古大穴神社、「こおおな」と読むそう。これも読めない名前。創建年は不明で、一番古い記録が享保12(1727)年。それ以前の記録は災害により失われてしまったが、元禄7(1694)年社殿を再建したという伝承があるという。「こおおな」という変わった名称も、鎮座している地区の古い名称「大穴郷」から取られていると、入り口の説明板に書いてあった。
太古から塚穴が多く大穴郷(於保奈・多穴)と呼ばれ…なんて書いてあるから、凸凹した土地? 想像つかないなー、なんて考えてしまった。塚穴=墓穴で、埋葬地だったということのようだ。そう言われると、なんだかジメジメしたような場所にあるような気がしてきたよ。
石段部分に大きな古墳があったので、「古」という字を頭につけといた、と書いてあった。塚穴が由来の地区名だけあって、古墳も一杯あるらしい。この神社の裏手の山にある土口将軍塚古墳の他、坂山古墳、堂平古墳などがあるようだ。
神社の名前、古い記録では「諏訪大明神社」、今の「古大穴神社」に改称したのが明治13(1880)年だそうだ。
「諏訪大明神社」という名前の通り、諏訪系の神社。拝殿手前には御柱が二本立っていた。前回の御柱は平成28(2016)年、まだ朽ちた感じがしない。
この神社に来た理由はこれ↓
拝殿の彫刻を見に来た。ちょっと注連縄が…予想外だったわ。
この神社の彫刻は立川流という大工集団の作品。
案内板には
・立川和四郎富昌の弟子、池田文四郎(立川文四郎)の作
・拝殿正面虹梁には獅子、龍
・拝殿側面には酒呑童子、鶴、亀、千鳥
・本殿には龍、鶴、牡丹など(但し覆屋で見えない)
と書いてあった。
立川和四郎富昌は諏訪立川流という流派の宮大工で、流派の二代目にあたる。
江戸前期は大隅流(東照宮の彫刻を手掛けた)、後期は立川流が代表的な流派だった。
↑大隅流の例
大隅流から独立したものが立川流、立川流から分かれたのが諏訪立川流。現在「立川流」と呼ばれる流派は諏訪立川流のことであり、本家立川流の技術や評判を諏訪立川流が上回ってしまったための逆転現象なんだそうだ。
諏訪立川流は安永年間(1772~1781)から明治中頃まで活動していたグループ。初代の立川和四郎富棟の代表作は諏訪大社秋宮。大隅流との競い合いを諏訪藩主に命じられて、立川流→秋宮、大隅流→春宮をほぼ同期間で建てた。競い合いは立川流の秋宮に軍配が上がった。
負けた大隅流の人は柴宮(伊藤)長左衛門というそうだ。
↓長左衛門の作品
これでもかッ という具合な派手さがあると思った。煌びやかを売りにしている一派なのかもしれない。見るだけなら賑やかな方が好ましいので、どちらかというとこっちの作風の方が好きかもしれない。
建物の中で保護されているのは、この建物が国重文の指定を受けているから。負けたとは言え、腕は超一流だったんだろう。
立川流の名声を更に高めた人が二代目立川和四郎富昌。芸術家としても素晴らしいセンスを持っていた上に、多くの弟子を育てた。流派の免許皆伝代わりなのか弟子に「立川」の苗字を名乗らせては、各地の神社仏閣の建設現場へ派遣していたらしい。山車なんかの装飾も手掛けるようになって、2代目の時代にはかなり多くの作品が生まれるようになっていたようだ。
幕府にも声をかけられ、静岡浅間神社(家康が幼少期より崇敬しており歴代将軍の祈願所として手厚く庇護された神社)の再建を手掛けることになった。文化元(1804)年から60年間、総工費約10万両(300~500億円)というビッグプロジェクト。江戸後期を代表する建築物で国の重要文化財に指定されている。
古大穴神社の作者の池田文四郎も立川姓を許されていたぐらいだから、実力者だったんじゃないかと思う。
↑これが酒呑童子かなー? なんか可愛い。
↑龍・獅子
左側、象かと思った
本殿の彫刻は非公開だそう。
建物が芸術的だと、狛犬や石灯籠までデザイン性高く思えてしまうわ。
↑摂社
↑戦時中に建てられた柱かなー?
なんか子供が見つけてきたやつ↓ 新しい道路がどうとか。
側面には「昭和御大典記念」。昭和3(1928)年の昭和天皇即位の礼を記念しているようだ。
★★★★☆
彫刻凄く良かった
<古大穴神社>
創建年 不明
御祭神 健御名方命 八坂刀賣命