お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

広田城または藤牧城(東昌寺)

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広田城こと東昌寺に行ってきた。

ここはややこしい。長野市文化財データベースでは「藤牧城跡(東昌寺)」ということになっている。東昌寺から徒歩数分の場所に昌龍寺というお寺さんがあり、データベースでは「広田城跡(昌龍寺)」とあった。その根拠は分からない。

近所過ぎて「お城が2つ並んでいるはずがない」と世間では思われているらしく、「広田城跡は東昌寺から昌龍寺までの規模」と紹介されていたりもする。

当の東昌寺さんは「広田城跡です」と言っている。

 

城跡だと示すものは、一部残る土塁だけ。

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土塁の前には案内板があった。

・応永7(1400)年頃、広田・藤牧の領主であった広田氏が館を造る

・支配者が広田氏から藤巻氏に変わる

室町時代末期、藤牧氏(藤牧弥之助)が中野市へ移る

・天文21(1552)年頃、武田氏の砦として館跡を改修し広田城とする

・現在残されている土塁は武田氏時代に造られたもの

・江戸時代になり砦は廃止、元文4(1739)年観音堂が建立される

・宝暦9(1759)年長国寺の末寺として東昌寺が創建される

 

この案内板の記述だと、武田氏が「広田城」と名付けたように思える。

①広田氏が広田城(現・昌龍寺)を造る

②藤牧氏が、広田城を廃して隣に館(現・東昌寺)を造成し藤牧城を造る

 又は、既存の広田城を利用しつつメインの館を現在の東昌寺に置き藤牧城と命名

③武田氏に代わり、藤牧城を改修し広田城と改称

これなら色んな情報の整合性がとれるかなー? 地図上の形だと、昌龍寺・東昌寺は各々独立しているようにも見えるのよね。不思議だわ。

 

広田さんは村上支族だが、飯縄町の芋川さんとは姻戚関係にあったとかで芋川さんが断絶したときに飯縄に移り芋川の名を継いだそうだ。戦国時代の芋川さんは村上→武田→上杉と他の北信濃の国人領主と同じような流れで主君を替えていったらしい。米沢藩に芋川さんという家があるので、上杉氏に従い信濃から引っ越していったようだ。

藤牧さんは広田さんの親類だったらしい。身内だったので領地を継いだようだ。藤牧さんがよそへ行った理由は武田氏に追われたから。移住先で帰農したらしい。その子孫が和算家として名前を残している。

 

東昌寺の近くに藤牧神社という神社があった。

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この神社は創建年不詳となっていた。が、古い文献には寛永5(1628)年頃に地元の豪族・藤牧氏により建立されたとあったらしい。天文21(1552)年前後には、藤牧氏は武田氏に駆逐されていなくなっているはず。えー藤牧さん引っ越してないのー? 前述の和算家は貞享3(1686)年~宝暦2(1752)年の人で、その5代前には篠ノ井(東昌寺がある辺りは篠ノ井地区ではないが、その近くではある)に住んでいたとあった。和算家さんの系統とは別の藤牧さんがいるのかしら?

 

 

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東昌寺の創建時には堀も土塁も残されていた、とある。

↓図もあった。なかなか面白いお寺さんだったようだ。

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昭和48(1973)年に堀を埋め立てお寺さんを囲むように道路を作ったと書かれていた。なので堀跡を回ってみた。

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土塁も潰してしまっているので、言われなきゃ分からない感じに。

 

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東昌寺は真田家や長国寺と縁が深いということで、六文銭が随所にあしらわれていた。

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山門にも土塁とは少し異なる内容の案内板があった。先ほどの土塁前の案内板より少しだけ詳しい。

・藤牧氏は相当な勢力

・東西南北に400mの広大な敷地の城、方角は正確、正方形

・お寺が建てられた頃には堀にたくさんの蓮が咲き、美しかった

 

このお寺さん、土塁も堀も残されていたらパワースポットとして売り出せたかも。方角が正確なんて古代の宗教施設によくあるヤツだし、寺を取り囲む掘に咲く蓮はちょっと見てみたい。お寺とか神社にしようと思った気持ちが分かる。

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★★☆☆☆

藤牧城なのか広田城なのか、気になっているものの答えが見つからない

 

 

<広田城・藤牧城>

築城年 不明

築城主 広田氏

構造 平城

  

尾張城

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こんな仰々しい名前の公園に行ってきた↑

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新興住宅地の中にある、ありふれた感じの公園。昔ここに尾張城があったから、そういう名前らしい。

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黒御影石だかの渋く立派な石碑が建っている。この石碑の裏には平成11(1999)年3月の文字。恐怖の大王が降りてくるーと騒いでいた頃に出来た公園なのか。来歴も書かれており、それによれば。

・碑のある場所から北東約70mの場所に主郭があった

天正年間(1573~1591)、尾張備中が住んでいた

尾張部三郎は永禄年間(1558~1569)の初め武田氏に下った、その時に城館を引き払った

・主郭は東西約96m、南北約85m

・二の郭は東西約118m、南北約69m

・内堀、外堀、馬出しがあった、回字形のお城

・平成5(1993)年~7(1995)年、土地区画整理事業に伴い発掘調査をした

・主郭、内堀、馬場など見つかる

・主郭部では多数の建物跡が見つかり、同時に陶器類も発見

新しい碑文のせいか、妙に細かく書いてるような気がした。天正年間から永禄年間で名字が微妙に違うの? 名字にちょっとだけ変化を付けてみようとか? それほど大きな変化じゃないし一体どうしちゃったんだろう。

発掘調査資料だと、尾張備中守という人物や尾張部氏という一族は実在が確かめられない、とあった。とはいえ、この場所の地名には「尾張部」が入っている。

具体的な活動も、「尾張部氏が平林氏を攻めようとして馬で駆けていたら、急に自分の屋敷から火の手が上がったのを見て慌てて戻った」という伝説が残っている程度。しかも尾張部さんと平林さんの戦争の決着すら分からない話。どうせ火付けしたのが敵の平林さんなんだろうから、尾張部さんはそのまま滅んだんだろうと思うけどさ。伝説が尻切れトンボなので気持ち悪い。

とりあえず実際のところは、いつ造営されどういう一族が住んでいたのか何故放棄したか全く分からないという状況。

 

明治時代に入った頃にはほとんど埋め立てられ、水田になっていたということで。区画整理事業でも残さず綺麗に消してしまっているだろうと思う。

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公園の周りの道路や水路も尾張城には関係なさそう。周りの家も新しめな様子で、石碑さえなければ誰も城跡なんて思わない。

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このテの公園にしては珍しいと思ったのが、どんぐりの木があること。

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鈴なりー。子供が拾い集めてた。

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子供はこの公園を甚くお気に召したご様子。そろそろ帰りたいので呼んでも、こちらの言うことなどガン無視。結局子供がウンコ踏みやがったので車へ強制送還した。ウンコとか…やめて欲しい…。

 

★★★★☆

遺構ないけど、子供が喜んでくれたから

 

 

尾張城>

築城主 不明

築城年 不明

構造 平城

 

 

内後館

性懲りもなく、再び住宅地の中にあるお城跡を見に行った。内後館という、小田切氏上屋敷。小田切さん館はこれで3つ目。

上屋敷とか下屋敷とか、大名みたい。江戸時代だと、上屋敷=藩主居住地・(中屋敷=跡継・隠居の住まい等)・下屋敷=別荘となるようだ。江戸以前でも似たような役割なのかしら? 小田切さんの場合は小田切館、内後館(上屋敷)、於下館(下屋敷)の3つのうちメインで使用してたのは内後館なのかしらね? 小田切館は高台にあって平時暮らすには少し不便そうだし。

 

内後館跡は現在民家。来る途中に「村内徐行」という手書きの看板がいっぱいあった。注意を払わないとならないほど道は広くないし、微妙に入り組んでいたりして先が見えづらい。ちょっとづつ大きくなっていった村落みたいな感じなのかな? 道はちょっと複雑。民家も多いが田畑も多い、幹線道路に面している地区ではあるが、昼間だからか騒音もあまり気にならない感じ。長閑な場所だー。

 

 案内板を見つけた。

・昔は堀があった、徐々に埋められ昭和の初めには3つに減った

・小田切氏は村上氏に属し各地を転戦していたが、北信濃に進出してきた武田氏に追われ北部の山へ移動した

・小田切駿河守幸長は弘治3(1557)年戦死

・墓は円光寺にある

 

周り↓

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埋められてる堀かどうかは分からないけど。見た感じ、古い時代の遺構が残っているとは思えない風景ではある。

 

館跡と言われる民家には「小田切神社」なる神社が↓

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田切幸長夫妻を祀る神社(一般人立ち入り禁止?)がある。どうやらご位牌がこちらにあるらしい。

 

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田切幸長さんのお墓があるという円光寺もすぐ見つかった。目と鼻の先。

・建久元(1190)年、明譽上人により開山

・浄土宗のお寺

・小田切駿河守滋野朝臣幸長之墓所

 と案内板に書いてあった。

こちらにお墓があるのは、小田切幸長さんのお孫さんが住職をしていた関係らしい。なんで「小田切幸長」という名前をあちこちで見かけるのかというと、この辺りを攻略中だった武田信玄が感状で「小田切幸長」という名前をきちんと書いているかららしい。抵抗した豪族は十把一絡げに扱われ、個人名は出てこない。信玄が攻めたお城(葛山城)の主は落合という人だったようだが、その人の名前も出ずに援軍の将「小田切幸長」のみ。小田切幸長さんだけはこの辺りの豪族でも抜きん出ていた存在なんだ凄いんだぞ、ということのようだ。ちょっと落合さん可哀想。

 

 

★☆☆☆☆

何もない

 

 

<内後館>

築城主 小田切

築城年 不明

構造 平城

於下館

小田切氏館その2。於下館というそうだ。下屋敷の意味らしい。今は何もなく、住宅地になっている。

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↑於下公民館の北西側が館跡になるらしい。

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何の感想も浮かばない。

「館跡」を示す看板があった。コレがないと探すの苦労するだろうなー。

 

・小田切氏下屋敷(於下館)があった、この辺りの地名「於下」の語源になっている

・昭和30(1955)年頃まで北から東にかけ鉤型の堀があり、夏は釣り冬はスケートが出来た

・戦後の食糧難で畑に変わり、現在は住宅地になった

・昔の名残を留めるものは地名のみ

 

屋敷跡の前の道路が堀跡なのかは分からず。土塁も多分あっただろうし、綺麗に均して区画整理をしてるのかもしれない。

昔はもっとたくさん館や城跡が残っていたそうだが、平地はほぼ消滅してしまっているとか。よほど住民の思い入れが強く残そうという機運が盛り上がっても、全部残すのはほぼ不可能なのかもねー栗田城みたいに一部残っているだけでも凄いことなのかも。

 

 

★☆☆☆☆

住宅地の真ん中に残る館跡の看板だけ見に行くのって、不審者と間違えられそうで勇気が必要

 

 

<於下館>

築城主 小田切

築城年 不明

構造 平城

 

今井神社

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気付くと外は晩秋の景色になってました。ここ最近の記憶がないぞ。

今井神社に行ってきました。

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今井兼平という男を祀る神社です。ところが長野県神社庁のサイトでは天照大御神が御祭神になっている。ちなみに勧請は白鳳元年9月とされている。「白鳳元年」は600年代後半に当たるので、平安時代後期の武将である今井兼平( 1152~1184)と全く関係なさそう。

 

しかし、今井神社という名称は今井兼平に由来する。この神社が白鳳元年に創建されたなら、兼平以前はなんて名前だったのか残っていなさそうなので、本当にそんな大昔からあるのか疑問が残る。

①元々伊勢神社だったが、今井兼平も祀り始めてこっちがメインになってしまった

②兼平を祀ったが物足りない気持ちがあり天照大御神も祀った、創建年は盛った

今井神社によそから伊勢神社がお移りになったが、創建年は伊勢神社のほうが古いのでこちらのデータを神社庁に報告

ぱっと思いついた3つの説。当たっているかなー?

 

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鳥居から社殿まで、参道の両側には民家が立ち並んでいる。その辺の神社にはなさそうな特徴だと思った。

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本殿到着。ここにも神社らしからぬものが。

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土塁があるらしいです。

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本殿周りを土塁がぐるっと。ここは「今井兼平館跡」という説もあるようだ。その跡地に兼平を祀る神社を建てたというのは妥当と思える。じゃ②③のどちらかの説が正解なのか?

ごく近くにも「兼平山切勝寺」という縁のお寺さんがある。名前の通り兼平開基のお寺だそうな。神社の隣には兼平のお墓もあった。

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お墓は人の背丈ほどもある五輪塔。兼平という人は近江国で戦死しているのでこちらで葬られているわけではない。滋賀の戦死した場所にもお墓がある。兼平の菩提を弔う目的で建立されたようだ。案内板の内容は以下の通り。

平安時代木曽義仲以仁王の令旨を受け挙兵する

・諸々あり兵を集めて、横田河原で平家軍と対峙した

・義仲は平家軍を挟み打ちにするため、家臣の今井兼平に平家軍の背後に布陣するよう命じる、そのとき兼平が布陣した場所がココ

・戦勝祈願をしたい兼平は誓いをたて、家来の岩害刑部に切勝寺を建立させた

・その後、兼平は近江国粟津で討死、悲しんだ岩害は兼平のため五輪塔を建立(それが兼平墓)

・昔からこの五輪塔の苔は百日咳の特効薬と言い伝えられており、地元民は五輪塔にお参りをしては塔石を削り持ち帰っていた

最後の特効薬の下り、なんなのかな。五輪塔に縦線の模様が深く刻み込まれていた。相当削り取ったらしき跡。本当に苔が効くのか。今はもう五輪塔には苔が生えていない。現代は予防接種で百日咳のワクチンを打つそうなので、苔なくても心配ないそうだ。良かった。

 

案内板には「陣跡」とされている。だが土塁があるのでおそらく館跡ではないかともいわれる。兼平館説の他に「小田切館跡」説もあるようだ。小田切さん、ここも含めると館4つになる。が、他の3つの館と違って、こちらは「小田切さんち」という伝承が何故か残っていない。小田切さんちじゃないのかも。では誰のお屋敷だったんだろうなー?

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土塁の上には太い欅が生えてた。 樹齢がどのくらいか分からないけど、欅から土塁の造られた年代も逆算できるんじゃないの? 誰かやってくれないだろうか。

 

今井兼平は本名・中原兼平といい、中原氏は安寧天皇の第3皇子を祖とする名家。朝臣を賜った家ではあるものの実務的な職(主に京都の行政職を担っていたらしい)を世襲していたためか、今井兼平の生きていた頃には昇殿を許されない家格にまで落ちてしまっていたみたい。三男坊だった兼平父の中原兼遠が信濃国に移住し、兼遠一家信濃国木曽を本拠とする豪族になったようだ。

久寿2(1155)年、兼遠は齋藤さんという人から駒王丸という子供を預かる。駒王丸というのは源頼朝義経の従兄弟さんで、後の木曽義仲木曽義仲今井兼平は乳兄弟という間柄だそうだ。巴御前今井兼平は兄妹。義仲に最後まで付き添い色々あって、義仲が自殺するのを見届けてから自分も後を追って亡くなった。

全国各地に「今井兼平縁の地」があり、お墓もあちこちにあるらしい。御手付きの女の人もあちこちにいて子孫もたくさん。当時人気の武将さんだったのね。イケメンだったのかしら?

元々この地は「雲井の里」という名前だったそうだが、縁づいたために地名を「今井」に変更。雲井の里の方が綺麗なイメージだよ勿体ない。

 

 

 

★★★☆☆

境内が広く、遊びやすくて良かった

 

今井神社>

築城主 不明

築城年 不明

構造 平城

 

 

 

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拝殿前の石段には雨粒が穿ったような跡があった。雨垂れさん頑張るなーとしみじみ思った。

寺尾城

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朝晩と肌寒くなり、また花粉の季節がやってきた。あーうざい。

もう草枯れてくる頃だろうと山の様子を見に行ってみた。今回は寺尾城。

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本郭には「寺尾殿の墓」と刻んだ墓があるそうな。何故墓なのか。そんな場所に寺尾家の御先祖が祀られているのか、墓参も一苦労だな。だいたい普通は「寺尾城祉」って彫るんじゃないかと思うわ。

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寺尾城登山口。この階段を上っていくと「愛宕社」という神社があるらしい。入口に愛宕社の由緒が掲げられていた。

・御祭神 火之訶具津知神

・永禄3(1560)年社殿創建 これ以前より「愛宕大権現」として鎮座していたらしい

・宝永5(1708)年焼失した社殿を再建 愛宕山長福寺が再建(とあったが愛宕山長福寺というお寺さんが近隣に見つからなかった。廃されたのかも?)

松代城の鬼門除け 寺尾って地名の由来なのか関係ないのか分からないが、このあたり寺が多い

・昭和62(1987)年、周辺河川と道路を改良したついでに石段を移したり、社殿を改修した

 

後で聞いたが、この近くの神社と何か関係あるとか…グーグル先生におたずねしたところ、中條埴志那神社のことらしい。そこの字が「屋敷」だった。あら寺尾さんの館跡なんですかねえ。

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昭和っぽい感じのやつ。階段はけっこう急。

登りきったらお墓が。古いお墓のようで、妙に立派だが文字がきちんと判読できない。多分、身分の高い人のお墓なんじゃないかなー? 見た目がそんな感じ。

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奥の竹藪の隙間へ道が続いていたので進んだら、またお墓。こちらも古い。ただ、お参りする人も絶えてしまったか、うらぶれた様子になってしまっている。途中の道も崩れかけていた。この近くに謎の供養塔があるらしく(供養塔自体は見に行ってないので、正体は知らない)、その供養塔に関係あるのかなと妄想した。

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東寺尾少年団の何かの記念碑。お墓の近くにあったよ。

 

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ここからが昭和62年の改修以前からある参道のようだ。見るからに古めかしい。

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登りきると、また昭和の改修跡。

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道に沿って進む。

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出た、愛宕社。天狗のお面がちょっと怖い。なんか目がギラギラしてるのよー。天狗関係だから、修験道に関係してるのかな? 私は下品・修羅場なお話が好きなので、御祭神の火之訶具津知神という神様は知ってる。伊邪那美はこの神様を産んだせいで、おまんまんが焼けて死んだ。えっ、と思ったこの死因のせいで印象に残ってる。その後この神様は怒った伊邪那岐に殺されたらしい。なんて不遇な。そんな神様のこと忘れられない。

愛宕神社の歴史は修験道の僧によって大宝年間(701~704)に創建された廟から始まっている。火伏せに霊験あらたかな神社として有名らしい。主祭神伊邪那美と、伊邪那美が亡くなった時に産まれた神々のようだ。火傷関係の神様を祀る神社だから防火に功能があるのかしらね。

 

この愛宕社から登山道があるそうだが。ちなみに、こっち側が大手だとか。

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 周りがこんな感じなのですがね。登れますかこれー?

この時点で、私以外の家族は断念。私一人でちょっと上まで行ってみることにした。

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石垣はあるが、これは新しい時代のものに見える。もちろん明確な道はなく、辛うじて獣道らしきものがあるのでそれを頼りに登った。無茶苦茶急。

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何かの石灯籠に辿り着いた。この石灯籠は愛宕社からも見えていたもの。更に進む。

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段々と石垣は見えなくなり、ごく普通の山の中。急ではない。しかし道はなく、なんとなく歩いている状態。しかし人の手が入っているようで、ところどころ伐採した松の枝を積み重ねてビニールで覆うアレがある。

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方向は合ってるんだか分からない状態だけど、とりあえず頂上を目指せばいいんだろ。という感じで高い方へ進む。

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なんか…ゴミが落ちていたりして、人が出入りしている様子が残っている。今回ちゃんとした山に登る気がなく、登山道があるみたいだ→整備されてるだろう→距離も短いかも。と思い込み、愛宕社までやってきた。そのため、シャツ・ジーンズ・スニーカーという本格的な山歩きには適さない格好の上、熊除けの鈴なんかもない。やだなー動物いたらやだなーと思いながら歩いていた。人の手が入っているなら、熊以下動物があまり出てこないかもしれないが。その代わり、爺さんがぬーっと現れてもやっぱり怖い。幸いにして、生き物の気配は感じなかった。

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なんか気付いちゃったんですけど。ポリタンクみたいなのが木に刺さっている。それがいくつかあって…これは目印なの? 親切な人が置いてったポリタンク、日に曝されて割れてしまって、地面に落ちてたり。でも道順が分かるような程度には配置されているっぽい。

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しかしポリタンクはまだ私を手招きし続ける。

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なんか急にお城っぽくなってきた? 先に急斜面見えてきた。

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先の方に巨大な何かが見えた。

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堀切だった。

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これを登ろう。

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 ものすごく急。そして高い。後で調べたら、スロープ状の土橋があったらしい。まともに斜面登っていくのは厳しいわね。

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登りきったらお墓が見えたよー。ついに本郭に到達、長かったように感じたが15分くらいで来られるみたいだ。なかなか骨の折れるお城。子供連れて来なくて良かった。

 

本郭の様子↓

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↑例の墓

私が登って道とは反対方向にも上り口があった(こちらは整備されているように見えた、搦め手だと思うけど正規の登山ルートはこっちなのか?)。搦め手側も相当急で降りる気がしませんでした。堀をまっすぐ進んでくる道らしきものは土橋だったかもしれない。

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さて、待たせているのでもう下りよう。

 

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↑本郭から見た堀切と2の郭

帰り怖いんですけど。土橋の存在など考えることなく、斜面をなんとか下りた。土橋を下って行った方が楽に下りられたのだろうか?

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↑2の郭から3の郭。上から見ると本当によくこんなところ登ってきたな…と感慨深くなる程度の落差。

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また現れだしポリタンク。そういえば城域入ったぐらいからコイツを見かけなくなった気がする。

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石垣が出てきた。この辺りも急だが、愛宕社が近いので頑張る。ただのスニーカーじゃ、足首痛くて困る。

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愛宕社見えた。

無事に下り、愛宕社の参道の石段を降りる。

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遠足終了。待っていた家族には「ちょっと見てくると言った割には戻ってこないので、崖下にでも落ちたかと思ってた」などと怒られた。

 

寺尾城は寺尾氏築城とされる。寺尾さんは諏訪さんの氏族といわれており、それ以上のことはどうやら分からないようだ。

戦国時代には清野氏に従って村上さん側についていたが、天文19(1550)年信濃侵攻中の武田に内通したことがバレ、村上軍に寺尾城を攻められ、陥落。その3年後の天文22(1553)年に武田に敗れた村上と共に越後へ逃れる…というが、3年で随分立場が変わってるねー。私なら一度スパイした奴をすぐには信用しないが。これは武田のスパイという身分のまま越後に送り込まれたということかしら? のちに越後から戻り武田に出仕し、旧領安堵されている(何かしらの働きがあり、その褒美だったのかねー)。武田が滅ぶと上杉に出仕、会津にもついていったらしい。

本郭のお墓、一応戦闘があったので寺尾殿のお墓を建てたのだろうか。当時の城主・寺尾某さんが戦死してるのかな。

 

★★☆☆☆

こういう素朴なお城好きなんだけど、愛宕社からのとっかかりは子供じゃ無理そう。

 

 

<寺尾城>

築城主 寺尾氏

築城年 不明

構造 山城

二ノ入館

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以前、荒砥城に行った時に↑を見たのだが。平時の館の話はほとんど聞かないなとずっと引っかかっていた。この図によれば、「二の入館」というらしい。

幸いなのか、弁天池という池は今も存在しているようなので、とりあえず行ってみる。かなりの田舎な場所のようなので、間違いなく開発されていないだろうから、何か見つかるんじゃないかと思う。図も、かなり細かく書かれているので土塁なんかは今もあるんじゃなかろうか。

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これ↑が弁天池らしい。奥の平屋っぽく見える建物が「善光寺大本願別院」「日本歴史館」。意外と標高が高い感じの山の中だった。

弁天池から荒砥城方面を見るとこんな感じ↓

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弁天池の周りはちょっと人工的な感じがした。

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しかし荒砥城内にあった図には弁天池は館の外にあるようだったので、この池と二ノ入館とはあまり関係ないのかもしれない。

 

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弁天池から館側へ下りた辺り。右側が弁天池。林に覆われており、池があるようには見えない。この場所より高い位置にあるし。

なんかこの辺、アップダウンが激しい。家よりも畑が多く人通りもないため道がかなり狭い。弁天池も人工的に作った貯水池のような気がする。図には載っていたが当時には存在せず、実はごく最近作られた池だったりして。

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↑お城のある山。

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左側がおそらく二の入館跡になるのかな。もしかしたら、二の入館跡地内に入り込んでる?

不安になる程度の山道感。

 

ということで、少し先に行った場所で撮影してみた。ここらが一番二の入館跡の近くのはず。

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やっぱりわかんなーい。

館跡に向かっていそうな道があったのだが、その道がかなり狭い&奥の民家に向かっているので不審者通報されるかもということで、断念した。

 

グーグルさんでこの周りを見ると土塁のようなものもあったが、凄くしょぼい感じがしていて、見てもなんか?だったので違うのかも。とにかく起伏が激しい道だったので、図のような広い館があった感じがしない…。

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ただ、農地がこれだけあるってことは昔は人もたくさん住んでいたんだろうな。

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結局何一つ見つけられず、悲しい思いをして帰りました。やっぱり、あの細い道を頑張って走れば良かったのかな。

 

☆☆☆☆☆

リベンジはしないかも。

 

 

<二の入館>

築城年 不明

築城主 山田氏

構造 平城