お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

善光寺

いい天気だったので、近場で遊んだ。善光寺にも立ち寄ってお参りに。

信濃出身の本田善光という人物が推古天皇8年~10年(600~602)に都に上っており、その時に難波堀江で仏像を拾い、これを地元に安置したいと朝廷に願い出て許されたことがきっかけで阿弥陀如来像が信濃国にやってきたらしい。この仏像は欽明天皇の時代に排仏活動をしていた物部氏が捨てたものだという。本田さんは自宅のある伊奈郡に持ち帰り、皇極天皇元(642)年に勅願でこの場所にお寺が建立され仏像も移されて現在に至る。お寺の名前は本田善光の名前から採用。田舎のおじさんが仏像一つ拾っただけなのに、ずっと自分の名前が残るっていうのも凄いな。とはいえ善光寺縁起の経緯を読むと、おじさんが只者じゃなさそうな雰囲気するけども。

本田さんが拾った仏像は欽明天皇13(552)年百済の王様より贈られたものだそうで。学術的には「善光寺阿弥陀三尊」という仏像で、真ん中に阿弥陀如来像、両脇に観音菩薩勢至菩薩が控えている形。日本最古と言われている。絶対秘仏なので誰も見ることができない設定になっている。最後に見た記録(元禄5(1692)年)では、

とあった。これに光背がついているので、全体的な高さは1mないぐらいなのかな? 意外と小さい気がする。当時の技術では凄かったのかもしれないけど、なんかね。

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↑山門

寛延3(1750)年建立。扁額の「善光寺」を担当したのは享和元(1801)年に輪王寺という日光の門跡寺院の公澄法親王だそうだ。輪王寺は古いお寺で創建は奈良時代。しかし門跡寺院になったのも江戸時代になってから。御住職は関東在住の皇族として「輪王寺宮」と呼ばれた。輪王寺の他に寛永寺住職も兼務し、基本的には天台座主にもなる(公澄法親王もなっている)ため、三山管領宮とも言われる。難しい表現では「東叡大王」とも呼ばれ、その意味は「東叡山寛永寺におられる親王殿下」である。主に有事の際には即位も可能(一度やろうとしたらしい)という家柄。

立派な皇族による立派な扁額なのに遊び心があふれており、鳩が5羽いるとか牛の顔に見えるとかで、割と有名。あと私が子供の頃に、この門の下で鳩を捕まえてうれしかった思い出がある。罰は多分当たってないと思う。

 

牛は強欲なお婆さんの説話から。私物の布を牛に奪われた無信心のお婆さんが牛を追いかけ、気づくと善光寺にいて急に改心するという話。住所が善光寺近辺在住から数十km離れた土地の在住と、話の内容が大袈裟に変わっていく。牛と一緒に走って善光寺に行くお話なので、ターボババアのような御婦人なんだろうなー。

話は盛られていても、ここ↓の観音様が関わっていることは変わらない。

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この他、善光寺への抜け道という洞窟もある。

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随分前に登った布引観音。こちらの観音様が牛に化けて布を奪ったそうだ。

参拝=登山の場所。現参道の途中で廃参道らしき道も見つけた。多分廃参道のほうが近道じゃないかなと興味を持ったものの、廃参道入り口の荒れ果て方から誰も通って居なさそうな雰囲気。その道は直線的に観音堂へ向かっている様子だった(観音堂の奥にも廃参道の出入り口らしきものがあった。この場合、手掘りの隧道は通らない、とすると隧道は江戸時代ぐらいのものだろうか?)。

このお堂は正嘉2(1258)年建立。よくこんなもの作ったな狂ってるという感想しか出てこない位、崖の真ん中にへばりついている。布引観音(釈尊寺)は神亀元(724)年行基が開基、御本尊の観音様は聖徳太子作だとか。

 

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手前の大きな香炉から立ち上る煙を頭にかけると賢くなると言うが…。

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本堂は宝永4(1707)年、12回目の再建。それ以後燃えてないとのこと。

  • 創建は皇極天皇元(642)年
  • 間口約24m、奥行き約54m、高さ約26m
  • 撞木造りという特殊な様式で建てられている
  • 国宝の建造物では東日本最大、檜皮葺建造物では日本最大
  • 戒壇巡りで善光寺如来さんと結縁できる

と案内板には書いてあった。

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六地蔵

昭和29(1954)年に再興とあった。宝暦9(1759)年建立されたものが昭和19(1944)年戦争用に供出されてしまったようだ。

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↑参道

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大勧進

暑すぎて池の亀は水中におり、姿が見えなかった。ちょうど池の水を全部抜く番組の放送後だったせいで、この周りに居た人々はあちこちで「池の水抜いたのここだよね」あどと話している。何故か私も「ここって池の水抜いた?」などと質問されたわ。皆よくテレビ見てるわよねえ。イメージアップ戦略で池の水抜いてもらったのかしら、と邪推。

 

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子供におみくじを引いてもらったところ、半吉という微妙な結果に。説明しがたい結果に、子供も困った。

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↑鐘楼

鐘楼は嘉永6(1853)年再建、梵鐘は寛文7(1667)年鋳造。

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↑真田家供養塔

善光寺関係の仕事をしていた真田家家臣の供養塔。藩主の供養塔や江戸幕府大奥関係者の供養塔もどこかにあるらしい。

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古い石碑が並んでいる。何が書かれているのか分からない。

 

この辺りから城山公園(横山城)方面に向かうと何故か。

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土塁発見。

横山城の土塁ではないと思う。善光寺の土塁。善光寺さんも川中島合戦の折や地元豪族によって3回くらい燃やされている。寺の派閥抗争を匂わせる火災もあったらしい。無防備じゃいられないから造ったんだろうけど、この土塁自体はいつ頃からあるのか不明のようだ。

 

横山城を抜けて、科学センターと動物園方面へ。途中橋がある。

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ストレートな名前。横山城唯一の遺構「堀切」を跨ぐ、堀切大橋である。

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堀はかなり深い。水も流れている。遊歩道があるようだ。

この後、暑くてやってられないので子供と科学センターで遊んだ。私が子供の頃からほぼ展示物が変わっていない、懐かしいものがたくさんー。そして毎回、入り口の「揚力の仕組み」の模型にほほぅと関心してしまう。私はこの先も揚力のこと覚えられなさそうな気がする。

 

 

 

★★☆☆☆

何度も行ってるはずなのに、初めて土塁に気づいた。他にも堀跡があるらしい。

 

 

善光寺

創建年 皇極天皇元(642)年

開基 皇極天皇

保科氏館

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保科御厨と呼ばれていた土地なので、保科氏も当然いた。川田氏と違いビッグネームだとか。保科という名前は承平年間(931~938)頃から存在していたらしい。保科氏は治承4(1180)年の文書に出てくるみたい。その後も名前はちょくちょく現れているようだ。

途中どこかで保科一族は絶え、近隣の大豪族の井上氏が保科氏を名乗り再興したとか。この頃の大きな事件は建武2(1335)年の中先代の乱という反乱の緒戦、青沼合戦で反政府軍として蜂起したものの、負けてしまったことらしい。永正10(1513)年には村上氏に敗れて本貫地を追われ、高遠に移住したそうだ。その後は諏訪氏の家来→武田氏の家来→徳川氏の家来と主人を替えていったが、運が開けたのか主君が替わるたびに出世していく感じに。

広徳寺は保科氏館跡に天文2(1533)年に建てられたお寺。

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このお寺さんの総門は焼け残った保科氏館の裏門を移築したものだと言われている。広徳寺は永徳元(1489)年保科正利により開創、というのを見つけたんだけど。近隣から移転してきたのかしら。

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保科氏の館があった、ということより↑こっちのほうが派手に主張している。南禅寺の初代和尚の大明国師という人がが保科一族の出身で、その生誕記念の碑のようだ。ただし、御本人はこの地で生まれたものの、生母が新潟出身ですぐに越後へ引っ越してしまっているらしい。

南禅寺の公式サイトでは保科一族とあるのに、wikiだと大明国師は井上一族と書かれている。もしかしたらこの人が生まれた建暦2(1212)年以前に井上氏が保科の名跡を継いでいるということなのかも?

南禅寺は日本国内の禅寺の最高位。格式が高いわりには、疎水とか旧財閥の別荘群とか癲狂院とか近代に大きく関わっているお寺なので、何度か見に行ったことがあるけど。こんなところで南禅寺情報に触れるとは思わなかったわ。

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いかにもお寺という感じの妙香が。匂いは結構キツめ。

このお堂のお向かいには弁財堂というのがあった。武田氏所縁のお堂なんだそうだ。武田信玄の守護神=弁財天ということで安置したものらしい。武田信玄って色んな所で願掛けとかしているみたいだし、意外と信心深い人だったんかねー?

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↑保科川

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↑保科氏の居城・霜台城のある山だと思う。自信ない。

 

保科氏の中で保科正之という人が一番有名らしい。徳川家3代将軍家光の腹違いの弟で、保科家に預けられ育ち、家督も継ぎ、会津藩の初代藩主になったという人。

名君という評判で、保科家次期当主を廃嫡させてまで家を継いだんだから凄い。時の将軍・家光様からも絶大な信頼を得ていたのに、驕らず臣下の礼を尽くして「松平姓」ももらったが名乗ることを固持した云々。どうしよう、こういう評価の人物あんまり好きになれないかも。

会津藩と言えば、イケメン傭兵集団というイメージの新撰組(私2次元で一番愛しているのが「燃えよ剣」の土方歳三なのよね、あの見た目で人格が正統派なツンデレだなんて素敵過ぎる)と少年兵中心の白虎隊を思い出す。前者はファンも多いのに、後者はそうでもない。内容的には人気が出てもおかしくないと思うんだけど、なんでかね。イケメン隊員がいたとかの話がないから? この当時の会津藩主の松平容保という人もイケメンで有名なんだそうだ。京都市中で新撰組を引き連れ練り歩くと、女子にキャーキャー言われたとか。会津藩の人達は好きになりそうよ。この地にいた保科氏と幕末のイケメン藩主とが血縁関係ないの残念。

保科正之が幕府に松平姓使用の許可を得ていたので「いずれ保科氏なくなっちゃうかも、それは困る」という話になったらしく。保科氏は別の系統でも存続したらしい。飯野藩の藩主やってた。保科氏は徳川家康の妹さんがお嫁に来ていた関係でかなり優遇されていると思った。

 

 

★★★☆☆

館跡関係ないけど、風光明媚だった

 

 

<保科氏館>

築城年 不明

築城主 保科氏

構造 平城

川田氏館

GWは、前半からバタバタと家族が体調を崩すという怪異に遭った。私だけ寝込まなかった代わりに、歯の詰め物が取れた。そんなこんなで忙しく、結局何処にも行けず。さすがに苛々して手が震えてきたので強引に出かけた(とはいえ、雨の日だったので近場で終わった)。

 

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領家皇太神社という神社。御祭神は天照大御神だそうな。平安末期から伊勢神宮外宮が領する長田御厨(保科御厨)があったそうで。その関係なのかしら。

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村の鎮守という感じがする。

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この神社の隣の川田小学校・認定こども園川田の下には昔、川田氏の館があったそうだ。

川田氏は古い時代から住んでいた豪族で、建治元(1275)年の文書に川田次郎という人物の名前が出てくるようだ。この辺りを治めていた井上氏の家来から鎌倉幕府御家人となり独り立ちを果たしたものの、完全な独立は出来ず井上さんの影響を受け続ける。文明19(1487)年には地域の支配者としての名前が消え、明応・永正年間(1491~1504)には井上氏から村上氏の支配下に。天文22(1553)年に村上さん達と一緒に越後に逃げて、上杉さんの家来になったそうだ。

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平成11(1999)年に川田保育園(現・認定こども園川田)の建築に伴い発掘調査が行われたらしく、建物跡が見つかったとか。館跡は小学校の敷地も含まれていて、発掘出来たのはごく僅かな範囲。

残念そうな雰囲気漂う調査報告書を読んだ。建物跡は見つかったものの、今回決定的な証拠が出てこなかったようなのだ。昔、川田小学校の校舎を建てたときにも「何か出てきた」という話が残っていない。ただ、堀跡とか中世の館によくあるタイプのカワラケ(土器)とかあったんで「川田氏館跡」という認定はされている。でもちょっと不安なの。という感じで結ばれていた。

昭和13(1938)年の資料でも「土塁なし・堀跡なし・耕作地で居館跡を示すようなものなし」と書かれているようなので、随分昔に遺構は消滅してしまったようだ。

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神社から小学校敷地方面の山には川田氏の居城ではないかと言われている古城(川田城)という山城があるという。しかし古城は天文年間(1532~1555)に武田氏が築いたとも言われている。どっちなんだ。川田氏が地味な存在過ぎて地元の伝承も残されていないのかしら? 調査報告書にはごく短い期間だけ館がおかれたのではないかとも書かれていた。つまり、川田さんは登場してからアッと言う間に衰退した弱小豪族ではないかと。名前が残っているだけマシということなのだろうか。

 

 

 

★☆☆☆☆

何もないです

 

 

<川田氏館>

築城年 不明

築城主 川田氏

構造 平城

 

 

 

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謎の電車いた。朽ちてぼろぼろ。

 

 

中越居館(宮下氏居館)

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跡ないのは分かっていたけど、「電車を見る」ということでやってきた。入場券で中へ。

 

居館跡があったと思われる方角↓

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線路敷いているので、遺構などあるはずもなく。

電車見に来たのに30分以上来ないという残念な時間帯だったので、仕方なくウロウロしてみた。

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中越居館は和田城主だったという宮下氏が帰農した際に暮らした家。ここに住んでいた時代には豪農というカテゴリになるんだろうけど、遺跡地図を見ていると南側・南東側の縁と道筋が被っている気がする。ということでストリートビュー見たけど、住宅地の路地という様子で。グーグルカーも遺跡地図の縁に当たる道は細すぎて入れなかったようで、完璧に追うことは出来なかったよ。まあ、我々が歩いたところで何か発見することなど不可能だと思うがねー。

 

待つことが出来ない子供が飽きてきて、ギャーギャー文句を言い始めた頃にやっと来た。

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電車登場に満更でもなさそうな笑みを浮かべる子。なんかやだ。

 

 

★☆☆☆☆

もうちょい電車が頻繁に行き来していれば、より喜ばれただろうが。

 

 

中越居館>

築城主 宮下氏

築城年 不明

構造 平城

盛伝寺居館

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多田(押鐘)氏がこの地にやってきたときに、まず最初に作ったらしい館跡。

現在は盛伝寺というお寺さんになっている。天正年間(1573~1592)に多田氏の館跡にお寺を建てたという。

押鐘城は大永年間(1521~1527)に築城らしい。その時に盛伝寺居館はお寺にしたそうだ。盛伝寺居館はそれ以前に造った館になるはず。ちょっと時期が合わない気がするけど「現在の盛伝寺は天正年間に復興した曹洞宗のお寺」という記事も出てきたので、一時期廃寺になってたかそれに近い状態だったのかもしれない。

この館は大永の前、永正年間(1504~1521)だと勝手に思っている。押鐘城を造った人が2代目らしいから。多田氏はこの地で3代続き、

初代→移住? 盛伝寺居館つくる

2代目→盛伝寺居館を廃し、城をつくる

3代目→戦功をあげ、押鐘氏を名乗る(居城も押鐘城に名称変更)、天文22(1553)年村上氏に従い越後に落ち延びる?

という事跡があるそうなので。

 

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見事な桜。

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参道だと思うけど「不動尊道」という名前がつけられていた。まっすぐ行くと不動尊

があった。

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ちょうど満開だった。

 

お寺さんはこんな感じ↓

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非常に綺麗なお寺さんだった。よく手入れされた庭園、絵画的というか。桜が一番の見頃を迎えていたので来てよかった、と思った。

 

 

★★★☆☆

不動尊道の桜が見事だった

 

 

<盛伝寺居館>

築城年 不明

築城主 多田氏

構造 平城

宇木城

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宇木城にやってきた。

住宅地の真ん中なので、こちらも何もない。申し訳程度の看板のみ。

  • 上宇木古城・城跡
  • 応仁2(1468)年、諏訪上社頭役だった宇岐(宇木)氏の居館跡?
  • 「城の山」と呼ばれていた
  • 以前は約800㎡の畑地だった

という内容。

この辺りの旧町名は「宇木」で、それの由来となっている城らしい。現在の住居表示では「宇木」が使われていないが、バスで「宇木行き」とかあった気がする。

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宇木城・宇木氏についてはよく分からない。探してみたけど分からなかった。

あと「城の山」という表現も分からないやー。だってココ平地だしさー。緩やかな上下はあるかもだけど、感覚としては山っぽさ皆無だったんだよ。

 

諏訪上社頭役については権威があるものらしく。14世紀頃には家単位で祭礼行事に関する職務・責任を受け持つようになり、その負担は大きかったために交代制となっていたようだ。任命の話も公文書などで残されているらしい。応仁2(1468)年の日付で「宇木・小鹿野(押鐘)など5か村が交代で諏訪上社の頭役を務めた」という内容の記述が残っているようだ。そのときの宇木の支配者の館跡ということなのかな。

多田(押鐘)氏の押鐘城は大永年間(1521~1527)に築城、それに先立って建築された盛伝寺居館は昔から地区が違うものの、宇木城からかなり近い(距離300mくらい)。多田氏はどこからか小鹿野にやってきた一族。もしかして宇木氏は小鹿野にやってきた多田氏に敗れて、いなくなっちゃったんかな?

 

★☆☆☆☆

どこかに堀跡を示す看板もあるらしい、見つけられてない

 

 

<宇木城>

築城年 不明

築城主 宇木氏?

構造 平城

相木城

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現在の相木城の面影は↑これだけ。このモサモサの藪の中に城跡を示す石碑や神社があるらしいが、周りはフェンスで取り囲まれており入れなさそう。入口が分からない。

昔は城跡の名残、土塁やら堀やらあったらしいが、ほぼ全部学校建設のために潰したらしい。

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昭和32(1957)年に城跡を取り壊して高校が建てられる。しかも女子高。たまたま休みの日でJKも全くいなかったので助かったが、もし登校日にうろついていたら不審者情報に載っていたかもしれない。

土塁の一部は記念に残しておいたものなのか、元々神社があったせいなのか、そのまま放置されている。モサモサの中の石碑には、「相木市兵衛政友之城跡」と彫られているとか。

 

相木さんは佐久の国衆・大井氏の家老一族で、元は小県の依田氏の流れを汲むおうちだそうな。そして本拠地は北相木村南相木村(永禄8(1565)年に相木村が南北に分裂した)。なんでこちらにも城を造ったのかというと、永禄4(1561)年の第4次川中島の戦いに武田方として参加した相木昌朝という人がおり、武田晴信さんに命じられて引っ越してきたためだそうだ。相木昌朝こと相木市兵衛政友、ということらしい。この人、「まさとも」という名前の音は気に入っていたものの、字面がいまいちだと思っていたのか、昌朝・正朝・昌友・政友・正友と色んなパターンの名前が残っている。ややこしい。

相木昌朝は1567(永禄10)年にこの地で亡くなったそうで。本家の北相木村の相木城は子の頼房・信房という2人が継いだらしい。信房の奥さんが美女剣士・更科姫で、二人の子が尼子氏再興運動を頑張った山中鹿之介なんだそうだ。そのため島根県松江市に相木信房(盛之助)と更科姫のお墓があったり、相木氏発祥の地の長野県南相木村には山中鹿之介の記念館があるらしい。

えーなんかこれトンデモっぽくないかしら? 武田氏旧臣の息子が所縁もなさそうな尼子氏になんで執着するんだろう、意味分からないわ。などと思い調べて見たら、やはり史実ではないらしい。更科姫は文化8(1811)年から10年にわたり刊行された「絵本更科草紙 」という本の主人公で、「山中鹿之介の母親=更科姫」という設定だった。これが当時流行ったらしい。で、山中鹿之介の地元に相木夫妻のお墓が作られたりしたんだろうか。

  • 天正9(1581)年、高天神城の戦いで相木信房戦死
  • 天正10(1582)年、武田氏滅亡、頼房は北条方になる
  • 天正17(1589)年、木次原の戦いで依田康国(徳川方)に敗れ、相木一族は信濃を追われる

という出来事があり、相木氏は全国に散っていった。

長野市の相木城は天正10年の時点で廃城にはなっていそうな気がする。

 

今日は怪しまれなさそうなので、ちょっと周りを撮ってみた。

土塁の周り↓

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 女子校の校舎はまだ新しく、平成25(2013)年に完成したという。新校舎の建て替えに先立ち平成24(2012)年に発掘調査が行われ、1900年~1500年前の集落跡が見つかったらしい。

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48軒の住居跡を確認。とあったので、そこそこデカい集落だったらしい。

 

↓女子校の隣には宇達神社。

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この神社は宇逵神が主祭神で、健御名方神と八坂斗売神も祭られている。創建年は不明で式内神社ではないものの日本三代実録に名前が載っているという。

神社の説明板には、

  • 創立年代不詳
  • 祭神は宇逵(うき)神、相殿は健御名方神、八坂斗売神
  • この地の開拓神の泥土立神(にどのたちかみ)=産土神
  • 産土神が訛って宇逵神になったと言われている
  • 貞観7(865)年朝廷より従4位授与

とあった。1900年前の集落のすぐ横の、この地の開拓神を祭る神社。もしかして弥生時代からあるのー? という妄想が広がる。「逵」の字が難しくて「宇達」になったのかと思いきや、よく見れば現在の社号も見たことない字を使っている。

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古そうな木がたくさーん。御老体なのか丁寧に世話されているようだ。

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★★☆☆☆

相木城のことより、宇達神社が1900年前に創建された相当古い神社じゃないのかとワクワクした

 

<相木城>

築城年 永禄4(1561)年?

築城主 相木氏

構造 平城