お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

岩松院館

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小学校の遠足だか社会科見学で来た(記憶がある)岩松院。ここは葛飾北斎の天井絵「八方睨み鳳凰図」があることでも知られる。絵は「どこで見上げても鳳凰と目が合う!」という触れ込みだが、当時の私は「目ぜんぜん合わないんだけどw」と思った。その所為で天井絵・岩松院のことを覚えていた。まあ心の清い人だけ目が合うように設計されているのかもしれない。

 

ここは地元の土豪・荻野さんの館跡だと伝わり、詰めの城は背後に見える山中にある雁田城らしい。雁田城は雁田小城・雁田大城からなる複合施設のようで、岩松院の背後の瘤みたいに盛り上がった部分に雁田大城がある。

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雁田大城より奥に進むと「千僧坊」という表示がある。これは滝の入城の郭の一つ。千僧坊から姥石方面に曲がらず、尾根伝いに登ると滝の入城の本郭に到達できる。この地図には載っていないが、どうやら滝の入城の住所が隣村(高山村)になってしまうらしく、そのため小布施町のハイキングコースには含まれないようにしているのかも?

千僧坊現地の案内板には「岩松院の前身である千僧林念仏寺から名付けられているが、ここに念仏寺があった訳ではない。寺址ではなく城址の一部と思われる」と書かれているようだ。隣村の城「滝の入城」には触れない。滝の入城は近隣で最も高い所となるようだ。

滝の入城から、北西の尾根を麓に向かって下りていくと「二十端(つつはた)城」というお城がある。二十端城は一の城・二の城・三の城・四の城・五の城からなる。雁田山周辺はお城だらけ。やだー大規模要塞じゃないの。

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ちなみに雁田(苅田)城は、東条荘苅田郷の領主だった平(苅田)繁雅が造ったとも言われる。元暦元(1184)年、源頼朝が東条庄のうち高井郡狩田郷の領主職を平繁雅に戻すと認めた。源平合戦で旧領を失っていた平繁雅が嘆願を出していたらしい。平家(越後平氏)の傍流で、横田河原の戦いをもちろん平氏方(新潟から来た城氏の配下)として戦い、負けてしまったみたい。

だが、この人は平家にも近いが鎌倉幕府源頼朝)にも近い北白河院(彼女の祖母は源頼朝の命の恩人であり、平清盛の継母である池禅尼)という女院の側近(平繁雅の奥さんが北白河院の乳母をつとめ、夫婦で養育に当たっていた)だったようで、その縁で旧領復帰出来たのかもしれない。平清盛の曾孫に当たる男子と平繁雅の孫が結婚しているという感じで、血縁では平家が濃く、源氏とは婚姻関係なし。

また東条庄は八条院領に含まれる。八条院領は北白河院の夫(後高倉院)から娘(安嘉門院)に相続されたが、実質的に管理していたのが北白河院らしい。八条院領は以仁王と源氏の挙兵と関係が深い。

平繁雅本人は皇族に仕える身なので、在京し続けたようだ。雁田城には関わりがあるようだが、麓の岩松院館とは関係ないっぽい。

 

二十端城は荻野氏(初代は荻野常倫というらしい)が造ったと伝わる。荻野氏は高井郡の名家・(信濃源氏)井上氏の庶流と言われる。

  1. 井上満実の三男・家光が、保元3(1158)年に丹波国芦田庄(兵庫県丹波市)へ配流される
  2. 以後、この系統は流刑先の地名「芦田」を名乗る
  3. 建保3(1215)、芦田為家が父から所領を分知され、移り住んだ地名から赤井氏を称する
  4. 赤井(芦田)為家の次男・重家(朝忠)は家督を継げなかったが為家から領地を分けてもらい、荻野家を興した
  5. この萩野一族出身・萩野常倫が小布施の地頭として赴任してきた?

という説があるそう。ああ里帰りかー。

  1. 太平記に出てくる「丹波国の住人荻野彦六朝忠」(この人は太平記の作者とも言われる児島高徳と行動を共にしていたので、”太平記”中では活躍する)
  2. 正慶2/元弘3(1333)年、後醍醐天皇挙兵に応じて参戦→敗北
  3. 足利尊氏の配下になる
  4. 貞和元/興国6(1345)年、足利尊氏と戦う→敗北
  5. 貞和4/正平3(1348)年、高師直の配下として新田と戦う
  6. 文和2/正平8(1353)年、新田と戦う→敗北→以後不明
  7. そんな萩野朝忠の子? 荻野常倫が小布施に赴任

 

小布施史では、室町時代初め荻野常倫が故郷の丹波国から栗の木を持ってきて植えたことから、栗の生産が盛んになった、とある。丹波栗は古事記日本書紀万葉集にも登場するほど歴史ある丹波国の名産品だそうだ。

小布施町公式では、貞治6(1367)年に荻野常倫が二十端城を築いたことになっている。ただ、荻野常倫本人は記録がほぼ無く謎の人物とされる。

 

永享2(1430)年、浄土教系の念仏寺が建てられ、その後の文明4(1472)年に同じ場所で改めて荻野常倫が開基となり、建てたお寺が曹洞宗の岩松院だという。えらい長生きだなと思ったが、恐らく荻野常倫と荻野氏歴代の菩提寺として建てられたんじゃないかなー?

 

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お寺の周りにはお堀の成れの果て? みたいなものもあった。

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山門。

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仁王さん。

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↑あの山の中に雁田小城があるらしい。

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雁田城登山道はお寺の脇道から↑

 

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お寺は周囲より高い。

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ゴツい石垣の上にある。

登り切った先には。

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小布施観音というらしい。永遠の平和を祈念。

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こちらが岩松院本堂。ちょこっと見える鳳凰図が件の「どこでも目が合うよ」という天井絵のレプリカと思われる。どうせ今日改めて見たって目が合うとは思えないわ。

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謎の石柱もあった。意味が分からなすぎるので調べると、「祭屋台の像”皇孫勝”が完成した旨の報告文」だという。皇孫勝(公孫勝)は水滸伝に出てくる道士で変な術を使うヤツらしい。

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五七桐の紋があしらわれている。これは内閣総理大臣の紋章でもあり、現在の日本国政府の紋章として使われているもの。歴史上大切な紋章で、室町時代室町幕府が貨幣に刻印して以降、天皇から賜った「政権担当者を示す紋章」とされているみたい。一応豊臣政権まで菊のご紋に次ぐ格式の紋として使われていた。江戸時代に徳川家が使用制限しなかったために菊のご紋と同様、自由使用となって庶民の間で流行ったみたい。その後、明治時代に入り「政権担当者=政府を示す紋章」として格式が復活した。

 

ただ、このお寺に桐の紋章があるのはこの人↓の菩提寺でもあるからと思われる。

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豊臣氏の家紋が五七桐で、この人豊臣姓を下賜されて公的文書での名前が「豊臣正則」だそうだから、桐紋も使ってるんじゃないかな。

 

福島正則公霊廟がある。標柱の側面には、

広島49万石より信越4万5千石に流され居ること6年、寛永元(1624)年歿す

と書かれていた。

負けたくないな負けるの嫌だな、と思わせる一文ね。

 

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本堂の裏。なんかあるよ。

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ここにも石垣が。

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本堂より高い位置にある。

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小布施は福島正則推しなのか? なんの関係の幟なのかと思ったら、福島正則の野外劇やった名残りみたい。

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霊廟は立派だった。

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その辺の墓地とは違うぞ。格式高い墓地。

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先ほどの雁田城に向かう登山道もあったよ。墓地へのスロープも兼ねているのかな。折角だからこちらの道を下ってみる。

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なんかの石碑あった。

高井鴻山の顕彰碑らしい。碑文の内容を記した説明板もあったが、文章が長くて長くて…頭に入ってこなかったよ。公爵徳川家達が揮毫、文学博士三島毅が撰文ぐらい読まなかった。

 

三島毅は幕末から大正にかけて活躍した漢学者で、松山藩の藩校の教授→東京帝国大学の教授→東宮御用掛(東宮の家庭教師)を歴任した凄い人らしい。

公爵徳川家達は徳川宗家の第16代当主。徳川家達の母親は高井武子(生家は津田氏で津田梅子の伯母)というそうだけど、ひょっとして高井鴻山と関係があるのだろうか?  単に母方の姓と同じだね☆ってだけで揮毫してくれたのかな(徳川家達の生家の田安家の家臣に高井氏がおり、高井氏は田安徳川家が創設された際に召し抱えられた家柄らしい)? 太っ腹なのかな? そもそも高井鴻山って本名「市村健」ってwikiに書いてあったわ(石碑の横の石柱には「贈従五位 高井健」の文字が)。

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↑何一つ頭に入らなかった文章

 

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↑こちらは本堂落成記念?(読めなかった)

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山門の近くまで下りてきた。

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湧き水がある様子。

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案内板には、

  • 弁天池清水
    この池の水は雁田山の沢に集まった水が崩壊した溶岩岩塊の中を通り抜けて湧き出してきたもの
    中性で鉄分を含まない
    お茶の水としては最高で、旨味を倍加する
    珪酸の微粒子を含むので白濁しているが、逆に胃腸の健康維持には良い
    まさに霊泉だ

とあった。わりと水量少なめ。持ち帰っている人もいないのでは…? という雰囲気ではある。

 

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夕方に近かったが、疎らに人影はあった。そしてタクシーで乗り付けてきた、慌てた風の若者に「ここって天井絵ありますよね? まだ見られます?」などと話しかけられた。本堂に券売機あったけど…? って言っただけで若者は風のように走り去っていった。あの人、鳳凰と目が合うといいね! と思いつつ帰途についた。

 

 

★★★★☆

「49万石から4万5千石に減らされた流人」という短文が一番心に響いた

 

 

<岩松院館>

築城年 不明

築城主 荻野常倫?

小布施陣屋

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栗の季節。小布施は物凄く混んでいた。

 

元禄14(1701)年から15年間、小布施陣屋という代官所が置かれたそうだ。

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この祠(稲荷社)がある場所が陣屋の入り口らしい。

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この小道の先が谷街道(現国道403号線)で、昔からのメインストリートである。小道は陣屋小路と呼ばれていたそうだ。

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小布施陣屋があった場所は↓

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現在は駐車場となっている。

説明板には、代官「市川孫右衛門」なる人物の名前しか出てこないが、この人が15年間面倒みたということなのかな? 全く同時期に佐久郡の前山陣屋・高野町陣屋も支配していたようで、あちこちの天領の代官を兼務しているっぽい。

陣屋の規模は46坪、支配地域は「高井郡の六川・清水・中子塚・松村新田・雁田・福原新田・大島・小布施(以上、現・小布施町)、駒場・中山田・奥山田・牧・黒部(以上、現・高山村)、桜沢(現・中野市)、塩野・亀倉・栃倉・村山・米子・中島・井上・相之島(以上、現・須坂市)、そのほか水内郡の16ヶ村(現・長野市)」で石高1万9千石余りだそう。

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↑左側が駐車場。

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江戸時代の家は間口(玄関)の 広さに応じて税金をかけていた(天明6年、間口税)そうで、小布施陣屋周辺の住宅地図も細長い家が建ち並んでいる。よく見ると元陣屋って書いてあった。さすがに代官所だった土地には税金かからないのかな、敷地が細長くないねー。

 

陣屋跡に隣接する建物↓

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古そうに見えるけど、新しいのかも。某栗菓子店の団体客が専用で使えるものらしい。

 

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↑旧小布施陣屋。長野ナンバー車なんて私ぐらいだった。

 

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ちなみに、旧小布施陣屋は周りより低い?ようだ。

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古いのか新しいのかよく分からない建物が混在。ここは妻籠宿や奈良井宿みたいな「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されておらず、景観に溶け込めるなら新しい建物でも何でもOKみたいな世界観らしい。

 

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谷街道を渡っていくと、

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左側の市村家(小布施を統べるだいじんこ)は古いだろうが、右側の各種土産物屋は古くなさそう。

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「朱雀」期間中は通れません。と書いてあった。じゃあ、朱雀期間終わったら通れるのかね?

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入り口はココだった。朱雀、今年度分はすべて終了だと。今年は新型コロナのせいで席はすべて前売りで整理券配布方式ではなかったようだ。

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アレ一度食べてみたいけど…並ぶとかがね…。

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市神という神様。元は延暦14(795)年、京都の官設の市場である東市・西市に建てられた宗像三女神らしい。要は市場の神様で、小布施にも市があったから建てられたのかも? というニュアンスの説明板が傍らにあった。谷街道と谷脇街道の交差点という人通りの多い場所に鎮座。

 

脇街道長野市と小布施を繋ぐ道で、谷街道をショートカットする(須坂を経由しない)道だったようだ。

 

★★☆☆☆

目当ての飲食店は軒並み1~2時間待ち。こんな時期に行っちゃいけないわね。

 

<小布施陣屋>

築城年 元禄14(1701)年

 

 

 

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初めて入った近所のレストランにて。

デザートのボリュームが凄かった。やっと1人で外食出来るようになった嬉しい。

伊勢社(東福寺)

子供を連れて製作体験しに行き、公園の無料駐車場に車を止めておいた。体験終了後は公園で遊んでいて。満足したので車まで戻ろうとしたら、近くで路駐している車とその周りを忙しくウロウロしているおじさんがいた。おじさんは私の車を妙に気にしていることに気付いた。よく見れば公園の無料駐車場の位置が以前と少し変わっており、止めた位置が月極駐車場?になっているような?

まずい、もしかして借り主がいる駐車区画に止めてる!? 怒られちゃう!! と内心慌てていた。子供を急き立て乗せていたが間に合わず、おじさんはこちらに来てしまった。

「ねーこの車、オタクの?」

「ハイすみません」

緊張が極限に達した。が、おじさんは怒らなかった。

「ちょっとクラッチ踏ませてもらえない?」

よーく話を聞くと、お子さんが私と同車種同グレードの車に乗っているが最近調子が悪く(クラッチがどうとか)おじさんもお子さんの車をいじったりしたが原因がよく分からないので、他の車の踏み具合がどんな感じなのか知りたかったそうだ。

おじさんはこの時、会社名の入った車&会社制服で来ていたので、少し安心して話をした。私のものとは製造年や細かい部分が違うので、参考になったか分からないが何か満足していった様子で良かった…というか、私の車なんかよく見かける車種でスポーツカーの類いじゃないのに、よくもMT車だと見破ったな。同グレードのを見かけるたび中を覗き込んでいたのかな? お子さんもわざわざMT探して買ったらしい。とにかくトラブルにならず良かったよ。

 

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東福寺村で唯一合祀されなかった伊勢社。 葡萄畑が広がる場所にあった。

 

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美味そう。

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何かの記念碑があったが、何の記念碑か分からず。句碑かなー?

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境内には摂社がズラリ。祠や石仏自体は古そうなのに土台は新しめ。

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こちらの養蚕社・天神社も覆い屋とか新しめ。

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金毘羅さんとか。

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本殿はこちら。

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やっぱり新しめ。

 

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説明板には、

  • 中澤村の村社で大日霊尊(天照大御神)が御祭神
  • 第二十二代清寧天皇雄略天皇の皇子)が草創
  • 大同3(808)年、坂上田村麻呂により造営
  • 安元2(1176)年、布施八郎が一部造営
  • 永禄4(1561)年9月10日、兵火により社殿焼失
  • 永禄6(1563)年10月8日、武田晴信(信玄)が自軍の基地として再建、勝利を伏して祈願し「八幡原」に出征したと伝わる
  • 中世末期には庶民の間で「一度は伊勢に参拝すべき」という概念が生まれ、村人達がお金を集め代表者が参拝するなどした(らしい。この辺りは字が読めなくなっていた。お蔭参りの説明だと思われる)
  • 当神社も地域の人々からの信仰を集めた
  • 寛保2(1742)年、洪水で社殿・宝物が流出
  • 延享3(1746)年、氏子により再建
  • 平成12(2000)年、千曲川堤防工事のため現在地に移転

 

説明板、水跡でボロボロになっており(去年の台風のせいかもしれない)、下半分がほぼ読めない。多分上記のような内容だと思う。

 

創建は雄略天皇の次代、清寧天皇らしい。雄略天皇は中国の「宋書」にも出てくる倭王・武だとされ、出土品からもその他資料からも武=雄略天皇がほぼ確実である、とされる。471年には天皇位にいたらしい。雄略天皇は日本国内の有力豪族を駆逐しヤマト政権を成立させ、朝鮮半島まで出兵し高句麗新羅と戦った(広開土王碑)り、百済国と関係を結んで色々やっていたらしい。どうやらこの時期の日本はイケイケドンドンで、元々朝鮮半島の南にあった任那を足がかりに滅亡しそうな百済とかを併合しようとしたようだ。また雄略天皇伊勢神宮外宮を創建した。

その次代の清寧天皇は若くして髪の毛が真っ白だったようで、白髪皇子と呼ばれていたらしい。普通と違うから「凄い力があるんじゃないか」という理由で皇太子になった。清寧天皇アルビノだったんじゃないかと思った。アルビノは人間・動物に限らず、吉兆の印とかで信仰の対象だったらしい。白蛇信仰みたいな。在位5年間子はなく、(雄略天皇を恨んでいると思われる)ハトコ2人を養子にしていた。二十歳ぐらいで崩御。すべて5世紀末の出来事らしい。

 

大同3(808)年の坂上田村麻呂はもう東北平定を終えていた。都にいたらしい。

東北へ進軍する途中で神社建ててみたよ、ということではないらしい。

 

安元2(1176)年に増築したらしい布施八郎というのは、布施御厨の主かなー? 鎌倉時代に編纂された歴史書吾妻鏡の中の、文治2(1186)年3月の記事に「布施御厨」が出てくる。コレが初出らしい。当該記事の内容は<朝廷より、源頼朝知行国のうち「朝廷への年貢が未納」という荘園等の名簿が到着した。そこで官吏らに催促させた><添付の名簿(荘園名が羅列)>だった。

保元の乱(1156)で崇徳上皇方に付き、破れた平正弘の息子・布施惟俊が父の旧領のひとつ布施御厨に土着したそうなので、年代的に布施惟俊本人かその息子が「布施八郎」だと思われる。

 

「永禄4年9月10日」は第4次川中島合戦当日で、ここには上杉軍の部隊が展開されており。武田軍本隊から分かれて、上杉軍を挟み撃ちする予定の部隊が八幡原へ向かう途中の東福寺地区で上杉軍とぶつかったそうだ。で、社殿が焼失したのかな。

 

永禄6(1563)年は第4次川中島合戦と第5次川中島合戦の間の年。「八幡原」は第4次における主戦場だった。第4次以降「八幡原」で戦うことはない。また、この年は群馬県で両者は戦っていた。誤記かね? と思ったけど説明板には「永禄6年10月8日」と具体的な日付まで書かれている…多分戦勝祈願かなんかやった日かなー? だけど激しい戦闘が起こった場所なら拠点化して備えるのは当たり前の事なのかも。

 

お蔭参り(伊勢神宮参拝の旅)は、

  1. 戦国時代が終わりに近づき、荒廃した伊勢大社を立て直すために各地で布教活動する
  2. 庶民の移動制限はキツかったが、伊勢神宮参拝などの寺社参拝目的なら簡単に通行手形がもらえる
  3. 皆で少しづつお金を積み立てて代表者を決めて旅行させる(積み立てている参加者が必ず旅行できるような仕組み)
  4. 日本各地から参詣者が集まる伊勢大社のお土産は、農産物の種とか最新の農機具などの品物だけでなく、有益な知識技術、流行、音楽芸能、工芸品、いろいろな話題。農村発展に寄与していた
  5. もし途中でお金が尽きたり或いはお金ないのに旅行しても、道中至る所で施しが受けられ、そんなに困らなかったらしい
  6. 信心からの旅行なので誰も止めてはならない、ある日突然お蔭参りしに出かけてもOK

庶民にも神社側にも利益があったため、盛んに行われたらしい。失踪しても伊勢神宮の御札持ち帰れば誰も咎めないし、(道すがらクレクレすれば多分)タダで旅行出来るなんて最高だよ。

 

寛保2(1742)年8月2日、所謂「戌の満水」で社殿宝物が流出したようだ。去年の台風19号と同じような経過で、江戸(東京)も台風直撃し、利根川荒川多摩川が氾濫→長野県内も大雨であちこちの川が氾濫する、長野県の東北信や中信の一部河川は最終的に千曲川に集約される、主な河川と合流後の千曲川が無敵状態→皆流される、な感じ。

多分、現代より治水技術が劣っているだろうから去年の台風なんかより被害はずっと大きかっただろうし。

 

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この近くでは「洪水怖い」という感じの祠があったよ。

 

2年後に社殿再建。

 

 

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武田信玄が拠点化したという話は有り得る気がするけど、神社の元の場所は現在堤防の下らしい。

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こんな御神木みたいな巨木も残っているので、ひょっとしたら一部昔の伊勢社跡も残っているかもしれないが。土塁・堀みたいなのは分からなかった。

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★☆☆☆☆

もし土塁とか残ってたら良かったなー。

 

<伊勢社>

創建年 5世紀?

 

 

 

 

 

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商工会が主体になって運営している(多分)カフェの企画レストラン。

「秋刀魚のグラタン」というメニューがあり、食べる前から恐れおののいていたが…この中で一番美味しかった。あまりにも美味しすぎて、そのお店で売っていた中東の民族衣装を買い、LINEで家族に報告するも「イスラム…?」と引かれた。

東福寺神社

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昔の東福寺村にあったから「東福寺神社」というみたい。村の中心が東福寺というお寺だったとか? 東福寺なかった。

大昔には存在していたそうで。養和元(1181)年の横田河原の戦いで、東福寺という寺が燃えてしまい以後再建されず。ただ地名として「東福寺」が残っているらしい。

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東福寺観音堂に安置されている観音像が東福寺の御本尊だったと言われている。

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十一面観音像で池田宮(現在の東福寺神社)にあった樅の木で行基(668~749)が造ったとか書いてあった。

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まだ新しいお堂で、物凄く良い匂いを漂わせていた。

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東福寺村は千曲川のほとり(横田河原にも近い)にあるため度々氾濫していたようだ。

去年の台風19号(正式名称・令和元年東日本台風)も近隣の小森地区や横田地区、対岸の松代町千曲市雨宮も氾濫。昔から氾濫しやすい場所は変わらないようだ。

氾濫しやすいので土壌が豊からしく、物凄く昔から人が住んでいる地区でもある。東福寺神社も古いのか? と期待したがこちらは新しい。明治40年の内務省訓令で村社合併しろというお達しがあったようで、明治41年に東福寺村に散らばっていた4つの神社を合祀して新しく「東福寺神社」を創建したそうだ。

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現地の案内板には、各地区の村社をまとめたとあり

  1. 東福寺村上組:南宮社、健御名方神
  2. 東福寺村中組:池田社、健御名方神
  3. 東福寺村下組と上庭:鹿島社、御雷
  4. 東福寺村北小森:諏訪社(勘助宮)、健御名方神

を合祀したと書いてあった。

 

訪れた当日、神社の境内に氏子さんたちがいて少し話をした。で、東福寺神社のチラシをいただいた。そこには、

  1. 上組:南宮社、金山彦神
  2. 中組:池田社、健御名方神
  3. 上庭:鹿島社、御雷
  4. 北小森:猿田彦社、猿田彦神

の4神を祀っているとあった。看板の内容とは御祭神が変わっている。明治時代の古地図では東福寺村内に「池田社」「南宮社」「鹿島社」「勘助宮」「伊勢社」の5社があったようだ。伊勢社は現存している。池田社だった場所に新しく東福寺神社を創建。

勘助宮跡地には来歴を示す石碑があり、そこには「北小森集落の氏神健御名方神を祀る諏訪社があった」「明治期に東福寺神社に合祀された」とあった。

 

 

美濃国一宮に南宮大社という大きな神社があり、その神社の御祭神が金山彦神だった。そこから勧請したのが南宮社という説明がいただいたチラシに書かれていた。猿田彦社は…ちょっと探したけどなかったです。勘助宮(諏訪社)の摂社だったのかも? 東福寺神社は4社合祀だけど3/4は健御名方神だしね。

各神社の摂社が集まってる。

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御神木もあった。ボロボロだったが、葉っぱを生い茂らせている。

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この日はお祭りだったようだ(台風災害除けを願う祭日)。だから氏子さんがいたのね。

 

★★★★★

長野オリンピックスタジアムの横にあり、南長野運動公園氏神様であるそうだ

 

 

東福寺神社>

創建年 明治41(1908)年

御祭神 健御名方神金山彦神御雷神・猿田彦神

観龍寺

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↑こういうのを見に行った。

実は子供が発表してきた「楽しかった夏休みの思い出」が「家でテレビを見たこと(特に金ローでやってたトトロ)」だったらしいので、自分の中でモヤってしまい、とにかくどこか連れて行かなきゃという気分になった。ご時世的に「家で過ごした」は大正解なんだろうけど。

そして何故か、酒の企画展に行くことにした。この施設には去年秋の国宝土偶展見てきた以来。あら私何気に通ってるわね。

常設展示も見てきた。子供は屋内展示初めてかも。室内は暗く、古代・中世・近世とそれぞれの住居を再現している。季節柄か、子供はお化け屋敷と勘違いしたらしい。最後までビクビクしていた。何も出てこないから。

 

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前々から気になっていた、某UMAの名前の店で優雅なランチタイムですよ。某UMAは日本酒が好きで、2メートルもの高さを飛び、降りは(高いところより転がってくるから)早いが登りは苦手。なにそれ怖い。長野県内から出土した縄文土器茅野市の尖石考古館にある土器のようだ)にもそれらしき生き物が描かれているそうな。じゃあ長野県内にも住んでいるのかー。食事は美味しかった。あんまりお腹空いていなかったにも関わらず、あっさり完食。

 

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お店の近くには古いお寺があるそうで。

 

長野県宝並びに市指定文化財 仏像2体を探しています 

「あんずの花」で知られる千曲市森地区の「観龍寺」に安置されていた長野県宝「木造聖観音菩薩立像」と千曲市指定文化財「木造不動明王立像」の2点が、平成12年9月に盗まれてしまいました。

千曲市教育委員会・観龍寺では、この2体の仏像を探しています。

 

こちらは無人のお寺さんだそう。残念だけど、仏像は日本から持ち出されていそうだなー。

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創建は坂上田村麻呂が東征の折り(約1380年前)という伝承が残っており、御本尊も古そうな感じよ。戦勝祈願で奥さん(高子さん)が寄進したとも。

坂上田村麻呂蝦夷討伐に出かけた初出は延暦10(791)年、延暦13(794)年には副将軍、延暦20(801)年には征夷大将軍として遠征している。延暦23(804)年にも征夷大将軍に任官されているが、それ以降は東北へ行っていないようだ。伝承通りなら791年~804年の間に創建されているのかなー?

ちなみに、現地の看板には大同年間(806~809)創建、と書かれていた。

 

坂上田村麻呂十一面千手観音を信仰していたと言われている。

上記の「盗まれています」のお知らせには聖観音と書いてあるけど、市の他のホームページの記事には「盗まれた木造千手観音像」とあったりする。別の記事には「御本尊が盗まれている」ともあり、話がぐちゃぐちゃだよ。

 

現地の案内板には

があるそうだ。

開基の坂上田村麻呂が信仰していた千手観音が御本尊で、盗まれたものが聖観音像と不動明王像だと書いてあった。

 

盗まれた聖観音平安時代の一般的な作風とは特徴がかなり違っているそうで、「地方造像の典型~」とあった。少し意味が分からなかったが、どうやら地方の仏師の手による「素朴で親しみやすい仏像 」ということのようだ。中央で活躍する有名仏師は自前の工房を持って宗派・寺派も越えて天皇家や貴族などお金持ちからの発注を受けていたらしい。地方の仏師は(きっとお金持ち以外からの注文も受けるだろうし、金銀財宝散りばめるゴージャスな仏像を造る機会もなさそうだし)都会の流行りや縛りに影響されない自由な仏様を造っていたということらしい。

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無人のお寺だけあって、荒れている。茅葺き屋根がボロボロだ。地元の人が管理しているとは言え、直す余裕ないのかも。
 

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こういう屋根って何年毎に葺き替えているんだろう? 調べると15~20年のサイクルで葺き替えが必要だそうで。古民家だと屋根全体の葺き替え費用は大体2000万程度で、このお堂の大きさなら1000万くらいでなんとかなる? クラウドファンディングで募れば意外と達成できる気もするけど、地域住民の集金だけなら厳しいのかもな。

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本堂改造記念の短歌会の額もあり、日付は平成元年8月になっていた。お堂に掲げられた額は他にもたくさんある。

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お面のついた額は文化5(1808)年と書いてあった。

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細長い額も平成元年の短歌会のものっぽい。

お堂は江戸時代に再建されているそうだ。

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近くにも、観龍寺の他に「坂上田村麻呂創建」と伝わる妙音寺というお寺さんがある。そちらの由緒は「京都の若い仏師が故郷・倉科の美しい恋人が忘れられず、思いを込めて娘の面影を宿した十一面観音像を彫り、蝦夷討伐に向かう坂上田村麻呂に託して故郷の地に安置してもらった」という内容。素敵な話ね(そんなに綺麗ならもう男いるに決まってるでしょ、娘もさぞかし迷惑だったろうな、と思うわ)。

 

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古い石仏も。

 

帰り、山門を出た先で湧き水?を見つけた。

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現地の案内板には「延命水といい、この水で身を清めると心にゆとりが生まれ晩年家庭に恵まれると言われている」とあった。枯れている。残念、四六時中イライラして家族にも見放されそうだわ。

お水が枯れた時期は分からないが、案内板の内容から察すると昭和62(1987)年はちゃんとお水が流れていたようだ。平成22(2010)年晩秋頃ココを訪れた人のレポートを見つけ、そこには「申し訳程度に流れていた」とあった。その後10年で完全に止まっちゃったのか。

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古墳があるような地形に見えたが違うようだ。
 

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参道の脇にも石仏がたくさん。
大きなお地蔵さんの横の石碑は天明元(1781)年と彫ってあるように見えた。
馬頭観音のひとつには安政3(1856)年とあった。江戸時代の観龍寺の栄華を感じたよ。
 
 
★★★★☆
桜で有名なお寺らしいです
 
<観龍寺>
創建年 不明
開基 坂上田村麻呂

坂木陣屋

お盆期間に入った途端、くしゃみと鼻水が止まらなくなり。なんのアレルギーだよ、最近新しくなったエアコンのせいじゃないか? などとイライラしていたが、同じ時期から同じ症状が出た人もいて…何のことはない、秋の花粉シーズンが始まったのだ。梅雨明けてから半月くらいじゃないの、油断した。1週間粘ったがどうしようもないので薬飲んだよ。症状も収まった。鼻水詰まる・口呼吸・鼻水をすする→喉が荒れる→喉痛い・咳をする→「コロナ!?」と言われて苛つくといった嫌な思いすることがなくなりそうよ。

 

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現在の坂城駅前に「坂木陣屋」というささやかなお城があったそうだ。

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駅前の説明板には、

  • 元和4(1618)年、金井村(坂城町金井)から杭瀬下村(千曲市杭瀬下)まで(上徳間村、千本柳村、内川村を除く=この3ヶ村は松代藩領)の14ヶ村が幕府直轄領となり、坂木5000石と称される。坂木村に陣屋が置かれ、代官による政治が当地で行われた
  • 寛永元(1624)年から越後松平領
  • 天和元(1681)年、坂木陣屋が建てられる(これ以前は民家を借用)
  • 天和2(1682)年から坂木藩(板倉家)5万石、坂木陣屋が藩庁となる
  • 元禄16(1703)年、板倉家移封、坂木藩領は幕府領となる
  • 宝暦4(1754)年、陣屋機能が中野陣屋(中野市中央)へ移される(坂木陣屋は出張陣屋として存続)
  • 宝暦9(1759)年、陣屋機能廃止
  • 明和4(1767)年、旧坂木陣屋火災で焼失

とあった。

 

坂木陣屋が置かれる以前は広大な川中島四郡(高井郡・水内郡・埴科郡・更級郡=現在の北信地方全域)を支配した川中島藩の一部であったらしい。川中島藩主だった松平忠輝という人がやらかし続けて、元和4(1618)年3月に正式に蟄居を命じられた翌月に天領となったようだ。松平忠輝さんは没後300年の昭和59(1984)年、徳川宗家から赦免されたってさ。何をやらかしたらそんなに怒られるのだろうか。

 

寛永元(1624)年、越後高田藩の藩主に松平光長という人が就任すると、高田藩の飛び地となる。越後松平家は家格が高く、御三家に次ぐ家柄だったようだ。延宝2(1674)年、松平光長の唯一の男子後継者が急死し孫もいなかったのでお家騒動となる。幕府が再審したりで裁判が長期化してしまい、飛び地の坂木は松代藩が管理していた。延宝9(1681)年ようやく越後松平家の処罰が決定する。高田藩領はすべて天領になり、これ以後は旧高田藩領=懲罰人事・左遷先となる。天和元(1681)年には当時旧高田藩領を管理していた松代藩が新築で陣屋を建てている。

 

翌年の天和2(1682)年、元老中の板倉重種の左遷先を作るために、坂木藩(5万石)が成立した。元和4年の天領時代は坂木5000石だったのに…急に10倍になった理由が謎で4.5万石分の領地は? と思って探してみた。坂木藩領の飛び地がいくらかあったらしい(軽井沢とか中野とか)。元は幕府領だったものばかりで、とにかく5万石になるようあちこちからかき集めてきたようだ。元禄16(1703)年に坂木藩消滅。再び天領となる。

 

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道路から少し高くなっている部分が坂木陣屋跡?と思われる。

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石垣が名残だというが…コレ↑のことかね? そんなに古そうには見えないんだけど?

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何か水路もあるらしいが、これは堀跡かねー? 用水路はちょうど石垣の前を通っているし。

というか、坂城駅前の道路が堀跡なのかな?

 

石垣もごく僅かしか残っていないようで。

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その石垣も地面に吸い込まれていくように、どんどん消えていった。

 

陣屋跡に建つ住宅地と堀跡?のような低地の境に、古そうな石垣が僅かに残っていた。

 

ストビューで周りを見れば、なんかそれっぽい石垣はいくつかあるねー?

 

享保9(1724)年、北信濃天領を統括する代官所の一元化が始まる。以前から天領を管理する代官の不正などが問題化し(水戸黄門に出てくる「御代官様」みたいな奴が現れるようになる)、少しでも評判の悪い代官はすぐクビになったそうだ。貞享4(1687)年には大規模な人事異動があり、悪代官の多くが粛清された。以後代官は治めている領地民の評判を気にして、無茶なことする人がほぼいなかったらしい(享保の改革で農民の税が増えたが、将軍が暴れん坊の次の人に代わった頃には現場の判断で代官が勝手に減税したりして領民を助けていたらしい)。

宝暦9(1759)年、北信濃天領は中野陣屋に一元管理されることとなる。幕府は統廃合で人件費削減しようとしたらしい。

明和4(1767)年旧坂木陣屋が焼失。「横町の大火」という名前の火災で、陣屋の南西側の横町という横に広がる地区が燃えちゃったらしい。ちなみに陣屋の北東側は立町(たてまち)で、こちらは縦に延びた地区だった。

焼失を免れたらしき坂木陣屋の門がこれ↑らしい。移築されたとか。見た感じからも難燃性っぽいね。

 

 

安永7(1778)年、中之条(坂城町中之条)に陣屋が置かれる。場所はこの道の先で、現在は住宅地となっており面影はないそうだ。

坂城町に陣屋が再設置された経緯は詳しく分からないが、坂城町内の「坂木」と「中之条」で陣屋誘致合戦が行われたらしい。代官は領民からの評判が悪くなると罷免になるシステムだそうで、逆に言うと領民に優しくして支持を得れば偉い人からの評価も高くなる。領民的には代官が近くにいた方が暮らし向きが良くなるという、水戸黄門に慣れ親しんだ我々には不可思議な理由で、「陣屋を建てて欲しい・再建してほしい」という要望が後を絶たなかったようなのだ。

誘致や再建の嘆願は幕府がやりたい代官所や役人数の削減とは真逆なので、佐久の御影陣屋が出張陣屋として中之条陣屋の管理下に置かれたり、人員を極端に減らしたりしてやりくりしていたようだ。そのため代官は激務だったらしい。旗本としては最下級の人が就く仕事だったので、給与も仕事量に見合わない様子。

中之条陣屋の管轄は坂木5千石に加えて佐久・小県辺りに点在する幕府領まで含まれるようだ。広い。

 

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坂城駅は貨物列車の基地にもなっており、運ばれた石油をタンクに移す作業?(タンク車の下腹に管だかを接続させて移していたような気がする)とかやってた。 

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あの奥のオレンジ・緑の電車も有名な奴。現役の時に乗ったことがあるけど床がベコベコしていて抜けそうだった怖い電車。あいつは私より一回りも年上だったようだ。もう動かない。だいたい今この路線走っている主力の電車達も年増の私より年上だそうだ。そりゃ新車万歳って感じになるわ。

 

★★☆☆☆

説明板付近より少し離れた住宅地を見て回った方が分かりやすい?

 

 

<坂木陣屋>

築城年 天和元(1681)年*1

築城主 真田幸道*2

*1:元和4(1618)年~天和元(1681)年までは民家を借用

*2:陣屋を新築した時の松代藩

染屋城

染屋城は初代信濃国府(推定地)のすぐ近く、染屋台地の端っこにあった。

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何気に立派な看板があった。観光客がふらっと来て見つかるような場所じゃない。マニアが地図を確認してやってくるような、住宅地の奥の奥にあったよ。

 

  • 染屋城は「大熊屋敷」とも呼ばれ、真田昌幸重臣「大熊氏」が上田城の東の守りを固めるために配置した城館、と考えられる
  • 豊染英神社が祀られる主郭には土塁が残る
  • 東側は空堀がある
  • 2の郭には帯郭を設けている
  • 帯郭の先には急な崖があり、要害となっている
  • 第2次上田合戦(関ヶ原の戦い)の際には、徳川秀忠が染屋台に陣を置いた
  • 眼下に上田城が見える、この染屋城が着陣の地と推定される

 

真田昌幸重臣の大熊氏というのは、大熊常光という人物のことらしい。大熊氏は元々信濃国高井郡大熊郷の領主だったが、戦争で国を追われた一族だった。常光の祖父に当たる人物が越後守護の上杉家に仕え、父の代には越後上杉氏→守護代長尾氏(→上杉謙信)→甲斐武田氏という感じで仕官先を替えていった。子の常光は同じ武田氏の家来だった真田氏の家臣となっており、武田滅亡後も真田氏に従ったようだ。常光は真田信之の家老だったみたいで、第二次上田合戦には真田信之配下(東軍)となっている。なので、染屋城には東軍の陣が置かれたということらしい。

「大熊屋敷」と呼ばれているそうだが、こんな立地条件(初代信濃国府があったような大きな街の近く・高台にあり眼下の街道や敵の動向など見渡せる・広い平場が確保できる)なので、大熊さんの屋敷以前から何かあったんじゃないの? と思っちゃう。 

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本郭にあるという神社は「豊染英神社」といい、染屋台の「染」と住所の小字の「英」、おめでたい漢字の「豊」を組み合わせた社号なのかな? 明治2年に改称しているらしい。その前は諏訪社と呼ばれていたようで、御祭神は建御名方命。明治6年村社に昇格。

創建年は不明だけど1600年には神社がなかった(はず)であること、1795年に再建された記録があることから、江戸時代初め~中頃には存在していたらしい。また、寛文5(1655)年に江戸幕府が全国の神社に出した通達の写しが神社に残っているそう。

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本郭↑ 周りより高い。

 

周囲の様子↓

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3の郭方面。中央辺り、カーポート(左側)と家(右側)辺りから3の郭になり、その手前には空堀があったみたいだ(現在は埋められているみたい)。

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2の郭。

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左・本郭、右・2の郭。

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航空写真↓と比較すると

木が多い茂っている部分は崖になっているらしい。見た目なんかかっこいい。

 

上田城を見下ろす2の郭の下は、↑こんな状態。細い道が通っている。強引に車道にしました的な。染屋台地から崖下の平地へ降りるための、古い時代から存在していた道のような雰囲気よ。

 

 

細い道から2の郭を見上げると、段みたいなのあった。説明板にあった「2の郭に設けた帯郭」というのはこれかな? 崖下へ続く細い道も段郭を改造したものなのだろうか。

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本郭を取り囲む空堀跡と言われている遊歩道↑

 

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豊染英神社の社殿。

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本郭内、社殿の左側は盛り土だった。ここは櫓台跡らしい。今は祠がある。

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境内社は、阿夫利社・金比羅社・皇大神社・天満社・豊岩窓神社(別の場所から移転)がある。どれがどれかは分からない。

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櫓台の向こうは森のような場所で、樹齢300年余りの欅があるとか…。江戸時代半ばの1700年頃に生まれた欅だ。

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↑本郭より上田城方面。木が邪魔で何も見えない。

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境内は緑が多く、蚊も多かった…。暑い。
 

 

★★★☆☆

銀杏の種の部分が大量に落ちていた。夏は薮蚊で大変だが、秋も秋で臭そう。

 

 

<染屋城>

築城年 不明

築城主 不明