。

船山守護所は正平6(1351)年にまた焼き討ちされた。南北朝時代南朝(村上氏など)と北朝(小笠原氏など)が争っており、その中の戦いのひとつで焼かれたそうな。守護所は善光寺の近くへ移転したと言われている。このころの小笠原家当主は政長さん(貞宗さんの息子さん)という。政長さんは翌正平7(1352)年に5歳の長男、長基さんに家督を譲る。時が経ち、長基さんの次男の長秀さんが当主になり、応永6(1399)年に信濃守護職として長秀さんは京から信濃善光寺へ向かった。地元民から「偉そうだ」などと言われ、戦争になったのは翌年のこと(大塔合戦)。

 

小船山には「小船山神社」という神社もあった。最初、こちらが船山守護所跡地なのかと思っていたら、全く違った。古い名称では「猿田彦社」というらしかった。

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小船山にあった船山守護所跡の周りには、釈迦堂、阿弥陀堂もあったようだが、現在はない。1か所にお堂を集めて、「小船山神社」としたのかも?

 

★☆☆☆☆

20年くらい前の資料だと「矢竹があちこちに自生しており、守護所の雰囲気はちょっとある」とあった。今は見かけなかった。単なる住宅地なので探しにくい。

 

 

<船山守護所>

築城年 不明(建武2(1335)年改装)

築城主 北条基時(改装者 小笠原貞宗)

構造 平城

 

 

 

 

鎌倉幕府の滅亡と、建武の新政室町幕府の流れがよく分からないので、勉強してみた。

後嵯峨天皇には後深草天皇(兄)と亀山天皇(弟)という二人の息子がいた。二人は同腹の兄弟で、母・大宮院の身分は中宮と高かった。しかし後深草は病弱(身体に障害もあったようだ)、両親は健康体の亀山をかわいがっていた。兄弟は対立していた。

いろんな意味で興味深い作品「とはずがたり」だと、後深草は寝取らせ、亀山は逆に女好きで寝取りが好きだったようだ。その内容は、後深草のビッチな愛人を亀山にも貸したが、愛人が上手な亀山に乗り換えたという噂を聞き、大変なショックを受けて愛人を捨てたとある。

後嵯峨はまず後深草に譲位し、自身は院政を始める。10数年後に後深草から亀山に譲位させた。後深草、亀山2人にもそれぞれ息子がいたが、亀山即位したあと後嵯峨は亀山の息子を立太子させる。後嵯峨は次の「治天の君」を指名せず、「鎌倉幕府の意向にしたがってね」という遺言を残し崩御。普通この順序だと次代「治天の君」は亀山になる、しかし院政をやりたがった後深草が異議を申し立てた。幕府が仲裁に入る。幕府は大宮院に相談した。大宮院は「亀山でー」と答え、治天の君は亀山になった。後深草は「うちの子孫の皇位継承権なくなっちゃう」と揉め続けた。幕府が困って考えた末「じゃ公平に、10年づつの交代制でいきましょう」と裁定した。兄の後深草の子孫=持明院統、弟の亀山の子孫=大覚寺統、と呼ぶ。持明院統大覚寺統皇位が行き来することになったという。これを両統迭立という。

私はドロドロした権力争いの話が好きなのですが、平和な解決方法で名目上決着ついてがっかり。「とはずがたり」がめちゃくちゃだった分、両統迭立じゃ物足りない。しかし、持明院統大覚寺統も完全決着を望んでいたようで、水面下では色々な工作を行っていたようだ。内容までは伝わってこないので、幕府にばれないよう悪口を言い合う的な生ぬるいことをやってたんだろうか。相手に毒盛ったとか、陥れて島流したり、幽閉して憤死させたり、そんな風なことをやってたら面白いのにな。個人的にはそういう話が聞きたい。

 

大覚寺統後醍醐天皇が即位したのは徳治3(1308)年。本来なら10年後くらいに持明院統に交代、また10年後くらいに自分の子孫に皇位が巡ってくる。が、お父様の後宇多天皇は最初から後醍醐の兄・後二条の子に継がせたいと明言していた。2つの皇統の緊張が高まっていた時期で、後二条の前に持明院統が2回連続で天皇位についていたり、と大覚寺統が不利っぽくなっていた(鎌倉幕府持明院統に近かったようだ)ので、亀山院が幕府に「裁定と違う、ずるくない?」と不服申し立てをし、後二条が皇太子となることができたぐらい形勢が悪かったようだ。後二条は在位7年くらいで崩御、その遺児はまだ子供。皇太子にしても幼すぎて心許ない。後宇多は仕方なく、皇太子の順番を後醍醐→持明院統→後二条の子→持明院統→…という流れにしようと持明院統に持ちかけた。持明院統は特にデメリットがないので、これを受けた。後醍醐は自分の子孫は皇位を継げないことが明白なので、イラついた。

なぜ後醍醐がお父様から嫌われていたのかというと、彼の祖父である亀山が原因だった。彼は寝取りが好きらしい、ということは先に書いた。亀山は息子の後宇多の嫁にも手を出して奪った。亀山に奪われた妃が後醍醐の母だったので、後醍醐は父に疎まれた。ひょっとして叔父子なの? とワクワクしたけど、そうではないらしい。亀山が息子の嫁に手を出した時期は、後醍醐が生まれたより後だったようだ、残念。

 

イラついていた後醍醐は、まずは「皇位は交代制にしよう」と介入してきた鎌倉幕府を壊すことにした。持明院統はもちろん、大覚寺統の大多数も後二条の子がいずれ皇位を継ぐということに賛成していたので、後醍醐は普通に討幕に失敗し廃位→配流。しかし鎌倉幕府に不満を持つ武士たちを煽動し、ついに鎌倉幕府が滅亡。意気揚々と都に凱旋した後醍醐は自分の廃位、在任中の光厳天皇の即位や人事を否定し摂関家などの力を持っていた貴族たちを追い出した。持明院統と自分の子孫以外の大覚寺統の人間、幕府に近い人間も追い出して、討幕を手伝った人たちと新しい政治を始める。これが建武の新政

 

建武の新政を始めたが、後醍醐は気に入らん奴は死んでもらいますという感じの独裁者だった。とても良いと思う。第三者として遠くから眺めている場合は、バタバタと皆ぶっ殺していくような爽快な展開を楽しめるはず! しかしそうはならずに中先代の乱が起こる。

鎌倉にいる弟がやばいから助けに行きたい、つきましては追討命令と征夷大将軍の身分ください。と足利尊氏が後醍醐にお願いしたところ、後醍醐が拒否した。仕方ないので、尊氏は勝手に弟の直義を助けに行った。冷静になって考えてみると、後醍醐の追討令をもらわずに出てきちゃったので、帰ったら殺されるかもしれない。まずいなぁと鎌倉に長居する。

思った通り、後醍醐は足利を粛清することにした。同格の新田を使うことにした。一応新田に勝った足利だが、「天皇に弓を引いた」と認定されるとかなーりまずい。足利は持明院統光厳を頼ることにした。もともと鎌倉幕府(武士層)寄りだった光厳側もめんどくさい危険人物が復帰して、勝手に退位させられて怒っていたので、手を組む。足利さんは全国の武士に支持されていたので、当然のように武士層も光厳持明院統を支持。

光厳からきちんと討伐命令を受け取り、一時劣勢だった足利があっという間に京を取り返して、後醍醐を追放したあと持明院統天皇を即位させる。後醍醐は諦めず、三種の神器を持って吉野に行った。「俺天皇だから」などど言い出し、そこにも朝廷ができた。京と吉野に2つの朝廷が誕生し、京(持明院統)=北朝、吉野(大覚寺統)=南朝、と南北朝時代が始まった。

明徳3/元中9(1392)年、室町幕府三代将軍・足利義満により、南北朝が解消された。南朝が持っていた三種の神器北朝に渡すという形の決着。北朝天皇はそのまま在位、官職も北朝方の公家で占められていた(南北朝合一の条件は、両統迭立だったが約束は破られた)。で、南朝方は無職になる。これを不服とし、色々あった末に後南朝ができる。後南朝応仁の乱が始まった頃まで、紛争があるたび担ぎ出されていたが、いつの間にかすうっと消えた。

明治になり、南北朝のどっちが正統かという論争になり。三種の神器を持っていた南朝が正統だということになった。しかし、現在の皇室は北朝の末裔である。農家の三男坊(熊沢天皇)が「俺は南朝第118代天皇だ」などと主張したり、そのほか数名の天皇が現れたりしたので、現皇室の皇統が正統である。ということになっている。

布施氏館

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篠ノ井駅近くの普通の住宅地にある神社。鼻顔稲荷といい、佐久市にある鼻顔稲荷神社の御分霊を祀っている、とあった。

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日本五大稲荷のひとつといわれ、創建は永禄年間(1558年~1569年)、商売繁盛を願う望月源八たちにより勧請された。伏見稲荷から勧請されたそうな。社殿は懸崖造り。文字通り、崖に社殿を懸けるというものだが、なぜかこの懸崖造りの寺社が長野県内で妙に多いらしい。理由は謎のまま。懸崖造りで最も有名なのが京都の清水寺

 

篠ノ井の鼻顔稲荷の周辺に、布施氏の館があった。広さは南北130m、北辺の東西幅120m、南辺の東西幅70mというちょっといびつな形。

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鼻顔神社周辺の様子。普通の住宅地、何も変わったことはない。

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↓(多分)堀跡たち。

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遺構は全くない、という話だけど、ほんとに何一つない。駐車場の隅っこに説明板がひっそりあるだけ。布施氏は川中島周辺に大きな勢力を誇った一族だというが、その面影がない。

 

大治4(1129)年に北面の武士をやっていた伊勢平氏の平正弘さんという方が、高田郷・市村郷(ともに長野)・野原郷(穂高)・麻績御厨(麻績)を与えられたのが始まりのようだ。彼の子が信濃にやってきた。11世紀末に布施惟俊さん(平正弘さんの息子さん)がこの地に土着し、彼が布施氏館の初代となる。ややこしいけど、「高田郷」は布施高田のことではなくまた別の場所。

「布施氏」はそれ以前は茶臼山城(篠ノ井有旅)にいたらしい。安和2(969)年、望月氏が移り住み布施郷を統治し氏も布施に改めたと言われている。望月氏は東信を拠点にしていた滋野氏の後裔とされている。

布施氏が最初に住んでいた有旅という場所には「有旅城」「有旅古城」という2つの城の存在をにおわす書物が残っているというが、この2つのお城は実在するかどうかも分からないようだ。他にも「須立之城」「篠ノ城」などのお城をいくつか持っていたらしい。他にも大塔合戦で使ったと言われる「宴の城」というお城の伝承も残っている。名前的に大塔合戦の戦勝祝賀会の会場のようだが、大塔合戦では布施氏は破れた守護方だったそうです(布施兵庫助さんが従軍、討死)。宴の城は布施氏の持ち物ではなさそうだ。

 

ごっちゃになってきた…平正弘さんの嫡男は別にいる(平家弘さん)ので、新しくもらった領地に元々土着していた豪族・布施家の名前を継いで新領地の経営を円滑に進めようとしたのか。

平正弘さん・家弘さんは保元の乱崇徳院側についた。正弘さん流罪、家弘さん斬首。もらっていた所領もすべて没収。が、近親者の布施惟俊さんにお咎めがあった形跡はなし。ひょっとしたら別の一族だよ、ということにするため布施氏の苗字を継いだのかもしれない、なーんて妄想も…。

布施さんが平家一門であったことは間違いないようだ。治承1(1177)年ころの平家一門の所領として、「布施御厨」「富部御厨」の名前が見える。布施御厨、富部御厨ともに伊勢神宮の荘園である。布施御厨の管理人が布施さん、富部御厨の管理人が富部さん。この二つの荘園は、11世紀末に伊勢神宮の造営のために臨時に課した税が払えず土地を物納したために成立した御厨。伊勢神宮の支配は甘いらしく、荘官(管理人)やると美味しい思いができたんじゃないかと思います。最終的には押領しちゃったみたいだし。

平家物語にも布施氏の関係者が出てくる。富部家俊さん(平正弘さんの孫、布施惟俊さんの子)は養和元(1181)年の横田河原の戦いで城長茂方(平家方)として従軍していた。富部(戸部)さんは長野市川中島御厨にかつてあった富部御厨を支配していた。ここには戸部氏の居館跡の戸部城と思われる遺跡がある。

平家だった布施さん、富部さんとも滅亡せず、その後も鎌倉幕府の書類など(御家人として合戦に従軍した記録、年貢未納の記録)に名前が登場する。戦国時代には両氏とも村上氏に属した。村上氏が武田氏に敗れると、布施氏は武田氏に下り、富部氏は村上氏とともに越後へ落ちていった。

武田氏も滅びると、布施氏は越後の上杉氏に従う。上杉氏の会津移封で布施氏も会津に移り、布施一族は信濃からいなくなってしまった。布施氏館は更級郡の中心地になっていたようで、布施氏館跡の近くには更級郡役所の跡地があった。主のいなくなった館は邪魔だったんだろう。壊して別の建物を。

 

布施氏の先祖・望月氏は滋野氏の後裔。滋野氏というのは、賜姓皇族だと自称している(祖先が皇族だというのは、かなーり怪しいと言われている)。しかし平安初期から名が記録されている古い名家であることは間違いない。

滋野氏は東信に大きな武士団を率いていた。それが「滋野党」である。後裔の海野氏、禰津氏、望月氏を「滋野御三家」と呼び、その他滋野家の親戚筋にあたる武家で形成されていた。この大きな武士団は滋野氏の当主が信濃国司に任ぜられた貞観12(870)年から天正10(1582)年まで存在していた。天正10年という年は信濃国が大きく変わった年、武田家が織田家に滅ぼされ、織田家も滅んで、近隣の武将たちがせーので信濃攻略しにきて、信濃の国人衆が右往左往した年。

滋野党はいつのまにか、滋野御三家が運営する武士団に変わっていった。どうやら本家の滋野氏は没落していったようだ。鎌倉幕府御家人になり台頭した海野氏が滋野氏嫡流と称し、御三家筆頭格だったようだ。本当に嫡流かは怪しく家系図乗っ取りかもしれない。禰津氏と望月氏は、海野氏から枝分かれしたとか、兄弟筋(長男家・海野、次男家・禰津、三男家・望月家)だったとか、いやむしろ望月氏から海野氏・禰津氏と分かれたとか、家系図によってまちまちで、こちらも怪しい。しかし滋野御三家はお互いに喧嘩せず助け合い、関係は相当良かった。

海野氏は村上氏や諏訪氏、武田氏など近隣の武将との戦いで徐々に弱体化していき、同じように禰津氏・望月氏も力を失っていく。滋野党は武田家に属することになった。そして武田家滅亡の年に、最後のリーダーだった望月家当主の望月信雅さんが滋野党解散、望月さんは責任を取ったのか世捨て人になってしまった。

海野氏の後裔と称するのが同じ家紋を使っている真田家、禰津氏宗家は真田の家臣、禰津氏傍系は大名に(3代で断絶)、望月家は滅亡、武士をやめた。

佐久の鼻顔稲荷を創建した商人の望月源八は、望月氏の子孫とされている。布施氏も望月氏の子孫とされている。布施氏領内にも鼻顔稲荷をわざわざ勧請したのは、こういう繋がりがあったせいだろうか。

 

「布施」の字が出てくるものはもうひとつ。

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第1次川中島の戦い、通称・布施の戦いである。今年で460周年。

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第1次川中島の戦いは、主にふたつの合戦から成るようだ。最初は八幡の戦い。八幡の戦いは、天文22(1553)年に武田さんに負けた村上さんが、越後の長尾さんの支援を受け、武水別神社付近で勝利するまで。居城(葛尾城)をいったん奪回した村上さんであったが、しかし再び武田さんに攻められた村上さん。こらえきれずに越後に逃れる。今度は長尾さん自ら兵を率いて武田さんと対決しようとし、まず布施の戦いで武田の先鋒を破る。小競り合いはあったけど、お互いにそれなりの成果もあったしー、ということで。けっきょく直接対決なく両軍は国に帰っていった。

 

 

★☆☆☆☆

布施氏の遺跡はない。

 

 

<布施氏館>

築城年 11世紀末

築城主 布施惟俊

構造 平城

 

高島城

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諏訪に出かけました。高島城です。こちらは天守・櫓・門とありますが太平洋戦争後に再建されたもの。石垣は築城時のもの、だそうです。

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では、まず天守へー。

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資料館も兼ねてます。建物が再建されたのは昭和45(1970)年。お城のこと、諏訪藩のこと、藩主の生活ぶりや調度品の展示など。小ぶりな天守で、中もさほど広くなかった。

高島城は日根野高吉という人が築城した。この辺りは諏訪大社神職から戦国武将になった諏訪氏の勢力下だし、諏訪藩の藩主も諏訪氏だと思っていたので少し意外だった。日根野という苗字、自作の兜の人と同じじゃん。と思ったら、その日根野頭形兜で名高い日根野弘就の息子さんだという。

和泉国出身の日根野備中守弘就が小田原の北条家に転職した、その子・織部は美童だった。という話(武功雑記 巻十)を見つけてしまったのだが、そのイケメン織部が高島城を築城した日根野高吉だそう。

日根野高吉さんは、天正18(1590)年の小田原征伐での武功により、諏訪(高島)を与えられ、諏訪藩主となった。高島城は文禄元(1592)年より築城。当時この場所は諏訪湖のほとりだったため、難工事となった。地盤がね…だけど流行りのカッコイイ城を作りたかったため、石を頑張って積んだ。しかしいくら積んでも石は足りず、近くの城(金子城)で使われていた石、墓石、石仏を総動員したという。短期間の工期でお城作るときによくあることらしい。が、今回の場合は石を積んでも積んでも沈む、壊れるの悪循環で、近場の石を根こそぎ奪ってでも絶対石垣完成させてやると暴挙に出たようだ。そのためイケメン織部の評判は悪かったという。

7年かけて、ようやくお城は完成。天守のある側が諏訪湖だったので、見た目は非常に美しかったそう。頑張って石垣作った甲斐があった。しかし、日根野家は2代で国替えとなり、代わりに旧領復帰した諏訪氏諏訪湖干拓事業でお城の近くに田んぼを作った。諏訪湖の位置が変わり、高島城は普通のお城になった。日根野さん、あんなに頑張って石垣作ったのにね、もったいない。

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天守から見た諏訪湖。本当はこの真下まで湖面が広がっていた。

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諏訪湖の反対側は本丸跡。今は庭園。近所の小学生が写生に来ていた。

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お堀もこの部分のみ。

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次は冠御門へ。こちらも再建されたもの。手前の橋の名前は冠木橋というお名前。

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お堀の様子。

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多分、この冠御門が表門だと思う。本来の名は「冠木門」といい、その意味は「左右の柱の上部に一本の貫を通しただけの簡単な門」だそうな。

こんな感じの門か↓ (参考荒砥城

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これは簡素な門ではなさそう。2階部分もあるし。説明板によると、ここは当初、冠木門だったが、後で屋根つきの門に建て替えられたのではないか。とあった。

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実際は楼門あるいは高麗門と呼ばれる、かなり立派な門だったとのこと。高島城の古い本丸の絵図によると、冠木門の両脇に「御多門」という名称が残っていた。これは石垣の上に建てた長屋で、防御壁と武器庫を兼ねている建物らしい。現在その長屋は復元されていない。ちなみに御多門は城をぐるりと取り囲んだ石垣の上にほぼ配置されていた。敵が攻めてこられない諏訪湖側にないだけ。これはどちらかというと櫓の役割をしているような気がする。

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この冠木門が正門で、番所を通り本丸の玄関に到達する。

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冠木門両側の石垣。立派に積まれている。この場所の石垣は高島城の中でも規模が大きいものだそうな。正門だもんな。石垣は沈まないよう、大木を筏で組みその上に積んでいる(これは築城当時の最先端技術だった)。

近くの説明板には、高島城は衣之渡川・中門川などの川を堀とし、諏訪湖に囲まれており、城下町に通じる道(門)は一か所しかなかった、という。つまり、三の丸の大手門しか陸地へ通じてないということ。その道を封鎖したら、あとはお城に行くには船で渡るしかないのだ。それに今気づいた。

「高島」というのは諏訪湖にあった島のことで、築城前は漁村だか集落があった。日根野さんは住民を追い出してその島全体を使ってお城を築いた。陸地への唯一の道はたぶん桟橋みたいなやつだったんじゃないかなー?

「諏訪の浮城」とかいって、天守がある側に湖があっただけでちょっと大げさじゃないの? と実は思っていた。本当に諏訪湖の中にあったのね。お城に謝りたい。

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内部は庭園。本丸御殿跡はそれらしきものが一切ないものの、隅のほうには櫓跡、多門跡という表示があった。

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東角櫓。内部はお座敷があった。どうもお茶室らしい。炉を設置できるようになっていた。この角櫓の近くには野点用の真っ赤な傘が常設されていた。

 

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諏訪護国神社

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ここは元「御川渡御門」という門があり、諏訪湖に面していた時代には船着き場として使われていたようだ。有事の際はここから諏訪湖へ逃げられるようになっていたのかもしれない。門は移築されたもので、「三の丸御殿裏門」という名前。ちょっとややこしい。

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本丸西側石垣。本丸正面の石垣とは段違いの貧弱さ。ばらばら、適当に置いているけど大変だったはずだ。

 

せっかくだから諏訪湖にも行ってみた。

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間欠泉センターの近くの足湯でまったり。

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本当は水上バスに乗りたかったが、今は土日しか運航していないようだ。遊覧船は動いていた。

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諏訪湖には神社らしきものが。

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初島という人工島だそうだ。諏訪湖の花火大会の打ち上げ台として作られた。が、鳥居も見える…。新しい神社で、名前は初島神社。昭和29(1954)年に建立、御祭神はもちろん建御名方神。この神社も御柱をやっているそうな。

 

 

★★★☆☆

浮城だとか大げさなんだよー ってホントにずっと思ってた。長崎の出島もそうだが、絵やイメージと現在の様子が全く違うから、現物見ても凄さがあんまり伝わってこない…。

 

 

<高島城>

築城年 文禄元(1592)年

築城主 日根野高吉

構造 平城

 

 

上田城

上田城に行ってみた。通るたびにいつも混雑しているようで、どうしようかなと思っていたが。今日は平日だし、と出かけてみる。

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まずは、上田藩主居館跡。現在は上田高校になっている。場所は上田城三の丸にあたる。この門は寛政2(1790)年に作られた。居館自体はもちろんなく、表門とその周辺の土塀・濠のみ遺されている。

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こういう高校、かっこいいな。

 

ここに来た時点で、観光客は一人、二人。ひょっとしてあんまり居ない? と思ってしまった。じゃあ上田城にも。と向かってみたところ。

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まあまあいた。ここには何度か来たことがあるが、今は平日でも、1年で一番混雑する桜の季節なみの人出があるようだ。ここは二の丸のお堀にかかる橋。築城当時からこの場所にある。お城本丸への入り口は3か所。ここは東側の入り口。三の丸と二の丸を結んでいる。

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実戦でも落ちたことがないお城。堀が深い。今は遊歩道になっている。

それにしても、この道、やけにまっすぐで綺麗、なにか不自然だなと思っていた。実は上田温泉電軌(上田電鉄の前身会社)北東線(のちの上田交通真田傍陽線)の廃線跡を利用しているんだそうな。上田駅から地蔵峠経由で、こちらもすでに廃線になってしまった長野電鉄屋代線の松代駅を結ぶ壮大な事業計画を立てた。壮大すぎて計画倒れになったようだが、上田温泉電軌北東線として旧真田町まで線路を敷いた。遊歩道が線路跡なので幅も変わらず、まっすぐ延びているのだ。

開業は昭和2(1927)年、全通は翌年。この路線により菅平高原が開発されそこへ向かう観光客や沿線で収穫された農作物の輸送などで栄えた。しかし1960年代後半から赤字になってしまい、昭和47(1972)年に廃止。探せば、電車が走っていた当時のトンネル、ホーム跡、架線柱跡があるらしい。

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本丸へ入口。上田城で最も有名な門である。正式には東虎口櫓門という。ここに有名な真田石がある。このお城を作るときに近くの山(太郎山)から掘り出した大きな石のことで、見えている部分は2.5m×3m。上田から松代藩に移ることになった真田信之が「父上の形見」として運ぼうとしたけど、どうにも無理だった。という逸話が残る。この当時、お城は再建されていなかっただろうと思うが、石垣は壊されてなかったのかな。真田石の上にも石がけっこう高く積まれてるんだが、全部壊してでも松代へ持っていこうと思ったのだろうか…石垣って簡単に組めたり壊したりできるのかな、実際やったら相当めんどくさいし、お金もかかる工事になりそう。

 

上田城は、天正11(1583)年徳川家康の命令で、真田昌幸が築城した。目的は領地を接する上杉氏への備え。天正13(1585)年、上杉氏が徳川氏に対する備えとして増築。第1次上田合戦が起こり、真田氏が徳川軍に勝利。

(↑なんか酷い話だと思ってしまったのですが)

その後、大規模改修され、戦に備える。慶長5(1600)年関ヶ原の戦いが起こる。同時に起こった第2次上田合戦にて徳川秀忠軍に勝利する。しかし、関ヶ原の戦いでは徳川氏が勝利したために真田氏(真田昌幸・信繁父子)は罪に問われ、配流幽閉となった。上田城徳川氏により破却。

寛永3(1626)年、当時の上田城主・仙石忠政によりお城の再建が始まったが2年後に忠政が亡くなったため頓挫。本格的な再建はされず、現在に至る。

今残っている櫓や門などは、仙石忠政の時代に作られたものである。

 

大河ドラマの特設館は二の丸にある。東虎口櫓門のすぐそば。屋台が多く出ていて、食欲をそそるいい匂いが。メインの場所であるため、さらに観光客が増えた。真田石には記念撮影したい人が順番を待っている。待てない人は門の近くの石垣で撮影。

櫓門付近は空堀になっている。

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しかし、水抜き用の穴が見えるので、本来は堀だったのではないかと言われている。

 

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櫓門の本丸側から。

このお城は二度実戦を経験しており、その二度とも対徳川。しかも負けたことがない。特に有名なのは、徳川秀忠軍を足止めさせ秀忠が関ヶ原の戦いに遅刻して家康に怒られてしまう、第2次上田合戦。この戦い、真田方に真田昌幸・信繁父子、徳川方に真田信之がそれぞれ参加していたそうだ。以後、信之さんは「真田家に恥をかかされた」と秀忠さんの恨みを買い、パワハラを受け続けることになったっぽい。

お父様の昌幸さんと弟の信繁さんは大人の事情で死罪を免れ、九度山に配流された。昌幸さんは失意のうちに亡くなり、信繁さんは見た目が激変するレベルの極貧生活を送る(禿げて歯もなくなったとか…)。伝説では信繁さんの奥さまが開発した真田紐という組紐を皆で作り、行商して生計を立てていたという。しかし徳川さんにキツい監視を受けていたので貧乏から抜け出せなかった。

関ヶ原の終戦後も最初は昌幸さんも「ちょっと秀忠君と遊んだだけ―」ぐらいの感覚でそのうち家に帰られると考えていたようだが、当の家康は心の底から大嫌いな爺と憎み切っていたために許すとか有り得なかったと。家康さんの昌幸嫌いは皆よく知っているのでそれを逆手に取り、「あいつを減刑して、ワシの度量の大きさを見せつけるんじゃー」と流刑にしただけだった、という。

 

上田城徳川家康関ヶ原の戦いで勝利した翌年に壊された。関ヶ原の戦いののちに上田領は信之さんが受け継ぎ、元和7(1621)年にお城や城下町の整備を徳川さんに申請したが却下され、翌元和8(1622)年に松代へ移動させられた。一応栄転にあたるものの、信之さんはぶつくさ文句を言い、上田城や領内関係の資料を焼き捨て、城の庭木をむしり取って引っ越したそうな。これも嫌がらせの一つと感じていたらしい。

上司からのパワハラ、よほど頭に来たらしい。真田家では家康公より拝領した品が納められているという長持を「家宝」として24時間見張らせていたが、明治に入り中を開けて確認したら石田三成からの書状など反徳川とみなされても仕方ないような文書が入ってたという。

 

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真田神社。人が並んでいるとこを初めて見た。大河ドラマ聖地巡礼に来る人ってこんなに多いんだ…そりゃ誘致運動もするよね。

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城外脱出用の抜け穴(井戸)。

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本丸のあたり。家康さんにより破壊されてから数百年ずっとこのままなのかな? 今はいろいろな碑が建てられている。

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f:id:henrilesidaner:20160512104126j:plain 内堀。

f:id:henrilesidaner:20160512104123j:plain 西櫓。

f:id:henrilesidaner:20160512104124j:plain ハシゴをかける場所?

 

西櫓から、尼ヶ淵に降りる。

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下りるの、けっこう急。

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尼ヶ淵という名前の通り、ここは築城当時川が流れていた。今は駐車場と公園になっている。「淵」は、河川の流水が緩やかで深みのある場所という意味で、南側の堀と兼ねて水運も行われていたのでは? という説もある。

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築城当時は、石垣もなく↑こんな感じの崖だった。

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江戸期に護岸工事が行われ石垣が作られた。なんでも、この崖は非常にもろく、洪水があるたびに削れてしまうと説明文が。

ここは3つの地層から成る崖で、上から①上田泥流層(火山が崩壊して土砂が堆積したもの)②火砕流に由来する粉じん③染屋層(川の作用で砂礫が堆積したもの)、②が最も脆く(なんか全体的に水に弱そう)、これを中心に崖が削られるんだそうな。本丸の櫓のごく近くに崖が迫るということは…ひょっとしたら洪水でぶっ壊れたかもしれない脆い城だったのか。タモリの街歩き番組でこのお城に来たときは「崖削りやすいから、お城のお堀工事も簡単」と紹介されていたけど、維持が大変そうだな。

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享保17(1732)年に大洪水に見舞われ、ここの崖が大きくえぐられた。翌年の享保18(1733)年から石垣を築き、崖の浸食からお城を守る工事を命ずる。大規模な護岸工事はこの時ぐらいだが、築城当時からちょこちょこと直してはいたようだ。

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↑こんな感じで。あとから付け足した部分が目立つ。

そこまで悲壮感がなく、大掛かりな工事をほとんどしなかったのは、ここには政庁がなく(三の丸の藩主屋敷で執っていた)ほぼ廃墟だったからじゃないかと思う。

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諦めてやってない部分もあるし。

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南櫓遠景。この櫓下の整った感じの石垣は平成に入ってから修復された、一番新しい石垣。

 

★★★★☆

2度の実戦を経験し、輝かしい戦歴を残しているお城。城内の施設は徳川家により、全部壊されてしまっていると思われる。実際どういう防御施設があったのか、建物の配置だとか、このお城の築城当時の構造は謎だそうだ。天守あったかも? というお話。

 

 

上田城

築城年 天正11(1583)年

築城主 真田昌幸

構造 平城

古峠+東山道支道

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前回、ここに向かおうとしたら通行止めで断念した。冬季通行止め解除後のGW中、天気が良かったので行ってみる事にした。

ここの峠を調べていて、ものすごーく景色がいい場所だと知った。

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長野方面、こんな感じ。写真の腕が悪いので写りがイマイチだけど、実際は「おおっ」と言いたくなったぐらい感激した。知る人ぞ知る…と言う感じだと思っていたが、わりと有名な場所だったようだ。先客いたし、ガードレールに落書きが酷い。

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反対側の麻績方面は。

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分け入っても分け入っても青い山、という句を思い出したぐらい、ただただ眩しげな緑一色。麻績から善光寺平へ向かう人は長野方面の絶景に心打たれたかもしれないが、逆の人は「まだ山が…」とため息をついたかもしれない。集落が全く見えない。

古峠は、東山道北陸道を結ぶ連絡路であった。当時の国府は信濃国は現在の松本市越後国上越市に置かれていた。この二つの国府を結ぶ道でもある。現在の新潟県は対蝦夷の城柵(渟足柵、磐舟柵)があり、抗争の最前線の場所であったようだ。渟足柵は大化3(647)年、磐舟柵は大化4(648)年に置かれた。渟足柵は記録上、日本初の城柵である。城柵とは軍事防衛拠点だが、その周辺に人(柵戸)を移住させて開拓と警備をさせている。柵戸は、イメージとしては北海道の屯田兵みたいなものだろうか?

磐舟柵には「越(越前)、信濃から民を選んで(移住させ)初めて城柵を置く」という記録があるようで、北方の敵の備え用に人材物資は信濃からも供給されていた。入植と蝦夷征服が成功したあと、和銅2(709)年ごろ出羽柵を作る。和銅5(712)年に出羽国が置かれ、和銅7(714)年信濃・上野・尾張・越後などから柵戸を移住させている。

城柵の城と柵の使い分けが知りたかったが、どうやら使い分けてないらしい。多賀城とも多賀柵とも書かれる(どちらもキと読む)ので、書いた人のその時の気分で書きわけてるのか…?

そういえば万葉集にも信濃出身の防人の歌あったな、と思いだし、ちょっと調べてみると3首ヒットした。うち2首がこの近くに関係する単語が含まれていた(埴科郡出身者と小長谷部さんの名前=小長谷部はオバステの語源とも言われている)。信濃から九州に向かう人々もいたのか(歩けば1か月以上かかるのかね…)。この近辺は兵役に就く人を出せるぐらい大きな集落があったにだろう。多分こことかかな?

古峠周辺の様子。

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冠着山(姨捨山)

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↑羽尾方面(崩落のため通行止め)

この峠は聖瑚・羽尾・麻績・上山田(冠着山)の四方向からの道が交差している。古い時代の交通の要衝だったせいか、あちこちから集まってる。5月22日にヒストリカGPというのをやるので上山田方面は通行止めだそう。年代物の自動車がこんな山道を走るとか…上れるのかちょっと心配。他にクラシックカーの展示もやるとのこと、私の好きそうな内容だった。またお出かけ先が増えましたよ。

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古峠越えルートも復元されているとのこと。おお、それは是非とも通りたい。

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見た感じ、無理。

こんな感じだった。この先、崖をへつるような感じの危ない道な気がする…なんとかなるかもしれないが、なんともならないかもしれない。先が見えないや。案内板にも「古峠直下は、急峻であり、崩落の痕跡もあったため」という文章が。他の2つの峠越えの道は造られてからずっと使われて続けているのに、ここは険しすぎて捨てられたのか。

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ちょっと行く気がしないので、止めた。

 

代わりに、一本松峠の支道を歩いてみることにした。

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この建物周辺の道を。

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まずは一本松峠にもう一度行ってみる。

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250mの区間なのであっという間に一本松峠に到着。道幅は思ったより狭かった。

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f:id:henrilesidaner:20160511125457j:plain 祠は今日確認してみたが、やはり見つからなかった。林道沿いにはないのか、すでに撤去済なのか。

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なんもない場所なので、また戻る。

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公園内に入ると、支道はマレットゴルフのコースと兼用されるようだ。特に目印もないので迷いそう。

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しかも唐突に分かれる。

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左側にちょっと見えてる平地はマレットのコース。

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公園内では道幅が急に広くなった。たぶんこれが本来の道幅だったんじゃないのかな。まっすぐでいい道。さっきの峠付近も本当はこのぐらいの道幅で、もうちょいまっすぐだったのかも? と妄想してしまう…。

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ともあれ、マレットのコースにはちょうどいい幅だよねえ。

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そしてまた分岐。今度はマレットのコースと被ることはなかった。

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道路が見えてきた。公園内の部分は終了のようだ。

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公園内は550m。こちらもまっすぐで歩きやすかったためか、あっさり終わる。駐車場からどんどん離れてしまうので、今回はここまで。

東山道支道は(姨捨SA)→亘理(わたり、犀川渡し場)→多古(三才~田子)→沼辺(古間or野尻)→水門(直江津)・越後国府と駅を結び、水門駅で北陸道に接続する。この部分は、鉄道の昔でいう信越本線と同じルートらしい。

当時の有力豪族や集落がある場所に駅を置きたいために、こういう道筋にしたと言われる。亘理の場所は特定されていないものの、他はナウマンゾウの解体場所だったり、古くからの港町だったり、道が敷かれる前から栄えていた集落を結んでいるようだ。古峠・一本松峠付近も同じく「姨捨」には有力豪族・小長谷部氏がいたり、山間部ながら古屋敷という地籍には縄文式・弥生式のムラの遺跡が残されている。

こんな山の中…と思ってしまうが、当時の生活には非常に都合のいい立地条件だったようだ。山で猟ができる・木の実や薪が収集できる・川があるのに水害が少ない・川からも魚獲れる、そういう場所が好まれた時代だったようだ。しかも都と直結している街道筋なので、最新の農業技術もバンバン伝わる。水源も確保できるので農業も発展していったらしい。

 

古屋敷地籍の近くには、こんな大きな池があった。

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この近くに「大池八幡宮」という神社があったので、大池という池なのだろうか。神社はすぐ近くらしい。なにかとても古い神社のようで、案内板もあった。行ってみよう。

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中央奥が社殿。創建年は分からないが、とにかく古い、とだけあった。御祭神応神天皇、明治になってから保食神が合祀された。この神社もともとは2500㎡の敷地を持っていた。明治期に社地が縮小され、社殿も火災に遭い現在のこじんまりしたものになってしまった。

養和元(1181)年、横田河原の戦いの時に木曽義仲の先遣隊の将・楯六郎親忠がこの神社で戦勝を祈願し、兵馬を隠したという古伝があるそうだ。

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今でも隠れるのには良さそうな。

 

 

★★★★★

かねてから気になっていた古峠。景色が素晴らしい。晴れた日を選んで、また何度か見に行きたい。

 

 

<古峠>

開通年 大宝2(702)年以降

施工主 国

 

夏目城

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お城跡は神社になっていることが多い気がする。神社になっていなくても、ほぼ祠はあるような? 合戦で使われるものだから、慰霊のために神社や祠をたてているのだろうか。

湯入神社も昔は「夏目城」という名前のお城だったという。

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二ツ柳城のご近所さん。夏目氏というのは二ツ柳氏から分かれた一族なんだそうだ。こちらも早い段階で廃城となり、夏目氏は三河国に移住している。移住した時期は室町時代前期らしい。三河国に六栗城というお城を築城している(このお城は永禄年間(1558~1570)に築城されている)。戦国時代には徳川家の家来となっていた。家康の命を救った夏目吉信がいる。さらに時代は下り、小説家の夏目漱石さんや漫画評論家の夏目房之介さんも子孫にあたる。

元は同じ一族だった人たちが築城したためか、二ツ柳城と夏目城はよく比較される。双子のようだと評される。

個人的にはこちらのほうがより強固なお城に見える。二ツ柳城の周りは畑だらけになってしまったから、元のお城とだいぶ改変されてしまっているかもしれないけど、ぱっと見は夏目城のほうが攻めるの難しそうな気がした。

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階段は直線で伸びている。石段を排除すれば、なんとなく元のお城の風景が想像できる気がした。階段の形状が二ツ柳城にすごーく似てるんですけど!

ふたつのお城、どちらが先かと考えたら、多分二ツ柳城かな? 夏目氏初代は夏目国平(1175(安元元)年?~1125(嘉禄元)年)という方で、お父様の二ツ柳国忠が軍功によりこの地(夏目郷)をゲットしたそうな。国平は二男だったので分家し、夏目郷をもらって夏目氏を称した。普通に考えれば、その時には二ツ柳城が存在していたと思う。見た感じもこちらのお城の方が強固だし、見本がありそれを改良して堅くしたならすんなり納得できる。

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石段がようやく終わり、神社本殿に到着。

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ごく普通の神社だー。本殿がある場所が本郭だろう。わりと広い。本郭跡の平場の隅っこにちょっと高くなっている場所があった。

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あったのは祠が数前。

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裏側はこんな感じ↓

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二ツ柳城にもこんな感じのものがあったな、そういえば…。こちらは見晴らしのいい場所(盆地が見渡せる側)にあるが、二ツ柳城はお城の奥まった方(山側)にあった。

全体的な広さでいえば、夏目城の方が広い。

神社裏には。

f:id:henrilesidaner:20160416122215j:plain 土塁があった。その後ろ、山側は畑だった。

帰りは石段ではなく、別のルートで降りる。舗装された九十九折の道。神社とその近くの畑まで車で上がれる。1車線幅でちょっと狭い。右側が本郭側。

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ちょっと改変してあるかもしれない。が、雰囲気はよい。

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 夏目城と二ツ柳城。似ている部分が多い。違うのは、二ツ柳城は石垣があった。夏目城にはない(そもそもあの石垣は後世のものだと思うが)。

 

大塔合戦で守護方が逃げ込んだ「大塔の古要害 」とは二ツ柳城という説の他に、この夏目城も有力視されている。

大塔合戦に参加した人が「二柳城における戦功」により恩賞を要求した記録が残っているため(ただしこの記録も、大塔合戦での戦功かどうか定かではない)、最も有力な説は二ツ柳城ではある。しかし、二ツ柳城で確定、とならないのはあのお城が素人目で見ても貧弱だから。

・こっちの方が堅そう

・夏目城と二ツ柳城はかなり近い

・城の構造がかなり似ている

・夏目氏はもともと二ツ柳氏であり、お城の名前も混同された可能性?

と、私でも思いつく理由を並べたが、そんなこと他の人も当然考えているだろう。で、決着できないのだろう。古文書やお城発掘で何か出てくるような発見がなければ、ちょっと無理かも。個人的には、まだこっちのほうが籠城には向いているかな、と思う。守護方が目指していた塩崎城も夏目城のほうが近い。

あと、二つとも使われたと考えている人もいる。二つセットだったとしても、メイン利用のお城はやっぱり夏目城ではないかと思う。

ちなみに大塔合戦の「大塔」というのは、地名とされている。現在の地名では「大当」といい二ツ柳城の方が近い位置にある。

 

★★★★☆

車で楽々行ける、雰囲気も壊されていないお城。

 

 

<夏目城>

築城年 鎌倉時代?

築城主 夏目氏

構造 平山城