お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

荒堀内記屋敷

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杵渕氏の家来だという荒堀さんのお屋敷跡は現在「荒堀公民館」になっている。

こちらも古くからある集落なので、周りは民家。遺構も見当たらず。

 

公民館の敷地内には祠と石碑。

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石碑の方は文字が薄れすぎていて分からない。「なんとか大神」と書いてあるように見えた。裏は萬延とかあったので幕末頃の石碑だろうか。この荒堀公民館の中には雨乞いのお地蔵様が安置されているというので、その関係のものかね? 雨乞いのお地蔵様が何で公民館にあるのかもよく分からんが。ここは昔、神社だったとかなんだろうか。

 

内記は律令制度下の職で、詔勅宣命・位記の起草・天皇の公式行動記録をつける仕事をしていた。字の上手い人が就く仕事だったらしい。よく聞く「外記」というのは内記が上げてきた詔勅などの内容をチェックしたり、除目・叙位といった公的儀式の執行を司る職、とあった。そもそも内記の仕事だった天皇の行動記録作成はいつの間にか外記の仕事になり、ここの職員は多忙になってしまったらしい。そして、最初は同等だったのに内記<外記という位置づけに変えられてしまう。平安時代以降は内記という職が衰退していった。そういう経緯で人気がなさそうな官職のようだ。

 

 

★☆☆☆☆

祠などは気になったものの、他は何もなかった

 

 

<荒堀内記屋敷>

築城年 不明

築城主 荒堀氏?

構造 平城?

杵渕氏館

古い豪族の杵渕氏。ココが発祥の地らしい。

平安時代末期の源平合戦の頃から杵渕氏はいた。養和元(1181)年の横田河原の戦いで戦死した杵渕重光という人がいたようだ。富部家俊の家来やっていたとか。二人とも平家軍所属で木曽義仲の軍勢に討たれたそうだ。

その後はどうなったのか知らないが、「杵渕氏館跡」が今も微妙に残っているので、しばらくは家存続してたんだろうと思う。一説によれば戦国時代まで存続していたという。

 

こそっと畦道を伝って近づいてみた。

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↑土塁の一部だけ残っている。堀もあったはずだが、今はなくなっているようだ。

土塁自体は結構大きいように見えた。ほんのごく一部だけのようなので、土塁から屋敷の規模を推測できなさそうだ。航空写真でこの場所を眺めたとき、なんとなく見えてくるような? というレベル。多分、杵渕さんの屋敷跡と関係なく区画整理され、民家が建てられているような気がする。

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土塁跡の一番高い場所には何か建物が。

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お社っぽいものの、空き家の気配。神様はいなさそう。地図上にも神社の記号は載っていなかった。なんだろね? 周りの家からは完全に独立している様子。

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帰宅してからこの神社らしき建物について調べてみた。正体はお稲荷さんだったようだ。近隣の民家の氏神様とか。じゃあ神様いらっしゃったのか、お参りしてくれば良かった。

 

 

★☆☆☆☆

遺構はこれだけ。周りにも何もなし。

 

 

<杵渕氏館>

築城年 不明

築城主 杵渕氏?

構造 平城

 

 

 

上記より2年後、令和2(2020)年。

綺麗になっているらしいことに気付いて、ちょっと行ってみた。

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様変わりしている…。

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稲荷社とその回りの木は変わっていないようだ。

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こんな案内板まであったよ↓

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平成22年と入っていたけど、やたら新しい物のように見える。とても10年前からあるようには見えない。別の場所から移設したようにも見えないぞ。そもそも、以前コレ見た覚えがない。

 

案内板には、

  • 所在地と現在の規模
  • 杵渕氏は「源平盛衰記」に出てくる
  • 杵渕小源太重光は「横田河原の合戦」で城資職率いる平家方・富部三郎家俊の家来として、源氏方・木曽義仲と戦った
  • 主君である富部氏が源氏方の西七郎広助に討たれたので、重光は西を襲い返し見事に首級を挙げる
  • しかし多くの敵に囲まれており、十数人倒すもそれ以上は諦めて太刀を口に咥えて馬から飛び降りて死ぬ
  • その後の時代、村上義清が葛尾城落城し越後に落ち延びていったが、杵渕備中守も同行し越後へ向かう
  • 上杉謙信に従い、杵渕備中守が川中島の戦いに出陣したときにも、何度も軍功をあげている
  • 現在、土塁の遺構には稲荷社が祀られている
  • 以前は西側に深い堀跡があり水泳も出来たそうだが、今は僅かに残るだけとなった

という内容だった。

 

土塁跡に残る稲荷社前まで進んだ。

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無人ではなく、中には神様がいらっしゃった。ご挨拶した。

 

堀跡の名残り↓

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ここが一番分かりやすかった↓

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なんとなく、綺麗になっている理由も分かるような…分からないような? 2年前に災害跡があったので。ご冥福をお祈りいたします。

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旧松代駅

久しぶりに天気が良く、買い物ついでに散歩した。松代城の外堀がどうなっているのかとやってきたものの。

↓工事が開始された様子はない。

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歩いているうちに松代駅だった建物まで来てしまった。

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うちに転がっていた「ありがとう屋代線」のラベルが貼ってあるワンカップ瓶によれば、廃線は平成24(2012)年のことだったらしい。つい6年前まで動いてた。よく走らせてたよなあ。と思うほど利用者がいない路線だった。

線路の下に埋まっている外堀を復元しようと、外堀だった辺りも国の史跡に指定してもらい、調査を行ったらしい。

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遠目から見ても古い。駅は取り壊さないらしく、そのまま。

 

ホームによじ登り進入。 

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初めて知ったけど、これは。

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ほんの6年前までこんな電気配線が生きてたなんて…。ボロというか骨董品だったのか。

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電球は戦前・戦時中みたいなソケットだったらしい。縁日とかお祭りの仮設街灯の電球より酷いんじゃないのかねー?

二条城本丸御殿の電気設備を思い出したわ。あちらの方がずっとお金かけていただろうと思うので、スイッチひとつでも何かモダンなかおりを漂わせていたがねー。本丸御殿は旧桂宮邸の御殿を明治26(1893)年~明治27(1894)年にかけて移築したもの、だそうな。ちょうど明治25(1892)年に京都で「蹴上発電所」という水力発電所が完成しているので、移築したときに電燈やらも付けたのかも?

 

旧松代駅舎の設備は本丸御殿よりずっと後だろうけども、どう見ても戦前のモノという感じがするわ。

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↑打ち捨てられたポイント達。鉄くずリサイクル用にもならないのか。

 

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ポイントぐらいしか鉄道っぽいものがなかった。駅事務室も空。

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外へ。

 

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↓開業当時の駅舎の図

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廃業当時の姿と全く変わってないわね。

 

駅舎の歴史が待合室に掲げられていた。

・大正11(1922)年開業、屋代線の中心駅

・大正モダンな洋風建築

 「見栄え」を意識している、よく見ないと分からないほど細かい部分のデザインまで丁寧に考えられている

・屋根の種類が多い

 部位によって、菱葺き・瓦棒葺き・平葺きと変えている

・ホーム部分は木造トラス構造

 近代的な骨組み

 

この路線が電化したのが大正15(1926)年らしいので、電気配線も後付けなのかなー? 長野市内だと明治31(1898)年に茂菅発電所が出来、供給を開始している。が、この場所からは遠いので、多分すぐには電気が来なかったのかもねー。

 

 

★★☆☆☆

古い電気配線見たのは5年位前に旧塩原御用邸に出かけた以来で、少し興奮した

 

 

 

<旧松代駅舎>

建築年 大正11(1922)年

 

 

 

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↑塩原御用邸のモダンなスイッチ

 あと、このお屋敷の御便所の便器は黒漆塗りだった、という旅行メモが残っていた。

 

 

古大穴神社

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古大穴神社、「こおおな」と読むそう。これも読めない名前。創建年は不明で、一番古い記録が享保12(1727)年。それ以前の記録は災害により失われてしまったが、元禄7(1694)年社殿を再建したという伝承があるという。「こおおな」という変わった名称も、鎮座している地区の古い名称「大穴郷」から取られていると、入り口の説明板に書いてあった。

太古から塚穴が多く大穴郷(於保奈・多穴)と呼ばれ…なんて書いてあるから、凸凹した土地? 想像つかないなー、なんて考えてしまった。塚穴=墓穴で、埋葬地だったということのようだ。そう言われると、なんだかジメジメしたような場所にあるような気がしてきたよ。

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石段部分に大きな古墳があったので、「古」という字を頭につけといた、と書いてあった。塚穴が由来の地区名だけあって、古墳も一杯あるらしい。この神社の裏手の山にある土口将軍塚古墳の他、坂山古墳、堂平古墳などがあるようだ。

神社の名前、古い記録では「諏訪大明神社」、今の「古大穴神社」に改称したのが明治13(1880)年だそうだ。

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諏訪大明神社」という名前の通り、諏訪系の神社。拝殿手前には御柱が二本立っていた。前回の御柱は平成28(2016)年、まだ朽ちた感じがしない。

 

この神社に来た理由はこれ↓

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拝殿の彫刻を見に来た。ちょっと注連縄が…予想外だったわ。

 

この神社の彫刻は立川流という大工集団の作品。

案内板には

・立川和四郎富昌の弟子、池田文四郎(立川文四郎)の作

・拝殿正面虹梁には獅子、龍

・拝殿側面には酒呑童子、鶴、亀、千鳥

・本殿には龍、鶴、牡丹など(但し覆屋で見えない)

と書いてあった。

 

立川和四郎富昌は諏訪立川流という流派の宮大工で、流派の二代目にあたる。

江戸前期は大隅流(東照宮の彫刻を手掛けた)、後期は立川流が代表的な流派だった。

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大隅流の例

大隅流から独立したものが立川流立川流から分かれたのが諏訪立川流。現在「立川流」と呼ばれる流派は諏訪立川流のことであり、本家立川流の技術や評判を諏訪立川流が上回ってしまったための逆転現象なんだそうだ。

諏訪立川流は安永年間(1772~1781)から明治中頃まで活動していたグループ。初代の立川和四郎富棟の代表作は諏訪大社秋宮。大隅流との競い合いを諏訪藩主に命じられて、立川流→秋宮、大隅流→春宮をほぼ同期間で建てた。競い合いは立川流の秋宮に軍配が上がった。

負けた大隅流の人は柴宮(伊藤)長左衛門というそうだ。

↓長左衛門の作品

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これでもかッ という具合な派手さがあると思った。煌びやかを売りにしている一派なのかもしれない。見るだけなら賑やかな方が好ましいので、どちらかというとこっちの作風の方が好きかもしれない。

建物の中で保護されているのは、この建物が国重文の指定を受けているから。負けたとは言え、腕は超一流だったんだろう。

 

立川流の名声を更に高めた人が二代目立川和四郎富昌。芸術家としても素晴らしいセンスを持っていた上に、多くの弟子を育てた。流派の免許皆伝代わりなのか弟子に「立川」の苗字を名乗らせては、各地の神社仏閣の建設現場へ派遣していたらしい。山車なんかの装飾も手掛けるようになって、2代目の時代にはかなり多くの作品が生まれるようになっていたようだ。

幕府にも声をかけられ、静岡浅間神社(家康が幼少期より崇敬しており歴代将軍の祈願所として手厚く庇護された神社)の再建を手掛けることになった。文化元(1804)年から60年間、総工費約10万両(300~500億円)というビッグプロジェクト。江戸後期を代表する建築物で国の重要文化財に指定されている。

古大穴神社の作者の池田文四郎も立川姓を許されていたぐらいだから、実力者だったんじゃないかと思う。

 

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↑これが酒呑童子かなー? なんか可愛い。

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↑龍・獅子

左側、象かと思った

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本殿の彫刻は非公開だそう。

 

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建物が芸術的だと、狛犬や石灯籠までデザイン性高く思えてしまうわ。

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↑摂社

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↑戦時中に建てられた柱かなー?

 

なんか子供が見つけてきたやつ↓ 新しい道路がどうとか。

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側面には「昭和御大典記念」。昭和3(1928)年の昭和天皇即位の礼を記念しているようだ。

 

★★★★☆

彫刻凄く良かった

 

古大穴神社

創建年 不明

御祭神 健御名方命 八坂刀賣命

 

雨宮坐日吉神社

今年の初詣は近所の神社にお参りしてきたものの、もうちょっと神社行きたいような気分になり出かけてきた。

雨宮坐日吉神社というところ。

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あめのみや・ざ・ひよしじんじゃと読むのかと思っていたのに、あめのみや・にます・ひよしじんじゃが正解らしい。読めなーい。

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ここの神社はこれ↑で有名。

雨宮の御神事というお祭りで、国の重要無形民俗文化財に認定されている奇祭。映像で見たことがある。菰か何かを巻かれた人が橋の上から逆さづりにされた挙句、ベシンベシンと叩かれるやつ…だったような? と動画を探して確認したところ違った。獅子頭をつけた人が橋から宙吊りにされて、川の水面を頭で叩く。というものらしい。

別名「獅子踊り」とも呼ばれるそうで、3年に1度春の例大祭と並行して行われるようだ。最近だと2017年に行われたそうで、それでなんとなく私も覚えていたらしい。橋に宙吊りされるものは「橋懸り」と呼ばれており、雨宮の御神事の一部だそう。雨宮の御神事は500年もの歴史があると言われ、江戸期から知られたお祭りなんだそうだ。嘉永2(1849)年刊行の「善光寺道名所図会」や天保5(1834)年に発表した原稿を元に編集し発行された「信濃奇勝録(明治19(1886)年)」に記事があるらしい。

伝説では、「昔、生仁の豪族が浮気をし、それを恨んで死んだ妻の怨霊の祟りで田畑が荒れ、疫病が流行。祟りを鎮めるため、怨霊を華やかな踊り・お囃子で送り出すために祭りが始まった」とされている。 逆さづりも御霊送りの意味があるとか。とにかく五穀豊穣を願うお祭りである。

 

実は、この辺一帯を治め浮気をした生仁氏、その跡を継いだ雨宮氏の居館(生仁館)が現在の雨宮坐日吉神社という話をどこかで読んだような気がして、調べていたものの見つからず。私の勘違いで、生仁館はこの神社から350メートル南の場所にあったそうな。現在は住宅地になって館跡は消え失せているらしい。

天文22(1554)年の第1次川中島合戦では、雨宮坐日吉神社が武田本陣として使われたことがあるようだ。

 

生仁氏と雨宮氏のルーツは同じで、共に村上氏の支流らしい。「大塔物語」に雨宮孫五郎義正・生身(生仁)大和守義長という名前が出てくる。この人たちは兄弟だとか。兄が雨宮孫五郎だと。

この地域の支配者は生仁氏だったようだ。生仁氏は近所の豪族たちと争っていた記録があるものの、やがてその名前が登場しなくなる。清野氏に滅ぼされたのではないかと言われている。

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↑この山に居城の唐崎城(生仁城)があった。麓の招魂社(唐崎社)から登っていけると聞いて、4~5年ほど前にちょっと行ってみたものの結局登らず仕舞い。そのうち登りたい…。

唐崎城は古いお城。至徳4(1387)年に平柴守護所が襲撃されるという事件があったが、その守護所から逃げてきた武将たちが立てこもったとされるのが唐崎城だと言われている。そして落城してしまったそうな。応永7(1400)年でも戦闘があった。大事なお城だったらしい。雨宮の渡しも近いし。

 

生仁さんは滅んだが、雨宮さんは元気に活躍されていた。

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↑この鳥居、雨宮家国さんの子孫の方々が寄進したものらしい。鳥居に「奉納 雨宮摂津守家国後裔」と彫り込んであった。家国さんは明応年間(1492~1500)以前、信濃から甲斐に移住した人だとか。今も末裔が山梨県に住んでいるらしい。寄進者も山梨在住の方々なんだろうか。

天文17(1548)年の上田原の戦いで雨宮正利さんという方が戦死しているが、この人は清野さんちから養子に来た人のようだ。養父は雨宮昌秀(正法)となっていた。家国さんの子供が昌秀さんなのか分からないが、家国さんの時代に一族の多くが甲斐に移住したという話を読んだ。敵対していた清野さんに追われて家や領地を乗っ取られ、移住を余儀なくされたとかかねー?

雨宮さんは武田家に仕え、途中事情があり武田を辞め北条家で働いていたけど、優秀過ぎて武田に呼び戻されたという逸話があったようだ。

 

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↑本殿

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↑摂社(天満宮だとか)

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 ↑摂社(江の島神社とか姫宮神社、飯縄神社など)

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↑何か怪しかった

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↑宝蔵

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↑寄進されたもの

 

この神社の入り口に由緒書きのような看板があった。ほぼ字が消えている。

・白鳳11年 創建

・御祭神 大山咋命大己貴命、少名彦命、保食命、罔象命、猿田彦命久延毘古命

・旧領主真田家代々からの崇敬、祭祀料の寄進あり

・7か村で神事を行い、五穀豊穣を願う

・始め「天宮」、後に「雨宮」

・山王大権現とも呼ぶ

神道の吉田家の許しを得て「日吉山王宮」に

明治元年、現在の社号になる

・明治6年、郷社

・明治33年、県社に昇格

ということらしい。

 

大山咋命=山の地主神、農耕(治水)の神=山王

大己貴命大国主

少名彦命=大国主と国造りをした小さい神

保食命=食べ物の神様

罔象命=水の神様

猿田彦命天孫降臨の際、瓊瓊杵尊の道案内をした神様

久延毘古命=少名彦命のことを知っていた賢い案山子の神様(知恵の神)

 

↓境内の様子。

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★★★☆☆

考えていたより古い神社だった。あと名前は初見じゃ読めない、どういう理由でそんな名前なのか。

 

 

<雨宮坐日吉神社

創建年 白鳳11年

御祭神 大山咋命 

水沢氏屋敷

水沢氏館跡を見に行ってきた。

水沢さんというのがどういう人達で、いつ何をしてきたのかは分からず。館も残っておらず。

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館関連で残っているのは↑この竹藪のみだとか。

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これは土塁跡だそうで、確かに言われればそんな感じかな? とも思える代物。

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竹藪の手前は堀跡なのかねー?

この土塁から公民館・神社付近まで屋敷があったというので、神社まで歩いてみた。

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↑公民館

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↑槌井神社

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この近くに杵渕氏という古い豪族の館跡がある。杵渕さんが出てくる記録は源平合戦にさかのぼる。槌井神社から杵渕氏館跡までは1.3kmほど。その道の途中(槌井神社からは1kmの地点)に荒掘内記屋敷跡というのもあり、こちらは杵渕氏の家来の家。そんな感じで館が並んでたから、きっと水沢さんというのは杵渕氏関係の家の人なんだろうなと勝手に思っている。

典厩寺は槌井神社から徒歩1分くらい。このお寺さんは元々「鶴巣寺」というお名前だったが、承応3(1654)年松代藩主の真田信之武田信繁(典厩)の名前をいただいて「典厩寺」に改名して、武田信繁さん以下川中島合戦の武田・上杉両軍の戦死者を弔った。典厩は日本でいうと左馬頭・右馬頭等馬寮の官職を唐風に言ってみたものらしい。この人は左馬助という役職をだったそうだ。馬寮職は武士憧れの官職だったらしい。

 

重要なお寺さんに古い豪族のお屋敷もいくつか並ぶ。槌井神社も何やら気になる存在に思えてきた。お名前ちょっと変わってるし。

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↑この透かし彫り、凄いと思った。

どうもこの神社は古い街道筋にあったらしい。神社のすぐ横が千曲川。近くに大きな渡し場(寺尾の渡し)があったらしい。松代へ向かう道だったようだ。交通の要衝なので館がいくつかあったということなのですねー。水沢氏館は街道の監視やってたのかしら?

 

 

★★☆☆☆

槌井神社が思いの外、面白かった

 

<水沢氏館>

築城年 不明

築城主 水沢氏?

構造 平城

 

 

 

 

槌井神社にこんな石碑があった↓

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石碑のタイトルは「槌井神社移転記」。しかし槌井神社自体は昔からこの場所にあるらしいし、典厩寺も多分移動していないだろうと思う。

ひょっとしたら、江戸時代以前は別の場所にあったとか? しかし石碑には「昭和五年」とあった。ひょっとしたら水沢氏館のことも書いてるかもしれない。昭和5(1930)年くらいの文章なら私にも読めそうと安易に考えた。

頑張って解読してみたよー。

 

槌井神社移転記

大審院正三位勲一等法学博士横田秀雄題額
槌井神社在長野県更級郡西寺尾村大字杵淵字北村祀事代主神
杵神神域一千五百歩古松老杉翁○敬天盛夏涼風不絶寶村中之別
天地也大正八年官命改千曲之河道以止洪水之恵神域變爲堤防存
者僅二百五十餘歩耳於是村人請官新○○接之地四百八十餘歩移
社殿華表更加修理又建社務所至大正十二年二月八日竣功雖惜無
老樹爽涼之趣亦可以喜有新殿浦灌之観其経営之費鬻彼古松老杉
充之而尚有餘社礎盆固民福○加神徳之所致可謂洵大矣住是村者
安得不厚景仰之念哉

昭和五年六月
学習院教授従四位勲三等文学博士飯島忠夫撰○

 

 細かいところは違ってるかもしれない。

・槌井神社御祭神は事代主神

・大正8年国により治水事業(堤防を造る)を行うことになった

・それに伴い住んでる人たちを移動させた

・槌井神社の社殿を改築、社務所を造る(大正12年竣工)

・改築費用捻出で境内の木々を売ったので、お金は充分に集まった

・槌井神社の神の功徳は隅々まで行きわたり、移住者たちの信仰も篤くなった

 

「槌井神社移転記」題字は横田秀雄(文久2(1862)年ー昭和13(1938)年)さん。松代藩士の家に生まれ、大審院最高裁判所の前身)の一番偉い人になった。

飯島忠夫(明治8(1875)年-昭和29(1954)年)さんは文章を手掛けたらしい。松代町出身の東洋史学者。

2人とも仰々しく肩書きが並んでいる。我が郷土から立身出世した方々のようだ。

 

槌井神社やっぱり移転していないようだ。石碑のタイトルは嘘をついている。千曲川河川事務所のサイトにこの辺りの話が載っていた。

千曲川流域の住民は大正時代まで長らく大洪水に悩まされていた。大正9(1920)年国は護岸工事を始めた。当初の予定では10年で工事終了だったが、第1次世界大戦の資材高騰・日中戦争などで工期が延びてしまう。昭和16(1941)年頃にようやく竣工。槌井神社付近とその対岸の地区は築堤により移転したおうち39戸と小学校1校という犠牲を払ったそうな。槌井神社本殿は辛うじて移転を免れた(確かにすぐ脇は堤防だった)。あの石碑が建立された時期はまだ工事終わってなかったのね、移転する予定になっていたのかしら?

 

松代藩七渡しのひとつであった寺尾の渡しは明治6(1873)年船橋(川に船を浮かべ、その上に板をわたした橋)に、明治25(1892)年寺尾橋(木製)、昭和10(1935)年川中島橋(コンクリ)、平成6(1994)年松代大橋に変化していった。石碑の頃の工事で造られたのが川中島橋だったようだ。

川中島橋通ったことある。私も知らず知らずに恩恵を受けていたらしい。

 

広田城(昌龍寺)

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東昌寺から細い道を歩いていくと、昌龍寺に至る。

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お寺の周囲の道も元はお堀なのかしら? 東昌寺と同じく、お寺を囲むように道が続いている。折角なのでお寺の周りを回ってみた。

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東昌寺よりも広いお寺のようだ。↑写真左の黒くて高い何かは「四面角塔鐘楼」という名前で15m程の高さだという。これは松代城にあった隅櫓を移築したものらしい。ということは、このお寺さんも東昌寺と同じように松代藩や真田家に縁があるのかと思ったら、そうではないようだ。

 

武田さんが広田城を改修したあと、武勲をたてた大日方直長さんという人にお城を任せた。この人は水内郡小川出身で、大日方一族というのは信濃守護の小笠原氏の流れを汲む名族だったそうだ。彼らは相当な力を持っていたらしい。武田さんの信濃侵攻のときに自分達のお城を一つを落とされたことがきっかけで、主戦派・恭順派に分かれて喧嘩した。結局恭順派が勝ち、武田さんに従うことになったみたい。

だが、徹底抗戦を訴える人が出てくるんだから、なんとか勝てるかもな程度の兵力あったんだろうなーと思った。wikiによると周辺の国衆と比べて突出した動員兵力(9千~1万)だったらしい。川中島合戦の規模は、上杉の兵力8千~1.3万、武田の兵力1万~2.3万だそう。大日方一族内で主戦論者が勝ち、死ぬ気で武田に抵抗して、運が良ければ武田に勝てたかも? とちょっと思った。優秀な一族で手柄を何度もたてたらしい。特に大日方直長さんは武田さんから感状をもらっていた。

天正10(1582)年に武田が滅亡した後、織田家配下になっていた木曽義昌さんを通じて、織田家から本領安堵を受けたものの、その後すぐに織田信長死んじゃったので有耶無耶になってしまった。結果、徳川方(直親)と上杉方(直家)と2つに分裂してしまった。が、最後は皆仲良く地元の小川に戻り帰農したらしい。

 

昌龍寺の縁起は2通りの話がある。

かねてから大日方直長さんは「広田にお寺をつくりたい」という志を持っていたらしい。それが叶わず亡くなった。後を継いだ子の直家さん(ちなみに徳川方についた直親さんは直長さんの弟)は父の菩提を弔うために天正5(1577)年に、広田城跡に昌龍寺を建立した。

広田にお寺を建立したい直長さんは他のお城(領地)にいた。子の直家さんが広田を守っていた。天正5(1577)年直長さんの命で昌龍寺建立、直長さんは天正12(1584)年没、昌龍寺に葬られた。

 

直長さんがお寺の創建より先に死ぬか、後に死ぬかの違いだけの話なのか。

どちらにしろこの場所は、天正5(1577)年にはお城の機能を失っていたようだ。東昌寺は江戸時代に入ってから前身の御堂が建てられているので、お寺としてはこちらの方が古いようだ。

とすると、昌龍寺・東昌寺はそれぞれ別のお城だった可能性が高いのかも? 天正5年頃はまだまだお城は必要だった気がするよ。「広田城=東昌寺」だったら昌龍寺付近は気にせずお寺にできそうだけど、広田城潰してお寺その他にする勇気ないと思うよ。長野市文化財データベースが正しいのかー?

 

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山門は古さを感じる佇まい。

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1周して元の場所に戻った。おしまい。

 

 

★★☆☆☆

結局、広田城の謎は解明できずじまい。

 

 

<広田城>

築城年 不明

築城主 広田氏?

構造 平城

 

 

 

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最後に近くの御厨公園で遊んできた。ジャングルジム的な遊具が気に入ったらしく、子供は黙々と遊んでいた。